No.8 = 顕正居士×まりねこ

まりねこ;
顕正居士さん、このたびは対談にご登場いただき、ありがとうございます(^^)
このところ、若者が新興宗教などに走ることが社会的に問題視されている
面もありますね。


顕正居士;
宗教=宗教団体=とんでも=テロの連想が出来て、宗教のイメージが
たいへん悪くなっています。同時にニューエイジ的カルチャーが定着して「と」っぽい
ことに惹かれる人も多い。2分化があります。それで、宗教関係の学科への
進学者が「と」系中心になったりしたら、将来が心配です。


そうですね・・・
オウム事件が騒がれていた渦中で、彼らを擁護するかのような発言をして
叩かれた宗教学者もいたようですから、一層、宗教やそれにまつわる学問が
一般には胡散臭く見えたのも無理はないかと思います。
ところで、ご自分のサイトでは質問に答えて、自分は何を信仰しているものでもないと
おっしゃってますが、信仰者ではないとすると、学問として何かの宗教を研究
していらっしゃるということなんですか?



わたしは印度哲学の出身ですが研究者ではありません。この学科の卒業者は
1 研究者 2 僧侶(重なっています)3 その他・行方不明といわれるのですが、
3に属します。が、この学界について少し説明しますと、
キリスト教の場合、神学部の学生皆が教徒ですが、印度哲学の場合は西洋哲学、
中国哲学と並んだ学科で、仏教徒でない学生(カトリックの修道会の留学生等)
もいます。だから僧侶であっても信仰や信心を主体的に扱うことはありません。
たいがいの日本人が「鎌倉仏教」といわれる宗派(真宗、日蓮宗、曹洞宗等)の
壇徒ですが、お葬式・法事の際しか憶い出さない、僧侶も「ソフト葬儀屋さん」
の感じで、信仰や信心は日本仏教では衰えています。それが一方に新興の教団が
多数ある理由の一つでしょう。しかし、仏教は信仰や信心だったのかというと、
そうは思えません。'I do not believe in anything'、神様、永遠の魂、予言、
占い、などを信ぜず、合理的に生活し、不可能な事柄は諦めるのがお釈迦様の
教えであったのは確かですから。


英語圏では、仏教は思想であって信仰ではないんですよね。
以前、キリスト教信者(エホバの証人)の友人に、信仰って何かと聞いたら、
「とにかく、聖書に書かれていることが実際の真実であると思うこと」
「そんならノアの箱船だのエデンの園だの、そういうのもみんな信じるわけ?」
「私は信じてる。いつか神様がそれを証明なさる時が来るとも思ってる。
でも、神に理由は問わない、それが信仰ってもんなの」
というような問答をした覚えがあります。



「信じる」(believe)という言葉にはいろんなニュアンスがありますが、哲学や
科学の真理を否定して「信じる」という意味でわたしも使っています。
そして、そういう「信じる」にはさまざまの不都合が発生します(「輸血拒否」とか)。


聖書も読んでみましたが、なんか血なまぐさいお話だなぁという印象でしたね(~_~;)
私は仏教徒ではないし、仏教に関して読んだものといえば、
「チベットの生と死の書」と般若心経の日本語訳ぐらいですが、
気もち的には、「何も信じない」、つまりなにものにも自己を同化させない、
「一切は空である」という考え方のほうに、よりシンパシー感じますね。
非常にクールだと思います。絶望的なまでにクールなんだけど、でもその向こうに、
かすかなぬくもり(「慈悲」といってもいいですが)を感じさせるというかね。



大乗仏教は「人間原理」であると思います。生老病死の苦は文明を建設して
減らすしかないという主義。しかし「宇宙原理」が先にあって活きるのだと考えます。


その「宇宙原理」といっても、一般にはそんなの感じてる余裕がないでしょ。
ここで言っているのは、宇宙の法則とか真実とか、呼び方は何でもいいですが、
そういった「人間を超えて存在しているもの」のことだと仮定してますけど、
満員電車でお勤めに行って、あれやこれやとハードな仕事や雑務に
人生のほとんどの時間ををすり減らすように生きていると、
どうしても、そういうことを考えたり感じたりしている余裕がないと思いませんか?



