細胞検査士のお仕事


まりねこ;医療関係ってやっぱり人から注目される職業でしょ。
このごろでは、ついに脳死移植も始まりましたし、人間、いつ病気や事故で
どうなるかわからないから、誰でも、医療には無関心ではいられないと思うんです。
Puuさんのやってることは、比較的、地味かもしれませんがすごく重要な仕事ですよね。
実際には、どんなことをするのか、ちょっと簡単に説明してもらえませんか?



Puu;私の職業は細胞検査士といいます。病院の検査業務に携わる臨床検査技師の一種で、
細胞診を専門に行っています。
細胞診というのは、患者さんからいただいた身体の一部を細胞レベルでひとつひとつ
形態観察して、病態を調べる検査です。患者さんのおしっこや痰などから集めたり、
病巣部を直接こすったりして得た細胞を顕微鏡で見て、この細胞はガンだ、とか、
ガンになる寸前だ、とか、ガンじゃないけど病原体にやられてるぞ、というふうに
鑑別していくんです。
ガンだったらどういう種類のガンで、進行度はどのくらいか。また病原体がいるならそれは何か。
などなど、とにかく得られるだけの情報をひとつの細胞から引き出して、医師に報告します。
引き出せる情報量は検査士の知識量と熟練度に大きく依存しますし、かなり主観も混ざります。
だから機械を使って行う血液成分検査などに比べると、どちらかといえば非科学的で、
職人芸的な要素を多く含んだ分野と言えますね。
以上が細胞検査士としての仕事。
ちょっと説明が難しい仕事なので、わかりにくくてごめんなさい。
まりねこさんが関心を持たれそうなこと、なにかありますかしら?


いや、なんていうか、非常に興味ありますよ(^^)
そもそも、どんな学校でどういう勉強をしたら、そういう職につくことができるんですか?



臨床検査技師になるには、専門学校か医療短大で3年間専門教育を受けるか、
または大学の医療系学部を出て国家試験を受けます。で、臨床検査技師として
最低一年間業務に携わり、日本臨床細胞学会というところが主催する認定試験を
合格した者が細胞検査士と呼ばれます。
要するに臨床検査技師なら誰でも、試験に合格さえすればなれるんです。
でもこの試験がくせもので。集中して修行を積んだりセミナーに通ったりしないと
合格できない内容なので、運良く細胞診の現場に配属されるか、周囲の協力を得て
勉強できる環境にない限り、この職に就くのは難しいです。私は就職してすぐ現場に
配属になって、気がついたらなっていた、という感じですね。そして10年も続けちゃって、
もう足抜けできない状態。なんだかどこぞの教団信者みたい(笑)。
あと、私は病院の病理検査室というところに所属していますので、
そこの臨床検査技師としての業務も少しだけやっています。
具体的には、手術などで切除されてきた臓器から顕微鏡標本を作ったり、
ごくたまにですが、病理解剖の手伝いなんかもすることがあります。


解剖!う〜ん、すごいですね〜。ああいうのは、慣れるもんなんですか?
私なんか、怪我人が血を流して倒れてるのを見ただけで、
自分までも気もち悪くなってしまう小心者なので・・・
看護婦さんとかもそうですが、ある種、慣れというか、割り切りというか、
そこにいるのは人間じゃなくて物体である、ぐらいに思わなくては、
やっていけないんじゃないか、などと想像したりするんですが?



これってよく言われます(^^)。
どうかなあ。ご遺体を物体と見ている人もいるかもしれないけれど、少数じゃないかしら。
私は、身体のコンディションが悪いときには、臭いとかで「うっ」とくることもありますが、
嫌悪感や恐怖を感じたことはありません。


そうですか。あのね、推理小説でよく出てくるパターンがあって、主人公になってる
新米の捜査員なんかは、殺人の死体をみたり、解剖に立ち会ったりすると、
そこに人生の悲哀を見たり、生理的に、うっと吐き気を催したりするんですよ。
でも、医者はわりとヘーゼンとしてる・・・ときどきジョークなんか飛ばしながら
自分の仕事をテキパキ片づけていく。この対比を心理描写もからめて書く、
そういう場面がけっこうでてきますね。



まあ想像してみてください。まりねこさんが可愛がっている動物がいて、その子が
車に轢かれて死んじゃったとします。まりねこさんはその子の死体を気持ち悪いと思いますか? 
また、縁起でもない例えだけど、まりねこさんの親しい人が亡くなったとします。
まりねこさんはそのご遺体に恐怖を感じますか?


う〜ん・・・正直わからないですね。死体の損傷の程度にもよるでしょうし・・・
肉親の遺体をどう思うか・・・これも、そのときどう思うか、想像もできない。
ただ悲しく、なんで、なんで?・・・という気もちかもしれませんね。
かなりショックだろうと思います。
でも私、この歳になっても、まだ人間の死体って、見たことないんですよ。
父方の祖父母は亡くなってるんですけど、離れて暮らしていたので、
実際に遺体を見ることはなかったんです。
戦争などの報道写真に映った不鮮明な死体は見たことありますが、
それは、あくまで写真で、あまりリアル感がない。
何年かまえ、病気で祖父を亡くした友達がいて、その遺体というのは、同じベッドに
横たわっていても、眠っているのとはまったく違う、皮膚も土色で生命感がなく、
もう、見た瞬間に、死んでいる、とわかる、そんなこといってましたが・・・
なんか、現代人って、とくに都市部では、死の実体というのが、リアルな生活から、
ものすごく切り離されているんですよね。昔の人は家で死んで、家族に見取られていたけど、
今は病院で、機械やら人工物に囲まれて死ぬ。誰でも一度は死ぬのに、
死ぬことのリアリティが、元気に生きているうちはぜんぜん見えてこない。



