男と女の下心

読売の大手小町という掲示板で、ちょっと興味深いトピをみつけました。
題して、「既婚者が異性と二人で会うこと」
これ、不倫とかなんとかいうずっと以前の問題で、とある独身男性が、もう職場を去って引っ越してしまった元同僚の既婚女性に、何か用事でその地方に行くことがあるので、ついでだから久しぶりに会いましょうかと言ったところ、引越しして知り合いがなく寂しい思いをしている女性は、つい懐かしくてその男性に会いたいと思うんだけど、夫に了解を得られずに悩む、というだけの話なんですが。
まー、こんなことで喧喧諤諤と議論(?)が続いているわけです。
みなさん暇ですね。それを面白がって読んでいる私も暇ですが。

いやー、私は初め、女性の夫が、なんで元同僚男と会うのを嫌がっているのか、わかんなかったですね。
女性のレスをみると、同じように思う人が多い印象を受けました。おたくの旦那さん、心狭いねーって。
なんで会っちゃいけないのよ?ただの元同僚で、浮気するのが目的でもあるまいし。みたいな。
けど、ある男性いわく、男には「男の下心がわかる」のだそうで。
「元同僚だからって、わざわざ人妻と会おうなんて言ってくる奴は、なにか下心があるに決まっている、旦那は同じ男だからそれがわかるんだ、だから、嫌がっているんだよ、女ってのは、そのへんがまったくわかってないねぇ」と。
へええ〜〜〜、ほんまかいなって思いましたよ。
そもそも、その場合の下心って何?あわよくば、後腐れなく一回・・・ってこと?
でもさー、このシチュエーションを素直に見れば、「まさかぁ。考えすぎ(プ」って感じなんですけど。
まあ、そういうレスから、話が「男と女のあいだに友情は成立するか」みたいな流れになって、これは私個人にとってはタイムリーでした。というのも、以前、このサイトを見ている人からメールをもらいまして、そのなかで、「男女の友情ってどうでしょうねぇ?」みたいな話をして、私も今まであまり考えたことはないけれど、「どうなんだろうなぁ?」と思っていましたから。

私自身の経験から言うと、男性の友人というのはできにくいっていうか、まあそもそも本当の友情なんて、同性のあいだでも、維持していくのが難しいし・・・かつてつきあったけれど、円満に別れた男性ぐらいですかね、友情というか、色気抜きで「お互いの人生を応援しあえる」関係をもてるのは。
それ以外の場合については、わからないです。
たまに「異性の友達が多くて、ややこしい恋愛感情抜きでつきあっていると楽しい」という人もいるようですが、そんな関係、どこで見つけて、どうやって維持するの?と思います。よほど歳が離れているとか、双方が既婚で、家族ぐるみのつきあいだとかならわかりますけどね。それか、お互いに実生活で会うことのない、純粋なメル友。そうでないとなると・・・
私は男心に疎いらしいので、よくわからないです。
いや、べつにぶりっこしてるわけじゃないんだけど、ほんとに心の底から、わからないときがあるんですよね。そんなに恋愛経験豊富でもないし。とくに、下心とかいう性的にも微妙な事柄については、んー・・・
夫によく言われますよ、「おまえは、男っていうもんがわかってない」って。

自分の下心なら自覚できますよ。
あー、あの人、素敵かも。もっとよく知りたい。個人的にお話ししてみたい、できたらふたりで会ってみたい・・・そういう感情が自分にあれば、「ああ、私はあの人のことが好きなのかしら」と。これを下心っていうんならね。でも、自分が相手にどう見られているか、というのは、さあ、なかなかわからない。こっちにも下心があれば、それこそ詳細に相手の言動を観察していますから、それをもとに「ちょっとぐらい良く思われてるかも」「ぜんぜん脈なし」なんておぼろげに判断しますが、こっちが下心もってないと、そこまで気が回らないっていうか、けっこう鈍感なところがありますから、独身のときは「あれ?」ってこともありましたね。
私は自分で、外見的にも、雰囲気的にも、セックスアピールはほとんどないと思ってます。なんかこー、素敵に美人だったり、常時フェロモンが出ていて、ほっておいても男の人が言い寄ってくるタイプじゃないんです。人間性を知ってから、初めて好きになってもらえるタイプ。そのうえ、はっきりと物言うし・・・私に限っては「あわよくば」と期待されることなんかないだろうと思ってます。もしも、いい加減な気持ちで誘いをかけたりすると、「あんた、自分のやってることわかってんの?」ぐらい言われそうっていうか、実際、言うと思いますよ。そういう女だなーってことは、ちょっと話せばわかるでしょう。
そんなふうなので、こっちにその気もないのに、不純な妄想を抱いて近寄って来られることは、まずないんじゃないか・・・だから、一夜の「過ち」なんてのもないでしょうね。万一、何かあるとすれば、それはお互い「了解」のうえでの確信犯・・・
ええと、何が言いたいかというと、そもそも「あわよくば、後腐れなく・・・」なんていう下心を持たれること自体、女の恥、ということ。で、このトピの夫は、もしそういうたぐいの下心を心配してるんだとしたら、「自分の妻をそんな都合のいい妄想を持たれてしまう安い女だと思ってるんだし、妻のこと自体、信用もしてないんだ?」と、私なんかは考えるんですよ。まー、フェロモン美人で、奥さんの意思とは関係なく、どうしようもなく男が寄ってくるのかもしれませんが、そういうタイプの女性はわざわざこんなトピを立てたりしないですよね、「またか」って、うんざりするだけでしょうから。

