第二公用語?
先週はずっと風邪をひいていて、熱こそでなかったものの、せきやら鼻水に悩まされていました。やっと今日あたりから普段の調子に戻れるかな、というところです。

体調が悪いと、e‐palのみなさんに書かなきゃならない返事も滞りがち。「書かなきゃ」とは思うんだけど、しんどい〜。向こうはイングリッシュ・ネイティヴだから、なんでもすらすら書けるんだろうけど、こっちはちょっと気合い入れないと書けませんからねー。でも、もう始めてから二ヶ月にはなるんだから、会いもしない人たちと、曲がりなりにもけっこう続いてるなぁと思います。お互いに写真の交換もしたりして。
最初の、一般的な「ご趣味は?」などという話題を通り過ぎると、ちょっと難しくなりますね。決まり事みたいなやりとりを外れて自由に、思ったことやその日あったことをくわしく話しだすと、ネイティヴでない私にとっては辞書をひきながらの「勉強」という感じになってしまいますから。どこまで真意が伝わっているのかと、気になりますね。まあ、なんとか続いてますから、そうヘンな誤解もないんでしょう。もちろん、送信する前に何度か読み直してるんですが、それでもまたあとで読み返したら、単数複数がおかしくなってたり、前置詞が違っていたり、時制が間違ってたり、そういうのはままあります。が、なんとなく言いたいことが伝わる範疇には入っているようです。

私の場合は、英語や中国語を使うときは、もう率直に徹しています。「曖昧にぼやかす」とか、「遠まわしにわかってもらう」なんてワザ、できそうにないんですもん。英語にはそんなへりくだった表現や、わかりづらいほのめかしなどはないと思っている方も多いと思いますが、聞くところによるとあることはあるらしい。言い方ひとつで遠回しな表現もできるということです。でも、私にはそこまでの語学力がないので、思ったことをできるだけストレートに言うことにして、「ガイジンだから許してねっ」と心で詫びることにしてます。そのほうが誤解がないと思うんですよね。

こちらでは日本よりずいぶん遅れてNHK大河ドラマの「元禄繚乱」をやっていましたが、英語の字幕つきで見てたら面白いんですよ。その表現のギャップがね。
時代がかった大仰なセリフ、たとえば、「誠に申し訳なきことにござりまするッ」というのが、字幕ではひとこと、“I'm so sorry”で片づけられてしまうんです。なんかヘンに軽い感じでしょ(~_~;) でも、そうなるんですよ。
まぁ、この場合、英語と日本語の違いをいう前に、あまりくどい表現だと読みづらいという理由がありますね。以前、日中合作で「大地の子」という連続ドラマをやっていたときも、セリフの中国語と日本語字幕のギャップはありました。省略してあるというか、やっぱり文字で読ませる字幕表現はどうしても簡単なものになってしまいます。

さて、日本では「英語を第二公用語に」という論議があるとか。
聞いたとき、ほんとにあきれちゃいましたね。ほかにやることないのって。そんなのめんどくさいだけだし、お互いの違いを認め合ってこその国際化でしょ。人種・文化のモザイク国家たるアメリカだって、法的には英語を国語と定めているわけではないのに。
こちらでは、公立図書館などで、イングリッシュクラスが無料で受けられます。そんなふうに、仕事などで必要な人や、学びたい人に安価で学べるシステムを提供することは大切だと思うけど、英語喋れる人間つくる、という目的ならあまり意味ないんじゃないかと思いますね。やっぱり言葉より中身が肝心。数学の能力やら音楽の才能なら、言葉なんかなくても世界中で通用する。そんな能力の開発こそ、大事にされるべきですよ。
どんなに学校で教えても、そのほかに生活のなかで使う機会がなかったら、語学に力入れるなんて、ザルで水をすくうようなもの。どのみち中途半端になってしまう語学力より、日本人の生きていく道としては、モノづくりを極める、そのための人材を育成することに力を注いだほうがいいと思うんです。半端な語学力ならいつでも身につけられるけど、先端技術というものは過去の業績のうえに、常に心血を注いでやらないと、すぐに役に立たなくなってしまう厳しい競争世界。英語の勉強なんかに足を取られてみんなでアーウー言ってると、世界からそれこそ取り残されてしまいます。

