未来

リニューアルしたデザイン・構成は、いかがでしょうか。
「シンプルにわかりやすく」を心がけたつもりなんですけど。
最近はブロードバンドが普及したので、かつては重かった画像もサクサク開きますよね。ほんと、昔のダイヤル接続時代が、今ではもう思い出せないっていうか。隔世の感があります。
私はマニュアルもろくすっぽ読まずホームページビルダーを適当に使っているだけなので、あまり凝ったこともできません。タグって何?スタイルシートって何?フレームをつけるにはどうしたら?みたいな感じなんですよ。なので、素材屋さんめぐりなどして、スタイリッシュで綺麗なサイトばかり見ていると、わー、センスいいなぁ〜と感心させられます。が、ちょっと見にはenterがどこなのかわからないとか、文字が小さな薄色のフォントで読みづらいなど、デザイン性を最優先させたサイトは、必ずしも訪問者に優しくない印象を受けたりもします。素材屋さんなどは美意識重視でいいんでしょうけど、読み物が主体のこのようなサイトでは明らかにNGですね。

さて、イラクの状況は泥沼化してるみたいですね。
戦争は、アメリカ大統領の勝利宣言で終わったのではない。まだ続いている。あー、大変だなぁ、まだやってるなぁ、とボンヤリ見ていた私も、日本人外交官の殺害事件で「やっぱり」と思いました。
何がどう「やっぱり」なのかと言われても、うまく説明できないのですが、
「やっぱり泥沼化してる」
「やっぱり安全ではない」
「やっぱり自衛隊なんか派兵すべきじゃない」
そういう感じで、「やっぱり」なんです。
この苦しい財政のなか、お金だって人一倍だして、これ以上、自衛隊まで出して不幸にも殺されてしまったら、どうするんでしょうね。日本国内でテロでも起きたら、もう、みんなパニックですよ。

・・・と、ここまで書いたところで夫がこれをのぞき込み、さもさも馬鹿にしたように、「おまえって・・・何にもわかってないくせに、いっちょまえにイラクがどうの、やなんて( ´,_ゝ`) プッ 」と。ムカッ。
ああ、そうですよ。どうせ私は何にもわかってません。
あんたみたいにサンデープロジェクトやら筑紫ニュースやら食い入るように見てませんよ、別にそこまでめちゃくちゃ関心ありませんのでね、それが何か?
ああー、もう、イヤですねぇ、知識偏重主義の頭でっかち。学者気質に特有の、この嫌味・えぐさ。
私は市井に生きてる無力な普通の一市民として、自分の今の気分とか思うこと感じることを、自分のサイトで細々と気の向くまま書いてるんじゃありませんか。何も世間様に向かって論陣はって、さぁさぁとばかりに議論したいわけでもなく、決めつけたいわけでもないんですよね。ただ、なんとなくつぶやきたいってだけ。これからどうなるのかなぁって。全部の物事がわかってなかったら、自分のサイトでイラクのイの字も書けないんでしょうか。

ったく、うちの夫は人のこと馬鹿馬鹿と罵るくせに、「それじゃあ」とばかりに質問したってウザがられるし、ちょっとでも教えてやって賢くしてやろうなんていう親切心もないんですよね。ただマイナス点つけるだけ。おまえは馬鹿だなぁって。馬鹿に馬鹿と言う、それだったら誰でもできるじゃない。それでも教育者のはしくれですか。それにさ、あんたと暮らしてたら、馬鹿でなくても馬鹿になるって。
「僕の言うことで左右されるような文章なら、やめとけ」って、それ詭弁でしょ。
人間って、そんなに強いモノじゃないって、みんなわかってるじゃない?
他人からの評価と内心の自己評価が入り混ざって、時には葛藤したりもするモンでしょ。わかってて、馬鹿馬鹿いうのは、私をより馬鹿にするための「洗脳」ですか。
ああ、ひょっとしたら、この結婚生活こそが泥沼化してるのかもしれない。
イラク関連のことに思いをはせるより、もっと身近な足元を見つめたほうが、いいのかもしれませんね。
なーるほど。夫よ、ありがとう、自分の人生を深く見つめる機会を与えてくれて
ほんとうに、あんたにはいつもいつも教えられることばかり。
どうやって、この恩を返したらいいものやら。
せめて、こんな馬鹿と一緒に暮らすことを余儀なくされたなんて、思わないでもらいたいものです。私たちの未来は、私たちが創りあげていくもの。私たちは、いつだって、完全ではないけれど、自由なのだから。

