No.11 = 柏木大安×まりねこ

柏木;
はじめまして。私はこのたびホームページ「論考空間」を立ち上げました
柏木大安(かしわぎ ひろやす)と申します。
「まりねこ文芸館」の「聞いて!(6)理系の男たち」
「あなたの知らない世界」などを読ませていただきました。
私はプロの研究者ではありませんが、だんな様と同じように
驚くほど汚い研究室に3年間何の疑問も持たずに生活していた理系人であり、
試験前に教科書の数式を見ながら何で物理を勉強しなければならないのかと
疑問を持ちつつやむを得ず勉強をする生徒たちを前にする教師であり、
何より、そうした現状のおかしさが一体どこから来るものなのか、
以前より疑問を持ってきた探求者、表現者(アマチュアですが)であります。
また、理科の教師として、生徒から「こんな事をやってなんの役に立つんだ」と
いわれたことがあります。
実は理科の教師はその疑問に答えられないことが多いのです。
理科の授業が生徒の役に立つように作られていないからだ、と私は考えています。
まりねこさんも理科、物理の授業を受けているのではないかと思いますが、
そのような実感を持っておられることはホームページでよくわかりました。
他にもそうした声がホームページに載っていないかと探していたのですが、
収穫といえるものは、まりねこさんのホームページだけでした。
私は全く理系でない人とそうした問題について話しをしたことはなかったように思います。
もし、私の問題意識が正しいのであれば、まりねこさんの素朴でかつ本質をついた
問題意識、熱い文章に応えられなければならないはずだ、それを試してみたいと
考えていました。(ということは対談は一つの「実験」ということです)


まりねこ;
このたびは、たいへん丁寧なメール、どうもありがとうございます。
私の書いた拙い文章を、そんなふうに捉えていただければ、
迷いながらも公開した甲斐があったというもの。
私も、何の因果か「理系の男たち」と知り合い、あげく、理系研究者を配偶者と
しましたからには、文系と理系の架け橋(?)をつとめるのが、
もう私に課せられた使命ではないかと密かに思っております(^^)


もしよろしければ、「まりねこ対談」において、対談者の一人に加えてはいただけないでしょうか。
そして、できればその成果を「まりねこ文芸館」だけでなく、我がホームページ「論考空間」にも
反映させていただきたいのです。


対談、いいですね。面白そうですね。
私も(常勤・非常勤)講師という身分で英語を教えていたことがありますから、
教師というと親近感わきますね。
なんとなく教育現場の雰囲気はわかっているつもりですし、そしてまた、
生徒から「こんな事(英語の勉強)をやってなんの役に立つんだ」と
言われたこともありました。まあ、私の場合、本当に未熟な「せんせー」でしたし、
今思い返すと生徒達に申し訳ないような気もするのですが(~_~;)
鋭い質問があるってのは、いいことじゃないんですか。それだけ学習意欲があるということだし。
「こんな勉強して何の役に立つのか」はね、教師なら誰でも言われることだと思いますけど。


私が言われた、「こんな事して何になるんだ」といわれた経験は、私が授業中に
「こんな事教えて生徒に役に立つのか?」と疑問を感じながら話をしていたときに言われたので、
特に問題意識が膨らんだ経緯があります。そうした疑問を持っているときに「学力低下論」が
話題になったのですね。こんな事を教えていたら、「理科離れ」や「学力低下論」になっても
仕方ないだろうと思っています。それをホームページで主張したつもりなのですが、
うまく伝わっているかどうか・・・


ええと、「何になるんだ」と言われたとき、具体的には教師として生徒にどう返しました?
そこんとこに上手く答えることは難しいと思いますが。
私は英語でしたから、国際化が進んでいるとか身近な言葉が英語で表されているとか、
今後、どんな機会があって海外へ行くことになるかわからない、とか、そういうふうなことを
いろいろ言いましたけどね。理系だと、また別の答え方があると思うんですよ。


英語の授業は、どの単元を勉強しても、すべて「英語を書ける、話せる」ようにするため
ということで、目的がはっきりしています。そしてその英語は国際化する社会において必要になる
(実際には必要になる可能性が高い)というと、一応の説明にはなりますね。
看板には必ずといってもいいほど英語が使われているし、企業が英語の知識をもった人材を
有利に扱う事も常識です。
そうして市民のニーズから、英会話のNOV○とか、GEO○とか、教室もさかんです。
(学校による英語教育が読み書きに偏っていて、会話を軽視しているから、
学校教育の側でも会話を重視しようという動きがあります。その是非をめぐって議論が
されている事をまりねこさんもご存知かもしれません。)私の感じでは、英語教育の必要性に
異論を挟む人はそう多くはないでしょう。


そうですね。実用的だから誰にでもわかりやすいです。
ほんとは英語なんか勉強じゃないんですよね、厳密に言えば。
思考力を要求されないですから。ひとつのツール、その扱い方を覚えましょう、
ということにすぎないですから。パソコンのマニュアル読んでるみたいなもんです。


ところが、理系の場合は、この部分がちがうのですね。私が言われたのは、
高校化学でやる「中和滴定」という実験(詳しくはだんな様に聞いてください)で、
1mくらいあるガラス管から液体を落として、複雑な計算式が出てくるもので、
「こんな事をしてなんの役に立つんだ」といった文系生徒は、自分にとって生きていく
自分の今後の生活にこれを使う場面が来るとはとても思えなかったのでしょう。
私もそう思いました。酸性雨とかの話をしたのですが、酸性雨の事を話し出すと
相当な時間がかかってしまうし、そんな説明をして納得するとはとても思えなかったですね。


なんかね、具体的な答えが欲しいんだと思いますよ、子供たちは。
理系科目にもともと関心の向かない生徒って、わりと抽象論が苦手な感じしません?
よく男より女のほうが現実的、と言われますが、多くの女子生徒が理系科目が苦手なのも
生まれ持った脳のせいかも、とか思うんですけど(^^)


同意見ですね。生まれつき抽象的な思考が得意な生徒、苦手な生徒がいるのは
事実です。それも「個性」であるから、理数科目が嫌いであっても、私はそうした生徒が
嫌いではありません。逆に向こうからは嫌われますが。


私も物理の先生とか数学の先生、イヤでしたよ(~_~;)
それなのに、中・高の六年間のうち、四年間のクラス担任は理数系・・・
自分のなかに科目に対する苦手意識があるから、「きっとバカだと思われてる」と
勝手に思ってしまうんですよ。
教師はそんなに一人一人のことなんか気にしてる暇ないのにね(^^)


「嫌われる」と自分で書いておきながら、まりねこさんのような元文系生徒から
「私も物理の先生とか数学の先生、イヤでしたよ」とかかれると、やはり衝撃ですね。
自分の位置を思い知りました。(-_-;)


