No. 4= ヘリー・マー×まりねこ

ヘリー・マー;
ところで、対談しません?
「愛」について。

まりねこ;
はあはあ。愛について、ね。
もー、そのものズバリですね〜(^^)



僕は今まで「愛って何?」ってずっと考えていたんだけど、「愛」って「何?」っていう事より、
「愛」って一体どういう「役割」を果たすの?っていう事のほうが、重要な気がして来たわけ。
わかるかなー。
「愛って何?」なんて考え出すと、全然答えなんて見つかりそうもないでしょ?


いいたいことわかるけど、私、ちょっといま、「愛について」は混乱中。
いままで、わりと確固とした「これこそが愛である」というイメージが自分のなかにあったと
思うんだけど、それが揺らいできたというか。やっぱり、こういうネットなんかでさ、
いろんな人と話したりすると、ほんとにそこらあたり、いろんな思いや考え方があるわけで、
たとえば、「『愛』なんて言葉は抽象的なまやかしなので使いたくない。
すべて、『思い入れ』などの言葉に置き換えたらいい」なんて人もいる。
まあ、何らかの思い入れなくしては愛という感情もわかないだろうけれど、そもそも愛という
言葉はそれ自体、ある感情やイメージを指すために作られたはずなんで、なんでわざわざ
置き換え作業が必要なのかわからない。ややこしくなるだけじゃない?
そうしたらこんどは、「思い入れ」とは何か?という議論になるだけでしょ。
けっきょく、私が思うにその人は、愛という言葉に過剰な反応を示しているだけなのね。
その人自身がその言葉にひっかかりを感じて使いたくないのは、言葉の表わす内容に、
よくも悪くも「平静ではいられない」からだと。その人自身が愛という言葉を定義するとき、
それこそ過大な定義の仕方をしているから、「そんなのありえないものだ」ということになる。
愛というのが、たとえば「相手のためになら死ねること」などと定義していると、これは平静で
いられなくなって、そんなの危険な言葉だよ、といいたくなるでしょ、誰だって。
最近思うのは、「愛」という言葉に対して、いろんな人がいろんなイメージをもっていて、
そのうえでお互いに、愛しているとかいないとか、はたまた、それは「真実の愛」であるとか
ないとか言い合っているので、やっぱりそもそもの立脚点である、「愛って何?」から
始めたほうがいいんじゃないか、ということ。



ふーん、つまり自分も「愛」について混乱してるし、皆も「過敏な反応」やらいろんな
「イメージ」があって混乱しているわけだから、いっちょ「愛」についての戯言を並べるだけ
並べてみるって事?
それでも良いよ。
でもそれって、一応定義付けておくとすれば、男女の愛って事だよね。
それとも、「男同士」とか「女同士」「おかま同士」の「愛」や、はたまた獣姦・・・・も当然含む
わけ?


獣・・・(-_-;)
あの〜、ここのページ、いちおう品よくやってるつもりなんですけど。



えー、僕もね、正直いって今すごく迷っている。
「愛」についてね。
「愛は、大いなる誤解のもとに生まれ、正確なる理解のもとに終わる」っていう様な
言葉があるんだけど、どう思う?誰が言ったかは忘れたけど、
「そんなものかもねー」っていうか、「その通り!!」っていう気の方がつよい。


うーん・・・そんなもんですかねぇ。
でもさ、みんなが愛に対して持っているイメージが、かなりすれ違ってることは、
確かだと思うのよね。
たとえば、メディア的な恋愛観にしばられてて、それをひととおりなぞっていく、
クリアしていくことが、恋愛だと思ってる人もいるでしょ。
とくに、若くて、いまだ恋愛体験が少なければ、そういう虚像にとらわれてしまうのも、
これだけ情報が氾濫していることを考えると、仕方ない面があるわけじゃない。
雑誌なんかでも、「運命の恋を逃さない女になる!」とかさ、あるじゃないの、よく。
ああいうのって、なまじ真面目な人ほど、鵜呑みにしちゃうような気がしません?
真面目で、恋愛体験が少ないと、「そっか、こういうのを運命の恋っていうのか。
私もそういうのしなくちゃ」なんてね。それがハタチそこそこだとまだ可愛いですむけど、
三十超えてまで、そんなこと思ってる人も、かなりいそうだと思わない?



