思いをかたちに

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
お正月は、いかがお過ごしでしたか。
私は相変わらず、大晦日の夕食は実家に食べに行き、帰ってきてテレビを見ながら新年を迎えました。
チャンネルぐるぐる回しながら、「おいおい。スマップの生歌はやっぱり下手やなぁ」とか、「あーあ。見てらんない。あれじゃあ、曙が気の毒」とか、「んん?この浜崎あゆみのライブは口パク?あんなに踊りながら、全く息切れしないのは不自然」とか・・・そんな感じですね。
元日の昼は実家におせちとお雑煮を食べに行き、いったん家に戻って少し昼寝したあと、夕方から夜にかけては夫実家へ向かい、まずは近くの天神さんで初詣をすませてから、鍋やら煮しめやらいろいろいただきました。両実家のハシゴです。
二日、夫は同窓会に出席(恐らく酔っぱらって醜態をさらしていたはず)。私はとくに用事もなく家でゴロゴロ。夜のものまね番組が可笑しかったので久々に笑い転げてました。一人で。いや、コロッケって才能あるわ。
三日は、二人とも用事はなくて、ひたすらゴロゴロ。めずらしいことに三歳の甥っ子が、義妹とうちの母に連れられて遊びに来て、オコたんと対決してました。両方とも、お互いにすごく気になってるんだけど、なんとなく近づくのが怖い、みたいな。その様子が面白かったです。

まあ、そんなこんなで表面上、何事もなく過ごしていたんですが、私の水面下では夫に対して、まさに東西冷戦時のキューバ危機にも匹敵する怒りと失望のマグマがふつふつと煮えたぎっていたわけです。
人間、ほんとうに腹が立ったら、何も言わなくなりますね。もう期待しない。見限る。だから、相手を切ったあと、自分がどう生き延びるか、それしか考えない。
ま、この件についてはまた今度、書きますが、夫のほうは「なんか険悪やなぁ」とは思ってても、そこまでとは知らなかったんじゃないでしょうか。夫婦の戦争っていうのは、そんなもんですね。男は他に仕事もあるし、あくまで人の気持ちには鈍感。っていうか、ほっといたら醒めるとタカをくくってる。女は失望し、口をつぐみ、結果としては妄想が先走って思い詰める・・・というような。
幸いにして、我が家の全面核戦争は話し合いによって回避されましたが、ほんと、年末から正月にかけては険悪でしたよ。

さて、話は変わって、今年の抱負です。「映像の世紀」ふうに。

その一、「独立の旗の下に」〜経済的自立に向けて、まりねこは苦難の道を歩み始めた〜
その二、「同類を呼ぶ声果てしなく」〜絶え間ない失望、さまようまりねこの期待があった〜

一は、わかりますよね。
いままで延ばし延ばしにしてきたけれど、「自分で稼ぐ」ということなしには、真実、「自由な人生」を生きるのは困難である、との思いが年齢とともに日増しに強くなり焦っています。
♪よーく考えよう〜、お金は大事だよ〜
言われるまでもなく、たいていの物事は、お金で解決できることが多いんです。もちろん、愛や友情までは買えませんけどね。しかし、人生における選択肢の豊かさや、人間のとしての尊厳は、ある程度お金で買えるのがこの世界。「あれも欲しい、これもしたい、そのために金持ちになりたい!」とは心底思ってませんが、「自由に生きたい!」とは凄く思いますね。自活能力がないために、行きたい道にも行けない、そんなのは嫌ですよ、どうしても。私の人生が可哀想。
まだ体調も万全ではないのですが、いつまでもどうのこうの言ってたら、この先、スタートがいつになるかわからないし、限られた時間を無駄にしないためにも、今から出来ることをやろうと決めました。どこかで雇われる勤め人は向いてないし今更できもしないので、ごく小さな事業を起こすなり、基本的に家の中で、自分ひとりでもやれそうなことを目指します。
壮絶な四年計画です。
まず、この一年で方向性を模索する。
私の場合、稼げれば何だっていい、では絶対に続かないですから。自分の関心が持続すること、人との関わりがあること、できれば少しでも人の役に立っていると実感できることがいい。
二年目で現実に足場を組み、三年目、四年目で、やってきたことの結果が、金銭という目に見えるカタチで、出てくるようにしたいです。
不言実行、がカッコイイですが、私は怠け者なので、こうやって書いておかないと。
常に目標を思い出して、そっちに向かってアンテナをはっておかないと駄目ですね。
失敗したら、そのときまた軌道修正を考えます。

