それぞれに

このところ、体調はわりといい状態をキープしています。食欲もあります。
去年の春ごろ、それまで文学学校の中でナーバスになることが積み重なったのが原因か、いきなりガタッときてしまい、それから学校をやめ、必死で調整して夏の終わりにはなんとかイタリアに行きました。でも、それがまた原因でガタガタッときて最悪でした。が、年の終わりごろ有馬で湯治なんかしてみて、ちょっと持ち直し、うだうだと小康状態を経て、やっとここまできたって感じです。
こんなのいつまで続くんだろうと思うと嫌になりますが、仕方ないです、もう体質と割り切ってつきあっていきます。身体が常に軽い飢餓状態にあるっていうのは、一番長生きするらしいですよ。まあ、食べ過ぎの肥満から生活習慣病になる心配はないですね。今のところ。

ちょっと前から年金未納問題が騒がれていますが、私、年金もらえるのかな?
払っていない期間がけっこうあると思うんですよね。仕事せずにパラサイトしてたり、留学してたり・・・
ほんとに遠い先の話で、私には関係ないや、と思っていたけれど、考えてみればもう人生、折り返し地点??
女性の平均寿命は八十半ばぐらいらしいですから、それ考えるとまだ半分も生きてないわけですが、六十超えてからあとが二十何年もあるなんて、なんだかしんどそうだと思いませんか。たぶん、あそこが痛い、ここが具合悪い、とか言いながら騙し騙し身体をメンテしつつ、だんだんにボケて八十何歳まで生きるんでしょ。
ウチの親は比較的、まだ元気なほうですね。
父はいま、同じような歳の仲間と一緒に、ハワイへ趣味の写真撮影に行ってますが、パックツアーじゃなく自分たちでスケジュール組んでの旅行ですからね。英語もろくろく喋れないのに、レンタカー借りて島をまわるとか言っちゃって。元気なじいさん連中御一行様ですよ。
母も、とくに大きな病気もなく過ごせていますし、義母のほうも輪をかけて元気なので、そういう彼らを見ていると、まあ、人間、六十代でもなんとか人生をエンジョイできるもんなんだなぁとは思いますが。
お金と健康がそこそこ揃っていればね。

ときどきスーパーとかで、自分と同世代ぐらいの女性がレジを打っていたりすると、頑張ってるなぁと思います。十代や二十代初めと違って、きちんと手をかけなければ、そろそろ女としての見た目が苦しくなってきそうな年代。
常時、お金を触ったり商品をポリ袋に入れたり、働いていると手だって傷みますよね。
私は、皮膚が薄くて荒れやすいので、食器洗い機をいち早く買い込み、水仕事をしたあとは必ずローションやクリームをすりこんでいますから、指先のささくれとかはありません。お洒落のために少し爪も伸ばしているし、あまり生活感のない手です。
だから、彼女らの指先がなんとなくごわごわとしていたら、あー、頑張ってるなぁと思うんですよ。なんかよくわかんないですけど、勝手に人の生活を想像しちゃう。
「きっとレジのパートが夕方に終わったら、家に帰ってご飯作って、みんなが帰るのを待っているんだろうな。小学生ぐらいの子供が塾から帰ってきて、『今日のテスト、よくできたよ』とか嬉しそうに報告したりするのを『へえ、良かったね』とニコニコして聞いているんだろうな。『パパは遅くなるから先に食べていようね』とか言って、食卓にお皿を並べながら。食べ終わったら子供をお風呂に入れて、一緒にテレビを見ていたら、パパが『あー、腹減った』とか言いながら帰ってきて。そしたらまた食卓のうえのお総菜をレンジで温めたり、お茶碗にご飯をよそったり。子供はパパが帰ってきたので、学校でのこととかを『あのね、あのね』と、またひとしきり喋り始めて。そのうちに『こらこら、もう明日の準備をして寝る時間よ』とか言って子供を部屋に追い立てて・・・」

