考える肉塊

母と二人で有馬温泉に行ってきました。ちょっとした気分転換。季節がら、温泉もいいだろうって。一泊二泊なら、疲れてしまうだけだから、五泊六日のゆったり長逗留。私がネットでいい宿を見つけたんです。旅館組合が運営してる「小宿とうじ」っていうんですが、基本的には二人で一泊九千円。食事なし、内風呂もなし、いろんなサービスもなし、だけどロケーションはいいし、環境は静かだし、改装した部屋はまだ新しくて清潔だし、歩いて一、二分という近さに二つの公共の浴場があって、「とうじ」に泊まってる客は無料で入り放題なんです。

豪華な旅館の、上げ膳、据え膳のサービスも、時にはいいかもしれないけど、私なんか、そんなにご馳走ぱかり並べられてもどうせ食べられないし、いちいち「お食事は何時になさいますか」と訊かれたり、布団の上げ下ろしや掃除に来るなど、気持ちが落ち着かなくて、逆にうっとおしいんですよ。終始、管理されてるみたい。修学旅行じゃないんだから、「ほっといて!」と言いたくなります。食べたいものを食べたいときに食べたいし、寝たいときに寝たいので、こっちが必要とするまでは構わないで欲しいんです。だから、今回の宿ではほんとにリラックスできましたね。びっくりするくらい、客の自主性にまかせてくれるんですもん。いい意味での放置。まるでワンルームマンションの一室を借りるようなものでした。二つの公共浴場も新しくて清潔だし、言うことなし。送迎には父が車を運転してくれて、空いている時間帯に高速を走ったら、家から「とうじ」までドア・ツー・ドアで1時間ほどですよ。遠いと思っていたのが、意外に近い!これからもちょくちょく利用したいと思いました。まだ新しく宣伝が行き届いてないから、泊まり客も少ないので、別荘がわりに使うなら今のうちですね。

ほーんと、温泉なんて、何年ぶりかしらって感じです。
高校の修学旅行以来では、ずーーっと前、家族旅行で温泉旅館に泊まったことが二、三度ありましたね。でも、こんなにのんびりはしなかったです。せいぜい二泊ぐらい。
私はぬるめのお風呂が好きなので、温泉の大浴場というと、蒸気がムンムンすごくて、お湯もやたら熱い、という印象でしたが、今回の浴場は、熱いのは熱いけれど換気がちゃんとしているので蒸気ムンムンしてなくて、頭はのぼせないまま身体は暖まる、という感じでした。
いや〜〜、私自身が自発的に「温泉に入ることを目的とした旅行」なんて、したことがなかったので、ちょっと変わったことしてる気分になって、よかったです。
まあ、なんといっても、「公共浴場」ですよ!きゃー、ハダカのつきあい(ってほどでもないか)!
私、いままでの人生で、自分からそういう浴場に入りたいと思ったこともないし、また、あまり入ったこともなかったんです。で、ものすごく久しぶりに入ってみて、うーん、興味深かったですねぇ。

ほら、当たり前だけど、みんなハダカでしょ、もちろん女湯だから女ばかり。もうね、それが新鮮な衝撃!
前に、夫が買ってくるオッサン雑誌のグラビアが面白いって書きましたよね、でも、ここでは本物!
すっぽんぽんの他人のハダカがいっぱい!
しかも、修正もされてないし、わざとらしいポーズもとってないので、自然な、生まれたまんまの姿!
それでもって、若いのからお年寄り、太った人から痩せた人まで、バラエティいろいろ。こんなの面白すぎ。
いや、あまりじろじろ見てると失礼なので、それとなーくあたりを観察してましたよ。
で、しみじみ感じたのは、

人間のハダカは、見て美しいものではない

ということ。

加工しまくりの人工的なグラビアヌードでも、「これは美しい」と思うことは少ないのに、素人の生身のハダカなんて、全体的に見て、決して綺麗なもんじゃありません(自分含め)。
なんだかねー、諸行無常の響きあり、って感じですよ。
やっぱり若くて健康な女の子は、太っていても、お腹が出ていても、まだそれなりにマシです。肌っていうか、身体自体の質感が違うから。ボイルしたてのソーセージみたいに、内側から若さがぴちぴち張りつめてます。
年齢があがってくると、中身も少し柔らかな感じになって、しっとりしたロースハム?
さらに年齢を重ねたら、太ってふにゃふにゃの生ハムになるか、痩せてサラミになるか、どっちかですね。
要するに、全体的な質感は、年齢とともに、
ボイルしたソーセージ→しっとりロースハム→ふにゃふにゃ生ハムあるいは、骨張ったサラミ
と変化していくんです。
だけど、事はそれだけの単純さでは推し量れません。それに加えて、ひとりひとりが持つ各パーツの個性がすごいからです。
顔はともかくとして、身体の重量感、肌の色や滑らかさ、胸の大きさやカタチ、お腹やお尻の出具合、脚の太さや長さ・・・あー、もう十人十色です。ひとりとして全く同じではない。
十回ほどの入浴で、私が自分自身のもつ美意識で見た限り、若くてもそうでなくても、各パーツがすべてバランスよく美しく揃っている女性はいなかったですね。うん、私から見て、そんなヴィーナスのような女性は皆無でした。
浴槽に浸かりながら、私は思わず考え込まされてしまいましたよ。
壁一枚へだてた向こうの男湯だって、きっと同じなんだろうなと思うし。
人間の美しさって何?みたいな・・・

