エッセイ 電波男本田透 著〜しろはた



なにを今更な感じもする「電波男」(「電車男」ではありません)ですが。
じつは、読んでないです。いまアリゾナにいて、日本の本を手に入れるのは難しく、
手間暇、コストがかかる、また、そこまでして手元においておきたい本でもないし、
そもそもが私にとって、立ち読みか図書館で借りてすますべき内容の本なんですよね。

にもかかわらず、ふとしたキッカケで数々のレビュー、及び、著者自身のサイト「しろはた」を見て
思うところあり・・・まあ、レビューのレビューというか、むしろ「電波男」現象ウォッチというか、
ですからここに書くのは妥当ではないような気もしますが、今回のみ例外措置ということで。

なんかもう、いろんな意見があって、それも出尽くした感がありますが、改めて、
何も知らない人が、著者によるこの本の宣伝ページ「キモイ伝」を見る、ということを想像すると
普通の三次元(生身の・現実の)女性にとっては、やっぱ、けっこう生理的に

キモイ

っていうか、よくわかんない、受け付けがたいところがあると思いますね。
だって、アニメ絵の少女に30男が堂々と「萌え〜」って・・・これまでの社会通念では
やばいですよ。ええ。相当に。犯罪者予備軍みたいな目で見られても仕方ないような・・・

例の小谷野氏の「もてない男」がブレイクして、独身男性による非モテ系のサイトが増え始め、
時を同じくして、ネットでは2ちゃんねるの存在がぱーっと知られるようになり、
みんなが見るようになった、ちょうどその頃は、すごい新鮮でしたね、モテ/非モテの話。

とくに、独身男性板の非モテ系のスレとか書き込みは、秘密の扉を開けたような、
うわー、今までこんな人たちがこんなこと考えてるなんて、知らなかった!という、
「目から鱗」効果があったと思います。
私だけじゃなくて、女性にとって男性の心理はいつも謎だらけだし。
しかも、これまでにあまり接触してこなかった類の男性・・・んーと、要は、
私にとっても「『絶対的にもてない恋愛偏差値最下層』の男性」、彼らはインビジブル、
きっと視界に入っててもスルーしちゃってた存在なんですね、キモイ伝いわく、
「自分の生きる世界にキモオタの存在すら認めようとしなかった」
ってことになるんだと思いますけど。その、まあ、「キモオタ」と呼ばれる人たち、
彼らが自己を語り始めたとき、それが案外と面白かった、興味深かったということです。

まあ、ずっと見てたら、話題もループしてくるし「ふーん。こんなもんか」と、また関心も
薄れていくんですけど、そんなときネットから飛び出して「電車男」がメジャーになりましたね。
あれも、独身男性板を知っていたら、「ありがちな話」「ネタ?」みたいな感じですが、
全然しらない人、ネットしない人には、やっぱり凄い新鮮だったと思います。
私が初めて、その手のスレを見たときのように。で、みんな感動したんでしょう。
オタクとかモテナイ人って、なんか人を寄せ付けない雰囲気があって、
とくにオタクは同類しか見てないっていうか、ある事に通じてる者同士でコミュニケートしてて、
その事を知らないと、とたんに壁ができちゃうというか、だから、非オタクの私たちは
「何考えてんの?」と想像することさえ忘れてましたが、やっぱ、考えてること同じじゃない、
人間だもの、根本的には一緒なんだねー、っていう、あれは安心感だったと思います。

でも、「電車男」がネット上のお話から一歩進んでメジャーな本になったとき、
私なんか、「あー、先越された」みたいな感じがチラッとしましたよ。
だって、キモオタ×「オタ」じゃない普通の女の子の組み合わせでラヴストーリー、
しかも外野付きというか、スレッド仕立ての会話体で文学なんて、今までなかった新しさがある。
私も「モテナイ君×普通にブランド好きな女の子」で、恋の紆余曲折を書いてみたいなぁと
妄想してたときがありましたからね、三、四年ぐらい前になりますけども。
そのときは「30すぎて恋愛ひとつしたことない(素人)童貞の非モテ男」というのは
主人公としてクローズアップするのに、すごい斬新なキャラに思えたんですよね。
もう性にふしだらなことを殊更に誇示することで何か訴えるという手法は飽き飽き、
性器にピアス女とかより、まだ高齢童貞のほうがキャラとしては新鮮じゃない、
こんなのメジャーな出版社だって、いずれほっとかないだろうなぁと思ってたら、
案の定、漫画「ルサンチマン」とか、「電車男」とか出てきて。

「電車男」は一応、リアル世界での出会い、ということになっていますが、
「ルサンチマン」はそこからさらに逸脱して、バーチャル世界(二次元)のなかで、
バーチャル(生身でない)な存在である女の子と、すったもんだが繰り広げられる。
「電車男」はモテナイ君が、努力の末、脱モテナイをして、良かった良かったというお話、
だけど、「ルサンチマン」では脱モテナイという方向ではなく、あくまで、

「現実を直視しろ、俺たちにはもう仮想現実しかないんだ」

という非モテ方向に突っ走っていく。一般には斬新っちゃ斬新なんですが、漫画というものは
あくまで笑ったり泣いたりするための娯楽。そこでの「面白さ」は、読者である自分を蚊帳の外に
置いたうえで「味わう」もの。しかし、非モテ属性でありつづけるキモオタ君たちには、
このお話がお話として笑えない(らしい)。感傷的にのめりこみ、それこそ己の「ルサンチマン」を
主人公のたくろーと同化させてしまう・・・というか、そういうのを書いたらこれまた面白いな、
という視点で企画されたのが、本田透の「電波男」だと思うんですね。商業的にはね。
ハッピーエンドの「電車男」をネタ視して、「現実はそんな甘いものではないのだ」という
「ルサンチマン」を抱え込んでいる恋愛偏差値最下層組をターゲットにしようと。
あくまで文学畑である小谷野版「もてない男」に対して、秋葉デジタル畑版をつくろうと。

