まわる、まわるよ

ったく、なにが起こるかわかんないモンです。
ここんとこ二、三日、アクセスカウンターが、壊れてるんじゃないかって思うくらい回ってます。
いつもは、一日に10〜12ぐらいのアクセスだったのに、きのうは、百を超えてます。どーしちゃったのかと思うんだけど、べつにあの敷居の高いヤフーが私のホームページを検索に載せてくれたわけではないようです。となると、考えられるのは、理系の男たちのしわざ!?
なにしろ、彼らときたら、「まずパソコンの前に座っている率」、「そのパソコンがオンラインである率」、「それからそのパソコンもラインにも、身銭をきっていない率」、「おまけに仕事中でも平然とポーカーフェイスでネットサーフィンできるよう顔面筋肉調整術を身につけている率」、ともに非常に高いですからね。あなどるべからず、です!

このブレイクの原因として、一番に思い浮かぶのは、「研究所@つくば市」の先生。わざわざこのページをご自分の掲示板に載せたり、よその掲示板に載せてくださったり。お忙しいでしょうに、有り難いことです。同様のことが、あと少しあれば、カウンターはくるくるまわる、ということなんでしょう。ねずみ講式に。
そういえば、そういう「ねずみ講方式」で授業をしてみよう、などと破天荒なアイディアをひねりだすKさん。もともと、このかたと大学の研究室めぐりをしたことで、問題作「続・理系の男たち」を書けたんですから、私としては恩(?)があるわけです。もしや巡り巡って、思わぬご迷惑になっているのではないかと、気になって訊ねてみれば、「迷惑?なんで?面白いやん」と。気遣ってくれているというより、心底面白がっている様子。ちょっと殊勝に、「私のような何にもわかってないシロウトが、こんなに言いたい放題いって、いいのかしら」と聞けば、「ええんと違う?書き書き、自分の好きなように書いたらええねん。理系男のテリトリー、思う存分、踏み荒らして行き。どうせ世の中なんて、おせっかいの売りあい合戦。それが面白いんだから」と、まあ、なんとも寛大なお言葉。有り難いことです(^^)

このお二人、ともに、れっきとした理系の男たちですが、同時に、奇特な男たちでもあるわけです。
シングル女性のみなさん、どうせ男なんて、身勝手で思いやりに欠けてるんだからと嘆いていませんか?
それは、愛情表現が下手なのか、卑屈になり過ぎているのか、そもそも男選びを間違っているのか、そのうちのどれかです。男選びに問題があるなら、気分を変えて、こういう奇特な男たちタイプを探してみてはいかが?あなたの「血中わがまま濃度」を検査してみて、数値が高ければ高いほど、満足できることは請け合います(^^)

(PS;「文芸館」管理者より理系の男たちにひとこと。「理系の男たち」シリーズ以外のページも見てね!)


TRUELOVE

いままで、いろんなタイプの人とメールのやりとりをしましたが、E-Mailというツールはけっこう本音が出やすく、あたりさわりでない話、個人の内面に触れる話になっていきやすいことは確かです。お天気の話では二行で終わってしまうし、相手の服装その他に言及することもならず、何かしら自分の頭にある考えを話さなければ、実際、間が持たないんですよ。
考えてみれば、書いているあいだは、自分ひとりです。相手の表情から何かを読み取って、言葉に窮するということもなく、自分の言いたいことを先回りされたり、途中で話の腰を折られることもないわけです。ひとりで言うべきことを考え、それを一方的に表現できる。相手から返事がきても、気に入らない個所は読み飛ばしたり、わざと答えずに無視してしまうこともできるわけです。その点では、けっこうひとりよがりなツールだと私は思っています。ですから、メール付き合いをもって、ほんとうの意味で他者と関係を構築したことになるか、というと、もう全く不十分ではないかしら。相手の表情や雰囲気で、言葉の指し示す内容も変わってきます。顔を見て話す、ということは、どんな関係でも必要不可欠だろうと思いますね。そうでなければ、お互い、勝手に相手を誤解したまま、ひとりよがりに語り合う、という結果になっていてもわからない。せめて、一度や二度、顔を見て話さなければ、それはリアルな関係ではないと思っています。まぁ、ただ、その関係に利があるとすれば、「本音が出やすい」ということだろうと。顔を見ても、お天気の話しかしないのと、顔も知らないが本音をぶつ けあうのと、どっちがどうかといわれれば、これはどうともいえないですね。

