No.9 = ryan×まりねこ


ryan;
まずは自己紹介から。
僕は現在、大学生やってます。専門が日本文学だということもあって、
この対談に興味を持ちました。
創作は……ボチボチやってます。しかし、なかなか進まない(苦笑)
自分のホームページは残念ながら持ってません。


まりねこ;
そうですか。
日本文学専攻って面白いですね。
私は子供の頃から本を読むのが好きで、国語の勉強も好きでしたが、
いざ進学となると、そっちに進もうと思ったことはなかったんですね。
まぁ、はっきりいって、大学で勉強しようなんて、そもそもそういう発想自体がなかった(~_~;)
就職は嫌だから、四年間ぶらぶら遊びたいっていう、いい加減な学生でした。
でも、今振り返ると、好きなことなら案外、一生懸命やれたかもしれない。
文学部って、一体何をどんなふうに勉強するのかな?
どういう感じで授業があるの?ちょっと教えてもらえませんか。


うーん、講義について書くのは難しいですね。やっぱり。
先生によってまったく違ってきますから。
んじゃ、研究方法について書きますね。
ただ、近現代文学以外の研究はあまりわからないので、
近現代の領域について。
まずはテーマを大まかに決め、資料をかき集めます。
資料っていうのは研究対象となる作家の著作すべて、
あとその作家について書かれた論文、その他です。
あとはそのすべてに目を通して、自分なりの視点を確保し、書く。
と、こうなります。かなり大まかに書いてますんで、そこはご容赦ください。


なるほど、だいたいの感じはわかりました。
で、ちょっと対談のテーマとはあまり関係ないことを訊きたいんですけど、いい?
そういう研究って、たぶんやってるほうは楽しいと思うのね、でも、
自分以外の他者や社会に対して、どういう意義とか価値があると思いますか?
いや、たとえば科学や技術、医療などに関する研究ならば、
「生活がもっと便利になる」「病気の苦しみを軽減させる」とかの大義名分があって
一般にわかりやすいと思うんですよ。
でも、文学の研究は、人や社会に対してどんな貢献ができると思いますか?
言いかえれば、文学研究者にはどのような存在意義があると思いますか?


文学研究することの直接的な意義など、まったくありません(爆)
いや、正直な話。よく理系の人などはこういう疑問を抱くようですが
(聞かれたこと経験あり)、意義など感じたことはありませんし、
社会的貢献など皆無でしょう。(好きならやりがいはあります)
ネット上をうろついていると、時々無理やりに
「文学研究にはこんな意義があるんだ」などと声高に叫んでいる人を
見かけますが、あれはおためごかしでしょう。大体こじつけです。


ははは(^o^)
正直なんですね!!
いや〜、いいですねぇ、その素直さ。
私も、まったくその通りかなと思います。


あえていうなら、こういった無駄がまかり通るというのは、その社会の
成熟度(一般的に言われる意味での)を計るバロメータかもしれません。
例えばその社会全体が生きるに必死、なんて状態だったら、
こんな文学の研究などという余分は一番に切り捨てられるわけです。
あくまで社会に余裕があるから出来ることですね。
しかし、そういった無駄を許容できない社会には僕は住みたくありません。
日本がそんな状況になったら、間違いなく出国するでしょう。
そんな国にいてもつまらないだろうし、そういった利益追求型の社会は
遠からず破綻をきたします。これは断言できる。
まあ結論は、無駄で何が悪いの?ってことです。
もともと我々の社会なんて、生活に汲々としている発展途上国の人からみれば
無駄だらけでしょう。
それだったら文学研究くらいやらせてくれたっていいじゃない、って感じ。


そうね・・・けっきょくは人間って、そんなに合理的に生きられるようには
できてないんじゃないかと思いますね。
どこか合理性からはみだしてしまう性質が多々あって、だからこそ
その部分をすくいとる、救済するのが、芸術とか宗教なのかもしれない。
たとえばね、肉体的には何ひとつ危機的状況になくても、精神的な問題だけで
肉体的生存まで脅かされる場合もあるでしょ、そういうとき、
一冊の本、一枚の絵、ひとつのメロディが、個や社会の生存にとって
救いになることもあるのね。ここにおいて、芸術には存在意義があると言える。
芸術に意義があるなら、それを研究することも無駄ではないと言える。
もちろん、そんな「優雅な危機」に陥っていられるのは、
実質的には豊かであることが前提。
途上国に生まれ、今にも飢えて死んでいこうとする子供たちには、
そんな優雅な危機に陥る贅沢など望むべくもないものね。
そういう場所では芸術など本当に無力です。
まぁ、芸術以前の素人文章を書き散らして、紙やインクや電力を
無駄に消費している私なんかには、それこそ「ゴメンナサイ」としか言えませんね(~_~;)


さて、それじゃ、まりねこさんの「聞いて!(41)」を読んでからの、
自分なりの考えをまとめたいと思います。
まずは言葉の定義から。
「純文学とエンターテイメント(大衆文学と置き換えも出来ますね)」
というこの両者は、現在ではかなり曖昧な分類となっています。
厳密な定義付けは、おそらく誰にも不可能でしょう。
というのは、「純文学」という言葉の意味自体が、かなりの
変遷をたどって来ているということに依っています。
もともと、「純文学と大衆文学」という分類の元となったのは、
芥川龍之介と谷崎潤一郎の文学論争だと思います。
しかし大正から昭和初期での「純文学」とは、良くも悪くも日本文学の
中に大きな位置を占めた「私小説」のことを指していました。
決して今のような意味では使われてはいなかったのです。
それが時間の流れとともに、序々に本来の意味と離れていったわけですが、
僕が思う「純文学」とは、
「芸術性、前衛性(あるいはそのどちらか)を備えた文学」のことを指すものです。