そういうノリだったんじゃないかと想像するんですが、でも、ちょっとこの本田透という著者が
マジすぎて、個人的なトラウマというかルサンチマン吐き出し本みたいになっちゃったもんだから、
デジタル(二次元)組の読者のなかで、信者とアンチ信者をつくる結果になってしまいました。
まあ、いいんですよ、それはそれで。話題になれば、それだけ売れるんだから。
私のように、非モテのキモオタ君とは全然、接点がないような人間も、それがネット上であれ
紙媒体のなかであれ、話題になれば、関心をもつこともあるわけだから。
で、まあ、実際に売れてもいるらしいです。

しかし、もうこれ以上、非モテ・キモオタのネタで本は出せないでしょうね。
二次元までいっちゃうと、後がないですから。後はもうほんとに犯罪しか。
この本の二番煎じやっても誰もついてこないだろうし。それだけインパクトあると思います。
私、なんか八十年代に出てきた当時の林真理子を思い出しましたよ。
ほら、ほんとのことかもしれないけど、あえて言わなくてもいいじゃない、ってことあるでしょ?
林真理子は、「ブスはどんなに心が綺麗でもモテナイ。女は顔が可愛いに限る」
ってことを堂々と言っちゃったヒトなんですよね。それまで七十年代の漫画とか文学には、
まだ夢があったというか、そういうナマな部分を言葉にしちゃわないだけの慎みっていうか
ロマンチシズムがあったと思いますよ、だから、「顔がブスでも人に対する思いやりとか
やさしさを忘れなければ、誰かがきっと気づいてくれる」みたいな、半分はほんとで
半分は妄想じゃないかというモヤモヤしたロマンを信じていられたんですよ。
だけど、誰もが薄々、「そうじゃないかなぁ」と思ってたことをズバッと言っちゃった、
林真理子が。いや、彼女だからこそ、そういう荒業ができたんでしょうけど。
不細工といわれる自分の容姿を、徹底的にネタにした。
あれは読んでて痛かったなぁ。だけど、それだけの強力さはあったんですよね、
必ずしも好かれなくても、それまでの女性像を刷新する強力さがあった。

まだ心の柔らかな思春期に、そういう「言わずもがな」なことを刷り込まれると、
どうだろうなぁ、私はあんまりいい影響は及ぼさないと思うんですね。
私自身がその世代だけど、私個人じゃなくて世代的な話題をピックアップしてみたとき、
恋愛というものに対して、すごく複雑にシャイというか醒めてるんじゃないかと思います。
林真理子と同時期、八十年代の後半に来たのが「バブル経済」でまた、
「清貧だなんて古い。世の中、お金よ。贅沢は気持ちのいいこと。何が悪いの?」
という、カタチは豪華絢爛だけど、ココロに対してはまたしても醒めたノリになりましたから。
どうも、昔のバブル・ファンタジーをきっちり謳歌した、今の三十代後半から四十代前半は、
ほんとうに恋愛するのが下手というか、わざとつっぱって、自分の気持ちを茶化したり、
へんに清潔好きで「朝シャン世代」と呼ばれ、成長すればセックスはなんとなく不潔で面倒と、
カップルや夫婦でもセックスレス、結果として少子化。それが問題視されたりもしました。
恋愛や人の心そのものが幻想であると思いたがるフシもあるような気がしますね。
そのくせ、中学生のような純愛ドラマに弱かったりして、いや、オトメな世代っていうか。

「電波男」の本田透氏は三十代半ばでしょ、彼の純愛ロマン志向、毛穴がざらついてる
リアル女の肌より、いつまでも若くてピチピチ、無駄毛一本もない肌、風邪で寝込んでも
汗をかいても、いつも洗いたてみたいにサラサラの髪をした二次元少女に萌えって、
なんかわかるような気がしますね、世代的に。人一倍、潔癖なんですよ。
だから、キモイ自分が許せない。純愛できないリアル女が許せない。
実際には、写真で見る限り、本田氏はべつにとりたてて言うほどキモくはないし、
生身の女である以上、食べていかなきゃならないから、シビアな経済観念と恋愛感情を
天秤にかけて結婚相手を値踏みするのは、仕方の無いことでもあるのですが。
でも、その現実が、どうしても許せない。許したくない。
だからこそ、「不潔な」現実を捨てたオタクであり、二次元の住人たりえるのでしょう。

だけど今、十代や二十代前半くらいの人たちは、どうなんだろうと思いますね。
彼らはバブル以降の世代で、ゲームやネットなどバーチャルが当たり前に生きてる。
隣の席の女生徒は平気な顔してオヤジとエンコーしてるかもしれないんだし、
ミニスカートで地べたに座って、二人以上つるめば道行く人を「キモッ」とか嗤って、
そんな世の中、純愛なんてものは、それこそがバーチャルだと諦めかねない状況、
いまさら二次元最高、キモメンにはもう二次元しかないって・・・

「何、わかりきったこと言ってんの?」

と、いう感じではないのでしょうか??

なんでこうなるかな?なんで、男と女はわかりあえないかな?
なんで「愛」というとき、人は「自分が愛される状態」を真っ先に思い浮かべるかな?
自分の心のなかに愛がある状態、ほんとうには、それが「愛」ではないのかな?
それをつきつめた究極の結果が、二次元萌えであるのなら、それはちょっと哀しすぎると思う私。



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