映画「砂の器」

この間までテレビドラマ化されていて、非常に話題になった作品ですね。原作は、松本清張。
ネットで調べてみると、アマゾンのレビューでは、こんなふうに紹介されています。

ひとりの老人(緒形拳)が何者かに殺害され、ふたりの刑事(丹波哲郎、森田健作)が事件を担当し、日本中をかけめぐる。やがて、その事件の影に若き天才作曲家・和賀英良(加藤剛)の存在が浮かび上がっていく。そして和賀は、交響曲『宿命』を作曲し、自らの指揮・ピアノ演奏でそれを披露しようとしていた…。
松本清張の同名ミステリ小説を原作に、松竹の巨匠・野村芳太郎監督が壮大なスケールで映画化したヒューマン社会派サスペンス巨編。ドラマの後半は交響曲『宿命』と日本の四季折々の風景をバックに、事件の謎解きとともに、父と子の逃れられない宿命の絆が浮き彫りにされていき、これでもかと言わんばかりに観客の涙腺を刺激する。
豪華キャストもそれぞれ柄に合った好演をみせてくれているが、特に丹波哲郎の貫禄に満ちた名演は忘れ難い。日本映画が、日本映画だからこそなしえた、日本映画ならではの奇跡のような大傑作。(的田也寸志)

他の人はどう感じているのかと、いろいろ検索してみましたが、おおむね高い評価を受けています。いわく、感動した、日本映画の傑作、忘れられない作品、涙なくして観られない・・・云々。
こんなにまで大勢の人の心を惹きつけているのだから、どんなにいい映画かと期待するじゃないですか。
私も、「ああ、これを観て泣こう」と、そう思ってビデオ借りに行きました。
そしたら。
なんかもー、ツッコミどころ満載なんですよね。
ストーリーの基本は刑事モノなんですが、この映画をミステリとしては観ていられません。ミステリと呼ぶだけの謎ときの醍醐味はないです。そのうえ、ミステリ慣れした人にとっては、伏線その他のアラが目立ちすぎています。では、この映画の本質は何かというと、人情モノなんです。親子モノです。それならそういう角度から観て、ミステリとしての不整合には目をつぶるんですが、しかし、この人情の描き方が、またもやくどすぎ、やりすぎ。
多くの人が涙を絞られるのは、後半の長々とした「親子遍路」の場面なのですが、確かに日本の四季の美しさ、親子の情愛、そういうものを描こうとしたのはわかります、わかりますが、あまりにもあざとい。ひとりよがりな感動を押しつけるな、という感じ。
安っぽいんですよ、全体に。
なんか、情とか愛とかいうものをすごく安っぽく描いてしまっている。
確かに、音楽その他で雰囲気的には涙腺にググっと来るんですが、手放しで泣けないのは、あまりにも登場人物がみんな「考え無し」に思えて人間として深みが感じられず、従って誰にも感情移入できないから。
ほんと、いろいろ疑問が浮かんできます。

ライ病を患っている父親については、子供を引き連れて乞食まがいの遍路などしていて、
「自分の病気が移ってしまったら?」「自分が死んでしまったら?」
そのとき子供はどうなるか、とは考えないのでしょうか?考えていないとしたら、あまりにも日本的ですが、「子供は自分のもの」だから、子供を連れて心中してもいい、なぜって、残された子供が可哀想だから・・・という発想が根底にあります。
これは、もう本当に子供自身の人生の幸福など考えていない、「情の暴力」とでも言うべきものでしょう。どんな事情があったとしても、私は、親子心中が可哀想とは思いません。子供まで巻き添えにするのは、親の勝手すぎます。まだ幼くて、意志を表明できなくても、自我が確立していなくても、一人で自活できなくても、その子供の生を自分のものだと勘違いするような親は、究極のエゴイストだと言わざるを得ません。

次に、常に「いい人」な三木元巡査ですが、この人のしたことは、基本的にいいことだと思います。けれども、なぜ殺されなければいけなかったのでしょうか。それは、自分が「いいこと」「そうすべき」だと信じるあまり、成人して別の名前を名乗り、社会的成功の途上にある秀夫(和賀の本名)の気持ちや立場を斟酌せず、ただ「お父さんに会いに行け、なぜ会わないんだ、それなら、首に縄を付けても連れていく」というその言葉のエゴに気づいていないからでしょう。
まだ病気に対して社会的偏見があるなかで、名前まで変えた秀夫が大っぴらにライ病患者である父を訪ねて行けないことぐらい、常識でわかりそうなものなのに、この人は「ぜひ会いに行け」と譲らない。なぜそうも人の人生にくちばしを突っ込んで自信満々なのでしょう。新興宗教の信者みたいで、ちょっと恐いです。