けっきょく、ハダカになったら人間って、「にんげん」じゃなくて「ホモ・サピエンス」だなぁと。ただの肉塊ですよ。生きてますけどね。
その生ける肉塊が、お風呂からあがってバスタオルで身体を拭き、下着いちまい身につけたとたんに、「にんげん」になる。その変わりようが、これまた興味深いです。
だらんと垂れている乳房を寄せ上げブラのカップに収め、ぽっこりつきでたお腹をガードルやストッキングで引き締め、濡れてぺちゃんこになった髪を乾かしてセットし、念入りにお化粧を仕上げて趣味のいい洋服に身を包むと、あーら不思議、一個の肉塊がひとりの上品なマダムに大変身!
きっと男だってそうでしょう、運動しなくなって筋肉のたるんだ身体、だけどそれをスーツに包み、鷹揚に笑って名刺を出せば、「あら、社長さん」みたいな。
浴場の肉塊が本能や肉体維持をつかさどる脳幹や小脳だとすると、それをすっぽり覆う洋服や化粧や名刺は、まるで大脳皮質。にんげんを、にんげんたらしめている灰色の脳細胞ってやつですよ。
うまく言えませんが、あー、にんげんって、服を着るから、にんげんなんだ、と思いました。
エデンの園で、ハダカで暮らしていたときは、にんげんじゃなかったんです。きっと、なにかべつの生き物だったんですね。リンゴをたべて、知恵がついたときから、ハダカが恥ずかしくなって服を着るようになった。そして、楽園を追放されて、「にんげん」になった。すごい象徴的。

にんげんってなんだろう?
にんげんの魂や心や思考が確かに脳に宿っているのなら、身体なんかいらないのに、と思いました。だって、身体を自分の思うような状態にキープ、またはコントロールするために、私たちはどれだけの労力を使っているでしょうか。
毎日、食べて飲んで、病気になったら薬や手術、他人の気を引くため、社会での立ち位置を確認するための、化粧や着替えや名刺・・・
うちで飼っているオコたんは、猫だから、動物だから、私がハダカであろうが、高価な服に身を包んでいようが関係ない。ついでに言えば、太っていようが痩せていようが、美しかろうが醜かろうが、関係ない。肉塊とにんげんの区別なんかつけずに、同じ個体だと思えば同じようにスリスリと甘えてくる。
けど、灰色の脳細胞をもつ「にんげん」は違う。姿かたちや着るものにとらわれている。
身体にまつわることなんて考えなくてもよくなったら、身体の心配なんてしなくてもよくなったら、にんげんって、もっと他のことに創造力を発揮できるんじゃないでしょうか?
もっと別な社会が出来上がるんじゃないでしょうか?
精巧に造られた人型ロボットに脳だけ移植できたら、世界じゅう、どこへいっても若く美しい外見にデザインされたアンドロイドばかりになる?
あるいは、自分のクローンをつくって、最初から脳を抜き取って置いて、身体にガタがきたら脳だけ移植する、ということが実現するだけでも、私たちの心配事は激減する?
・・・なぁんてことを思わず考えました。

ヴィーナスでもアポロンでもない、ただの肉塊を、愛しく美しいものと感じられるのは、にんげんだから。
反対に、醜いと蔑んだり嫌悪感を持てるのも、にんげんであるがゆえ・・・
にんげんって、なに?
にんげんであることって、どうゆうこと?
にんげんの価値とか美しさって、いったいどんなもの?
ふうぅ・・・はからずも、お湯のなかで哲学してしまった温泉旅行でした。


残酷な証言集

自分の「おまぬけヅラ」が映ったビデオを見て以来、それがトラウマになり、人から自分がどう思われているのか改めて気になり始めた私。
自分のことなんて、「まー、美人じゃないにしろ、そうブサイクでもないんじゃない?普通じゃない?」などと悠長に構えていたのですが、どうにも気になりだしたら、断固、気になってきた。
もはや自分の目はあまり当てにならないことがわかったし。
そこで、証言集めを行ったのです。