いやまあ、そう傷つかないでくださいよ(~_~;)
卒業して大人になってから、「ああ、あの先生はこうだったなぁ」とか、
また違った見方になることもありますし。
私の場合、今思い出しても嫌いな先生なんていないですよ。幸いなことに。
現役の頃は、いろいろ言ったりしてたと思いますけど。今は懐かしいですね、みんな。
教師なんて、そういう因果な商売(~_~;)


ただ、この問題はやはり深刻で、教育を受けた結果「物理が嫌い」になるだけでなく
「物理人間が嫌い」になられては、その後の人生で物理人間にとっては困るわけです。
やはり物理の人気を向上させる教育の必要性を感じます。


物理人間にとってのみならず、すべての人にとって損なことだと思いますよ。
でも、人間、成長するにつれ、感覚的に自分とは合わないと思っていたものでも、
関心を持つ機会ができたりするんですよね。
ただ、半分野生の魂で生きている年頃の子供に、論理的な考え方や
筋道だった証明などに関心を持たせるのは至難の業だと思います(^^)
えっと、これは私の思いつきに過ぎないんですが、具体的な現実の生活に結びつけると
何の実体もないように見える実験や数字にも、意味があるように見えるんですよ。


同じことを教えるのでも、工夫の仕方というものがあるはずだと思いますね。
そして、本来数学や物理が得意でない生徒がいるのだから、
「具体的な現実の生活に結びつける」ことで、そうした生徒に対応する事が
本来は求められるはずです。
また、この、「具体的な現実の生活に結びつける」ことの重要性は、戦後の教育論争で議論が
されているのです。そうしたことを今はみんな忘れてしまっていますが。
理系、特に理科の場合は、扱っているものが多彩すぎて、結局、
「こんな勉強して何の役に立つのか」、ひとことで説明するなんてとてもできないんです。
さらに、高校理科ともなると、大半が専門家になってからやっと役に立つものばかりなので、
文系の生徒に有用性を説明しようとしてもできないものが多いのです。


わかります。難しいと思います。
でも、初歩的な物理や生物なら、まだ扱っている「モノ(実体)」がありますが、
数学なんか、高等になればなるほど、「何のため?」という疑問が膨らんで・・・
結局、私が高校のとき、「何でこんなこと勉強するの?」と訊いて、
数学の先生から言われたのは、「思考力を鍛えるため」というものでした。
実体をもたない数字を頭のなかでこねくり回すことで
物事を論理的に考える力が鍛えられるのだ、と。
そのときは「ふーん」でしたが、今は「そうかもな」と思います。
こんな答え、どうですか?


学力低下論で出てくる数学者は数学の意義をそのように説明するんですよね。
しかし、そんなことの学術的な証明はないはずです(当然、関係ないという証明もない)。
教師が、その場で自分の「仮説」を言っているのなら分かりますが、公式の言説で、
大学の教授とかが言う事が許されるのかは別の問題。
論理や学問を基礎とする人たちが、そうしたところの客観性、学問性に疎いんですよ。


客観性とか学問性というのもあるでしょうけど、もっと基本的なことで、
大学の先生たちって、やっぱり末端の現場をわかってないんじゃないかと思うことありますね。
シンポジウムとかで何か言ってる偉い先生ほど、生徒に、「静かにしろ」とか「立ち歩くな」とか、
大声を張り上げて注意したことなんかないんです。
汗かいて教えたことなんかない。生徒と生身で向き合ったことなんかない。
だから、どこかズレたことばっか言うんですよ。


大学の先生というのは、また曲者ですね。(あ、だんな様がそうか。文系の先生のことですよ。)
教育の分野では、大学教員は何の役にも立ってこなかったのですね。
特に、現在の教科教育に関しては、授業に役立つような研究らしい研究がなくて、
相当数の大学教員がいながら、研究分野が偏っているせいで、大学自体が社会全体の問題を
カバーできていないというのは大問題でしょう。(特に国立大学は国民の税金で成り立って
いるのですから。)「大学の自治」なるものが大学人によってよく語られますが、
研究のありかたを「大学の自治」に任せる事は妥当だと考えていません。
こんなこと言うとだんな様は怒るんですかね。


いえいえ。そんなことで怒りませんよ。大学の先生でも、いい加減な研究しかしてない人は
たくさんいる、と「身をもって」知っているでしょうから(~_~;)
小中高の授業に役立つ研究というのは、どこでしているんでしょうね。
教育大みたいなところですか?付属中学とか付属高校があって。
ああいうところって、みんなそこそこレベル高いじゃないですか。
はっきり言って、底辺校の苦しみなんて全然わからないんじゃない?
あのへんの子供をサンプルにとって話をされてもね。
もう少し平均的なところに目線を置いてもらいたいですね。


先ほどの数学の話ですが、ちょっとここで、「論考空間」本論part3「学力を解体する」
書いたものの一部を勝手に紹介させていただきます。
------------以下引用---------------------------
今回の「学力低下」問題が数学を中心とした議論になった事から、岡部氏に限らず数学の
意義を強調する論考はかなり多く存在する。しかし、岡部氏にしてもそうだが、
「論理性」や「洞察力」が身につくといったことでしか数学の意義を説明できない。
しかし、本当にそのような力が数学を学習することによって身につくのだろうか。
確かに数学を得意とする人は論理的な思考をする人が多いのかもしれないが、
それは数学をやって論理性が身についたのではなく、もともと論理性の高い人が
数学を得意とするだけかもしれない。
また、数学の論理性が、法論理のような他分野の論理に応用できるのか、
といえばそんな事も単純には言えないだろう。洞察力なるものも似たような事がいえる。
詳しくは知らないが、恐らく数学を学ぶことによって「論理性」や「洞察力」が身につくことの
心理学的な証明が存在するわけではないだろう。
学んだ側(特に現在数学を使っていない人)がそうした実感をほとんど持っていない
わけだから、「論理性」や「洞察力」が身についたかどうかなど評価しようがない。
(中略)
どんなに嫌いで本人が数学をほとんど忘れていたと言っていても、数学教育の経験から
論理的なものの考え方を身に付けて自分の人生に生かしている可能性は十分にあり、
そのような効果が目に見えないからといって切り捨ててしまうような極端な教育内容の改造は
行われるべきではないだろう。

------------------------以上引用。全文はHPでどうぞ-------------------------
私は、生徒で数学の存在意義を感じないからやらないという考えかたは認めませんが、
抽象的な数学を将来使っていくことのない生徒にも、「役に立つ」数学を一定の
レベルで取り入れるべきである、と考えています。


ホームページのほうは、コンテンツが多くて、まだ全部は拝見してないんですけど、
「ほんとうに子供たちの学力は低下しているか?」
ということに疑問を感じていらっしゃるようですね?
あと、「学力低下は、ゆとり教育が元凶」という論にも疑問を呈していらっしゃる?
ちょっとそのあたりをかいつまんで、基本的な考えを話してくださいませんか?