全部、想像なんですけどね。
ドラマとかでありがちな光景。実際、私と同い年の友達の家は、こんなふうじゃないのかな。彼女はパートには出ていませんけどね、一般家庭ってこんな雰囲気なのかなぁと。
私とは縁がなかった光景。
実家は自営業だから、毎日、夜遅くなるとスーツを着た「パパ」がネクタイをゆるめながらドアを開けて「ただいま〜」と帰ってくる、なんて感じじゃなかったし。
結婚しても、夫はアレだし。子供もいないし。
朝は夫と簡単にパン食ですませますが、ウィークディの夜はいつも一人ですよ。一人でご飯つくって、一人で食べてます。だって、夫が帰ってくるの、十時とか十一時ですもの、待ってられない。それが寂しいとか、子供が欲しいとかは思いませんけど、どうも、私の頭で思い描くところの「普通の生活」じゃないよなーって感じるんですよね。同世代のパートで働いてる人なんか見ると、まあ、たぶん、家のローンとか子供の学費とか、自分のお小遣いとか、そういうもののためにやってるんだろうな、それってすごく「普通の暮らし」って感じ、と。
うん、だからどうなのっていう話じゃなくて、「なんで、あの人はああで、私はこうなんだろ?」みたいな不思議さ。人それぞれに与えられた人生というものに対する不思議さ。
・・・きっと、彼女にとっては子供や夫、家族みんなの健康や幸せが大事で、少しぐらい手先が荒れても、仕方ないよね、もう若くないんだし、とかつぶやきながら、でもやっぱり気になるし、明日はちょっとドラッグストアに寄って、もう少し高いハンドクリーム買おうかしら、とか考えてみたりしてるのかな、とか・・・
ねえオコタン、どう思う?
私と同世代の人って、どんな暮らししていると思う?
何を考えていると思う?どんなふうにこれからを生きていこうとしてると思う?
そんなことに思いを巡らしてみたって意味ないよ、自分は自分だから。それはそうなんだけど。

と、つらつら暇人の妄想にふけっていると、記者会見では皇太子の爆弾発言。
「雅子のキャリアにもとづいた人格を否定する動きもあったことは事実」ですって。
人格を否定って、すごい表現するなぁ、かなり思い切ったことをおっしゃいましたねぇ。案の定、憶測やら波紋は広がっているわけですが。どうなっていくのか、関心のあるところです。
雅子妃も紀子妃も、やっぱ私と同年代なんですよね。
お二人の様子の違いを見るにつけても、「いろんな人生があるものだなぁ」と。
あの、ご成婚当時の自信にあふれた雅子妃が、まさか十年経って、こんなことになろうとは、誰が想像したでしょう。紀子妃よりもタフに自分の道を邁進しそうな感じに見えたのに。
わからないものですね。

もう、先のことがまったく読めないほど若くない。
だけど、人生の全体を俯瞰するには、まだまだ早すぎる。
後ろにはけっこうな長い足跡が続いているように思えるけれど、まだまだ前には未踏の領域が待ちかまえている。
私が年金をもらうころ、いったいどうなっているのかな。
このまま、平穏な毎日とやらが続きそうにはない。それは確実。生きることは、そんなに甘くない。
できたら守りに入りたくない、だけどアグレッシヴに突進するにはそれ相応の自信となる根拠が欲しい。
未来がわからない、自分って、この先どうなるのだろうとため息ついているのは、何も若い学生さんやフリーターさんだけじゃありません。

岩崎宏美のわりと最近の曲に「ジェシカ」というバラード(ちょっとジャズっぽいテイスト?)がありますが、歳を取って夫に先立たれ、子供たちもそれぞれに巣立ってしまい、誰もいなくなった家で、花を育てたり手紙を書きながら、幸せの想い出だけを伴侶に一人暮らしをしている老いた女性ジェシカを、隣人の女性の目から見ている、という内容なんですね。
私は、今はまだ、その「見ている側の女性」ですが、いつかジェシカの側になる。
死ぬこと、それ自体は恐くないけれど、そのまえにやってくる孤独や苦痛が恐い。
年老いて、「想い出に生きること」を静かに選べるのは、ほんとうにきちんと生きて、自分の責務を果たし、大きな慈愛というものを身につけた人だけなのでしょうね。
ジェシカは家族や隣人に惜しみなく愛を与え、老いて一人になった今も、浅ましくその見返りなど求めない。

♪幸せのかたち それぞれにひとつ
   神様が くれるのでしょう
 ジェシカ、帰ってくるわ みんな帰ってくる
   あなたの部屋の ドアをたたき
 ジェシカ、あなたの愛は まるで花束だわ
    永遠に 枯れない

私は、ほんとうに「みんな」帰ってくるのかなって、思います。
それは、恐らくジェシカの死ぬ間際か、お葬式のときなんでしょう。
愛を与えられているときは、有り難い花束だと思っていても、人はいつかそれを枯らしてしまうもの。死んでしまってから故人を偲んでも、それは一時のこと、「みんな」それぞれに自分の生活、精一杯の日常に戻っていく。むしろ、天国の門で枯れない花束を与えられるのは、ジェシカその人なんでしょう。その生のあらゆる場面で、人々に己の真心を与え続けたご褒美として。
なんか、ほろりときてしまう曲です。