はあ、なるほど。そういう歴史的変遷があったわけね。
知らなかった(^^)
どうも教えてくれてありがとう。


で、「聞いて!」に話を戻しますと、僕が首を傾げたのは
「純文学が高尚だ」ということになぜそこまで拒否感を抱くのか、
ということでした。僕自身は文学は突き詰めていけば芸術となりうる
代物だと思ってますし、実際、芸術だといいきれる作品をいくつも知っています。
「読む人のことはわりと二の次」というのも正直疑問です。
小説などというものは、読み手がいなければ成立しないものですから、
その小説の書き手である以上、どんな文豪であっても読み手のことは
常に頭の中に置かれていたと思うのです。
できるならば、まりねこさんが拒否感を抱いている「純文学」の書名、
作者名を具体的に挙げてはいただけないでしょうか。
恐らくまりねこさんは、文学自体に拒否感を抱いておられるのではなく、
その一部、あるいはいくつかの論調に対してそう思っていらっしゃる
のだと感じるからです。お互いその方が、対象が明らかになって
話しやすいと思うのですが……。


そうですね、私が漠然と拒否感を抱いてるのは、純文学に属しているとされる
特定の本、
特定の作者に対してじゃないですね。
そうじゃなくて、純文学をやっている人、あるいは団体に
ありがちな
自己肥大妄想っていうのか、「芸術してます、高尚なことしてます」っていう
ヘンな
プライドの高さね、それがどうもハナについて嫌、というだけのことなんだと思います。

音楽でも絵画でも、何でもそうなんだろうけど、「芸術=高尚」っていうことに
こだわり始めると、端から見ててちょっとおかしな方向にいくことが多いと思うのね、
作品でも、それを創造する人間でも。


ああ、僕が「純文学が高尚だ」ということになぜそこまで拒否感を抱くのか、
なんて言っちゃったから良くなかったんですね。すいません。
文学(『純文学』はつかわないことにします)のすべてが高尚だ、とは僕も思いません。
というよりも、僕は文学に対して芸術性は感じても
高尚さをあまり感じたことが無いのです。
(その前に「文学=芸術」も成り立ちませんよね。現在、「純文学」とカテゴライズ
されているもので愚にもつかない駄作はいくらでもありますから)
そもそも、「芸術=高尚」などという感覚はいったいいつ出来あがったものなんでしょう。
これって文化といわれるものに距離を置いてしまう日本人の姿勢に
少し似てはいませんか?
例えば歌舞伎とか狂言とか、そういったものが「難しい、高尚だ」と誤解している人、
結構いると思います。
それぞれの歴史を見てみれば一目瞭然、ただこの両者は成立が古いだけで、
もともと庶民のものだったんですけどね。


まぁ、それがもともと貴族のものだったような芸術(和歌とかね)でも、
それは同じでしょう?

「芸術性は感じても高尚さをあまり感じたことが無い」という感覚はすごく素直というか、
私は、まっとうな感覚だと思います。
日本人だけじゃないと思いますよ、そういう、いわば
「難しい=高尚(有難い)」という姿勢はね。

欧米人でも、禅とか道教とかに凝ってるインテリいますよ(^^)
なんか、わかんないものを有難がる屈折思考っていうのは、
どこにでもあるんじゃないでしょうか。



僕が文学に対して高尚さを感じないというのは、それぞれの作品を創り上げるときの
作家の苦悩やら煩悶やらを、多少なりとも調べて知っているからかも知れません。
僕は日本の作家の中では、芥川龍之介が三本の指に入るほど好きなのですが、
この人の創作への姿勢たるや、凄まじいものがあります。
例えば彼の初期の歴史小説を見ると、その舞台装置の正確さに驚かされます。
つまり当時の風俗、その他大道具小道具の配置に対して
細心の注意を払っているのです。
さらに芥川という作家は安易さをひどく嫌っていたようで、作品のスタイルも
物語体、小説体、写生文体など20種類近いスタイルを使いこなしています。
さらに文体も、現代古語、漢文直訳、候(そうろう)文、敬語文、キリシタン文と
作品によって多種多彩に使い分けていました。
芥川が自身の停滞期の頃を指して、「恐るべきは停滞だ。いや芸術の境に
停滞ということはない。進歩しなければかならず退歩だ」と言っていますが、
このことからもそのストイックさが分かると思います。
ここまで苦しんで苦しんで、作り上げてきた作品を読むと、どことなく人間臭さを
感じる時があるんです。
まあそういう意味で「高尚さ」は感じないかなあ、と。
(でも芸術だ、とは思うんですよね。なんか矛盾しているような……)


いや、矛盾してないと思いますよ。
創造されたものが芸術と呼ぶに値するものであっても、創造したのは人間ですから、
創造者が透けて見えてしまうとそれを高尚だと言うのは、なんか面映いような、
しっくりこない気がするんですよね。
私は、作品や思想に高尚という言葉を当てはめるのは自由だけれど、
それは人間に向けて使うべき言葉ではないような気がするんですよ。
(芥川の名前が出てきたので、久し振りに読み返してみましたが、
「地獄変」という作品では、非常に明確にそのへんのことが描かれていますね)
絵でも音楽でもなんでもね、創作したことがない、何もクリエイトしたことがない人は、
作品=作者だと混同しやすいと思うんです。
でも、造る側はそれが違うということを知ってますよね。
たとえ自分の生き様を赤裸々に書いた私小説などでも、それが作品として
成り立つためには、書く側に客観的な視点・計算が絶対に必要なんですよ。
演技に熱が入って思わず涙をこぼす女優の中にも、どこかに
「泣いている自分をチェックしている自分」が絶対にいるんですよ。
そういう舞台裏を知っていたら、たとえ素晴らしい芸術作品を見せられて、
ああ、なんと芸術的な作品か、確かにこの人は天才だ、と思うことはあっても、
この人はなんて高尚な人なのだろう、とは・・・正直感じにくいですね(~_~;)
作者=作品ではないと知る過程、作者について多くを知る過程で、
かえって作品の神秘性とかが失われていくんですよ。
だから、私は好きな作品の著者の顔写真を見るのも嫌です(~_~;)
村上春樹のご尊顔を拝見したときには、・・・という感じでしたからねぇ。