そうですね。これについては、わたしが数年来こだわってきた事で、書き出すと
きりがないのですが、何とか凝縮して・・・・。


すみませんね、無理を言うようで(^^)


「ゆとり教育」は昭和52年度学習指導要領より実施されていますから、
すでに25年の歴史があります。
すべての学力調査は過去10〜15年程度の比較しかしていないので、
「ゆとり教育」の前後で学力を比較したわけではないから、学力調査の結果から
「ゆとり教育が元凶で学力低下した」などということはできません。
私は学生時代をほとんど「ゆとり教育」で過ごしてきた世代ですが、それでも今30代前半。
もし「ゆとり教育」の影響を評価しようとすれば、「ゆとり教育」を経験していない40代以上と
我々の世代でどのような能力差があるか比較しなければならないはずなのですが、
そんな比較検討は行われていませんし、恐らく比較そのものが無理でしょう。


なるほど。


それよりも、子供の「学力低下」(実はこの事実もはっきりしていないのですが)により
影響すると思われる変化が社会では起きています。少子化です。これによって受験競争が
緩和されていることが大きいのではないかと考えています。最難関大学である東大も
昔に比べれば随分入りやすくなっているんですよ。
いままで生徒たちは受験競争があったから勉強をしてきたところがある。
ところが少子化や長年の受験批判によって、受験にせかされて勉強しなくて済むようになった。
これが私が考える「学力低下」の最大の理由です。


話の流れはわかるんですが、社会が以前より豊かになって、
そのうえで少子化しているということは、一人当たりの子供にかけられるお金も
多くなっているわけで、実際、今の子供たちのほうが、三十年まえの子供たちより、
ずっと早くから塾へ行き、家庭教師をつけ、幼稚園も公立じゃダメだから私学にお受験・・・
と、それなりに受験競争は激しくなっていると思うのですが?昔は子供も多かったけれど、
大学へ進学することが経済的に不可能な子供も多かったと思いますよ。
そのあたりはどうなのでしょうね。つまり、倍率ですね。


すいません。「ゆとり教育」の前後の問題と、学力調査の問題とをごっちゃにしてしまいました。
前者は、前に言ったとおり、「ゆとり教育」開始は25年も前なので、
学力の比較ができないので「わからない」。
後者については、学力調査前後10〜15年の間では、昔はバブル景気で
かつ子どもが多かったのに対し、今は不況でかつ少子化しているので、
「学力低下」している可能性がある。ということです。
「学力低下」が社会にとって問題である、教育内容や受験科目を増やして生徒を
もっと勉強させよう、というのが現在の学力低下論の流れです。
しかし、いままで学習のモチベーションを支えてきた受験の影響力は、
「少子化」が改善されない限り回復しないので、勉強するモチベーションが
下がっているところへ教育内容を増やしても、生徒が勉強するようになるのかどうか。


受験というのが仮のモチベーションであることは事実ですが、その向こうにある
本当のモチベーションについて、もっと考えなくてはいけませんね。


また、数学や理科などは特にそうだと思いますが、そもそも、今学校で勉強している事
(教科書の内容)を、面白いとか役に立つと考えている人は子どもでも大人でも
少ないわけですよね。
だから生徒から「こんな事を勉強して何になるんだ」といわれてしまって教師はそれに
うまく答えることができない。それゆえ、教育内容を生徒の興味や時代の変化
(情報化、国際化、地球環境の世界的問題化など)に対応したものに変えていくことが
必要なはずで、限られた授業時間数の中で旧来の内容を削減する事も
当然考えなければならない。


どうなんでしょう?
歴史や科学は日々、事件や発見があったり進歩して、学習する内容が膨大になっていく
宿命を負っていますね。でも、だからといって、円周率3.14を、単純に3としてしまって
本当にいいの、という気分がありますよ、私には。
そのあたり、何を重視して何を切り捨てていくのか、というのはなかなか
大変な作業だと思いませんか?価値観の問題がありますから。


そうなんですよ、大変な作業なんですよ。そう言ってやらないできたのが日本の
戦後教育なんです。そしたら、「理科離れ」が起こり、「学力低下」が起こってしまった
(可能性がある)のですね。
まりねこさんの「価値観の問題」、これも重要な指摘です。そもそも、今までの教科教育は、
価値フリー(時代にも社会の要請にも関係しない)なものとして考えられてきたところがあります。
しかし、特に、私やまりねこさんの旦那様が専門にしている物理は、
そうした価値フリーの状態では存在があやうくなってしまいました。


価値フリーの学問・・・そういうのを「教養」と呼ぶんじゃないですかね。


価値フリーな学問体系として教えておけば、それは時代が変わっても教える内容を
変える必要はないです。しかし、物理はそれだけでは使いようがないのですね。
これを使うのは、学んだ生徒の10%未満でしょう。
昔は、物理を全員必修にしていたんですが、最近では、全く物理的な内容を勉強しないでも
高校を卒業できるようになりました。これについて、国民は文句を言わない。
それは90%以上の人にとって、物理はつまらないし、使えないしやりたくないからです。
つまり、物理がその学問体系=物理学者の世界観を守っていたら、
国民がその物理を無視するようになってしまったのです。


教えることが増え、受験競争も激化すると、
もう「教養」だなんてオツに澄ましてもいられなくなった。


これによる物理履修率の低下は深刻で、物理の教師が減り、
物理専攻の学生の就職先が減りました。
この事を物理関係者は怒っていますが、国民が問題意識を感じない。
次は数学が似たような事になる可能性があります。


