君たちを忘れない

このまえ、ひとりで自転車にのって、かつて自分の通っていた高校を見に行きました。
変わっていたところもあったし、変わっていないところも。
自転車置き場とか食堂、校舎、グラウンドなんかは、あのころのまま古びていて、だけど生徒数が減ったからか、自転車の数も少なかったように思います。
建て替えなんかしていないから、自転車置き場の屋根を支える柱は、白いペンキが剥げて錆が茶色く鈍く光っている。あのころから今までずっとこの柱もこの屋根もここにあるんだなぁと感慨深く思いました。
靴を履き替えるロッカールームもほとんど当時のまま。
昔に比べると木々や草が伸び放題になって汚くなった中庭を歩くと、授業中だったので、ときどき先生たちの声が教室から漏れ聞こえてきます。ああ、あの中にいたんだなぁって思いました。
友達でもそうでなくても、仲良くてもそうでなくても、みんな、ここで同じ時を過ごしていたんだなぁって。

もう帰ろうとしたとき、校門から女の子が入ってきました。遅刻でしょう。雨の日なんかは私もよく二時間目から登校したっけな、と思いつつ女の子を見ていると、制服がまるで違ってる。なんだか別の高校みたいでした。
そうか、体操服や制服なんかはデザイン一新されたんだなぁと、少し寂しく見ていると、女の子は私に少し頭を下げました。知らない顔だけど、きっと、先生だと思ったんでしょう。
すれちがってから、ちょっと哀しくなりました。その少女の姿と重なるように、あのころの思い出が、胸の奥底から芋づる式にあとからあとからズルズル掘り起こされて、なんともいえない痛みに、少し涙が出そうでした。

そんなに懐かしいのなら、同窓会になぜ出ないのか?
考えましたけど、いまさら会いたくないんです。大人になったAちゃんやB子など、見たくない。
「あの子はね、結婚したけど離婚して、働きながら子供と二人暮らしだよ」
「あの子は、今度三人目が生まれた。ダンナがリストラにあって、苦労してるみたい」
「あの子は、再婚してパートにでてる。子供はいないけどダンナさんが病弱で大変」
「あの子は、昔、ヤマギシ会に入ってどこかの農場みたいなとこで働いてたけど、今は何してるんだか」
・・・風の便りにそれだけ聞けばもうじゅうぶん。
みんな、それなりにいろいろあって、大人になってるよね。
私も、それなりにいろいろあって、いまここにいる。
もう会いたいと思わない。

あのころは、家が貧しいとか金持ちだとか、家庭環境がどうだとか、なにも考えてなかった。
ただ、机をならべて退屈な授業中は手紙を回して、昼休みには一緒にお弁当を食べて、漫画の貸し借りをして、笑って、語って、ときには少し腹を立てて、それだけだった。季節は今よりもめまぐるしく変わり、心も舞い落ちる木の葉より起伏に富んでた。
これといって劇的なことがあったわけじゃないけれど、今の高校生みたいに化粧もせず携帯なんかもない時代、私たちは、とんでもなくバカで、だからこそ可愛くて、きらきら光っていたと思います。
十六のころ、将来、あたしたち、どうしているのかなぁと誰かがいったとき、ひとりは、
「今つきあってる彼と結婚して、アパートかどこかに住んでたらいいなぁ」って。
でも、世間知らずで彼氏もなく無知蒙昧な夢見る夢子ちゃんの私は、
「えー、私は白いテラスのある家に住みたい〜」
って言っちゃって、みんな「ハァ?」って。
「白いテラス!??なにそれ」
「えとさ、芝生があって白いテラスがあって、そこに白いテーブルとかパラソルとか出して、お茶会するわけ。なんていうの、ほらー、スコーンとかサンドウィッチで、ティーパーティ。お洒落やん〜」
んー、当時からアガサクリスティ小説のそういう部分に憧れてたんですよね。
家に帰って両親に、今日こんなこといったら友達がみんなハァ?ってのけぞってた、と言うと、また大爆笑されましたが。それからしばらく言われましたね、「あんたは白いテラスの子やからなぁ(プ」って。

