共生について(1)
うちのトヨタ・カムリは、もはやぼろぼろです。十年ものだから、最初からぼろはぼろなんだけど、うちに買われてこなかったら、まだここまでぼろくならずにすんだでしょうに。
まず私が車庫から出すとき、いきなり柱にぶつけて車体をへこませ、そのうえ、今度は夫がガソリンスタンドで洗車(自動でできる機械式洗車)しようとしたのはいいけれど、やり方がいまいちわからず、あの洞窟のような洗車マシンの中であせって何かにぶつかり、左のサイドミラーを吹き飛ばしてしまったのでした(~_~;) あーあ。しょうがないからとりあえず拾ってきて、接着剤でくっつけたんですけど。
$4000で買ったので、帰国するときは$2500ぐらいで売れるかな、とか言っていたのに、この調子でいけば、大幅に価値が下がりそうな気配です。まぁ、初心者だし、異国での運転ですから、大きな事故を起こしたり自分や人に怪我をさせることなく帰国できれば御の字だと思わねばなりませんね(ため息)。

さて、まえに、ダンボールで「ねこハウス」をつくったといいましたが、今ではこの家自体がそうなってしまいつつあるという感じです。
いまも、くろにゃんが来て、私がこうしてソファでパソコンに向かっているとなりでスースー寝てますし、ときどきブチにゃんも懲りずに来ます。お互いにかち合った時は、ひともめあるんですが、とりあえず眠たいときは、このリビングで別々のソファを占領して寝るときもありますね。
三日ほどまえから、夜にはあの“DUSTY BABY”が来るようになりました。こいつは胴回りが太すぎて桟ごしにベランダに入れないのか、八時ごろになると階段の踊り場で大きな声でにゃーにゃー鳴くんですよ。で、しょうがないので入れてやって餌をやるんですが、相変わらずよく食べるやつです(~_~;)
そのほかに、みけにゃんも超臆病なくせして興味しんしんで覗きにくるし・・・
これが日本だと、「野良猫に餌なんかやって、ご近所に何て思われるかしら」とハラハラするところです。でも、猫たちがやってくるのは“DUSTY BABY”を除けばたいてい昼間なので、ちょうどみんなが仕事や学校に出てあまり誰もいない時間帯。ということで、まぁ、気にせずにやってます(~_~;)
猫の餌も安いですしね。ドライフードの箱入りが$1.3前後、缶詰が一個$0.35〜0.50ぐらい。たいてい、いつでも缶詰は4個で$1とかいうふうに値引きしてあるので、もちろんそういうのを買ってます。日本だといくらぐらいなのかわかりませんが、原材料になっている肉の安さを考えたら、きっとこちらのほうが安いと思います。

私はペット禁止のマンション暮らしだったので、猫たちと接するのが新鮮なんですが、これまで犬や猫を飼いたいと思ったことはありませんでした。そういう性格じゃないんですよ。子供の頃から私自身の意志で買った動物のぬいぐるみなんてなかったですし、猫好きの人なんかが、それこそ猫かわいがりに、「うちのミーコはとってもおりこうさんでね」などと言っているのを聞いても、「ふうん」という感じだけでした。「へー、可愛いですね」なんて口先で話を合わせても、内心まったく関心ないんです。他人の子や他人のペットの自慢なんか、うっとおしいだけでしょ。電車のなかでよその赤ちゃんに笑いかけたりしたこともないし、年賀状に子供やペットの写真を使っている人など見ると、ひそかに「ださー。こんな親馬鹿にだけは絶対なりたくない」と思ったものでした。
私は意志の疎通ができないものを好まないというか、可愛いとかあまり情をもてないんですよね。草花は見てきれいだし育てて楽しいし、第一何も悪さをしないからまた別ですが。
人間の子も、三才ぐらいになると言葉も喋るし意志も通じる。個性も際立ってきます。だから、まだ可愛いとも思えますが、言葉も喋れない寝たきりの赤ん坊だと駄目ですね。どうしたらいいのか、なにもかも察してやらなきゃいけないので、可愛さより面倒さが先に立つんです。これってうちの母ゆずりの感覚かも。うちの母も、私が生まれたばかりの頃のことを思い出していわく、
「何も喋らんし、寝てはミルク飲んで、また寝て、の繰り返しで、まるで虫みたいやった」と。
虫ってなぁ・・・(~_~;)
まぁ、そんなもんだろうなと思います。そのうち、表情が豊かになり、言葉を憶えだすと、がぜん可愛いと思うようになった、ということですが。

