解禁

はー、やれやれ。
とりあえず無事に保護されたわけだし、もう解禁ですかね、あの、「お脳のどこかが非常にユニークな構造をしていらっしゃると推測される」押しかけイラク入り三人組の誘拐事件の話は。

いやー、最初は、ただただびっくりしちゃいました。
たまたまネットやってて、事件発生を知ったので、テレビをつけてみると、アルジャジーラが最初に流した映像が飛び込んできて。拉致された三人のうしろには、銃を持ったいかつい男達。イヤーン!!
ヘタレな私は、「きゃー、こんなことって本当にあるの、アメリカ人が殺されたりしてるのは知ってるけど、同じ日本人がこんなことになるなんて、これからどうなるのどうなるの、うわぁーん、こわいよー」、みたいな感じで半泣きになってました。ちょうどそのとき、研究室の夫からカエルコールがあったんですよね。
「ああ、僕。今から帰・・・」
「(話さえぎり)ちょっと!!!あんた知ってる?日本人が三人、イラクでテロリストに拉致されてんで!!今、ニュースでやってるがな!!こわいよ〜」
「へええ!!ほんまかいな!!」
「うん、あのな、三日以内に自衛隊を撤退させんと、三人を殺すって。どうなるのどうなるの、いややわ、殺されたあと、映像がまた送られてくるなんて。自衛隊、撤退するんかな?」
「あほか、撤退なんかする必要まったくないわ(呆)。そんなことで撤退してみろ、テロに屈したことになるやないか。そんな国益を損なうような選択、政府がのむわけないやろ」
「・・・うん。それもそうやけど(少し冷静になる)」
「とにかく今から帰るで」

なんとなく落ち着いて、NHKと2ちゃんねるを平行して見る私。
ネットのなかも、とうぜん「祭」ですよ。いろんな意見が飛び交って、それを見ているうちにだんだんと映像を見たあとの衝撃が醒めてきました。うーん、世の中には、人の命がかかっているときでも、情に流されず、冷静なものの見方ができる人たち(まあ所詮、他人の命なんですが)がいるものです。いかに自分が「有事に弱い」オロオロ人間か、再確認してしまった次第。
夫の言葉と、多くの冷静な意見に影響されたのか(しかし私も染まりやすいなぁ)、福田官房長官の記者会見では思わず拍手。普段は大嫌いなのに、この人。なんか冷たくてお高くとまった感じで。でも、どう見ても、あの記者連中の質問って間抜けすぎたんだもん。(とくに、一番さいごのほう)
誰もかれもが、

A「人命を救うために自衛隊を撤退させる」
B「自衛隊を撤退させないで人質は見殺し」

この二択しか考えてないみたいで、Aじゃないんですか、じゃBですね?みたいな。
他の選択肢、C「自衛隊は撤退させず、人質の救出に全力を尽くす」というのが、まるで頭の中にはないみたいなんだもん。それって、テロリストの思うつぼじゃ?
ソラマメ福田はヤな男と思ってましたけど、今回の件では株が上がった感じ。まー、為政者というのは、これぐらいの冷徹さが必要っていうか、損得勘定がちゃんとできなきゃ駄目なんだろうね、っていうか。
でも、これって人質家族にとっては、さぞやつらい言葉だろうなと思っていたら・・・

なんですか、あの家族は?!

待ってましたとばかりに東京へ駆けつけてくるのはいいんですが、その後の言動・・・
もう、(゚Д゚)ハア?の連続ですよ。あれが、「危険なイラクへわざわざ(それぞれの功名心や野心などの理由で)出向いたあげく拉致され、今にも殺されそうになっている人質の救出を願う家族」の姿ですか?
金切り声で喚きながらバンバン机を叩き、奔走している政府筋の人たちを指差して悪し様に罵り、何度も何度も記者会見を開いては政府の対応を非難し、あげくのはてには、「最悪の事態になったら、政府と国民のせいです!許せません!」って・・・

あんたら何様やねん。ええっ?