こちらでは、日本車はやっぱり確固たる信頼を築いている。私のe‐palも、車を買おうと思っているというと日本車を勧めるし、自分自身でも日本車に乗っているといいます。東欧へ行ったときには、ドイツ人から、「やっぱりカメラは日本のカメラだね」と言われましたし。中国人も、日本人に対する感情はさておき、日本製品には敬意を払っています。
あるe‐palにとっては、「あんな小さな島国で、こんなスゴイものをつくっている奴らがいる、日本人っていったいどんな人間やねん?」 という関心が、私と文通するそもそもの動機になっていたりする。知っている文化的背景といえば、ニンジャ、ジュードー、トーフ、そんなもんにすぎなくても、日本製品だけは世界から愛され、認められている。それは、そこに心血を注いできた地味な開発者、研究者の努力が認められているということです。いわば、理系的努力と経済界の努力がみごとに認められているということです。
文学の世界でも、三島由紀夫や村上春樹などは各国語に訳されているし、「おしん」もいろんな国々で放映されました。ポケモンは、そのカードをめぐってこちらの子供が熱狂し、ニュースでもとりあげられることに。これらは文系・芸術系的な方面での賞賛といえるでしょう。
言葉なんかなくても、いいものはいいと、好きなものは好きと、問答無用でみんなが認めるんです。

こうして考えてみるに、ほんとにマジでこれから英語やらなきゃいけないのは、政治的側面にかかわるみなさんだと思うんですけどね。世界がますます相互に連動して、グローバルユニオンになっていくんだったら。だって、政治はもともと口先三寸、思考と言葉の世界ですもん。私としては、国民のみなさんに押しつけるまえに、小渕さんが率先して英会話を習ったら、といいたくなったことです。

タブー?

ここに来て、はや三ヶ月になろうとしていますが、あんまり「お、これは」ということがないので、退屈です。もちろん、風邪をひいていたとか、自分の身体の都合があって、積極的にあちこち行動していけない、というフラストレーションもありますが。

中国ではこの五日に春節(旧正月)を迎えたので、ここ二日ほど、テレビでは中国や台湾のお正月番組をやっていました。中国版紅白歌合戦みたいなもんですが、それが面白かったですね。なんか、日本とはやっぱり違うんですよ。台湾や香港なんか、日本と同じ、独自の国民性を反映した音楽はもうなくなりつつありますが、それでも、まだ日本よりはマシです。日本独自の歌謡曲、というのはもうここ十年で死に絶えた感じですね。

私個人は流行のJ−POPというのに、どうも馴染めない部分があって、カラオケでは歌いますが、「何が面白いんかほんとはわからん」というのが正直なところ。あまりにも嘘っぽいラヴソングばかりの歌詞と、あまりにアメリカ追従のサウンドと振り付け、でも、けっきょくは貧相な身体、というアンバランス。金髪に染めても眉毛は黒いまま、という感じでどうも美意識に欠ける。こっちのテレビで、胸がばーんと出て、腰がぎゅっと締まった美脚の女性シンガーの迫力ある身体を見慣れてしまったら、貧弱ボディの日本人アイドルの踊りはみんな、子供の学芸会みたいに見えてしまう。なんでみんな英語の(しかも意味不明の)バンド名にするのかもわからないし。
みんながマクドナルドに行く時代になっちゃって、サラリーマンのスーツ姿でも、子連れのヤンママでも、一緒になって安っぽいトレイのうえのものを食べてる。私自身はその光景にひどく貧しさと物悲しさを感じるので、マクドナルドにはよほどのことがない限り行きません。
もっと、日本人も、自分が自分らしく、美しく見える文化スタイルを創作すべきときに来てるんじゃないかと思いますけど。こっちでは、意味不明の漢字(意味はわからないけれど、こちらの人は漢字の形がビューティフルだと思っているらしい)をプリントした洋服とかが売られていていますが、そういうのをもっと逆手にとるべきですよね。