まあ、問題ですね・・・
個人的に数学は嫌いだけど、理学やるうえで避けて通れない基礎ってとこありますから。


こういった「理科離れ」により派生した問題点を指摘したのはほかならぬまりねこさんなのです。
まりねこさんの「聞いて!(6)」にあった、私の心を打った部分を惜しまずに全部コピペしますね。
(こんな事やったら、HP掲載のときに困るかもしれませんが)
-----------------以下引用--------------------------------
今日、中国のかなり奥地でも、畑では農薬を使っています。
パソコンがあまり売れなくなったといっても、世界のパソコンユーザーは、
ますます増加しこそすれ、減ることはない。
携帯電話も売れ続け、いったんその便利さに味をしめると、ずっと使い続けることになる。
こういったものは、すべて、科学技術の産物です。
私たちの日常生活は、おびただしい科学技術の成果によって、支えられているのです。
でも、私たちは、それらをもはや、テコや滑車の原理みたいに、ほんとうに理解してはいない。
農薬は、なくなれば買う。パソコンも、ケイタイも、壊れれば新たに買う。
だけれども、それがどのように作られ、どのように機能しているか、ほとんどの人は知らない。
知っているのは、または知る能力がとりあえずあるのは、一部の科学者、技術者だけです。
--------- 使えればいいじゃないか
そうです、使えれば、とりあえずは便利。でも、私はなんだか不安です。
今話題になっている環境ホルモン、だいぶ前に話題になった電磁波障害、原子炉・・・
私たちには、ほんとうのことがわからない。
自分たちで、判断できるレベルにない問題は、それを専門に研究し、何らかの示唆をしてくれる
科学者たちの結論待ちです。でも、そういうふうに考えたら、生活のほとんどすべての面を
依存していることになる、その科学者って、いったい何者なの?
あの人たち、いったい何考えてんの?
医者や政治家も専門家、でも彼らはまだ私たちと接する機会をもってる。
だから、ときどきおかしなことをして、やり玉にあげられても、リアリティがある。
まだ、医の倫理や、政治哲学は、私たちにもなんとかリアルなものでありうる。
でも、わからない、生活の基礎を支えている科学技術のことは。
---------この化学物質は、このレベルまでは人体に害をあたえません
それ、どうやったらわかる?
---------このパソコンでは、そういうデータは扱えません
それ、どうして?
わからないけど、信じるしかない。だって、これからそんな専門知識をひとりひとりが
身につけることなんか、現実に不可能でしょ。
不可能だから、科学者、技術者という専門職が成り立っているわけで。
でも、科学者って、いったいほんとは何考えてるの?
どんな理想、どんな将来のビジョンがあって、研究を続けているの?
その結果が、どんなふうに私たちの未来、私たちの生活や幸福にかかわってくるの?
科学者の幸福観、人間観、世界観って、わたしたちのそれと同じなの?
そんな話、中学や高校のときでも、理科や物理の先生から聞いたことなんかない。
喋ったことなんかないから、わからない。それは科学的だとかそうじゃないとかいうけれど、
科学的って、そもそもどんなこと?
何がどう証明されたらそれが科学的なのよ?
死人に魂があってもいいじゃない。
よその星から宇宙人が訪問したって、あんなに星がいっぱいあるから、当たり前じゃないの?
それが写真にとられることだって、ありうるんじゃないの?
大槻教授はそんなの嘘っぱちだっていうけど、そもそも、どうして嘘っぱちだって言い切れる?
科学だって、悪いところもある、そもそもなんで危険な武器なんか開発できるの?
する気になれるの?

ねぇ、科学君、あんたいったい何考えてんのよ?
何もったいぶってんの?
あんたのことなんか、信用できないって言ってる人、いっぱいいるんだからね。
あんたなんか、モノばっかいじってるから、人間性に欠けてるんだって。
そんで、ちょっと常識ずれてて頭がおかしいって噂もあるよ。ほんとなの?
これからの社会はね、便利さより心とか思いやりとかが大事なのよ。
ねぇ、・・・聞いてる?

(中略)
いま、何も疑うことなく、怪しげな宗教やカウンセリングに走る人々がごまんといます。
時代の閉塞感、未来への希望のなさが、話題に上ることも多い。
そして、安直に、キレてしまう子供たち。大人たち。
哲学者が、宗教学者が、社会評論家が、はたまたテレビのコメンテーターが、
何か信じられない事件が起こるたびに額を寄せ合って議論していますが、
私たちの科学君、私たちがこんなにも期待し、依存している科学君は、
いったいどうしているのでしょう?
私にはわからない。そんなことは研究者たちのテリトリーでないのかどうか。
でも、何か言って欲しいと思う。
あなたがたは、いわば、私たちの生活を支える専門知識でもって社会を正しくリードできる、
また、自らがそうあることを視野に入れるべき人間ではないのですか。
あなたがたには、それができる。
また、そうしてほしいと、願っている人がたくさんいます。
一般の人たちを対象に何か言って欲しい。たとえば、うちの母にもわかるように何か言って欲しい。
子供たちに、夢や生きる力を持たせてやって欲しい、なぜだろうと考え、ものごとの真実を
粘り強く探求することの大切さを、面倒がらずにやさしく手ほどきしてやって欲しい。
少なくとも、これからの理数系教育には、もっと関わって欲しいと思います。
これから私たちは、どこへ行くことになるんですか?
あなたがたは、どこへ行こうとしているんですか?
どんな理想、どんなビジョンをもって、どんな研究をしているんですか?
あなたがたのしていることは、私たちの幸福と未来に、どう関わってくるんですか?
部屋が多少散らかっていても、そんなことは本来、どうだっていいんです。
でも、どこかかけ離れたところにいるんじゃないか、私はごく直観的に、そんなふうに思ったんです。
(中略)
こうなったら、最後に私はここで声を大にして訴えてみます。

研究者よ、たまには書を捨てよ、街に出て語ろう!!

---------------------以上引用---------------------------------------
まりねこさんほどではないにせよ、同じような疑問を感じている人は多いはずで、
ではそれに答えるところはドコ?という事になれば、それは一部学校教育になるでしょう。
(あとは、報道、科学雑誌などか)しかし、学校教育については、
科学者と一般の人との溝は相当深いといわざるを得ません。


深い・・・ですねぇ。確かに。
まあ、一般人のレベルとか括りをどのように定義するかにもよりますが・・・

 
ついでに、「研究者」についてもコメントしておくと、まりねこさんの
「(研究者が)どこかかけ離れたところにいるんじゃないか」という見解はまさに
そのとおりなのですね。しかし、個々の研究者が「たまには書を捨てて街に出て」、
それを聞いたとしても意味はないでしょう。なぜなら、彼らも(私も)科学の一部を担っているだけで、
膨大な科学世界の全体像が見えているわけではないからです。
(そんな事はすでにだんな様でわかっているでしょうが)


そうなのですね。うん、私もだんだんそれがわかってきたような次第です。


こうした問いに答えようとする学問の一分野に「科学論」というのがあります。
私はこの科学論に関心を持っていて、教師として授業に活かそうと考えているのですが、
現在最も一般的とされる見解に私は疑いを持っていて、自分なりに見解を探している最中です。
科学教育について、私は次のような問題提起をしたいと思います。
@国民の自然科学教育の有用性は、「社会や生活との関連」によって見出されるのではないか。
特に、昨今の自然環境問題はここ10〜20年で国連の話題に上る国際政治問題になったし、
医療についても、医療ミスなどにより、人体や医療技術に対する関心が高まっている。
Aそして、そうした事に対応するためには、個々の物理、化学、生物、地学を選択性にして
ばらばらに教えているのではダメで、一定の「総合化」と、他教科との関連付けを行う必要がある。
それに伴い、「社会や生活との関連」を重視した教育内容を取り入れるべきである。


