必見! 大モンゴル展

万博公園の国立民族学博物館へ行って、大モンゴル展を見てきました。
大草原の遊牧文明は、この現代文明の行き詰まりを打破するためのヒントたりえるか?というような、まことにそれらしく立派な主旨のもと、いろいろと面白く珍しいものが展示場にはディスプレイされてました。
それを見て・・・このところ、こんがらがってしまった気もちが、ますます複雑に。
というのも、最近こだわっている「科学文明と人間の幸福」論議ですが、まあ、私の周りでも、確信派と懐疑派がいるんですね。
いわく、「科学(技術)は人間の幸福に貢献してきた(はずだ)し、これからもそうである(と思う)」派と、
「科学(技術)は必ずしも人間を幸福にしない(だろう)し、今の文明がいいものとは限らない」派。
彼ら彼女らは、こういう生活のあり方を見て、どう思うかしらって。
私自身は、「人間は不完全だから、文明がどんな状態であっても、自らが幸福にも不幸にもなりうる」という気もちをますます強めています。
上記のどれにあてはまっても、こういう論議に関心のある人なら、大モンゴル展はきっと何かを考えさせてくれるヒントたりえる、と思いますね。ぜひ、行ってみてください。11月24日までです。
ただし、忠告ですが、あそこのレストランでモンゴルのチャイ(ミルクティー)は注文しないほうがいいですよ。
塩味なんですが、塩辛くてとても飲めたものじゃない(-_-;)

あ、そうそう。別館では、いまのところ、「理系の男たち」関連のメールの掲載が続いてますが、文芸館宛ての感想やご意見でしたら、どんなテーマでもかまいませんので、「なんか、これで盛り上がってるみたいだしなー」などと思わずに、気軽に書いてきてくださいね!
軽い話題、泣きの入った話、なんでも歓迎です(^^)


男と女の「ごっこ」遊びを考える

芸能人の離婚騒動が話題になっているのを知り、新聞では「夫・恋人からの暴力」が連載されているのを見て、世の中にはいろいろなカップルのかたちがあるものだといまさらながらに思います。
夫婦喧嘩は犬も食わないといいますから、多少はほっておけばいいんでしょうけど、でも、女性側が深刻なダメージを受けるほどの暴力は、どう考えたらいいんでしょう?周囲がほっておいていいものなのか。やはり、なんらかの救済が必要だと思いますね。

しかし、男の人って、もともと暴力的な側面があるんでしょうか?いや、家庭での母親による幼児虐待が問題になっていることを考えれば、女性にだってそういう面がある。男女かかわらず、相手が身体的に弱いと、つい暴力的になってしまうものなんでしょうか。
私は背も低いし、腕力もないですから、わけのわからない身体的暴力が一番恐いし腹が立つ。精神的な暴力には、まだ対処するすべがあるけれど、物理的な力に対しては、自分が無力であることを知っています。だから、その面での警戒心も強い。暴力による応酬は、何があっても避けなければならないと思います。でも、なまじ自分の腕力に自信のある人は、そうではないようですね。ある男性いわく、「自分にそういう力があれば、話がこじれたときには、それを使って解決したくなるのが人情」、なのだそうです。このあたり、アメリカがイラクに武力行使をしたがるのと同じ理屈かもしれません。

現代社会で身体的な腕力が問われることは、まれになってきていますが、男性に対する「男らしさ幻想」みたいなのはやっぱりあって、スポーツができ、適度に粗野な振る舞いをし、ある程度の無謀な決断も下し、見た目に筋骨隆々としているのが「男らしい」とされているらしい。(私個人は、粗野な男は嫌いだし、あまりマッチョな外見って暑苦しいだけだと思うんですけど・・・)
少年マンガとか見ると、もう笑ってしまいますよ、なんていうかその筋肉描写ですが、すごいですねー(~_~;) 実際に見たら、気持ち悪いだろうし、そもそもあんな日本人ってあまりいるわけないと思うんですけど。少女マンガのヒロインは、目が顔の上半分のほとんどを占め、しかも、そこに星がいくつもとんでる、というのと似たようなものでしょうか。それから、マッチョな肉体づくりを目指す広告の数々・・・
面白いですね。男性が、いかに「筋肉」に固執しているかわかります(^^)
筋肉は力を表現し、目というのは感情を表す器官ですから、男女の意識差が、こういうところに表れているんだなぁと思います。感情に訴える女性と、パワーを誇示する男性、という図式。