そう。未来なんか、わからない。
明日、生きているかも、ほんとうはわからない。
それでも、生きているものだと仮定して、人は将来の計画を練る。だけど、どんなに理屈をこね回し、どんなに気を配って様々な事柄を確認し、納得のうえで凪いだ海に船でこぎ出したとしても、いずれ予想外の嵐や雷にうたれるもの。それが、己の限界。それが、自然のちから。
あのとき、こうしておけば。
みんな、一度はそう思ったことあるでしょう?
あのとき、もうひとつの道を選んでいたら。
あのとき、もっとはっきり言葉にしていたら。
あのとき、戦争なんか仕掛けなかったら。
今、思ってみても仕方がない、「あのとき」、「あのとき」、「あのとき」・・・
無数の人々に、無数の「あのとき」があって、からまりあい、だけど、もう元には戻れない。
だから、私は一編の詩を捧げましょう、「あのとき」を隠し持つ、すべてのみんなに。


  未来

 きみは風に吹かれ、たわんでいる緑の梢
 きみは木漏れ日の森に、漂っている苔の匂い
 きみの頭上で誰知らぬ鳥が啼き
 きみの足元をもの言わぬ虫が這う
 きみは凍てつき折れることなく、灼けつき灰になることもなく
 みずいろの空を横切ってゆく、あの翼たちを見つめながら

 天国から降って来る色とりどりのカード
 ひとつひとつ拾い上げては占う
 いくつかの映像
 いくつかの迷路
 いくつかの喜び
 いくつかの哀しみ
 あの窓ごしの灯と影
 未だ来ぬ人の名前

 すべてを差し戻すように
 それらを高く放り投げ
 紙吹雪のなか目を細め叫ぶ、ちからのかぎり、
 きみはいまどこにいる、
 きみに、きみこそに幸いあれと


無知蒙昧の輩たち

みなさん、碍子(がいし)って知ってます?
私は、夫から教えてもらうまで(っていうか、無理矢理おぼえさせられるまで)ちいっとも知らなかったし、関心もなかったし、たぶん、夫と結婚するとかいう無謀な真似をしなかったら、死ぬまで知らずじまいだったでしょう。
要はあれですよ、電柱に電線が張られてるでしょ、よく見たら電線のところにソロバン玉みたいな白いものが、ずらずらっとついてるじゃないですか。あれですよ、碍子って。んー、これ以上の説明は私にはできませんから、グーグルででも調べてください。

いつだったかなぁ、電車を待っているとき、駅のホームで、夫と碍子の話になったんですよ。確か。夫がすごく自然に、まるで「リンゴが木になっています」みたいな調子で、「電線の碍子が・・・」と口にするので、私は「(゚Д゚)ハア? ガイシって何?」と訊いたんです。そしたら、えらいびっくりされて、「おまえ、碍子しらんのか? ええっ、碍子もしらんの? うっそー、世の中にそんなヤツがおるとはなぁ。おまえって、無知蒙昧の輩(やから)やな」って。
なんだかね、夫にしてみれば、「人間には2種類ある。碍子を知っている者と知らない者と」って感じなんですよ。で、普通は知ってて当然、知らんのは「無知蒙昧の輩」だけ、みたいな顔をするので納得いかず、うちの実家に行って訊いてみたら、母は「ガイシ? そんなもん知らんわ」、父は「ガイシ? ああ碍子のことか」。うわ、ここでも二分割。
けどさ、だいたい理系の人しか知らないですよね、碍子なんて。(と決めつけ)
義妹とかにも訊きましたが、やっぱり知らなかったし。だいたい、あんなソロバン玉が電線にくっついてるっていうことすら、気づいてない、知らない人だって多いと思うんですよ。
うちの父が知っていたのは、たまたま理系父だったから。文系父なら、知らなかったんじゃない?