ゼロから学ぶ

えっと。突然ですが、講談社から本出します。
といっても、私の本じゃなくて、著者はいちおう、うちの夫です。
理工系の学科へ進学をめざす高校三年生ぐらいから、理工系の大学一、二年生、さらに、物理に関心のある社会人をもターゲットにした物理数学の解説書です。

二年前に同業の人を介して話がきて、それからぼちぼち、担当の編集さんとあーでもないこーでもないと打ち合わせしながら、本業のかたわら少しずつ書いて、やっと約二年がかりで脱稿。
で、私がこの仕事に関わっているかというと、これまたえらい関わってます。本文中のイラストと、なんと、表紙のイラストまでも描いているので。あと、アイディア出したり、文章チェックとかも・・・
初め、講談社から話があったときは、もっと漫画みたいなのをたくさん入れて、私たち二人で共著にしてもいいですよ、という感じだったんですよね。でも、いざやってみると、なかなか難しいということで、著者は夫、私はイラストという分業体制に。表紙のイラストまで描くことになるとは思ってませんでしたが、けっこう個性の強い本で、文中のキャラクターが立っているんですよ、だから、いっそ表紙もそれで統一したほうが、ということで、そうなったんですけどね。

いや〜、こんな機会めったにないかもしれないし、このことを誰かに言いたくて、ここでも書きたかったんですけど、なにしろ、本を出すのって、全部、「口約束の世界」なんですよ。契約書もなんもなし。だから、原稿せこせこ書いていても、「あー、やっぱこれじゃ出せませんねー」みたいなこと言われたら、話はまるまるパァですから。私としては、夫がちゃんと最後まで書けるのか?それをちゃんと本にしてくれるのか?という疑問がずーっとつきまとってましたから。
私の描いたイラストについても、ちゃんとお金くれるらしいんですが、実際にいくらもらえるのか、ぜんぜんわかりません。こんな仕事ってアリ?とか思うんですけど、恐くて訊けません(~_~;) 担当の人は、「薄謝ですが、イラスト代も出ますので」と言っていたけれど、彼の言う「薄謝」が、どの程度なのか、さっぱりわからない。
まー、本をつくるってこういうことか、と思いました。
紆余曲折ありましたが、今月末に印刷に回して、来月の二十日あたりには本屋に並ぶ、というところまできましたから、もうここで宣伝しても大丈夫でしょう。うん。大丈夫だと思います。

文章とかグラフとかをレイアウトした最終のゲラチェックのときしか、どこにどんなイラストを入れたらいいか決まらないので、先週末は土日、家にこもりきりでイラスト描いてましたよ。私はたぶん手が早いほうだと思いますが、あれだけ短時間で、あれを描け、これを描け、と言われると、さすがにきつかったです。ひとつとして使い回しのイラストはないですから。全部、違う絵なんです。あのシリーズでこれだけイラストをふんだんに使っている本は、ないんじゃない?
普通、イラストは外注ですよね。だから、著者が「だいたいこういうのを」と注文して、そのイメージで描いてもらうという感じだと思いますが、ウチはキッチンのテーブルでふたり頭つきあわせて、
「ここにイラスト入れたいねん。このグラフをわかりやすくするような。たとえば〜〜〜を描くとか」
「えーっ、そんなん描くの?ぜったい変!!そんなんやったら〜〜〜のほうがいい」
「いや、それでは〜〜〜なんや、だから、これでいってくれ」
「っていわれても、やっぱまずいわ、〜〜〜にせぇへん?」
「いや、それやったら、ちょっと違うねんなぁ」
「そもそもこのグラフで何を表したいわけよ?」
「だから、それはな・・・」
のようなやりとりをしながら描くわけです。ときには、喧嘩になったりして。
もともと、イラストには文章ほどのこだわりはないんですが、それでも私だって、「これが『自分の作品』として世の中に出回るのはなぁ・・・」っていう気持ちになることもありましたよ。だけど、自分の好みじゃなくても、仕事だから、「絵描きマシーン」になって描かなきゃいけない、みたいな割り切りの必要な場合もありましたね。まあ、ほとんどは楽しく描いてましたけども。

文章のチェックしてても、私は私なりに細かい部分が気になって、「この文章、なんかおかしい。書き換えたら?」ということもたくさんありましたが、ま、けっきょく著者は夫だから、夫が、「これはこれでいいねん」とあくまで言い張り、編集の人も納得したら、それはもうそれで行くってことで。
こんなんだから、たぶん「共著」なんて無理だったと思います。私が理工系の学問に通じていたら、また別だと思いますが、私がこれまで膨大な時間をかけて読んできたのは文学ですから。ほんと、夫との共同作業を通して、「文学で使われる文章」と「理工系で使われる文章」がまったく違う、ということを今さらながらに発見しましたよ。私など、日本語の文中にコンマやピリオドをうつこと自体、視覚的に???という気持ちになるんですが、そのほかにも疑問がたくさんわいてきて、いちいち夫と喧嘩をしながら確かめていった結果、文学的感性とか美的配慮というのは、理工系の学問のなかでは邪魔!!以外のなにものでもないのだと。

