小説「待ち暮らし」ハ・ジン著


「待ち暮らし」。
・・・ちょっと小粋なタイトルだけれど、カバー絵とともに、地味な印象。
ハ・ジン。
・・・ぜんぜん知らない作家。しかも、中国人でありながらアメリカに居住し、
英語で小説を書くという。
これだけの情報だったら、こんなに長い純文学小説なんて、私はたいてい敬して
遠ざけてしまうんですが、なぜか書架に手を伸ばしてしまったんです、それは
もう、運命的に。
「これは・・・きっと私が読むべき本に違いない」
そう。得てして、そんな予感がするものです、忘れられない物語との出会いには。
そして私の直感は、めったに私を失望させることはないのです。

アマゾン・コムで見るストーリーの概要はこんなふうです。

毎夏、軍医の孔林は妻を離婚しようとして帰省しては失敗していた。
妻、淑玉には愛情を感じたことはなく、いまや林は看護婦の呉曼娜を愛している。
そのため、離婚を申請しに人民法院へ出向くのだが、淑玉は裁判官の前に立つと
最後の最後になって考えを翻すのだった。だが軍規により、別居が18年を過ぎれば、
相手の同意がなくても離婚は成立する。
林と曼娜は、ひたすらその日を待ち暮らして耐えた。
遂に離婚が成立し、林は晴れて曼娜との新生活を始める。
だが、ようやくつかんだ幸せも束の間、二人に次々と困難が降りかかる…。
日常のふとした瞬間につまづいたことで、待ち続けた歳月の虚しさに直面した男の
焦燥を巧みに描き、アメリカ文壇に衝撃を与えた傑作。
人生の意味を問い直す男の痛恨の思いを描く全米図書賞、PEN/フォークナー賞受賞作。


まあ、これでははしょりすぎの感もするんですが、本の帯に書かれていたのも、
こんな内容です。なぜ、私がそこに運命を感じたか?
それはこの本を見つける少しまえに、とても印象的な夢を見たからなんです。
もう十年以上も昔のことですが、私はある男性と出会いました。
夢には彼が出てきます。

そこは外国の大きなデパートのなか。私はなぜか中学時代の友人と一緒にいます。
デパートの一角で、ある催しが行われていて、それはガラス細工をつくってみましょう
というコーナーなんです。私は立ち止まって、ガラスで小さな蝋燭をつくりました。
バースデーケーキにのせるような小さなかわいい蝋燭。
何本も何本もつくって、そこの床に並べました。蝋燭はベネチアンガラスのように
複雑な色と模様をしていて、ちゃんと火が点って見えるように黄色い炎もついています。
並べ終わると、私は友人と歩き出すのですが、そのとき、中央エスカレータの横で、
例の男性にばったり出会うんです。長い時を経て。
彼は私の知らない、はにかみやで気立てのよさそうな女の子を連れていました。
私たちは双方おどろいて、でも、久しぶりに会ったのだから、とお互い、連れに断って、
ふたりだけで少しの時間、デパートのなかを歩くことにしました。

私は、さっきつくったガラスの蝋燭を見せたくて、彼をそこへ連れていきました。
彼は、「これを君がつくったの?」と微笑み、なんと、次の瞬間、床に並んでいる
蝋燭の列を踏み砕こうと、片足をあげたんです。
その行為にびっくりした私は「やめて!!」と大声で叫びました。
彼は少し戸惑った様子であたりを見回して、「みんなこうやって願掛けをしているよ、
この国ではこうするのが習慣なんだよ」と言います。
そのとき私も、周囲のカップルや親子連れが、ガラス細工をつくっては、それをまた
笑いながら嬉しげに、壊して粉々にしているのに気づきました。
みんな、そうやって、無邪気に何かの願掛けをしているんです。
私は彼を見上げました。私たちはしばらく見つめあいます。
そして私が「これは壊したくない、壊さないで欲しい」と、なぜかとても辛い気持ちになって
真剣に頼むと、彼は私を見つめ、「いいよ、じゃあこのままにしておこう」
ちょっと笑みを浮かべると、穏やかな声で、そう言いました。
そのあとすぐ彼は、彼女と劇を観に行かなきゃいけないんだ、もう時間がないよ、
と告げ、待ち合わせ場所で落ち合った彼女と一緒に、再び大きなエスカレータを
ふたりで降りて行きました。
私も、その日が帰国日だったので、友人と空港まで行かなければなりません。
反対側の方角へ、私と友人は歩き出しました。
・・・そんなふうに、偶然の出会いは終わりました。

目覚めた私は、まだはっきりと残っている夢の感触を反芻しながら考えていました。
あのきらきら光るガラスの蝋燭は、何の象徴だったのか?
もろく壊れやすい思い出?あのときふたりの間に流れていた微妙な空気?
「そうか、あの蝋燭を残したかったのは、私だけだったのか。彼は私の懇願を
受け入れてくれただけ。それはただ、やさしかったから?それとも・・・」
私と彼のあいだには、「愛」という言葉のやりとりもなかったし、握手とか、
儀礼以上の身体的な接触もありませんでした。
そういうことが、許されない状況であり、立場だったと思います。
ただ、慎重に吟味され意味付けされた会話の数々と、あの忘れがたい眼差しだけ。
不倫などではないですが、生きている環境が違いすぎた、それに尽きます。
いくら私が彼を愛していて、彼と人生をともにしたいと強く望んでも、それは、
周囲を混乱の極みに落とし込み、そして自分をも破壊してしまうようなこと、
当時の私はそう判断し、そして、それが大人として正しい判断、結局はこれで
よかったのだと、そう確信するに違いない判断のように考えていました。
私は自己保身に踏みとどまり・・・彼がそのことをどう思ったか、そもそも彼が
私のことをどう考えていたかすら、私にははっきりとわかりはしないのです。