とくに、二十代の人たちとメールでやりとりしたなかで、印象に残ったのが、「ほんとうに人を愛するって、どういうこと?どうしてもこの相手じゃないと、だなんて、そんな恋愛あるのかな、みんな、なんとなく自分が傷つくのを避けながら、なんとなく一緒にいるだけなんじゃないかな。誰も、しょせんはそんなに真剣には考えてないみたいな気がする。自分も、それが現実なんじゃないかと思うけど、でもときどきすごく寂しい」というような気持ちをもっている人がけっこういることです。
二十代だから、まだ恋愛の周辺で留まっていますが、三十代、四十代でも、恐らくは似たような気持ちの人がいると思いますね。結婚しているとしたら、上記の「恋愛」の文字が「結婚」に入れ替わり、それが社会的な側面になってくると、「この会社、この仕事でなきゃいけないなんてことはないんじゃないか」とか、はたまた、生き方という側面では、「人って、誰もしょせんはそんな真剣には何にも考えてない、ただ、流されてるだけじゃないのかな」というような感じになる。
それで、「それが現実なんじゃないかと思うけど、でもときどきすごく寂しい」わけです。

私もこういう気分になったことがありますが、それはかつてのこと。
「誰もしょせんは何も考えてない」なんて、思い上がりの嘘っぱちです。
それこそ、ほとんどの人が、何か考えている、何か満たされないと思いながら、それでもどうすることもせず、またはできないままに生きている、というのが、ほんとうの現実だろうと今は思います。嘘だと思うなら、ほんとに何も考えてないような、ちゃらちゃらした女の子や、めちゃくちゃ鈍感そうなおじさんに聞いてみたらいいんです。程度の差こそあれ、やっぱり似たようなことを思っていると気づかされるんじゃないでしょうか。
幸せになりたい、愛し愛されたい、認め認められたい欲求は、誰でも同じだと思いますね。
生の確かさを実感できる瞬間を、みんなが求めている、ということです。ひとりだけじゃない、みんなが、そう思っている、ということです。それぞれの立場、それぞれのドラマのなかで。これが、現実です。
そう考えたら、「自分はすごく真剣にいろんなこと考えているんだけど、友達や恋人、夫や妻にそれを話したら、ひとりで浮き上がってしまって、傷つくんじゃないか」、などと臆病になる必要は、まったくないわけです。個人的な歴史、そのなかで形成してきた価値観、表現方法はみんなばらばら、だから食い違う、ということはあるかもしれませんけど。少なくとも、みんな、なーんも考えずに生きてる、なんてことはないと思います。
だいいち、なーんにも考えずに生きられるほど、世の中甘くはないですからね(^^)
それこそ、そんなことがあり得ると考えるほうが、「非現実的」ではないでしょうか。


コンプレックスいろいろ

私は自分で、あまりコンプレックスがないほうの人間だと思います。コンプレックスというのは、ここでは、「引け目を感じる点」ぐらいの意味で使っていますが。
なんでそうかというと、まぁ、どこをとっても、あまり突出した点がない、ごくごく一般的な感じの外見であり、暮らしぶりであり、学歴や家族構成などにも、とりたてて人目を引く点はないからなのです。ちょっと普通からずれているかもしれないと自他ともに認識しているのは、この素直すぎる(?)性格と人生行路そのものですが、性格の「普通でなさ」なんて、誰でも多かれ少なかれもっているし、極端にはた迷惑な性癖や、犯罪など反社会的行為に関わらない限り、あまり問題視するほどのものではないと思っています。人生行路についていえば、この程度の紆余曲折は、けっこうありがちなことではないか、学校を出たら同じ会社でそのままずっとお勤め、なんていう人のほうが、いまどき希少価値なんではないかと思いますね。自分で考えて、あるいは行き当たりばったりにやってきたことなので、それはそれなりに納得もしている。
コンプレックスがひとつ、あるのはありますが、それは多くの皆さんの例にもれず、私も人に言うのは差し控えておきましょう。秘密です(^^)

さて、最近わかった興味深いことです。コンプレックスというと、私のイメージするのは、「人よりも劣る、不利な点」というものでしたが、どうやらその逆でも、コンプレックスに類似する気持ちを感じる原因になるらしいのです。
たとえば、自分の顔がきれいだとか、並外れて頭がいいとか、そういうことでも、嫌だと思う人はいるわけです。
これは、ちょっとびっくりできることではないですか。
「愛されない病」でも例に挙げたように、顔がきれいだから男の人に好かれやすい、ということも、本人にしてみれば「私はいつも、外見でしか判断されない」という引け目になるし、頭がいいんですね、といわれても、ほめられているというより、なんだか疎外感しか感じない人も、実際にいるんですよ。
まぁ、贅沢といえば、贅沢なんです。が、本人は、どうも真剣らしい。
私などからみれば、きれいな顔に引かれて来る人が嫌なら、そんな男は振って、自分がいいと思う人にアプローチかけにいけば、それで済むことだし、そうなればその顔でにっこりすることは、非常に強力な武器になる。頭がいいと人から言われる場合、実際には優秀な成績・学歴を指しています。それは環境に恵まれたこともあるでしょうが、基本的には自分が自分の正当な努力や才能で得たものであり、何よりも誇れる点だと思いますね。親の遺産で放蕩しているドラ息子とは違うわけです。なんでまた、そんなことに引け目を感じなきゃいけないのか、私にはさっぱりわかりません。