ところで、こちらで「人種問題」について話を聞いてみたいんですが、どうもそれは一種のタブーみたいなものらしい。でも、気になるじゃないですか、ほんとうのところ、白人は黒人をどう思っているのか(なんといっても、近代になってもまだ「奴隷制度」があったんですよ、アメリカでは)、中国人や日本人はこの国ではどう思われているのか。
この田舎町では黒人の姿はあまりみかけません。メキシカンは多いけれど。一見、あからさまな差別や偏見なんかないみたいに思えますが、みんなそれぞれに何か思ってるはずなんですよね。あるe-palにそれを聞きたかったんですが、見事にその部分だけは肩透かしくらわされてしまいました。中国国内で共産党について論じるのと同じくらい、この問題はこの国ではデリケートに扱わねばならないことのようです。まぁ、私が思っていた以上に、「〜系」という自分の出自を表わす言葉は重要視されているということです。そういえば、メル友募集のときも、黒人の人たちだけは、自分はブラックである、と最初にはっきり書いてましたね。あとはイタリア系とかヒスパニック系とかいろいろあると思うんですけど、そんなことを書いてくる人はいなかったと思います。こういうところに、この国の複雑さを垣間見る感じがしますね。
ウディ・アレンの映画だったと思いますが、黒人の男性とイタリア系女性が恋に落ちたことで、まわりに人種差別的な騒動が持ち上がる、というストーリーがありましたが、私はそれをビデオで見て、「へぇ、まだこんなことがあるの」と驚いたのを覚えています。人種差別なんて、少なくとも表面上はもうほとんど克服されたことだと思っていたんですよね。もっと個人主義的になってるというか。でも、実際は違うみたいです。

それにしても、中国とアメリカは壮大な実験やってるなぁと思うときがありますね。
一方は共産主義による富国を目指し、一方は人種・文化の融合または共存を目指している。
あと三十年ぐらいたったら、どうなっているでしょう。世界情勢もずいぶん変わっていると思いますが。それまで生きて、この目でそのプロセスを確かめたいものです。

どっちが性悪?

また猫の話。
くろにゃんですが、先週私たちが風邪で苦しんでいたとき、三日ほど来ないなあと思っていたら、このところまた毎日来てます。
彼女のここんとこ三日ばかりの行動パターンは、朝やってきて私たちと一緒に餌を食べ、それからしばらくねずみのおもちゃなどで遊んで、またふら〜っと出て行く。昼前か、昼過ぎぐらいにまたやってきて、餌を食べたら今度は眠たいのか、目がとろとろ。テレビ台の向こうにいって狭い隙間で寝るか、部屋の真ん中にどてっと寝転がるか、今日は私がパソコンに向かっているこのソファの真後ろの背もたれのうえに長々と寝そべっています。器用なやつ。
ずいぶん慣れて、あつかましくなってきましたよ。
こいつがいるから、この場から目を離せないと思って、昼過ぎから眠たくなった私が、ベッドルームに入らずリビングのソファに横になってうとうとしていたら、いつのまにかテレビの向こうで寝ていたはずの猫が隣に。ありゃ、どうするんだろうと思って薄目を開けて見ていたら、私の腿のあたりにどてっとのっかって、自分もすーこら眠り始めました。あのねー、重いっての。あんた、人を敷布団か何かの代わりにしてない?