二ですが、最近ますます思うようになったこと。
「ひとりの人間に、すべてを期待しすぎちゃいけない」
たとえば、うちの夫にファッションだの音楽だの文学だの人の生き方だのについて、何がしかこちらが満足できる感想や共感を求めても無理。持って生まれた(あるいは後天的に身に付いた)感性が違いすぎ。それはこの四年間で、よーーくわかりました。
べつに、彼のような人がいてもいいし、私との違いをお互いに(理解できなくても)尊重し合えれば、それでOKだと思いますよ、家族としてはね。
でもね、たまには私だって、
「ねぇ、○○って××だと思わない?」
「うん、思う〜〜!!」
「やっぱり?なんで?」
「だって、〜〜が〜〜でしょー」
「あーーー!!おなじこと考えてた!!でもね、私はそのあとこう考えたよ、それは・・」
みたいな会話がしたい。
せっかく通った文学学校も、なんかちょっと違和感があったし、ほんとうにそういう自分の趣味や人生哲学の分野で共感しあえる仲間、友達って言える存在が欲しいなー、と。
まあ、そういう友達がいないことはないけれど、彼・彼女は自分たちの生活のほうも忙しいから、暇人の私にはつきあってられないとこもあるし。学生時代のように、一緒に映画を見に行ったり、同じ本を回し読みして感想を話し合ったり、ということはなかなかできません。
ということで、趣味友とでも言うべき誰かがいればいいなぁと。
やっぱ、それがないと寂しいし、自分のなかの一番みずみずしい部分が干からびるような気がします。
これは、できれば一年計画で。真剣に探せばどこかで縁が見つかると思います。

以上が、年末からお正月にかけて考えたこと。
この思いをいつかかたちにするべく、少しずつでも行動を起こして行きたいですね。


危機一発

事の発端は、年末にNHKアンコール再放送の「映像の世紀」を見ていたことなんです。
あれ、やたら凄い映像が出てきますよね、戦争や暗殺や暴動など、まさにその瞬間。
視聴者としては、そのとき歴史をさかのぼって、あくまで視聴覚だけではあるけれども、その悲惨さや残酷さ、崇高な死や惨めな死などに直面させられるわけです。
私は、どっちかというと、仮想世界に入り込みやすいタチなんですよ。つくりものとわかっていることでも、のめりこんでしまうとすごくインパクトがある。映画も、深刻な戦争ものとか、悲惨なストーリー、残酷すぎる殺人やレイプシーンなどがあるものは見ません。しばらくトラウマになりそうなので。
見なくてすむものなら、無理して見なくてもいいじゃないか、と思ってるところもあります。
だから、ああいうつくりの番組はまず見ないんですが、それがニセモノでなく歴史の現実ならば、大人として少しでも直視しておくことが必要であろうと、まあ義務感もあって見ていたわけです。
案の定、毎晩、あれを見終わったあとはヘトヘトになりました。

ところが。

隣で一緒に見ているうちの夫。私が思わずウワッと目をそむけたり、感極まって泣いたりというリアクションが激しいからか、それを面白がってるわけですよ。
とくに、テーマ音楽が流れると、反射的に私が泣くんじゃないかと、ニヤニヤしながらこっちを見てる。
なんですか、この態度。
歴史に翻弄され、蹂躙されてきた死者たちに対する冒涜じゃないんですか?不愉快な。

そう、あれは、キング牧師の暗殺のシーンでした。
彼は黒人の解放運動に身を捧げた人でした。まあ、カリスマ的存在であったんです。そして、彼のことを快く思わない白人男性によって銃弾を浴びせられ、殺害されました。
テレビでは、キング牧師が暗殺される前日に行った演説が映されました。
まるで、自分の死を予感しているかのような、その締めくくりの言葉に、私は大変に心を打たれました。引用してみますと・・・

前途には困難な日々が待っています。でも、もうどうでも良いのです。
私は山の頂上に登ってきたのだから。
私も長生きがしたい。しかし、長生きするのも悪くはないが今の私にはどうでもいい。
神の意志を実現したいだけです。
神は私が山に登るのを許され、私は頂上から約束の地を見たのです。
私はみなさんといっしょには行けないかも知れません。
だが、一つの民として、私たちはきっと約束の地に到達するでしょう。
今、私は幸せです。心配も恐れもなにもない。神の再臨の栄光をこの目で見たのですから。


私はクリスチャンでもないし、いわゆる神の意志や栄光など信じていませんが、このスピーチをしているキング牧師の表情や声には、普通の人の意識を突き抜けたような興奮と迫力に満ちていました。
きっと彼は見たのです。確かに、後世の人々が「約束の地」に歓喜してたどり着くのを見たに違いないのです。そう感じさせられる映像でした。
もうね、涙があふれましたよ、「なんで?」と言われても、説明しようのない気持ちです。畏怖でもないし、たんなる感動でもない、悲しみでもなければ同情でもありえない。それは心で感じるものでもなく、魂の奥底に響いてくる何か、です。