けど、「下心」っていうと良くない響きの言葉ですが、べつに私はそれを否定しないですね。
黙って持ってるぶんには無害だし。
たとえばカップルとか夫婦になると、他の異性に「下心」を持っちゃいけないの?
あら、あの人、素敵。お話してみたいわ。とか、思っちゃいけない?
まー、二十代の私なら、「そんなの不純よッ!」と叫んでたかもしれませんが・・・今は違いますね。
言わなきゃ誰にもわかんないし、心が勝手に思うことを止められもしないでしょう?
結婚してから何十年も生きるんだし、大昔のように一生同じ村で同じ顔ぶれですごすわけでもなし、いろんな人といろんな状況下で会えば、それだけいろんな刺激になりますよ。
「下心」「下心」って騒いでるのって、なんか幼稚じゃない?そりゃ、「下心」が発端となって、大変な人生が展開する場合もあるかもしれませんが、それは「下心」の質の問題と、その人の力量次第。
どんな素敵な異性をみても「下心」さえ抱けなくなったら、ある意味、生き物たる人間として終わりじゃない?素敵なものを素直に素敵だと感じる感性が、もう干からびちゃったということ。もしくは、社会的規範に、魂まで乗っ取られちゃったということ。子供じゃないんならさ、「それはそれ。これはこれ」ですよ。四角四面に受け取らないで、一定のルールの中で、「下心」を楽しむ余裕がほしいですね。
じゃー、うちの夫が「下心」を持ってたら許せるのかって?
そんなの、許すも許さないもないでしょ。「下心」なんて。

以前、夫が関東方面へ出張に行ったとき、知り合いの独身女性と久しぶりに夕食でも、ということになったらしいです。それで、私に、「会ってもいいか」と訊くんですよ。なんか、メールでそういうやりとりをしていたらしく、事後報告ですけどね。私も彼女と面識があるし、もちろんOKなんですが、夫はなんだか「私に申し訳ない」ように感じたらしく、「あんたが嫌やっていうんなら、会わへんで」と。私は「嫌じゃない」ってハッキリ言ってるのに、けっきょくはべつに人を誘って、三人で会うことになったみたいですが。
二人で会ってもよかったのに。たかが夕食ぐらい。
「あんたに何か『下心』があったから、やましく感じたんやろ?えっ、怒らんから正直に言ってみ?」と訊くと、
「絶対それはない」と言い張ってましたが、べつにあったらあったでいいんですよ。へぇ〜〜って感じだし(プ。
彼女とも面識があるので、夫がどうやって誘ったところで「何もありっこない」ことはわかってるんだし。
何かあったらあったで、それはまた、へぇ〜〜〜!!、ですけど。
私、ちょっと夫を見くびりすぎですかね(ププ。
それとも、いずれ自分の下心を正当化するための準備なのかしら。( ゚∀゚ )アヒャ♪
んー、男と女は、しょせん、下心の探り合い。


生命力

いま、いろいろあって心身ともに、ちょっとばかし壊れてます。
まあ、またもう少ししたら持ちなおすと思いますが。

昨日、女性専用車両に乗っていて思ったこと。
「みんな、生命力にあふれてるなぁ〜」
私の周りで、たまたまそういう女の子たちが目に付いただけかもしれませんが、ノースリーブから伸びたむちむちの腕とか、ぴったりしたジーンズが破けそうな太ももとか、どっしりした腰まわりなんか見ていると、