先日のこと、朝、彼女が餌を食べ終わった頃に、またブチにゃんがベランダにやってきました。前にも書いた、あのブチ猫です。
仲が悪いんですよね、この二匹。
ブチのほうは、ただひたすらガラス戸の向こうをうろうろしたり座り込んだりして、こちらに入ってきたい様子なんだけど、くろにゃんはササッと緊張。姿勢を低くして、相手の動きをガラスごしにじっと見ています。ブチの真ん丸な目は、ほんと、何も邪気がないというか、くろにゃんのことなんか眼中になく、ただただ部屋に入りたいだけ、という感じなんだけど、くろにゃんが彼女を見る目つきの陰険なこと(~_~;) 猫のくせに半眼にして、じろりと睨んでるんです。おー、こわ。

ブチを入れたらまたこちらがそのパワーに圧倒されるに決まっているので、ガラス戸を開けないようにしてたんですが、夫が面白がって「ブチも入れてやって、二匹の様子をみたらどうか」って言うんですよ。試しにブチが入れないように、すこーしだけ開けてみたら、もうブチは必死でそこから手を伸ばしてきます。くろにゃんは緊張して固まってる。こんな状態でブチを入れられるわけがない。入れてもらえそうで入れてもらえないブチの様子がいかにも必死で哀れなので、「やっぱりガラス戸を閉めといたほうがいい」って私が言っていると、固まってたくろにゃんが突然ささっと走っていって、ブチに、何か言うなり唸るなりしたんですよね。猫同士ですから、私にはわかりませんが、「ここはあたしのテリトリーなんだから、あんた、いつまでもそこにいないでどこかに行きなさいよっ」とでも言ったんでしょうか。
それでもパワフル&鈍感なブチにゃんはめげない。何を言われたのかわかんないって様子で、目をみはってキョトンとしたまま、いつまでもベランダに居座ってこっちを見ている。
おもむろにソファのほうまでひき返してどてっと横になり、余裕を見せつけるように、「フン、なによ。あんたなんかどうせ入れてもらえないんだから」という目つきで見ていたくろにゃん、まだ姿を消さないブチのしつこさにだんだんイライラがつのってきたのか、しばらくするとまたむっくり起き上がりました。姿勢を低くして突撃体制に入り、サッと走っていったかと思うと、「んもぅ〜、出ていけって言ってるでしょっ!わかんないの、このバカ猫っ!」と言わんばかりに、ブチに向かってガラス越しに猫パンチを繰り出しました。
いや〜、びっくりしましたね(~_~;) そこまでやるとは思わなかったんで。
日頃スタイリストで、お行儀よくしているくせに、思わずカッとなったという感じです。でも、体力ではブチのほうが勝っているので、わざと「ガラス越し」なんですよね。相手が入ってこれないって、ちゃんと知ってて、そのうえで威嚇攻撃してるみたい。ほんとにケンカになったら、たぶんくろにゃんのほうが逃げると思いますね。
一部始終を見ていた夫、「やっぱりくろにゃんのほうが、性悪なんとちゃう? ブチのほうが性格よさそうやで。可哀相に」

確かにブチのほうは、お行儀が悪いけれど、その真ん丸な目をみていたら邪気がないというか、何も悪気がないような感じに見える。そんなに餌が欲しいわけでもなくて、餌にはあまり関心を示さずに、ただただ入ってきたいだけって感じなんです。まるでなんていうか、じゃれつく犬みたいな雰囲気ですね。
くろにゃんのほうは、もっと狡猾というか、ぶりっこというか、人間扱いが上手いんです。
何かしてほしけりゃ、こちらの目を見ながら可愛くニャーニャー鳴く、餌を用意しているときなんかはきちんと足元にお座りして待ってる、怒られると一瞬しょぼんとした様子も見せるし、呼ぶとすりすりとすりよってくる。いつもぺろぺろぺろぺろグルーミングして、身なりもこぎれいにしている。でも、時折、性悪の本性がのぞくというか、結局、こいつはあれこれとしてくれる人間様に、感謝もしてなけりゃ、自分勝手で情の薄いやつなんだなーって感じさせる雰囲気があるんですよね。どこかしら。
それはわかってるんだけど、なんとなく憎めないのでついつい可愛いがってしまう。なんでかなぁって言ってると、夫いわく、
「あいつが自分と同じやからやろ」
「それどーゆー意味よ?」
「毎日オシゴトして疲れて帰ってくる夫に感謝の気持ちもないし、僕がこれだけあんたのためを思っていろいろやったってんのに愛情も薄いみたいやしなぁ。何でも中身より外見に気ぃとられがちやし。くろにゃんの性悪さって、よう考えたらまったくあんたと一緒やん」
「・・・なぁ、言わせてもらっていい?」
「なに」
「私がさぁ、何でも外見で判断する女やったら、あんたと結婚せんかったと思うよ」
「ほらな、またそんな性悪なことばかり言う。あんたのその性悪さをどこかで告発せんとあかんな。それが僕の使命やと思うで、誤解してる人もおるみたいやから。あんたの掲示板ででも告発しょーかな」
「あんたなぁ・・・性悪はどっちよ!?」
このあとの会話はあまりにも見苦しいので、本日はこのあたりで自主規制いたします。