僕は誰かが文学を読んで、「この作品は芸術だ、高尚だ」というのは
一切構わないと思います。どこまでいってもそれは主観的な話になるのですし、
他人が否定する理由もありませんし。
問題なのはその主観を「純文学」という大枠すべてに当てはめてしまうことでしょうね。
ついでにいうなら、芥川は自分の創作活動を芸術を追求するためのものと
思っていたでしょう。
しかしそれは自己にもっとも厳格な目を向け、その末に生み出した作品に対する
自負があったからこその話で、誰しもが言って良い言葉じゃあないですね。
何より彼の場合、言が実を伴ってましたから。
むしろ、そう思っていたからこそ、これほど自分に対して
厳格な視点を持ち得たのでしょう。


芸術に対する態度ですが、芸術性あふれる高尚な作品を作ろう、という志
それ自体は
素晴らしいことなんです。
でも、高尚な志を持つ自分が、高尚なことをしている人間だ、
あるいは高尚な人間である、
と思ってしまったら、
それは勘違いしてるとしか私には見えない。
そういう安っぽいプライドに
よりかかっていると、かえって妙な、
宙に浮き上がったような作品、己の安っぽいプライドを
満足させるだけの作品しか
できないと思うんだけど、ということです。

言いかえれば、ものを書くとき「読者を置き去りにしてしまう」失敗をするなら、
このへんに
原因があるんではないかと。
少なくとも、エンターテイメントであれば、そんな態度をとらないし、
とっていたら話にならない。こういう不遜な勘違いをするのは、
やっぱり誤った芸術信仰の
持ち主なんじゃないかなって。


この勘違いしてるって言うのは、誰のことでしょうか(笑)
もしかしたら、まりねこさんが通ってらっしゃる文章の学校に、
こういう方がいらっしゃるんでしょうか?
だとしたら……不幸ですね。


っていうか、こんな人、どこにでもくさるほどいるでしょ?
芸事の世界の大半は、この手の人々の勘違いで成り立っている、
といっても過言ではないくらい。
で、何が芸術かということになるともうそれは人それぞれだから、そこを整理して
芸術とは「こういうものだ」と一般に広く認識させようとすると、ある種の権威が
必要になってくるのね。これは芸術であり、あれは芸術ではない、と判断してくれる
権威の存在が必要になってくるんです。
一面ではそれは必要なことだけれども、権威は驕り易く、腐敗しやすいということには
注意すべきなんですね。
私はね、芸術とは人類の知的遺産、美意識の集大成である、ということは
真実としても、
だからこそ、そこにかかわるには謙虚さが大切だと思います。
基本的に、生きるためには芸術なんかいらない。
生き物として生存の極限状態にあれば、
他人の作った芸術なんて
ほんとうに無価値なものなんです。
芸術というのはこの社会の
いちばん上澄みの美しい部分で
生かされているものにすぎないんだって。

そのことを踏まえたうえで、芸術だとかなんとか言ったらどう?という感じです。


ちょっと話を戻しますが、まりねこさんが、
純文学は「文学的だとか芸術だとか認められれば、なんでもあり」
エンターテイメントが「面白ければ、なんでもあり」だと書いてらっしゃいますが、
これも少し違うかな、と。
本質的に文学は、新しい領域に達することを常に求められています。
それが僕の言った「前衛性」ですが、本当に「何でもあり」なのは本来文学のことです。
いや、というよりも、前人未到の境地に読者を引っ張り込む作品であれば、
それは何であろうと「文学」と呼ばれ得るものです。
(前人未到すぎて理解に苦しむ作品も多々ありますが(苦笑) 「ユリシーズ」とか)


「なんでもあり」なのは文学でも音楽でも、芸事のすべてにわたって言えることです。
ただ、純文学は、それが「その道の権威から芸術性がある」と認められることが
必要であり、対してエンターテイメントは、
「大衆から面白いと支持される」ことが必要である、というのが
私の言いたかったことなんです。


この「その道の権威」という言葉の対象が不明瞭です。
具体的な例を挙げていただけますか?