私は、人の死には三つの「顔」があると考えています。
ひとつめは「一人称の死」。つまり「私」自身の死です。
ふたつめは「二人称の死」。「あなた」と呼べる近しい人、家族や友人の死。
みっつめが「三人称の死」。「彼ら」、つまり赤の他人の死ですね。テレビで見る
戦場や事故の死者。医療関係者にとっての患者の死もこれに当たるでしょう。
(心情的には二人称に近いといいたいんですけれども。)
この三つの「顔」っていうのは要するに死者に対する心理的距離です。この距離によって、
人の死生観って微妙に違ってくると思うんですけど、どうかしら。
そしてこの心理的距離は環境によってつくられていくものじゃないかなとも思うんです。
システムじゃなくてね。
ふだんはてきぱきと検死解剖をする医師も、扱っている遺体が自分の家族だったら、
仕事だから平然とはやるだろうけどジョークは飛ばさないでしょう。病院にいても、
ずっと家族に囲まれて惜しまれながら亡くなる人もいれば、自宅にいても、家族の誰にも
気付かれずにひっそりと息を引き取る人もいる。
医療現場の人間にとっては、患者さんは、たとえ生命が消えた身体だけになっても、
やっぱり患者さんなんですよ。だからどんな姿になっても気持ち悪いとは思えない・・・
というか、思うわけにいかないんです。
職業倫理で本音をごまかしているだけなのかもしれないけど。もし自宅のリビングに
突然知らない人のご遺体が横たわってたりしたら、やっぱり腰ぬかすでしょうからね。


脳死移植

脳死移植なんか、どう思われます?
まだ生きているのとそう変わらない、息もしていて暖かい身体でしょ、
それでも死んでるということになる・・・
医療従事者としては、それは死である、と思わなきゃいけないでしょうけど、
人間としてのホンネで見れば、けっこう複雑な気持ちしませんか?
私はそういう状態を見たことがないので想像もつきませんが・・・



私はすでにドナーカードを携帯しています。でも家族が脳死状態になったときの
臓器提供を認めるかどうかは決めかねています。また、私は心臓死後でも
角膜提供だけはしないと決めてます。というのは、実際に移植のため角膜摘出現場を
見たことがあって。これだけは家族(遺族)の気持ちを想像したら、ちょっとできないなあと
思ったからなんです。私みたいな考え方はけっこう一般的じゃないかしら。
まりねこさんはどうですか?だいたい似たような感じじゃないですか?


私は、どうでしょう・・・自分が確実に死んでるなら、あとはどうにでも、という感じですが、
家族の死、ということになると・・・
私、諦めの悪い人間だから、ひょっとしたら奇跡的にまた生き返るんじゃないか、
ひょっとしたらこの脳死の判定は間違ってるんじゃないか、とか思って、
「触らないで!」って叫んでしまうかもしれませんね。
ずーっと長患いしてて、そういうことを本人と話し合っていたなら別だけど、
事故なんかで突然という場合だったら、ただもう混乱してしまうでしょう。
死んだと言われて脳波計を見せられても、機械にだって間違いはあるじゃないか、
などと思うでしょうね。家族の姿がなくなってしまうなんて耐え難い、喋らなくても、
目を開けなくても、まるで眠ってるように見えるなら、そのままじっとその寝顔を
見ているだけでもいい、当面はそんな気もちになると思います。



人の死にはいろいろな要素がからんでいて、とくに日本は欧米に比べて個の意識が
低いですから、脳死にせよ安楽死にせよ、単純に自分の死についてだけ考えていたのでは
答は出ないと思うんですよ。もっともっといろいろな局面から議論していかないと。
それなのに、脳死については「三人称」の面だけで法律的に死と決められてしまいました。
これは今後すごい問題になっていくでしょうね。


なんかね、一例目のときは、マスコミなど今か今かと人が死ぬのを待ってたみたいでしょ、
で、いざ脳死移植が現実になると、ドナーの人やその家族を持ち上げて、
ひとつの美談みたいに仕立ててしまったような感じがあって、それにはちょっと疑問を
感じるというか、心理的に抵抗ありましたね。
それとは別に、二十歳を超えれば大人なんだけど、その大人がドナーになるのに
家族の同意がいるってことにも考えさせられます。
自分の身体は誰のものなのかなって。自分の身体は自分のものだと思うんだけど、死んで
しまったら、それは家族のもの、お金や土地みたいな遺産として考えればいいのかしら?



そのとおり。死んでしまったら、死は本人から家族の問題に移行します。
気分的に「そんなあ」って思いますけど、本人はすでに消滅しちゃってるか
別の世界にいっちゃってるからどうしようもない・・・。
理想論ですけど、将来、死にかたを各自が自由に選べるようになったらいいなと
思うんですよね。脳死、心臓死、尊厳死、臓器を提供したい意志、また逆にしたくない意志の
絶対保証。生前に遺言として文書で遺しておくとかね。
法的に問題がありそうだから、実際には難しいでしょうけれど。
ただ安楽死だけは、私は法的に認めるのは絶対反対です。悪用される危険性が高いから。