初めは友人(♀)の証言。電話にて。
「あのさぁ、ちょっと訊きたいねんけど、私ってブサイク?」と、まずは直球。
「えー、そんなことないよ、可愛いよ」と、無難にかわされる。ここからが勝負どころ。
「そうかなぁ〜。うちのダンナもさー、いちおう素朴な可愛さがあるとか言ってくれんねんけど、どーもなぁ、あの人の美意識、壊れてるからさ」
「いやー、なによ、のろけてんのぉ?(笑)」
「いいや(キッパリ)。あの人さ、私のこと、『麦わら帽子と虫取り網が似合う』って言うねんで。どう思う?」
「プッ。なにそれ。でも・・・ダンナさんの言ってる意味、わかるかも!!!
「ええっ!どういうこと?」
「なんかそういう感じがするねんな、うんうん、わかるわかる〜〜〜ッ!!(ゲラゲラ)」
「だーかーらー。どういう感じ?」
「いやぁ、だから、可愛い感じやで(笑)。うんうん、麦わら帽子に虫取り網、わかるわぁ、あはは♪」

・・・こっちはわからんがな!!


次、実の両親の証言。この前行った有馬で、三人そろって散策しているとき。
「(小声で)お母さん、お母さん、あの人見て。(と、どうやら私と同年代と思しき一人旅の女性を指す)」
「え、あの女の人?」
「うん。あの人と私、だいたい同じくらいの歳やと思わん?」
「そうやなぁ・・・(と見比べ)、まあ同じくらい違う?でも、向こうのほうが、あんたよりずっとしっかりしてそうな大人びた感じやけど」
「・・・やっぱりそう思う?あのな、私、最近すごいショックなこと発見してん」
「なによ?」
「あのな、新しいデジカメにちょっとしたビデオ機能がついてて、それで自分の笑ってるところ撮ったらな、なんていうか、その笑顔にこれまでの人生の年輪っていうか、まぁ、歳相応の落ち着きみたいなものが全然感じられへんねん。あまりにもあっけらかんとしすぎてんねん。どー思う、これ?」
「なにを今更。あんた、ずーっとそんな感じやん、昔から
さすが実の母。どうです、この歯に衣着せぬ物言い。
「いや、昔からって言われてもさ、私だって、いろんな経験するたびに成長してるやん、ちょっとぐらい今までの苦労っていうか、そういうのが大人の表情になって出ててもいいと思わん?」
「(横目で)あんた、そんなたいした苦労なんてしてないやん
「ちょっと!!そんなことないで、そりゃお母さんに比べたらしてないかもしれんけど・・・私だって、ほらー、いろいろあったし・・・」
「まあ、そんなん苦労のうちに入らんのと違う?」
「いや、精神的に成長したところが顔に表れてないっていうのが・・・」
「ええやん、ええやん、それがあんたの個性やと思えば。ははは♪」
そこへカメラで風景を撮っていた父が後から追いついて来て、
「二人で何の話や?」
「いや、あそこにいる女の人な、私と同じくらいの歳やなーって」
父、向こうでガイドブックらしきものを眺めている女性に目をやる。
「うん。歳は同じぐらいかもな。でもおまえは(とこちらを振り向き)・・・幼いから。ははは♪」

・・・_| ̄|○ ガックリ・・・・


こんなふうに私が鬱になるような証言を集めていると、きわめつけの一言が私の耳に。
出張から帰ってきた夫が言うのです。
「○○君がな、あんたがデジカメのこと書いてたのが面白かったって言ってたで(※聞いて61参照)」
○○君とは、私とも面識のある関東在住の某若手研究者。
「(うきうきして)へー、ちゃんとHP見てくれてんねんやん(ハァト」
「うん。あのな、あんたが自分のビデオ見てムンクの叫びになるところが笑えたってさ」
「・・・で?」
「で?って、それだけ」
「(しつこく)『笑えた』って、それだけ?ほんまに他には何も言ってなかった?」
「いや、べつに何も」
ヽ(`Д´)ノ ウワァァァン!!
「な、なんやねん、なんやねん!!」
「やっぱり、私、みんなからブサイクやと思われてんねんわ!!ヽ(`Д´)ノ ウワァァァーーン!!」
「なんでそうなるねん、誰も悪気で言うてないがな。第一、あそこ、笑うとこと違うんか」
「そうや、笑うとこや。笑ってくれてもいいねん。でもな、笑いっぱなしじゃなくて、『自分で気にするような顔じゃないですよねー』ぐらいはフォロー入れて欲しいねん!!それが女心っていうもんやろッ!!
「って、言われても、わかるかいな、そんなもん(呆)」
「だって!そうやんか、フォローなしの笑いやったら書いてあることの肯定やんか。『そうそう、まりねこさんて、ブスですよねー、あはは♪』って。ええねん、ええねん、どーせ私、ブサイクやから。ふんっ」
「そんなことないぞ。(突然、芝居がかって)おまえは永遠の美少女やないか!!
「ヘッ。いまさら!あんたの『常識から転げ落ちて一回転半したような審美眼』なんか信じられへんわ!ヽ(`Д´)ノ ウワァァァーーン!! 私って、人からはブサイクやと思われてたんや、そのうえ、今までそのことに気がつかへんほどアホやったんや、もー、めっちゃ悲しいわ、ブスでアホなんて、最悪ッ!!
「まあまあ。ブスでアホでも生きる道はあるがな♪
「・・・・あんた・・・(ワナワナ)」