なんでもないことが、いまでは輝いて見える。腹を立てたことさえも、微笑ましく思える。それは歳をとった証拠なんだろうけど。
だからみんなに会いたくない。会っても、もうそんな関係には戻れないし、戻る気もない。
言いたいことはあのころ言った、やりたいこともできる範囲でやった、いまさら過去の誰かと何を語りたいこともない。そんなことは、二時間もすれば飽きるとわかってる、どうせ本音など出ないから。少し着飾った言葉だけ。大人になった振る舞い・・・
思えば卒業式で泣いたことがない。
別れの悲しさよりも、これから味わえる新しい生活への期待感が上回っていたから。いつも私は。あのころのみんなより、これから会うだろう人たちにやっぱり期待をかけている・・・今も。
過去の日の、いくつものきらめく笑顔やエピソードは、それぞれに違う色で私の部屋を彩り、その部屋が集まって私の城をつくっている。私はむしろその城を守りたいと思う。
あの子とのあのエピソードは淡い空色の壁紙。思い出して浸りたければ、その部屋で好きなだけ過せばいい。
ひとり靴音を響かせて、私は部屋から部屋へと歩き回り、ときどき埃をはらってあげる。
そう、みんなは私の壁紙、背景であって、私は私の青春を回想して慈しんでいるだけ。壁紙が色あせたり、背景が型崩れしてしまっては困る。
だから私は同窓会に出たくないのかな。
今、生きている生身のあの子あの人より、きらめいていた時の残像を大切にしたいのかな。

思い出に浸るには、ひとりきりのほうがいい。
「あんなことあったよね」「そうだったよね」
笑い合って、話し合って、だんだんにネタがつきたら、現実がぱっくりとクレバスをつくってるのが見える。そしてそれはきらめく残像とは違って、なんとはなしに哀しいもの。
私のことは、「白いテラスの家に住みたいなんて言ってたね〜」と笑っていてくれればいい。
私には私の城がある。あなたたちを忘れたわけじゃない。
いつも思い出す、振り返るときは、いつも。そして、ひとりで長い廊下を歩きまわってる。いつも。

 ♪ありふれた愛も 届かぬ思いも 
    果たせない夢も 今きらめいている
   この場所へくるたびに こころは揺れてる
     君たちを忘れない あのころの僕らを
            (君たちを忘れない/小田和正)


ダーウィンな午後

私はたまたま女にうまれたわけですが、端で見ていて、男の人生は大変だなぁと思います。
だって、頑張らなきゃいけないことが多いでしょ。
私も、「頑張って生きなきゃ!」と意気込んでみたりもしますが、それは、たまにね。だいたいにおいて私の人生の基調になってるのは、あれですよ、あれ、いま清志郎がやってる栄養ドリンクのCM。

♪しあわせに〜なりたいけど〜がんばりたくなぁい〜
   しあわせに〜なりたいけど〜ラクに行こうぜ〜

いやぁ、このまんま。

ところで、うちの夫って、「要領」が悪いのか「容量」に問題があるのか、しょっちゅう研究の壁にぶつかったり、「明日までにこれやらなあかんのに、どーしよーっっ!!」って焦ったりしてるんです。初めは大丈夫かなと心配してましたが、あまりにもたびたびなので、もう「苦悩悶絶してる夫」を見るのにも慣れました。
オコタンと一緒に、南に面した窓からの陽を浴びながら日向ぼっこしていると、
「&%が#$だからー、¥*はああなるはずで・・・おかしいなぁ」
とか、わけのわからんことをブツブツ言ってる夫が、髪の毛をぼりぼりかきまわしながらキッチンにコーヒーを飲みに来て、ふと私のほうを向き、
「おまえはええな!ほんま、なんも苦労しとらん。ああー、生まれ変わったらおまえの人生やりたい!」
「そんなら私はあんたの人生やるん?」
「そういうことやな」
いや〜〜〜っ!!!それだけは嫌〜〜〜っ!!(泣」
「・・・おまえ・・・本気で嫌がってどないすんねん」
「だって、そんなんって、なんか罰ゲームみたいやもん」
ワシの人生は罰ゲームなんかいっっ!!(プンスカ」