そうですね、とりあえず、その人なりその集団が認めれば、
「この作品はただの自己満足の産物ではなく純文学である」ということになる、
そんなものですね。
たとえば芥川賞選考に関わる人たち、名のある批評家たち、
中央の文壇と呼ばれるものに所属するエライさんたち、
そういうところを指してますけど。
んー、これは私のよく知らないことでね、だから半ば受け売りなんだけれども、
うちの学校の純文ティーチャーが、そういう「権威の存在」についてしばしば語るわけね。
なんていうか、いろんな話を聞いていると、確かに文学に関わる世界の不思議さとか
独特さっていうのはあって、私からすれば「権威」っていうのも、
UFOを目撃すると、つきまとってくると言われる「メン・イン・ブラック」みたいに
得体の知れないものだけど、文学世界のヒエラルキーというか、
正確に言えば、文学に関わる人間社会のヒエラルキーですね、
そういうものがあるんだな、いうことはなんとなく感じられるようになりました。
その頂点付近にいらっしゃるのが「権威」らしいです。


正直僕は現在の文壇については知識がまったくありません。
実際にその中にいるわけじゃありませんしね。
だから今から書くことは、外部から見た人間の考えだと思ってください。
「権威」と呼ばれる存在についてですが、芥川賞の選考委員のお歴々には
たしかにそういった一面があるかもしれません。
ついでにいうならそれが現在の日本文学の低迷を招いている遠因とも考えられるかも。
しかし僕は、むしろ現代でいう「権威」とはマーケティングの方面で
跳梁しているようにも思うのです。例えば本の帯。
「〜氏激賞!」などと書いておけば、それに引かれてみんな
買っちゃいますから。田口ランディの「コンセント」には村上龍が
ホメたなんてことが書いてありましたね。(買ってないけど)
彼(村上)などはそういった一般読者に対する「権威」になっちゃった
ような気がするんです。


村上龍はもう立派な権威に成り上がってるんじゃない?
新人賞とかの審査員もやってるしね。
ちなみに同じ村上でも春樹は「文壇のおつきあいが嫌」なんだそうで、
彼が何かの審査員やってるのを見たことがないです。


村上龍の「権威」が通用するのは、多分読者経験の浅い人に
限られるのではないかと思います。
彼の初期の作品群は十分読むに足るものでしたが、
今じゃ妙にメディアを意識したような行動が目立ちます。
なんとなく嫌いになっちゃいましたね。
それと龍は、新人賞ではなくて芥川賞の選考委員ですね。


以前はどっかの新人賞もやってたのを見たことがあるけど、
今、芥川賞選考委員ならもうやってないのかもね。


村上春樹は自身の創作活動ももちろんですが、翻訳でも
一定の実績を挙げている人だと思います。
んー、でもやっぱりあまり読んだことない。
ちなみに今本屋の販促文句で、一番効果があるのはなんだと思いますか? 
「これ、売れています」らしいですよ(笑)
村上龍がその本を誉めるのと同じです。その本が「売れている」という現象を、
そのままその本への、不特定多数の賞賛へと変換してしまっているわけです。
(読んで面白くないと思った人もいるかもしれないのに)
そしてそのおかげでまたその本は売れる。
いわば人々を付和雷同させてしまうわけですが、それに乗ってしまう
のは大概、日頃本を読んでいない人たちです。
素人考えかもしれませんが、この大衆の自己権威化は売れ行きを
一部の本に集中させてしまうため、結果として出版界全体の底下げを
招いているようにも思われます。


この例での「大衆の自己権威化」っていうのはわからないですね。
けっきょく「売れてますよ」と宣伝するのは当の大衆ではないから。
出版業界の口車に乗せられてるだけでしょう?
ほんとうの意味で「大衆の自己権威化」というと、それは口コミなんじゃないでしょうか。
口コミで売れて行くものってありますよね、洋服でも化粧品でも雑貨でも。
業界側が、「今年はこの色、このデザインで」とか、内輪でお約束をした結果、
発生した流行じゃなくて、女子高生とかOLとかがまず「可愛い!」って飛びつき、
あとからそれが話題になり、ますます広がっていく流行。
これだったら、「大衆の自己権威化」と言えるでしょう。
権威化するためには、そのものにある程度通じていることが必要ですね。
お洒落に敏感な若い女の子たちの間から、あるメイクなり服装なりが流行していくのは、
彼女たちがそれに通じていて、常にアンテナはってるから。


これはちょっと、こちらの考えている意味とずれがあるみたいです。
この場合「売れている」という一つの現実を生んでいるのは
他でもない、いわゆる「大衆」ですよね。そしてこの「売れている」という
情報は、いったいその本の何を指し示しているのでしょうか?
所詮は単純にその本が「売れている」という情報だけです。
この売り文句は他に何も示しません、その本のあらすじも、
それを書いた作家の作風も。
もともと本の好き嫌いなどというものは、誰であろうと主観に
基づかざるを得ません。古今の名作と呼ばれるものでも、人によっては
合わないものなどいくらでもある。
そういった誰でも知っている大原則(認識の軽重はあるだろうけど)を
無視して人の目をその本へと向けさせるのは、結局は「自分以外の
人間がその本を支持している」という思い込みに過ぎません。(なにせ
その時点で判断する材料などありませんから)
大体の人間は「多数派」に一種のブランド意識を持っています。
つまりこの「売れています」とはその多数派への権威付けを行い、
最小の(しかも何ら関連性のない)商業上の情報で、
呆れるほどの効果を現在あげ続けているのです。「〜氏激賞!」のほうがまだ良い。
そこには何らかの根拠が確実に提示されているでしょうから。
ところで「口コミ」は、必ずしも権威化とは言えないでしょう。
高校生の女の子でも、誰でもよいのですが、その人物が知り合いに
「あれ、可愛いよ」と伝えたとします。その場合その人物の主観による
特性を相手に伝えているのですから、「売れています」と同等におくのは
少しやりすぎかと。それに口頭伝達では、双方向のやり取りが
可能です。「可愛い」といわれた相手が、その商品に対してさらに
突っ込んだ質問をすることだってできるのです。
「売れています」のような販促文句は、その時点では一行で終了です。