そうそう、きっといると思う。
でなければ、「タイタニック」があれほどヒットするわけないもんね。
実は昨日、「愛について」の参考になるんじゃないか?って思って、ビデオ屋さんに
走ったんですよ(^^)


はいはい。ご苦労様です(^^)


映画としては、最低だと思うんだけど、でもなんとなく何が受けているのか、
判ったような気がする。 
あそこまで、少女漫画の世界が忠実に描かれた映画だって事を知らなかったので、
観てびっくりだった。


まあ、少女マンガっていっても、最近はバラエティでてきて、
やたら現実的なのもあるみたいだから、古典的なパターンのやつね。
ハーレクイン的っていってもいいんじゃない?



きっと、主人公の女性
(名家生まれの美人で、没落寸前な家を結婚によって救う!=かなりあほらしい設定)
が、誰にも理解されなくて苦しいところを、
男(風来坊の絵描きで、美男子=これまたたまげた設定)に救われるというところなんかが、
ぐっときちゃうわけなんでしょ?


うーん・・・見てないから何ともいえないんだけど。
確かに安直、でも、多くの人がハマリそうな設定ではある。



あんまりにも可笑しな映画だったので、いちいち文句を言いたくなるんだけど、
皆がはまるツボも判るね。
結局、「理解」でしょ?皆が求めているのは。
親でも兄弟でもない誰かに、自分の事を「理解」して欲しい、「認めて欲しい」「許して欲しい」
わけなんだろうね。
そして、なぜか知らないが、自分も相手を「理解」し、「認め」「許し」たくなるんだよね。
その上、っていうかここが一番楽しめるところなんだけど、二人の世界っていう、
今までこの世になかったものを構築できる瞬間があるわけですよね?


愛とは、「相互理解と新たな世界の構築」ですか。
うん。全くその通り。



「タイタニック」の様な、馬鹿げた映画では、あまりにもその辺りが単刀直入に描かれていて、
面白くもなんともない。
うーん、つい映画の批判をしてしまうが、そうじゃなくって・・・
「相互理解に基づく、新しい世界の構築!!」って素晴らしい!
・・・いや、真剣に。
でも、多くの人達って、本当にそんな「相互理解」ができるのかどうか信じきれていないよね。
だから、そこに到達する前に、それこそ雑誌で特集されるような薄っぺらの恋愛を経験して、
そこそこ満足してしまうわけですよね?


まあ、それが現実なんじゃないかと。みんな、たぶん諦めてるんだと思う。
ほんとはそういうのがいいんだってわかってる、でも、この「私に」
そういう恋愛ができるのだろうか、果たして?ってね。
そんな人と、そんな恋愛と、めぐりあうことができるのかって。
自分だけが「ない」と思うとつらすぎる。だから、「そんなものは、誰にもないんだ。
ドラマのなかにしかないんだ。現実の世界には、ありえない幻なんだ」というふうに、
思考回路がイソップ童話の「すっぱいブドウ」化してしまう。