この自分にうまれて、まあまあ得してると言えることは、
「(黙っていれば)無害に見える」
ということかな?
そう、見た目に小柄で、男をビビらすゴージャス美人でもないかわり、顔をそむけられるほどのブスでもない曖昧な容姿は、無害なんですよ。誰からも警戒されないってこと。
海外で困っていると、知らない人が親切にしてくれたり、混んだ自転車置き場でうろうろしてると、警備員のおじさんがそのへんの自転車をささっと詰めて、「ここに入れたら」と言ってくれるのは、ひとえに私が無害に見えるから。
無害というのは、無力に通じますよね、ごつい身体だと腕力ありそうだし、人目をひく美しさもそれ自体が力。私にはどちらもないから、誰から見ても無力。で、無害と無力があわさった存在といえば、コドモ。
旅先で丁寧に道を教えてくれた通りすがりの男性が私に、
「ねえ、ホテルどこに泊まってるの?このへんで雰囲気のいいバー知ってるんだけど」
なんて絶対に見返りめいたものを求めないのは、それがまるでコドモに対するような父性からでた親切だからでしょう。
誰も無力なコドモに見返りを求めようなんて思わない。
だから、私はありがとうと、笑顔だけ振りまいておけばいい。

だけど男の人は違いますね、どんなに細い小柄な人でも、五体満足に成人してれば、完璧無害で無力な存在ではありえないと、なんとはなしに人は思う。男同士では警戒に値しなくても、私なんかはやっぱりどこかで警戒してる。だって、私以上に無力な男って考えられないし。遠目に見て華奢だなあと思っても、近くで腕の太さを比べると「やっぱり男と女では筋肉のつきかたが違う」と思いますもん。
警戒されるということは無害でも無力でもないオトナだということ。そう社会から認識されるということ。
オトナは自分で食べ物を確保して、自分でねぐらを探して、生き延びるために自分でできる限りのことは頑張らなきゃいけない。
大変だなぁ。尊敬に値する。でも、私自身には、

♪しあわせに〜なりたいけど〜がんばりたくなぁい〜

が、もう染み付いてるから、とてもそういう生存競争に積極的に参加してサバイバルしようという気にはなれない。幸い、無力なコドモを偽装して、「ラクに行こうぜ」が許される環境にある。初めは罪悪感あったりしたけど、このごろは開き直って、いいじゃない、これでも?みたいな。
ちゃんとしたオトナとして社会の働き手になれない若者を、ニート君なんていうけれど、思えば私だって似たり寄ったり。

中高年男性の自殺が増えているとか、結婚したがらない男が増えていると聞くと、そりゃそうなるよなぁと思います。いったん結婚したら、男はもうコドモにはかえれない。妻や子への責任ばかりがのしかかってきて、頑張らないと生きていけない。こんな世の中だもの、疲れ果てることもあるでしょう。
だったら、奥さんにも経済的に自立してもらって、子供もつくらず、貯金も各自で管理して、完璧割り勘結婚したら気楽?一見、ラクそうだけど、それじゃ割り切れない人がたくさんいるから、それが主流にはならないんでしょうね。
女に母性があるように、男にも父性があって、「弱いものの存在」が必要だったりするんですよ、きっと。
男性の歌に頻繁にでてくる「きみを守りたい」っていう歌詞も、あながち嘘じゃなくて、そういう存在がいるから頑張れる自分を誇りに思いたい、ということなんでしょう。
自分のためだけの人生というのは、長々とやってるとつまんなくなるんですね。
誰かのためにも生きている、自分の生が誰かを生かしている、そのことが純粋に嬉しい。オトナとしてゆとりができるとそう思うようになる。

結婚するずーっと前のこと、晩酌していた父が酔った勢いで、
「おまえ、おとうさん、おかあさんが死んだらどうする?いっそ、一緒に死ぬか?」
私は「ハァ?」ですよ。
で、結婚したらしたで、最近、夫が、
「僕のほうがあんたより多分はやく死ぬやろ。そのときあんたが困らんようにしなあかん」
ったく、男ってほんと大変。自分が死んだあとのことまでねー。
私はコドモじゃないんだけど、なんか、こういうの聞いてるとやっぱ私の存在は「無力なコドモ」感覚なんだろうな。
親も夫も、はやく自立したオトナになってくれよと言いながら、その実、何もできない無力なコドモとしてそばにいてくれよという願望もあるんじゃないかと思います。何もできなかったら、自分のそばを離れていかないから。自分より無力な者になにかしてやることは、単純素朴な自己満足だから。
こういうのを、スポイルするっていうんでしょうね。
まるで、私がオコタンにしているように。

♪しあわせに〜なりたいけど〜がんばりたくなぁい〜

ラクに行こうぜ。
オコタンが私に何の感謝もしないで日向で伸びをしているように、私も大きく伸びをしてみます。
オコタンは自分が死ぬことを今から怖がったりしない。
生きられれば生きる、生きられなければ死ぬ。それだけ。
中高年男性の自殺急増の対極には、増え続けるニートとヒキコモリ。
ぼんやりと空を流れていく雲をみつめて、ダーウィンの自然淘汰説を思い起こしてみる午後。
私たちはどこへ向かっているの?