甥っ子が三歳になって、ようやくものが言えるようになったんですが、近頃、周りのオトナたちに向かって、「あれは何かなぁ?」と、しょっちゅう訊くんです。好奇心の芽が出てきたってことですかね。
この前、一緒に電車に乗っていると、ホームで停まった電車の窓から外を見て、「あれは何かなぁ?」。
小さい指がさしている方を見れば、そこには電線と碍子が。すかさず教えてやりましたよ、「あの白いのは、ガイシっていうんよ」って。私はそのとき、子供のことだから、ガイシなんて意味のわからん言葉、覚えてられないだろうと思ってたんです。でも、先日、義妹の家に遊びに行って、甥っ子の大好きな電車と線路のオモチャを組み立ててやっていたら、甥っ子がオモチャの電柱(?)を取り上げて、「これはガイシ」と繰り返し言うじゃありませんか。いや、子供向きのオモチャだけど、わりと精巧にできてるんですよ。なるほどそこにはあのソロバン玉が。いやー、子供って覚えてるもんなんですね!碍子という言葉を連呼する電車オタクな三歳児。うーん。うっかり変なこと教えられないと思いました。

常識だと思っていること、持ってて当たり前だと思ってる知識、そんなのって人によって違うでしょ。関心のある分野によっても違うし。碍子なんて、やっぱ、理系の人か、そういうのを仕事で扱ってる人しか知らないんじゃない?それでもって「無知蒙昧」呼ばわりされてもねぇ。
ああ、そういえば、今思い出したんですけど、理系でも碍子知らない人います。
夏のトリエステで、そのことが暴露されてしまったのはM君。ふと訊いてみたんですよ、私。
「なあ、ガイシって知ってる?」
「知りません。なんですか、それ」
「えっ。ほんとに知らんの? あの電線の碍子やん」
「知りません(マジな顔)」
うわぁ、コイツ、知らんかったぞ、知らんかったぞ!!うひゃひゃひゃ!!
もー、小躍りしたくなりましたね。クックックッて。あとで夫に告げ口したら、案の定、「M君も無知蒙昧の輩やな」って決めつけられてましたけどね。いやぁ〜〜、私としては無知蒙昧仲間♪ができて、めっちゃ嬉しかったです。しかもM君、正真正銘の理系ですから。なんだかしらないけど「ヤッターー!!」って感じですよ。

うん。トリエステでは、もうひとつ、「ヤッター!!」じゃないけど、「へえ。やるなぁ〜」と思ったこともありましたね。
あれはある日の食後だったかな、日本人メンバーでくつろいでるとき、英語をマスターするのが面倒とかいう話をしていて、私が、「人間がバベルの塔をつくろうなんて思わなかったら、こんな苦労もなかったのに」みたいなことを言ったんですよ。もちろん、聖書のなかの話にひっかけてるわけですが。
言ってしまってから、「あ。この人たち、こういうネタは知らないかも」と思いました。うちの夫は確実に知らなかったです。だから、そこで、なんで「バベルの塔」が出てくるのか、夫には理解不能だったと思います。
夫だけでなく、その場のメンバーでちゃんと意味通じてたのは、たぶんひとりだけでした。私が、「バベルの塔の話、知ってる?」と説明しようとしたら、そのSさんが、知ってるよ、と話し始めたんです。
昔、知恵を付けた人間が、天までも届くような高い塔を建て始めた。それを神は自分に対する不敬、人間の傲慢さの表れだと考え、塔が完成するまえに打ち壊してしまった。ついでに、それまでひとつの言語でコミュニケートしていた人間の言葉を、ばらばらにしてしまった。人々はお互いに意志の疎通が出来なくなって混乱し、二度とバベルの塔のようなものを建てることはなかった・・・というお話です。詳しくは聖書を読んでみてください。