私が思うに、本の場合は読書に通じている人がまず少ないでしょ。
現代人は、みんな忙しいので、じっくり本を読む時間も選ぶ時間もないんですね。
で、もちろん、いい本は、パッと見て「可愛い!」とかで決められない(~_~;)
(ちなみに「可愛い!」で決められるような軽いティーンズ文庫やマンガなどは
オビで箔などつけずとも、売れるものは売れています)
けっきょく、いつまでたっても選択眼が養われないので、「売れてます」という
「操作」にコロッとひっかかる・・・のだと思いますが。
けれども、さすがに大衆だって、それが面白くなかったら、次に同じ作家の本は
買わない。
出版業界のセンスと大衆のニーズがずれていれば、
一発屋で消えていく作家が増える。

ただでさえ儲けの薄い出版社としては、いい作家をじっくり育てていくというより、
一発屋でもいいから、とりあえず儲けたいという姿勢のほうが強い。
で、いい作家が育たない。

読書が趣味といえば、ちょっと高尚な感じがしていいな、とか思っていた大衆も、
しまいに、なぁんだ、文学ってたかがこんなもん、とナメてしまって見放す。
これだったら映画やゲームのほうがまだいいや、とかね(^^)
こういうプロセスで本が売れなくなるんじゃないかなぁと私は思います。


これはごもっとも。
まさに今の出版界とはこういったデフレに陥っているようですね。
ただし芥川賞が権威付けされているのは別に問題があるとは思いません。
芥川賞は新進気鋭の作家を世に送り出すためのものですから、
人の目を引くだけの権威性がなければ本末転倒です。
この作品は芥川賞を取ったんだ!といってある程度世の中に流通させなければ
賞の存在意義すら問われることになりかねない。
だからこそ芥川賞の受賞作品には一定以上のクオリティーが求められるのですし、
その選考には常に厳格さが要求されるのです。
平野啓一郎がこれほどまでにバッシングされるのは芥川賞を
取ってしまったからでしょうね。まだ力量が伴っていない段階で芥川賞の持つ権威を
背負ってしまったからこそ現在のような状況に陥いる羽目になったのでしょう。
最近ではちょっと同情しています。。。


今、平野氏がどうなっているのか知らないんですが、
そもそも彼自身より、彼を担ぎ出した人達に責任があるんですよ。
彼は、踊らされただけだと思いますね。


ところでまりねこさんの先生の言われる「権威」ですが、これは
別に、純文学とかエンターテイメントとかには関係ないと思いますよ。
多分こういったしがらみは、文芸にかぎらずあらゆる分野で存在する
ものと思われます。ただし、確かに純文学の方がその度合いは高いでしょうね。
(知らないから確かなことは一つも言えないんですけど)


そうですね、私のおぼろげな理解では、エンターテイメントは、結局、
いったん大衆に支持されれば、それでもう余計な権威とかいらないですから。
権威で売らなければいけないようになったら、それはもう大衆文学とは
言わないんじゃない、そもそも?
でも、大衆に支持されにくいものは、権威の目くらましが必要なんですね。
たとえばさきほども出た、平野氏の書いた「日蝕」。
「現役京大生」+「芥川賞」という箔をつけて大手から大々的に売り出した。
で、まぁ話題にはなって売れた。
けれど、大衆的には「買ってはみたけど
何じゃあれ?」みたいな反応も
多かったんですね。当然、二冊目は買わない。

思うに、大衆にある程度迎合していくエンターテイメントはともかく、
大衆の先端を行こうとする芸術というのは、大衆に理解されなくて当たり前なんですよ。
(平野氏の作品がそういう芸術であったかどうかという議論は、
ここでは置いておきますが)



む、読者がこう思うのはいいけど、作家にはイカンですね。
文学が知識層の特権の一つだった昔と違って、現代では読者は
どこまでいっても「大衆」ですから。


いや、どうかしら?
特権階級と大衆と、分化していくんじゃないかと思うんですが。
バブル崩壊後、徐々に、持てる者と持たざる者の差が際立ってきたように。
まあ、これは私の提言かもね。棲みわけたら?という。
値段とか装丁とかちょっと変えてね、本も高級品と廉価品とつくったらどうかな?と。


それは時代が逆行していくということでしょうか?
ほぼ100パーセントの識字率を誇る日本で、そんな状態になることは
まず無いと思いますが。
それに不況といっても本を買う余裕もない人というのも珍しいですし。
出版社としても利益をあげなければならないのですから、そこまであからさまな
読者のより分けはできないと思います。もちろん専門書というのはありますが、
研究書ならともかく小説をそこに持っていくというのは商業的に不可能でしょう。
ちなみに平野さんの「日蝕」は、芸術というより漢字辞典でした。
最初読んだときは大変感心したもんです。
だっていませんよ、漢字辞典を個人で編纂して何十万部も売った人なんて。
まさしく未曾有の漢字辞典でした。
平野さんはすごい! 金田一春彦も真っ青。


たしかにアイディアは斬新で面白かったんでしょうね。
でも、私はちょっとページをめくってみてやめてしまった・・・(~_~;)
大衆にとっても、あの作品はなかなか理解できないところがあったんでしょう。
出版サイドにも、それがわかっていたから、その「理解を超えたもの」に対する
価値を認めさせるために「権威」というものが必要だったんですね。
結局、「日蝕」は業界の戦略勝ちじゃない? 「芥川賞」という権威をもってきて、
珍しいものを高く売りつけ、うまく売り逃げた、という感じですね。
もう権威というものが、そういう姑息な「商売」に利用されるところにまで堕ちている(~_~;)
ならば、エンターテイメントのほうが、ある意味、健全かもなぁって。