一人じゃないよ

暖冬でぜんぜん師走って感じがしないですね。
でも、もう12月も半ばなんですよ。あー、今年も終わってしまう。梅雨のないまま暑い夏に突入したかと思うと台風がいっぱい通り過ぎたり、地震が来たり、野菜の値段が二倍三倍に吊り上ったり、ろくなことがなかった災害の年なような気がしますが、個人的にはどうだったんだろう?
これといっていいことはなかったけれど、九月のドイツで一ヶ月過ごせたことはよかったかな?
こんなに暖かいのに、街にはクリスマスソングが響き、枯れ木にイルミネーションが輝き、とりどりのオーナメントをぶらさげたツリーが飾ってあるのは違和感を覚えます。まあしかし、イベントだから、ね。
私はもう飽きたけど、みんなよく飽きないなぁ。
たとえ私が歳を重ねても、あとからあとから「デビュー」してくる若者たちがいるから、毎年やるんでしょうね、イベントというのは。年明けには成人式、春には花見、夏には海と花火、秋には紅葉狩り、冬にはクリスマス・・・

カップルでのクリスマスなんて、二度三度やってしまうと「いつものイベント」なのに、まだ「デビュー前」の人たちには、すごい期待感があるんでしょうね。そりゃそうよ、私だって、はじめてのときはワクワクドキドキどんなに心躍ったか。あー、プレゼントどうしよう、どこへ行って何をしよう?
そのイベントを前にして、考えること、思い巡らすこと、それ自体がすごく楽しい。
そして、それとはべつに、「やっと私もデビューしたんだわ!ねえ、私、もう自宅でクリスマスケーキを食べなくてもいいのよ!おめかしして待っていたら、お迎えの電話が鳴って、窓の外に車が来ているのが見えるのよ!」という、いじらしい誇らしさというか、ささやかな安堵感というか、そういうのもありましたね、確かに。
だから、「まだ未経験」な人の焦りというのもわからないわけじゃない。
両者のあいだに、そんなに深い河が横たわっているわけではないのだけれどね。
でも、デビュー前というのはほんとうにナーバスになってしまう、まるで永遠に手が届かない岸壁にあるイワツバメの巣を取りに行くようなものだと。中途半端に知恵がつけば、余計にね。

暇つぶしに、とある匿名掲示板のとあるスレをクリックしてみたら、とっても哀しい詩をみつけてしまいました。

一人じゃないよ
テレビあるし
人が見える
部屋真っ暗だから
テレビの人が
よけいに
輝いて見えるよ
ああ
他人って輝いてる
ああ
自分っていても
いなくても
いなくなっても
誰も気づかないし
誰も困らないし
誰も泣かないし
もう慣れたから
悲しくないのに
やっぱり
孤独で
悲しくて泣いているんだろうか・・・・・・・


文学的観点からは、前半の「部屋真っ暗だから/テレビの人が/よけいに/輝いて見えるよ/ああ/他人って輝いてる」の部分が、すごくいい描写だと思うんですが、そうじゃないですね、これ書いた人は、べつに詩を評価して欲しくて書いたわけじゃない、むしろ、べつに詩じゃなくて、素直に思ってることなのかも。
もしも近くにこういうふうに思っている人がいて、少しでも知っている人なら、私に何ができるでしょう。
話しかけてみるかもしれないし、何もできないかもしれない。あえて何もしないかもしれない。果たして何かするべきなの?とか自問自答したりして。
でも、まあ、気にかけるようにはなるんじゃないかな。

こんなにこんなに手を伸ばしている人がいるのに、それはきっと大勢にちがいないのに、どうして人はすれ違ってばかり?愛されたい愛されたいと、ひとりひとり望みながら、どうして人は遠ざけ合ってばかり?
昔読んだ太宰治の「女生徒」という短編に、
「私がいま、このうちの誰かひとりに、にっこり笑って見せると、たったそれだけで私は、ずるずる引きずられて、その人と結婚しなければならぬ破目におちるかも知れないのだ」
という記述があるけれど、男女というのは本来、微笑みひとつ、言葉ひとつで、どんなつながりができていくかもしれないあやうさを秘めた存在なのに、いったいどうして孤独を嘆く人々は、コンビニで買い物をすませたらアパートでテレビにかじりつく「おひとりさま」のまま?
寂しさやなんやかやに耐えかねて死を選ぶときだけ、やっと、一緒に練炭に火をつけてくれる誰かを求めるという行動にでられるの?なにかがおかしい。