文系で、「本を読むのが好き、日本の作家のものだけでなく、海外(翻訳)文学も日常的に読む」とか、あるいは、「美術館めぐりが趣味で自分でも絵を描く」とか言う者なら、バベルの塔のように有名な話は知っていて当たり前。海外の、とくに欧米芸術に接するときは、聖書、ギリシャ・ローマ神話、シェイクスピア作品などについて、上っ面のマメ知識としてだけでも少しは頭に入れておかないと、お話になりません。
でも、理系の人たちだったらねぇ。まー、知らなくても仕方ないかと。もしも欧米人だったら、理系であろうが何系だろうが、こんな話も知らないのは無知蒙昧の輩だと思いますが、日本人だしね。
そう思っていたら、クリスチャンでもないだろうに、Sさんが完璧な知識を披露してくれたので、「ほー」とか感心しちゃったんですよ。
ほら、なにしろ、うちの夫ときたら、『陰陽師』ですら読めなかったんですよ、「おんみょうじ」って。映画の広告みて、「これ、何て読むねん?」とか言ってるんです。そんで、「あべのはるあきって誰やねん」とか言ってるし。あんた、それ、あべのせいめい(安倍晴明)、でしょうが。ったく、コイツ、無知蒙昧の輩か? 聖書やギリシャ神話は仕方ないけど、日本人やったら安倍晴明ぐらい、ちゃんと読めよ。日本史でだって、出てきたがな。
とまあ、普段、こういう夫に接してるので、Sさんが博識な人に見えたんですよね。正直、うわぁ、こんな話も通じる人っていいなぁ〜と。

あなたのまわりにも、「コイツ、無知蒙昧の輩か?」って人、います?
でも、ひょっとしたら、その人からあなたも、同じように見られてるかも。
私は、度が過ぎなければ、無知蒙昧も仕方ないかぁ、と思います。自分の知ってることを知らない相手に教えてあげるのも、また楽し♪ですよ。で、それぞれに得意分野があるんだから、自分がひとつのことを教えた相手に、何か別のことを教えてもらう機会も、きっとあるでしょうし。
互いの言葉が通じなくなってしまった人間たちが、バベルの塔を放置して、散り散りになってしまったのは、興味深いことです。心をひとつにして輝かしい知識の成果を築き上げてきても、いったん言葉が通じなくなると、ただそれだけで相手を理解しようとする気持ちさえ捨て、袂を分かってしまうのです。
互いの意志や気持ちを伝えあうのは、知識を活用してモノ作りをするよりも、さらにずっと難しい、ということでしょうか。確かに、テクノロジーは日進月歩で進んでいくけれど、私たちは、互いの気持ちに関しては、互いに無知蒙昧なままなんでしょうね、互いにすごくすごく気にかけて努力していかないと・・・


冬天到了。

有馬温泉、またしても行ってきましたよ。今度は、うちの両親+夫と私の四人で。
でも、正直、あんまりのんびりもできなかったような。
十月に行ったときよりずっと寒くて、なかなか外を出歩く気分になれなかったというのもあるし、やっぱり人数が増えるとそのぶん気苦労も多く。たとえば何か食べようか、という簡単なことひとつとっても、二人だと二人の好みや気分を調整すればいいだけだけれど、四人だと、その倍の調整が必要。
まー、母と二人でっていうのが一番気楽ですね。どっちも、食べ物にはそんなにこだわらないし。アルコールも飲まないし。うちの父も夫も、「美味しい」「マズイ」「これ食べたい」「これは嫌」がわりとハッキリしてますから、そんなとき私が「どっちでもいいのに・・・」と思ってても、そうもいかなかったり。
お湯は相変わらずよかったですよ。お肌つるつる〜〜♪
何が効くんでしょうね。ほんと、あのお湯を完全に再現できるバスソルトみたいなのがあったら、絶対買うのになぁ。

さぁて。今年もあと二週間となりました。
って、暦が変わるだけじゃ何の意味もないんだけれど。
でも、過去の出来事のあれこれが、いつにも増して鮮やかによみがえってくるのはなぜ?
久しく会わない人たちの顔や懐かしい場所の風景が、ひとりでに浮かんでくるのはなぜ?
自分が持っているものと欲しかったものを数え上げては、どっちが多いか比べてみるのはなぜ?
人生は長すぎるだとか、短すぎるだとか、そんな感傷にふけってしまうのはなぜ?
何よりも、こんなふうにせつないような、悲しいような、やるせない気分になるのはなぜ?
それは年の境目がたまたま冬だから。単純に、寒いから。
ただ、それだけ、みたいな気もします。
考えてもみてくださいよ。もしも八月初旬の暑い最中に新年を迎えるとしたら、どう?
「はふー、あぢーよぉー、なに?今年も終わり?それよりこの夏が早く終わって欲しいっての、ったくクーラーのせいで電気代どれだけかかってると思ってんのさ」
・・・ぜんぜんムードないですね。たぶん、私の場合。
思うに、南半球の人々や赤道直下に暮らす人々と、北半球の、とくに四季がはっきりしている土地に住んでいる人間とは、情緒のパターンとか思考形態とかが少し違うんじゃないでしょうか。いや、そんな感じがする、というだけですが。