私ね、生きることの質について、このまえから考えてるんですよ。
「聞いて」でも書きましたが、サッチー騒動で夫と激論したんです。
それで、考え込まされたんですけど、とにかく生きるんだ、どんな生き方をしても、
とにかく自分が生き延びればいい、それが人間の本質なのかというと、
どうしてもそう思えなくて。だから、尊厳死という考え方は当然あると思うんですよ。
ただ生き延びることよりも、自分がこう生きたいと思うように生きる、そのほうが大事だと。
それがどうしてもできなくなったら、死を選ぶ。心情としてはすごくわかりますね。



いずれにせよ、死にかたを選べるようにするには、まずこれからの生きかたを
どう設計していくかを考えないといけないかもしれません、
今後は高齢者が増えていくいっぽうですもん。
家族に囲まれて死にたいなんていうのは贅沢の極みになって、病院で死ぬことすら
望めないって状態にもなっていくかもしれませんから。
もっとも、私たちがババさまになるころには精巧な介護ロボットかなんかが開発されていて、
快適な老人ホームができてるんじゃないかなーと私は楽観してます(^^)。


あはは(^^)
介護ロボットねぇ。科学的に楽観的ですねぇ。
でも、私は政治的な意味で楽観的。ほら、私たちのまえに、団塊の世代が老人に
なるじゃないですか。あの世代って、わりとヴァイタリティがあるというか、
あまり我慢しない世代でしょ。だから、老人の待遇が良くなるように、
何か改革してくれるんじゃないかなぁと。すごい他力本願(~_~;)



けど、脳死移植第一号騒動では、現在の日本の移植医療システムがいかに
信用できないかってことも露呈しましたね。
レシピエントにさえ明かされないはずのドナーの身元が、亡くなる前からマスコミに
筒抜けだったなんて。関係者が意図的に情報を流したとしか考えられません。
あの時期は頭にきて新聞もテレビも見ませんでしたよ。こういうことするから
医療不信を招いて、危険なトンデモ療法に走る人を増やすんじゃないかって。
あと何例か後にはマスコミも飽きちゃうでしょうけど、それまでは移植医療には
うさんくささが付きまといそうですね。
アメリカを中心に、すでに「移植トンデモ」が広がっているのご存知ですか?
移植された臓器と共に、ドナーの心がレシピエントに移植されるって話です。
この仮説をもとに、移植がトラウマになってるレシピエントを集めて
自己啓発セミナーみたいなことをやってる団体があるらしいんですよ。


なんですか、それ?
心が移植されるぅ?そんなの初耳。
脳が移植されるんならまだわかるけど、心臓とか、たんなる臓器でしょ?
そういうの、信じるものなんですかねぇ・・・
トラウマというなら、むしろ、「他人の死をもって生かされている」ということに対する
罪悪感みたいなもんだと想像しますけどね。そのもやもやした気もちが無意識下で変形して、
そういうトンデモ話になってるんじゃないでしょうか。



・・・たしかにレシピエントの精神ケアには有効かもしれないけど
ドナーの遺族はどんな気持ちがするか・・・。
私、以前に角膜ドナーの遺族に会ったときのこと、忘れられないですよ。
ああいう人たちを利用したり、傷つけたりする連中は許せません。
私が最初に聞いたのは、心臓移植によって、あるはずもない記憶が身についた
というアメリカ人の体験談でした。
そのときは、ひょっとしたらこういうのもありかもって思ったんですよ。
私は、人の精神活動は脳だけじゃなくて身体全体で形作られると考えていて。
心臓って生理的に自律性がある臓器で、独自の神経系統なども持っていますから、
いかにもトンデモだけど、まったく有り得ない話ではないなと思ったの。


う〜ん・・・もしそんなことがあったら怖いですね。
ホラーの世界。



しかーし何冊か体験談などを読んでみたら、やはりとんでもないトンデモでした。
セミナーやカウンセリングなどをやっている中心人物って、自分も骨髄移植で
ドナーの記憶を移されたと主張してるらしいんです。
おいおい、だったら輸血でも移るだろーが(笑)。
まあ移植経験者同士の自助活動としてやっているぶんには無害ですけど、
このトンデモのいちばんのトンデモは、不安がっている移植経験者をけしかけて
ドナー探しをさせることなんです。新聞の死亡記事などのいいかげんな情報をたよりに、
あたりをつけた遺族の家に押しかけさせたりするんですよ。ひどい話。
角川書店などから関係書が訳出されているので、興味があったらご覧になってみて。


いっぺん読んでみたいですね。


医療・民間療法・インチキ療法

ところで今朝の朝日新聞ですが、厚生省が抗がん剤や抗生物質などの使用法について、
科学的な根拠に基づいたガイドラインをつくり始めたという記事が一面にのってました。
これを読んで、じゃあ今までは科学的な根拠もなく使っていたの、とびっくりする人も
少なくないと思うんですね。
でも、実際には、まだ科学的にはきちんと分析されていないけれど、経験則で
効くことがわかっているクスリや治療法ってたくさんあるんじゃないですか?