好きこのんで行ってんのとちゃうんかい、よりにもよって退避勧告が出てる今のイラクに。ボランティアかなんかしらんけど、それがそこまでエライもんなんか?少なくとも自分や周りがエライと思いあがった時点で、ボランティア活動なんか、誉められたモンではなくなってくるんやわ。しかも他人のカネでやってるくせに。なにをどう勘違いしたら、そんなデカイ態度とれるんや?まずは、救出してやってください、と嘆願するのがスジやろ!それをこいつらは何ぎゃーすかぎゃーすかと大声で喚きちらしてんねん!
もう、記者会見という名の猿芝居を見るたびに、腹の底からむかつきましたよ。
北朝鮮に拉致された人たちの家族会の会見では、心の底から同情の涙をしぼられましたが、カタチだけ真似て一列にならんでても、あんたら、コトの中身ぜんぜんちゃうのんがわかってへんのか!!
なんか、激しく不愉快やないか、この家族らは?!

・・・と、心の中で思ってても、人質の家族のことですからねぇ。やっぱ命かかってますから。うかつに言えないじゃーないですか。
それに、ネットのなかではそういう意見が多くあるからって、それが多勢の意見とは限らないし、むしろ、ネットという仮想空間に毒されてるんじゃないか、私が冷たすぎるんじゃないかって、思うじゃないですか。
ネットなんか見ないうちの親などは、テレビの会見とか見ても、「可哀想に、家族は心配のあまり、あんなに取り乱して・・・はやく人質が解放されればいいのに」とか、感じてるのかなぁと想像するとゲンナリしたりして。
特に、ウチの家族は、私も含めて「自衛隊なんか派遣せんでもええやん」派でしたから。
夫は、まいにち研究いそがしくて、テレビとかも見る暇なくて、「人質の家族がヘン?そら、ヘンになってもしゃーないで、っていうか、僕それどころやないし」ってな感じ。でも、私としてはこのやり場のない憤りを誰かとわかちあいたいんですよ。言いたいことぶちまけんと溜めてたら口がムズムズするし。
で、先日、実家にいったとき両親に「あのさ、イラクでつかまってる人質の家族、ちょっとヘンじゃない?」って言ってみたんです。そうしたら、それを皮切りに、意外なほどの大盛り上がり!
母「ヘンやと思うわ、誰だって!!こんなときに自分の都合でイラクに行ってテロにあって、みんなに心配かけまくって。そやのに、あの家族らの態度はなによ。ほんっと、迷惑な人たちやわ」
父「おお、オマエ(私のこと)もヘンやと思ってたんか、オマエも多少は成長したんやなぁ。いやー、ワシはあいつら見るたびムカムカしてたで。いや、オマエにもまだ日本人魂が残ってたんやな、よかったよかった。しかし、こんなに家族一同の意見が一致したのは久々とちゃうか」
なんか、家族の結束が固まった感じ(~_~;)
で、最後には「こんなことは大声で外にはいえんわな。人の命かかってるときは。せいぜい『気の毒ですねー、早く解放されるといいですねー』ぐらいしか。たとえ友だちでも、他人は何を考えてるか、わからんもんやからな。ほんま、うちの家族がみんなマトモな感性もっててよかった。これから海外にいくこともあるけど、万が一、誰かがああいう事件に巻き込まれて人質になっても、その家族として、あんな醜態はさらすまいぞ」ということで落ち着いたんですけどね。

ちなみに、昨夜の人質解放後の家族達のコメントで、あの高遠兄の「イラクの子供たちにまず謝れ、おまえがいなくなって困るのはイラクの子供たちだろう、と言いたいです」という芝居がかった的はずれなセリフには、たまたま早く帰宅した夫もテレビ見ていて大爆笑してました。
「わはははは!おもろい奴やな!」
「何がおもろいねんな!不愉快でたまらんわ、この兄妹、そろいもそろって自分の演技に酔ってるだけとちがうの」
「おまえも余裕ないやっちゃな。ここまできたら、逆に笑えるやないか、ぷぷぷ」
「いいや、私はむかつくだけ」
「おまえって、わりと潔癖性なとこあるからなぁ」

みなさんは一連の出来事と、その報道をどうご覧になりました?
この文章に異論のある方もいると思いますが、私がほんとに感じたことなんですもん。人の口(サイト)に戸は立てられませんことよ。
これで、あの三人がもっとぼろぼろになって解放されていたらまた違う気持ちも起こったでしょうに、とてもじゃないけど、一週間、命の危険にさらされてきた人質の様子とは思えないのですもの。
ぜんぜんやつれてもないし、身なりもこぎれい、服だって洗濯したの?って感じで、食べ物をもぐもぐ頬張ったままソファにふんぞりかえってるは、意味不明にニヤニヤ笑ってるは、まだイラクに留まりたいとぶーたれてるは・・・どこをどー見たって、拉致にあって可哀想だったねって気がおきない私は冷血ですか?
それだけでなく、今回の救出にかかった総経費をあらいざらい公表してほしいし、本人や家族にも負担してもらいたいと思う私は鬼ですか?