小生は通勤、通学したことがないのです。大学では構内の寮に住んでいました。
満員電車は数回しか乗ったことがなく、就職したことがないのでハードな仕事も
したことがありません。零細企業の場合、(今迄は)頭を使えばそれだけ儲かる
ような状況はなかったみたいです。それで暇でもあり、「宇宙原理」=頼れる存在
は何もない、ことはいつも考えない訳にいかなかったです。


珍しいですね、そういう人も(^^)
かくいう私も、暇人なことにかけては右に出るものはない、と自負(?)しているのですが。
暇、ということは、人生をいかに生きるべきか、というようなことを
考えるのに必要不可欠な条件だと思いますか?
なんか、やたら忙しいことを自慢に思ったり、そんな気はないけれど、
ただもう実際生活に忙しくて、という人はいっぱいいますよね。
それとも、暇だから考える、というものでもなくて、そういうことを考えるからこそ、
忙しさから身を引く結果になるんだ、とも思えますが。



「人生をいかに生きるべきか」なんて考えると、先に「宇宙はどう成り立っているか」
わかる必要があるし勉強が忙しくなります。難しいことが書いてある本は
発行部数が少ないから古本屋めぐりが要るし、高価だから金を稼ぐ必要があります。
「人生をいかに生きるべきか」、「宇宙はどう成り立っているか」
など考えないほうが暇なことは間違いありません。


あはは(^^)
すみません、笑ったりして。でも、それもそうだなぁと思いまして。
普通、宗教書などには現世活動を否定するようなことが書かれてあるでしょう?
お金や物質的なものに執着を持たないで、生きる意味や心性を重んじるようにって。



地主と商人の階級闘争の方面が顕著であるとわたしは思います。


仕事で人を押しのけてでもバリバリ稼ぐとか、そんなせわしない生きざまは何か
恥ずべきことのように書かれてある。
でも、「人生をいかに生きるべきか」なんて考えて宗教にハマると、結局、
忙しいという意味では同じなんですかね。
いろんな勉強会だの、ボランティアだの、布教活動だのがありますから(^^)
ところで、普段、とりたててそんなことは意識していなかった人でも、
そういう宗教や哲学的なものに触れたり、その関係の書物を読んでみたくなる
ときっていうのがあると思うんですが、たとえば、思春期とか老年期とか、
あるいは何かに迷ったり、ひどく落ち込んで、どうしたらいいか、
もうわからなくなったときとか。
顕正居士さんの場合、いったいまたどういう経緯でその方面との「出会い」が
あったわけですか。非常にプライベートなことですが。
こういうことって関心を持つきっかけが、けっこう大事じゃないですか?
何を求めてそこに行き着いたか、というのが。
人は、何を求めて信仰や哲学の世界に足を踏み入れるのでしょうか。



思春期には哲学、文学あるいは宗教に多くの人が関心を示します。
中に哲学系の学科に進学する人もいます。
哲学系には理論物理学なども含まれるでしょう。
わたしもそういうひとりだったと思います。バートランド・ラッセルの「哲学の諸問題」
(The problems of Phlosophy)がはじめて読んだ哲学の本で、
これが「出会い」かも知れません。
日本では「無宗教」、「無信仰」と言う人は多い。ベトナム戦争時代にアメリカ
(の南西部)に留学された方から聞きましたが、無信仰はマルキストと見なされ、
日曜日には教会に連れに来たそうです。白人の仏教会は冠婚葬祭の免許のために
無神論者が結成したのが起源であるともいわれます。
釈尊は産業が発達した古代のインドに現れて、近代合理主義に似た教えを説いた
哲学者であると考えています。大乗では、龍樹−月称−宗喀巴(Tsonkapa)と継承
する「中観帰謬論証派」(Prasangika)がその正系であるという認識が現代では
広まっています。わたしは仏教徒のつもりですが、それは「何も信じない」意味でなのです。
龍樹(Nagarjuna)の哲学に関する頁(佐倉哲氏)。
http://www.j-world.com/usr/sakura/index.html
龍樹は一切の現象の基底に何らかの実体(substance)があることを否定しました。
いわゆる「空」の教えですが、これは少なくとも宗教的には難解な事柄でなく、
神様や永遠の魂の否定です。時間、空間の実在も否定されますから、予言や占い
も否定されます。
帰謬論証派=応成中観派の頁(チベット仏教系)。
http://www.geocities.com/Tokyo/Spa/3072/
「一切の現象に実体がない」が命題として主張できる、帰謬的にしかできないで、
中観派は自立論証派と帰謬論証派に分かれました。


すいません、「帰謬」ってどういう意味ですか?読みは「きびゅう」でいいんですか?


