「愛されたい」は「愛したい」



少し前、主にブログ「電脳ポトラッチ」を中心に吹き荒れていた「非モテ論議」の嵐はもう静まった様子。いや、端で見ていた者としては、みなさんお疲れさまでしたとしか言いようがありません。
本記事の内容に関して、あれだけの大量長文コメントを受けながら、それに勝るとも劣らない大量長文返し(しかも基本スタンスに大きなブレや破綻がない)。キーボードを叩くだけでも大変でしたでしょうに、ブログ主のナツさんは誠実でパワフルな女性だなぁと思います(ちなみに過去の記事もたくさん読んでしまいましたが、とても面白いです。漫画の趣味も合うかも)。

で、その「電脳ポトラッチ」12日付の記事中、私のブログにコメントしてくださった「まのさん」の言葉に言及されていて、いわく、(一部の)非モテ系ブログはあまりにも女性に対して攻撃的なので「読めない」。そのことにナツさんも同意し、心情として「ものすごい憎しみの負のオーラでうんざりしてくるから」だと解説されてますが、たぶん、まのさんもそうなんだろうと思います。
攻撃的な負のオーラ。なぜかそんなものを投げつけられる側に立たされた女としては、ずしんと重い気持ちや強い反感を抱いてしまうのは無理からぬこと・・・とは理解できるのですが、私自身は読めちゃうのですね、たいした反感も抱かずに。いや、同じ女なのに、これはなぜなのかと自分で考えてみたところ、個々の性格はもとより、時間的な要因も大きいんじゃないかと。

今でこそ実体のはっきりしない「非モテ」という言葉が一人歩きしているネット上ですが、その昔、まだブログなんてツールもなかった頃、やっぱり似たようなことが話題になっていたんです。
私が自サイトを始めたのは1998年の夏でしたが、ちょうどその時期、まったく私的な事情から、それまで考えたこともなかった「多くの理系の男性が、恋愛のチャンスに恵まれていない(がゆえに苦しんでいる)」という事実に気づかされ、私なりに思うことを文章化したりもしました。そして翌年、1999年の初めに出版された小谷野敦著「もてない男」。この本がブレークしたおかげで、ネットでは我も我もと「もてない男」たちの自分語りが始まったように思います。

こういう流れと平行して、2ちゃんねるという巨大掲示板の存在がメジャー化し、そこでも「もてない男」たちのサロンとでも呼ぶべきものが出来ていたわけです。たとえば独身男性板の「あぁ俺ってもてないんだぁと思う瞬間」スレッド。私も2000年ごろは暇にあかせてよく覗き見していましたが、この長寿スレは独身男性板の看板スレとなり、今の非モテ系ブログの「ツルミ」より、内容はもっと穏やかで個人的、基本のトーンは自虐的でも、時折のユーモアがそれを緩和しているという雰囲気で、女性が読んでも決して「ずしんと重い気持ちや強い反感を抱いてしまう」ようなものではありませんでした。むしろ私など、「こんなにちゃんとモノを考えたり、人の気持ちを思いやることができて、ユーモアのセンスもある人たちが、どうしてもてないもてないと嘆くんだろう」と不思議にすら思ったものです。

レスのなかには、ハッと胸を突かれる話もたくさんありました、ほろりとさせられる男の本音もたくさんありました。あの頃は、何か言えばすぐに「釣り?」「ネタ?」みたいに茶化す風潮は今ほど強くはなかったと思います。そして、もてない男たちのバーチャルなサロンのなかで、たまにその仲間の一人に彼女ができたりすると、「もうおまえはこの板から卒業だ、二度と戻ってくるな、幸せになれよ」といっせいにレスがつき、スレ独特の諦観と暖かさをもって皆が彼を見送るような風景が見られたものです。
これがどちらかというとネガティブなスレだとすると、少し明るいスレに「彼女ができたらしてみたいこと」というのがありました。「どうせエッチなことに違いない」みたいな気持ちで、こちらも覗き見ていると、予想に反してその内容はとてもほのぼのとセンチメンタルなんです。
「一緒に買い物に行きたい」
「こたつに入って蜜柑とか食べてみたい」
「手をつないで歩きたい」
もちろん、際どいレスもつきますが、あまりに悪趣味なものはすぐに否定され、あくまでスレの雰囲気としては、こんな調子なんです。
改めて思いました、「なぜ、こんな『かわいい男たち』がもてないのか?なぜ、そんなに自虐的にしか女性と対峙できないのか?ほんの少し外見を整えて、ちょっと自信をつければ上手くいくこともあるだろうに」と。

けれども、その頃そう思ったのは、まだ私が彼らの文字面しか見ていなかったということかもしれません。その後、独身男性板住民は自ら分裂してしまい、「もてない男性板」が新設されます。
このあたりの経緯については私のブログのコメント欄で、kiya2014さんいわく、
「こういう”緩い連帯”の雰囲気をぶち壊してしまったのが『電車男』とメディアを巡る一連の騒動だったわけです。その後、毒男板は荒れに荒れ、結局棲み分けも緩く繋がることも出来なくなって、板が二重三重に分裂することになりました。その意味では、『電車男』という現象は(良いのか悪いのかわかりませんが)とても”意義”のあるものだったと思います」
ここで言われている緩い連帯の意識というのは、ネガティブな方向で「みんな同じだよね、気持ちわかりあえるね」と「石の下のダンゴ虫が薄暗がりのなか、ひっそりと肩を寄せ合う」ようなものでした。しかし、メディアによって石がどけられ、明るい光に照らされてみると、実は「みんな同じではない、やはりここにも『もてる男』と『もてない男』との差は歴然としてあるのだ」という現実を直視せざるをえない羽目に陥り、もてない男たちが混乱したと想像できます。