じゃ、その人たちに「相互理解って本当にあるんだよ、だから、今目の前にある、
“そこそこの恋愛”なんて止めたら?」なんて言える?
僕は言えない。


うーん・・・むずかしいところ。
そういう一見、薄っぺらな恋愛関係のなかにも、どこかに、あるいは、瞬間的に、
トゥルー・ラヴがあるかもしれないし、それが、あるきっかけから、トゥルー・ラヴに
変わっていく可能性だってあるしね。
思うんだけど、完成品を求めるのは間違いだって。
ほんとの愛は、手作りのオートクチュールでしか得られないんだって。
私たちって、なんでも完成品を買ったり与えられることに慣れてる、
だから、自分で何もないところから、関係をつくりあげていくことが、なかなか
上手くできないんだと思うの。
恋愛は、お互いが「好き」と告白したときがゴールじゃなくて、そこから始まる紆余曲折が
その中身であり、そこにこそ真の醍醐味があるんじゃない。
お互いに笑ったり泣いたりのなかで少しづつ成長して、そうやって、理解を深めながら、
少しのことでは揺るがない関係を構築していくもんなのね。
でも、その「構築の過程」で、もうお手上げ状態の人が多いんだろうと。


なるほど。


ああいうタイタニック的な「見世物」は、いわば、そのあたりをぜんぜん見せてない。
ディカプリオと駆け落ちしたら、そのあと彼の絵が売れず、食うに困って二人で
どうしようと頭を抱える、というようなね、リアリティがないわけ。
そこがまさに「構築の過程」なんだけど、そのあたりは、ああいうメロドラマでは、
何にも描かれない。シンデレラとかと同じですね。
シンデレラが一目ぼれされて、お妃になったはいいけれど、たんに顔が可愛いので
目をつけられただけなんだから、そのあと宮殿で、彼女と王子の関係っていうのは、
かなりの試練にさらされることが予想できちゃうわけでしょ。
その部分こそが、ほんとうのドラマなのよね。
そこでこそトゥルー・ラヴが構築され得る、というのが私の考え。
逆に、タイタニックが愛だと思っていると、そんなものはどこにもない、ということになる。
だって、あまりないような荒唐無稽な筋だからこそ、ハリウッド映画たりえるわけでしょ。



ハリウッド映画って、ソープランドみたいだよね。
願望(欲望)を簡単に満たすことだけに特化されていて、そこで願望を満たされた後、
「はっ」っと我に返った時には、すごい空しさが・・・(~_~;)
人間の欲望なんて、つきつめるとあれほど「しょうもない」ものに
集約されてしまうものなのでしょうか?
先日とある新聞のコラムで読んだんだけど、
今の若い人達の間では、人間関係が希薄な事が尊ばれているらしいとのこと。
でもそれは「嫌われたくない」からそうなるのであって、本当はものすごく「寂しく」て、
誰かとそれを分かち合いたいと思ってはいるらしい。


ふうん。
まあ、そういう傾向にあるのかもしれない。



僕は単純に、「寂しいのであればそう言えば?」って言ってしまいそうだけれど、
当人達にとってはすごい問題みたい。
ハリネズミのなんたらって話あったよね?
心理学の話に良く出て来たっけ?
お互いに近づきたいけど、近づいたら怪我をするから、近づけないっていう話。
男女の間では、やっぱり「何もかも」は判らないと思う。
それは男同士であっても、親兄弟の関係であっても。
でも、お互いに傷つきあいながら、それでもお互いを求め合うのが「愛」だよね?


うん、そうね。


「愛」に理屈なんて無いと思う。
「愛」に保身なんて無いと思う。
でも、「愛」には、嘘も欺瞞も矛盾も幻想も全部あるとも思う。
そういう「愛」を受け入れないなんて、やっぱり病気だと思うよ。
現代病でしょうね。精神病でしょ?
傷つくのが怖いから、手が出せないなんて。
個人的に、神経質な人が居て、そういう状況になるのであれば判るけど、
社会現象的にそういったことがみられるようになった現代って、
“「愛」は死んだ”と言ってもいいかもしれませんね。
「タイタニック」が流行した事でも、“「愛」は死んだ”って言える。どう思う?