怠惰な傍観者

4月のはじめに、私と夫、お姑さん、うちの両親、家族みんなそろって花見に行きました。
場所は桜ノ宮駅をでると、すぐ広がっている遊歩道。ちょっと風の強い日で、肌寒かったけれど、桜の木のしたにビニールシートを敷いて、それぞれが買いこんできたお弁当やらお酒やらを広げ、久しぶりにいろいろ喋りながら二、三時間ほど楽しく過ごしました。
さあ帰ろうかと立ち上がり、シートを畳んで、写真の撮りあいなどしながら、またぶらぶらと駅まで戻る途中のこと、風景を撮ろうと橋のうえから広い歩道をずっと見渡すと、家族連れやカップルで賑わう道の脇に植えられた低い灌木の陰に隠れるようにして、ブルーのテントが並んでいました。
私がお姑さんに「あれ、人が住んでいるんでしょうね」と言うと、お姑さんは「ほんとに増えたねぇ、ホームレス」と眉をひそめました。

私たちが、わいわいがやがやと談笑しているとき、ホームレスらしき人の姿は見ませんでした。
あのテントに引きこもっているのか、それとも、どこかへ生活の糧を探しに行っているのか。
低い灌木を隔てて、肩を寄せ合って笑うカップルや、ゆったりと犬の散歩をさせている夫婦連れ、屋台で買った飴など持ちながらはしゃいでいる子供たち、誰もが知らんぷりをしているけれど、目に入っていないけれど、そのテントの列はたぶん桜が咲こうと散ろうと、そんなことにはおかまいなしに、ずっとそこにあるのです。すごくひっそりと。
私はなんとなく申し訳ないような気持ちになってしまったことです。そこに住んでいる彼らの姿をまったく見なかったから、よけいに。
満開の、綺麗な桜。お腹一杯になり、ほろ酔い加減のいい気分でそぞろ歩く、幸せそうな顔をした人たち。もしも、その中に彼らの姿があったなら、きっとなんだか異様な感じだったと思います。でも、いませんでした。テントはあるのに、そこに住んでいる人の姿はないのです。

物質的に豊かになればなるほど、人にとって、社会にとって、必ずしも善だとは限りませんが、貧しさというものは、それがひどくなればなるほどに悪です。
清貧なんて言っていられる程度の貧しさは、まだほんとうの貧しさじゃない。
私がずっと以前、中国に留学していたとき、もうそのことは徹底して肌で感じました。

あれは初夏の暑い日でした。
タクシーにのって買い物に出かけようと、真昼の太陽がじりじりと照りつける大学の構内を歩いていたんです。泊まっているゲストハウスから、校門までのあいだには、ゴミ捨て場があります。大学で出るゴミを、そこにドサッと捨ててあるんですよ。道のすぐ脇なんですが、柵なんてなくて、もうそのまんま、むきだしで。食べ物の残りカスも、紙やビンもみんないっしょくたです。薄いビニール袋に包まれたゴミが地面のうえに山と積まれ、その付近から、なんともいえない強烈な悪臭が漂っていました。ハエもぶんぶん飛んでいます。
私は息を止め、その場を急いで通り過ぎようと、足を速めました。
そうしたら、がさっとゴミの山が動いたんです。
振り向けば、ゴミのなかに中年女性が立っていました。いったい何をしていたんでしょうか。ゴミをあさっていたのでしょうか。だらしなく汚れて緩んだ薄っぺらいシャツ一枚、無表情でこちらを見ている女に、私はなんとなくゾッとするものを感じました。そして、見れば彼女の腰には子供が寄り添っているのです。
まだ、五、六歳の幼い子供・・・同じようにどろんとした眼差しで・・・