うーん。該当記事を読んでいないのでなんともいえませんが、ちょっと違うかも。
医薬品や治療法はほとんどすべて、いちおう効能が証明されているはずだと思いますよ。
(その証明が間違っていた、というケースもありますけどね。)
漢方や鍼灸なんかもかなりの程度まで分析されているみたいです。


へー、そうなんですか。
私はああいう東洋医学みたいなのは、経験則でやっていると思ってました。



経験則が適用されるのは、それらの医薬品や治療法をどういう場合にどのように使うか、
という場面ですね。でもそれも、あくまで論理的な根拠があっての上。
この厚生省のガイドラインも、たぶんこのへんの論理的なコンセンサスを明確にして、
過誤や不正使用をなくす目的でつくろうとしているんじゃないかしら。


そうそう、そういう意味のことを書いてましたね。


まあ論理的根拠といっても実際にはあぶなっかしいものもあるし、CUREとCAREの
どちらを優先させるかでも治療方針はまったく変わっちゃいますから、
最終的に現場スタッフの直感的決断が大きくものをいう場面は多いでしょうね。
常に論理的客観性と主観のせめぎ合いが状況を左右する、そんなところが「医は仁術」と
言われるゆえんなのかもしれません。
こういう主観や経験則に絶対の自信を持っているかいないか、という点が、
いわゆる医療と民間療法とのいちばん大きな違いだと私は思っています。
主観や経験則を加味しつつ、でもそれを信用せずに、論理的根拠を探りながら
トライ&エラーを繰り返して結果を出していくのが医療。


想像するに、きっと医療現場って、厳密に科学的ではありえない、
そうなりようがない分野なんでしょうね。
目の前に苦しんでいる患者さんがいて、何もしなければ悪くなるだけだし、かといって、
実はまだよくわかっていないクスリや治療法を施して、あとの責任を問われても困る、
でもほうっておくこともできない・・・・
こんなジレンマを抱えて、それでも決断するとき、やはり、もう経験だけが頼り、
ということになるんじゃないでしょうか。
こういう病状なら、こうすればこれくらいの確率で良くなりそうだ、とか・・・
その判断の難しさって、検査の段階でも同じで、むしろ、正しい診断に基づかねば
適切な治療もできませんよね。
Puuさんは、そのあたりで、診断にすごく悩んでしまって、ということはかつてなかったですか?



かつてどころか、もう、毎日が悩みの連続ですう。たとえば癌の症例でも、
いかにも癌細胞らしく見える癌細胞が出てくるのってむしろ少ないんですよ。
逆に癌そっくりに見える細胞が出現する良性疾患なんてのもいっぱいありますし。
同僚や上司と意見が割れて、皆で頭抱えてることなんかしょっちゅうです。
で、どうしても決められない時は、無理に結論を出さないことにしています。
考えられる方向性だけを伝えて、わからないことはわからないと正直に報告します。
あとは再検査や別の検査をするなり治療を進めるなり、担当医の判断に任せます。
こういうのって無責任に思われるかもしれませんけれど、私たちは患者さんの全体像を
見ているわけではないから、結論をこじつけ出すのは危険なんです。


正直が賢明なんでしょうね。でも、実際に治療にあたる医者の葛藤というのは、
けっこうスゴイものがあるんじゃないでしょうか。
私なんか、小心だから、難しいケースだと、もうびくびくしてしまうでしょうね。
どうしよう、これでいいのかな、どうしよう、なんて・・・



逆に民間療法は経験則に絶対の自信を持っていて、ある程度の結果も伴っているんだけど、
論理的な根拠がないんですね。
そして、「論理的」な「根拠」ばかりがあって結果が伴わないのがインチキ療法。
まりねこさんも似たような意見を表明されてたと思いましたけど、やたらと科学的根拠とか
証明を強調する類の連中はすべて、インチキかトンデモでしょうね。


毎日、新聞をひらくとドサーッって大量の広告が挟まれてるでしょ、そのなかに、
怪しげなやせ薬とか、気や漢方薬での慢性疾患の治療、視力回復の機械、美白化粧品、
いろいろありますよね。ああいうのって、たいてい、細かい字で専門的な言葉もちりばめながら、
その効用について、いかにももっともらしい解説があったり、どこそこの博士がこういっている、
とか、どこそこの研究機関でこういう結果が出た、なんて書いてますよね。
もう面白くなっちゃうんですけど、あんな上質紙でカラー印刷して、あれだけ大量にばらまいて、
それで採算が取れるんだとしたら、やっぱり、危ないと思わずに、あるいは、わらをもすがる
思いで手を出す人も、多いからなんでしょう。
だいたい、ナントカ博士とか、ナニナニ研究所なんていわれると、
それだけですごくもっともらしいと思っちゃうじゃないですか(^o^)



インチキもダイエットや化粧品なら、だまされた本人が困るだけだからいいけど、
食品や医薬品に関わるインチキは、本人だけじゃなく家族、とくに子供やお年寄りに
被害が拡大する危険性が高いので用心しないといけません。


そうですね。あのぅ、つまらない質問ですが、基礎化粧品って効くと思います?
私、基礎化粧品って使わないんですよ。
ふつうのせっけんで洗顔したら、アトピーの赤ちゃん用に売られてるツバキ油入り乳液を
薄くつけて終わり。以前は、先顔料に化粧水、クリーム、目元専用の美容液やら、パック、
いろいろそろえてた時期もあったんですけど、使っていても確かな効能なんて
感じられないなぁと思って全部やめたんです。
肌質って、けっきょく遺伝とか食べ物とか生活環境によるんじゃないかと。
いろいろ出てますよね、「細胞のナントカに働きかけてお肌のこれこれを改善します」みたいな
化粧品が。私、皮膚からビタミンとかコラーゲンとか吸収されるものなのかなぁって
思うんですけど、どうなんでしょうね?
ほんとに効き目があるんなら、ちょっとでもキレイになるために努力したいのが女心だと
思うんですけど、どうも基礎化粧品ってトンデモみたいな気がして。