この後、想像を絶する惨劇がマンションの一室でどのように繰り広げられたか、みなさんは知らなくてよろしいかと思いますので以下略です。
これを読んでいるはずの○○君、私自身はけっしてキミのことを誤解して恨んだりはしないよ。私はそんな心の狭い女じゃないから。わかるでしょ?
ただ、私にかわって神がキミの頭上に正義の鉄槌を下されるのだけは、もはや止めようがないなッ!

ふう・・・

いいの。もういいのよ。だってしかたないもん、だからもういい。私、強く生きていくわ。
でも、最後にひとつだけ。
なんでみんな、はははと笑ったあと、最後に「♪」なの?
いや、私が書いてるっちゃ書いてるんだけど、そういうニュアンスなんだもん。「ははは♪」って。
なんかさ、やっぱり、そこはかとなく、

馬鹿にされてない、私?

・・・いいの、もういいの。強く生きていくから・・・いいのよ、いいの・・・(フェイドアウト)


心の美しさ

さて、美しい見かけに生まれつかなかった者が、とかく拠り所にしがちなのが、心の美しさという概念。今回は、ちょっとこちらについて考えてみます。これってね、道徳的・倫理的に正しいと言われる生き方をしていたら心が美しいのかというと、そうでもないと思うし、難しいところです。
だいたい道徳や倫理って、時のファッションみたいにクルクル変わりますから。権力者の都合でも左右されるし。そんなものに信を置けませんよ。そうですねぇ、私が思うに、心が美しいというのは、やっぱり、持って生まれた自分自身に素直であるとか忠実である、ということかなぁ。打算という贅肉をつけていない、自己欺瞞という汚れをつけていない。そのうえで、自分を活かしきっていること。
汚れていない、という意味では子供が一番汚れていない。じゃ、子供の心が美しいかというと、そうじゃない。ただ汚れていないだけで、それは磨かれたり洗練されていないから。素材そのものですね、むきだしの。チューブから絞り出したばかりの絵の具みたい。ちゃんとした絵になってない。いろんな色の絵の具が混ぜ合わされて、カンバスを彩っていくのが人生の様相だとしたら、まだまだ未完成でありすぎる。そこに「美しい」という言葉はそぐわないように思います。

私はよく己の過去を振り返ってみます。これは癖みたいなものだし、それだけ暇だからでしょう。
で、自分としては、27-8才ぐらいまでは、だいたいにおいて「打算的でなかった、自分の気持ちに忠実に生きたから、後悔することは何もない」と言えます。たとえ他人を困らせても傷つけても、人から馬鹿だと思われても愚かだと言われても、野暮ったく鈍くさい回り道でも、それが自分の心の求めに正直に従う行為なら、それをしている間も、そしてどんな結果を見たあとでも、一切が清々しい。これが幸福というものじゃないかと思いますよ。人が幸福にしてくれるわけじゃなくて、「幸せだね」と言われて「そうかな」と納得するんじゃなくて、自分の心の奥底から湧き出る「幸福感」ってあるんですよ。
でも、それから後、これまでの年月については、そう言い切る自信がないですね。ある意味、少しは優しさを身につけた、時には他人を思いやれるようになった、自分で自分の身を守る知恵もついた。だけど、それと引き替えに、あの清々しさは失われてしまった。自分の生きざまを振り返るたび、後悔してみたり肯定してみたり、いろんなことを考えすぎて、かえって何もかもが明晰ではなくなったように思います。