私はその場から駆けだしました。
今見た映像を網膜から引き剥がそうと、必死で努力しながら。
その瞬間には、同情や憐れみの気持ちなんて、まったくわいてこなかったですね。これが現実のことかと、正直、胸が悪くなりました。あの、生気のない濁った目が、私にはただ怖ろしかったんです。
あんなもの、見たくなかった。ゴミの山をかきまわしていたのは野良犬やカラスではないんです、人間なんですよ。しかも、年端もいかぬ子供まで・・・
それまでにも、上海の裏通りを歩けば、信じられない光景を目にしてきましたが、このとき、はっきりと、ものすごくはっきりと思いました。
貧しさは、それ自身、悪である、と。
言うまでもなく、貧しい人間や貧しい国家が悪いのではありません。
貧しさ、貧困というもの自体が、悪なのです。貧困のために得る機会が与えられない清潔で健康な身体、知性や好奇心に輝く瞳、己を律する心や自尊心を育てる場所、資質や才能を開花させられる環境・・・同じ人間でありながら与えられない、そのチャンスすらない・・・貧困のために。

誰が悪いとか、歴史がどうだとか政策がどうだとか、そんなことは入り組みすぎて、私にはわからない。
強いて言えば、大勢の人間が己の利益を求めながら、ひしめきあって生き抜いている、その結果がこの現実ならば、それは、そこに生まれ落ちてくるひとりひとりの個人にしてみれば、もう運命と言うほかないでしょう。
貧困は、この社会全体が克服しなければならない悪のひとつです。
ボランティアや人道支援と称して、目の前で倒れそうな他人をほんのわずかでも救えるのならそれもよし、けれども逆に、弱い者の、まさにその弱さにつけこんで、双方さらに堕ちていく、それもまた人の生きざま。
欺瞞に目をつぶる信念も、華々しく哀しい嘘も、すべて呑み込むのが、この世の流れ。
私自身はといえば、今はただ、怠惰な傍観者にすぎません。
「世界のため」だの「人類の平和」だの「地球市民」だの、そんな言葉は、私には似つかわしくないような気がします。自分のよって立つ「この場所」、自分自身の心の「安寧」すら、満足に維持することができないのに、だいそれた「地球市民」だなんて、まるでお笑いじゃありませんか。
私にできることは、この環境に生まれ落ちて生きていくがために果たさねばならぬ「自己責任」を、ささやかにもがきながらまっとうしていくだけです。だけど、こんなに情けなくても、「それでも自分を嫌いになれない」。


夫婦喧嘩

夫婦喧嘩は犬も食わない、と言うけれど、喧嘩しないご夫婦もいらっしゃるのですね。
読売の大手小町という掲示板を見ていたら、「夫婦喧嘩しないの??」というトピがあって、なんと、半数ぐらいのレスが、「しない派」だったので、びっくりしました。
ええっ?なんで、喧嘩せずにいられるの?
ウチでは、小競り合いなら二、三日に一度、大爆発が一、二ヶ月に一度ぐらいありますけどね、平均したら。
何年も一緒に暮らしていて、まったく喧嘩したことありません、だなんて、とてもじゃないけど信じられない。ぜんたい、その人たちは、どうやって衝突回避しているのか。
いわく、「不満があれば冷静に話し合いで解決」するのだそうで。
なんだか、そういうの、小学生の学級会みたいだなぁと、ふと思ってしまいましたが。
いや、ウチも一応は殴り合いなんかしませんから、話し合いで解決してますよ、ええ、とてもじゃないけれど人様にはお聞かせできない怒号とか嫌味とか捨てぜりふの飛び交う、「大変に熱のこもった」話し合いですけどね。皿やコップが宙を飛んだりもしないですよ(割れたらもったいないじゃない?後片づけが大変だし)。これを喧嘩と呼んでいるんだけれど、「話し合い」なんでしょうか??
わかりませんねぇ。やっぱ、感情的になってるから、理性による話し合いじゃなくて、お互いの意見のごり押し合い、という感じなんですが。