なんでこんな人生なんだ?なぁ教えてくれよ神様
どうして俺だけこんななんだ?誰からも相手にされず誰からも愛されない
俺が死んでも誰も泣いてくれない。俺が生きてても誰からも必要とされない
愛されたい愛されたい愛されたい愛されたい愛されたい愛されたい愛されたい
神様、何故この世はこんなにも不平等なんですか?教えてください神様


たとえ私が目の前30cmに立って、目を見つめて両手を取り、それをしっかりと握りしめて、
「そう、この世界は不平等にできてるの、だって人間は不完全な生き物だから」
それでも夏休みの宿題をやるように、私たちは生きて、生きていくんだよ、と心をこめてささやいたとしても、なんの意味もないどころか、無言のまま足早に立ち去っていくんだろうね。
きみたちが望んでいるのは、こんな私の言葉じゃなく、誰の助言でも慰めでも、今現在の真実ですらなく、とにかく桃のようにすべすべしたほっぺでつぶらな丸い瞳を見開き心持ち首をかしげて上目遣いに見つめてくれる「女の子というもの」なんだろうから。
なんというか、世の中は、うまくいかないものだね。うーん・・・

♪夢見てるから 儚くて
  探すから みつからなくて
 欲しがるから 手にはいんなくて
  途方にくれる
 どこで間違ったかなんて
  考えてる暇もなくて
 でも 答えがなきゃ 不安で (掌 / Mr.Children)


アイデンティティー

よく、見た目のさえない「もてない人」へのアドバイスで、
「服装やヘアスタイルを見直し、異性に好まれる清潔感のあるお洒落をしよう!」
というのがありますね。
まあ、それを素直に実践してもてるようになれば「ヨカッタネ!」なんですが、たいてい真にもてない人はそんなアドバイスに耳をかたむけたりしない。なんだかんだ言い抜けて自分(の外見)を変えようとしない。
そこには二通りの理由があって、

1,素直に実践したあげく、それでもまだもてなかったら、「格好がださいからもてないだけ」→「お洒落を頑張ればもてるのに」という密かな言い訳が自分にも他人にも通じなくなるのが怖い。

2,異性に好かれるためのお洒落って?ありのままの自分じゃ駄目?今の自分が本当の自分なんだから、「誰かのためにつくったような自分」に好意をもたれても意味がない、と真面目に思い込んでる。

いや、どっちもわかりますよ。
私自身は、十代後半ぐらいのころ、2についてよく考えたし。
あのころ、世間の流行としてはぶりっこ最盛期で、凄く嫌だったんですよね、それが。なんか男に媚びてて。どうにも下心が見え見えで。下品だと。
高校生になって、クラスの女の子たちが、つぎつぎに「(男の子の前では)あたしってこんなに可愛いでしょ」オーラを発散するようになるたび、「キモッ」と思ってました。あんな安っぽい人間になってたまるか、みたいな。あんたたち何をクネクネナヨナヨと滑稽な演技してんの、そんなことしてまで男に好かれたいか?って。
なんかそんな風潮に流されるのも癪で、高校三年のときは髪を刈上げにして、わざと男物の服着て歩いてましたよ。もしくは女らしさを一切はぶいたシンプルなシャツとジーンズ、という格好。もちろんノーメイク。
そんなだから、まわりの女友達は、べつの友達とは恐らく言い合ってたんだろうけど、私の前では恋愛話なんか振らなかったし、「あんたって、『男なんかどうでもいい』って感じに見える」と言われました。
でもね、実はどーでもよくなかったのよ、それが。ほんとにっ。
口には出さないけど、まわりでカップルができるとメチャ羨ましいし、なんで私は一人なんだと思うし、人並みに恋愛のフルコースをやってみたい気持ちはすごくあったんですけどね、どうにもこうにも、その前提として「男を意識したファッションや仕草」の研究をするのなんか嫌で嫌で。「そんなの不純!!」って思ってましたから。そんなことしなきゃ恋愛できないなんて、間違ってる!って。