日照時間が短く、くもりがちで、寒いというそれだけなのに、冬は私をメランコリックにさせてくれます。
嫌なんだけど、気がつくとどっぷりはまってる。本当はそんなに嫌でもないんじゃない?・・なんてね。
頭のなかをクリアな冷たい風が吹き抜けて、胸にはぽっかりと穴が開いたみたいな気がして、骨まで凍えそうなのに、いくらセーターを着込んでもコートを羽織っても暖まらない、冷え切った手で押さえても押さえても、指の間からあふれだす内省。
だから、どうでもいいのよ、フセインの身の上。
どうでもいいのよ、自衛隊の派遣も。
どうでもいいの、世界がどうなるか、だなんて。
ただ、私自身のことだけ。
私の明日は?私の来年は?私の十年後は?それに思いをはせるだけ。
・・・視野狭窄。
けど、笑えない。自分ひとりさえも幸せにできない人間が、世界を語るなんておこがましいでしょ。
みんな、ほんとうは自分自身の幸せから目をそむけたくて、世の中を語るのに忙しいんじゃないの?
べつにそれでもぜんぜんかまわないと思うんですけれどね。
むしろ、逆説的に考えれば、それってすごく平和なのだから。
国と国との戦争があり、他者と自分との諍いがあり、自己の内でもまた戦いがあり。
個人にしてみれば、どれもみんな等分に重いことだから。


ルサンチマン

先日、夫が持ち帰ってきた漫画誌。名前は週刊ビッグコミックスピリッツ。
あれまあ、これはまた低俗な、と顔をしかめてましたが、なにげに巻頭カラーの新連載、花沢健吾「ルサンチマン」を読み始めたら、最後で不覚にも泣いてしまいました。

えっと、内容は、30の誕生日を迎えた冴えないモテナイ君(ブサイク・デブ・素人童貞・低学歴・低収入・・・という多重苦の持ち主)が、同じようなキモオタ・ヒキコモリ友人の影響でギャルゲーにハマッてしまう・・・というもの。
なんか、この漫画に既視感をおぼえてしまったのは、これって、2ちゃんねるの独身男性板では、よくあるキャラ&エピソードなんですよね。(参考 http://cgi.f18.aaacafe.ne.jp/~dokudera/index.php
どんなふうかというと、ちょっとびっくりしてしまうんですが、コンビニの若い女店員にお釣りを渡されるとき手が触れたとか触れないとか、「(゚Д゚)ハア? そんなこと?」という感じの些細なコミュニケーションが、モテナイ君たちには案外と重要視(?)されていたり。25超えてても彼女いない歴=年齢なんて普通だし、だから誕生日やクリスマスなんかいつも一人(または親と一緒)だし、外見に関してはたいていコンプレックスのカタマリ。
いや、私にしてみれば、こういう人たちの心情というか、ブサイクなモテナイ男であるがゆえの脆さ、怒り、優しさ、ズルさ、みたいなのは、ぜんぜん考えてみたことも触れたこともなかった世界ですから、とてもめずらしく興味深く、このスレッドで読んだことをネタに、ちょっとした短編(「シュガーコートは雨に溶け」)を書いてみたりもしました。