遠い話、もう昔のこと。
だけれども、まだ心に引っかかった棘のようにときどき痛むのは、なぜか?
愛?まだ愛している、から?
そんなふうにも見えるでしょうけど、それは違いますね。
二度と、地球上のどこにいても出会う可能性がない人の話。万一、出会っても、
もはやこの現実生活に影響を及ぼす可能性などありえません。
お互いが変わったのだということを認識させられるだけ、そんな気がします。
そう、これだけ時がたったいまとなって、愛がどうのとか、もうそういう問題じゃない。
私はただ知りたいんですよ、そのとき私がどうにもならない岐路に立たされてとった
苦渋の選択、身を切られるようにつらい沈黙を守ったことが、果たして、私の本性に
正しかったのか、ということが。
「愛している」
と、言わなかったことが、正しい判断だったのか賢明なことだったのかが、知りたい。
頭のなか、理性ではもう答えはわかりきっています、それは百パーセント正しかったと。
たとえ奇跡的に彼と人生をともにできていたとしても、いまごろはどうなっていたか、
まったく知れたものじゃない、私には耐えられないことの連続だったろう、と。
ひょっとして彼に幻滅し、憎むことにすらなっていたかもしれない、と。
けれども、どこにあるのかわからない、私の魂、それはまだ頑固に納得していない。
おまえはあの時、おまえ自身に嘘をついたのじゃないかと、それは、おまえがもっとも
忌み嫌っていたことのはずだ、何に怯んで、何を保とうとして、おまえはおまえ自身を
裏切ったのかと・・・

言ったところで何も変わらなかったかもしれないし、拒絶にあっていたかもしれない。
それでも言葉にして伝えたかった私のエゴが、うずくんですよ、たまにね。
「おまえはおまえを正しく生きたのか?生きているのか?」
誰かにそう指差されているような気がする。
私にとって、私を正しく生きることは人生の大問題、そのために生きているといって
いいでしょう。だから、あのときの判断が結局は正しく、魂にもかなうことであった、
そういう確信がほしい。でも、そんな確信は、いまだ生まれてこない。
この十年のあいだ、それが生まれたように思い、またそれが霧に没したように思い・・・
一度のつまづきが、何度もフィードバックされる、そして、いまここにはない答えを
求め続け、確信のきっかけを待ちつづける私こそ、この「待ち暮らし」を読むに
ふさわしい読者、そうではないのでしょうか?
私はそうだと思いました、皮肉に。そして、このめぐり合わせに感謝したのでした。

「待ち暮らし」に出てくる人物は、わかりやすい悪人も善人もなく、ただただ、それぞれの
自己に誠実に、ときには自分にも社会的にも許容できる範囲での自己保身や嘘に
走りながら、それでも懸命に、あるいは自堕落に、「ささやかな生」を生きている。
誰もが、聖人でもなければ、極悪人でもない。
その人々の間で起こる出来事は、さほど強力なインパクトを与えるものでもなければ、
華々しくドラマチックなものでもない。
ひとことでいうなら、彼らと彼らの物語は、人間の、「矮小であるがゆえのいとおしさ」を
感じさせてくれます。
彼らの愚かしさ、卑小さ、俗っぽさ、怠惰さや自己矛盾を数え上げればきりがない、
けれども人は、たいていの人は、私をも含め、そんなふうに生きているし、また、
そんなふうにしか生きられなかったりもするんじゃないのでしょうか。
その現実がとてもやるせない。だのに、そのやるせなさが、なぜかとてもいとおしい。
この不条理な世界、不完全な世界のなかで、自分で思うよりも愚鈍に、こずるく、
そしてなお、人であるがゆえの誠実を捨てきれず、かすかに息づく憐憫を胸に秘め、
ままならないことごとに、よろよろと足をつけて生きている、そんなどうしようもない
すべての同胞を抱きしめ、私は心から涙したいような気持ちにさせられました。
それが救いというものなのか?
私はそう思います。たとえ一時の感傷に過ぎぬと理性からは嘲われても。
少なくともそれは傲慢な同情ではない。ましてや高みの見物でも。

「待ち暮らし」
十代、二十代で読んでも、退屈かもしれませんね。
未来のほうがだんぜん長い、そんな人が読むべき物語ではないような気がします。
けれども、通り過ぎた時が、あるていど自分の後ろに長い影をひいてきたと思える、
そんな年齢で読むには最適の本です。
「確かだと言えるものはなにもない」
若さの特権で、遠い過去にうそぶいたことを、再び今度はせつなく心絞られるように、
つぶやかねばならない羽目に陥ることでしょう。


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