「デブ」

という蔑みの言葉なんか浮かばなくて、「おお〜、この重量感、躍動感、なんとすばらしい生命美!」などと感心してしまいました。いやぁ、多くの男の人が「ぽっちゃり好き」なのもわかるなぁ。
それにひきかえ・・・と我が身を振りかえり、胸、お尻、なさすぎ。十代の子なら「ロリコン体型」でもそれはそれで可愛いかもしれないし、いいんだろうけど、この歳でこれって、ただの「貧相」じゃない?
っていうか、生命力が薄く感じますね。いや、これで「はかなげな顔」とか、「支えてあげたくなる雰囲気」なら、それはその路線でいけるんだろうけど、ちっともはかなくない顔だし。性格もきついし、口もわりぃし。かといって、黙ってたら、ただの「存在感のない人」だし。どーすりゃええねん、ですよ。
やだぁ〜〜、室井滋って言われたときにはまだ許せたけど、マチャミにはなりたくなぁ〜い〜(ファンの人、もしいたら、すみません)。
でも、いまさら太っても、たぶんめりはりのきいたきれいな太り方はできないんじゃないかな。
ダルマのようなおばさん体型って、いくらふくよかでも「生命美」とは違いますもんね。
この夏は、近所のスポクラのプールにでも通ってみようと、このまえ新しい水着を買ったんですよ。まだ行ってないんですが、たぶん若い子なんかいなくて、子供とおじさんおばさんばかりだろうから、気楽ですね。
うん。楽しみもないけど。
いや、私ももう立派なおばさんの仲間なのかもしれませんが、やっぱり腹のたるんだおじさんに仲間づらして寄って来られるのは勘弁〜〜。それなりに鍛えられた感じならまだいいけどぉ・・・って私は何を妄想してるの?

はぁ・・・

イラストを描いた本も、出回ってしまえば「こんなもんか」で終わりだし、そう、過ぎてしまったらまた「何もしていない気分」になる。
この歳になるまで、なんだかんだあったはずなのに、それはだいたいが履歴書に書けるものではないから、他人にはわからないし、わかってもらう必要もないし。
ただ私は、いままで何をしてきたんだろうなーって、いつものように考えるだけ。
論文、本、お金・・・なんでもいい、積み上げてきて寄りかかれるモノがある人は幸せでしょうね。
死んだらそれが残る。
私は何も残せないのかな。
いや、べつに残せなくてもいいんだけれど。
何も持たずに生まれてきて、何も残さず死んでいく、それでもいいんだけれど。
私のなかにはかけがえのない私の思い出が残っているから。死の間際まで私のなかに、それらが確かに輝いていれば、それでいい。

人は何のために生きて、何を残そうとするの?

私の人生は、何もかもが中途半端かもしれないけど、今もしも私が死んだら、目がつぶれるほど涙を流してくれる人がいる。お葬式には百人も集まらない、でも、たとえそれが3人や4人だけでも、心の底の底から、私と会えなくなることを悲しんでくれる人がいる。
私だって、今その人たちが死んだら、きっと目が溶けてしまうぐらい涙にくれるでしょう。折に触れ彼らの笑顔を思いだし、死ぬまできっと忘れない。
たったそれだけで、まだ生きていく価値がある。
そう信じなければやっていられない。
それを信じることもできないのなら、私はもうなんの未練もなく風のようにふらふらとさまよって、どこで野垂れ死にしてもかまわない。できたら楽に死にたいとは思うけれど。
もともとこの世にそんなに執着してない。
面白いことができるのなら生きるし、誰かに、社会に、必要とされているのなら生きる。
だけど、何が何でも生きなければならないなんて、本心からは思ってない。
昔、仲良くしていた年上の女性から、「私たちみたいな生命力の弱い人間は・・・」と言われて、なんとなく「そうかな」と思ったけれど、あの人は私の本質を見ぬいていたんですね。
気が強くみえることと、生命力が強いことはまた別。
生きる人というのは、どんな環境でも選ばずに生きていく。
生きられない人というのは、環境を選ばなければ、生きられない。
生きる人は、何の目的がなくても、生命の本質そのものの発現として生きていく。
生きられない人は、目的や理由や、なんやかんやとややこしい言い訳を用意しないと生きられない。

信じなくてもいいなら、私を土に、塵にかえして、神様。
誰の真心も信じなくていいなら、人の世の絆や愛が完全な幻想なら、もう私は生きていかなくていい。
それでも私が手にしてきた過去の一瞬一瞬のスパーク、そのきらめきだけは、決して手放さない。
それが真実であったことだけは、決して疑わない。
それを確かに、そのときその人々と共有したことだけは、決して、決して疑わない。


甥っ子たち

このところ、毎日のように近くの実家で昼ご飯を食べているので、同じく毎日のように遊びに来ている義妹や甥っ子たちと顔を合わせます。甥っ子たちは年子です。上が三歳で今年から幼稚園生、下が二歳なんですが、このごろよく喋るようになり、性格の違いもいよいよ際立ってきたので見ていると面白いですね。