ちなみに福田和也は、「エンターテイメントにおいて、
作家は読者がすでに抱いている既存の観念の枠内で思考し、作品は書かれる。
その枠内において、人間性なり恋愛観といったものは、いかに見事に、
あるいはスリリングに書かれていても、読者の了解をはみだし、揺るがすことがない。
純文学の作家は、読者の通念に切りこみ、それを揺るがせ、不安や危機感を
うえ付けようと試みる」
と述べていますが、まあ彼の言うことはほっときましょう。
あんまり好きな批評家でもないので。


うーん、けど表層的には、だいたいの人が福田氏のように
捉えているんじゃないでしょうか。

なんか、少なくとも、私の周りにいる人たちはそんな感じです。
私としては「エンターテイメントはいかに見事に、あるいはスリリングに書かれていても、
読者の了解をはみだし、揺るがすことがない」という部分には???ですが。
だって、ほんとにいいエンターテイメント作品には、それまでの通念を
ひっくり返してしまうようなインパクトのあるものもたくさんありますからね。


作品と作者名を挙げていただけません? 良い作品は読んでみたくなりますので。
もしかしてウンベルト・エーコとかかな?


エーコは「薔薇の名前」しか知りませんが面白かったですね。
でも、キリスト教世界に馴染みのない日本人にはちょっとつらいものがあるかも。
薔薇といえばルイス・ガネットの「七百年の薔薇」もヘンテコで面白い。
心に染みる、というものでは全然ないけれど、なんか独特の世界が斬新。
ジョナサン・キャロルなんかの作品もそうですね。しんみり感動っていうより、
夢幻の世界に引き込まれる、という感じ。まず「死者の書」をどうぞ。
夢幻といえばマーヴィン・ピークの「ゴーメンガースト三部作」もお勧めです。
「タイタス・グローン」「ゴーメンガースト」「タイタス・アローン」と分かれている
長い長い
本格ファンタジー作品で、読み応えはずっしり。
あと、本じゃなくて映画ですが、「ブレードランナー」。これはフィリップ・K・ディックの
「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」が原作になってます。有名どころなので
きっともうご存知でしょうね。
私は原作は読んだ事がないけれども、映画だけで素晴らしいと思います。
それまでの近未来イメージを塗り替えてしまった作品。
同じく映画で、どうしても紹介したいのが「サンタ・サングレ〜聖なる血」。
ホドロフスキー監督のホラーで、まぁ、筋は「サイコ」の焼きなおしなんですが、
決して二番煎じと言わせぬクォリティの高さがあります。
プロットも映像も凝りに凝ってます。

ホラー見て泣くなんて想像できます?
でも、この作品のラストでは泣けてしまうんですよね。

さて、文学に戻って最後に日本の作家をひとりあげると、江戸川乱歩。
斬新な発想、豊かなイマジネーション、妖しい文体・・・もう、何十巻もある全集を
読み尽くしてしまえるほど面白いです。いったんハマると、もう抜けられない。
日本が誇るべき最高のエンターテイナーだと思います。
まぁ、これも有名どころなのでとっくに読んでいるかもしれませんね(^^)
よくできたホラーとしては「芋虫」、もっとディープに乱歩的なものを、というなら
「孤島の鬼」「陰獣」などお勧め。
二十面相ものとかはチャチだから手を出さないのが正解。

なんか、エンターテイメントだからか、こうして羅列すると
あまり文学的な感じじゃないですね(~_~;)



文学性という代物は後から付随してくるものだとも言えます。
フランスの作家、アンドレ・ジッドなどは、著作がキリスト教の倫理観を
大きく逸脱したものであった為に、発禁処分を受けてます。
現代人が読むと、その散文詩的な文章に目がいきがちなゲーテの
「若きウェルテルの悩み」だって、当時の人にとっては衝撃だったようです。
なぜなら、18世紀当時の「文学」は「他人を楽しませること」を
もっぱらの目的としたもので、それどころか当時は
「小説には悲劇的要素を表現する能力はない」と思われていたからです。
その頃だと、「悲劇」は戯曲の専売特許だったんですね。
いわばゲーテは、「小説による悲劇」という新境地の開拓に成功したわけです。


面白いですね。
今や、小説なんて、悲劇のオンパレードなのに(^^)
純愛ものだって、学園ものだって、推理ものだって、悲劇のスパイスを
振りかけてないものは売れないんじゃない?


考えてみると、現在の「純文学・エンターテイメント」というのが
いかに商業的なカテゴライズであるかが分かると思います。


そうですね、やっぱりそれは商業的なものですね。
出版社の新人賞とかを存続させるためにカテゴライズしなければならないのかも。
ところで、初めに芥川が三本の指に入るほど好きだと言われましたけど、
残り二本は誰と誰なんですか?


日本の中では戦後派の面々が好きです。大岡昇平などはその中でも別格ですね。
「野火」はぜひお勧めします。スタンダールに影響を受けただけあって、
心理描写の密度には驚嘆させられますよ。
女性で読んでらっしゃる方というのはついぞ見たことがありません。
さかんに普及活動はしてるんですけども(笑)
あといまいち知名度がありませんが、福永武彦なども良いです。
心理描写の巧みさ、叙情性の高さなどではそうそう比肩するものはいないでしょう。
あと、上記の二人とは違う意味で面白い作家だなあと思ったのが椎名麟三。
最初は「永なる序章」から入るのがよろしいかと。
生きてる作家がいませんね。安部公房も死んじゃったなあ。
なんだかんだ言われてますが、大江健三郎も良いですね。
ただし初期から中期までに限定。
年々切れ味がなくなって衰えていった作家の一人です。
村上龍もそうですけどね。
あ、もう2本じゃないや……まあいいか(開き直り)
日本の詩人だと金子光晴。金子の詩は面白いですよ。
日本の他の詩人とは才能の種類で一線を画している気がします。
海外だと(あ、もう聞いてませんか?)イギリスのゴールディングなんか好きです。
「蝿の王」は映画化されてるから、有名かも。詩人ならリルケ(全集持ってるし)。
大衆文学だと藤沢周平がいいですね。あの端正な文章で織られる、
無駄のない流麗な話の展開はなまなかな力量じゃ不可能。
実績に比して知名度なさすぎかと。短編でも長編でも書ける、稀有な作家です。
「蝉しぐれ」は僕のバイブルの一つ。
で、お察しのとおり現代小説(日本限定)には興味薄し。
むしろ嫌いな作家の方が多いです。


