さよなら夏の日

残暑、厳しいですね。8月なかばよりも、9月に入ってからのほうが暑いみたい。

二週間ほど、イタリア+スロベニア、クロアチアに行ってました。あー、疲れた〜〜
今回の旅行、もとから少し不安はあったんですよ、まだ体調がそんなによくないし。それでなくても、異常な酷暑で死人まででているヨーロッパですよ。ちゃんと、行って帰って来られるかなって。でもまあ、なんとかかんとか生還できました。ほんと、あまり快適な旅行でなくて、むしろ、しんどかったり腹が立ったりしたことのほうが多かった旅ですけど。
そもそもイタリア東北部のトリエステという小さな海沿いの街で学会があり、うちの夫がゲストで呼んでもらったので、「じゃあ、行こうか」という話になったんです。行ったついでにローマとかナポリとか観光しよう、あげく欲を出してスロベニア、クロアチアまで足をのばして来るか、という感じだったわけです。また、旅行の詳細は「まりねこ@International」のコーナーで書くつもりですが、飛行機(アリタリア)が遅れてなかなか飛ばなかったり、デジカメすられて警察に行ったり、空港でトランクが出てこなかったり、タクシー代をぼられまくったり、寒暖の差が大きくて風邪ひいちゃったり、けっこう災難続きの旅でした。夫など、様々なシーンで「もうイタリアなんか二度と来るか!」とぶちキレる始末。まあ、気持ちはわかるんですけどね、私はそこまで思わないですけど。いや、うん、そういう話は、またぼちぼちに。

学会そのものは、とても面白かったです。
海以外、これといって何もない場所だけれど、前に行った湘南の「サティアン」みたいな国際センターより、ずっとずっと開放的でリラックスできるところでした。日本から参加していたメンバーも、みんないい人で良かったです。スロベニアの首都リュブリャーナは別として、トリエステにいるときだけですね、この旅の間でほんとに楽しかったのは。5連泊したので、身体的にも負担がなかったし。
夫はもちろん仕事なので、バタバタしてましたが、私はすっかりリゾートモード、知ってる人の発表がなければ、部屋でごろごろ昼寝したり、ベランダから海を眺めつつ、ぼけーっとCD聴いたりしてました。
いや、知ってる人の発表だからって、別に私が見に行かなくてもいいし、むしろ見に行かないほうがいいと思うんですが、やることがないのと好奇心で会議室に座ってました。いったい何やってるか、見ていても内容なんてゼーンゼンわかんないのにね。だって、GWとかモンテカルロとか、いったい何それ?な世界。国際会議ったって、今回のは内輪でこぢんまり、みたいな感じらしいから、私以外のみなさんは、当然、なにがしかのことは、わかっていらっしゃるわけだけれども。

私にしてみれば、内容がわかんなくても、見知った人の発表はそれなりに面白く見学できるんです。
発表のスタイルとか雰囲気というのは、その人自身の普段のスタイルとか雰囲気とおおかた同じ、というか、ある意味、それ以上にその人のコアな一部がかいま見えますからね。そりゃそうでしょう、一応、みんなそれなりに真剣に考えて用意をしてきてるわけですから。まあ、オシゴトであって、マジな場面なんですよ。皆の視線にさらされてドキドキ緊張したり、思わぬ質問が飛んできて困惑したりもしながらやってるわけです。研究発表=自己表現と見れば、私のような人間観察の好きな部外者にとっても、なかなか興味深いんですよ。ふーん、この人、こういう自己表現するんだ・・・って具合に。
だから、あつかましくも会議室に座って見学させてもらってました。他の研究者の奥様方は、たぶんこんなことしてないと思うんですけどね。ほんと、あつかましいですよね。平然とPCルームにまで入って、夫に割り当てられたパスワードを使って、ネット見たりフリーメールのチェックしたりしてたんですもん。ひー、けっこう「迷惑な奥さん」ですよ、私。でもね、この世界、
「今度の学会にさぁ、あいつ呼ぶ?」
「えーっ、あいつ呼んだら、また奥さんもくっついてくるんじゃねーの?やだよ、ウザイから」
「だよなー、んじゃ、やめとくっかぁ」
みたいなことはないですから。いや、ないと思いますよ。うん、ないと信じてます。ははは・・・

とにかく、学会は面白かったですよ、私にはね。終わるのが寂しく思えたくらい。
しかしあまりにもリラックスしすぎ、食事時などハメを外しすぎたというか喋りすぎちゃったので、今ごろになってちょっと心配になってきました。いや、それでなくても、吹けば飛ぶような私の好イメージというものが・・・あうあう。最後の最後まで崩れ去りそう。もはや風前の灯火。っていうか・・・消えてる?
「はじめっから、そんなもんあるか!」と言われればそれまでですが。
うん、ついついラテン系のノリで「お笑いの大阪人」をやってしまったんですよね。もともと東京人のSさんなんか終始、「いやー、大阪人ですねぇ」って呆れ返ってたし、M君は自分だって同じ大阪人のくせに、「こういうのがすべての大阪人と思われると困るんですよね」。
・・・ああ、大阪を愛するみなさん、ごめんなさいごめんなさい。これでは大阪の女はみんなハイヒールモモコかと思われてしまう。いやぁ、秋に向けて、私もしっとりしたいい女になると誓います。

ま、とにかく夏のメインイベントは終わりました。もうはや9月。
私の心のなかでは、山下達郎の「さよなら夏の日」が回っています。エンドレスでぐるぐると・・・

♪さよなら夏の日 いつまでも忘れないよ
   雨に濡れながら 僕等は大人になって行くよ


ガラスのハート

私が人の美点で最も重視しているのは、「誠実」ということです。
他人に誠実、そして自分自身にも誠実。
とりあえず、そういう姿勢が見える人ならば、多少の好みの違いや価値観のズレがあっても、好ましい人だと思える。
誠実というのは真面目で嘘がない、ということですね。何かを取り繕ったり、隠したりしていない。