「物理数学の教科書では、こう書くのが常識!」
専門家であって、そういう本ばかりを読んできた夫にそう言われれば、門外漢の私は、そうなのか、と引き下がるしかありません。私にとっては、それが「恥ずかしいほど洗練されていない文章」に思えてもね。同じ形容詞の繰り返しなんかは、文学的鑑賞眼でみれば最低最悪ですが、理工系の解説書ならば、内容をクリアにするために、あえてそういうふうにするのだそうです。
いままで、文系でも理系でも、同じ人間で、同じ言葉を使っているのだから、「話し合えばわかる」と思ってましたが、これだけ「内容を言葉で伝えるのに必要とするセンス」が違うと、長年やってくうちにクセがついて、思考回路もそれに沿ってくるでしょうから、キャリアが積もれば積もるだけ、両者の言葉の溝を埋めるのは困難になってくるのでは?と思わざるをえませんでした。まさに、目からウロコ。
これまでこういう経験はなかったし、ふたりでゼロからの本づくりをしながら、学ぶことは多かったです。


プチ別居中

いま、夫はアリゾナにいます。研究仲間のいる大学の寮に住み、八月半ばまで仕事です。
アリゾナというと、メキシコと接していて、夏は連日、四十度を超える砂漠地帯。湿度は20%ぐらいですか。
昔の西部劇の舞台みたい、木のようなサボテンとか、サソリとかコヨーテとか、そんな世界。
でも、フェニックスという都市自体は、都会なので、どこへいっても冷房が昼夜とわずガンガンかかっているし、朝晩は過ごしやすいそうなので、ムシムシと息の詰まりそうな大阪の熱帯夜よりは快適かもしれません。
私は、ついていくかどうか迷ったんですが、なんせ四十度を超える暑さとか言われると尻込みしちゃって・・・サンフランシスコなら行きたかったんですけどね。んー、オコタンをどうするかっていう問題もあるし・・・誰も二ヶ月半も面倒みてくれないし。
それに、いったん日本に帰ってきて、また九月いっぱいはドイツに行く予定なので、私としては、こっちについて行きたい。やっぱ・・・サボテンやサソリよりはねぇ。体力的にもハードだから、どっちか片方しか行けないし、オコタンのこともあるしで、アリゾナはパス。ということで、しばしの別居生活です。
寂しいかって?まあ、実家が近いですから。歩いても十分かからない距離で、毎日のようにご飯食べに行ってます。オコタンもいるし、あまり寂しい感じはないです。へへへ。まあ、もう結婚して五年も経つと、こういうプチ別居もまたいいんじゃないでしょうか。

でも、夫が飛行機に乗っていったその晩、マイパソコンが壊れたんですよね。
もともと夫のお下がり。IBMのThinkPadなんですが、突然、ガラゴロいいだして、フリーズ。再起動してもだめ。なんとか持ち直したんですが、やっぱ不安定で、このまま使っているうちにますます壊れそう。っていうか、もう瀕死状態。といっても、家にあるもう一台のマシンは夫のですが、ノートじゃないし、英語キーボードなのでよくわからないし。で、実家の父が昔買って、もう使わないと言っているNECのLaVieNXを借りてきました。これを私用にカスタマイズして、ホームページビルダーも入れて、いまはそれ使ってます。新しいのがほしい。でも、夫が帰ってくるまでは、これでなんとか間に合わせるつもりです。

やっぱり自分の使うもんは、自分で選んで、自分で設定とかして、トラブルがあっても、自分でなんとかできるようになりたいものです。人に頼ってたら、イザというとき何もできないってことが身にしみました。いや、私はあまりマニュアルとか読まずに使っていることが多くて、「野生の勘」でパソコンに接していますから、今回のような人に頼れない緊急時、それがすごく役立ったわけですが。それでも限界ありますよね。
ほんと、前から新しいの買おうかと言っていたんですよね、でも安くていいのがなかったり、面倒だったりして、けっきょくそのまま夫が旅立ってしまい、「トラブルがあったら、私ひとりでどうしよう」と思っていたんですが、きっちりそれが現実化してしまいました。こんなに早く。信じられない。ThinkPad、古いけど本体が薄いので、わりと気に入っていたのに。
今度ニューパソコン買うなら、譲れない条件が、「薄いこと」なんですが(薄いほうが大量の文章などを打ち込みやすい。手が疲れない。見た目もスマート)、薄くて軽くて液晶がきれいで使い勝手がよくて、できたら安いのって、なかなかないんですよね。そーゆーのはみんな高い。私なんか遊びで使っているだけだから、十五万以内でないかなぁ・・・