きっとそういう部分、奥手だったんでしょう。あるいは、我が強すぎたか。馬鹿だったか。
私がそんな意地っ張りでもじゅうぶん美人だったら向こうから言い寄ってくる男の子がいたかもしれないけれど、そうじゃないんだから、よほどの変人でない限り、私をひとりの女の子として好ましく思ってくれる男の子なんかいなかったわけです。いや、高校時代はそういう意味で恋愛砂漠でしたね、三年間。私のほうでも、本気で好きとか思える男の子がいたわけでもなし。
たんに自分で自分を持て余していただけですよ。
女の子として男の子から愛されたい、でも性的な存在でありたくない、あくまでも一個人、自分が自分であることを愛してもらいたい。そういう葛藤、アイデンティティーの混乱の結果が、変てこりんな男装というか。
そのころは今よりもっとふっくらしていて、真剣にダイエットするまではいかなかったけれど、もう少し痩せたかったです。なんでって、まるで少年のように飾り気のない格好は、かえって女の子らしい身体のラインを目立たせちゃうことに気づくんですよ。ダブッとしたシャツを着ていても、結局は胸あるし。肩も細いし。なんか中途半端で、倒錯的にエロいのが嫌だと思ってましたね、自分では。
大学に入ってから友達の勧めもあって、いかにも可愛い女の子っぽいワンピースとか着るようになったら、そのほうが妙な倒錯的エロさがなくなって、かえってさっぱりしたように感じました。

まあ、今では思います、ファッションなんか結局のところ、そんなにこだわらなくてもいいと。
アイデンティティーというのは自己の中心に求めるものでしょ。いや、服装やメイクもその枝葉末梢の表現というのも真実だけれど、人間って誰かを好きになるとき、「どうしても自分とは釣り合わないし、この人の横に自分がいることすら不自然すぎて考えられない」なんて人は選ばないでしょ。
(選んでしまう人は、自分の中にあるコンプレックスを見つめなきゃね)
なんか共感できたり尊敬できたり、相通ずる部分があるから好きになるでしょ。
だったら、相手の好みの格好っていっても、そう無茶苦茶かけはなれたものじゃないはずだし、じゃあ、まずは相手に合わせてみるか、というぐらいの戦略的譲歩はあたりまえだと思うのね。見た目だけで「合わないかも」とハネられるより、そこはさらっと通過して、はやめに内容勝負に移ったほうが、美男美女でない多くの人にとっては有利なはずだから。「これが自分の一番良いところです」っていう取って置きの自分を、ほんとに相手に刷り込んでいくのは、たぶん手をつないでからですよ。だから、私なら、もしもターゲットがいたら、その人の好みのタイプぐらいはリサーチして、服やメイクや仕草で近づけるところまでは頑張るけどなぁ。だって、自分が相手を好きなんでしょ、自分から柔軟にいかなきゃ何もはじまらないじゃない?ちょっと外見を変えたからって自分じゃなくなったとか、卑屈な行為だとか、そんなことさらさら思わない。たんなる短期的な戦略にすぎないじゃない。そもそもアイデンティティーって、そんなヤワなものなの?めでたくつきあえることになって、お互い離れられなくなってから、自分がもとの外見に戻れたら、それで戦略勝ちということ。本気で行くなら長い目で見なきゃ損。そんな不純な戦略は嫌なんて言ってるうちは、まだ気持ちに余裕あるか、本気でアプローチしたい相手がいないってことかもね。

ということで、かたくなに2だと思っている、「もてない」あなた。
そーゆー考えはぁ、たいていみんな十代で卒業するのよ。うん。外見勝負で有利な人以外はね♪


たしかなこと

今年も小田和正「クリスマスの約束」を見ました。
今までと違って、関西地区でも毎日放送でやってくれたので、わざわざ東京に住んでる夫の知人にビデオをとってもらうという迷惑をかけずに、リアルタイムで見られたのがよかったです。
今年TBSは秋から「月曜組曲〜風のようにうたが流れていた」という番組を小田さんメインで週一放送していて、関西地区では毎日放送が木曜の深夜にやってました。私は途中の回から録画して見ていたんですが、なかなか力の入った構成だったと思います。公式の宣伝としては、こんな感じでしたね。