どうだろう?
本人の気持ちは、本人にしかわからないから。
私たちが「希薄でない人間関係」を望んでいるからといって、最近の十代から
二十代前半くらいの若い世代が、それを必ずしも望んでいるとはかぎらないし。
もともと「ないもの」だと認識していれば、それはそれで、寂しいとは思わないのかも
しれないでしょ。気もちを「わかちあう」ことも必要ないのかもしれない。そんなことに、
関心を持たないのかもしれない。いくら私たちが端で見ていて「寂しそう」だと思っても。
そこのところ、本人たちが何を望んでいるのかは、よくわからないですね。
ただ、平和すぎて、なんでも簡単に手に入りすぎて、何もかも、「どこかで買える」のが
あたりまえな世の中に育っていても、「愛」だけは売ってないし、どこに転がっているとも
わからないもの。
そういう意味でいえば、現代において本当にストレスになるのは人間関係なのかも。
傷つくのが恐いっていうのはさ、けっきょく自分が可愛いだけでしょ。
私はね、どうも、「愛」というとき、人は無意識に、
「自分が愛される状態」を思い浮かべるけれど、
「自分が愛するという状態」については、あまり考えないんじゃない?
つまり、愛とは、愛されることであって、愛することではないのね。
どこか他者のなかに愛があって、それが自分に与えられること、
そればかりがクローズアップされている感じがある。
でも、そうじゃないんじゃないか。
私はね、むしろ、自分が愛すること、自分のなかに愛があること、
これにまさる喜びはないんじゃないかって思うんだけど。



そうだね。
僕達はみなある程度人格をスポイルされているんじゃないか?って気がするんですよ。
だから、自分が愛することの喜びを得ようとしないのではないかなってね。
その理由や原因がどこに在るのかはわからないけど、
「人格がスポイルされている」と思う。


スポイル?


与えられることの方に慣れすぎているんじゃないかな?
でも、「愛」なんて、受身のままでは満足できるレベルのものが獲得出来るわけがない。


はあ、そういう意味ね。


だから、先の新聞にも書いてあったんだよね。
今の若い人は、本当はすごく孤独なんだって。
そして、深い人間関係の持ち方が判らないから、いったん深い関係が
出来てしまうと、見境がつかなくなり、かえって混乱してしまう状況になる。
だから、もういっそのこと、そういうのは諦めて、深い孤独を胸にしまいこみながら、
表面的には楽な「希薄な関係」を望んでいるとね。
これって、ちゃんとした人格が形成されていないために起こる問題だよね?
あるいは、今の社会状態が不安定であるが故にそういう感情を、
持たざるを得ないということもあるのかもしれないけど。


不安定なのかなぁ・・・
私は、不安定というよりは、その反対じゃないかと思ってる。
たとえば、戦国時代とかみたいに下克上的な、いわゆる乱世であれば、
生きていること自体がエキサイティングなわけよ。
でも、いまは、なんていうか、中途半端に平和、いくら不況だといっても、
人がばたばたと餓死するというわけではないでしょ。
そのくせ疲れてる、行き詰まってる感じだけは強い。
子供なんかでも、自分の将来が見えちゃってるような、そんな感じ。
それって、すごいフラストレーションたまると思わない?



それでも、突き詰めれば「人格の形成されていない中途半端な生き物」と
表現するのが妥当ではないかな?って思うのですよ。
死ぬほどあの木の上のりんごが欲しい、だけど、ほかのものならいつも誰かが
取ってくれていたし、適当なりんごぐらい、いつでもそこら中に転がっている。
だから、本当に欲しいあの木の上のりんごなんて、取る方法も知らなければ、
取る気力もない・・・そんな感じですよね?
動物園に飼われている、可哀相な気力のない動物達に等しいですね。
可哀相という表現は妥当ではないです。悲惨です。
だって、本当に精神を病んでしまう動物だっているんですから。
僕達は、本当に精神を病んでいる。
ちょっと悲観的過ぎるでしょうかねぇ?