ああそうそう、パソコンの画面って、かなり色合いが違いますね。
なめらかさとか、質感も、微妙に違う。お絵かきソフトで絵を描いても、こういうサイトなんかのデザインや雰囲気も、「みんなが自分が見ているとおりに見ているわけじゃない」ですね。
うん、わかってましたよ、でも、こんなに違うもんかなーと。
ある程度は設定の問題ですが、どうしても青みがかって出るとか、赤っぽいとか、なめらかさはパソコンによって違うので、またしみじみと、「手描き>CG」かなぁと思ってしまいました。
あ、それはそうと、こんど出る夫の本のイラスト代なんですけどね、思ってたよりもらえました。
いろいろ打ち合わせの段階で破棄したものとかあるので、さほど効率よく働いたとは思えませんが、もともとあれぐらいの簡単なイラストだったら描くのが苦になりませんから。まあ、実労働時間で換算したら、ちょっと割りのいい主婦のバイトって感じになったと思います。いや、私の感覚ではね。こんなんだったら、機会さえあればまたやりたいです。

どんなふうにレイアウトされて印刷されてるのか、私自身、見るのが楽しみ。編集さんは、「イラストいっぱいで楽しい本になりました。売れそうですよー」とか言ってましたけど、売れるのかな。っていうか、自分の描いたものが全国に出回るって不思議な気分。だってね、このキッチンのテーブルで描いたものがねぇ。なんかほら、事務所とかならわかるけど。もー、キッチンのテーブルで描いてるってのが、いかにも手作りでしょ。こんなんでいいの、みたいな。
でもそんなもんかもしれない。だって、夫の部屋も相当汚いし。足の踏み場もないうえに、何が捨てていいものか、どれが大事な書類なのか、判別つかないから、私も掃除しに入ったことないんですよ。夫が掃除してるの見たことないし、あんな汚部屋から、論文だの、講演の草稿だの、本の原稿ができて、それが世の中に出回っているって、もー不思議とか手作り感覚っていうのを通り越して、驚異とか爆笑とかいうもんでしょ。


壊れたヒトビト

長崎で起こった小学六年生女子児童の同級生殺人。
まあ、サカキバラといい、幼児突き落とし事件といい、ある程度、凶悪な少年犯罪には、そろそろ慣れも出てきた今日この頃ですが、それでも女の子がカッターで友人の首を切りつけるなんてのはショックでしたね。
ネットでのトラブルが引き金だとか、最近の親や学校の在り方がどうだとか、暴力やエロが過剰にあふれている社会はどうだとか、いろいろ言われています。これを機に、そういうことを考えるのはぜんぜん悪くないと思うし、あたりまえにやるべきことだと思います。けれども、ちょっとした喧嘩や暴動などの問題行動ではなくて、こういうレアケースでは、正直、何が彼女をそうさせたか?という原因なんて、つきとめられないんじゃないでしょうか。いや、それを考えるなというわけじゃなく、無駄だと言うつもりもないですが、なんていうか、もってうまれたものを抜きにして、語れないと思うんですよね。

子供はまっさらの白紙状態で生まれてきて、環境が彼らを染めていくなんて半分はほんとで半分は嘘。
子供は、もう赤ん坊としてこの世に生れ落ちてきた瞬間から、独自の個性をもっているんです。顔や身体能力は、みんな最初から違ってあたりまえだと思うのに、どうして人格だけはまだ白紙だと思いたがるんでしょうね。受胎した、まさにそのときから、個として与えられた人格の芯というのがあるんですよ。それは甥っ子たちを見ていてもそう感じるし、自分自身の子供の頃を思い出してもそうだと感じるんですよね。
社会の規範を知らない、縛られていない、子供だからこそ、その違いが時には大きく出てくるんだと思います。
個人としての差異があって、そして家庭や社会の影響が、うっすらとフィルターをかける。
猟奇的な殺人小説を好んで読んでいるからって、そういう人々みんなが人間関係でトラブると、「怒りにまかせてカッターを振り回す」わけではないでしょう。振り回さない理由がたくさんあるように、振り回す原因もたくさんあって、私は、子供の場合は「先天的な資質」が大きく左右しているんじゃないかなと思います。まだ環境に染まりきってないですよね。自我もちゃんと発達していなくて環境に振り回されているようで、じつは子供というのは環境からくる影響よりも本能に近いところで生きている。