皮下組織までの吸収はまずされないでしょうね〜(^^)。
基礎化粧品は皮膚表面に皮膜をつくるもの、程度に考えておくのが妥当かと思います。
理論的には、化粧成分の分子の大きさを極端に小さくすれば、細胞の隙間から
浸透させることも可能なんでしょうけど、そういうのって皮膚生理に反してるわけだから、
逆に恐い気もしますね。
というわけで、化粧品に凝らないまりねこさんは正しいです。
私も化粧水くらいしか使ってません。
(と、結婚してから身なりにかまわなくなったのを正当化する私・・・)
たくさん食べてたくさん寝て、適当に遊んでストレスをためないのが美容には一番じゃないかしら。
(と、大食いでナマケ者なのを正当化する私・・・)


やっぱりね〜(^^) 塗りつけるだけで皺やらシミがなくなるんだったら、何の苦労もないって。
でも、高いでしょ、化粧品って。ピンからキリまであるけれど、2,30mlの美容液が、
一万円とか二万円とかすることも。ああいう化粧品業界こそ、あこぎなトンデモとして
追及されてもいいと私なんか思ったりもするんですが、それで女心の満足というか、
プラシボ効果みたいなのがあったら、それはそれでいいかもしれないという見方もできるし・・・



化粧品の値段って、成分とか製造コストを考えたら、製品によってばらつきがあっても
いいはずなんだけど、不思議なくらい、だいたい三千円前後で統一されてますよね。
これって、「このくらいならだまされてもいい」と思う限界の金額だと思うんですよ。
三千円っていうと、CDアルバム一枚分、厚めの単行本一冊分の値段でもある。
どちらもやっぱり、失敗してもまあいいか、と思って買っちゃうことありますよね。
五千円を超えると、ちょっと冒険だなーと感じる。
化粧品を「ぜったい効く!」と信じて買ってる人って少ないと思うんです。
だまされてもともと、もし効果があれば大ラッキーってノリじゃないかしら。
だから、大金持ちでもないのに何万円もする化粧品をばんばん買う人って、騙されやすい、
というより騙されることに対する許容範囲が広いんだろうなと思います。
怪しげな健康器具やおまじないグッズを大金はたいて買う人も同じ。
とすると、化粧品にだって騙されないぞっという、まりねこさんや私などは、許容範囲が
めちゃめちゃ狭いということになりますね(^^)。
こういうタイプほど、いざ騙されたときは数十・数百万単位でやられちゃったりして(笑)。


いや〜、私、じつはハズカシながら化粧品で騙された経験あるんですよ。
痛い目にあったから、わかったってことで。
22,3の頃ですが、ある店員さんのセールストークにひっかかって、
買ってみた化粧水とかクリームつけたら、吹き出ものがポチポチできちゃって。
それで、お店に「こんなふうになった」って言いに行ったら、
「それは一時的な現象で、皮膚の奥にたまってた毒素が出ていってるだけ。
使い続けてたらキレイに治る」とか、信じられないこといわれました。
なんかおかしいなぁと思って皮膚科のお医者様に見てもらったら、それはかぶれてるんだから、
そんな化粧品やめなさいって。もちろん、その化粧品やめたら吹き出ものは治りました。
くやしかったけど、自分ってバカだなあってつくづく思いましたよ(~_~;)
でも、あの店員さん、自分でもインチキメーカーの能書き信じてるのかしら?
信じてなかったら、とてもあそこまで言えないと思う。



でも、「ナニナニ研究所」っていかにも怪しげな名称ですよね。いったいナニを研究して
るんだって感じで。私、将来自分でインチキ会社を興すようなことがあったら、
社名はぜったい「○○研究所」か「○○エンジニアリング」って名前にしようと決めてるの(笑)。


科学的なお飾りや味付けには、みんな弱いと思いますよ。
そういうのって、どう思われます?



そうですねえ。最近お飾りとして人気が高いのは、むしろ「アンチ科学」や「エコロジー」じゃ
ないですか。自然にやさしいとか、ケミカルフリーとかのキャッチフレーズに弱い人多いでしょう。
そのわりには食中毒の報告が出たとたんに劇薬に近い消毒液で食器や食物を洗って
平然としてたりして、なんかめちゃくちゃ。


そういえば、そっちのほうも、極端に走ってるかもしれませんね。
私は個人的に「自然にやさしい」って言葉は、なんかへんだと思うんですけど。
化学物質がどう増えようと、何が汚染されようと、自然っていろいろかたちを変えながら
そこにあるものなんで、本質をはっきり表すなら、「人間にやさしい」とか、「自分にやさしい」が
正解じゃないかなと思いますね。



同感、同感! 自然や環境を「保護する」って言いかたも傲慢ですよね。
これって、一日に100回子供を殴る親が、50回に減らして「子供を保護してます」って
いばっているようなものでしょう。
エコロジー思想はもちろんとっても大切だけど、一歩間違うと、ある種のエゴイズムの
正当化に悪用されかねない面がありますよね。
まあエコロジーに限らず理想論ってなんでもそうですけれど。


ヒステリックにはなりたくないですね。極端に走ってしまうと、コソボ紛争みたいに、
「殺人をやめさせるための殺人」というような本末転倒も生じてしまう・・・
私もわりと熱くなりやすいタチなんで、気をつけなきゃいけないんですが(~_~;)



こういうのって実は科学万能思考の裏返しだと思うんだけど。
なんだかわからないけどとにかく科学はすごい、だから恐い、っていう得体の知れない
恐怖感が根っこにあって、しかも基本的な衛生観念が確立してないから、
巷にあふれかえっている情報から本当に必要なものだけを選び取ることができないんですね。
すごく操られやすい。このへんは教育の問題だと思います。