子供がためらいなく欲しいものに手を伸ばすような事は、もうできなくなった、そう自覚したそのときが、「青春の終焉」。私の場合、ビルの屋上から「終わり」と書いた垂れ幕がスルスルと下がってくるのを見ているみたいに、ハッキリと自覚できましたよ。「ああ、私の青春は終わったんだ」って。これからは、若者ではなくて、ひとりの大人として生きていかなきゃいけないんだなって。
この年齢ってね、ひとそれぞれ違うと思います。
18で大人になる人もいるだろうし、私のようにそれから十年も遅れて大人の自覚を持つ人もいます。平均的に、この年齢では早いとか遅いとか、私にはわかりませんね。長く青春をやっているほうがトクなのか、それとも、早く目覚めたほうがトクなのかも、わからない。
まぁ、とにかくその時は、わかりますよ。何かのはずみで。
私の状況は、ほんとに自分では信じられないようなことでしたね。出会い頭の事故みたいな感じ。何かっていうと、恋ですよ、恋。女ってこれだから、と思われるでしょうけど、人に対する感情って、モノやステイタスに対する感情より強力なんですよ。そして、感情が考え方も変えていくんです。

その相手は、それまで思ってもみなかったタイプ。
ひたすら美しいんです。ギリシャ彫刻みたいに、綺麗!!なんです。うん、人には好みというものがありますから、万人が彼を美しいと思うかどうかはわかりませんが、少なくとも、私のツボにはピッタシはまっていた。こんな綺麗な男の子は未だかつて見たことがない!!って。彼は完璧な美!だと思いました。
それまで私は自分が面食いだと思ってませんでしたし、今も面食いじゃないです。でも、その男の子だけは別格でした。なんでだかわかりません。好きになった時点で、相手の名前も歳も、どこに住んで、ふだん何してるかも、ぜんぜん知らないんですよ。自分で自分に驚き呆れましたね、こんなんアリ?って。「私は綺麗な顔だけに惚れるような軽薄人間じゃない!!」と。でも、顔を合わすたびに募る気持ち・・・
私は目で彼を追いました。震えながら挨拶しました。あるだけの勇気をふるって話しかけました。そして・・・ガガーン!!わかっちゃったんですよ、彼が私よりずうっと年下のオコチャマで、頭も良くはなさそうなこと・・・

そこでやめればよかったんです。でも、やめられなかったんです。いくら子供だ馬鹿だと思ってても。あの完璧に美しい顔と肢体が、ココロをわしづかみです。そのくせ一方で、実際に付き合ったら、きっと三ヶ月もたないだろうなぁと醒めている。これって、なんなの?って一人で混乱してました。
愛か?情欲か?所有欲か?
私は「ほんとの愛じゃないよなぁ」と思っていましたね。わかってるんですよ、わかってる。だけど、目の前のお菓子を我慢できない子供みたいに、彼が欲しかった。強烈に。お菓子だから、三ヶ月後にはポイかもしれない、でも、今はすごく欲しい。もー、自分でわけがわかんない。私という人間のどこに、こんな気持ちになれる種が眠ってたんだろう、と不思議で仕方なかったですね。
結局、なんとか二人で会う口実までつくって自分からアプローチしたくせに、それに乗ってきた彼をあらためて間近で見て、一瞬迷ったあげく、頭で練り上げていた企みはすべて頓挫。自分で木っ端みじんに打ち壊してしまった。どうにもこうにもチグハグな雰囲気、かといって本当のことも言えず、もう、そそくさと帰るだけです。そしてその後の彼の態度から、私は彼に嫌われたとわかりました。若すぎた彼は利口ではなかったかもしれないけれど、汚れてはいなかった。いっそ私を利用できるほどスレた子なら、まだマシだったのに・・・
「名前を教えてください」と、別れ際に訊かれたその声が、今も胸に突き刺さっています。私の人生で唯一、何の言い訳もできない過ち。彼にはどんな落ち度もなく、ぜんぶ私の中途半端な強欲のせい。ほんと、あとですっごく後悔しました。後悔が、あんなに苦いものとは知らなかった。複雑な気持ちを抱えながらその場を後にしたのが、ちょうど秋の夕暮れ。自分の長い影を見つめて歩く私のなかに、そのとき、その瞬間、「青春の終焉」という言葉が浮かびました、ひとりでに。