子供に、「将来は何になりたい?」なんて、よく訊ねてみたりします。
中学生くらいになると、成績とか家の経済事情とかがわかってきて、そこから、自分の行く末の選択肢がいくつ残されていて、可能性がどれくらいあるのか、うっすらぼんやりでも計算しますから、本当にうまれもって自分のなかに埋め込まれたモノというのは、かなり無視されます。でも、小学校低学年ぐらいだと、そういう計算はまだできないと思いますから、大人が考えるよりもほんとうの自分、「まだ何にも染まっていない、種のままの自分」というのを、よく知っているんじゃないでしょうか。
私が子供の頃、何を夢想していたかというと、「絵を習って画集を出したいなぁ」「もっと大人になったら本を書いてみたいなぁ」とか、そういうことですね。すごく漠然と。大人の日常を模倣する「おままごと遊び」とか嫌いでしたね。っていうか、おままごとで何の役をしたらいいかわからない。「会社で働く」「お金儲けする」とか「お嫁さんになって、家事をして子供を育てる」なんて、発想自体がありませんでしたから。

実際、その後の人生においてこれまで、私は、会社で働くこと、お金儲け、子供を産み育てる、ことには縁がありませんでした。これからも、おそらくそれはないんだろうと思います。で、なんか、そういう流れって、十歳にも満たないあのときから、もうわかっていたことのような気がしますね。自分の能力を社会に還元すべきだとは思うが、それを、「会社員」「子育て」というカタチではやらないだろう、というのは。大学生になっても、やっぱりそれは自分のなかにまったくありませんでしたから。親とか教師、周りの友人が、就職して結婚して子供作って、という未来が当たり前のことであるかのように考えているのに影響されて、自分もそうするんだろうと思っていました、というか、そんなことは真剣に思ってもいなくて、ただそういう世間の常識みたいなのに流されていました。あー、みんなそういう感じで生きていくんだって。自分もそうやって生きていくのかなって。
でも、縁がなかったんですよね。就職活動、自分ではみんなと同じようにやっているつもりなのになかなか決まらない。決まってもすぐ逃げ出したくなる。果ては、結婚したはいいけど子供ができない。でも、できなくてもいいやと思っている、もっと本音を言えば、どこかしら、これでいいんだ、みたいにホッとしている自分がいる。もしも本当に子育てしたかったら、私の性格からして、何が何でもの勢いで不妊治療やってますよ。でも、自分のなかにそういう方向へ行くビジョンがない。私に関して言えば、会社員というポジションにしても子供にしても、真に求めていない、だから与えられない、という法則が成り立っているんだろうと納得しています。

夫も、幼い頃からオモチャを分解して「これはどういう仕組みになっているのだろう?」とか、あれこれやってたみたいです。それがあまり熱心なので、周囲の人たちは、「この子は、将来、オモチャ屋さんになるんだろう」とか思っていたらしいです。科学とか、それが開いていく未来図にも、関心があったと言っていましたから、やっぱり彼も、自分のことがうっすらわかっていて、自分はそういう方向へ歩いていくんだろうな、と思っていたみたいですね。
私と夫だけじゃなく、多くの人がそうだと思いますよ。
小学校低学年ぐらいに何を思い描いていました?
人から押し付けられた夢や理想じゃなくて、自分がまるであたりまえのように素直に思っていたこと、関心、能力、それは何でしたか?
それこそが、「先天的な資質」なんですよ。もってうまれた「種」なんだと思います。
もちろん、それは「期待される人間像」として完全ではなく、たいていどこかが欠損していたりする。
その欠損を補って、大きく花を咲かせる人もいるし、欠損が目立たないから、気楽に人生をエンジョイしている人もいたり。いろいろだと思いますよ。

私は十代の後半ぐらいに、たまに自分が子供を産む夢を見ました。でも、その子供は人間の子じゃなくて、ハムスターだったり、なんかの小動物なんですよね。自分は子供なんか欲しいと思ってないのに、周りは結婚して子供産んで、という未来を描いている・・・私もそうなるの?という葛藤の現れかなと思います。人間ではない子を産む、というのはね。
私にも母性はあると思いますが、「自分の子供がほしい」という欲求がない点で、ヒトという生物としては、壊れてるんでしょう。子供がほしいと思う人は、きっとほんとに心から欲しいんですよ。理屈じゃーない。あれはちょうど私が30ぐらいのときですが、そのころ仲良くしていたご夫婦の子供がとっても利発で可愛かったこともあって、「こんな子がいたらいいなぁ」なんて、私も人並みにうらやましく思いました。ちょうどその頃、そういう脳内物質かホルモンみたいなのが出てたんですよ、たぶん。いままで「ふーん」って感じだった子供という存在が、急に可愛く見えてきて、「ああ、子供がほしいって、こういうことか」と。そのとき結婚していたら、発作的に子供をつくったのかもしれませんが、まあ、そういう状況になかったし、まもなく脳内物質のほうも微弱になってしまい、そのご夫婦と疎遠になってしまうと、「あの気分は一過性の現象だったんだ。いやぁ、人間って動物だなぁ」と感心したりしましたね。でも、「あの気分」をすごーく拡大してみるとわかるような気がするんですが、子供のほしい不妊夫婦の苦しみは、理屈抜きでつらいものなんだろうなって。壊れた私には、それまでわかりませんでしたが。