でも、現実の男女が、その図式どおりに生きているわけではないですからねー。そういう「らしさ」の図式は、いわば、男女合意のうえでの文化的な「ごっこ」遊びであると考えたほうがいいかもしれない。まあ、確かに、「らしさ」の図式はある意味で男女の違いを明確にしてくれますから、それを意識するのは楽しいことですが。
「いつも力強くリードしてくれる彼」とか、
「守ってあげたい可愛い彼女」というやつですね(^^)
そういうイメージでボンヤリ夢想するのは、あくまでも「ごっこ」遊びの相手を演じる男であり女であって、いざ真剣なつきあいとなると「ごっこ」遊びばかりやっていられない場面も多いですから、けっきょくいずれは、男らしさ女らしさよりも「人間性」がメインになってくるのではないでしょうか。

暴力を振るう夫や恋人の多くは、自分に自信がないのだとか。その自信とは、この「ごっこ」遊びの相手としてのイメージに対する自信じゃないかと思うんです。「強く、たくましく、頼りになる男」というような。そのイメージ通りの男性もいるでしょうけど、実際には、大半の男性が、気弱にうじうじと悩み、時にはどうしようと迷いもしながら生きているわけですから、男だからといって、誰もかれもがマトモにそんな役を押し付けられていたら、そのプレッシャーで、キレる男性も出てくるんじゃないですかね。。最終的に「強さ」を誇示する手段として、女性への暴力に走る、というのも皮肉で、けれども、なんとなくわからないでもない。それしか自分を「らしさ」のイメージに合わせるすべがない、ということかもしれません。
ある程度ステディな関係になり、あるいは結婚してまでも、男女お互いに「ごっこ」遊びのイメージにとらわれすぎるのは考えものだと思います。かといって、しゃれた「ごっこ」遊びもできないカップルっていうのも、貧相でつまんない感じがしますし・・・やっぱりそのへんのバランス感覚を洗練とか知性と呼ぶのでしょうか(^^)


永遠のテーマ

文学には、いつの時代にも通用する永遠のテーマがあって、それは、生きる上で考えることそのものです。
「愛って何?」
「家族とは?」
「自立とは?」
というような究極の問いですね。
時代がどんなに変わっても、私たち個々の心の働きは、あまり変わらない。哲学者や芸術家が考えてきたこと、感じてきたことは、文字や作品となって、昔から累々と蓄積されていますが、ときには何千年もの時間や地理的広がりを超えて、現在のあらゆる場所に生きる私たちにも、訴えかける力を持っている。もちろん、当時そういう偉大な才能を持った人は少なかった、教育が行き渡り、生活に余裕のできた現代の私たちには、さほど苦もなく読めるものでも、その当時の一般大衆レベルでみれば、難解であったり、ほとんど非現実的であったりしたかもしれない。でも、テーマは同じです。普遍の、永遠のテーマ、唯一正しい答えをもちえない問いが、いつの時代にも、人間の生きざまのなかには浮かび上がってくる、ということでしょうか。
理想と現実の相克、というのも、その永遠のテーマのひとつ。
誰でも、ほんとうに美しいものの価値を知っています。けれども、花が咲けばやがて散るように、それが、未来永劫に存続できないものだということも、また知っている。ここに、普遍的な苦悩とドラマ性があります。

村上春樹の「ノルウェイの森」は彼の大出世作になりましたが、その何年後かに出された「国境の南、太陽の西」と合わせて読むと、興味深いと思います。私自身は、このふたつを実際に読むのに、約十年のインターバルがありました。二十二ぐらいのときに「ノルウェイの森」を読み、三十二で「国境の南、太陽の西」を読んだ、ということです。
「ノルウェイの森」を読んだときは、素直に感動しました。主人公のワタナベ君に感情移入できたし、こういう男の子っていいよなぁ、などと思ったものです。でも「国境の南、太陽の西」を読んだときは、うーん、と唸ってしまいました。なにか、ちょっとひっかかるところがあって、考えさせられるんですが、それが何であるかということは、そのときにはわからなかったんですね、そのすぐ後、古本屋でとある少女マンガに出会うまでは。その少女マンガとは、竹宮恵子の「風と木の詩」です。

私は普段、マンガは読みません。が、70年代後半から80年代前半の少女マンガは妙に好きなんです。なんか、いかにも叙情的なつくりが、とてもノスタルジックでいいんですね。非常な才能も感じます。あの時代の萩尾望都、山岸涼子など、もう他を寄せ付けない独自の世界を築いている。
竹宮恵子の「風と木の詩」も、その頃の作品ですが、なんというか、ちょっとキワモノ的な感じでした。いわゆる少年愛もので、けっこう過激な描写があったりもした。今ならさほど過激ではないとは思いますが、彼女の才能は、少し時代を先取りし過ぎていた、ということかもしれません。そういう意味で話題になった作品でした。ものすごく長いストーリーで、私はそのラスト三分の一ぐらいを読んだだけですが、その部分だけでも、手に取る価値はじゅうぶんあります。