ま、あの小説は所詮、別世界に住む女の私が、匿名掲示板という資料をもとに想像で書いたものですから、それなりかもしれませんが、この漫画の作者は男だけあって、細々としたリアリティが実によく描き込めていますね。なんかこー、洗面所の前のコップに突っ込まれた歯ブラシだとか、部屋に敷かれた万年床だとか、職場の人々や友人との会話だとか。もう、これでもかっていうほど、「冴えない」感じを盛り上げてます。んー、私にはよほど取材しないと、こんな細部まで書けませんね(~_~;)
初めは、主人公のビジュアルがうちの夫にちょっと似ている(あそこまでブサイクじゃないですよ、でも、すごく悪意をもってデフォルメしていけば、けっこう似ていると言えるかも。アハハ♪)ということもあり、「ギャハハ、この主人公、あんたに似てない?」などと笑いながら読んでいたんですが、だんだんストーリーにはまり込んでいって、ラストはマジ泣きしてしまいました。笑って茶化していた私がシーンとなって、しまいに泣き出してしまったものだから、夫はもう「(゚Д゚)ハア? おまえって、簡単に泣くやっちゃな」って感じで呆れてましたが。

どこが泣きポイントかって、それは、うーん・・・
「こんな人って、ネタじゃなくて本当に世の中にはいるんだろうな。なんだかとっても可哀想」という感じ?
いやー、作者と主人公を混同しているわけじゃありませんよ。でも、巻頭カラーで連載始めるからには、それなりの反響っていうか、一定数の読者がつくと踏んでるわけじゃないですか。青春の王道を謳歌して歩いてるイケメン&モテモテの若い男性がこんなの読んでも、そこまでディープに感情移入できないだろうし、やっぱりある程度、この主人公と共通するところのあるモテナイ(冴えない)男たちっていうか、そういう読者の支持を見込んでるわけでしょ。連載終わったら、単行本にして売るつもりなんだろうし。
2ちゃんねるに書いてあることなんか、どこまで嘘かほんとかわからないから、「うっそー、自虐ネタでしょ?」とか思っちゃうときもあるんですが(男の人って自虐ネタで笑いをとる人多いですよね)、商業漫画誌でもそのまんまなノリでストーリー展開させてるってとこ見ると、いやぁ、やっぱりこういうモテナイ君の在り方に共感の涙を流せる層っていうのは、確実に存在するのかなと。

私がモテナイ系スレを読んで、なにが一番、目からウロコだったかって、「俺だって、愛されたいんだよ!」っていう切実感がすごくあったこと。ほら、モテナイ君って、普段、無口だったり消極的だったりして、「誰かに愛されたい」なんて真面目に望んでないんじゃないかって感じがするのね。それこそ、「あんた、女の子とか恋愛とかあまり興味ないんでしょ、ゲームとか風俗があったら(性欲さえ処理できたら)それでいいんでしょ」、みたいな(まあ、本当にそういう人もいるとは思いますが)。でも、それは思い違いで、通りすがりの女の子との、ちょっとした取るに足りないくらいの接触にも、過敏なくらい心揺れてる人も多くいる、ということなんですね。不愛想で無表情な仮面のしたには、とっても傷つきやすい思春期的な繊細さが隠れてるわけです。
そんなの、想像したこともなかったから、新鮮な驚きでした、私には。
その「愛されたい」っていう悲痛な叫びや嘆きに対して、「なんだかとっても可哀想」と思ってしまうのは、すごく失礼だとわかっているんだけど、でも、正直、それしか言葉がないんですよね。
「いつか愛されるときが来るよ」「前向きに頑張れば縁がめぐってくるよ」なんて、脳天気で無責任なことも言えないし。ただ同情するしかない。同情されるほうにしてみれば、たまったもんじゃないのはわかってる。ほんと、「同情するなら愛をくれ!」って話ですよ。うん。でも、お金やモノならあげたりもらったりできるかもしれないけど、愛だけは「くれ!」「じゃあ、あげる」というわけにはいかないのが哀しいところ。

だけど、ブサ・コンプレックスもってるモテナイ君に限って、女には並はずれて可愛い(綺麗な)容姿を求めてたりするんですよね。まるで清純派アイドルみたいな。自分はブサイクだと自覚していても(いや、だからこそ、か?)、同じようにブサイクな女の子は嫌なんです。で、できたら自分はちょっとしか動かず、傷つく危険を冒すこともなく、若くて可愛い処女の女の子が天使のように自分の前に現れて、勝手に向こうから好意を示してくれないかな、なんて都合のいいこと夢見てそうなんです。この漫画が、結局はそうであるようにね。まあ、そこでは、生身の女が持っている個々の人格はきれいさっぱり無視されてるわけですよ。ブサでもそうでなくても、それじゃあ駄目でしょう、と客観的に見れば思うのですが、んー、それこそが「愛されなかったルサンチマン」故なのだって、言ってしまえばそうなんですかね。でも、現実の女の子は、ルサンチマンを解消するための道具になんかなれないんですよ。そもそも恋愛って、そういう一方通行なものじゃないし。どうも根本的にすれ違ってますよね。そのすれ違いのさまが、これまた哀しいんだな。同情はしますけどね・・・うん・・・


