No. 5= yo×まりねこ

まりねこ;
ちょっとした成り行きで、私のページには「理系の男たち」がよくでてくるんですが、
「文芸館」のはずなのに、なぜか文系・芸術系はあんまり登場しないのです。
だもんで、そっちの系統の人と対談するのは、なんか嬉しい気もします(^^)


yo;
そうですか。
でも、まりねこさんはそれをねらっているのかと思っていましたよ。


そういうのではなくて、ほんと、なりゆきです。
そもそも私は理数科目はさっぱり駄目だったほうなので
エラソーにいえた義理でもないし・・・(~_~;
でも、やっぱり大事な科目だと思うんですね。



物理学はとても良いですね。
物理学があれば、他は基本的にその応用のような気がするのです。
もちろん、物理学が完璧であれば、の話ですが...。
最近は、「これからは生物学だ!」という風潮が強いようですね。
でも、それは不本意な譲歩のような気がするのです。
僕はやっぱり物理学だと思います。
僕の考え方は偏っているのでしょうか...。


ううむ・・・
私など、ほんとは生物学のほうにどうしても関心もってしまいますね。
なんか、そっちのほうが、泥臭いというか、「文学的」でしょ?
生殖や、脳死、臓器移植などの問題は、明日にも自分の問題になるかもしれないしね。
ところで、音楽はどういうのをやってるの?
私はクラシックってぜんぜん造詣深くないですねぇ・・・(~_~;)
どっちかというとリズムよりメロディラインのきれいなものが好きだから、
マーラーとかは聴く気になれないし。
ちょっとまえにハマッてたのは、「聞いて!」にも書いてたけど、
モーツァルトのレクイエムです。
歌がついているのは好きですね。人間の声って素晴らしい楽器でしょ?
歌詞があると、曲のコンセプトがはっきりするし。



そうですね、でも、クラシック音楽におけるの歌詞というものは、しばしば、
言葉通りの意味をあらわしてはいないんです(もちろん、そういうのもあるけれども)。
僕などの、ロマン派以前の音楽を真剣に研究する気のない人間からすると、
もう頭が混乱してしまいそうな程の比喩が、きわめて複雑な方法で織り込まれているんです。「この曲のこの部分の音程関係は、これ以前の作曲家のこの作品のこの部分のメロディと
同一である。この音程関係は、西洋音楽史においては『愛』をあらわすものである。」
なんていうふうに。


はあ、そういうことを勉強しているわけね。
それって、気の遠くなるような作業ですね。
それで、まったく見当違いになる、ということはないんでしょうか?
ええと、私、雅楽をはじめて聴いたとき思ったんだけど、なんか、
ものすごく「人間ばなれ」してるなって。「宇宙的」とか、そんな感じですね。
人間的な感情移入をいっさい許さない、という感じに思えたんですよ。
聴いていたら眠たくなってきそうだけど、現代人だから、そういう非人間的な宇宙の波動、
みたいなものを感じ取れなくなっているだけで、古代の人々は、そういう価値観のなかに
生きていたのかもしれないですね。
夜中にひとりで聴いていると、思わずぞぞっとしてしまいますが、それが時代を下って
「能楽」あたりになると、私たちにも多少わかるような「粋」とか「洗練」になってくる。
人間の音楽になる。
宇宙飛行士の毛利さんと立花隆の対談を読んだら、毛利さんが、
宇宙で見る太陽というのは、もう白熱した光とエネルギーの固まりみたいなもので、
それが真っ黒い宇宙を背景に、ぎらぎらと輝くさまは暖かいとか生命力の源といったような
イメージではなく、もっと恐ろしいような破壊的な印象がある、というようなことを
いっていたけど、ほんとにそうなんでしょうね。
大気がなければ、紫外線の影響ひとつだけでも、私たちが住めない環境になってくるし。
そんな非人間的で圧倒的な力を古代の人々は鋭敏に感じとっていたんではないかと。
そもそも音楽や踊りや絵は、そういう未知の力とつながる魔術だったんじゃないかしら。



僕は、これは野暮なもの言いかも知れませんけど、どちらかと言えば
「人間離れしている」というよりも、「<現代の人間>離れしている」のだと思いますね。
人間、自らの経験と合致しない音響に対しては違和感を感じるものです。
僕たちは、生まれてからずーっと今まで、西洋音楽の中で過ごしてきているわけですから。
音響的にも、音楽理論的にも。