秀夫も秀夫で、「そのうち行きます」ぐらい言っておけば、三木元巡査もそれで納得したかもしれないのに、そう言わなかったのでしょうか。なぜ、短絡的に殺してしまったのでしょう。こいつが生きている限り、自分の出自がばれてしまう可能性がある、そう怯えたからでしょうか。けれども、三木元巡査は限りなく「いい人」という設定で、一時は秀夫を養子同然に面倒をみてくれていたわけですから、秀夫の人生の妨げになるようなことをするはずがない、と客観的には思うのですが。
けれど、秀夫はそういうふうに信頼はしていない。「いい人」だからこそ、「心がきれい」だからこそ、出自を恥じるなと言うかもしれない、堂々と父に会いに行けと主張して譲らないかもしれない。
心はきれいだけれど、それゆえに害になる人というのは、いるものです。考えが足りないと、純粋さは凶器になり得るということでしょうか。
残念ながら、秀夫の表情やセリフからは、そんな複雑な気持ちまでは読みとれません。

しかし、なんといっても、この物語の致命的な欠陥は恐らく、成長した秀夫を「将来有望なピアニスト兼指揮者」に設定してしまったことでしょう。
私は、父親と別れた秀夫がどこか裕福な家の養子にでもなったのだろうかと思っていましたが、そうではなく、自転車屋で丁稚のようなことをしていたというのです。そして、戸籍を偽造したとき、彼はもう十代になっていたはずです。遍路生活から丁稚奉公になり、読み書きソロバンぐらいは教えてもらったとしても、映画のストーリーのように、それから「苦学して東京へ出てきて、才能を認められ、ピアニストに」というのは、私がこれからロシアバレエ団のプリマドンナになるくらいの素っ頓狂な飛躍ぶり、まあ、普通の感覚では「ありえないこと」なのではないでしょうか。
秀夫が苦学して有名作家になった、とか、辣腕記者になった、とか、会社社長になった、という話ならありえないことはないと思いますが、音楽家というものは環境が大事ではないですか。幼少の頃からクラシック音楽に親しんでいたでもなく、十代でピアノに触ったこともないような子供が、どうやったらそんな短期間で「才能を認められる」ような場所に入り込めるというのでしょう。戦後のどさくさの時期とはいえ、あまりに現実無視の設定です。
そして、秀夫を「ピアニスト」にしてしまったことの弊害は、ストーリーにリアリティをなくしてしまったこと以外に、もうひとつあります。

なぜ、このことを誰も指摘しないのでしょうか。
誰も気がつかないのでしょうか。
夫と二人で観ていましたが、私が指摘するまで、夫はそんなに気にならなかったみたいですから、みなさんたぶん、気づいていないのでしょう。
この映画の最大級に馬鹿馬鹿しい欠陥は、ピアニスト、秀夫の「手」にあります。
秀夫役は加藤剛ですが、ピアノを弾く場面が何度も出てきます。
そこで、加藤は、演技をするだけで本当に弾いていないと思います。なぜなら、弾いている場面は、常に、手がある程度、隠れている全体像か、それとも手だけのアップか、どちらかなのです。
まあ、よくあることですよね。加藤は弾いているふりをしているだけ、そして、手のアップは本当にピアノが弾ける誰かが代役をしたのでしょう。
その手なんですよ。問題は。

なんで加藤剛の手が、あんな女みたいにぷくぷくと肉付きのいい手なんですか?
私は、この手のアップが出てきた瞬間から、それが気になって仕方がなくて。
で、ラストシーン近くでも、本当に緊迫した場面で、この「手」が大写しになるんですよ。夫と私とで、顔を見合わせて、大爆笑してしまいました。さっきまでの「泣かせ」が、台無しです。
人物画であろうと、踊りであろうと、手というものは、「もうひとつの顔」と言っていいほど、大切な表情器官です。指の先、その一本一本にまで神経を払ってこそ、完成された、いい絵、いい舞台になるのです。
それなのに、なんですか、あのもっちゃりぷっくりした手は?!
映画の絵撮りなんだから、ピアノを弾ける人なら誰でもよかったはずでしょう。なんで加藤剛の顔のイメージに合った手、あの冷淡で複雑な過去を背負った主人公のイメージに合った手の持ち主を探さないのでしょうか。
たとえあれがほんものの加藤剛の手だったとしても、私が監督なら手だけを差し替えますよ。
もっとしなやかに筋張って、すらりとしているが強靱な印象の手を探します。
難しいことではないはずなのに、これこそ本当の「手抜き」というものです。
なぜ、あんな豪華キャストを揃えて制作したのに、大写しの「手」の役には注意を払わなかったのでしょうか。もう、私にはこれがこの映画の最大のミステリーに思えました。


back