正しい知識を普及させるのって難しいですね。
いま、子供の学力も低下してきたと言われてるでしょ。みんな、もう疲れてきてるのかなって
思っちゃいますね。科学が急速に発展して、物事のシンプルな構造が見えなくなって、
何がどうなってるのか、ほんとのところ、わからないって気分があるんじゃないのかなぁと。
健康にいいといわれる食べ物やライフスタイルなども、あれだこれだと
めまぐるしく変わっていくし、こうだと思っていたらやっぱりそれは間違いだったとか・・・
混乱しますよね。



エコロジーみたいなスケールの大きい問題にしても、化粧品や食べ物なんかの
身近な問題にしても、日常生活の範囲で、情報操作に惑わされずに取り組んでいくには、
そうたくさんの知識は必要ないだろうと思うんです。
O-157騒動のとき、情報が足りないってパニックになりましたね。
でもあのときって、いちばん大事な情報はかなり早い時機にマスコミを通じて
ちゃんと公表されてたと私は思っています。冷静になって少しだけ考えれば、各自の
生活状況に応じた対応策はすぐに導き出せたはずなんです。
・・・って、騒動当時うっかりネット上で発言したら、流行地域の人から猛反発くらいました(^^;)。
他人事だと思っていいかげんなこと言うな、って。私も思慮が浅かったと反省してますが、
以後、その人と関係が修復できなかったのが悲しかったですね。


う〜ん・・・あれはみんなかなり過敏になりましたからね〜。
小さい子供のいる母親なんか、特に。実際に被害にあった人が身近にいたりすると、
やはり恐怖感とか怒りで、感情的になるんでしょうね。



それが悔しくて言うわけじゃないんですが(笑)、
気分に流されたらやっぱり損するよなあと思うんです。
大事なのは、まりねこさんのように、いつもちょっとだけ疑問を持って、たちどまって考えたり、
想像してみる姿勢じゃないでしょうか。
ちょっぴりの思考力と想像力さえあれば、複雑に見える物事も多くはシンプルに
解決できるはずだと思うんですよね。


まあ私もえらそうに言えませんが、なんでも鵜呑みにしないってことかもしれませんね。
でも、信じやすい人って多いんですよ。
私の友達にもいますが、「新聞が嘘書くはずないじゃない」って。
もう、権威というものを信用しきってる。


じゃあ思考力と想像力をどうやって身につけるかというと・・・やっぱり教育かなあ。
文章を読み書きするのって思考訓練に有効ですよね。
日記とか、メール交換もいいと思う。


人と話すのは有効ですね。違う見方があることがわかる。
それと、わからないことをそのままにしてはいけないって、小さいとき、
先生とか親にいわれましたよね?
自分で何らかの答えを導き出せるまで、試行錯誤しつつ粘り強く考える、
そういうことだと思うんですけど、こういうスピード重視の時代には、
子供にそういう能力を身につけさせるのはけっこう大変でしょうね。



生命工学と価値観の問題

ところで、話はかわりますが。
まりねこさんは、生命工学についてはどう思います?
生命を生み出す技術のほうですね。たとえばクローンとか。
私は、倫理的な問題はさておいて、クローンは老化現象の解明とか
役立つ面もいろいろあるんじゃないかなと思ってるんですよ。


そうですね・・・生命工学の研究によって、生殖のメカニズムだとか老化の問題が
解明されるのは、いいんですけど、たとえばもっと不気味な方向もありますよね。
人間に移植するための臓器を他の動物でつくってしまうとか。
豚などの家畜を、ものすごく肉をたくさん取るために、化け物のように変形させてしまうとか。
そういうの、想像すると、なんか生理的に不気味だなーと。
それが役に立つというなら、確かに役に立つし、植物の交配など、生き物を加工することは、
もうすでにいろいろと実際の生活にも浸透しているんですが、どうも、ある程度のところまでくると、
そこまでしてもいいのって気分になります、私は。



ある程度までは役立つ部分もあるけれど、それ以上の発展は倫理面より生理的に
気持ち悪いということですね。わかります。
体細胞クローン技術の応用次第によっては、自分自身の細胞で臓器を人工的に
つくっておいて、いつか元がだめになったらとりかえる、というのも可能かと思いますけど、
それだって気持ち悪いですよね。


なんだかね。でも、それより躊躇してしまうのは、人が自分たちの役にたつようにのみ、
他の動植物を変形、あるいは新たに創造していってもいいのかなってこと。
植物では、いろんな遺伝子組み替え作物や、自然ではできない交配などすでに
行われているんですが、それがたとえば、異常に太った牛とか、異常なスピードで
タマゴを生むニワトリ、なんてことになると、なんかよりいっそう気もち悪さがつのりますよね。
植物は静的なんだけど、動物はもっと視聴覚的に訴えるものがあるでしょ。
そのうち、とんでもない化け物が創り出されるんじゃないかって・・・



人間は将来、生命操作のココまでは良くて、コレ以上はだめだっていう
明確な線引きをできるようになると思います?
できるとしたらどのあたりで引かれるのでしょうね。


それは私がもっとも知りたいことのひとつですね(^^)
一体、研究者たちはそのへんのことをどう考えているのかって。
案外、あまり何も考えてないのかもしれない。
目の前の研究、まぁ自分の仕事ですよね、そのことばかりずっと考えていたら、
全体として、社会のなかで、その研究の成果がどう使われていくか、というのは
もう研究者自身にもわからないのかも。
だから、やれることはとことんやってしまうんじゃないかという気もします。