もし刹那的に彼とつきあっていたら、きっと相手も自分も傷つける結果になったでしょう。なにしろ彼の人間性を愛してはなかったんだから。万一、情が移って、結婚の対象として考えられないような学生さんにハマっちゃったら困るという打算もあった。どっちに転んでもいいことなしと、わかっていたのに、土壇場までわからないことにしていた自己欺瞞。美しくないですね。清々しくないです。思い出すだに自分でも苦々しく恥ずかしい気分。
今、私が自分の心の美しさというものに、いまいち自信がもてないのは、こういう経験があるから。あれは、ほんと出会い頭の事故みたいなものでした。自分で納得して好きになったわけじゃない。むしろ、葛藤したけれど欲に負けた感じ。ならば、この先、自分が思いも寄らない別の事故に遭って、また心の脆弱さを露呈するハメにならないとは限らないじゃない?
道徳的に正しい倫理観をひたすら守って生きるのが美しいとは思わないけれど、躾の悪い子供のように本能の赴くまま手づかみで欲求を満たすのも美しくない。青春が終わってしまったら、それが素直だとか自分に忠実だとは、もはや言えないのですね。
自己の欲する方向に忠実でありつつ、他者、社会ともバランスをとっていくこと・・・その葛藤のなかに、心を美しくするための洗練があると思います。なんか、すごく当たり前のことですよね・・・(~_~;)


想い出箱のセキララ日記

ここを読んでいて、私の日記だと思っている人がいるみたいです。現に、うちの夫も、そんなこと言ってましたね、そういえば。
自分のHPで日記を公開している人はとても多いので、この「聞いて!」コーナーも、それだと思われるのかもしれませんが、うーん、書いている私本人は、日記だとは思ってないんですよ。第一、日記ならシンプルに「日記」というタイトルにしますし。そうじゃなくて、「聞いて!」というのは基本的に、「ねー、ちょっと聞いてよ、私、こう思うんだけど」と友達に話すみたいな感じで文章を書いてみようというコーナーなので。日記なら、もっと日付とか行動などを明確にしないと意味ないでしょうし。
つらつら「自分語り」をしているようでも、必ずしも正確な事実を書いているわけじゃないです。思ってることを書いているのは嘘じゃないけれど、自分と他人のプライバシーは、私なりに配慮しているつもり・・・です。
文章の主旨とは関係ないと思えば、細かい事実はあえて書かなかったり、ぼやかして書いたり、過去や現在の出来事でも、それに直接関係した人が読めばわかるだろうけど、第三者からは推測されにくいようにしたり。
ここは、あくまで、私が思ったこととか考えたことをネタに、「ねえ、聞いてくれる?!」という調子で文章にしてしまおう、というコーナーですから。事実をそのまま伝える必要はないのですね。

小学六年生の頃から、間歇的に日記はつけてました。
その正真正銘の日記は、実にセキララですよ。もー、自分でも恥ずかしくなるほど。
このHPだって、読む人の感覚によってはかなりセキララかもしれませんが、例えばこの上の淡い恋の話なんて、ぜんぜんセキララじゃありません、私の感覚ではね。読まれることを意識して書いたものは、どうしてもそこまでセキララじゃなくなる。
過去に書いていた日記は、人が読むことを前提にしてない、自分だけの世界ですから。出てくる人や場所も、ぜんぶ実名。めんどくさいイニシャルになんかしてないし、あった出来事も、会話も、思い出せる限りこと細かに再現してます。自分の考えや気持ちを書くにも、表現に何の遠慮もなし。
誰かにこっそり読まれることなんて心配しませんでしたから。んー、うちの両親も弟も、わざわざそんなことしそうにないし。私が日記つけてるなんて、多分、ずっと知らなかったと思うし。
でも、いい加減たくさんたまったので、20代半ばのある日、一部を除いて、いったんぜんぶの日記を燃やしました(結構、大変な作業でした)。未練がましく残したもの以外は、もういらないと思ったんです。燃やす前に、中学生の頃の日記、ぺらっと見てみたら、自分でも赤面モノでしたね。「なにこれ??めっちゃ幼稚!」って。自分でこんなもん書いてたなんて、信じられないって感じでしたよ。まるで別人?
いや〜〜、残しておけば面白かったのかもしれませんが、焼いて良かったかも。だって、そんなものがあったら、自分が不慮の事故で死んだりなんかしたら、その後、私の持ち物を整理していた家族に発見され、「うわぁぁ!」ってなことになるかもしれないじゃない?あの世で、「恥ずかしいぃぃぃ!処分しとけばよかった!」と悔やんでも、もう遅いでしょ。ああ、それに、当の家族について書いてたりもしてたし。恥ずかしいだけじゃ済みませんよ。