「帰謬(きびゅう)法」は或る命題を真と仮定すると、偽な命題が帰結されることから
前件を偽とする論証法です。排中律(Aか非A)が前提でこれを認めない
直観主義論理学が計算機科学との関連で話題になります。中観が両派に分かれた
のは純哲学的、論理学的論争のせいで、「宗教」とはそれほど関係がないと思います。
が、印度では宗教、哲学を区別しません。印度教(Hinduism)の一派には
論理学派(ニヤーヤ派)もあって、論理的に正しく考え、生活することで幸福も
解脱も得られるとします。


あの〜、どんな宗教でも流派っていうのがあって、お互いに「これが経典の正しい解釈だ」
「いやそうではない」とやりあっているようですが、それはいったいなぜなんでしょうね?



古典の正確な解釈(文献学)は人文の学問の土台で、宗教内部の学問
(神学や宗学)も同じであり、文献学自体が聖書の研究から発達しました。
仏教、キリスト教とも、論争によって展開して来て、今日の学術上の論争と
変わらないでしょう。
新興宗教の争いはそういうのではなく、同一の対象(単位取得の悩みがある学生等)に
布教するために抗争が激しいという感じです。「経典の正しい解釈」を追求したら、
今日では相当に落着いた信仰に到着するでしょう。


思うに、信じることで、その人その人が幸せを感じられたり、生きる指針を
得られたりするなら、それ以上に、人にそれを認めさせる必要はないんじゃないかと。
要するに、そんなのは確たる答えの出ないことなんじゃないかなぁと思うんですが。
論争によって、もっといい考えが浮かぶとか、より幸福を感じられる生き方を
発見できるんだったら、それはそれでいいんですけど。


その人に「真理」であるなら、人に認めさせることは大事ですし、場合によって
殺しても(幸福な死後のいのちが得られるので)よいという考えも起ります。
聖書の物語は自分を安心させるというだけでなく、哲学や科学と張り合う真理でもある場合、
進化論の教育を禁止しなくてはとか、中絶を行う医師は殺害してもよいという
考えが発生します。


そういえば、ポアという言葉も一人歩きしてましたね。
確かに自分の考えを人に認めさせることは、いろいろな場面で必要ですし、
これが善だと信じることがあれば、愛する人によかれとそれを押しつけていくと
いうのも理解できますが、どうも、なかなか人間、そんなに建設的な人ばかり
ではないみたいですね。



近い中に宇宙は終る(最後の審判)と信仰する人なら、たとえば長期の社会投資は
無駄と判断します。哲学や科学と張り合う真理を信仰している場合、高等教育への
投資に消極的になります。それは無信仰者や穏やかな信仰者に迷惑ですから、
特別なことを信じている人達問題、そういうことに寛容であってよいのか問題等の
議論が増えているように思います。


結局、信仰は生き方の問題なんですよね。
新興宗教などの人工的なマインドコントロールなんかは論外として、
信仰者は、たとえそれを客観的に証明できなくても、自分の実感として理屈抜きに
信じられる考え方、幸福観とか人生観をもっている。
それが、世の中にはいろいろあるから自然とぶつかりあう。
それぞれが正しいと「信じて」いるから、あとに引かない。



「価値」はそうですが、「真理」は「科学」の領分であると考えます。


そうなんですか?
それでは真理というのは、まさにこの世の実体そのものということでしょうか?
私たちの身体が、顕微鏡で見れば原子でできている、というようなことでしょうか?
よく、真理というのは「この世にいてはわからない、何か現実を超越したもの」だと
いう見方がなされますが。


「真理」は結局あらゆる正しい文章の集まりだと思います。ただし、その中の
一部の文章の集まりから他のあらゆる正しい文章の集まりが導けるならそれは
同じことだから、その一部の文章の集まりを「真理」という。
物理学と化学に限って考えれば、物理学の文章から化学の文章が全部導ければ、
物理学と化学の正しい文章の集まりは、物理学の正しい文章の集まりと同じことになります。
人類はそういう「究極の真理」を求めて来たといえます。
たとえば蕎麦屋でわたしは「きつねうどん」でなく「きつねそば」を注文します。
「正しい」というのはうどんやそばの成分が何かや、そばよりうどんを注文する人が
増えている、減っているとかです。うどんが好きか、そばが好きかは「価値」です。
こういうことではおのおの生活圏(Lebensraum)を拡大するため闘争するのは致し方ないが、
「真理」は文章が正しいか否かです。「ヨハネ伝は使徒のヨハネが書いた」とか、
「法華経をお釈迦様が説いた」は偽の命題です。カトリック教会が好きとか、
ギリシャ教会が好きとかは価値です。「真理」と「価値」の区別を多数の人が
行うようになれば、宗教の弊害がなくなると思うのです。