バレンタインデー

時差の関係で、日本ではもうバレンタインデーは終わってしまったかも知れませんが、こちらでは、まさに今日がその日。
バレンタインデーにチョコレートなんか贈るのは日本人だけかと思っていましたが、こちらでもやっぱりチョコ、もしくはキャンデーなどの甘いもの、要はSWEETという意味なんですかね。でも、特に、女性から男性へ、というものではないようです。恋人たちの日、もしくは告白の日、という感じ? スーパーではバレンタインコーナーが設置され、にぎやかにラッピングをしたそれ用のチョコや花束などが山積みになっています。香水などの贈り物や、カードの種類も豊富です。義理チョコもしっかりあるみたい。私たちは、アパートのオフィスからちょっとしたチョコレートの詰め合わせをもらいました。

私は個人的にバレンタインデーって、いい思い出はないです(~_~;)
小学五年生か六年生のときだったか、学校で、好きな男の子の机のなかにこっそりチョコを置いておいたら、帰る頃にはそれが自分の机の中に突っ返されていて、悲しかったことを憶えています。その日は、なんか落ち込んで、ひとりで家までしょんぼり帰ったように思います。べつに、好きになってもらえなくてもいいから、突っ返すことないのになーと思いますが、なんといっても小学生ですからねぇ(~_~;)

いまはなんか恋愛に関心なくなってしまいました。
結婚するまでは恋愛って人生の一大事業みたいに思うんですけど、いちおう何度か恋愛してみて、恋愛ってこういうものかと納得して結婚したら、そういう大袈裟な思い入れはやっぱりなくなるんじゃないかと思いますね。
私の恋愛体験が多いのか少ないのかわかりませんけど、かつての人生のなかで、ほんとうの意味で恋愛の相手として考えていたとはっきり言えるのはただ二人だけです。いまでは会うこともないですが、やっぱり今も彼らには幸せでいて欲しいし、彼らの何がどうであっても、この地上のどこかに生きている、それだけでいいと思えます。
恋愛のあり方っていうのも、経験とか年齢によって変わってきますね。もう今の私には、「相手が自分を好きになってくれるのかどうか」と考えてすごくせつなくなるとか、「どうしてもこの人でなければもう人生なんて存在しないのと同じだ」などという、一人勝手な激しい思い込み方はできないんじゃないかと思う。
そうですね・・・いまなら、「相手は、愛情に対してどういう誠意とか責任感をもつことができる人なのか」とか、「この人と深く付きあうことによって、自分がどう変化していくのか」ということをもっと考えると思います。