ジルベールという耽美的な少年とセルジュという優等生的な少年が、互いに惹かれ合い、成長する物語で、少女マンガにありがちなカップルだと思うんですが、この二人、周囲の無理解に反抗して、無謀にも家出するんですね。二人とも良家の出で、まだ中学生くらいの少年ですから、労働や生活の実態にはまるで無知。そこで、さまざまな困難に遭うんですが、この悲愴なくだりが、もう半端な迫力ではない。これでもか、というくらいに、イジメや誘惑、貧困との戦いがあるわけです。それは、環境との戦いでもあるし、自分の気もちとの戦いでもある。あんなに決意してきたはずなのに、二人の間にはいつしか精神的な溝さえもできて・・・
このジルベールという美少年は、もう徹底的に、温室の花のような描かれ方をしています。つまり、その美しさや価値を生かし続けるためには、それなりの環境が必要なこと、誰かが水をやり、害虫などから守ってやることが、絶対不可欠なように描かれている。対照的に、セルジュはいささか雑草的です。どんな環境でも、前向きに生きぬく力がある。彼ひとりなら、下町で生きていくのもたやすいはずですが、ジルベールを連れていることで、負担は倍増する。けれども彼は、自分にはジルベールが必要だ、と思うわけです。

詳しく語り出せばきりがないんですが、このマンガのこのくだりを読んでみて、私には、「国境の南、太陽の西」に対するひっかかりが理解できたんです。
これらのストーリーのテーマは、どちらも理想と現実の相克です。
「国境の南、太陽の西」では、謎めいた元同級生の美女と、主人公の妻が、それぞれ愛情の対象としての理想と現実を表わしている。思い起こせば、「ノルウェイの森」でも、直子とミドリという二人の女の子が、そういうコントラストをつくっています。そして、いずれも、主人公にとっては理想の具現化である女のほうが死ぬ、または消える。
「風と木の詩」でも、最後はジルベールが死に、理想の関係の崩壊で終わっていますが、竹宮恵子と村上春樹の決定的な違いは、その相克のドロドロを描くか、描かないか、ということなんですね。

春樹はそれを描かない。理想は美しい、いいなぁ、と思いながらも、それが手に入らない。いつも、手に入る直前で、向こうのほうから消えてしまう。手に入らないから、ドロドロする余地もないわけです。そして、彼はそこで果てしない虚無感、喪失感と向き合うことになる。その彼の傍らにはでも、妻という現実、ミドリという現実がすでにあるんです。彼はその現実とも、きちんと折り合いをつけられるし、決して疎ましくは思っていない。けれども、消えてしまった理想に対する喪失感というのも拭い去れない、という構図です。三十を超えた私がひっかかったのは、ここにちょっと小ズルさのようなものを感じてしまったからだと思います。
端で見ていて、理想っていいなぁ、などということなら誰でもできる。でも、手を伸ばしてそれをつかんでしまったら、そのときから、それを維持するという困難が発生するわけです。この人、けっきょくそのあたりとは向き合いたくないんじゃないの?そのへんを避けているんじゃないの?ほんとうは、手に入らないことを望んでいるんじゃないの?そんなふうに思ったわけなんです。
竹宮恵子の場合、そのへんをもう克明に描いている。苦しみ多い現世に生きて、人が、どんなふうに理想を見失っていくか、ということが描かれています。けっきょくは、失う、けれども両者の結末は違います。ジルベールを失ったセルジュは、一時的に錯乱しますが、最終的に彼は、芸術のなかにその痛みや悲しみを昇華するんですね。たんに、喪失感にひたっているわけではない。彼の芸術のなかに、ジルベールを生かし続けるわけです。
こういうのは、古典的で「いかにも」だ、という見方もできます。聖書のなかでだって、キリストは殺されて死ぬ。神の理想や愛の具現者である彼は、現実の環境によって殺され、まさにそのことによって、人々の宗教的感情のなかに、生き続けるパワーを得たわけです。もし、あんな残酷に殺されなかったら、キリスト教自体の影響力が、こんなにまで強大になりえたかどうか。理想と現実の相克、そして理想の喪失、それを乗り越えた精神的な成就というのは、ありがちなパターンなわけです。落ち着くところに落ち着く、というやつです。すでにパターンは物語化され、リアル感を失っている。が、それでは、理想に手を伸ばさないで相克を避けた春樹的虚無感が現代のリアルかというと、もはやそうでもないのではないかと思います。