う〜ん・・・面白いですね。
普通は、というか、一般的に「真理」というとイメージするのは先にも言った通り、
何か現世を超越して存在するもので、ただたんに「文章が正しいか否か」ではないと
思われますが。



それは「究極の真理」(あらゆる正しい文章の集まりが導ける文章の集まり)ですが
単に「あらゆる正しい文章の集まり」と全く同じ意味なんであります。


たとえば、「ヨハネ伝は使徒のヨハネが書いた」ということが真理かどうか、
ということより、「それは神の意志によって書かれたものである」ということが真理かどうか、
ということだと思うんですよ。一般に、信仰の核となっているのは。
前者は歴史学者などには意味があるけれども、信仰者にとっては、
後者のほうがよりウェイトが高いんじゃないかと。
で、「真理」=「価値」になるんだと思うんですけど?



「神の意志によって書かれた」というためには、何か通常と異なる成り立ちや
内容が必要です。古人の名を盗用して権威化を行っていないとか、間違ったことが
あんまり書かれていないとか。
信仰者に大事なことなので「ヨハネ伝は使徒のヨハネが書いたのでない」ことを
神学者が解明して来たわけです。偽の信仰者には困ることだから、そういうことは
認めないのです。


「偽の信仰者」とは?


科学、哲学、神学の真理を否定する人達のことで、最近は「カルト信者」と云います。


「カルト」ってよく使われてますけど、どういうふうに定義したらいいんでしょうね。


術語のもとはトレルチで、cult−sectを対立概念として使用したらしいですが、
今の使い方は、合衆国での新教団の成長過程を cult、sect、denomination、
churchで捉える宗教社会学から来ています(概念の意味や数は学者により様々)。
cult−小規模儀礼集団、sect−中規模分派集団、denominaton−大規模教派、
church−公同の教会(カトリック)が公約数的の語感に小生にはおもえます。
現在、マスメディアが使用する"cult"は人民寺院、Heaven's Gate等の報道ではじまり、
たしかに最初は「小規模儀礼集団」だったんですが、その後、中規模分派集団にも適用し、
「淫祠邪教」とかわらない言葉になっています。
「哲学、科学、神学の真理を否定し、教団自体を信仰し、テロを行う危険性がある集団」の
イメージと思います。


そういうカルトに若者が入信してしまう、というのはどうなんでしょうね?
洗脳とかマインドコントロールとか言われますけど、そんなに簡単に
ひっかかるものなのかしらって。



「マインドコントロール」の古典は「アサシン」でしょうか。
アサシンは暗殺者の意味ですが「ハシシ」から来ています。
インドのハシシ(大麻製品の一種)を吸飲、昏倒させ、青年を拉致する。
幾日か彼は美女と美酒、美食の接待を受け、此処が天国であることを告知され、
またハシシによって昏倒します。その後は、天国に戻るために十二イマーム派の
敵対教団首領の暗殺等に励みます。飴コントロールです。
ボルシェビキ、マオイストの恐怖、苦痛による「洗脳」(「条件反射説」に基づく?)は
鞭コントロールです。
いづれにしてもこうしたシステムには隔離的な環境が必要です。
人民寺院やHeaven's Gateには該当しても、中規模分派集団(メンバーの多数が
自由社会で労働、自営している)には適用できません。セクトの成員はみづからの
意思と思想によって現代文明に挑戦しており、むしろ教団幹部のほうが
社会との妥協を求めているかも知れません。