それってでも、考えてみれば、へんなことだと思わない?
インテリアにしても、ファッションにしても、日本人としての独自のものって、
どこにあるのかなと。
たとえば、オリンピックでフィギュアスケート見たら、中国の選手なんかは、
いかにも中国らしいコスチュームとか音楽で滑っているでしょ。
でも、日本の選手は、あまりそういうことをしないのね。



そうですね、それもよく言われていることですが、まず、歴史的に見て、日本と中国とでは、
同じアジアでもそうとう立場が違う。
欧米化が極めてはやく起こったわけですね。そのせいじゃないかなあ。
我々が見ると「ああ、中国らしいよね」と感じるけれども、中国の人は、必ずしも
それを狙っているかどうか。彼らにとっては、あれでも相当欧米チックな事をしているつもり
なのかもしれない。(もちろん、明らかに中国らしさを醸し出そうとしているのは別として)
それに、オリンピックというのは自国民の目もあるし、現状に照らしてあまりにも極端な
欧米化はできないでしょう。
でも、ちょっとずつちょっとずつ欧米化していくわけだ。
2,30年前の日本も、欧米の人たちから見ると、今の中国と同じような事を
やっていたんじゃないかなあ。今だって、結構・・・。
つまり、外から見てどのように見えるかは、その人の意志とは無関係ですから。
実際には、中国の人は欧米化をはかり、日本の人は日本的な方向に向かおうと
しているのかもしれない。
でも、双方の現状があまりにも違うものだから、第三者として見ると、
日本人よりも中国人の方が自国の文化を尊重している、と見えるのかもしれませんね。


政治的な状況とか、それにともなって教育の理念が違う、ということも
あるかもしれませんね。
国家、というのは、私たちにはあまり馴染みのない言葉で、
頭のうえに、なんとなくあるもの、ぐらいにしか思っていないけれど、
中国や北朝鮮などの人々にとって、国家という言葉はもっと切実で、
リアルなもののようですから。



でも、まりねこさんのように、「非自己」な音楽を自分なりに楽しむことができるというのは、
大変な才能だと思います。なかなかいないんですよ、そういう人...
いわば、「幸福になる才能」を持った人ですね(^ ^)。偉そうかな。


あら。ほめてもらっちゃった(^^ゞ


僕がこれから専門的に勉強していこうと思っているのは、いわゆる
「パフォーマンス」と言われている部類です。
これは極めて前衛的な芸術で、越境的です。
形態としては、まず西洋音楽の和声法には、普通依存しません(するものもある)。
静的・動的な視覚(風景や踊り)を用いることもあります。
音響は、しばしば不確定です(楽譜に完全に記されない)。
これを研究することは、芸術そのものだけでなく、
そしてそれを享受する人間や社会が行う処理・判断までも視野に入ります。
だから、音響学、心理学、社会学、などの知識が必要なわけです。
で、それらを理解するには、まず基礎学問としての物理学が非常に重要になると
考えているわけです。


ちょっと専門外の私には理解のおぼつかないところ(~_~;)
かいつまんでいうと、パフォーマンスっていろいろありますが、
たとえば大道芸みたいなものを例に取ると、具体的には何をどう研究するの?



ごめんなさい、パフォーマンスというのは、何というか、
例えば、音楽学をやっている人が「どんな分野を研究しているのか?」と訊かれたときに、
ああ、「パフォーマンスとか、そっちの系統です」という言い方をすることがあるから、
「パフォーマンス」と言っただけで、実際にはパフォーマンスのみにとどまりません。
主に前衛的な、従来の「芸術音楽」の枠に当てはまらない音楽を研究しているわけですが、決まった呼び名はないのです。
で、そういう人が研究する対象として、重要なものの一つがパフォーマンスなワケです。
ちなみに、大道芸などは研究の対象になることはあまりありません。
音楽社会学的には対象になり得るけれども、「芸術」として研究されることは
ほとんど無いです。


芸術としての音楽と、そうではない音楽があるわけね。
これ、文学でも絵画でも、なんでもそうだけど、芸術と芸術でないものの境界って、
どこにあるんだと思う?
つまり、芸術であるべき条件とは。