喧嘩の理由って、しょーもないことなんですよ。
だって、べつに浮気だの賭事だの借金だのというヘヴィな問題があるわけじゃなし。子供いないので、教育方針について対立する、ということもないし。
あ、子供がいたら、たぶん子供の前では大声での罵り合いはしないと思いますね。言いたいことはグッとこらえて、子供の見ていないところで思いっきり喧嘩すると思います。だって、可哀想じゃない、何もわからない子供が。ウチの親も、ちょっとした小競り合いは見たことあると思うけれど、大声でやりあったりしたのは見たことないですもん。やっぱり、子供の心に与える影響はよろしくないですよね。オコタンは猫だけど、それでも、私たちが怒鳴り合ってると、ニャーニャー鳴いて、うるさくせっついてきますよ。そのへんを走り回ったり。きっと不安になるんだと思います。
話が脱線しましたが、喧嘩の理由ですね、それはほんとにしょーもないことが多いです。
何かのニュースをみて、感想が食い違ったとか。
夫の嫌いなメニューが食卓にのっていたとか。
信じられないようなところから、夫の臭い靴下を発見してしまったとか。
どこかに出かけて、二人とも疲れてしまい、怒りっぽくなってただけとか。
まー、そういうのは小競り合い程度ですみます。
けっこう何時間もしつこく「話し合い」しなきゃいけなくなるのは、こういう場合。もう、この投稿者の悩み、すごくよくわかる。
私は結婚してしまってから、「??」と思うようになったので嫌でも逃げられないし、またいい加減私も粘着で、言いたいことは言わないと収まらない性分なので、こういう場合、それはひどい喧嘩になりました。
まず私が感情的に大噴火して食ってかかり、夫は理論武装して応戦するものの、私がさらにお互いの感情を焚き付けるので、ついに双方がヒートアップして何がなんだかわからなくなり、何時間か見境もなく荒れ狂って心身とも疲れ果て、もう少し静かな話し合いに移行する、というパターンですね。

『自分の話で完全肯定されたことがほとんどない』
ほんっと、こういうの、マジで嫌ですよ。
「あの花きれいじゃない?」
「この事件は被害者の彼氏が犯人っぽくない?」
なんでも同じですよ、「ねえ、〜〜だと思わない?」という問いかけならば、話題の重さ、重要さに関係なく、まず否定から。そんで、それに対して何かまた言うと、また否定。否定、否定、否定のエンドレス。
一度や二度なら、ふうん?ですみますけど、生活してるあいだじゅう、ずーーーっと自分の言うこと言うこと、85%以上の確率で否定され続けてみてくださいよ。気ィ狂いそうになります。
それで、納得できないもんだから、しつこく議論して、よくよく話を聞いてみると、結局は同じ事をべつの角度から考えてたとか、8割は賛成しているけど残りの2割が違っているので反対を表明しているとか。
(゚Д゚)ハア?ですよ、もう。
結婚して、一年目ぐらいは、私も夫に頼みこみました。時には恫喝もし、時には泣いたりもしました。
「何でもすぐに否定するのはやめて」
「つまらんことやったら、適当に『そうかもな〜』と言っていればいいやないの、どうせ真剣な答えなんて求めてないんやから」(この花きれいね、に「真剣な答え」なんかみつかりますか?)
「お互いに同じ感情を共有することとか、同意しあうことの楽しさとか大切さをわかって」
そうしたら、返ってきた答えは、
「何でもあんたに賛成はできん。僕には僕の気持ちなり考えがある。それを素直に言いたいだけ」
「そんなこと(同じ感情を共有)を求められても、僕には上手くできん。しかたないから諦めて」
「あんたは、世間が狭くて、いつも家族とか友達とかイエスマンにしか囲まれていないから、社会性がなくて、他人にはいろんな意見があるってことが受け容れられへんのと違うか。僕らの世界(研究者)では、それぞれが違う意見をもってて、ぶつかりあうこともしょっちゅうやけど、それがむしろ大人として当たり前なんや」

・・・そういうことじゃないと思う。夫婦でしょ。男と女でしょ。そういうことじゃないと思う。
でも、世間が狭いって言われればそうだし、社会人になったら、これが当たり前なのかな・・・私がイエスマンしか求めてない狭量でひとりよがりな女なのかな・・・
いろいろ考えさせられましたよ。
「もう、自分が同意されることだけを期待してるんなら、僕には話しかけんといて」
とまで言われたときは、心底悲しかったですね。
じゃあ、一緒に住んでるのに、何気なく「ねえ、〜〜だと思わない?」「うん、そうやなぁ」みたいな会話は、永久にできないと思いましたから。だって、たいてい何でも否定するんだもん。
あまりにも感情的な共感を求めるというところですれ違ってしまうので、正直、「この結婚は失敗だったかも」と悲観したこともありました。結婚一年目は、ときどき発作的にそう思ってましたよ。ほんと、信じられませんでした。こんな人間、世の中にいたんやなぁって。コイツ、人間じゃなくて機械と違うか、と。
今ではもう、「こういう人だから」と割り切ってますけど。