上の甥っ子はジコチューの塊。「自分のものは自分のもの、人のものも自分のもの」って感じです。
愛嬌はあるんだけど、ほんと、ワガママです。これは、三歳で反抗期とか、そんなんじゃなくて、うまれつきですよ。だって去年からそうでしたもん。マイペースで我が道を行くタイプで、自分の関心事を邪魔されると泣いて怒るかんしゃくもち。甘ったれの臆病者で、我を通したがるくせに肝が据わってません。本来、他人のことなんか眼中にないくせに、その場にいる人には注目されていないと気がすまないところもあります。言葉は遅かったし、いまでもちゃんと意思疎通できてるかというと、どうも怪しい。色白、小柄で小食、神経質で、身体は弱いほうです。

下の甥っ子は、上の子よりタフで、わりと大らかな性格。いったん怒りだすと、お兄ちゃんよりも手がつけられなくなりますが、めったに大泣きしたりしません。周囲がどんなにやかましくても、すやすや眠れる特技の持ち主。
まだ二歳児だというのに、とても言葉が早く、お兄ちゃんよりも「言うことが通じる」感じです。全体的にませている印象。人の気を引くために何かするタイプじゃないですが、人のことには関心があって、周りの人々をよく観察してます。その観察眼には、ときどきびっくりさせられます。色黒、わりと小太りで、身体は丈夫なほう。一歳何ヶ月か違うのに、お兄ちゃんとはそんなに体重が変わりません。

よく、上の子だから、末の子だから、一人っ子だから、という言い方をされますよね。そういう環境の影響もあるとは思いますが、うまれたときからずっと見ていると、どうもやっぱりそれぞれにその子供の個性というのは、ありますよ、もう誕生のその瞬間からね。よく寝る子、ぐずって寝ない子、そういうのも性格のうちかもしれません。
最近ますます甥っ子たちの違いが目立つようになってきたので、そう思うわけなんですが。
私と上の甥っ子は顔とかは違いますが、性質が似てます。ほんと、周りからも似てる〜と言われてますが、いいところが似てるというより、ジコチュー、ワガママ、他人に気を使わない、神経質で小食、とか、へんなところばかりが似てるので複雑な気分。「あーあ」って。
で、上の甥っ子のことはなんとなく同類って感じで親近感をもって眺めていますし、その行動原理も容易に想像がつく範囲に収まってるわけですが、下の甥っ子は私とは全然似ているところがなくて、「えっ、こんな子供が??」と、私にしてみれば予想外の言動にでくわして、びっくりすることが多いんです。

たとえば。
あるとき、新しい水玉模様のスカートをはいていったら、下の甥っ子が「伯母ちゃんのパンツ、可愛いなぁ」と。
えっ。パンツ見えてた?と、しゃがんでいたので一瞬思いましたが、彼が指差しているのは、まぎれもなく私のスカート。
いや、あの子たちには女きょうだいがなく、義妹も常にジーンズとかでスカートをはかない人なので、「スカート」という語彙がないんですよ。だから、下に穿くものは、みんな「パンツ」ということなんだそうです(義妹説)。
まあそれはいいんですが、まず「可愛い」なんていう抽象的な単語が使えることに驚きました。
そして、二歳のくせに人が着ているものに関心があることにも驚きました。
それ以後も、たびたび、私のサンダルとか着ているものとかに関心を示します。上の甥っ子はそんなの全く眼中にないんですけどね。いやー、私自身のことを振り返っても、幼稚園児ぐらいのときは、「他人の服、他人の顔、他人の行動」などにそんなに関心がなかったように思います。自分が「どうしたいか」という本能のみって感じで。だから、上の甥っ子の無関心ぶりであたりまえだと思うんですが・・・

あと、先日また驚いたのは、私がそろそろ家に帰ろうとしていたとき。
「じゃあ、伯母ちゃん、もう帰るねー」とリビングで言うと、
上の甥っ子の反応。
(遊んでいたオモチャを持ったまま)「なんで伯母ちゃん、帰るん?」
「もう帰る時間だから。バイバイ、また明日な」
「バイバイ」(またオモチャに夢中)
下の甥っ子の反応。
(玄関まで追いかけてくる)
「伯母ちゃん、帰るん?」
「うん、また明日な。バイバイ」
「バイバイ。また、一緒にあそんでね」
ええっ?!
思わず振りかえりましたよ。また一緒にあそんでね、なんて、私は二十歳超えるまで言ったことなかったですからねー。っていうか、「あそぼうね」なら、時と場合により言ってたでしょう、でも、「あそんでね」という思考回路・行動様式は、私にはなかったです。なんか、ほら、「あそんでね」のほうが、相手を思いやってるというか、謙譲の気持ちがあるでしょ?そういうのを「社交辞令」としてようやく身に着けたのは、大学卒業して社会人になってからですよ、私なんて。それをこの二歳児が?
ええーっ!!って驚きました。
やっぱり、義妹が公園なんかで他人の子と一緒にあそばせるときに、「楽しかったね、また一緒に遊んでもらおうね」とか声をかけているんだと思いますけど、それでもまだ幼児ですから、上の甥っ子の反応がごく普通だと思う私には、下の甥っ子の「気遣い」めいた言葉が、いったいどこから出てくるのかわからん!!って感じです。
とうぜん、この兄弟ふたりを連れて遊びにでかけたりすると、下の甥っ子のほうが、周りからのウケはいいみたいですね。
そっかー、ワガママでジコチューなヤツは、うまれたときからすでにそういう言動が目立つし、周りの空気を読める人は、うまれたときからそういう素質があるんだなぁとしみじみ思いました。