おっしゃること賛成ですね。
「なんだかしらないけどやらなきゃいけない勉強」では困るわけです。
今の子供たちは、もう、「大人が言ってるから」という理由では納得しないですからね。
よく言えば主体性があり、悪く言えば、傲岸不遜ですから(~_~;)
それぞれの年齢的発達に合わせて、教育の中身を、「社会や生活との関連」から
見直していくべきだと思います、私も。
ただ、相当むずかしいこととは思いますが。


学力低下論議は、「少子化」という新時代にあたって、旧来「詰め込み教育」と
ずっと批判されてきた教育の枠組みを考えなおす良い機会なのです。
ところが、戦後の教育論は旧来の教育そのものを疑ってこなかったし、今の学力低下論は
「昔の教育内容に戻せ」といっているだけなのです。
そこには個別の教育内容を再検討して新しい教育を切り開こうとする態度は微塵も
感じられないではないか、その事を私は問題だと考えています。


ほんとにそうなら、それはかなり問題ですね。
現場も混乱するでしょう。先生方はだいたいどんなふうに考えていらっしゃるのでしょうか。


教育内容については、教師にも責任があります。長くなるので話しませんが、実は、
教師は戦後むしろ教育内容を固定化する方向でやってきたのです。教師は、今教えている内容の
是非を全く疑っていない(ことが多い)ので、何か減らすとか、増やすとかになると大反対します。
(日本人は何事にせよ、物事を変えるのが嫌いなのかな、とか思います。)


たんに面倒なのでは・・・(~_~;)
ノルマこなしたら終わり、というサラリーマン的な感覚の先生も多いですし。


私はそうは考えていません。当然先生によって違いますが、日本の教育者は
全体的には教育に対する意識も知識も高いと思います。しかし、教育者は一方で、
自分たちの世界に閉じこもってしまって、外の世界に目を向けることを怠ってきたところがある。
原因としては、教員のほとんどが新卒で教員になって、その後他の世界を
見ることなく定年を迎えてしまう。教師の多忙さにより、教育についてじっくりと考える機会が少ない、
といった事が原因として考えられます。
当然、教育の現状に不満を持っていて、教科書から外れてでも必要と思う内容を
教えている先生はいます。しかし、そうした先生は、
教科書の内容をきちんと教えない=受験を控えている生徒のことを考えていない先生
として批判の対象になることがあるようです。


うーん。物理ならそう問題にならない(せいぜい受験対策に関する批判程度)
かも知れませんが、歴史とかになると、いろいろ厄介事に発展する可能性大ですね。
教師による一種の「洗脳」になる可能性ありますから。いや、これは脱線ですが。


時代の変化に対応するための「教育内容」について考えるには、まりねこさんの指摘するように
「価値の問題」が発生します。そして、このことはとても難しい問題です。
しかし、考えてみると、今まで価値フリーでやってきた方が問題で、時代の変化により
教育内容を適切に変えていく努力は本来であれば、戦後を通じてずっと
やっていなければならなかったのではないでしょうか。
ちゃんとやってきていれば、「価値」について議論の蓄積もできたでしょう。
しかし、日本はそれをやってこなかったわけです。
その結果、日本の科学教育は一般の人の期待する教育像とずれたのではないかと考えています。
文部科学省も、教育内容の削減にあたって、まったくの無思想を露呈してしまいました。
まりねこさんが指摘する「3.14から3」の問題はその最たる例で、
「こんな事をして本当に子どもたちのためになるの?」と思わせたし、
そもそもこれが「教育内容の削減」になるのかさえ疑わしい。
ただ、このことについて、気をつけなければならないのが、「3.14から3」を持ち出して、
教育内容の変化をすべて否定するのはどうかということ。
そもそも、「3.14から3」にしても、実際には中学生でπ(パイ)=3.14・・・として教える事ですし、
こんな事はたいしたことはないんです。ゆとり教育を批判する人は、こうした例を持ち出して、
教育内容の変化を全否定してしまうところがあります。
しかし、確かに小学校の教育についての議論も必要ですが、中学や高校の方が
重要度ははるかに高いでしょう。その部分がほとんど議論されていないのですね。


なぜでしょうね。私はマスコミがきちんとそのあたりを伝えないのも
原因のひとつとしてあると思いますが。
センセーショナルな部分だけを、ことさらに拾ってくるから誤解を生む。
でも、国民の間にもいろんな知的階層があるので、小学生レベルのπを持ち出すのが
わかりやすくていいと判断されたのかもしれません。
これが微分・積分なんかだと、話についていけない読者が
たくさん出てくるでしょうから。(私を含めて)


前にも書いたとおり、教育内容については、時代の変化にも一般の人の関心にも
応えていないのですから、改善はやはり必要だと思うのです。
教育内容といっても、小中高、数学、英語、理科、社会、音楽、体育、技術家庭・・・・
とたくさんあるわけで、それぞれの教科によって事情も違うので、それを一括りにした議論は、
それ自体何らかの問題があると考えるべきでしょう。


うーん・・・その通りだと思います。
それぞれの教科には、それ独自の特性がありますからね。


ところで、話は変わりますが、何か心に残ったマンガ、アニメ、映画はありますか?
というより、まりねこさんと私が見ているアニメって、どれぐらい重なっているのですかね。
科学関係でネタにできそうなのは、
「宇宙戦艦ヤマト」シリーズ、「エバンゲリオン」(最後の方だけ)「千年女王」
「銀河鉄道999」「オネアミスの翼」(これはマイナーか)「もののけ姫」、「風の谷のナウシカ」などは
日テレでも随分やっているので見ているかもしれません。
あと、まりねこさんのほうで何かありましたら、出してください。


私もテレビアニメ世代ですから、たくさん見てますよ。
でも、さすがに白黒の「鉄腕アトム」とかは知らないですね。
山下達郎の「アトムの子」という曲があるんですが、ご存じでしょうか?
手塚治虫に捧げる歌なんですけど。めちゃくちゃ明るいです。
「科学がみんなの未来を幸せに変えていく」という幻想に浸っていられた
ノスタルジーがストレートに出ていて面白いですね。


私も白黒アトムは見ていません。当然歌も知らないですね。


ああ、紛らわしい書き方してすみませんでした。
山下達郎の「アトムの子」は手塚氏が亡くなったときに捧げられたもので、
当然、90年代の曲です。白黒アトムのテーマソングじゃありません。
私は、白黒アトムを見た覚えはないけれど、テーマソングはおぼろげに知ってます。


手塚治虫は、マンガに科学を持ち込んだ第一人者でしょう。あまり好きではないので、
手塚作品をすべてカバーしているわけではないのと、あくまで印象と伝聞情報ですが、
アトムに見られるように、人間は将来アトムのように意志を持つロボットを作れるんだという
科学信仰(結局は幻想でしたが)と、医療(ブラックジャック)を中心とした
倫理の問題(医療の限界、人種問題、安楽死など)を考えた科学批判の人ですね。