カルト集団って、たいてい教祖の超常的な力をウリにしているのが多くて、
オウムなんかでも空中浮揚できるとかできないとかとかありましたよね。
そういえば聖書でも、キリストが何度もそういう超常現象を起こしたように
描かれていますが、そもそも宗教と超常的な力って、昔からワンセットになってるんですよ。
それが人に、教祖や狭義に対する畏敬の念を起こさせるという働きをしてるんですね。
そういうのはすごく男性的というか、たんに「力に対する憧れ」みたいに感じる。
私自身は、そういう「力」と、「真」というものは、またぜんぜん別だと思うんですよね。
中国で騒がれた法輪功の本とか見ても、結局「これこれができる」=「心性の高さ」の
構造になっていて、オウムの、「瞑想して白い光が見える」=「ステージが高い」という
構図と同じ。
これって、なんか集団でやってると、力くらべみたいでしょ。
こういう宗教集団が、最終的に内外との権力闘争、派閥争いを始めるのは、
そもそもが「力」=「真」だという発想があるからかもなーって思うんですよ。
私などからしたら、たとえそういうトンデモな現象がほんとうに引き起こせたとしても、
それが一体なんやの?という感じがあるんですけど。



オカルト教団が増えていますが、迷信、オカルト、陰謀等、「と」への追撃が盛ん
なので、「宗教民衆善導論」により社会で保護されている宗教へ逃避するとも
云えます。


カルトが、正統でない=「異端」という意味なら、キリスト教だって仏教だって、初めは
そうだったんではないんですか?



キリスト教はユダヤ教から出ましたからユダヤ教の「異端」とユダヤ人からは
見なされた可能性があります。仏教はインド教の分派ではなく元来は宗教でも
なかったです。が、仏教文化はインド文化の「異端」であるとはいえます。
仏教、ジャイナ教、順世派の3派は「天啓聖典」(veda)を信仰しないので、
正統哲学の綱要書でそのように扱われています。日本でいうと「源氏」が正統、
「平家」が異端でしょうか。


あの〜、私の友人で「エホバの証人」の人がいて、彼女は聖書に書いてあることが、
すべて現実のことで、それはぜんぶ神のみ言葉だから、
人間はそのとおりにしなければいけない、と信じてるんですよ。
私が、なんでそこまで信じられるの、と聞くと、だって不思議でしょ、と言うんです。
何千年も前の書物が、今でもそのままこんなに普及して、世界に広まってる、
これこそ聖書が神の真理を書いたものである証拠、と。
私は、目の前に神が現れてそう言うのなら信じるけど、使徒は人間だから、
人間の書いたものは百パーセントの信頼はおけない、と言ったんですが。



聖書以外にいっぱいあります。インド、ギリシア、中国の古典。聖書もその一つ
です。


つまり、「唯一の神の真理を書いたことの証明にはならない」ということですか?


旧約書は記紀に似ていて、エジプト、シュメールの文明起源に対抗するため、
太祖の寿命を千歳、数百歳などに延ばしています。それでもイスラエルが最古の
文明である主張には足りません。だから、イスラエル人が人類の祖先だとか、
へブル語が人類の祖語だとか主張するには、哲学、科学、神学の真理を一切否定
する必要があります。キリスト教徒の大多数にはそういう妄想は既にありません。


でも、神がいる、神の意志というものがある、ということを真実その通りだと
思うようになれば、まぁ、普通はそれを、「好みの問題」ではすませられませんよね。
たとえ物理学者でも、神の存在を肯定する人はたくさんいますが、
ズバリ、神とは何だとお考えですか?



たくさんはもうおられないと思いますが。われわれは情緒の安定のために頼れる
存在が必要です。それが神(仏)です。「唯一の神(仏)」である必要はない。
しかし、「唯一の神」(中東・西欧)あるいは「主宰する神」(印度)が格別に
必要とされたひとつの理由は情緒の安定より知的の方面からで、インド六派哲学
(正統派、他に仏教、ジャイナ教、唯物論があった)は元来三派で前期には
無神論だったのが後期に皆有神論(一神論)になった。それには、原子の結合力が
説明できない(勝論派の場合)悩みからDeus ex Machinaを導入するなど事情があった
と思います。ニュートンも遠隔作用である万有引力を説明するために神の活動を
要請しました。有神論・一神論のほうがかえって自然の学問が発達し、無神論の
仏教は唯心論のほうへ流れました(過度の「人間原理」といえます)。
だが、カント以降は自然学に神様は不要になった。それでカント学徒ショーペンハウアーは
仏教徒と自称し、ショ氏の私淑者ニーチェは「神を殺した」のだと思います。


情緒の安定のためだったら、たとえば、天職だと思えるような仕事だとか、
深く豊かな人間関係とかにはそれを見出せないのでしょうか。



地球人口の半数が過去のいつの時代に比較しても生存が困難な社会で暮らしています。
こういう状況では大なる情緒の安定の仕組なしで生存への意欲を起こすのは困難でしょう。


それでは、人々がもっと豊かになり、教育が普及すれば、戦争もなくなるし
宗教もいらなくなる、ということでしょうか?