なんだかんだ言って、その共感否定癖と、人をマイナス評価しがちで、「長所をほめて伸ばすより短所を指摘して萎縮させる癖」さえ除けば、実際の行動はやさしい夫ですから。
私がときに大暴発するので、そうならないように、あらかじめ気を配ってくれるようにもなったし。
多少は成長っていうか、私の機嫌を損ねないように立ち回る術を覚えたんだと思いますね。共感とか、気持ちをわかってくれたとかじゃなくて、あくまで、ややこしい喧嘩を回避するための方策として。
一抹の寂しさはあるが、実際の生活をするうえではさほど不満はない、という感じです。
ただ、私も人と共感したり、意見が合致してうなずきあったりする喜びを人生のなかで求めたい。それがないと、ココロは砂漠ですよ。少なくとも私は。
私も、いままでの経験から「この話は夫にはできないな」「話すのやめよう」という諦念が生まれました。これは友達に話そう、これは親に話そう、そう思って、言いたいことを胸に貯めておけるようになりました。以前ほど、夫に共感や同意を求めて話しかけ、ゴチャゴチャと問題を起こすことも減ったと思います。
「自分が同意されることだけを期待してるんなら、僕には話しかけんといて」を実践しています。
夫は嫌がってるけど、ネットで掲示板みたり書き込んだりするのぐらい、大目に見て欲しい。
どうせ顔も知らない人との共感だけど、何もないよりはいいんだから。いますぐ話したい、誰かと共感をわかちあいたい、こんな話は友達にも親にも言いにくい、そんなことだってあるんだしね。
私が品性下劣な掲示板ばかり見て回っていると軽蔑している夫よ。
そもそも、あんたと「なんでも話をして、頭から否定されずに共感をわかちあえる」ことが60%ぐらいはあるのなら、私だってパソコンに向かっている時間は今の何分の一かに減ると思うよ。

大手小町で相談している人には言いたいですね。「結婚は、もう少し延期してみたら?」と。
♪よ〜く考えよう〜、肯定は大事だよ
私みたいに自分を否定されても否定されてもゾンビのように立ち上がれるのならいいけれど、人に言い返せない気の弱い人とか、もともと自己否定的な感情に支配されている人なら、鬱になるだけ。
さすがの私も、ここまでくるのに何年かかかりましたから・・・


夫のCG化

連休も終わりました。
うちはどこも行かなかったですよ。人混み嫌いだし。やらなきゃいけないこともあったし。

数日まえから、お絵かきソフト&ツールで遊んでます。
使ってるのはWacomのタブレット、openCanvasの試用版、アドビのフォトデラックスと、Pixiaです。
あれこれ機能が少しずつ違うので、覚えるのが大変です。でも、描き始めると面白いですよ。
まだまだ上手く描けませんが、まー、飽きるまでは使おうと。
レイヤーの使い方とか、ぼちぼちわかってきたので、いろいろ楽しめます。
壁紙づくりに飽きたらず、今日は写真の本格加工に挑戦。これは、初めのデッサンから自分で描くよりすっごいラク!
ちなみに、夫の写真をCG化してみました。ぷぷぷ。夫を知っている人が見たら、「うそや、こんなん!!別人や!!」って感じの仕上がり。
で、調子に乗って、女装なんかさせてみたりして。お化粧してカツラつけました。
どうです?なかなか可愛いでしょ?
(注:お食事中の方、口の中に飲み物や食べ物の入っている方は、ちゃんと飲み込んでからクリックしてください。噴き出されても、当方は責任を負いかねますので)
オッサン週刊誌の表紙なんかの女の子は、前から写真じゃなくて「絵」だと思ってましたが、やっぱCGを駆使した「絵」ですよね。わりと簡単にできますよ。化粧品の宣伝ポスターとかグラビアなんかも、毛穴がひとつもなくて、睫毛が一本一本、独立したみたいに光ってるなんて、ありえないでしょ。あれもCGなんですよね。