つらつら思うに、この情薄い私がこんなふうに猫を家に入れてやって可愛がってるのは、ちょっと自分でも珍しいことだと。理由を考えてみると、昼間、たいていひとりでいるので退屈だというのもあるけれど、一番大きな理由はたぶん、ここが借家だということと、すべての家具がレンタルだということですね。そして、その費用はみんな研究所もちだから、自腹切ってないってことも大きいかも。
まー、どういうことかというとですね、猫ってこのソファの材質が好きみたいで、寝起きなどにしょっちゅうガリガリっとやるんですよ。爪研ぎっていうのか。クッションに噛みついて遊んだり、雨に濡れた足で絨毯のうえに入ってきたり。トイレは外にしにいきますけど、ときどき砂や枯れ葉を身体につけて入ってきたりもします。動物がいると、家のなかが汚れるとか、家具が傷むというのは確実にあるんです。
うちの夫はともかく、私の性格では、猫は可愛いが自分で買ったお気に入りのソファにそんなことされたらたまらん、という気持ちがきっと優先されるんじゃないかと思うんです。でも、レンタルだったら、三ヶ月ごとに交換できるし、その間この家具を傷めてもべつにペナルティがあるわけではありません。この家も、住人が変わる毎に内装を新たにするようだから、絨毯などが汚れることをさほど気にしなくてもいいみたいなんです。
そもそもここのアメリカ生活自体が仮の暮らし、この借家にも家具にもさほど愛着があるわけじゃなし、何も惜しいとは思わないんですよね。最近、私が猫を可愛がることができるのは、それでかなぁと気づいたんですよ。

なんともセルフィッシュな理由ですが、これって真実ですね。
私は専業主婦ですから、家にいることが多い。とくにまだ身体の調子が戻っていない今は、そうせざるをえませんし。だから、家のなかというのは「自分のテリトリー」だと感じてるんですよ。それを荒らされるのは本能的に嫌なんです。夫なら、「そんなところに靴下脱ぎ散らかすのはやめて」と言えば、何度目かにはやめてくれる可能性がありますが、猫だとねぇ・・・(~_~;)
私が何匹かの猫のうち、特にくろにゃんをひいきにしているのは、彼女もそりゃ確かに時々ソファをがりがりとやりますが、まあ、それは猫の本能だから仕方ないとして、それ以外に、この家のなかを荒らしたりしないからなんですよ。そのへんの幼児よりずっと、「私が気に障るだろうこと」を察知でき、猫なりのマナーをわきまえつつ、自分の意志も通すということができます。動きもいちばん敏捷だし、頭も切れるんですね。
ブチだとそのあたりがちょっとあやしい。悪気はないんだけど、ついつい机に飛び乗ったり・・・あまり意志表示もしないし、寝てるとき以外、一時も目が離せないのは幼児と同じ。
夫は、ブチのほうが性格がいいといってひいきにしてますが、そもそも夫自身、あまり「美しさ」とか「清潔」を気にかけない人なので、ブチに対して包容力があるんだと思いますね(~_~;)

観察していると、ブチとみけは仲がいい。ときどき連れ立って行動しているし、お互い顔寄せ合ってキスみたいなこともしてます。くろにゃんの仲間は、オレンジ猫だったんですが、最近ずっと見かけたことないんですよね。どこかにもらわれて、家猫になったんでしょうか?
ともかく、ブチにゃんたちに比べてくろにゃんは孤立しています。ブチともみけとも仲良くする気がないようです。テリトリー意識が強いからでしょうか。この家に最初に来たのはくろにゃんで、ブチはその後に来たんですから、彼女が「なーんにも考えてない天真爛漫なブチ」に対して、苛立つのもわかる気がします。
夫は、「性格が陰険やから、くろは誰とも上手くやっていかれへんねん」と言います。まぁ、他者と共生する包容力がないっていえばそうなんですが、では包容力って何かなぁと思うこの頃です。自分とは異質なものと共存できることって、どういうことかな、と。


共生について(2)