死に至る美意識

六月初めに夫がアリゾナに行ってから、一ヶ月半。もうあと一ヶ月で帰ってきますよ。早いですね。
このプチ別居中には、夫のいないことを幸いに、のんびり楽しく♪と計画してましたが、振りかえってみればトラブルの連続だったように思います。

まず夫が出国したその夜に、さっそくのパソコン壊滅事件。これの復旧作業やらなんやらで、三日ほど没頭した結果、やっとなんとかなりましたが、頭に血を上らせたまま集中していた自分が壊れてしまう始末。体調が悪くなって微熱を出し、楽しみにしていたスポーツクラブ通いも、しばしお預け。
それが一段落すると、今度はまたネット回線不通事件。これもええ加減にせーよって頭にきました。最終的にはアサヒネットに電話して解決しましたが、それまで何が悪いのかわからなかったので、あれこれパソコンいじってて、疲れ果てました。
それからしばらくは調子がよくて、秋のドイツ行きのチケットを手配したり、イラスト代を振りこんでもらう銀行口座をつくったり、なんだかんだとやってましたが、そのうちメールとメッセのやりとりで海を隔てた夫婦喧嘩が勃発、けっこうこれが根深い問題に発展したので、何時間も国際電話で話をして、またまた疲れ果てました。
その後、気を取り直してようやくプールへ泳ぎに出たりする気力体力が回復したと思ったら、真夜中にご近所のすさまじい夫婦喧嘩の物音で起こされて寝られない恐怖の一夜があったり(こんなのここに住んで以来、初めてです)、はたまた自分自身が夜中に原因不明の腹痛をおこして病院に駆け込む羽目になったり(これも初めて)。母の運転する車に乗っていたら、スーパーの駐車場で軽く接触事故おこしたり(こんなのも初めて)。
そんなこんなしてると、今度はトイレのタンクと洗濯機につないでいる水栓の調子が悪くなり、これも自分じゃ何がどう悪いのかわかりません。とりあえず、蛇口の元栓を閉めて水漏れを防いでいますが・・・なんで夫が家にいないときに限って、こんなわけのわからんトラブルばかり起こるわけ??
なんか、運命の悪意っていうか、あの六月の日、駅の改札で夫を見送ったあと、「さぁ、これから二ヶ月半、独身時代に戻って楽しませてもらお♪」と密かにほくそえんでいた私の胸のうちを誰かに見透かされて、とことん邪魔されてるって感じ。
ホント、私が一人で楽しくやってたらあかんのかい?っていうふて腐れ状態ですよ。うちの夫は、アリゾナから私に夜な夜なインディアンの呪いでもかけてるんとちゃうか、と思いますね。

まあ、ほんとに調子よく快適な期間というのが短すぎ、で、カラ梅雨ですぐに蒸し暑くなってしまい、夏ばて。
先日、かかりつけのクリニックに定期診察を受けにいくと、「疲れてますね、軽いウツ状態かも」とか言われて、思わず逆上しかけましたよ。私はべつにウツなんかじゃない、こんな日が続いたら、そりゃー誰しも疲れるもんでしょって。
で、このところ読んでいた本も悪い。
よりにもよって三島由紀夫。
よりにもよって、「金閣寺」と「仮面の告白」。
この二冊はセットで読むことをお勧めしますけど、やっぱり、平穏無事に前向きに生きてるときに読むべきですね。疲れてたり、落ち込んでるときに読んだりすると、厭世観にとらわれて、下手すりゃ三島の後追いってことになりかねません。いやー、「魔の本」ですよ。
「金閣寺」は不細工で吃音があって友達もなくモテナイ僧侶のタマゴの童貞くんが、コンプレックスの塊に育ってイジイジ悶々としたあげく、何をとち狂ったか世の中に逆ギレして金閣に放火する話だし、「仮面の告白」は、これまたひ弱な身体がコンプレックスのお坊ちゃんが、不運にも幼少のみぎりから変態性欲に目覚めてしまい、女を愛せない(要するにホモ)自分にイジイジ悶々と悩みつづける話だし。
暗い!救いがない!
それだけだったらまだしも、「美しくないのは罪なこと」「醜いのは惨めなこと」という三島特有(?)の美意識のごり押しに負けそうになります。
私自身、三島的な美意識で見れば、決して美しくはないんだし、これからだって美しくなるどころか、老いの醜さが加わっていくだけなのだろうから、ここで負けたら終わりです。
三島が、めくっていくページの向こうから、ニヤニヤ笑ってるみたいなんですよね、「ねえ、美しくないって嫌だと思わないかい?いっそ、これ以上醜くなるまえに、きみもこっちへ来たらいいよ」と。その声に屈したら、もう終わりです。終わりなんですよ。死ぬしかない。