多くの研究者は、おそらく自分の仕事を過小評価しているのではないかしら。
無責任な気もしますけど、人間としては至極まともな感覚でしょう。
自分が世界を破滅させるかもしれない大発見や大仕事に携わっていると信じているのは、
研究の世界に限らず、ごく一部のマッドな人たちだけではないかと私は思います。


そんなものなんでしょうか。
そういえば、本でクローン羊ドリー誕生までの過程を読んだんですが、研究者たちのほうが、
世間の反響の大きさにとまどっているような様子が描かれていましたね。



宗教を持っている人は、はっきりと「神様に許されている以上の生命操作はだめ」って
言えるでしょうが、そういう絶対的価値観を持てない人にとっては難しいですよね。
宗教的価値観にもかなりアバウトというか、場当たり的な部分あると思いますけど・・・。


なんというか・・・ものごとの価値、人間存在の尊厳を、
私たちがどうとらえるか、ということなんじゃないでしょうか。
神戸の小学生殺害事件がありましたよね、あのとき、「魂はどこにあるのか」って、
犯人の少年が綴ったメモがでてきました。あれ以来、考えざるをえないんですね、ほんとに
それはどこにあるのかなって。みんな、どこに生の価値を認めているのかなって。
現代は、多様な価値観が認められるべきである、という考え方が優位になりつつあって、
人それぞれ最低限、他人に迷惑さえかけなければ、自由に生きてもいい、というような空気を
つくってると思うんですが、私はそれって、一歩間違うと底無しの罠に転げ落ちるみたいな
感じがするんです。
うまくいえませんけど・・・そういうふうにすべてが等価として許容されていくと、
ほんとうに虚無的な、生の否定に通じる態度や考えも、やっぱり価値観のひとつということで、
まかりとおっていくんですよね。
どのような生殖技術にしても、医療や研究、はたまた売買春にしても、
「それを望んでいる人がいるからいいんだ」「他人に迷惑はかけないじゃないか」といわれれば、
自分に関係ない限り、多様な価値観のなかでは、認めざるをえなくなってしまう。
人は人、自分は自分、そういうふうにみんな同等に許容していくなかで、
かえって殺伐としたものが生まれていく、すべてを等価にすることで、すべての価値が
無になってしまう、そんなふうになったら、これはなんだか罠に落ちるみたいなものだと。



うーん。難しいところにきましたね。
要するに、あらゆる価値観を包括するような絶対的な倫理観によって、
果てしのない相対化に歯止めをかけられるかってことでしょうか。
問題はその倫理観をどこからもってくるかってことですよね。
精神至上主義ではもうだめだと思うんです。どんなに崇高な理想を掲げてがんばっても、
観念をいじった人間が行き着く先はオウムか神戸のA少年だっていうのは、もう明らかですもん。
ではどうするかというと、陳腐だけど、「生活」への回帰っていうのが、
いちばん有効ではないかと私は思っています。


生活への回帰。
精神世界とか哲学でも、精神から肉体への回帰ということを言う人もでてきたようですが、
つまり、抽象的な概念から、実体を持ったものへと回帰する、ということでしょうか。



そうですね。。
ひらたく言えば、地に足をつけよう、ということでしょうか。
お腹が空いたら、空腹に耐えられるよう精神鍛練に励んだり、あるいは空腹にならない薬を
考案したりする前に、まずご飯をつくって食べようよ、ということですね(^^)。


あ〜、いいですねぇ、それ(^o^)
本質に戻ろうよ、というか、素直になろうよ、ってことですか。
私も思うんですよ、恋愛したけりゃ、ひねた恋愛論なんかこねくり回すまえに、
素直に好きだといえばいいんじゃないかって。人間、中途半端に利口になると、
その一言は死ぬまで言えないくせに、どうやってそれを言わずにすませるか、
みたいなことだけは一生懸命に考えたりする。これって、本末転倒じゃないかなぁって。



本末転倒を許してまで策を弄したがるのは、それが楽チンで安全だからなんでしょうね。
好きと言わずに相手が察してくれるまで待つとか、相手の好意を確認できたらこちらも
告白するとかって態度は、自分だけ物陰に隠れていて相手が丸腰だと確認したら襲う、
闇討ちみたいなものですよね。恋愛を進めていく責任とリスクはできる限り相手に押し付けて、
利益だけはしっかりいただこうとする。対等な恋愛関係というより、主従関係か、ビジネスに近い。


本質を求めるよりも、そのほうが楽だから。


私にも悪い癖があるんですよ。
誰かに向かってなにかを発言する前に、発言したらどうなるかを、頭の中でダーっと
シミュレーションして、自己完結しちゃって、それで満足して黙ったままでいることがよくあるんです。
ある日友達に、そういうナマケた態度は不誠実だ、って叱られて、目から鱗がバサバサーっと
落ちました。頭の中だけで物事を済ませたがる人間って、要するにナマケ者なんですね。
頭の中は誰にも覗けないから、そこに逃げているだけ。
身体を使って表現する努力や、表現に伴う責任、結果として生じるかもしれない痛みや苦しみを
回避してるんですね。


ふうん。いいお友達ですね。
私の場合、ナマケるとかいう問題じゃなくて、口にしないと気がすまない性格なもので・・・
逆に、ときどき、うっとうしがられますけど(~_~;)