批判、でしたか?
初期の作品とか見てると、科学に対する憧れみたいなののほうを強く感じますけどね。
ヤマトとか、あのあたりまでは、科学を批判するというよりは、仮想敵がどこか
他にいて(悪の組織とか凶悪な異星人とか)、それと戦うのに科学技術を用いる、
みたいな感じで・・・科学技術そのものに切り込んで批判したのは宮崎駿でしょう。
「宇宙戦艦ヤマト」は、最初のテレビ放送と最初の映画を見ました。
私の父に映画館に連れていってもらい、友人と一緒に見ましたけど、
あれが私が自分の意志で見た初めての映画だったと思います。
あとのヤマトシリーズは・・・なんかもう続けて欲しくなかったですね。
「銀河鉄道999」「キャプテンハーロック」なんかは漫画のほうがよかった。
「エメラルダス」とか、あの頃の松本零士的宇宙世界はすごく好きでした。


なんと私も、「宇宙戦艦ヤマト」が最初の映画です。2作目「さらば宇宙戦艦ヤマト」で
最後に敵艦に体当たりする所は感動しました。なのに、その後続編が次々と、
どうなっているの?とみんながおもった事でしょう。
テレビアニメの「ハーロック」は、確か「ヤマト」の最終回の後、すぐに始まったのですが。
期待はずれですぐに見るのをやめました。マンガは見ていないんですけど、
面白いんですかね。松本零士は「ハーロック」を書きたいんだけれど、人気がないので
「ヤマト」をやった、というイメージがあります。


確かに、ヤマトのほうがインパクトありますからね(^^)
テレビでは「地球滅亡の日まであと●●日」と毎回必ずナレーションが入って、
私たちも、よくそれをネタにしてました(~_~;)


「999」もテレビ、映画の両方で見ました。テレビの方は最後まで見ましたけれ
ど、人間くさくてあまり好きではなかった。映画の方が、星野哲郎がかっこよくて、
テーマ音楽(ゴダイゴ)も、内容もすっきりしていて良かったです。


あと、「AKIRA」も劇場まで見に行きましたね。でも、大友作品はそれしか知りません。
あのごちゃごちゃした世紀末的描写は「ブレードランナー」に通じてると思います。


「AKIRA」はマンガでのみ見たのですが、面白くなかったですね。


「オネアミスの翼」は、夫が見たいと言って借りてきて、ここ一年以内に見ました。
ぜんぜん面白くなかったです(~_~;) 途中で寝そうになりました。
声優で失敗してるし、ストーリーも地味でモタモタしすぎてるなぁと・・・


だんな様が最近になって、「オネアミスの翼」を見るとは。確か東紀之という哲学者が
どっかの本で評論に書いていたことがあったので、それに反応したのかな?
(ということを知っているだけなのですが)


いや、ただ単にツタヤでぶらぶら見ていて気に入っただけみたいですよ。
だいたい、夫は哲学者の本なんかまったく読みませんから(~_~;)
「エヴァンゲリオン」は話題になったけれど見てません。なんとなくは知ってますが。
うーん・・・なんかあれは、「選民思想」みたいなのを喚起させるんじゃないですか?
「特別なわたし」「選ばれたわたし」みたいな。
「こんなに傷ついてるのに、誰もわかってくれない」わたし・・・
中途半端にオカルトやら心理学を取り入れてるのも、プッて感じでしたね。
いや、時代の空気には合ってたと思いますが。ちょうどオウムが騒がれていた頃で。


そんな感じでしょう。(私も最後の方しか見ていないので、コメントできない)


「ナウシカ」「もののけ姫」も、知ってはいるけど見てません。
どうしてもロリコン?・・・と思ってしまうので(~_~;)


そうか、宮崎アニメが好きな私はロリコンであったか・・・。弁解しますと、ナウシカは
中学生のときに見て、宇宙でも崩壊した都市でもない想像上の世界に魅了されましたね。
そのときの刷り込みは大きいです。
あと、今までの「科学的」アニメから、「自然的」アニメを作り出した宮崎氏は、
やはり一時代をつくっただけのことはあります。
「もののけ姫」は「環境と開発の両立の難しさ」をテーマにしたもので、内容について
文句を言えばいくらでもいえるのですが、そうしたことを商業アニメとして成立させた事だけでも
偉いとおもっています。
手塚治虫氏は、多くの批判をやりましたが、現在の環境関係の問題は予測してなかったようですね。


やはり時代が違いますからね。
光化学スモッグとか水俣病とか、そういう公害・環境破壊が騒がれ出したのは、
「白黒アトム」の後ですから。


鉄腕アトムだけではなくて、ドラえもん、マジンガーZ、キカイダー、・・・私たちが
子どもの頃のアニメは相当な割合でロボットが人格や超人間的な運動能力をもつものでした。
海外にはこうしたロボットはほとんどない(というか知らない)ですし、
日本のこうした状況は異常だと思います。
手塚治虫氏もそうした「科学信仰」を担った一人だとおもいますが、ただ、手塚氏の場合は
科学社会の危険性を感じていたような気はするのですよ。
これは、私の個人的な印象ですが、自分で未来を想定して批判するというのは空想の域を
超えないですから、それ自体も「科学信仰」に見えるのではないかと思います。
漠然とした不安といったほうが正しいか・・・


宮崎アニメについては、好きな人がみんなロリコンとは思わないですが(~_~;)、
私はどうしても、「自然=癒し・畏敬の対象」を再生あるいは守る使命を帯びた役割を
担わせるのに「純真無垢なローティーン少女」を持ってくる、その設定がちょっと・・・
まあ、絵的にきれいだし、男の子も喜ぶし、いいかもしれないんですが、
少女も人間なのであって、生臭さのかけらもない神聖な存在であるかのように
偶像化してしまうのには抵抗があります


宮崎駿氏は、科学の問題(主に戦争、環境問題)を具体的に見た上で
作品をつくっているのですね。原作マンガのナウシカでは「汚染された土」=ダイオキシン、
「毒の光」=放射能、「瘴気」=毒ガス兵器、「王蟲」=バイオテクノロジーが作り出した怪物、
というように、想像上のものも、現代の科学問題に対応させています。
ただ、宮崎氏はこうした問題意識が科学から発生したが、科学では解決できないことも
わかっているようです。ではどうすれば解決するの?という問いに、まりねこさんが
抵抗を感じる「神聖なナウシカ」や「神々の力」に頼らざるを得ないのですね。
その意味では、宮崎氏は現実から目をそらしたと批判する事も可能です。
まりねこさんの「ナウシカ」に対する違和感は、そんなところにあるのではないでしょうか。