そして、そのとき。
歴史は動いた。
じゃなくてー。
そのとき、うちの夫は何をしていたかというと、私の泣く姿を見て笑っていたわけです。
思いっきり呆れました。
「あんたさ、こういうの見て、なんとも思わんわけ?」
「ん・・だって、もう知ってることやもん。おまえと違って」
なんかもー・・・あんた、宇宙人?て感じ。
っていうか、あのセブン・オブ・ナインですら、あのトゥーボックですら、あの研究マシーンのM君ですら、こういう反応はしないと思う・・・
知ってたら、ちょっとぐらい知識があったら、こういう映像みて、へらへら笑ってられるわけですか。
私だったら、何回見ても心に感じ入るものがあるけどね。
現に、今も上の引用部分をWEBで探して貼りつけながら、また涙出てきたし。
私のなかに、夫の人間性に対する不信が生まれました。真剣に。

べつにいいよ、靴下そのへんに脱ぎ散らかしてても。
べつにいいよ、文学論議を一緒に楽しめんでも。
べつにいいよ、大食いでデブでブサイクでも。
べつにいいよ、研究がなかなか前に進まんでも。
だけどさ。

人間として、これってどうよ?

こういう感性って、人間性の根幹の部分から生まれてくるものじゃない?
べつに、あれを見て泣けとは言いませんよ、でも、
「もう知ってるからなぁ」
っていう感性は、人間としてどうなのか、という話ですよ。
いくら知識として「あー、このスピーチのあと殺されるんだ」と知っていても、いざそれを映像として追体験してみると、抑えきれない感情って沸き上がるもんじゃないの?血の通った人間ならね。
そのうえ、「おまえと違って」という言い方はなに?
私が魂の底から絞り出す涙より、あんたの持ってる知識のほうが、クールで高尚やっちゅう意味やねんな?ええっ?

まあ、普通の奥さんだったら、結婚生活を続けるうちに学習して、うちの夫のような人には、もはや心理的な共感力なんてものは何も求めなくなってると思います。でも、私は学習能力が低いんですね。ついつい、まだ腹を立ててしまう。
ええ、もうブチキレましたよ。
並みのブチキレじゃーありません。きゃんきゃん喚き散らすよりも、もっと根深く、もっと根底的なブチキレです。

あっそう。

ていう感じですかね。
もー、何話しても無駄、みたいな。そこにいるだけで、ウザー、みたいな。
ハァ?なんで、この人、隣にいるの?みたいな。
私の人生からシャットアウトすべきかどうか検討しなくちゃね、みたいな。
このときの私の、絶望的な暗さと底意地の悪い冷たさ。わかります?
米ソ冷戦なんか、それにくらべりゃ可愛く思えてくるほどでしたよ。一生懸命、ロケット飛ばしたりしちゃってさ。はは。乾・い・た・笑・い、ですよ。

さて、崖っぷちに追いつめられた結婚生活。
どうやってハルマゲドン、いや破綻から免れて今に至っているか。
それはキューバ危機でも話し合いだったし、我が家でも話し合いでした。
そろそろ長くなってしまったので、その内容は「次回に続く」、です。


和解

前回からの続きです。

私はすぐブチキレますが、持続性がないんですよね。
怒りとか恨みの感情を、そんなに長く持ち続けていられない。なんででしょうね、自分でもそれがストレスになるし、身体がもたないからでしょうか。なんとか理屈をつけて、ストレスを解消しようとしてしまいます。
そういうわけで、いったんは夫にブチキレて「この虚しい人生、これから先どうやって生きていけばいいの?」と、ドドーンと落ち込んでいた私も、しばらくあれこれと考えました。で、はたと思いついたんです。
「そうか。あの人も、きっと心のなかでは感動したり涙がでそうになったりしているに違いないんだけれど、隣で見ている私のほうが、あの人より早く大袈裟なリアクションをしてしまうので、それを見て醒めてしまうのかもしれない」
ほら、二人でお酒を飲んでたとしましょう、どっちかがお酒に弱くて先に酔いつぶれてしまったら、まだシラフで残されたほうが介抱するしかなくなるじゃないですか。映画館で、感動シーンを見ているとき、隣の客がわんわん泣きだしたら、なんとなく気分が醒めてしまうものじゃないですか。そんな感じ。

なるほど、元凶は私かもしれない。私が、夫の自由な感情表出の機会を奪っているのかも・・・
そう思った私は、夫に訊ねてみることにしたんです。
「なあ。あんたも、ほんとはウルウルきてんねんやろ?でも私が横で泣いてるし、それで醒めてしまうんと違う?」
夫は「へ?」って感じでしたね。「いや、べつにそんなことないで」と。
・・・・。

じゃー、やっぱりあんたは、ああいうものを見ても何にも感じられん冷血人間なんやなッ!!