現代って「生活」をしなくてもそれなりに生きていけちゃう時代だから、生活感からかけ離れた
次元で、観念だけがどんどん先へ先へと走っていきがちなところがあると思いません?
そうやって頭だけで考えてばかりいると、なんの結論も出ないうちに相対化の迷路に
はまりこんで身動き取れなくなっちゃうでしょう。
そういうときいちど生活に立ち返って、その中から物事を眺めてみれば、
なにか見えてくるものがあるんじゃないかなあと思うんです。


そうですね。その通りだと思います。
「地に足のついた生活が大事だ」なんて、私たちの親世代がいいそうなことなんだけど。
やはり親のいうことにも、一理あるもんですね(^^)



先日ドストエフスキーの『罪と罰』を読み返したんです。
観念で殺人を犯してしまった主人公に刑事が自首を勧めるときのセリフに、
観念を捨てて生活に戻れ、っていうのがあるんですよね。
初めは無意味に思えても、いつか生活がお前を本来あるべき場所に立たせ
支えてくれるだろうと。
うーん、そのとおりだなあと思って、以来気に留めていたんです。


ふうむ・・・


もちろん根本的な解決策にはなり得ないでしょうけれど、人間が生きていく上での
ひとつの指針としての役割は、ある程度、期待できるんじゃないかしら。なんて。


もうね、それこそ「生活」のなかで、考えていくしかないんじゃないでしょうか。
幸せとか、生きる指針とか、ものごとの価値なんてのは、もしかして、
誰にもわからないんじゃないかと思うんです。
それこそ、ずっと、自分自身でそれらを求め続けていくしかないって。
誰かに教えてもらえれば、気が楽になっていいんだけど、誰も教えることなんか
できないんじゃないかと思うんです。


受け身でいるのって、先の恋愛の場合もそうですけれど、怠惰というより、どこか卑怯なことだと
思いませんか。幸せや生の価値には、それを求める人の願望や欲望が少なからず反映されて
いると思いますけれど、私自身も含めた現代人の願望や欲望には、わりと受け身なものが
多いですよね。「愛されたい」「許されたい」「癒されたい」等々・・・。
誰に? って思う。
快楽だけ与えてくれて、リスクと責任は背負ってくれる存在を、どこかに仮定した願望って
虫が好すぎる。それに、みんながみんな受け身でいたら、「愛する」「許す」「癒す」立場の
存在がいなくなってしまう。願望そのものが無意味になってしまいます。
そういう願望に基づいた幸せや生の価値も空虚ですよね。
生を空虚にしないために、もっと自分の生に責任を持たなければ、というか
生きることにもう少し厳しくありたいなあと思います。



私自身は正直いって、確たることはわからないと言うしかないんですね。
だから、なんでだろう、どうしたらいいんだろう、どうあるべきなんだろう、そんなふうに、
いつも戸惑ったり、腹を立てたり、考え込んだりしています。
あるときはわかったと思い込むけれど、また時とともに、間違っているんじゃないかと考え込む。
それはでも、私だけじゃない、みんなが、まぁ大袈裟にいえば人類全体だって、
たぶんそんなふうに、たどたどしく生きているんじゃないかと思います。
馬鹿馬鹿しいとクールになれば、そんなふうに生きていることは充分に馬鹿馬鹿しいかもしれない。
でも、私はやはり、そこにこそ価値があるんだと思いたいんですよ、今は。
こうして右往左往、途方に暮れたり、また、光明を見たと思ったりしながら、みんなが生きている。
そのこと自体に、かけがえのなさがあると。そう思いたいですね。



そうですね。
生きる意味や価値って、これだっと規定できるものじゃないですよね。
可能性としてとらえるべきものではないかなと思います。
ましてや他人に押しつけられるものでは決してない。
ただね、ときどき思うんですよ。そもそも、価値や意味がなければ生きられない脆弱な生なんて
生きるに値しないんじゃないか? なんて。


生きるに値しない。
う〜ん、これはまた過激ですね(^^)



ええ(^^) 話は飛びますが、しばらく仕事でアメーバの生態を勉強したことがあるんですよ。
彼らはか弱くて、空気に触れただけで死んでしまうような、それこそ吹けば飛ぶような生き物
なんですが、ときに姿形をがらりと変えて環境の変化をやり過ごし、苦境をしたたかに生きのびる
柔軟性を持っているんです。そしてあるとき生命力を爆発させて、宿主を死まで至らしめる。
そんな華麗とも言える生活史を見ていると、あたかも彼らに意志があるかのように錯覚して
しまいたくなります。でも、彼らには生命への意志などありません。
ただ生きるべくして生きているだけなんですよね。
(ってアメーバに訊いたわけじゃないけど。でも意志があるなら、自分たちの「ごはん」である
宿主を死なせるはずがないですから。)
人間の身体だって同じです。
ある人たちは、人間は動物とは違う、精神活動の源である「魂」を神から与えられているから
高等なのだ、と言いますが、私はこういう考え方は非常に高慢だと思っています。
精神活動は生命の表面的な顕れの一面にすぎない、と思うから。
アメーバや他の動植物たちと同じように、生きられる環境さえあれば人間の身体は生き続けて
いきます、意味も価値もおかまいなしに。
この事実にもっともっと心を沿わせていくべきなんじゃないかしら。
ただ生きていることに耐えられる強さを、身につけていけたらいいなあ。


なるほど、ただ生きていることに耐えられる強さ、ね・・・
近頃、精神的に追いつめられて自殺してしまう人が増えているといいますから、そういう強さを
身につけることは、恐らく、心身ともに脆弱な現代人には、今、必要なことなのかもしれません。