ちなみに相手の選び方も当然かわってきますよね。
以前なら、自分と価値観や趣味が極力似ていて、「ほんと? あなたもそう思う? あたしたちって同じね♪」という快感を共有できることが大切だったけれど、今、現実に結婚している夫は、お互いぜんぜん違う部分が多い(~_~;)
「同じだね」の人間関係を繰り返してみて、私には、「それが時とともに煮詰まっていく」ことがわかったように思うんですよ。そういう関係ってはじめはすごく心地よくて、これぞ我が「失われた半身」だと思い込むんです。それはそうかもしれませんが、やがてお互いの成長とともに、それが感情的にも、思考的にもだんだん煮詰まってしまって、なんだかもう出口がなくなってしまう。二人カプセルのなかに閉じこもって、お互いがお互いをギリギリまで追いつめ、外界との接点が失われてしまう、そういうふうになってしまうんです。もちろん、それを打開して、もっと深く豊かな関係を発展させていくことはできると思いますが、若いとそれは難しいような気がしますね。精神的によほど成熟しないと。まあ、これはたんに私個人の傾向なのかもしれませんが。

夫に対する気もちは、恋愛というスリリングでスパークするような激しい感情とは、まったく違うものですね。それはわりとはじめからそうだったと思います。お互いある部分ではすごく違ってて、それが時には興味深かったり、「なにこいつ」と思うんだけど、それでも根底の部分では共通するところがあって信頼してるというか。それは「運命の人なの!」という思い込みではなくて、相手も一人、自分も一人、すべての人はある意味、みんな孤独である、ということを踏まえたうえでの「静かな信頼」って感じですか。
二十代の頃なら、不幸にして相手が死んでしまったりしたら「私も死にたい! そっちへ連れてって!」と叫んでたでしょう。今は、夫が「僕より先に死ぬなよ。長生きしろ。また再婚してもええで」というその言葉に、素直に「うん」と言える。私も変わったなぁと思います。

幻の“DUSTY BABY”

夫が昨日、めでたく免許を取得いたしました。これで、せっかく買った十年もののカムリにも乗りまくれると喜んでいます。今日は初めて研究所まで自分の車で出かけることになります。さて、無事に帰ってこれますやら、少々心配ですが・・・(~_~;)
こちらではペーパーだけで仮免が取れますが、本免許を取るためには実際に乗る練習をしなきゃなりません。試験は自分の車を持参して受けることになりますので、日本のように教習所というものはなく、ドライビングスクールの先生が車で直接、家まで来てくれて、いきなり路上にでるんです。アメリカの道は広いし、人や自転車はほとんどみかけないし、みんなわりと譲り合いの気もちがあるので、日本の、しかも大阪で路上の練習をするよりずっと楽だと思いますね。一回二時間で$70。夫の場合、七回ぐらいレッスンを受けました。最初は近所を走るだけですが、最後のほうでは、免許のテストコースを走って、ここはこうしたほうがいいなどと丁寧に指導してくれたそうです。結局、日本と比べればびっくりするほど格安&短期に免許が取れます。これを、日本で申請すると、日本でも免許として使えるようになるということで、お得ですね。ほんと、「アメリカ・免許合宿ツアー」でも企画すればいいのにと思うくらいです。

さて、またまた猫の話にかわって。
最近、くろにゃんがやってくるようになってからですが、動物との付き合い方がわかる素晴らしいサイトを見つけたので、そこの記事を参考にしながら、このへんの猫たちと接しています。
このサイト、主に犬と猫が中心ですが、動物好きの方、犬猫以外のうさぎやハムスターなどのペットの飼育やしつけなどで悩んでいる方にもオススメです。このサイトのおかげで、私もけっこう猫の気もちがわかるようになった気がします(^^)

つい昨日の晩のこと。ベランダの下の低い茂みに見慣れぬ猫が。こいつをめぐって、また私たち夫婦の「お猫様騒動」が。
だいたい、このあたりには数匹の猫が常時うろついていて、私がよく知っている、くろにゃん、ブチにゃんのほかに、三毛猫に似た「みけにゃん」と毛足の長い「オレンジ猫」、その他にやっぱり毛足の長い真っ黒な猫などがいます。ペット禁止のアパートだから、正式に飼われているとは思えませんが、フリーの猫にとってここは居心地がいいアパートなんだと思います。というのも、ベランダと階段が隣接していて、階段を上って桟の間から猫がベランダに自由に出入りできるんですよ。三階のベランダの柵のうえから、屋根にも飛び乗ることができます。隠れるところのできる丈の低い茂みがたくさんあるし、たぶん、住人も、自分のベランダに来た猫に意地悪したりせず、むしろ可愛がってるんだと思います。