三島は「金閣寺」のラストで、美の象徴たる金閣を灰にすることで「生きようと思った」と主人公に言わせています。そのあと、自分自身も一念発起、ひ弱な肉体を改造すべく、ボディビルに励む。まあ、それは成功するんだけど、なまじ成功してしまったばかりに、自分で死ななきゃいけなくなったんじゃないでしょうか。
三島の言う「美」って、すごく実体的なんですよ。
手に触れられることのできる美、というか。ふくよかで瑞々しい女の唇、男の逞しい胸板、華やかに染め上げられた京友禅、なめらかな艶を放つ陶器・・・そんな感じですね。けれども、それは全部、滅び行くもの。
鍛えた身体で三十代を謳歌した三島ですが、ようやく払拭した肉体的コンプレックスも、歳とともに再びその存在をちらつかせてくるんですよね。男も四十代になると白髪は増えるし筋肉も衰えますし。もちろん、日々のケアで、老いの醜さから少しでも離れていることはできますが、それは永遠にじゃない。そういうことを気づかされる年齢になって、どう生きていくかがシビアな問題なんですが、三島はあくまで自分のコンプレックスの裏返しである美意識にこだわったんじゃないかなぁ。まぁ、まだきれいなうちにカッコつけて死にたかったと。
そういう感じがどうしてもしてしまいますね。「金閣寺」執筆後、もっと積極的に美しく生きようと思った、でも、その「美しさ」の概念が、どうも年齢とともに変わっていかなかったんじゃないかと。地上の美は極めたかもしれないけれど、実はそこから先へまだ進むべき道があるのに、三島はそれを拒否したか見つけられなかったかで、けっきょくのところ、カッコ良く死ねるうちに死ななきゃならなかったのかなぁと思います。
小説のなかでは金閣を灰にして、既存の美意識へのとらわれを取り払ったはずなのに、ボディビルが成功してしまったので、またもやその呪縛にはまりこんでしまったのでしょうかね。

日本画家の上村松園は、私の大好きな画家のひとりですが、彼女はその全盛期には好んでゴージャスな美人画を描きました。お姫様、太夫、舞妓、そういう誰が見てもため息が出るような美しい貴婦人を、豪奢な髪飾りや、繊細できらびやかな衣装で飾り立てました。その頃の絵は、ほんとうに浮世ばなれした美人画で、見る人を飽きさせません。
けれども、実母が亡くなり、自身も老境にさしかかると、彼女はますます円熟した筆遣いで、今度は普通の町娘を描き始めたのです。顔つきもとりたてて美人でなく、平凡に結った髪にはきらきらしい飾りもなく、一色、二色で塗られた普段着の庶民的な町娘が障子貼りなどしている絵は、正直、若い頃に描かれたあでやかな美女たちのように、ぐいと引き込まれる感じはしません。
まだ18,9の頃、個展を見に行った私は、なぜ松園がそんな面白みのない市井の女たちを描いたのか、わかりませんでした。会場に掲げられた絵の説明では、歳をとった松園が「母親の死を機に母性の尊さを意識するようになり、市井の庶民の生活のなかに存在する美しさの価値を新たに見出した」というようなことが書かれていたように思いますが、学生の私はまだ若すぎ、その文章の意味がピンとこなくて、「こんな絵、面白くない。もっともっと幽玄な世界、艶っぽい美人画を描き続けて欲しかった」などと考えていました。
けれども、そういう美の価値がわからないと、長生きできないのかなと思いますね、今は。
松園は、女性として初の文化勲章を受賞しました。没年74歳。あの時代としては長く生きたほうじゃないでしょうか。きっと、彼女は、女として、人間として、生きるうえで、最終的には何が「美」であるか?という答えをその身のうちにもっていたのでしょう。
それは手には触れられないが滅びないもの、人をして生へと向かわせるものであったのだと思います。