愛のメモリー

クリスマス・イヴ。でも、ウチは醒め醒めムード。ま、いつものことだけど。
もともと性格的に、そういうイベント重視してないし。いまさらイベントにのっかって何かするのが楽しい歳でもないし。
だいたい、クリスマスとかお正月って、どこへ行っても混むし、何を食べても買っても特別料金だし。
どうせ何かするなら、そういう日は、わざと避けてしまいたいですね。

醒めてる理由は他にもあって、昨日の夜、私がネットしてたら、夫が来て言うんですよ。
「おまえにメモリー買ってやる(宣言口調)」
「へ?」
「そのマシン、ソフト立ち上げるときとかガラゴロいうやろ。メモリー入れたらずっと使い勝手よくなるぞ」
「ふーん。で、それいくら?」
「一万二千円ぐらい」
「高っ。んじゃ、いいわ。べつに今の使い心地を不満に思ってるわけじゃないし」
「(すごい勢いで)いいや!買うたるって!ちょっと貸してみ(と、私のPCを勝手に触って)、ほらな、ホームページビルダー立ち上げるのだって、こんなガラゴロいうてるやん。(さらにいじって)ふんふん、××が○○か(何かチェックしてましたが、忘れました)。やっぱり入れたほうがええな。メモリー入れたら、もっとサッと立ち上がるし、いろいろソフト立ち上げたままであれこれやっても、しゃきしゃき動くぞ」
「私、普段はメーラーとIEしか立ち上げてないし、あんたみたいに平行していろいろやるわけじゃないし、そんなにしゃきしゃき動かんでもいい。一万円も出してメモリー買うんやったら、さっきショップチャンネルで見たシルバーの指輪が欲し・・」
「(人の話さえぎり)いいや!あかんって、このままやったら。メモリー買うんや。おまえって保守的やから、試してもみんと『いらん』言うてるけど、メモリー入れたら絶対に今までとはちゃうから感動するに決まってる。結局、あとから感謝することになるんや。メモリー買うで。これはクリスマスプレゼントな」
えーっ、クリスマスプレゼントぉ?!そんなら私は指輪のほうがいい、メモリーなんかいらんってば」
「いいや、悪いこと言わんから、メモリー入れとけ」
「あのさぁ、プレゼントって、相手の欲しいものあげるのが基本・・」
「(私の声を完全に無視して)ほんなら、買うぞ。ええな」
ええことないがな、そんなクリスマスプレゼント!私は指輪のほうが・・・」
「ええやないか、クリスマスプレゼントで。『愛のメモリー』やがな♪」
「(゚Д゚)ハア? 『愛のメモリー』?!・・・あんたって・・・もう終わってるな(呆)」

「愛のメモリー」なんて、今の20代の人は知らないと思います。松崎しげるですよ。やたら力の入った暑苦しいラブソングですが。
もう、こんなダジャレがつるっと出てくる時点で、終わってますよ、人として。
うちの夫、寒いダジャレは嫌いって、自分で言ってたくせに。歳ですかね。人生のオッサン化。
はぁ。今年はいつもより一層、醒め醒めなクリスマス・・・