こういうPCを使った絵は、それなりに難しい面もあるし、いろんな人の作品を見ていると、それはそれでアートかな、と思いますが、やっぱり手で描くほうがいいと私は感じてます。
まず、画面が小さくて、全体のバランスがとりにくい。大きな絵が描けないじゃないですか。いちいち部分的に拡大して描くんですけど、全体を見ながら作業できないから、どうも、パーツパーツでやってるみたいな感じ。このレイヤーは髪の毛、このレイヤーは肌、とか。塗り方もパーツごとだし。
やり直しが何度でもできるから、便利は便利だけど、味がないっていうか、妙に平面的な絵になりますね。どんなに工夫して絵画としての奥行きを表現しようとしても、筆のタッチとか、絵の具のリアリティとか、やっぱり本物の紙やキャンバスに描いたものを見ているのとは、全然違いますから。そこそこクォリティの高いファミレスと、昔からある老舗の小料理屋というぐらい、感覚の違いがあります。
CGは、まだ庶民的な既製服。PCのなかにしかないけれど、バックライトが照らすモニターに映し出されたら、それはどれも同じ。誰にでも同じ絵を何度でも見せられる。
手描きの絵はやはりオートクチュール。世界にただひとつの作品。それは、持っている人のものであり、見る環境によって、様々に変化して見える。

なんか、夫は私が写真を加工しているのを後ろでみて、「もっと首のしわを消せ。鼻を高くしろ」とか口を挟んでいました。で、だいたい出来上がってくると、すごく気に入ったようで、「これ、僕のHPにのせることにする」と。今はリアルな写真をのせてるんですよね。それと差し替えたいんですって。いや、べつにいいよ。べつにいいけど、でも・・・

「それって、詐欺やろ!?」

と忠告してあげてるのに、
「これから公にはこれを使うことにしよう。いやぁ、しかし困るなぁ、これ見て『きゃ、この先生、素敵!』とか思われて、ファンがついたりしたらどうしよう〜♪(にやにや)」
ひとりで妄想モードに突入。
あのさぁ・・・それ、実際のトコ、あんたじゃないねんってば・・・


向き合わなきゃ、現実と

引き続き、自分の写真をCG化してみました。
うーん。これを見て、私だとわかる人は、おそらく誰もいないでしょうね。
確かに、私自身の写真を土台にはしていますが、単にCG化してるっていうより、もう本格的に整形したって感じですから。別人に成り果ててますよ(夫には「こんなん、バランスが悪くてキモイ」と言われましたが、私としては力作だと思ってます)。
けど、写真選びから始まって、いろいろと塗ったりぼかしたり描いたりしてると、なんともいえない惨めな気持ちになってきたことです。どー考えても、私って、ブサイクじゃない?という当然の疑問というか、帰結というか、そういう思いがこみあげてくるのです。
だって、ほんとの美人だったら、ちょっと肌をなめらかに修正したり、瞳に星を飛ばしたり、唇にツヤを出したり、髪を光らせたりするだけでいいと思うんですよ。けど、元が悪いと、さらにあれこれやらなきゃいけないことが多いのは、当たり前でしょ。あーでもない、こーでもない、といじっているうちに、なんだか、情けなくなってきたっていうか。私って、やっぱブサイクだったのね、と。しみじみしてしまいました。

鏡で顔を見ているときは、自分で表情つくってますし、横顔とかも正確に見られないので、自分の真の姿がはっきりわかるのって、何気なく撮られた写真やビデオだと思うんです。
昔は写真撮られるの嫌いだったし(どんな表情をしたらいいのかわからなかった)、今みたいに性能が良くてコンパクトなデジカメもなかったし、カメラつきケイタイで気軽に、なんてこともなかったので、ここ近年の話ですよ、自分の顔をPCのモニターで大写しにして、まじまじと見るようになったの。
ほら、昔のアナログ写真って、プリントしたときサイズ小さいでしょ。アップなんてめったに撮らないし、そこまで顔のまずさが正直に拡大されることはなかったと思うんです。だから、客観的に自分がわかってるといっても、まだ甘かったですよね、認識が。けど、デジカメって、すごいサイズで自分の顔を見ることになるじゃないですか。A4のノートパソコンの画面の半分が自分の顔・・・
なんていうか、情け容赦ないでしょ。ホクロ一個、睫毛一本まで、くっきり正確に写ってますよね。おいおい、そこまでピシィィッと真実をつきつけることはないんじゃない?と感じている人は、私以外にも大勢いるものと信じます。