私はまだ駄目ですね。
三島の声が聞こえてしまう。それもそうかもしれないと思ってしまう。
いやいや、それではいけないと反駁するんだけど、悲痛なくらい根拠がない。
でも、最近ひとつ考えたこと。
ええと、この前、北朝鮮拉致被害者の曽我さんと、ジェンキンス氏、娘さんたちが再会しましたね。
そのとき、テレビで何度も大写しにされたのが夫婦のキスシーン。ネットや週刊誌ではさっそく面白半分に茶化したりしてますよね、だってどうみても日本人的な振る舞いではない感じがしますものね。
だけど、手放しであれを「カッコ悪い〜、恥ずかしいと思わないの?」と言っている人には、ちょっと私は引きます。そりゃー、曽我さんは松坂慶子みたいな容姿ではないし、ジェンキンス氏もロバート・レッドフォードとは程遠い。映画のワンシーンのような綺麗な絵にはなりようがない。
が、普通のおばさんと普通のジイサンがキスしたのがみっともないですか?いや、ああいう状況下でですよ?
誰も彼もがそのへんでブチュっとやりだしたら、もうここは日本ではないのだと思うしかありませんが、まあ、ああいう状況で、しかも相手はアメリカ人だったのですから、家の中もアメリカンな感覚だったのでしょうし、ここはやはり、嘲っていい場合ではありえないでしょ。
日本男児最後のハラキリ男、三島由紀夫でも、あの再会シーンを、なんだかんだ嘲わないだけの美意識はあったと思いますね。それだけは信じてもいいと思いました。


生きろ!

ここんとこ二週間ばかり、二、三日おきにプールで泳いで、図書館で本を借りてくるという生活です。
暑い日中は外に出るのを避け、弱くクーラーをかけた部屋ですごす。がやがやした人ごみには出ない。ゆったりと身体をしめつけないワンピースを着て、食べ過ぎに気をつけ、特に、夕食は軽めにすると、寝る時間にリズムができて、いい感じ。
うるさいテレビもみない、頭にくる新聞も読まない、ニュースはネットでちょっとチェックするぐらい。
本の選択も、ジェフリー・ディーバーのサスペンスフルな現代ミステリなんかでなく、アガサ・クリスティやドロシー・セイヤーズあたりの癒し系古典。
要するに、身体からも、心からも、できるだけストレスを排除する方針でやってます。
そうすると、わりと元気に暮らせますよ。
抗ストレス性が低いんですよね、私。
昔はもっと丈夫だったと思うし、いまでも、最高に調子のいいときは多少のストレスも「かかってこい!」ですが、自分の気持ちは「なにくそ!」でも、身体がへたってくると駄目です。身体と心は連動してるんだなぁと思いますね。今の生活のテーマは「癒しと調整」。なにせ、6月から7月頭まではちょっとストレス多かったんで、崩れた心身の回復をはかってる感じです。
いろいろ考えたりすることはあるんですが、このサイトの更新なんかも滞ってます。書きたいことはたくさんあって、でも、書き始めると長くなりそうで、それもまた疲れる原因になるので控えてたというか。レビューなんかも、もっと書きたいんですけどね。でも、もう少しスローペースでいきます。ちょこちょこした近況は、掲示板のほうで書いてますし。

先日、友人と電話で話していたら、「人生って、けっこうあっという間に過ぎていくね」って話になって、また学生時代から言い合ってたことを再確認してしまいました。
彼女いわく、「長生きしたい。できるだけ長く生きて、この世の中がどんなふうになっていくのか見てみたい」
私はね、「そこまで長生きしたくない。自分でやりたいことができなくなったら、尊厳死もありえると思う」
死ぬのが怖い、というんですよ、いつも彼女はね。自分の身体が焼かれて影も形もなくなってしまうことに、すごく抵抗があるらしい。虚しくなる、と。
私は死ぬこと自体は怖くないんです。ただ、苦しい死に方は嫌だと思うだけで。死んだ後、自分の身体が焼かれようとなくなろうと、知ったこっちゃないって感じ。
こういうのは、もう物心つく小学生ぐらいの頃から漠然と感じていることで、一生かわらないのかなぁと思いました。彼女がなんでそこまでこの世の生や自分の意識や肉体に執着するのか、私には理解できないし、彼女からしたら、私がなんでそんなにあっさりすべてを思いきれるのかわからない。

彼女は言うんですよ、
「自分がなくなるって怖いやん。私はたとえ大惨事が起こって地球上のほとんどの人間が死に絶えても、最後のひとりになって生き延びたいわ」
「すごいバイタリティ!昔から変わってないなぁ。私はそんな状況になったら、死んでいく人類の最初のひとりになりたい」
「なんでなんで??生きられるうちは生きようと思わんの?」
「だって、最後のひとりになるまでに、みんながバタバタと悲惨な最後を遂げていくのを見てるわけ?私はそのほうが耐えられへんなぁ。だって、ほら、よくある連続殺人のホラー映画なんかでも、最初の犠牲者はそんな恐怖が身近にあるとは知らずにいきなり殺されるけど、だんだんと人が殺されていくにつれて、みんな、次は誰がやられるかって恐怖と戦いながら生きていかんとあかんやん。それでけっきょく死ぬんやったら、最初に何も知らんと死んだほうがマシじゃない?」
「へぇ〜。私は何が何でも最後まで生き残って、その殺人鬼とも戦おうと思うけど」
「強いなぁ〜、私はそこまでして生きんでもいいわ」
「でもさ、死ぬことが怖くないんやったらさ、何も怖くないんと違う?」
「いや、だから、死ぬこと自体は怖くないけど、苦痛なのは怖いよ。これさえ飲めば絶対に苦痛なく安らかに死ねる、という薬があったら携帯したい。だって、乗ってる飛行機が落ちるとかして絶体絶命のとき、もう諦めて早く楽になれるやん」
「えーっ、危険な考えやなぁ。私はそんなときでも最後まで望みもってたいけどなぁ」