そうかもしれませんね。
わかりやすい二項対立の図式にしてしまっている時点で、古いというか、
ツメが甘い感じがしますし(子供向きアニメなので限界はありますが)、
そのうえ、対立する一項が「神々の力」「自然界」「無垢なる母性」であり、
それに少女のカタチを与えているところで、もうニューエイジ崩れというか、
「あー、この年代の人にいるよな、こういうの」って感じなんですよ。
いや、こうして振り返ると、前世紀末から今世紀になって、時代の空気は確実に
変わったと思いますね。
世紀末には、ハリウッドでも、やたら「人類滅亡」ものが流行りましたけど、
今、そういうのを見ようっていう雰囲気はないですもんね。
むしろ、明るくいこうよという楽観ムードが出てきたように思います。
だから、最近のヒット映画は「幽霊ホラー」なんですかね。
嘘ってわかってるから、わかったうえで、何も考えずにキャーって恐がれる、
お化け屋敷の快感ですね。思考力を要求しない。小難しく哲学的な後味なんかない。
ある意味、エンタメとしては健全なのかもしれません。
内省的な時期を経たぶん、カラッと明るい「アトム」は出てきませんが。


世紀の変わり目でそういう違いがあるとは、考えてみると、なるほどそうですね。
アニメ映画として、「オネアミスの翼」は作品としては大失敗であったが、今までの宇宙ものとは
違う新しいタイプの映画の出発点になったということは、どこかで書いてありましたね。
だから、マイナーなのにいまだに話題になるんだと思います。
その後、先ほど言ったように宮崎アニメでそうしたことをやりつくしてしまったところがあって、
いまやアニメは完全にネタ切れ状態です。(エバンゲリオンは、逆に旧来の巨大ロボットものを
復活させ、心理学的、哲学的な味を添える事によって、別世界を作る事に成功した例でしょう。)
そして、その後のアニメは衰退の一途ですね・・・。(少子化してますし)


娯楽における科学の進歩に対する懐疑・否定的ムードは、長引く不況と、
文科省の打ち出した「理科教育の強化計画」で、なりをひそめた感じがしますね。
とにかく食っていけないと、人間は。食うためには、「自然へ回帰」よりも、
やっぱり、「産業へのテコ入れ」なわけですよ。


なんとなく分かるのですが、もう少し説明が欲しいです。まりねこさんが感じる
「世紀の変わり目」論があれば、もう少し聞きたいところですね。


「●●論」、というような大袈裟なものでなく、漠然とした感じですよ、あくまでも私個人の。
ニューミレニアムを迎える前後で、何か世の中のムードが変わったと思うんです。
「もののけ姫」だのがブレイクしてるときは、まだ、「自然と共存しなきゃ」みたいな
「きれいな夢を語って大真面目」が大衆に受けたと思うんです。
でも、不景気でしょ、テロでしょ、戦争でしょ、北朝鮮問題でしょ、
世紀が変わってからこっち、すっごくシビアなんですよね、現実のほうが。
「戦争なんてやめましょ。みんなが傷つくわ」と言って目をウルウル・・・こういうの、
もう流行らなくなった気がします。
そんなこと言っても、じゃあ、現実の問題をどう解決していくの、と。
それだけ余裕がなくなったと思うんですよ。美しい理想を夢見るより、これからさき、
日本はどうやって食っていくのか、どうやって国土と国民を守って繁栄させていくのか、
もっと真剣に考えようや、と。本音が噴き出す時代に突入した、みたいな感じが私はしてます。
きれい事の通じない相手が存在する、ということを、みんなが、
NYテロでも、北朝鮮問題でも、イヤと言うほど思い知らされたというか、ね。
「理想より現実に生きなければ」という方向にスイッチが入った。
必要な通り道だとは思うけれど、こういう甘さや余裕のないシビアな時代が、
子供にはどう影響するか、大人達の余裕のなさが、どんなふうに伝わるか、
考えると、これは「大変だなぁ」と。
私は、今、三十代後半のバブル世代より、バブルを知らない二十代前半以下の
若い人たちのほうが、ものの考え方がすごく即物的・現実的だと感じてます。
バブルの頃の感覚では、美容師でもカリスマ美容師とかいって、ある種の憧れがありましたが、
今、十代でその道に入っていく動機というのは主に、
「不景気だから、手に職つけて食っていかなきゃ」らしいんですよね。
まあ、しっかりしてるっちゃ、しっかりしてるのかもしれませんけど・・・


なるほど。ただ、私はメディアが危機感をあおっているのに対して、一般の人は日常に埋没して
静かになっているような気がしています。「北朝鮮問題」で、最近北朝鮮のテレビ放送を
散々流していますが、一般の人が関心があるのでなくて、メディアの側に
注目してもらえるようなネタがなくて、視聴率目当てに連日放送しているところがあるようです。
私が調べている「学力低下」の問題についても同じで、「ゆとり教育で学力低下」と騒いでいるのは
メディアの方で、一般の人はそれに少しだけ動かされるけど、実際にはそれでも
新課程の批判はそれほど強くないのが実態です。


うーん・・恐らく関心はあると思いますよ、みんな。現に、うちの母でも友人でも、
北朝鮮問題やら学力低下などについて、何か思うことはあるかと言えば、
「へえ、そんなふうに考えてるの」というくらい、喋りますよ。
メディアに踊らされなくなったというか、メディアがヘンだということは、
なんとなくみんな感じているので、煽られてもしらけている。
微妙にシビアな話題なので、井戸端会議で軽々しく論じられることもない。
新課程の問題も、先生に対して直接たずねていいものかどうか躊躇してしまう。
だけど、危機感はあるんですよ。個々の心の中でね。


昔は、受験でも、経済でも、がんばれば成果が上がるという幻想があったけど、
いまそんな感じはないです。
「手の届くところで現実的なものを」という時代になっているのではないでしょうか。
そうした意識が、受験競争の停滞=学力低下、購買意欲の低下=不況に
つながっているのではないかと考えています。
しらけた市民に、メディアや経済界は苛立っているのではないかと思います。
まりねこさんが例に出した十代の美容師についてですが、確かに「現実的に」なっているというのは
正しいと思いますが、その内実は、職業に対する憧れの低下にあるのではないか?とも思えます。
つまり、「カリスマ美容師だからどうしたの?」という気持ちがあって、職業的に誇りをもつよりも、
自分の生活を楽しめる事を重視しているのではないか、というのが私の勝手な想像なのですが、
いかがでしょう。


だから、「夢がなくなった」と思うんですよね。
昔なら、子供達に「将来、何になりたいか」と訊けば、プロ野球の選手とか、
アイドル歌手とか、まあ、そんなほのぼのと子供らしい夢が返ってきた。
いまは、違うんじゃないですかね。子供が大らかな夢を見ることも許されない。
生きていくことは、そんな甘いものじゃないんだ、という空気が、そこここに漂っている。
まあ、それは本当なんですが、どうなんでしょうね、そんな子供のうちから、
「本当の現実」なんて、知りすぎなくてもいいんじゃないかな、と。
要領が悪くても、バカみたいでも、それが本来の子供だからいいんじゃないかと。
成長するにつれ、壁にぶちあたって知っていくんだから、大人たちが下手に、
「もっと現実的になりなさい」なんて、ハッパかけなくても、と思ってしまいますよ。
教育も、現実的になってしまったら、きっとちっとも楽しくないんですね。