純粋な愛とか心打たれる美というのは、永遠の理想です。それに対してこのままならぬ現実、生きていかねばならない日々の生活の雑多さがある。その相克とは、生命を輝かせることと、それを維持することとの相克にほかならない。だから、どちらかを諦めて、解決をみることになるんですね。
「風と木の詩」では、手に入れた理想が死んで現実が残り、そのことによって、現実のなかに「目に見えない輝き」としての理想を生かした。これは古典的純粋さ。
「国境の南、太陽の西」では、けっきょくは手に入らないものとして理想を位置づけ、現実と折り合い、そのなかに漂うやるせない虚無感を強調した。都会的で自閉的なサラサラ感覚。
ついでにいえば、「失楽園」では逆で、現実が理想に殉じる退廃が強調された。劇場的、芸術的な破綻。
これを読んでるあなた自身は、どれがお好みですか?
私は、いま、どれでもないな、どの物語にもリアリティを感じないな、と思っています。
なにかほかにあるはずだ、そう思っています。
私はわがままですからね、どちらかを捨てなきゃならないなんてことはないのではないか、と思うんです。つまり、生命を輝かせつつ維持することが、できなければならない、と思うわけです。
愛も夢も、それを手に入れたあとから、ほんとうの困難さがやってくるんですね。それを維持する、という困難さです。手に入れたそばから壊してしまって、それで、「しょーがないや、そういうものなんだからさ」、というのは、今や、あまりに安直すぎる。それって、子供の恋愛みたいですよね。夢中になって追いかけても、三週間で別れる、というやつです(~_~;)
大人ならば、もっと本格的な輝きを手に入れて、いつまでも大事に持っていたいものです。
生命の輝きは、見つける、手に入れる、手の中で維持する、このスリーステップ。どのステップであれ、そこで気を抜いてしまえば、薄れてなくなるんですが、なかでも最後の「維持する」ステップを持ちこたえることこそ、理想と現実の融合・共存であり、至福の境地、ということになるんじゃないでしょうか。
これが、理想と現実の相克における、真実、永遠のテーマであると、私自身は思っています。


流星と闇シチューの一夜

17日の深夜から18日の明け方にかけて、三十三年ぶりに「しし座流星群」が見られると話題になりました。
みなさん、ごらんになれましたでしょうか。
周知のとおり、ちょっと肩透かしを食らわされたようなかたちになりましたが、私、これについては、けっこう期待してたんですよねー。というのも、うちの父が、三十三年前に見ているからなんです。大阪から四国へ向かうフェリーの甲板で、夜空を見上げていたら、まるでシャワーみたいに、ある一点から流星が四方へ飛び散るさまを見た、というんです。当時は、マスコミなどもまったく話題にせず、一般には誰ひとり、「しし座流星群」などという言葉も現象も知らなかったそうです。父は、一瞬、何が起こったのかわからずに、ただびっくりしていたといいます。他の人たちも騒いでいるし、目の錯覚ではないらしい、などと思っていると、またサーッと流星が飛び散って・・・
それは、ちょっと恐いような感じだったそうです。天変地異か?というような。なるほど、何も知らずにそういうのを見れば、今だったら、「おおっ、ハルマゲドンの前兆か!?」という気もするでしょうね(~_~;)

さて、期待たっぷりに私はその夜、とある大学の物理学科のK氏、地学科のM嬢とT君と一緒に、この天体ショーを見物しに出かけることにしました。その場所を詳しく述べるのは控えさせていただきますが、そこは街灯の明かりなどがなく、小高い場所、そして、まぎれもなく、他人の田んぼのなかでした。稲刈りをすませた田んぼには、藁が少し積み上げてあり、そこにシートなど広げて陣取ったわけです。
時間はだいたい18日の一時前くらいだったと思います。あたりは真っ暗で、空には星がよく見えました。前日は雨が降っていたので心配していたのですが、それが嘘のようによく晴れた、満天の星空でした。私の家の周りで、あんなに星が見えたことはありません。都会では、あんな星空なんか、プラネタリウムの中にしかないと思っていたのに、人工の照明のないところでは、それがほんとうにあったんです。