うちの夫と結婚して思ったんですが、文化の洗練っていうのは結局「とらわれ」につながっているんだな、と。

たとえば、夫は味噌汁とパンを同時に食べることができます。どういうことかというと、朝食にトーストを食べ、さらに昨夜の残り物の味噌汁を飲んで平気だということです。そのうえ、食べ物を立って食べるとか、食器に盛らずに食べるのも平気です。冷蔵庫を開けて、ハムなどそのまま「おやつ」として手づかみでぺろぺろっと食べて、それでも平気なんです。
私には、気分的にそんなことはできません。味噌汁はご飯とセットじゃなきゃ嫌だし、トーストはコーヒーか紅茶、またはカップスープなどと合わせるべきでしょう。ちゃんと文化的にセットになったものを、しかるべき食器に盛ってテーブルに置いて、落ち着いて座って食べるんでないと、食べた気がしません。惨めな気分にすらなります。少ししか食べないくせに、だからこそ、自分なりにちゃんとした食べ方で食べたいと思うんです。
私がもし二十代前半で今の夫に出会っていたら、彼がこういう人だということがわかった時点で、結婚することはおろか、つきあうことさえ考えられなかったでしょう。食べることって、毎日のことですから、お互いの食習慣に生理的な違和感を抱くのはけっこう深刻だと思います。しかも、外でデートしているだけではわかりませんからねー。他人が家でどんな食生活をしているかなんて、よほど親しくなってもなかなかわからないものです。
しかし、味噌汁とパンを同時に食べる夫を怪訝な目でしか見られない私には、人間としての包容力がないのでしょうか? そういう意味で言えば、夫には包容力があります。彼は私のやり方にケチをつけることはないですから。これこれはこうやって食べるべきだというと、まあまあ素直にそうしています。神経質すぎると言うことはありますが、私はそれが「普通」で、「スタンダード」だと思っているので譲ることはできません。

あと、この人は異常に包容力があるなと感心したのは、いわゆる風俗、まあ売春ですね、そのことについて議論したとき。
私は、お金のために身体を売ることは、魂を売り渡す、自らの根源的な生命力を売り渡していることだと思うので、絶対に売春には反対です。もし、将来、私に娘が生まれて、生活に困ったとしても、どうしても売春で生計を立てていかなきゃいけないような人生なら、いっそいさぎよく生きることを諦めなさいと言うでしょう。自分の魂を売り渡してまで、この世に生きる義理はないと。もちろん、私自身もそういう覚悟で生きています。
まぁ、そんなせっぱつまった売春は今時あまりないでしょう。たぶん、簡単にお金が手に入るから、という理由が多いんじゃないかと思います。そのほうが一層悪いと私は思うのですが、うちの夫は、驚いたことに、風俗は何も特別なことではなくて、それも数ある仕事のひとつ、という考え方をするんですよ。
これには生理的にカチンときましたが、彼も男だからダブルスタンダードをもっているんだと思いました。
「風俗自体はひとつの仕事として認めたらいいじゃないか。彼女らも好きでやってるんだろうし。でも、自分の妻や恋人や娘がするのは絶対許せない」
要するに、自分が女子大生と援助交際するのはいいけれど、自分の娘が他の男と援助交際すると怒りまくる。風俗嬢と遊ぶのはいいけれど、そんな女を嫁にするのは嫌だ。
矛盾してますよね。こういうのがダブルスタンダードです。いわゆる男のホンネってやつかな? 遊び用の女と、人間として本気でつきあう女と、女性に対して基準がふたつあるんです。
うちの夫もそうなんだと思ってました。でも、彼は言うんですよ。べつに、自分が気に入れば、風俗嬢と結婚してもかまわないって。「そりゃ、そういう仕事はできたらやめて欲しいと思うけど、でも、そんなことで人間を判断したくないって気もちはある」
ひゃ〜、私はびっくりたまげましたねぇ。それホンネ?って聞いても、ホンネだと言い張るんですもん。私はそれを聞いて、なんか、リベラルっていうより、もう私には理解不能だなぁと思ったことです。
確かにダブルスタンダードは男の狡さの象徴だけど、まだそのほうが理解できる。私としては、女遊びと、妻選びに対する気もちはべつだ、と言われるほうがまだ納得できますよ。遊びは遊び、それならそういう文化として成り立たせ、洗練させることもできる。でも、それはあくまでも日陰の花でなければならない。遊び空間と現実の家との棲みわけがきっちりできなきゃいけない。こんなふうに言われてしまうと、自分と風俗嬢を一緒にされたみたいで、生理的に許せませんでしたね。風俗するような女でもよかったんなら、なんで私と結婚したの?って。正直、一緒にされてたまるか、という気分でした。何考えてるのって、夫のモラル意識に不信感すらもちました。
やっぱり私は心が狭いんでしょうか?