そんなわけで、ベランダに出たり窓から下を覗くと、何匹かの猫を観察できますが、ゆうべの猫は見たことがなかったんです。さらに、うちの夫が、あいつ、動物病院から逃げ出した「迷子猫」とちがうか、というんですよ。もうずいぶん古びていますが、この建物のすぐ下に迷子の猫探しのチラシが貼りつけてあって、そこには“DUSTY BABY”を探してほしいと猫の写真付きで書かれてあった、というんです。“DUSTY”っていうのは、「ほこりまみれ」という意味ですが、この場合、つやのない灰色、ということでしょう。で、ちょうどこの新顔猫が灰色だったんですよね。
私たちは、半分は人(猫)助けのつもりで、半分は何か謝礼がもらえるかも?というあさましい気もちで、その猫を捕獲することに。で、ねずみのオモチャをもって私が外に降りていくと、茂みの中で猫がこっちを見ている。オモチャをちらちら振ってみせ、猫なで声で、「にゃんにゃんちゃん、おいで」と言っていると、一瞬来るかと思われたのですが、そこへ登場したのが例のブチ。間が悪いやつ。おまえを呼んでるわけじゃないのに。焦る私を尻目に、ブチは何も知らぬげに、私と迷い猫の間に割って入り、怯えた新顔は逃げそうに。コリャ駄目だと思い、とにかくブチを遠ざけようと、私がブチを抱えて自分の家まで駆け上がり、その間に夫がみごと、“DUSTY BABY”の捕獲に成功。
ブチは抱かれるのを嫌がって逃げてしまいましたが、この“DUSTY BABY”は、さほど抵抗もせず、家に連れてきても、怯えて固まって、ちょっとの動きや物音にもびくびくしてました。でも、全身灰色で、毛足が長くふさふさして、なんだか「いいところの猫」って感じ、白目は青みがかって、よくみればけっこう美形な猫です。

とりあえず手なずけねばと、さっそく餌を手にのせて直接手から食べさせました。ひどくお腹が空いていたみたいで、餌付け作戦は成功、手から餌をやっているうちに、慣れてきたのかもりもり食べて、くろにゃん用においてある猫缶を一個まるごとぺろりと開けてしまいました。水も飲む飲む。こんなに飲んだり食べたりする猫を見たのは初めて。くろにゃんは、いっぺんに、猫缶三分の一ぐらいしか食べないし、めったに水は要求しないですからね。
それに、よく見れば後ろ足が片方不自由な様子なんです。そのために、満足に餌が取れないとか、動けないということがあったんでしょうか。とにかく、食べるだけたべさせてもらったら、緊張がほぐれたのか、私たちにびくびくしなくなり、なついて後をついて回るように。
それはいいんですが、もう一度、よくよくポスターの写真を見てみたら、どうも顔が違うみたい。
電話してみましたが、やっぱり長い毛の種類ではないと言われてしまいました。それならもっとはっきりと猫の特徴を書いておけばいいのに。白黒の写真のコピーじゃねぇ。
夫とふたり、顔を見合わせ、もはやソファで気持ちよさそうに丸まっている猫を眺めて、
「どうする? こいつ?」
夜、私たちが寝ているときに何をされるかわからないので、泊めるわけにもいかないし、ベランダのねこハウスを使おうかとか、無理矢理外にだそうかと言っているうちに、ドアをあけたら自分から出て行きました。でも、なんだかあまり出て行きたくなさそうで、階段の踊り場で、ずっとこっちを見てました。ごめん、“DUSTY BABY”。また来たら食べさせてあげるからね。

7を読むBACK