「芸術とは何か?」という問題を考えるとき、
だいたいの人は、次の3つのうちのどれかの視点で考えると思います。
・1つ目は、社会的な視点。つまり、社会は何によって、それが芸術であると認定するか。
この場合は、何と言っても「シリアスさ」が重要となるでしょうね。
つまり、「シリアスに受け取ってもらえるかどうか。」
必ずしも、その作品の外見や作者の態度がシリアスである必要はないわけですが。
・2つ目は、個人的な視点。
つまり、作品とそれを見る者との間に起こる出来事に注目する視点。
この場合は、1つ目の視点よりもさらにシュールな問題になります。
他人がどう考えていようと、自分にとってそれが芸術であるかどうか、という問題ですね。
・3つ目は、絶対的な視点。
つまり、「まさに<それ>が芸術であるかどうか」。
これに至っては、質問そのものが成り立たないことは明白です。
すると、考えるべきは1つ目の視点と2つ目の視点ということになるわけですが、
実は、この2つの間には、大した違いがありません。
つまり、単純に言えば、2つ目の局面における、芸術の「享受者」が複数になったものが、
1つ目の局面なわけです。
例えば、これは有名な話ですが、
マルセル・デュシャンは、既製品の男子用小便器を、「泉」という名前で、
展覧会に出品しようとしました。彼のこの作品は、当時、展覧会からも民衆からも
激しく拒否されましたが、現在ではこのような手法は「レディ・メイド」と呼ばれ、
広く受け入れられています。
つまり結論としては、正直に言えば、次のようになります。
答1「すべて芸術であるか、すべて芸術でない」
しかしこれでは、「芸術とは何か」という質問が無意味化してしまいますから、
次のように言うのが適当だと思います。
答2「それが芸術であると認められたとき」
1の事は真実です。2は質問に答え切れていない。
「芸術とは何か」という質問を出した途端に、全て行き詰まってしまうんです。
なぜなら、「芸術」という概念があまりにも広範に渡っているからです。
だから、限定無しの「芸術とは何か」という質問は、失礼な言い方かもしれませんけど、
極端に言えば、「M¥VF@W:とは何か」という質問をしているのと同じこと。
そんなものはどこにも存在しない。
または、「M¥VF@W:」とは何かわからない。


ふむふむ。
では、話を戻しますが、芸術そのものだけでなく、それを取り巻いている観衆の心理とか、
その芸の社会的背景となっているものとかも研究するわけですね?
それを物理的なアプローチでということになると、たとえば、
人間の脳は、これこれこういう音のつながりには快を感じる
ようにできているのだ、とかいうふうに?



その通りです。
ただし、「人間の脳は...」という話になって来ると、もうそっちの方の専門家の方々の
世界になってしまうので、音楽学の人間は首を突っ込みたがりませんね。
僕は、大いに興味がありますけど...。
でも、どうなんでしょう。さっきもいいましたが、
「この音程関係は、西洋音楽史においては『愛』をあらわすものである。」
なんていうことを勉強して、僕たちは何を思えばいいんでしょう。
とても疑問です。
それよりも、僕は、人生にもっと直接役立つような勉強を音楽においてしたいと思う。
研究のための研究ほど、空しいものはないじゃないですか。
もちろん、そういう細かいことを研究していって、その積み重ねで、先生方は、
人生においてとても大きく重要なものをつかまれてきたのかもしれませんが、
僕たちの人生の長さと、人生において考えるべきコトの複雑さ・膨大さを考えると、
そのような回り道をしている暇は無いように思うんだよなぁ...
それよりも、物理学といった最も基礎的で確実な、いわば「哲学的アプローチ」で
音楽の本質に迫るべきじゃないか、みんなも、音楽学者に対して
それを求めているのではないか、と思うんですよね。


なるほど。
ところで、ちょっとそれるけれど、「人生において考えるべきこと」って、なんですか?
まあ、これは私の好奇心で聞くだけなんですけどね(^^)
いまの二十歳ぐらいの人たちって、何を大事にしているのかな?
もちろん、そんなのひとりひとり違うんだろうけど、それでも、こういうインターネットや
ケイタイなど、ツールの変化にともなって、やっぱり時代的な感覚ってずれてくると思うのね。
よく、いまの若者は何もかも与えられて育ってきたから、幼稚で、人間関係も希薄で、
物事をつきつめて考える能力が低下しているような言われ方をしてしまうけれど、
「物質的には不自由なく、何もかも与えられて揃っている」というところから始める人生って
いうのも、私個人は、それはそれなりに大変だと思うんですよ。



僕は、個人的には、「今の若者は...」的な攻撃は、全く見当違いだと思います。
「幼稚」、「人間関係が希薄」、「物事をつきつめて考えられない」などという
性質は、中年以上の人々には無いかというと、そんなことはない。
中年以上の人々は、「オトナ」で、「物事をつきつめて考えることができる」という
よりも、ただ単に、思いこみが激しいだけのような気がします。