食習慣も、男女交際も、文化として洗練されてくると、いろんなルールができてきます。逆に言うと、簡単なことにも細かなルールを作り、複雑化するのが洗練ということでしょう。
一杯のお茶を飲むだけのことも、それが茶道となると、いろんな作法やそれなりの感性に従った暗黙のルールがある。男女のつきあいにしても、祇園のお茶屋で遊ぶとなると、札びら切ればいいっていうんじゃなく、それなりのしきたりや「粋」というものが重んじられるようになる。
それらを文化の洗練と私たちは呼ぶのですが、いったんできたルール、しきたりに今度はとらわれていく。そこに、上下意識ももちこんでいく。
まだ交通手段も発達せず、異文化との接触が少ない時代ならば、文化はその地域独自の華となり、細部に渡るまで爛熟していくんですが、現代では、異文化がどんどん混ざり合い、極限まで洗練されたルールも、混沌とせざるをえないことになってきたんだと思います。ルールに従った「とらわれ」は自然と通用しなくなり、崩壊せざるをえません。
昔気質の寿司職人であることに誇りをもっていたら、こちらのカリフォルニアロールを見て「こんなもの寿司じゃねーや」と情けなくなるでしょう。でも、アメリカ人にとっての寿司とはこういうものだ、という現実は変えられない。変えようとすればそこには異文化排除の気もちや過激な摩擦が生まれる可能性があります。
もし現実が変えられないものなら、それはそれとして容認していくしかありません。
パンと味噌汁なんか食べて、気色悪い人だと思っても、本人がそれを食べたいなら、容認するしかないわけです。そもそも、味噌汁にはご飯でなくちゃ、という根拠というものはないんですから。それは慣習だとか文化だとかいう以外にね。立って食べても、手づかみで食べても、そうすることが当たり前の地域だって世界にはあります。それはそれとして尊重し、上下意識で見ずに認知する、これが、もしかして共生に必要な包容力なのでしょうか?

共生するということについて考えていると、ほんとに混乱してきます。
つまり、何が正しいことか、わかんなくなってくるんですよ。
上のように書いたからといって、私は「文化的洗練」を否定しているわけではなく、むしろ私としては、そこにこだわっているんだと思います。まぁ、私自身が、うちの夫や、ここにやってくる猫たちとの暮らしを通じて、「自分が最良・快適だと思う文化」に対する「こだわり」とか「とらわれ」を日々、意識させられているということです。頭で考えることにはやっぱり限界があると思いますね。共生するとは、きっと正しさの問題ではなくて、幸福感の問題なんでしょう。現実的な譲歩と主張のなかで、何らかの結果・結論が生まれてくる。
たとえば、猫を飼うとしたら、お気に入りのソファやカーテンと猫の爪研ぎとどちらが大切か?
爪研ぎ器なるものもあるけれど、上手くそれを使ってくれるかどうか?
それに、そんなものリビングに置いておくなんて、第一余計に美しくないのでは?
なんと猫の爪をとってしまう手術もあるそうですが、猫に対してそこまでするのは人間のエゴなのかどうか・・・?

自分とは違う人間、違う生き物と接することは、多かれ少なかれ、異文化や、まったく別の生理・嗜好と接することです。どういう態度をとることが、真に包容力があるということなのか、私にはまだわかりかねています。でも、これからますますそんな世の中になっていくだろうことは間違いない。異文化同士が接する機会が増え、最初はものめずらしさで友好的にいられても、真の理解とか共存に到達しようと思えば、必ず互いの違いを乗りこえて、それを認め合う気持ちが必要になる。育った過程で身についた文化による心理的拘束は強力だから、まず相当の摩擦を起こす覚悟が必要になってくるでしょう。
アメリカという国は、そんな摩擦や融合を観察・理解するのにうってつけの国だと思います。この国のいろいろな民族、文化がどんなふうに共存しているのか?
私にそれをリポートできるときが来るかどうかわかりませんが、興味あることなので、その方面には常にアンテナをはっていたいと思っています。