私が見てわかる星座は、オリオン座だけです。小学生のときだったか、星座を見る宿題があって、近所の同級生たちと夜、外に出て星座早見盤を片手にわいわいやってた記憶があります。そのときから今までずっと、オリオン座だけはどこにあってもわかりますが、あとは、さっぱり(~_~;)
18日、オリオン座を見上げたら、非常にくっきりした三つ星(いわゆるオリオンベルト)の下に、もやもやと星雲みたいなものまで見えました。そんなの、このマンションの近くでは見たことなかったんです。このあたりで見れば、その部分は黒くなってるだけです。ああ、こういうのがほんとの星空なんだな、と実感しました。
きっと古代の人々は、これよりももっとほんとうの星空を見上げていたに違いありません。それは、黒いビロードに大粒ダイヤをちりばめたような、ほんとうの星空だったんです。私は、自分が何か損してるような気分になりました。かつて、古代の人たちは星に神様の姿をなぞらえて星座をつくったりして、まあ、ずいぶんと暇な人たちだ、と思っていましたが、それだけの神性を感じさせる何かが、そこにはあったんですね。私が、カーテンを閉めるときにマンションの窓からちらっと見る、すすけたチャチな星空なんかとは、くらべものにならないような迫力と神秘さが、きっとあったんですよ。
私たち四人が空を見上げていると、大きな流星が、さっと尾を引いて現れました。
私は、流星を見るのも初めてです。おお、ついに見てしまった!と感動。う〜ん、確かに天変地異という感じがしますね〜(^^)

さて、しばらく星を眺めてから、私たちはおもむろに、もってきたカセットコンロやなべ、きざんだ肉や野菜などを取り出しました。そう。この日のもうひとつのイベントは、このシチューづくりにあったのです!
流星ショーを見ながらシチューを食べよう、というのが、この夜の目的だったわけです。まあ、なんと欲張りな私たちでしょう!!心もお腹も満たされる、この素晴らしく合理的なツアーの発案者は、M嬢。野菜などの材料をきざんで持ってきたのは、ぜんぶ彼女。味付けその他も、ぜんぶ彼女。え〜、私はというとですね、その周りで、ここぞとばかりに無能ぶりを発揮していました・・・(~_~;)
彼女、天文マニア(?)でもあって、おおきな望遠鏡と星座早見盤を持参。シチューの材料を火にかけて、ぐつぐつ煮ているあいだに、望遠鏡の照準を土星に合わせて、私たちに「土星の輪」を見せてくれました。
これまた初めて見た私は感動。
次いで彼女は、私たちの求めに応じて、すらりと天を指差し、柔らかに落ち着いた声で、「あれが大犬座、あの青白く光っているのはシリウスで・・・」などと説明してくれます。K氏と並んで、ふんふんと聞いている私は、とてもじゃないけれど、「ねえねえ、シリウス星人が地球に飛来してるってほんとかな?」などと言えませんでした(~_~;)
いやー、しかし、彼女が男でなかったのが残念でなりません。こういうのが、そもそも私が胸に抱いていた科学者のイメージだったのよね〜(^^)
知的で、もの静かなロマンティスト、温和な笑顔で天を指差し、「あれはね、○○座の××星、太陽の二倍もあって、地球からは八光年も離れているんだよ」・・・ねっ、ステキでしょ?
そうそう、もうひとりT君はと、ふと振り返れば、彼はコンロのそばにあぐらをかいて、寒そうに背を丸め、なべの番をするように、一心不乱にオタマで材料をかき回しているではありませんか・・・さすが、どんな時でも現実から乖離しないのが真の科学者であると、思い知らされたことでした。

コンロの火力が弱いので、シチューを煮るには時間がかかりました。吹きっさらしの田んぼで、私たちが大小さまざまな流星を我慢強く観測し、けれども、もうそれにも飽きて凍え死にそうになっていたとき、やっと煮えあがった、という具合です。懐中電灯で照らしながらつくっていたのですが、いざ食べ始めると、誰も手元を照らしてくれる者がない。みんな、食べるのに夢中だったからです。片手に紙皿を持ち、片手にスプーンを持っていると、当然のことながら、懐中電灯を持つ余地がないのです。暗闇の中、口の中に入るまで、それがジャガイモなのかニンジンなのかわからない、という状態。闇なべならぬ、闇シチューです。それでも、そのシチューの美味しかったこと!おなべいっぱいのシチューが、あっという間にからっぽに。
けっきょく、四時すぎまでねばっても流星の大出現はなかったけれど、この闇シチューの思い出だけは、一生忘れられないものになりそうです。
車を運転してくれたT君に感謝、そして何よりも、土星の輪を見せてくれ、星座を教えてくれ、美味しいシチューを食べさせてくれた可愛らしいM嬢に感謝、です(^^)


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