再び、ブチキレる私。そうなったら、もー、言葉がとまりません。
「信じられへんわ、あんたっていったいどういう人間性してんのよ、なんかさ、ああいう番組を見て、『あー人間って愚かやなぁ』とか、『哀しいいきものやなぁ』とか、そーゆーことは一切、感じへんの?おまけに人が泣いてたら小馬鹿にして。すんごい不愉快やし、傷つくわ。で、ちょっと知識があれば、それでわかった気になっていいわけ?そういう問題じゃないと思うけど?実際にああいう映像を見て、ほんとに何も思わんかったら、あんた、やっぱおかしいで、人間として」
あまり私が力を入れて言うものだから、夫もいつになくマジになって言いました。
「そりゃー、思わんこともない。っていうか、誰だって思うやろ、『戦争はほんまに悲惨やな』『人間はなんという馬鹿なことを繰り返すどうしようもないいきものなんや』とか。けどな、過去の映像はもう終わったことやろ。歴史は今この瞬間も続いてるんや。おまえは、特攻隊の映像には涙があふれて、人間の愚かさへの怒りがこみあげてくるみたいやけど、今の政治や世の中の出来事にはあんまり関心も持ってないように見えるのはなんでやねん。いま、ニュースや討論番組でやってる年金問題やら、道路公団の問題やら、僕はものすごく腹が立ったり、憤りを感じたりすることあるで。そやけど、おまえに話しかけたって『へー、そう』って感じで関心ないやろ?僕にとっては、そのほうが理解できんし、共感して欲しいのにしてくれんから失望するな」
「・・・・」

ふーん。

なんか、この時点で、ちょっと「目からウロコ」状態。
うん。確かに、夫がエキサイトして熱く語るとき、私が無関心なことも多々あるよな。
なるほどな。関心の持ち方が違うわけか。
確かに、悲惨な過去の歴史に合掌しつつ涙する気持ちも大事だけど、むしろ今、現在進行形の政治のなりゆきに、関心を持って怒ったり考えたりすることのほうが、すごく大事なことかも。
(私が、政治的なことにはあまり関心を持ちたくないし、そんな活動にはちょっとだって首を突っ込みたくないと考えるのには、私自身の幼い頃の環境が影響していると思いますが、話し出すと長くなるので、以下略です)
だんだんクールダウンする私。
そこからあの「映像の世紀」についての話をしばらくしていたんですが、夫の不満は、もっと淡々とやって欲しいということ。とかく巷で評判のいいらしいあのテーマ音楽(「パリは燃えているか」加古隆)もやめてもらいたい、とのこと。なんでかというと、「番組のつくりが感傷的になりすぎる」から。余計な飾りをつけず、人の感情にことさら訴えることもせず、偏りのない事実だけを淡々と語り継ぐ構成にしてもらいたいらしいです。
そういう意味で、プロジェクトXも嫌いだと。クサイ芝居で、技術屋の真の姿をだいなしにしてる、と。

私はべつにいいと思うんです。人の情感を煽るような音楽をつけても。っていうか、そうでないと、事実そのものが、あまりにも重く悲惨すぎるので、見る人が少なくなると思うんですよね。
大学の講義じゃないんだから、視聴者のほうは「歴史の勉強なんかめんどくさいし、特に戦争とか、グロいし複雑だし、そんなのわざわざ見たり聞いたりしたくない」と思ってる人もたくさんいると思うんですよ。何を隠そう、この私みたいに。
でも、そんな人でも情に訴えてみたら、つまり、事実をそのままじゃなく、ひとつの物語化してみせたら、受け入れられるようになるんですよ。
「映像の世紀」を検索で調べたら、たいていは誉めてあるんですが、ひとつこんな感想がありましたね。
「あの音楽が素晴らしく、音楽に励まされて見ることができた」
私はすごくよくわかります。あの悲しい映像の数々が私たちのなかに喚起する、持って行き場のない怒りや恐怖という感情に音楽が寄り添ってくれる、美しく力強く物憂い旋律で、それらの感情を昇華させてくれるような気がするんですよね。涙と一緒に。
あの番組を泣かずに見ていたら、どれだけストレスがたまるでしょう。あの旋律で上手に泣かせてくれるから、「次も頑張って見てみよう」という気持ちになる。私なんか、そうでした。
♪涙は心の汗さ
なんて歌が、あったようななかったような。ほんとにそう。誰にも遠慮しないでワーッと泣いたあとは、妙にスッキリとすがすがしく、スポーツで汗をかいた後みたいな感じですよ。ためこんだ感情が、流れていくんですね。