いや、その言い方、妥当かもしれない。
現代人は、動物として幸せを嗅ぎわける本能が壊れちゃってるんだと思う。
食べるもの、着るもの、みんな満たされて、あとは心の飢えだけ、
それは、愛情の飢えなんだけど、その満たし方がわからない。
自然界の動物たちは、餌を見つけて食べて眠って大きくなって、
大人になるとパートナーをみつけて巣作りをして、子育てして、なんでもそうでしょ。
人間も、動物としての本能は、それをやっていくように出来てるんだと思うけれど、
大人になって、パートナーをみつける段階で、早々につまずいちゃう。で、あとが続かない。
ほんとに欲しいものを獲得しに行くという本能が壊れてる。
その「欲しいもの」が、パートナーではなくて、たいていいつのまにか、お金にすりかわって
しまってる。そのほうが早く手に入るし、扱いやすい。
援助交際なんか、まさにそうだと思わない?
食べるもの、着るもの、生きるに必要なだけあるのに、不足してないのに、際限なく欲張る。それは、本能が壊れてるから、なまじ、自分で考える力なんてものがあるから、
本来やるべきパートナー探し、イコール愛の獲得が、お金の獲得、モノの獲得に
すりかわってしまう。でも、動物としての正しい欲求はそうじゃないでしょ、相手探しでしょ。
恋愛とか、いわば、巣作りの練習でしょ。だから、精神的に歪んでくるんじゃない?



いやはや、恋愛が、いわば巣づくりのための練習だって?
一体どういう事かな?
確かに恋愛って、核心から少しだけずれて存在するようにも見えるけど、
「練習」なんて言葉は全く当てはまらない。
これって重要な問題提起ですぞ。
つまり、恋愛があって初めて「人間らしい本能」にのっとった相手探しが出来るのであって、
決して「練習」なんかじゃない。
恋愛があってこそ、そこからの2人の「人間らしい」歩みが始まるのだから。
「現代人は、動物として幸せを嗅ぎわける本能が壊れちゃってるんだと思う。」
というのもちょと賛成できないけどねぇ?
だって、動物のパートナー選びが「幸せ」かどうか?っていうのが疑問に思うと同時に、
そもそも「愛」と「幸せ」が一体となるべきかどうか?っていうことにも大きな問題が
あるのだから。
僕達は人間であるが故にこうして「愛」について悩んでいるわけだし、
「動物としての幸せ」なんかとは、ピテカントロプス以降、二度と後戻りできない道を
歩んできている訳でしょう?


むむ。鋭いご指摘(?)
というか、ちょっと不用意だったかしら?
なんとなく無意識に、「愛→結婚」というコースを
思い浮かべちゃったのよね。歳のせい?(~_~;)
そう。
結婚に関わらない、そういう「かたちにはならない愛」というのも確かにあって、
それこそがもっとも人間らしいといえば、そうともいえますね。
でも、それで、というか、そういう形而上的な愛(?)が、
人間を幸せにするかというと、これまたべつの話。



そうそう「幸せ」っていう言葉が出てきたんで、「幸せってなに?」ってここで改めて
書いてみてちょっと吹き出しそうになった。その気持ちわかるでしょ?
でも「愛」のある瞬間に「幸せ」と感じる瞬間があるのは
誰も否定できないでしょう。
たとえそれが、他人からみてどんに酷い状況にあろうともね。


愛さえあれば。ということですね。
イメージするのは、「神田川」の世界。七十年代フォークですよ(^o^)
三畳一間の小さな下宿、でも、ふたりで暮らせばあったかい。
ああいうのって、やっぱり笑っちゃうんだけど、バブルの狂乱を通り越して、
不況のつづくこの世相となると、ミョーに懐かしい気もする。
今時の高校生なんかには、わからないんじゃないかとも思うけど。
援助交際とか、まあ、いわゆる売春ですね、それとか不倫、
そういう現象に慣れっこになってしまったいま、昔の、いわゆる
「手鍋さげても」という愛情のかたちって、まだ「通じる」のかなと思いますね。


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