ヒーローなんか、いらない

ここんとこ、夜はNHKのアンコール再放送「映像の世紀」見てます。
哀切なテーマ音楽にのせて悲惨・残酷な映像がてんこ盛り、見終わるともうヘトヘトです。
二十世紀の歴史を、ちょうど発展途上にあった映像技術が後世に残した貴重なフィルムをもとに振り返る、というシリーズものですが、第一次・第二次大戦や民族紛争など、主には負の歴史に焦点をあてているので、陰惨でやりきれません。(私はむしろ「世紀を超えて」のほうが好きなのですが、あれは再放送してくれないのかな)
グッタリしてしまう一番の原因は、やはり映像を通じて時空を超えた見知らぬ人間の死と対峙させられるから。
それも、自然死ではない、暴力や迫害による死。
あるいは、やむにやまれぬ状況に追い込まれたうえでの自殺。
とても正視できなくて、感情としては思わず目をそむけてしまうんですが、やっぱりこういうのは、いっぺん見ておかないとなぁって、理性的判断(?)と義務感でもって出来るだけ真摯に番組と向き合ってます。
でも、今夜はベトナム戦争。てことは、そろそろカラー映像で?
うーん・・・見たくない。マジで。

もしも、あの番組が編集の段階で、ある思惑に沿うよう意図的に造られたものだとしても、人間の欲や憎しみや恐怖が引き起こす戦争や暴動の、普遍的な悲惨さ、愚かしさは、じゅうぶん視聴者に伝わると思います。
この時期、この年末に、あれを再放送とは、NHKもなかなかのもんですね。

話は飛びますが、ミスチルのHEROっていう曲の歌詞の出だしがずっと気になっていたんです。すごく好きな曲なんですけど。

   例えば誰か一人の命と ひきかえに世界を救えるとして
   僕は誰かが名乗り出るのを 待っているだけの男だ
   愛すべきたくさんの人たちが 僕を臆病もんに変えてしまったんだ

全体を聴けば、必ずしもそういう内容じゃないんですが、ここだけを取り出すと、まるで、「自分の命を捨てて世界を救う」のが勇敢なヒーローというもの、という前提で語っているみたい。
「映像の世紀」で、兵士たち、とくに日本の神風特攻隊の乗った戦闘機が、砲弾をよけながら、海や戦艦に激突してバラバラに砕け、炎上する様子を見て、この歌詞の部分をまた思い出しました。
うまく言えませんが、私には、その特攻隊の映像と歌詞がクロスして、「違う!そうじゃない!!どうして!!」と泣き叫びたい気分なんですね。
「待っているだけの男」でいいんだって思うんですよ。
「臆病もん」でいいんだって。
そもそも「誰かの犠牲のうえに成り立っている世界」のほうが間違っているんだから。
誰かが命を投げ出さなくては救えないような世界なんか、いっそ救わなくていいんだって。

私は想像してみるんですが、もしも、その「誰か」に自分の家族や愛する人たちが選ばれるかもしれないのなら、そのときはどんなことをしてでも、それを阻止しようって。
必死に逃げ隠れして、卑怯だ臆病だと罵られても屈せず、それでも駄目だったら、片手でも切り落とすかって。
戦争に行って、死んだり、心身にひどい傷を負ったり、敵とはいえ同胞であるニンゲンを殺したりするより、もしも片手をなくしてしまえば兵士になれないのだったら、そのほうがマシ。
このまえの週刊誌で、「必要とあらば命を賭けて使命を全うする、それが兵士たるものの誇り」というようなことを言っていた人がいました。また、戦争が起これば必ず、民間人の犠牲は少なく、と言われたりしますね。私はこういうのに、ちょっとひっかかります。
兵士なら、死んでも仕方ないのかなって。
民間人は基本的に丸腰だから、訓練を受けて武装したプロの兵士たちとは違う、それはそうだけど。
でも、ほんとうは違うんじゃないかって。
誰かの犠牲のうえに、生き延びていくのは。
誰かの犠牲を踏み越えた者たちだけが、繁栄していくのは。

ある閉ざされた世界のために命を投げ出すヒーローなんかいらない。
そんなの嘘くさい。
そんなヒーローなんか、欲しいと思わない。
ただでさえ矛盾だらけで間違ったこの世の中で、そこまで頑張らなくていい。
誇りなんかいらない、臆病者でいい。
人々は忙しく、一時の憧れも尊敬も、時とともに風化するだけ。
神の恩寵なんか、ない。
とうの昔に、自らそれを拒絶した私たちに、いまさらもうそんなものは望めないのだから。
だからヒーローなんか、いらない。
ただ、ヒーローを必要としない世界が欲しい。
それを探さなくちゃと思う。


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