プロジェクトXだって、ああいうクサイ芝居で「泣かせ」つきの構成だから、みんな見るんですよ。実際の技術者の方なんか、「あんなん大袈裟やで。ほんとはもっと淡々としたもんや」って言う人もいるんですが、私たちは普段、モノづくりの現場の実際なんか、見たこともなければ、関心を持ったこともない。
それが、ことさらに美化され、物語化されることで、はじめて、「ええもん見たなぁ〜」「技術者ってロマンやなぁ〜」なんて感動させられる。それは、制作サイドの思惑に、まんまハマッてるということなんですが、私はそれでもいいと思います。まずは、とにかく光の当たらなかったところに光が当たって、みんながそれを見る、それが大事なんじゃないかな、と。
関心のある人は、そこから自分でもっと突っ込んだことを調べるなりするだろうし、ない人はそれまでだけれど、なんとなく「技術者やモノづくりを肯定的に見る」効果があれば成功だな、と。
あまりそればかりだと困りますし、確かに地味で淡々としたつくりでもシッカリと構成できた番組も増えてくればいいと思うんですが、とりあえずは間口が広いほうがいい、ということです。

まあ、そんなこんなで家庭内冷戦は和解です。
ちなみに、夫は「ほんとに泣けない」らしいですね。私だったらもう、我慢してても思わず涙がダァ〜〜っていうシチュエーションでも、「悲しいとは思うんだけど泣けない」らしい。だから、隣で泣いている私を茶化してはいるけど、ある意味、泣けることが羨ましかったりもする、と言ってました。
これって、男とか女とか関係ないでしょうね、たぶん。男の人だって泣く人いるし。
文系・理系も関係ないだろーなぁ。だって、うちの父は理系だけど、けっこう涙もろいし。なんか、一時プレステでゲームやってて、「こういうゲームソフトもよく出来てるぞ。ゲームやってたら、一人一人のセリフに泣けてくるときあるもんな」とか言ってたし。
個人の性格ですかね。


消息

世の中にはね、いろんな愛のカタチがあると思いますよ。
私は人の欠点を数えることもするけど、人の美点を発見することのほうがずっと楽しい。
自分で自分を卑下している人に、何かしら光るところを見つけると、それを教えてあげたくなる。
ほら、あなたはこんなに素晴らしい輝きをもっているって。
あなたのこういうところは、少なくとも私にとってはすごく魅力的なんだって。

でも、そんなことは、わざわざ私から言われなくても、もうあなた自身よく知っていて、でも知らないような顔をしているだけかもしれない。
なんでそんなことをするのかは、よくわからないけれど。
その憂い顔、過剰に張りつめたような頬、そして、たまの自虐的なもの言いは、謙遜の行きすぎなのか、それとも人を釣り上げるための撒き餌なのか。
それにしては、ちょっと大袈裟なんだけれど。
それにしては、なんだか、本気も混じっているみたい。何割かはね。

あなたのことは、気にかけています。
たまに思い出して、頑張っているかなぁと、幸せかなぁと、そんなふうに。
それもたぶん、愛の一形態なんだろうと思う。
あなたが私を否定しようが、嫌われようが、いっこうにかまわない。
それよりも私はときどき、なんで人には身体があるのかと、不自由に感じます。
声じゃなくて、文字でもなくて、表情でもなくて、心がそのまま見えるとしたら、あなたにも私の考えや気持ちが理解できるだろうと。
私が無害な存在であること、私がただ純粋に好きなものは好き、素敵なものは素敵だと、私にとっての真実を言っているだけだと、ただそれだけなんだと、もしもはっきりとわかったら、あなたの気分はもっと楽になるのかな?

やさしいふりじゃない。
憐れみでもない。
あなたに私がどう見られるか、そんなのもどうでもいい。
ただ、ほんとうに思っていることを言って、なにが悪いはずもない、でしょう?
だって私は知っているから、たとえあなたの頭が私を拒否しても、あなたの魂から拒絶されるわけはないこと。
だって、そのための、撒き餌だから。
水辺に座ったまま、憂い顔で釣り針を垂れている。
あなたは、無意識に、あるいは、意識的に。

釣られてもいいよ、ひとりぼっちなら。
何人もが、そう言うでしょう。
呑み込むのは針だよと、痛いんだよ、怪我をするよと、あなたの良心が彼らを遠ざける。
あわててみんなを追い払って、またひとりで水辺に座っている。
自分は何をやっているんだろうと、ぼんやり思いながら。
実のところ、針だと思っているものの本質は、うらはらな気弱さ、自分の痛みと傷を相手のなかに見ようとしているというだけ。だから、それは本来、誰を怪我させるわけでもない。