2001年から2003年に渡って3回放送して、「きわめて良質な音楽番組」と評された、小田和正の『クリスマスの約束』。その小田が、再び同じスタッフとタッグを組む。構成は、小田が、これまで過ごした、1950年代から現在にいたるまでの間の人生で、出会った数々の「名曲」をライブ形式で綴る。小田和正個人の時間軸に沿って、心に残る楽曲やアーティスト達をよみがえらせる。

で、25日夜遅くから始まった「2004年クリスマスの約束」は、この「組曲」の総集編みたいな感じだったんですね。ぜんぜん「組曲」を見てなかった人にはそこそこ楽しめる内容だったかもしれませんが、毎週見ていた人にとっては、なんやこれ?っていう思いが残ったんじゃないでしょうか。どこぞの謳い文句としてあった、

『クリスマスの約束〜風のようにうたが流れていた』は、レギュラーの放送では一切語られることのなかった、その過酷な日々をドキュメンタリーとしてまとめ、半年間に及んだ小田和正の挑戦を人間ドラマとして描いていきます。 

みたいなのは全然なかったといってもいいし。舞台裏なんてとてもいえない、ほんのちょびっとのインタビューがはさんであっただけ。まあその内容というのは、けっこうシビアなものではあったけれども、あれじゃーねぇ・・・
番組の構成として見たとき、「手抜き」な感じは否めません。

まあTBSの能無しな編集は仕方ないとして、それでも私個人は最後の最後で、録画しておいてすごくよかったと思いました。新曲をやったんですよね、「たしかなこと」という。これは例の保険会社のCMでもちょこっと使われてますが、全部聴いてみるととてもいい。
いや、とてもいい、という言葉では百分の一も言い表してないほど、ほんとに、この曲はいい。CD化されてませんから、はじめて聴いたんですけど、恥ずかしながら、涙があふれて止まらなかったです。
これが小田さんの「今の時点での『たしかなこと』なんだなぁ」と思い、「わかる、すごくわかる、まるで私の気持ちをうたにして代弁してくれているみたい」と・・・

いや、私は盲目的な小田オタクじゃないし、そもそも小田さんのファンだなんて言うのも言われるのも恥ずかしいし、「いやー、十五、六のころ、アイドルにしてただけよ〜」と自分ではそういう認識なんですよね、だから、この曲も、「小田さんの曲だからいい」んじゃなくて、例えばマッキーが歌ってても「いい」と思っただろうし・・・
ただ、オフコース時代の曲をほとんど聴いているし解散騒動のゴタゴタもリアルタイムだったので、マッキーよりは思い入れできるということはあります。声とか歌い方が生理的に好きだというのも大きいな。
それにしても、オフコースの曲であれ、ソロでの曲であれ、聴いて泣くようなことはなかったのに、この「たしかなこと」は凄く力がありましたね、私に対して。何回もビデオ巻き戻して聴いて、その度に泣けたから。
歌詞だけ見てもメロディーがわからないと上手く雰囲気が伝わらないと思いますが・・・


たしかなこと


雨上がりの空を見ていた 通り過ぎてゆく人の中で
哀しみは絶えないから 小さな幸せに気づかないんだろ

時を超えて君を愛せるか ほんとうに君を守れるか
空を見て考えてた 君のために今何ができるか

忘れないでどんな時も きっとそばにいるから
そのために僕らは この場所で
同じ風に吹かれて 同じ時を生きてるんだ

君にまだ 言葉にして 伝えてないことがあるんだ
それは ずっと 出会った日から
君を愛しているということ

君は空を見てるか 風の音を聞いてるか
もう二度とここへは戻れない
でも それを哀しいと 決して思わないで

忘れないでどんな時も きっとそばにいるから
そのために僕らは この場所で
同じ風に吹かれて 同じ時を生きてるんだ

どんな時も きっとそばにいるから



歌詞の語彙はいままでの貧相な小田パターンで、ほとんど全部埋め尽くされてます。
「君を守る」だの「君のために何ができる」だの「そばにいる」だの、いったい何度使い回したら気ぃ済むねんって感じで、サビの部分の「忘れないでどんな時も〜」やら、「風に吹かれて」だの「空」だの「この場所」だの、お決まりのセリフ。
だから、このままだったら、ちょっと出来のいいメロディーね、ぐらいだったんだけれど、決定的にこれまでの歌と違う部分がある。
そこに神が降りてきた、とでもいうべき部分。
それは、サビのメロディーにはさまれた、