猫づきあい

こちらでは、もう春の陽気です。桃の花やローズマリー、ポピーなどが満開。
結局、ここでの冬は、そんなに寒さって感じなかったですね。外へ出るときも、手袋なんてしたことないし。冷たい木枯らしが顔に吹き付けて、心底「あ〜、さぶーっ」って思う瞬間はなかったような。冬は非常に過ごしやすいところみたいです。でも、聞くところによると、夏は地獄の暑さだそうですが(~_~;)

このごろ、免許取りたての夫と、地図を片手にリバモアとその周辺都市をドライブするんですが、そのたびに「いやー、アメリカって、やっぱり寂しい国やね」という実感がつのってきます。
真っ直ぐの道をひた走り、行けども行けども、見えるものは大平原。そして、馬や牛たち。サッカー場ぐらいありそうな桃畑。なんか、もう見飽きたって感じのだだっ広い土地ばかり。ちょっと町からはずれると、誰も通らないような道が延々と続いているし、こんなところで車が故障でもしようもんなら、どうしたらいいの?って怖さをも感じさせられます。
春だし桜の花でも見に行こうかと地図を頼りに公園に行けば、公園というのはただたんに広くて何にもない野原とか、ちょっとボートの浮かんでる池のことなんですね。公園といえば私たちが想像する、きれいに花壇が手入れされた鶴見緑地みたいなのとは、ぜんぜん違うんですよ。もっとワイルドというか、何にもないところです。そういうところへ、市民が手製ロケットを飛ばしにきたり、馬を連れて来たりしているわけです。
私はアメリカというと、ニューヨークやロスの大都市しか頭に浮かばなかったけれど、こういうのがきっとアメリカの大多数のリアリティなんだなぁと思ったことです。

さて、また猫たちですが。
相変わらず毎日のように、くろとぶちとダスティがやってきます。ときどき、みけも。ダスティは、いつもタレーっとしているので、このごろでは「タレにゃん」と呼んでいます。
性格は全然ちがいますね。
くろはいちばん敏捷で気が強く、自分が一番でなきゃおさまらないタイプ。人間にはスリスリすりよってくるんだけど、他の猫にはみんなに威嚇の行動をとります。競争心というか、テリトリー意識が強くて、自分がついさっき食べたばかりで、もうお腹一杯でも、新しくきた「タレ」が私のやった餌を食べようとしていると、ささっと走って来て「タレ」を威嚇し、睨みつけつつ、私には「自分も」とせがみます。あんた、さっき食べたばかりでしょうがって言ってやっても、強情なくろは引かない。くれるまでにゃーにゃー言い続け、その間、しきりに「タレ」を威嚇するので「タレ」は食べられない。仕方がないので、くろにも別皿で出してやると、ふんふんと匂いを嗅ぐか、ちょっぴりなめるだけで食べない。で、くろが満足して去っていくと、ようやく「タレ」が食べられるようになるんです。くろの残したぶんまでね。
「タレ」にはプライドとかありませんから、人の食べのこしでも平気で食べるし、くろに威嚇されると食事の順番を後回しにされても待ってる。ソファで寝ていて威嚇されると床に降りてねそべる。でも、どんなに威嚇されても、出て行かないところはしぶといというか老獪です(~_~;) 餌に貪欲という以外は、ただただもうごろごろ寝ています。みゃあとも鳴かないし、どてっとうつぶせになってひたすら寝ているその姿は、まるで、虎の敷物ならぬ「猫の敷物」。ときどき踏んづけそうになります(~_~;)
このところ可哀相なのは、ブチ。くろには前足で猫パンチをくらわされるは、「タレ」からも唸り声をあげられるはで、さんざん。でも、こいつはあまり餌に固執しないので、家のなかをぐるぐる回るか、寝るかできればいいんです。
みけも時々やってくるんですが、ベランダからなかなか入って来ようとしません。無理に入れるとパニクって鳴きます。そのくせ、ベランダのガラスごしなら逃げもせず、興味しんしんの様子でうろうろとなかを覗いています。あのねー、入るなら入る、はっきりしてよ。人見知りも度が過ぎると可愛くないっちゅうの。
くろが一番なついてて可愛いし、一番先にやって来たこともあって、私はいつもくろを立ててやっています。彼女もそれを承知のようで、昼寝のとき、私の隣にくるのはいつもくろです。ごろごろお腹をみせて熟睡してますね。ときには膝のうえにのったりします。ほかの猫たちは、くろがいる以上、そこまで甘えません。このリビングでの、それぞれ所定の位置というか力関係がきまってきたようです。