あなたには、私を、傷つけられない。
どうやっても、私を失望させることなんか、できない。
確信があるからこそ、私も微笑む、釣られてもいいよ、ひとりぼっちなら、と。
わかっているからこそ、はっきり言える、あなたを気にかけている、と。
たまに思い出して、頑張っているかなぁと、幸せかなぁと、そんなふうに。
それもたぶん、愛の一形態なんだろう、と。


トキメキ

先日、学生時代からの親友(♀)と長電話したときのこと。
何の話からだったか、氷川きよしが今、五十代、六十代のオバサンたちに大人気らしい、という話題になって、私が、
「何がいいのか、わからんなぁ。追っかけとかしてるオバチャンいるみたいやけど」
と言うと、友人が、
「えーっ。可愛いやん、あの子」
と、黄色い声。
「(趣味わるっ)可愛いかぁ?なんか、歳のわりに老けてない?疲れがでてるな」
「そお?あの子、真面目そうな感じするやん〜♪」
「ったってなぁ・・・どーせ、オバチャン受け狙いでやってます、みたいな感じやもん。見てたら可哀想になってくるわ、『ジャニーズの奴らはええよなぁ、若い女の子にキャーキャー言って追っかけられて。俺はこんなオバ軍団に愛想振りまかんとアカンっていうのにな』とか思ってそう」
「ははは。またまた、もー♪あ、そう言えばさ、私のママ友のテニス仲間なんかも、『あのコーチがカッコイイと思わん?』『いや、こっちのコーチよ』とか言っててさ、よくやるわと思う。だって、コーチったって、まだ21、2の男の子やよ?あの人たち、脳内の自分は25ぐらいで時間が止まってるんと違う?」
「へぇ〜、でも、いいやないの、そういうトキメキを持ち続けられることって」
「そっかぁ?相手、21、2の大学生のアルバイト君やよ?まったく、いい歳して、子供もいるのに、とか思うわ」
「そりゃあ、マジでつきあうとかなら、どうかと思うけど、いいんと違う?勝手に妄想するぐらい」
「にしたって、相手が子供すぎるやん」
「そぉ?恋人にするにはちょっとアレでも、ペットみたいに可愛がるならOKやん?」
「ペットぉ〜?」
「うん。都合のいいときだけ一緒に遊びに行って、お互い楽しく過ごして帰ってくる。ややこしい深みとか理解とかは求めない。そういう関係もいいんじゃない?」
「うーん・・・いいのかなぁ?お金は出すの?」
「いや。基本的にワリカン。だって、こっちが何もかも出してお小遣いまであげてたら、それはただのホストかヒモやん?」
「なるほど〜〜、そういうのもアリかぁ。考えたこともないわ」
「面倒なことにならへん限り、楽しそうやん、それも」
「氷川くんの追っかけオバサンたちも、彼のことを男としてでなく、そういう目で見てるのかな?」
「たぶん。男としてどうこうなんて、そんな、アンタ。あの人たちからしたら、自分の子供みたいな歳やないの。ペットというより、もう保護者的な愛情でしょ。この子はアタシが育ててあげるのよ!みたいな」
「へえ〜。そういうもんかもなぁ。わからんわ、私は昔からオジサン好みやから」
「なるほど。で、どんなオジサン?」
「むふふ。プーチン(ハァト」
「・・・ハァ?プーチンって・・・あの、ロシアの大統領の?」
「うん。素敵やと思わん?」
「・・・ハゲやん」
「もー、何言ってんのよ、ハゲぐらいで。背も高いし、顔もいいし、あの理知的で教養ありそうなムード、冷静沈着な大人の男って感じ、いやー、たまらんわぁ♪♪(ハート飛びまくり)」
「顔とかスタイルで言うんなら、ブレアのほうが良くない?」
「はん、何よ、ブレアなんて。なんか、頭悪そ。アメリカの腰巾着」
「じゃあ、ブッシュなんて大嫌いなんやろね?」
「あー、もう嫌い嫌い。なんかさ、ぜんぜん洗練されてないし、もろ田舎もんやん。テキサスの牧場でガンマンごっこでもしとけって感じ」
「はあ。んじゃ、我らが小泉はどう?」
「(冷たく)あんなん、眼中にないわ。やっぱプーチンよぉぉぉ♪(ハート飛びまくり)」