たぶん、周囲の目というのが、コンプレックスの基準になっているからなんでしょうね。
「出る杭は打たれる」といいますが、どういう方面であれ、人より突出したところがあると、それが、まぁ、早く言えば、打たれる材料になりやすい、ということなんでしょうか。標準的な範囲内におさまっていないと、そこがどうも気になる。小さな掛け布団みたいなモンです。そのなかに、手足を縮めて丸まっていると、ぬくぬくして気持ちがいい。でも、窮屈のあまり、ちょっと伸びをしてはみ出してしまうと、外気が当たって寒く感じる・・・
自分が突出した面をもっているんなら、それはしょうがないんじゃないかと思いますね。乾布摩擦でもして、寒さに強くなるしかないのでは?それか、自分でもっと大きな布団をつくるしかない。大きな布団ができれば、ぬくぬくできる人数も、それだけ増えて、ありがたいと思ってくれる人も必ずいます。
いずれにせよ、ただ、寒いのは嫌だなぁ、などと手足を縮こめてばかりいるのは、もったいないし、ナンセンスですよね。


NTT回線トラブル

今日(98/10/28)午前、大阪市でNTT回線にトラブルが発生、関西を中心に都市機能がマヒし、各方面に大混乱を引きおこしました。私個人は、何らその影響をこうむることはなかったのですが、ほんとうにコワイ話です。朝日新聞夕刊を見たところ、関西大学教授(情報メディア論)と、作家の藤本義一氏の談話が載っていますが、案の定、口を揃えて言っていたのは、「高度な技術は、一部の人間にしかわからない」ということです。教授のほうは、「技術者が大丈夫といえば、信じるしかないけれど、こういう事故があると、必ずしも大丈夫とはいえないことに気づく」という論旨、藤本氏のほうは、「だから事故になるとみんなが混乱する。技術に振り回されているこの社会を再検証してみる必要があるのでは」というもの。

最後の「理系の男たち」、あるいは小谷氏との対談を読んでくださればわかるように、私自身はすごく危機感もってるんですよ、こういうのに。ほんとうのこと、ほんとうに身近で必要なことが、一部の人にしか、わからない社会になっている。知の先端も、細かく分業化されているようだし、技術者・研究者といえども、社会全体を見て何かを考えられる人は、実はごく少数なのだと思います。危ないですね。
叩かれても叩かれてもなくならない、人を食い物にする悪質な新興宗教やその類似集団。
算数が、理科が、難しいと、学業から落ちこぼれていく子供たち。
地道な努力を嫌って、何事にも表面的な安楽さだけを求めるかに見える若者たち。
疲れきり、覇気をなくした大人たち。他者に関わることなく、個の楽しみだけに埋没していく私たち・・・
どうなるんだろうな、なんだか危険だな、と思います。漠然と。明日のビジョンが見えない。

アンデスの山には、中国大陸の奥地には、リゾートと無縁な南の島には、私たちの知らない生活があります。ケイタイも、パソコンも、電話もなく、車だって持たない、そういう生活がまだこの地上にはある。けれども、やがてその上空にオゾンホールができ、大気中には環境ホルモンが薄く漂うようにならないとも限らない。
それでも恐らくは何も知らされないだろう、インターネットも文字さえも知らない人々・・・
何をどうすることが正しいのか、私たちの誰にもきっとわからない。
そのことを考えると、もうただ悲しく、不安なだけです。