猫たちが来るようになってから、猫関係のHPもいろいろ見てみました。ほんと、世の中には酔狂というか、猫キチがいるもんですねー。彼らにとっては、猫は猫っていうより、「うちの子」なんですよ。私はそこまで思い入れられませんけど。だって、猫って、誰にでもくっついていくんですもん。犬は飼い主を忘れないけど、猫はジコチューだから、飼われる条件さえよければ、飼い主なんて誰でもいい動物なんです。だから平気でいろんな人の家でご飯もらったり寝ていったりできる。ほんと、八方美人もいいところ。まぁ、それだけ処世術に長けているといえるのかもしれません。奉仕の精神がないと、猫と幼児だけは面倒みれませんね(~_~;)

うちも、一日の半分以上、同じ猫が出たり入ったりしているんだから、もうこれは「飼っている」状態と言えるのかもしれませんが、フンの始末などはしていないし(排泄したくなると、猫は外に出て行き、茂みのなかなどですますと、また戻ってくる)、夜は外に放り出すんですから、飼っているとしたら、すごく無責任な飼い方です(~_~;)
私はそこまで面倒みる義理はないと思ってそうしてますが、日本のみなさまは、真似しないでくださいね。こんなのは、日本の団地などですると「どヒンシュク」です。なんか、いろいろHPを見ていたら、猫は室内のみで飼うのが正しいマナーとなりつつあるようですから。避妊・去勢手術、ワクチンなどをしたうえで、人様の迷惑にならないように、家のなかだけで飼うものらしいです。確かに外に出すと、猫にとっても危険がいっぱいですからね。うっかりしていると人にさらわれて売られたり、交通量の多いところでは車にはねられたり。はたまた病気をもらってきたり。室内だけで飼うほうが、猫の安全や健康管理の面でもプラスだし、ご近所とのトラブルも回避できるということです。

くろが可愛いので日本に連れて帰ろうかと思うくらいですが、でも、ここの環境のほうが、猫には絶対に幸せそうです。
なにより自由があります。
鳥を追いかけて木によじのぼり、潅木の茂みでばりばり爪を研ぎ、屋根伝いに駆けまわり、人のベランダを覗き込んでは餌をねだり、芝生のうえに寝転んでひなたぼっこをしている様子は、肩身の狭い日本の都会の猫たちのことを思えば、少々病気になろうが、お腹が空こうが、雨に濡れようが、やっぱり動物らしいというか、幸せそうに見えます。私がいなくても、その時その時で可愛がってくれる人が次々に現れるでしょう、ここなら。そういう大らかさはありますね。日本よりずっと。
ぬくぬくした家のなかで、たとえ食べ物に困らなくても、病気になったら医者にみてもらえても、生殖を禁じられ、狩りを抑圧され、爪を切られてシャンプーされ、いっさいの本能を人間にコントロールされて生きるペットたちって、やっぱり不自然に思えます。
でも、たぶんそうするしかないんでしょう。人間が生きるだけでも精一杯という、余裕のない都会ではね。それに、誰にも世話されず、捨てられて死ぬ子猫がたくさんいることを思えば、その猫たちが狭い室内とドライフードしか知らなくても、それでも生きていけるなら、ガス室送りで死ぬよりはずっといいんだと思います。
くろを日本に連れて帰ったりしたら、それこそストレスで変になってしまうでしょう。もし日本で飼うとしたら、引き取り手を探している猫、野良になっていて保護された猫、捨てられた子猫の里親になりたいですね。やっぱり狭い室内でキレイキレイに飼いながらも、「自由がなくてごめんね、でも死んじゃうよりはマシだったでしょう?」と言い聞かせられるじゃないですか、自分にも、猫にも。何万円も出して血統書つきのお猫様を買うのもいいけれど、このほうが、たんに可愛がるためじゃなく、ひとつの命を助けたって気分になれていいんじゃないですかね。

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