そうか。プーチンか。ニュース見るのにも、そういうトキメキ方があったのね。
今度からちょっとプーチンに注目しましょう。
しかしなぁ・・・夫たちが仕事に行き、恐らくは、
「今度の受付の女の子、なんであんなに巨乳で可愛いのかなぁ〜〜。会うのが楽しみ。キミがいるから仕事も楽し。らりらりら〜〜♪」とか、
「あのパートさん、ちょっと歳くってるけど、ええ感じに色気あるよなぁ、うちの嫁ハンと取り替えたい」
「あの秘書の子、やっぱ俺に気があるんかな?うまくやればいけるかも・・・むふふふ」
などと思っているとき、家の中では専業主婦の妻たちが電話でこんな話をしているのです。
あー、これが結婚の実態なのね。
まあしかし、いつでも、どんなところでも、心にトキメキを感じる対象を見つけられるのは、いいこと。
それがなかったら、人生たぶん凄くつまんないでしょうし。

でも、『あのコーチってカッコイイ〜♪』とか騒いでる主婦たちも、一通りトキメキ(というか、妄想)を仲間うちで共有しあった後は、
「ところで、今日の晩ご飯、何する?」
なんてクールダウンしてるものなんですよね。
私と親友の長話も、
「あ、うちの子帰ってきたみたい(彼女は小学生の子を持つママ)」
「晩ご飯の支度せんでもいいの?うちはいつも遅いからいいけど」
「うん・・・何にしようかなぁ?そっちは何にするつもり?」
「んー・・・野菜炒め。ほら、二人だけだと、野菜いろいろ買っても、少しずつ余るわけ。野菜炒めって、冷蔵庫の掃除にちょうどいいねんな」
「あ、じゃあ私も野菜炒めにしよう。んじゃ、またね」
という具合に終わるわけです。
これが現実。平和でしょ?
にしても、「プーチン萌え」かぁ・・・
あ〜〜〜ん、私のトキメキはどこに??
・・・夫?
チッチッチッ。(ひとさし指を振る)
「聞いて!」読者のキミタチは、うちの夫が「ルサンチマン」の主人公似だっていうことを忘れたのかね?
あー、プーチンに萌えられる親友が羨ましいよぉ。私も「萌えキャラ」を探そうっと♪

遠いイラクへと赴く自衛隊の皆様、ごくろうさまであります。
今日もニッポンは、今日もただただ平和であります。


もの静かな加害者

夫に言わせれば、私は「野生児」なんだそうです。
いや、森の中で吠えたり、裸で海に入ったりはしませんが。
喜怒哀楽が激しくて、それが丸見えなのが面白いそうです。

ヘッ。知ったかぶって。私はね、わざとそうしてるところもあるんだよーだ。

だって、人間ってわからないでしょう?
たとえ不完全でも、お互いを理解しあえれば、面白いことがあるかもしれないのに、黙ってシラッと表面だけ撫でてても、ちっともつまらない。

まあ、学生のときは、それでもいいけど、社会人になったら大抵は誰でもピシッと鋳型にはめられて、感情を表に出すのは悪いこと、というふうな刷り込みがなされますね。それはその通りで、いちいち泣いたり怒ったりしてちゃ仕事にならないよ、というのは本当なんです。それが嫌なら、社会のメジャーなレールから脱線するしかないですね。私も、一応、就職活動したり、アルバイトしたり、どれもこれも短期間だけど、やりました。でも、どうもつまらないし、続きませんでした。それで教職という脱線稼業へ・・・
いや、教師なんて偉そうにしてますが、マイナーな仕事だと思いますよ。「センセイといわれるほどのバカじゃなし」「センセイは世間知らず」ってね。ほんと。メジャーなビジネスマン(ウーマン)から、陰口叩かれても、仕方ないところあります。

まあ、野生の血が濃いなら濃いなりに、ビルの狭間でも生きる場所はあるものです。野生の嗅覚でもって探せば。クンクン。
というわけで、これまで生きてこられたんですが、まあ、そういう人間だから、自分の意見とか喜怒哀楽をおもてに出せない人のことは、よくわからないんですよね。
「TPOに従って、意識的に出さないでいられる」というのなら、見てわかりますよ。
あー、よく訓練された人だなぁ、と。警察犬とか盲導犬に対するような、ある種、尊敬の眼差しで見てしまう。でも、「出せない」となると???
なんかこー、子供のころクラスに何人かはいたでしょう、何考えてるかわかんない、目立たない子。
休み時間とか、教室の隅でそんな子同士で、ひっそりと固まってたり。
そういえば昔のクラスメイトにばったり出会ったりして、なにが困るかって、向こうは私のことを覚えてるのに、こっちは全然記憶にないことが多いんです。いやー、それだけジコチューに生きてたんですねぇ。
以前、ある銀行に勤めている元同窓生の男の人に、ひょんなことから出会ったんですが、その人は同じクラスになったこともなかったのに、何でだか私のことをよく覚えてる。私と同じクラスだった男の子と友達だったらしいので、それでだと思うんですが、こっちはまったく思い出せない。本人も、「僕は大人しい子供だったからなぁ」って言ってる。で、私の昔の言動とかを懐かしく話されたって、こっちは困るっていうか、恥ずかしいっていうか。