たぶん、友人は抗ストレス性が高いんだと思います。
この話をしたら、彼女と同じように「人間、生きなあかんで、何があっても、生きなあかんな」と言ってたうちの夫も、抗ストレス性が高いんでしょうね。
私は抗ストレス性が弱いので、「まわりの人間が死んでいく悲惨な状況」のなかを生きていけないと思います。バトルロワイヤルだったら、殺し合いには参加せず、殺戮が始まった段階で手っ取り早く自殺しますね。友達が銃を持っていたら、「一発で確実に死ねるように、額のここを撃って」と頼むでしょう。自分で引きがねをひくのは、やっぱり怖いと思うので。

死ぬこと自体は怖くない、と思うのは、なんとなく死ぬことがすべての終わりと思っていないから、というのもあるかもしれませんね。死後も、なんらかのかたちで続いていくものがあると、漠然と感じているからかも。宗教的なニュアンスの天国とか地獄とか、はたまた巷の霊能力者の言うような「死後の世界」みたいなものでなくても、なにか、続いていくものがあるのかなと。幽霊とか魂とかそんな言葉で定義できるものじゃなくてもね。
それはもう、すごく自然に物心ついたときからそんなふう感じていたんだと思います。
だから、死イコール無になることとは思ってなかった。
大人になって、死んだら無になる、という可能性を否定できないと思ったとき、やっぱりそれはショックでしたが、いまでは、「それはそれでいいかも」と思います。要するに、死後の世界があってもなくてもどっちでもいい。
でも、死それ自体は悪いものじゃないと(もちろん暴力などで無理に命を奪われるのは論外ですが)。
帰っていく、という感じ。
「はじめてのおつかい」じゃありませんが、生れ落ちて、恐る恐る試行錯誤しながら自分という存在をなんとかかんとか生ききって、そして「そこへ」帰っていく。安心して。夕暮れの家路をたどって、窓の明かりを見あげるみたいに。しずかな安堵感。
私にとって、「死」のイメージってそんなふうですね。

生きることは、なんだか、「やるぞ」「がんばろう」って気合を入れなきゃ続けてられないでしょ。
夏休みの宿題をずーっとやっている気分。押し花や絵日記や自由工作は楽しいけれど、算数のプリントや漢字の練習は嫌だなー、みたいな。
死ぬことは、夏休みが終わって宿題をぜんぶもって学校へ行くような感じ。
長く会ってなかったクラスメイトたちと「ねえねえ、自由研究って何やった?」とか言い合って。担任の先生には、それぞれの作品を批評してもらったり、プリントに花マルやペケをつけてもらう。
それが私の「死」のイメージ。だから、あまり悲壮感がない。
二十歳ごろ、ある本を読んでいたら、般若心経と、その現代訳が載ってました。死イコール無になるの?と、ちょっと懐疑的な不満を抱いていた私は、それを読んで、とても感動しました。
ああ、こういうのなら、悪くないなって。
般若心経は、金縛りになったときや幽霊退治の魔よけじゃありませんよ。
あれは、宿題の多さに疲れたとき、まあそうあくせくするな、なんとかなるよ、と背中を押してくれるものです。
いや、少なくとも、私はそう受け取りました。
シャーリプトラ(弟子)に向かって語りかけている形というのがいいですね。親しみがもてます。
いろんな現代語訳が出てるようですが、私ははじめて出会ったときの岩波文庫訳が好きです。
品があるし、最後の締めくくりの言葉が力強く、とても素敵です。

 掲諦掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提薩婆訶
 (往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸いあれ)


人は、生まれたそのときから手探りで死に向かって歩いているんです。
ときどき怖くなって足がすくみます。この大地、この空はなんだろう、と。この道はどこへ向かっていくのかと。
そんなとき、「それはなんでもないよ」と微笑み、さあ考えるのをやめて深呼吸してごらんと言い、真の闇というものの広大無辺な優しさを見せてくれ、何も心配はない、とにかく行けるところまで行け、そして、「生きろ」、と背中を押してくれる、その真摯で少し厳しい眼差し、だけど温かく大きな手のひらが、肌に感じられるような文章です。




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