人によって、人格の芯をなすものの壊れ方とか欠損部分は違うでしょうから、「首にカッターを突き立てたら、さぞかし痛いだろうな」という「痛みに対する本能的な畏れ」が欠損した子がいたり、「人を殺すことへの本能的な畏れ」が欠損した子がいたり、「怒りや欲望を制御する本能的な安全装置」が壊れたりしていたりする子がいても、おかしくないと思います。人を殺すというレアなことをやってしまった子供たちの個々のケースに対して、なぜ?と原因をいくら追求してみても、同じ欠損を持っているからなんとなくわかるという場合を除いては、理解しがたいのは当然のことではないでしょうか。
人を殺し(しかも、すごく残酷に)、親と離され、拘束されたなかでも、「ご飯を食べて、眠れるし、支離滅裂な精神状態でもなく、人と意思疎通もできる」というのは、どう考えてもそのあたりに欠損があるとしか思えません。本人も、自分が壊れているという意識があると思います。なるべくしてなった、やっぱりこうなってしまった、という気持ちが心のどこかにあるような、そんな感じがします。それを他人に表現しろと言われたら、まだうまく伝えられないでしょうけど。
昔からいたんですよ、壊れたヒトビトは。
ただ、カッターが身近になかったり、社会的規範を守る周囲から押さえつけられていたり、いろんな外部のフィルターがあって、それが具現化したりしなかったりするだけでしょう。
そもそも、「同胞を殺すことへの本能的な畏れ(後の報復や罰に対する恐れではなく)の欠損」というのは、家庭や学校での「命を大切にする教育」なんてものとは無縁、というか、そんな生ぬるいもので補えるようなものではないと思いますね。もっと、根源的で根深いものだという気がします。
脳の研究がもっと進むなりしないと、そういう深刻な反社会的欠損をもってうまれた子供の更生は難しいんじゃないでしょうか。そういう意味で、重大犯罪をおかした子供の処遇をどうするか、というのは複雑な問題だと思います。私個人的には、彼らは病気なのだと考えますけどね。


特典

結婚して正解だったと思うことは、ときどきあります(失敗だったと思うこともあるけれど)。

1.自分の社会的身分が安定したように見える
べつに、私自身にはそんなものは全くないのですが、夫の社会的立場を借りて、「誰それさんの奥さん」ということで、社会的になんとなく認知される。それだけで、素のままの私よりは信用されやすい。

2.経済的にある程度は安定したように見える
べつに、私自身に経済力があるわけではないのですが、これまでは実家の援助で生きてきて、それが夫の稼ぎに変わっただけで、なんとなく気が楽になるし、社会的にも当たり前の存在と認知されやすい。

これらは、普通に自立してまっとうに生きている男性と結婚して専業主婦になったら、まあ、「もれなくついてくる特典」みたいなもんですが、これにプラス「学者夫であることの特典」というのも確かにあって、

3.私よりもずっと高学歴な人たちに接して、その生態を観察する機会がある
まー、学者ですからね。高学歴はあたりまえ。理系っていうのが良かったのか悪かったのか、わかんないとこですが、知的マッチョではあっても、文系的な「いかにもインテリくさい慇懃無礼な嫌味」は少ないと思います。あと、学者夫と結婚したら、誰もがこういう機会に恵まれるかというと、そうでもないかもしれませんね。うちの夫が私を連れ歩くのが好きでなかったら駄目だもの。学会なんかあっても、妻はお留守番という学者夫だっているでしょう。
これについては面白いエピソードがあって、結婚するとき「なんで私と結婚しようと思うの?」と夫に訊いたら、「学会のパーティとかで、一人でほっといても大丈夫そうだから」というのが理由のひとつとしてありましたね。はじめから、海外の学会とかには一緒に行こうという気があったんでしょう。で、そういう場では、研究に関して常人にはわかりかねる専門的な会話が延々と続いて、ついていけない妻は退屈、ということも多々あるので、「夫が常にかまってくれないと、その時その場を一人で楽しむことのできない女性はちょっと困る」という考えがあったらしいです。そのときは「ハァ?」と思いましたが、今では納得できますね。たしかに、「夫がいつもかまってくれないと不満(不安)」なタイプは、学者妻に向かないかもしれません。