君にまだ 言葉にして 伝えてないことがあるんだ
それは ずっと 出会った日から
君を愛しているということ


という一節。正確にピンポイントで言えば、「君を愛しているということ」。
この一行、たった一行なんだけど、これまで小田さんはこういうことを書いてないと思いますよ。
YES-NOだって「好きになってもいいの〜」だし、YES-YES-YESは「僕は君が好きで〜」だし、I LOVE YOUに至っても「You're the only one, I love you」が関の山。英語だから生々しくない。
「伝えたいことがあるんだ」と言っても「君のことが好きだから〜」。
さよならの「愛したのは確かに君だけ〜」はもう既に過去形だし。

つまり、小田和正はラブソングメイカーだということで通っているけれど、正面きって「君を愛している」と現在進行形でうたったことはなかったと思います。私の知る限り。
「好き」は大安売りしているけど、自分が「愛している」という自動詞だけは売らなかった。
愛という言葉はいつも、名詞で出てきてましたね、「この愛はどこまでも〜」とか「愛の中へ」とか「もうその愛は戻れない」とか。すごく抽象的に「愛」という名詞を飾ることは、彼の中ではOKだったんでしょう。一応ラブソングとして売るわけだから。でも、「愛している」という生な進行形は、もっと特別な重さを持つ言葉だったんじゃないでしょうか。
だから、「たしかなこと」の、この一節を聴いて、なんかハッとしたんですよ。
アルバム「個人主義」の「風のように」のラスト、「はじめて会ったときから誰より好きだった」と現在完了形の「含み」をもたせた一文が、

ずっと 出会った日から  君を愛しているということ

ここではハッキリと現在完了形の「継続」、あるいは現在完了進行形の意を表すことがわかる一文になり、心理的にはググッと深く踏み込むかたちになってる。
好きというのとは違う、自分がその言葉を発することへの責任を引き受ける気概みたいなのが、その瞬間、たしかに見えた気がしました。うたは、

君は空を見てるか 風の音を聞いてるか
もう二度とここへは戻れない・・・


と続くんですが、もういきなり胸が詰まって、何を考える間もなく涙がダーッときましたよ。
最初のサビでは同じメロディーでべつになんともなかったくせに。
小田さん、ついに口にしたのね、言い切ったのね、みたいな驚きがあったのかな、私には。
「言葉にできない」から二十何年。ずっと言葉にして伝えてないことだったのに、ここにきて、ついに、言葉にできる、言葉にしよう、言葉にするんだ、と・・・それは、そのことが「たしかなこと」だという信念があったからでしょう。まるで、ふいに白黒の画面が鮮やかなカラーに変わったような、不思議な感動でした。

私はね、貧相な語彙を使い回した、シンプルだけど青臭くて陳腐に見える、いままでの小田歌詞のすべては、この「たしかなこと」の習作である、という気さえします。
ここには、さまざまな、ときには辛い試行錯誤を積み重ねて、ついに硬く結晶したものに特有の、たしかな重みと輝きがある。
何も足さなくていい、何も引かなくていい。
このままで、すべての言葉に意味があり、生きていくこと、愛すること、時の深み、人の存在の儚さと強さ、あますところなく表現されてる。すごくシンプルに、そして真摯に。
年齢的なこともあるし、もうそんなにためらったりお茶を濁したりしてる時間はない。自分のやりたいことをやるんだ、だから、いま、これだけは伝えたい。人間として、うたをつくるものとして、これだけは伝えたい、というのが切実に感じられる。
アルバム「個人主義」もそうだったけど、人間、小田和正の、個人的な思いやメッセージがこめられてるように感じますね。決して職人技をひけらかすものでなく。「売り物」として生れ落ちたものではなく。

「月曜組曲」のテーマソング「風のようにうたが流れていた」も、かなりそういう意味で力の入ったいい歌だけれど、「たしかなこと」で私はぶっ飛びました。この一曲を聴くために二時間のテープを用意したようなもんです。
何度も言うようだけど、私は小田ファンとも言いたくないし、ウォッチャーでもないし、ほんとの小田さんなんか知らないし、知りようもないし。でも、この曲と、まさにこの曲自体と私が、心の奥で響きあうような、そういう感覚でした。そうよそうそう、ぜんぶわかる、百パーセント、私もそう思う・・・って。
それはやっぱり個人的な体験とかの積み重ねがあって、そういう投影をしているわけだから、他の人には陳腐であっても、関係ないんですよね。




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