なんか、男性作家ばかりですね。
しかも名前は知ってるけど読んだことない作家ばかり(~_~;)
そもそも、私は翻訳ものが好きで、日本文学はあまり読まない人だから・・・
ほんとに知らないんですよね。(だからこの対談もどう転ぶのかと密かに案じてました)
一時、流行りの村上春樹とか山田詠美とか島田雅彦とか読んでみたんですよね。
それなりに面白いものもあったけど、読み続けようという気になれなかった。
ばななに至っては、二ページと読めなかったですね。で、あきらめました。
けっきょく、なんか好きじゃないんですよ。なんでだろう。
村上龍に関して言えば、才能は認めるけど、書かれている内容があまりに
エグかったりするので、ちょっと勘弁して、という感じ(~_~;)
きっと今話題のランディとか柳美里とか読んでみても同じだと思う・・・


山田詠美は大嫌いです。甘ったるくてやってらんない、という感じで。
あの人の作品は好きな人は好きだけど、その逆も大いにあり、という典型だと思います。


まぁ、それはそれで作家自身のキャラがしっかり立ってるということで。
好き嫌いはべつとして、それなりに評価できると思います。
敵もいなけりゃ味方もいない、どこにも話題性がない、というのは
作家として一番マズイわけだから。


日本の現代小説って、年々文章の力が無くなっていってるじゃないですか、全体的に。
(純文学、大衆文学問わずにです)
よく寒いなあ、と思います。
たったの一文でこちらの心を震わせてくるような文章を書く人があまりに少ない。
(特に中堅から若手にかけて)
むしろなんだか気取ったような文章書いて、何を勘違いしてるのやら。
僕が日本のミステリーを読めないのも、この文章が問題なんです。
平淡な文章が延々と続いて、半ばまで読むとなんか開きたくもなくなる作品が
多かったり……。
くそ長いロシア文学だって投げたことないのに(涙)
ちょっと前までは、話題になった作品も少しは読んでたんです。
ドラマ化された「永遠の仔」とか、あと宮部みゆきの作品とか(ベタベタ)
「永遠の仔」は上巻でやめようかと思いました。
事件の真相なんぞもうどうでもいいよ、って感じで(笑) 話長すぎ。
宮部みゆきは最高傑作との呼び声高い「火車」を最後まで読んで、
それきり読んでません(爆)
買い置きしておいた「理由」はただ本棚に今でも突っ立ったまま。
みんな話の作りはうまいです。巧みです。テクニシャンです。
ただし文章を使っているくせに、その利点は何も生かしてません。
結果、長い、うっとうしい、読んでられるか退屈じゃ! となる訳で……。
そんな感じです(?)
>現代の作家さんたちへ。
三島や芥川みたいに「美」を発散させた文章書いてよ〜。お願い。
無理ですか? いじけるぞ、もう。


無理? さぁ、どうでしょうねぇ(^^)
思うに、日本文学というか、日本語の美しさというのは独特なんですよ。
私は一応、英語と中国語なら、ある程度はわかります。
で、そういう外国語を勉強するたび思うのが、日本語の(異常なまでの)洗練と繊細さ。
まるで極彩色のパレットみたいなんです。
一人称でも、私、僕、俺・・・いろいろあって、それぞれに持つイメージが違う。
それをまた、漢字、カタカナ、ひらがなで書くと、またそれぞれ印象が変わる。
一人称の主語ひとつで、その人物の性別、社会的立場、年齢、性格などが
おぼろげに判別できるようになっている。
これはすごいと思いますよ。
擬態語も豊富だし。
私は、宮沢賢治の「やまなし」という小品がすごく好きなんですが、これを
英語や中国語に訳す、ということを考えると、一体どうするのか思い浮かばないですね。


んー、現代の作家が最初から翻訳されることを考えて書いてはいないと思いますが……。
しかし、確かに宮沢賢治はやっかいでしょうね。
方言なんかをどうやって訳すのかは想像もつかない。


「クラムボンはかぷかぷわらったよ」なんていう一行だけでも、
そのなんとも言えない童話的なイメージ、語感の妙をきっちり翻訳することは
ほとんど不可能に近いと思いますよ。
もちろん、英語や中国語にも、独特の語感やニュアンスを伝える技法があって、
それを日本語に訳すのは難しいんだけれど、やっぱり日本語のほうがずっと
特殊なんだと思えます、私には。
貴重なんだけれども、将来的には消えて行かざるをえない美、という気もしますね。
これだけ世の中がグローバルに繋がってくると、洗練された複雑なものより、
荒削りでも簡単で、万人にわかりやすいもののほうが有利じゃないですか。
村上春樹の作品が何ヶ国語にも翻訳されて売れるというのも、
そもそも文体として美意識にこだわっていないからじゃないかな、と。
よく言われてますよね、翻訳調って。
「クラムボンはかぷかぷ・・・」はもう訳出不可能だけれど、
「春の熊みたいに」とか「山が崩れて海が干上がるくらい」とかいうのは、
簡単に訳出できるんですよね。