この混乱に意義があった、と言うならば、それは心の拠り所としてあった「サロン」を喪った男たちが、ふたたび新たな「サロン」を創りださねばならなくなった、その過程で恋愛に対するそれぞれのスタンスをはっきりさせることを迫られた、ということでしょうか。もちろん、そのあとに話題になった「電波男」も、もてない男たちに多大な影響をもたらしたことは間違いありません。
まあ、馬鹿げた話に思えます。なぜいちいち、自分のスタンスをはっきりさせなければならないのか?人間は社会を作るとき、その特性ごとに小グループに分かれていくものですが、これもそういう習性の発露でしょうか。ともかく、現在の「非モテ」○○派、××派、というのは、大まかに言えば、こんなふうにしてできたものと見ています。

さて、いままでもてない男たちに何も関心を持たずに、ここへきていきなり、やれ電車だの電波だの、話題になっているからと「非モテ」系サイトやブログを覗いてみる女性たちは、かつてまだ牧歌的であった頃の「緩い連帯」という幻想から覚めて、意識の分裂が進んだ男たちによるさまざまな主張や愚痴、泣き言や怒りなどに触れることになります。うっかりと女性に対して攻撃的な文章を読んでしまったら、そこでけっこう感情的な衝撃を受けてしまうことにもなります。何この負のオーラは?まったく建設的でない、と反発もしたくなるでしょう。けれども、これまでの経緯を振り返ってみて、今ここで女性側からどんなまっとうな意見を言われても、決して聞き入れられない男たちがいることはもう仕方がないとしか言えません。
私の正直な心情を言うと、誰も悪くはない。さらに、正しいとか正しくないの問題でもないと思うのです。
そこにもてない男がいる、というだけのことなのです。
そして、彼が「もてない」ということにこだわっている限り(女性に対してモラルを強要したり、あるいは逆に口を極めて罵倒したりしているうちは、まだこだわっていると見なせます)、その言動がどうであれ、愛を求める人だと言えます。私は、まさにその、「愛を求めていること」そのものに救いを見るような気がします。

もてない男の最過激派(?)「喪男道」の管理人として名を馳せている覚悟氏。
表立つ主張はどうであれ、プロフィール欄ではアレッと思わせられます。最近の悩みと称して、
「最近は妄想の中で彼女と優しいイケメンの間を取り持つために、身を挺して戦って死ぬ(一生涯誰からも愛されないまま死ぬ)みたいな妄想しか出来ない・・・ヤバイ」
と書かれてあるのです。ということは、この人もまた、愛を求める人であり、決して愛を放棄した人ではなかったのです。
愛を求める人は、愛を与えたい人でもある。
私はかつての「彼女ができたらしてみたいこと」スレを思い出します。彼女に何かをしてもらいたい、という欲求ばかりでなく、「〜〜してあげたい」という欲求も多かったのが意外でした。
「きみのために何ができるか?」
覚悟氏は「優しいイケメンの間を取り持つために、身を挺して戦って死ぬ」と過激な妄想をし、それほど過激でないもてない男は、「彼女に何かつくって食べさせてあげたい。美味しそうに食べる顔がみたい」などと妄想します。そしてその願いは叶わない。少なくとも今は、叶っていない。

私たちは、自分ひとりのために生きるのが嫌なのではないでしょうか。
自分だけのために働き、自分だけがその報酬を消費し、自分だけの楽しみを追求して生きる、そんな自己完結的に閉じた生き方は、何ものも生み出さない、誰一人として幸せにならない、たとえ自分自身でさえも。
現実認識がズレている、女に甘ったれている、自分の殻に篭っている、まっとうな努力をしたがらない・・・と、さんざん言われてきたもてない男たち。けれども、機会さえあれば、愛する他人のために何か役に立ちたい、相手を喜ばせたい、そして自分も幸せを感じてみたい・・・ささやかでもそういう願いが垣間見えるたび、私はそこに救いを見ます。まだそれは柔らかな魂が凍り付いていないこと、それゆえに弱いことを表しているように見えるからです。
他者を慈しみたい気持ち、大切に護りたい気持ち、欲も得もなく献身したい気持ちが叶えられない人間は、どこか弱いものです。裏返していえば、まだそういう気持ちをもっているからこそ弱みを晒してしまうのだと思います。私は、その愚かしく不様な在りように、人間が、人間であることの、儚さとうつくしさを見ます。この不平等な世界に、永遠に不完全な人間として生まれ落ちながら、なおも「誰かに喜んでもらえる自分でありたい」と願う、その心が、どんなにいびつでも、どれほど浅ましくても、それはうつくしいものではないのですか。

「愛されたい」は「愛したい」。
「死にたい」は「生きたい」。
「失うものなどない」と言いながら、「失われゆくもの」を嘆きつづける。
矛盾なんかしていない。私たちはほんの少し真面目すぎ、ほんの少し怠惰すぎ、ほんの少し意地悪すぎ、どうしようもなくやさしすぎて。


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