宗教は昔、その中に学問、娯楽の一切を含有していました。活版印刷の発明後、
欧州では急速に読書が普及しましたが、「キリストのまねび」などの信仰書が
最初のベストセラーでした。ケンブリッジ、オックスフォードの両大学は聖職でない教員にも
独身の義務が19世紀までありました。20世紀は学問、芸術、娯楽が独立した時代です。
先進諸国では宗教の各分野が独立、世俗化したと思います。


私は、神仏というのは、人間がつくりだした文化というか、
思想の一形態にすぎないと思っているんですが。



おおざっぱには、わたしもそう考えます。但しそれは「文化」、「思想」という
概念を独立させることができた文明の中の発想です。


だから、それを表わす言葉の集積が真理である、というのはなんかピンとこないですね。
言葉を駆使すると結局、哲学でも、なんか言葉遊びか言葉を武器にした戦いみたいに
なっちゃって、ほんとうの「真理」からは遠のいていくみたいな気もするんですよ。
もっと、人知を超えたところの何かがインスピレーションみたいにかいま見えるとか、
言葉にできない真理というのがあったら、問答無用だと思うんですけど。



なぜでしょうか?ヨハネ伝1:1に
In principio erat Verbum et Verbum erat apud Deum et Deus erat Verbum.
(はじめに言葉あり、言葉は神とともにあり、言葉は神なりき。In the beginning
was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.)とあります。


私は個人的に、キリスト教には馴染めないと思ってますんで・・・(~_~;)
たしかに荘厳な教会や音楽には文化の華としての美しさはあるけれども、
聖書の教えそのものには、あんまり共感しないんですね。
あれを物語として素直に読んだら、あの弟子たち、あとで聖人と
呼ばれるようになりましたけど、イエスの考えを理解していたようにも思えないですしね(~_~;)
神の言葉というより、何か運命とか宇宙の定めというようなようなものがあって、
ときにそれを垣間見ながら、人は螺旋状に進化していく、というようなイメージはあります。
言葉とか、ある選ばれた人間とか、何かを介して、そういう真理とか運命とか神、
なんでもいいんですが、そういうものと結びつくのは、
なんか違うんじゃないかなって気がするんですよ。


「選ばれた人間」というのはアイドルとか天才であって、彼(彼女)は複雑な
系の「錘点」にいたのだと思います。


そうですね、アイドルか天才。あるいは、詐欺師(~_~;)
いずれにしても、人間の腹から生まれた人間であることには間違いないですね。
どうして人間が人間を「信仰」することができるのか、ちょっと私には
理解できかねるところです。



「ファンダメンタル」な宗派の場合には現教主の資質は問題になりません。


その「ファンダメンタル」な宗派とは、たとえばどんなものをさすんでしょううか?


最近、話題の教団は「オカルト系」と「ファンダメンタル」系に分けられると考えます。
オカルト系は修行によって特別な能力や意識が獲得される、などの傾向で、
教祖や教主の法力が重視されます。
ファンダメンタル系は特殊な能力や複雑な霊界システムは云いません。
自分たちの教団だけが神意(仏意)によって設立されたと信じます。教祖や教主は
神意(仏意)を体現した人物とされますが、「法力」の持ち主とは考えません。
ファンダメンタル系では教団に所属し服従すること自体が価値です。
オウム、幸福の科学、サイババ等はオカルト系、エホバの証人、親鸞会、
顕正会(私の名とは関係がありません)等はファンダメンタル系です。
「オカルト系」、「ファンダメンタル系」は小生の分類で、格別な価値判断は含んでいません。
日本で最近話題の教団を扱った本で、宝島社文庫「カルトの正体」税込590円は
「カルト」語の使用法の記事も有益で推薦します。


ご推薦ありがとうございます。また、機会を見つけて手にとってみたいと思います。
本日はいろいろと教えていただいて、どうもありがとうございました。



BACK