それでも、大学時代や20代後半からの日記の一部は、まだかなりの量が残ってます。
それは、普通のノートやルーズリーフで、今は「想い出箱」に入れてあります。「想い出箱」といっても、プラスチックの衣装ケースです。独身時代の旅の写真とか記念品、手紙類、日記、そういうものをまとめて入れてます。今、私が突然死んだら、あれはもう箱ごと私と一緒に焼いて欲しいですね。やっぱ、セキララすぎるので、人には見られたくないっていうか。でも、生きてる間はなんとなく残しておきたいので、「想い出箱」なんですよ。こんなこと言うと、夫が見たがるかもしれませんが、実際にはたぶん見ないでしょうね。私にしたって、見て欲しいものではないし。
前に、片づけをしているとき、ひょんなところから、私が学生時代に元恋人とやりとりした手紙の束が出てきました。夫に見つかって、冷や汗タラリ(~_~;) なんでこんなものがこんなところに残ってたのか・・・
夫はすごく読みたがってましたが、「そんなの、あんたにとっては多分、気持ちのいいものじゃないよ。覚悟があるんなら読んでもいいけど・・・」と言うと、ちょっと考えて「やめとく」と言いました。夫はそういう性格なんですよね。私だったら、読むかもしれない。
過去は過去。今は今。でしょ?ましてや遠い学生時代の話。
「きゃー、昔の彼女だって〜、どんなに甘ったるいことが書いてあるんだろう?」って興味だけですよ。
読んで、げらげら笑っちゃうかも。
「うわー、あんた、こんなこと書いて送ってたん?キャハハハ、はずかし〜〜!!!」って。

ところで夫婦間のプライバシーって、みんなどのへんで線引きしてるんでしょうね。
私たちは、お互いのパソコンは触らないです。だから、誰とメールしてるとか、そういうのはあまり知らない。といっても、お互い、あれこれメール友達がいるような状況じゃないのはわかってるんですが。家に電話がかかってきたら、「誰から?何の話?」ぐらいは訊きますね。めったにないけど、飲み会だとか、誰かと食事するとか、帰りが遅くなったりするときは事前に報告です。携帯は二人とももってません。
結婚してから日記を書かなくなったので(書こうと思えば書けるけれど、そんな気にならない・・・)、この「聞いて!」コーナーが、自分の生活や心理状態の、ごくごく大まかな記録みたいになってる感じはあります。ああ、あの頃、こんなこと考えてたなぁ、とか、そうそう、この文章を書いてたときはこうだった、みたいな。
実際に文字にされたことの背後には、もっともっとたくさんのセキララな事柄や整理しきれない気持ちがあって、書いている私だけが、各文章に関連したそれらの事柄や気持ちを思い出せるわけです。人の頭のなかなんて、開けて見ることができないので、ある文章でもって私が何を思い出すか、ということは誰にもわかんない。そういう意味では、「聞いて!」が「暗号化された日記」になっている、という部分があるかも?
もちろん夫も、ここ読んでますよ。ときどきは、「おまえ、こんなこと考えてんの?」という感じだと思います。なにしろ忙しいので、心のなかで思ってることなんか、ゆっくり話してる暇なんかない、また、話したとしても、どういうわけか、すれ違いや喧嘩になることが多い夫婦なもので(~_~;) そういう意味では、私からの一方的な伝言板がわりにもなってる。

まー、いくら死んだら終わりって言っても、すごくセキララなモノを残していると、恥ずかしすぎて、うっかり死ぬに死ねないですよ(~_~;)
みなさんは、何か隠しもってますか?赤面するほどセキララで、でも、捨てるに捨てられないもの・・・
案外、心の奥底に、そういうものがありそうですよね、みんな。目には見えなくても。


湯治は楽し♪

有馬温泉へ湯治にいって、帰ってきてから、もう四週間はすぎたわけですが、温泉の効果に感激して、また12月にも予約入れてます。当初は「温泉なんてただのお風呂とどう違うの、まー、せいぜいのんびりしてくるだけでしょ」と馬鹿にしていたけれど、期待してなかった嬉しい効果がいろいろあったんですよ。

私の場合、温泉には一日に二回入りました。よく、温泉に来たからには入らなきゃ損とばかり何回も入っている人がいますが、それじゃかえって身体に負担。本当に湯治で効果を得たければ、一日に二、三回、疲れを感じない程度に、半身浴でさっと温まり、身体や髪なども毎回ごしごし洗ったりはしません。それを、だいたい五、六日続けるのが湯治のやり方だそうです。
まあ、温泉にはそんなルールを守って入ってました。あとは、ぶらぶらとよく散歩しました。お天気に恵まれたので、あのアップダウンの激しい坂道を、お土産屋さんやお寺などを見て回りましたね。
身体の芯から温まることと、適度な運動、それに、きれいな空気や水と精神的なリラックス。これが良かったんでしょうか。夏の終わりにヨーロッパ旅行で体力を使い果たしてしまい、その後なかなか快復せずに食欲もなく、何をしても疲れやすく、一時は過去最低の37sまで体重が落ちて、いきつけのクリニックの先生にも血液検査の結果「軽い栄養失調状態」と言われ、もうどうなるのかと自分でも不安に思っていたんです。漢方薬などでぼちぼち努力して少しずつノロノロと良くなりかけていたのが、温泉にいってパーッと加速したみたいです。