とにかく、私思うんですが、近年、男も女もビジュアル重視で、
「なんだかんだ言って、けっきょくは顔でしょ。性格なんて、実際つきあわないとわかんないじゃん。だけど、そのまえにある程度、顔で判断してるしされてるよね?人間、中身だなんて、しょせんキレイゴトだよ」
というような風潮があるとしたら、それはプリクラから始まってPCやカメラつきケイタイなどの「ビジュアルを伝える手段の発達」によるものが大きいのではないかと。
例えば、メル友ができたら、写真を送り合う、という流れになりますよね。そのとき、デジカメとかで自分を撮って、PCに落としますよね。それで、大写しの自分を見て、ほんとに美人でもイケメンでもない多くの人は、「うわ。このままじゃ、マズー」と、慌てて、ぼかしをかけたり、修正をほどこしたり、サイズを小さくしたり、彩度や明度を上げたり下げたりとやっているうちに、人間の見た目というものに対するシビアな感覚が生まれます。
自分に対しても、他人に対しても。

手をかけて加工した写真は、リアルな自分じゃないけれど、でも、ちょっと美化した自分というものになって、それを見慣れると、リアルな自分がとんでもないブサイクに見えてくるんですよね。なんか、非常に生々しいというか。生写真なんて、ハダカを見られるくらい、恥ずかしい。
素人が簡単に写真を加工できるようになって、いままで、「しかたなかったこと」が、「なんとかなること」になってしまった。だって、昔なら、写真を送ると言うと、自分では好きなように加工できませんでしたから、せいぜいたくさん撮って一番写りのいいものを選ぶぐらいのことしかできなかった。
でも、今なら、ちょっとしたソフトがあれば、簡単に自分のビジュアルをごまかせます。そんな凝ったことをしない(できない)人でも、他人にデジタル写真を送るとき、ぼかしをかけたりサイズを小さくするぐらいのことは、やるはず。
最初は、これって便利♪と思っていても、「加工しなければ見られないリアルの自分」が、なんとなく嫌になってきませんかね、人間心理として。
修正をするというのは、その部分が自分で「美しくない・醜い」と思ってるからでしょ。あるいは、「もっとこうだったらいいのに」という不満・願望があるということでしょ。
だから、修正作業をやっているときというのは、嫌でも「こんなふうに見られたい自分」を意識せざるをえない。そして、それが終わったとき、元の写真と見比べて、複雑な気分になる。なりたい自分と、リアルな自分との落差をまざまざと見せつけられて。

しかし、不思議なことに、写真では客観的にリアルな容姿のレベルがわかりますが、実際にその人物を目の前にして感じる美醜の感覚というのは、またべつなんですね。
十枚の写真を撮って、そのうちの五枚以上が「修正なしで、そのまま人に見せてもOK」だと他人からも認められるのなら、じゅうぶんイケてる容姿だと思います。普通の人なら、二枚ぐらいかなぁ。残りの写真は「このまま人に見せるのはちょっと・・・」な感じでしょう。こういうのが、容姿の客観的な評価。
でも、それで容姿が良いと判断できても、実際に会って見たときの感じというのが、また違っているから不思議です。ほら、通販でカタログショッピングしたとき、写真では素敵に見えていた服が、いざ届いてみると、妙に安っぽかったとか、そういうことってあるでしょ。それに似た感じです。
うーん、オーラですかねぇ。
容姿はいいのに、醸し出している雰囲気が暗いとか、ふと見せた表情が陰険そうだったとか、大笑いしたとき(普通は大笑いしてる写真なんか撮らないですよね)けっこうバカっぽく見えたとか、「あれ?」と思うことありませんか?
客観的な容姿レベルに、そういう直感的な感覚も含めて、人は、「あの人はキレイ」だとか「あの人はブサイク」だと判断しているものなんでしょうね。これが、真実の美醜です。いい写真家というのは、そういう「外から見えない何か」が、表情にさっと現れた瞬間を切り取って写せる人なんでしょう(まあ、限界あると思いますが)。でも素人には、そんなの狙ってもちょっと無理です。だから、その人を取り巻いているオーラの性質、その善し悪しというのは、その人自身には、たぶんわからないんですよね。周りの人の反応を見たり、意見を聞いてみるしかないわけです。けれども、そこには人ひとりひとりのもつ価値観が反映されてしまうので、これもはっきりしないことです。

私自身が容姿レベルで普通にブサイクだということは、嫌と言うほどわかりました。その点では、現実を直視します。問題は、オーラレベルを含めてどうなのか?ということですよ。
とりあえず、リアルに話をしたりつきあったりしている人たちに、嫌われたり避けられていなければ、私としては「可」じゃないかと思います。っていうか、それこそ、しかたがないことですよね。わかりようがないんだから。訊いたって、誰もほんとのこと言わないでしょ。正直に言われても、それはそれで恐いしね(~_~;)




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