まあそうね。
中年になっても、幼稚で、まともな人間関係もつくれず、物事をつきつめて
考えられない人は、ごまんといるでしょう。
ただ、社会的な規範というのがきつい間は、その枠に沿って生きていれば、
そんなことはあまり目立たなかっただけだと思うんですよ。
だけども、いまは、枠自体が崩壊しつつあるんじゃないか。
「世間様に顔向けできない」、というような、他者からの視線でかたちづくられる価値観は
壊れつつある。



僕たちの世代は、生まれたときから電化製品に囲まれ、パソコンに触れ、
コンビニや携帯電話の便利さを知りながら育ってきました。
でも、「だから今の若者は堕落している」というのは、大変短絡的な考えです。
人間は、そんなにバカじゃない。親にお金をもらいながら不自由なく育ったからといって、
お金はその辺からわいて出てくる物だ、って思いこむ人間はいない。
むしろ、若い人々の方が、極論を考えられると思いますよ。


恵まれているからこそ、お金のありがたみもわかる、のかもね。
対人関係なんかでは、どうでしょう。
特に、恋愛観とか性的なモラルなんかは、私たちが大学生のころから比べたら、
感覚的にかなり違っているかもしれませんね?
いぜん、「みんな、いいところしか見せ合わないようにしている。
なんだか他人事みたいに、自分のこともクールにみている。
で、楽な付き合いをしたがってるけど、そういうのって、
ほんとに恋愛っていえるのかな?」といってた二十代の女性がいましたが。



これは僕のとっても個人的な意見になっちゃうかもしれませんが、
やっぱり今の若者は、「頭いい」と思いますよ。色々知ってます。
で、やっぱり昔の人というのは、情報が少ないわけで、
それなりに、色んなことを知らない。だから、「共通の価値観」だとか、
「モラル」、といった約束事を自分たちで作って、それに寄り添うことで、
人生に意味を持たせていた。
ところが、今は(そういう時代に比べれば)、情報がたくさんあって、いろいろ「解る」。
だからこそ、ある価値観が合理的かどうか見分けることができる、
したがって、合理的でない価値観には耳を貸さない、ということになるわけです。
先ほどの「他者からの視線によって形づくられる価値観」にしても、
まあ今時そんなもののスバラシさを主張する人もいないでしょうが、
正直言って、その価値観が不合理だから、だれも迎合しないだけのこと。
恋愛、対人関係、生活スタイルについても、よく「マスコミの作った価値観に
踊らされている」などといいますね。
それは、そのように見ることもできる。しかし、忘れてならないのは、
マスコミや企業というのは、人々の求めるものを提示しているだけのことだ、ということです。
マスコミが卵なんじゃない、人が卵なんじゃないでしょうか。
恋愛について言えば、みーんなが頭よくなると、必然的に「騙し合い」になる。
そしたら、もう誰かと付き合って、その人に依存しきって、キモチよくなって・・・
ということは、システム上できなくなります。
あれはあれで、極めて合理的なシステムなんです。
僕は、個人的には、そういうのはイヤです。
「人を信じる」という事はとってもキモチよくて、ましてやそれが一生持続できたなら、
「自分の人生は『アタリ』だった」と、自信を持って思えるでしょう。
できるなら、その結末を目指して、意志決定をしたい。
でも、その『アタリ』が出る確率は、今やとてつもなく低いんです。
そうしたら、クールにいくしかないでしょう。
「何があったって、オレは動じないぜ」って、自分に思いこませるしかない。
それが、現在を生きる若者にとっては、最善の選択なのだと思います。
社会全体を見ると「なんか現代はヤな感じだ」となるかもしれませんが、
個人が、自分の人生を最もよいものにするための選択をした結果なんです。