しかし、三島も川端も、独特の文体と修辞を使う安部公房も、
すべて外語に訳されて、一定以上の評価を受けていますよ?
大岡昇平の「野火」も五カ国語(いや、もっとだったか?)に訳されてますし。
対して翻訳調の作家というと大江健三郎なんかがいますが、
彼の作品は三島や川端に比べればそう評価はされていない。
やはり問題は作品の中身ということでしょうね。
それに翻訳の問題を考えるなら、海外における日本文学の研究水準も
考える必要があると思います。日本におけるフランス文学の研究と、
フランスにおける日本文学の研究とでは、両者に差があるのはあきらかです。
これはドイツでもイギリスでも同じですよね。


まぁ、「けっきょくは中身」というのは、確かに正論なんですが、日本語の特殊性に、
日本文学、ひいては日本文化の抱える限界みたいなものの一端が
あるとは思いませんか?


これはむしろ言語を使った活動をする以上、文学すべての限界と
いうべきですね。例えば僕がリルケの詩をいくら訳文で読んだとしても、
その詩の本来の魅力というのは感じ取れてはいないでしょう。
その詩が持っていた音韻なんかはまったく無視しているわけですから。
以前フランス文学が専門の先生に「訳文で読んだときは、小説は八割、
詩は五割」と言われたことがあります。つまり言語を置き換えてしまうと
それだけ本来の文章の味わいとはかけ離れていくということですね。
原典にあたらないで外国文学の研究なんかできないわけですし。
(その点、日本文学の研究は楽です 笑)
ちょっと話はずれるんですが、あらゆる詩人というのはこの言語を
常に超えようとしているような気がします。たとえ日本語で詩を書いて、
それを日本人が読んだとしても、そこに吐露された詩人のイメージは
その何行かの言語の羅列の中にしか存在できないわけじゃないですか。
それを詩人は、才能の許す限り、あらゆる修辞や定型を使いながら
(あるいはそれを打ち捨てながら)表現していくわけですが、
詩が言語である以上、言語を超えることができない。
彼らの詩はもっと雄大なものではなかったかと常に思います。


日本の中においても、地方と中央の差は縮まりつつあって、文化の均一化が
急速に起こっているし、第一、男も女も等しく「〜だよね」って語尾を使って、
ハンバーガーショップとハリウッド映画が日常に浸透しているこの社会に、
日本人としてどんな美意識が育つ、もしくは受け入れられると思います?


ちょっと僕の考えは違います。
というのは僕は日本人に普遍的に存在する美意識というものは
存在しないと思うからです。
川端康成などはよく「日本の美を描いた」といわれてますが、
あれは彼ら固有の美意識です。
決して日本人に通底した美意識ではありません。
「日本の美うんぬん」は、おそらく後世に研究の視点としておかれたもので、
それらの作品の中で注目されている美とは、「日本人の美」ではなくプラトンが
言ったような「美そのもの」であると思います。無論この「美」を読み取るには
それなりの努力とセンスが必要になってくるわけですが……。
別に「日本の美」などを考える必要はありません、それぞれの作家が自分の感覚で
「美しい」と感じたものを吐露してやれば良いだけなのです。
芥川が短編の名手といわれているのは、この「美」を捉える眼力、
無駄なく描き出す筆力の両方に長けていたからです。
要は一つ一つの文章への気配りをもっとこまやかにしなさいよ、ということが
言いたいのです。
話が面白ければそれだけでいいのか、という違和感が僕の中には常にあります。
宮部みゆきの、あの上下巻にわかれた長編を、なぜ大多数の人は
退屈せず読めるのか、不思議でならないのです。
確かにひっかかりなく読めるけど、なんだか漫画を読んでいるような感覚に
陥るときがあるんですよね。
地の文章にこだわらないなら、小説である必然性がないように思います。
どんな小説にせよ、読者は物語よりも前に描写を見るんですよ。
そこに無神経でいられる理由がわからない。
いや、描写の巧みさよりも話の面白さだよ、という人もいるかもしれませんが、
それなら両立させれば良いだけの話です。
あらゆる作家は、文章で金を取ってるんですから。
まあでもあれが売れているということは、読者もそれを求めている
ということなんでしょうね。
読書というのは本来かなりの重労働ですが、その労働を
読者が厭うようになったということでしょうか。
それと、僕は簡潔な文章を嫌っているわけではありません。
一見短調な翻訳調の文章も好きですし、
文章自体から作家の特徴が読み取れればそれで良いと思ってます。
そうだ、文体ですね。今の作家に多いのは文体とは呼べない、
無個性な文章なんですよ。ちょっとそれは拒否したいですね。


うーん、表現者にとっては耳の痛い、辛口の批評ですね(~_~;)
でも、ryanさんの、文学に対する真摯な愛情が伝わってきます。
確かに、なんの芸もない文章、作品は多いかもしれませんね。
なにしろ、作家志望者なんか掃いて捨てるほどいる使い捨て時代。
粗悪な文芸作品が大量生産されるのも無理からぬことかもしれません。
まぁ、私なんかどっちかっていうと描写よりストーリーの面白さを重視してしまうほうだし、
偉そうに言えませんけど、やっぱりあまりにも粗雑な描写が続くと、気が散って
肝心のストーリーにのめりこめず、読むのがうっとおしくなっちゃいますね。
私もこの対談を振り返りつつ、もっと文章に細やかな神経を
払うように心がけなければ(^^)・・・

それではryanさん、本日はどうもありがとうございました(^^)


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