ただ大人しいというだけならまだしも、時々いますよね、感情を出すべきときでも出さない人。
そんな人は、なんだかクールで穏やかで、どんなときでも取り乱さないので、私のような感情丸出しの野生児に心ない言葉を浴びせかけられたり、踏みつけにされたり、傷つけられる立場だと思うでしょう?どっちかっていうと、被害者だと。
いやいや。なかなかどうして、そうとばかりは言い切れないのです。
その、子供の頃なら私の眼中にもなかった大人しいはにかみ屋さんというのは、けっこう人を傷つけるだけの破壊力を有しているんですよ。
それは、うちの夫と知り合って間もなくわかったんですけどね。

うちの夫は嬉しがりだから、自分のプライベートな友人とか研究上の知人なんかと食事するとき、あんたも行くかと私を誘います。で、私も知らない人と会うのが楽しい嬉しがりな性格だもんで、ホイホイついていきます。まあ、欧米では普通の行動だと思うけれど、日本ではバカップルかもしれません。
それで、あるとき、ある人と一緒に三人で食事をしたわけです。
私にとってはもともと関係のない人だけど、夫には長年来の知人。私としては、そう聞かされれば初めから心を許してますよ。友達の友達は友達〜♪みたいな。
でも、食事の席についているあいだ、その人はあんまりこっちを見ないんです。夫のほうばかり見てる。
私としては、精一杯の笑顔で接しているつもりなんだけど、なんだか、こっちに返ってくるのはシラッとした無表情。それは客観的には決して無礼というほどではないんだけど、感情がみえないっていうか、ものすごく抑制されてて、ひんやり透明なコンクリの壁をはりめぐらされてしまってるよう。極めつけは、うちの夫がお手洗いに立ったとき。二人でテーブルに取り残され、話しかける隙もないくらいシーンとしちゃって、その気まずかったこと。もう私が勝手に抱いていたほのかな好意は、コンクリに跳ね返されて傷だらけになりましたよ。

私、すっかり凹みました。
その人と別れて帰りながら、泣きそうになって夫に訊ねました。
「私、あの人に嫌われてるのかな?」
「なんで?」
「だって、あんなにムスッと無表情で一緒にご飯たべる人なんて、見たことない」
「無表情?んー・・・べつにそうでもないで。普段からあんな感じやけどなぁ」
「いいや。あんたが席をはずしたときも、シラーッて感じで、もうさすがの私も話しかける気力が出んかったわ。あれが普通なんて、どうかしてる」
「いやー、まだあんたに慣れてないからっていうだけちゃう?」
「ハァ?慣れてない関係やからこそ、楽しく過ごせるように笑顔をつくるもんと違うの?」
「うーん。いや、そうやねんけどな。あんたがこれまでつき合ってきた人間の普通が、どんなんやったかは知らんけど、あいつはああいうヤツなんやから・・・悪気ないねん」
「ふうん・・・わかった。わかったでぇ〜〜。あんたら、ホモ関係にあったんやな?そこに私がしゃしゃり出てきて、あの人にしてみれば、私があんたを取ったように思ってんねんやろ?そうなんやろッ!」
「おまえ・・・なんでそっちの方向に話がいくねん(呆)」
「だって。そうとしか考えられへん。そうじゃないんなら、やっぱり嫌われてんねんわ・・・なんでやの?私の何が悪くて、嫌われたん?」
「だーかーらー。べつに嫌ってないと思うで」

どれだけ夫に説得されても、「なんか嫌われてる感じ」っていう被害妄想は抜けませんでしたね。その次に会う機会があって、そこでこっちを向いて普通に笑ってくれるまでは。
それまでも、夫の学校やら学会やらで、理系世界の(女に対する)不愛想さには慣れていたはずなのに、あのときは、私も最初から好感をもって行ってただけにショックでした。
私がもう少し美人だったら愛想良くしてくれるんだろうか、とか、でしゃばりすぎてるからうっとおしく思われるのかしら、とか、そもそも夫自体が嫌われてて、だから私も嫌われるのか、とか、いろいろ被害妄想に陥りましたよ、マジで。
感情のみえない人というのは、ときに他人を凹ませます。



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