まず、食欲が出てきて、ものが美味しく食べられるようになり、その結果、体重が39s以上に戻ったこと。それに伴って、基礎体力がついてきたこと。これはもうハッキリクッキリとわかります。少しぐらい長く歩いても疲れなくなったし、歌を歌っても息切れしなくなった。
歌うことって、真面目にやればけっこう体力いるんですよ。とくに、高音をすーっと伸ばしたりするスローテンポな曲なんかはね。正確に高い音程を出すために腹筋を使うんだけど、体力がないと、それを維持したりコントロールできない。感情豊かにこまめなビブラート入れるような歌い方は、一見、上手いようだけど、コツさえつかめたら身体的にはずっとラクで、一定の高音を一定の声量で維持するほうがしんどいんです。ブレスレスの高音はね。岩崎宏美のバラードなんか歌うと息切れしちゃって、あれ?てな感じでした。でも、体重が戻るにつれ、腹筋、というよりもそれをコントロールするだけの基礎体力が快復したみたい。やっぱり、私の身長(153p)だと、40sは最低必要だと思い知らされましたね。

体型的にも貧相な小枝みたいな体型から、少し肉付きがよくなって、顔にも生気が戻ったというか、夕方になると落ちくぼんでた瞼や頬にハリが出てきて、人相もちょっとだけ微妙に変わりました。
これを読んでいる少数の人のなかに、女の子が果たしてどれだけいるか、わかりませんが、私は「性急なダイエット」はやめましょうと、声を大にして言いたいです。まず自分が太りすぎかどうか、ネットででも調べてみて(‘標準体重’で検索かければたくさんでてきます)、もしも太りすぎならば一ヶ月で1s痩せる、というようなペースで計画的にやれば無理がないと思います。私みたいに一週間から十日で1s痩せる、みたいな状況はヤバイですよ、マジで。どこかに無理がきます。
で、体重が落ちたり戻ったりという私の経験から言えることは、ダイエットで「部分痩せ」なんてできない、ということ。痩せるときも太るときも、だいたいが同じような比率ですよ。「太るときはお腹から、痩せるときは胸から」なんて極端なこともないんじゃないかなぁ。私個人の体質なのかもしれませんが。なんか、まんべんなくサイズが変わる感じです。今のウエストをキープして、もっと胸とお尻だけに肉がつけばベストなんだろうけど、人間の身体って、そう都合良くできてないものですね。

あと、湯治のおまけとして、お肌がきれいになりました。
いや、あとから知ったことですが、長年アトピーで悩まされている患者さんの中には、温泉療法を試みている人もいるのだとか。
私には温泉のお湯自体にお肌がきれいになる成分があるのかどうかはわかりませんが、湯治で血行が良くなって新陳代謝のリズムが整うとか、ストレスで乱れたホルモンの働きが正常になる、ということはありそうです。
私は、ここ半年ぐらい、二の腕の内側とか背中とかが部分的にガサガサし始め、よーく見ると「さめ肌」のような状態でした。ボディローションを使っても良くならず、痛くも痒くもないんだけれど、手触りがざらついて気持ち悪いので皮膚科に行ったら、「洗いすぎによる皮膚の乾燥が原因」と診断され、石鹸で身体を洗うときはタオルで擦らず手のひらで、とか、保湿クリームをこまめに塗りましょう、とか言われていたんだけど、なかなか治らず、鬱になってたんですよね。いくら先生の言うように擦らずに洗って、乾燥しないよう保湿クリームを塗ってみても、きれいにならないんだもん。それどころかガサガサの範囲がじわじわ広がって行くみたい。見た目はたいしたことなくても、気分はかなりブルーですよ・・・
その頑固なガサガサが、有馬から帰ってきたら治ってたんです!これは不思議でした。すぐ元の木阿弥になってしまうんじゃないの?と思っていたけれど、今でもその「有馬効果」は続いてます。半身浴をしていたせいか、脚なんか特にツルツルすべすべ。これは思わぬ幸運でしたね。

とにかく、心身の疲労や自律神経の狂いから、体力が落ちたり、なんとなく体調がすぐれない日々が続いている人には、思い切って五日ほど休みをとって、近場の温泉に行ってみることをお勧めします。
劇的な効果がなかったとしても、自然のなかで身体を休めて心も解放してやれば、一日ごとに気力が湧いてくると思いますよ。私も、来月にまた四日ぐらい行くのが今から楽しみです。


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