これについては、私個人が常々感じている事があります。
将来の職業についても、父親、母親になることについても、今の若者たちは
期待を抱いていないところがある。
それは、どうも手本となるべき大人の側のライフスタイルに
原因があるのではないかと思われるのです。
「父親」というと、わたしは会社で週に6日間働いて、残り1日を家族サービスで
遊園地に行ったりするという、70年代から80年代の日本のお父さんをいつも想像します。
今、仕事について特に感じる事ですが、六日はたらくというのは本当に大変です。
どうしても1日は休みが欲しいところです。ところが日本のお父さん
(当然すべてというわけではないですが)は、その1日を家族を連れて遊園地に行って、
自分の小遣いを使ったりするのです。大人になって遊園地行って楽しいわけがない、
これでは実質週7日はたらいているのと同じではないかとずっとおもっていました。
(これはこれで楽しいと思う人もいるかと思いますが)
職業についても、父親業についても、自分が必死でがんばって奉仕する。
こうしたお父さんは子どもにとっては「良い父親」なのかも知れないけれど、
自分がそのお父さんにはなりたくなかったですし、今もなりたくないです。
現に、現在深刻な少子化が起こっていますが、これは親になりたくない現代の若者の意識が
幾分か反映されているのではないかと思われます。
やはり、仕事であれ、父親であれ、自分が人生を楽しんでいるのでなければ、
それを見ている子どもは大人に希望をもてないのではないでしょうか。
そして、そうした批判の目は、そのまま教育について向ける事ができるでしょう。


日本の経済活性化のため、まあ、個人的には会社に入ってお金儲けするために、
理科教育を重点的にやるのか、ということですよね。
それは本当にそうなんだけど、子供たちにとっては、きっと面白くない。


現実に行われているそんな理科教育を楽しいと感じている生徒はほんの一部でしょう。
教師だって、「日本の経済活性化」のために理科教育をやっていると自負している人なんて
ほとんどいない。
自分なりに理科の面白さを見つけていても、それは「専門家」としての面白さであって、
生徒や一般の人に共有できるものとは言いがたいですね。
生徒は、自然科学の視点で世界を見て、それが有益だと感じて初めて学んだと感じる事が
できるんだと思うんです。
私が今まで調べてきた理科教育の世界は、そうした視点を常に無視してきました。
そして「理科離れ」が起きたのだと私は考えています。


教育というのは、私はやはり聖職だと思っていますよ。
どれだけ「生きる力」「幸せになる力」を育ててやれるか?
それは、テストでいい点を取らせることとは違う、むしろ、夢をもたせてやる、
厳しい現実を生きることにも何かしらのモチベーションを見つけさせてやる、
そういうこと抜きにしては、成り立たないものであると。
現職の先生としては、そのへんは、どうお考えでしょうか?


学校は自分たちの中で何とか努力をしているのだと思います。
教師が個人のレベルですばらしい教育実践を行っているものもあるでしょう。
しかし、大人社会の負の要素を今の子どもたちは本当によく目にしています。
国会議員や官僚、会社ぐるみの不正。仕事が忙しい上に、悪い事もやらなきゃならない!?
自分が携帯やパソコンで遊べるのもそうした社会のおかげ、
そのうち自分はそっちの立場になる・・・。
「大人になることはつらいこと」という絶対的な現実がある以上、学校教育がどんなにすばらしい
将来へのビジョンを見せようとしても、それは絵空事でしかありません。
だから、教育論議で散々言われているとおり、「生きる力」などという標語は全く無力なのですね。
特に、現在の学校の力では、子どもに対して文字どうり「子供だまし」すら
できないのではないでしょうか。


そうですね。社会は複雑になるばかりだし、その社会のなかで大人になることとは、
「現実の厳しさに直面しても安易に死なないで、幸福を求めて生き抜くこと」だとすれば、
これはなかなかハードなことです。
しんどそうな大人の姿を見ていれば、子供が不安になったり情緒障害になるのも無理はない話。
けれど、「大人になることはつらいこと」、それが絶対的な現実なんかではない、と思いますよ。
だって、物事が多角的に見えてくる楽しさとか、経験を重ねていくことの充実感というのも
確かにあるから。
で、ちょっと反省して思うんですけど、私たち大人は物事の嫌な面ばかりをほじくりかえして、
まだ成長過程にある子供たちを、わざわざ暗くさせていやしないか、と。
文学だってそうです。物事の暗黒面を見つめると言えば聞こえはいいのだけれど、
だからどうする、という展望が書かれてない以上、それはせいぜい、「いいかっこ」してる
だけだと思うんですよね。自分で自分の人生の価値を見つけだせる大人同士なら、
そういうインテリごっことか、詩人ごっこもいいんですけど、暗黒面=真実ではない以上、
いたずらに「まやかしの暗い影」を年端もいかない子供たちには見せつけるべきではないと思います。
「自由という放置」の環境のなかでは、子供たち自身に考えさせるべきではないかもしれないな、と。
ある程度のガイダンスは必要なんじゃないか、と。
ちょっとぐらい嘘が混じっても、それは「愛」でしょう。
「生きたくなきゃ死んでもいいよ、ひとりの命の重さなど、どうせたいしたものじゃないから」、
それは真実の一面、だけれども、「生物として生きなきゃいけない根源的な何か」がある、
これもまた真実、どうせならそっちにもっていかないと、やっぱり。そう思います。
授業のなかで、具体的にそういうガイダンスをやっていくのは難しいけれど、ホームルームとか、
普段の何気ない雑談とかで、ポロッと出てきますよね、そういう話というか姿勢はね。
こういうことって、集団で(なんとか委員会なんかで)、方針を決めてしまうことはできない、
だからこそ、子供にかかわるひとりひとりの大人が、自分にとっての幸福とか、生きることの意義、
社会に対する姿勢などを、もっと考えないといけないと思います。
以前にもどこかで書いたと思うのですが、大人が幸せになれない社会では、子供も幸せになれない。
まずは、私たち大人が、自らの幸福を真摯に見つけていく姿勢が大事なんじゃないでしょうか。
なんか、すごい当たり前のことを今更って感じですが・・・(~_~;)
さて、長くなってしまいましたが、最後に、この対談のお申し出、ほんとうにありがとうございました。
もし私が学生時代に柏木さんのような先生に出会っていたら、理系科目に対する印象も、
また違っていたかもしれませんね(^^)
これからも、変わっていく教育現場のなかで、子供たちと共に頑張ってください。


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