人間に、よかれと思って天から『火』を盗んだプロメテウス。その罪を咎められ、彼が大神ゼウスから与えられた罰は、生きながら肝臓を鷲に突つかれるというもの。岩に繋がれ、毎日、やってくる鷲に肝臓をついばまれる苦痛に、もはや息も絶え絶え。けれども、神である彼の身体は夜毎、また再生し、死ぬこともできず永遠に、鷲の餌食となるわけです。なんという残酷な罰でしょう。
ひるがえって、人間は、私たちはどうなのでしょうか。
『火』を手にしたために、人間は高慢になり、神を敬わなくなりました。これに怒ったゼウスは、災いの詰まった箱(壷だと記述している本もある)を美女パンドラに持たせて、地上に送ります。彼女は、ギリシア神話中の、最初の人間の女です。開けてはならなかったこの箱を、パンドラは好奇心から開けてしまいます。あらゆる災いや不幸、病気や、憎しみなどがこの箱から飛び出してきます。あわてた彼女は急いで箱の蓋を閉めますが、もうすでにそれらの災いは、世界中に散ってしまったあとでした。箱の底にただひとつ残されたのは、『希望』だけ。
『希望』だけです。


ハルマゲドン

この前、ディズニー映画「ムーラン」を見に行きました。
「ムーラン」はとても面白かったのですが、それを見る前にスクリーンで、これから封切られる映画の予告編がいくつか流れた中にも、私の印象に残ったものが。
それは、『アルマゲドン』。
アルマゲドンというのは、おそらくハルマゲドンの最初の H音を飛ばして発音したものだと思いますから、フランス語? ということは、かの有名なフランス人、ノストラダムスと何か関係あるのかしら?
よくわかりませんが、とにかく、フィルムを見た限り、人類滅亡の危機っぽいストーリーのようです。来年のお正月映画の一本だといいますから、まさにこのとき、この時代のためにつくった映画なんでしょうね。
来年になったら、ぜひ見てみたいです。

知らないかたのために、ちょっと解説しますと、聖書でいうハルマゲドンとはそもそも場所の名前です。
ヨハネへの啓示という章があり、これがいわゆる「黙示録」なんですが、キリストの使徒ヨハネが、未来の出来事を霊視したものです。そのなかでは、将来、必ず終末の日というのがやってくる、これは「正しい者が栄えるために、邪悪な者を除く」という神の計画であり、これにともなって諸国の王たちがヘブライ語でハルマゲドンと呼ばれる場所に集められ、そこで神と悪魔の壮絶な戦いに巻き込まれることになっている、というんです。どういう経緯を経てか、このハルマゲドンが、今や「最終戦争」の代名詞にもなっているわけです。

キリスト教と似たような終末観というのは、いろいろな宗教にみられます。たとえ1999年が何事もなく過ぎ去っても、まだ終末予言はほかにもいっぱいありますからね、五島 勉氏が書くネタに困ることはないわけです(^^)
でも、いま、人はどうして終末物語に魅せられるんでしょう。恐いものみたさ、でしょうか。あるいは、マスコミにノセられているだけでしょうか?
出口のみえない不況、未来へ向かう確たるビジョンがない、それでもやはり、お腹は空いてないし、モノは満ち溢れている。真剣な飢餓感があるとしたら、精神的なものだけです。
ああいうのが流行るのは、なんていうか、人々が非日常のドラマ性を求めているということでしょうか。こんな世の中、なくなってしまったらいいと、本気で思っている人もそういないでしょうから。
戦時中は、今思えば生活そのものが、非日常だった。生と死のすれすれに、国家全体でどっぷりつかっていたわけです。そこには、良かれ悪しかれ、非常なドラマ性があったと思いますね。
それから、全共闘世代というのですか、学生運動全盛期に青春を送り、デモや論争に明け暮れていた世代の人たちには、そのころの価値観がドラマチックな興奮とともに、心深く染みついているようです。
そして、私たちの世代。さあ、ドラマって、何があったかしら?
青春時代、パソコンやケイタイはまだ普及していなかったにせよ、たいていの生活必需品は揃っていたし、そのころから大学はレジャーランドと呼ばれていた。私たちは新人類といわれ、何を考えているかわからないといわれたけれど、何かに熱くなってキレたことはなかったと思いますね。私たちの青春時代、日本中で熱狂したことがあるとしたら、それはバブル。一流海外ブランド、会員制リゾート、不動産、そんなものです。要は、お金。
ちょっと寂しいと思うか、まだましだと思うか・・・

1999年。来年はどうなるんだろうと考えると、私は今から恐いような。世紀末ムードは一気に盛り上がるんじゃないでしょうか。
この時代に生まれ合わせたことは、運命ですが、なにやらあっと驚くような、エキサイティングな出来事が起こりそうな感じがして・・・私だけ?そう思ってるのは?そうじゃないような気がする。そうでしょ?
きっと、いろんなイベントがあるでしょうし、ある程度まとまった数の人々がそう思っていれば、もう人為的に何かが起こると思います。それがどんなことかはわからないけれど・・・
あなたは、どう思いますか?


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