う〜ん。
私はね、インターネットなんか始めてから、よく、情報の氾濫がもつ意味とか、
それが私たちにもたらすもの、というのを考えるようになったけれども、
けっこう懐疑的な気分になることもありますね。
たしかに、情報がたくさんあれば、いろんなことがわかる。
それはいいけれど、わかった気になっているだけ、という場合も案外多いと思うのね。
情報といっても、どこに行けば何がいくらで買える、というような、
すぐに確かめられる事柄もあれば、もっとアカデミックまたは特殊な事柄で、
一般にはすぐに確かめようのない事柄、それから、「恋愛結婚より見合いのほうが
上手くいく」というような、いわゆる「知恵」や「意見」みたいなものもありますよね。
とくに、最後の「知恵」や「意見」などは、けっきょく他人が得た体験、そこからの
結論なわけで、参考にすることはできるけれど、信じることは必ずしもできないでしょ。
でも、いろんな情報の氾濫のなかで、鵜呑みにしてしまったりもする。
で、旅行だって恋愛だって、ほんとにやってみないと何がどう転ぶか、
自分がどう感じてどう思うか、わかんない要素がいっぱいあるのに、
なんかもう、それをする前に、わかったつもり、知ってるつもりになってしまう、
そういうことが往々にしてあるんじゃないかと。
そういうのは、生きるエネルギーをスポイルしてしまうんではないかと思うんですよ。
夢がなくなる、といってもいいかもしれない。
だからといって、何も知らなかった昔のほうがいいというわけではなくて、
問題になるのは、あらゆる情報のなかで、
「だから自分はどうするのか」ということなんですね。
情報の、何を信じて、何を信じないのか、だから自分はどう思い、どんな夢、どんな幸福を
目指して、どう行動するのか。
かつては「こう考えてこうすればいい」というのが社会的な合意としてあった。
でも、それが情報の氾濫で崩壊して、いろんな価値観があるということになった。
あとは、氾濫するいろんな価値観のなかで、「自分はどう思うのか」、
「自分はどう生きるのか」という自分自身の価値観を確立していかなければいけない。
正直、誰にとってもけっこう難しい課題だと思いますね。
やっぱり、自分の価値観の確立には、自分自身の経験なり試行錯誤を必要とすると、
私は思うんです。
恋愛について私自身の考えをいうと、みんながアタマよくなると、
なぜ騙しあいになるのか、どうもわからないですね。
どんな愛もいつか終わる可能性をはらんでいる、この自分の気もちさえも、いつかは
変わるかもしれない、相手にしてみても、どれだけ自分を愛しているのかは
結局わからない、確かなことなんか何もないのだ、それが現実だと思ったにせよ、
「だから自分はどうするんだ」、という意志の部分で、状況は全く変わっていくんですよね。
恋愛は化学式ではないし、AとBを接触させれば、必ずCという反応がある、
というものではない。そこに個人の意志が介在すれば、結果は千差万別です。
「何があったって動じない」という部分を、
「たとえ騙されても、自分の愛情は動じない」と思うのか、
「たとえ騙されても、愛なんてそんなものだと思っているので動じない」と思うのか、
その姿勢、その意志の違いで、恋愛の内容はまったく違ってくるのではないでしょうか。
要は、「アタリ」になるかならないかは、自分の意志である程度決まってくるもので、
確率的に、よそから転がり込んでくる結果ではないと思うんですよ。
まぁともかく、ものごとが複雑になればなるほど、かえって根本の部分が
クローズアップされる感じがしますね。だから、あなたはどうするのか、と。
多様性を増す現代のあらゆる場面で問われ続けているのは、そういうことなのかも
しれないですね。



音楽においても、現代の音楽はあのように、極端で、越境的で、多様で...
こんな音楽、100年前には「バカじゃないの」で済まされていたんです。


もう百年たつと、どうなるんでしょう?
新しい古典ができるわけですか。



古典というか、複雑で難解な音楽に対する反動は、もう出ています。
調性を復活させたり、わかりやすい旋律を組み込んだりするわけです。
もう百年先には、おそらく、「音」の領域でできることはことごとくやり尽くされ、
越境的な方面でも、手法的には出尽くしていることでしょう。
今だって、大バッハが死んでから、まだ250年しか経っていないんです。
そのころなんて、蒸気機関もできていない。
そんな時代から一歩ずつ進んで、音楽はもうこんなところまで来た。
ましてや現代。100年後なんて遙か未来です。
音楽に関する問題は、はるかに高い次元にいっていると思います。
「どのような音を作るか」ということは、徐々に大した課題ではなくなるでしょう。
人々はますます合理的になり、「音楽とは何か」、「芸術とは何か」、
などということは、だれでも明確にわかるようになると思います。
すると、最後に残される問題は、「では、どうするか」ということでしょう。
つまり、「自分はどのようにそれを扱うか、人生において音楽をどのように
位置づけるか」という意志決定の問題になることでしょう。
もちろん、自己顕示の手段としての音楽という考え方が無くなることは
考えにくいですが、そのような役割は徐々に薄れていくと思います。
今は、音楽がそのような役割を担うことによって、音楽全体のシステムが
動いていると言えます。
誰々がああしました、何処どこに何ができました、という風に。
しかし、そのシステムは残ろうとも、少なくとも人々の音楽に対する「関心事」は、
そういったことから離れていくと思います。



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