なんかこう書くと、私がいかにも高学歴な人たちに特別な思い入れがあるように見えますが、とりたてて崇拝感情みたいなのは、さほどなかったですし、今となってはさらさらないです。あはは。
初めは、まあ、珍しいっていうのがありましたね。
夫と結婚するまえだったら、東大にストレート合格、そのまま院を出て学者の道に、なんていう人とお知り合いになったら、正直、どんな人だろうと興味しんしんだったでしょう。しかも理学部でしょ、「えーっ、どんな人ぉ?」のあとに、ある種フクザツな表情が浮かんだでしょうね。なんかこー、スタートレックに出てくる宇宙人を見るような・・・
いや、まあでも、みなさん普通に人間です。
たまに壊れた人もいるようですが、人間ってほら、どこかしら壊れてるもんですから。大なり小なり。私のパソコンと同じで、騙し騙し、リブートしながら生きてるわけですよ。うん、壊れっぷりが凄い人も、たまにいるかもしれませんけどね。いや、たいていはちょっとの努力で意思疎通できる普通の人たちだと。それがわかっただけ、夫と結婚して世界観がひろがったと言えるでしょう。

まあ、これ以外にも、身体が丈夫なので荷物の持ち運びをしてくれるとか、へんな世間体にこだわってつまんないことを押し付けないとか、私のやりたいことを妨げないでバックアップしてくれるとか、機械類が故障したとなると目を輝かせて修理してくれるとか(ありがた迷惑の場合も)、ワインの栓を抜いたりジャムの蓋を開けてくれるとか、うちの実家とも気さくに仲良くつきあってくれるとか、いろいろと結婚して正解だったと思うことはあります。
でも、今回、夫の出す本の挿絵が描けたことは、これまででも一番の特典だったと思いますね。
いや、まえから、そーゆーこと、やってみたいなぁと思っていたので。本の挿絵。
知らない誰かが私の描いた表紙の絵や挿絵を見る。それって、なんてファンタスティックでしょう。
こういう経験は、規模の小さな内輪受け的同人誌なんかでは味わえませんよね。
お金もちゃんと入ってきたし。
うん、お金がもらえたっていうのはすごく意味がありますよ。何せ、自分の才能が金銭に換算されたということですもん。ただ時間の切り売り的な仕事をしたんじゃない、自分がやりたいこと、楽しくできること、それが認められてお金に化けたという経験は、私にはなかったことですもん。私にとっては非常に意味がある。金額の多少は問題じゃないです。ココロの満足。

私、なにもかも中途半端だったんですよ。小さいころから「絵がうまいねー」と誉められても、あんまり努力しないでも自然にできることだから、ありがたみがない。「そう?」って感じ。クラスメイトから「イラストちょうだいよー」とねだられてノートやお絵かき帳にお姫様みたいな女の子を描いてあげたら、「ありがとー♪」って喜ばれても、「なんで自分で描かないんだろう。自分で描いたほうが楽しいのに」と思ってただけでした。
誉められ慣れて、私には才能があるのかなって、ちょっといい気になって、でも、大きくなるにつれ、世の中にはもっと絵がうまい子がたくさんいるって気づくんですよね。で、それじゃ、もっと努力してプロになろうとか、そういう粘りがないんですよ。だって、認めてもらえるのなんか、ほんの一握りの人にしかすぎないじゃない?って。投げてる。絵とか文章なんか、偉い人が主観やらコネで優劣を決めるものだし。これが、走り高跳びの才能がある、とかなら、もっと一生懸命やったかも。ハッキリくっきり数字で勝負できますから、どれだけ努力したらいいかが、明確にわかるでしょ。基本的に、賭けごとは嫌いなんですよ、私は。
そんなんだから、夫に本を書く仕事が回ってきて、夫が私と二人でやるんだったら引き受ける、と言ったときは心底「ラッキー!」と思いましたよ。いや、たとえそれが物理数学の教科書の挿絵でも、いいじゃないですか。
友達レベルでの賞賛の言葉も確かにありがたいんだろうけど、金銭に換算されたことで社会的に認めてもらえた感じを味わえたというのは、また別のありがたみがある。
これも夫がたまたま学者で、私と共同作業をしたがったからこその特典。これは大きかったですね。
小さなころ、漠然とやりたかったこと、もしもできたらいいなぁと願っていたことが、ひとつだけ現実になりました。




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