もちろん、私自身もそうでありたい。
おおむね、そのように努力しているつもりですが、ときたま必要があって嘘をつくことはありますね。それは、目的あっての嘘。誰かを傷つけないようにつく思いやりの嘘、浅いコミュニケーションを円滑に進めるためにつく軽い嘘、自分が不利益を被らないように慎重につく嘘、などなど。
そういう(自分の立場からみて有用な)目的があって嘘をつくのは、自分に許しています。まあ、「生活の知恵」みたいなもんだろうと。
あと、もしかしたら自分に対して不誠実かも、と自覚している事柄はただひとつだけあるんですが、これは年単位のスパンで、検証・修正するなり、このまま墓場までもっていくなりするつもりなので、それなりに根性据えてかかっている。
けれども、世の中には、もう脊髄反射的に無意味な嘘をつく癖のある人もいて、いったいなんだろうと思ってしまいます。
いや、本人には「自分を実際以上に大きく見せる」とか「失敗を隠蔽する」、「本心を隠す」といった意味や目的があるんだろうけど、何の見通しも考えもなしについた嘘は、たいていすぐに見破られるので、結果として意味がないんですよね。

人間って、言葉のやりとりをしているときも、それ以外の情報を五感で収集しているものでしょ。
誰かと何か真面目な話をする、だけど、どうもその人の言うことが信じられなくて、その場の雰囲気が空疎で薄っぺらなような気がする。別れてから、なんでだろうとよくよく考えてみると、「肝心なところで、自分の目から視線をそらした」とか、「机の下で小刻みに貧乏揺すりをしている脚がチラッと見えた」「大袈裟な相づちをうちながらも、そっと腕時計に目をやって時間を気にしていた」なんていうことを思い出すんですよ。
表情の微細な移り変わり、視線の動き、ほんのわずかにたてた物音、身体全体の向きや動き・・・喋っているときには後回しにしているけれど、ちゃんと見て聞いているし、そこから何かを感じとっているんですよね、人間は。だから、敏感になっていればすぐわかる。あ、何か違う?って。

「自分を大きく見せる」、「失敗を隠蔽する」といった目的で嘘をつかれても、対処に困ることはあんまりないと思うんです。
まあ、誰しも自分を良く見せたいものだから、あー、ハッタリかましてるなこの人、と思っても、好きな相手ならご愛敬だし、嫌いな相手なら本気にせず愛想笑いでやり過ごす。
失敗を隠したいのも皆同じですから、その失敗が見過ごせるようなら聞き流すし、見過ごせないなら相手の嘘を指摘するなり真実を追求して、怒るなりなんなりする。
こういう積極的な感じの嘘には、それなりのリアクション返しやすいですね。
ただ、ちょっと私的にどうしたらいいのか戸惑ってしまうのは、気の小さい人が「自分を隠す」(自分を大きく見せる嘘とはベクトルが違う)ためにつく嘘。こういう人、いいオトナでも、けっこうしょうもないことをいちいち気にして嘘ついたりするんです。もうね、(゚Д゚)ハア?って感じなんだけど、「それ、嘘でしょ。バレバレですよ」とも言えない。だって、一人勝手に傷つくのが見えてるから・・・

もともと私自身がわりとストレートなもんで、なんでそんな細かいことで自分を偽らなきゃいけないのか、心情的にわかるようでわからないんですね。まー、どんなに恥ずかしいぐらい不出来でも、しょせん、自分は自分でしかないじゃないですか。すぐ剥がれるメッキなんて、かけるほうが面倒くさい。こてこて厚化粧した姿より、出来るだけもとの素顔を知ってもらって、「はい、どうぞ」、なんですよ。私の方式は、いつでも。
それで嫌いだと思われたら、しょうがないなと諦めるし、好ましいと思われたら後が気楽だと喜ぶし。たとえちっぽけでささいなことでも、いささかの罪もないようなことでも、ついた嘘を身に巻き付けて、それで人に良く思ってもらっても、ウツになるだけでしょ。
本当の自分を隠すために、つい嘘をついてしまう人には、「もっと自信を持ったら?あなたが思っているほど、誰もがあなたを傷つけるわけじゃない。人を見る目を養って、もう少しオープンマインドにならなきゃ」って言いたくなるんだけど、言えない。だって、一人勝手に傷つくのが見えてるから・・・

うまれもったものがガラスのハートなんだから、しょうがないなと思ってみても、年を取るにつれて魅力なくなりますね、この手の人って。自分だけで都合よく演じてる一人芝居に、他人が入っていく隙がないんですもん。粗野で柔軟な子供同士ならまだしも、オトナ同士の交際では「つまらない」とスルーされるだけ。
自分に踏み込んでもらいたければ、絵に描いたドアじゃなくて、ちゃんと人を招き入れられるドアを心にとりつけないとね。それとも、ずーっと誰にも素顔をわかってもらえず、ひとりのままでいいのかな?傷つきたくないから・・・


沈黙とお喋り

昔、大学の先生が言っていたことなんですが、「アメリカ人はよく喋る。とにかく沈黙が三秒続くと落ち着かなくなって、何でもいいから喋らなくては気が済まなくなるらしい」とのこと。
ほんとかなと思いますが、でも、気持ちはわかる。私も嫌ですよ、沈黙。
相手との関係によりますけどね。

夫や自分の母となら、沈黙が何時間続こうと平気だと思います。お互い一緒にいても、その場で勝手に好きなことやってる。お姑さんや義妹なら、もう少し気を使いますね。でも、有り難いことに、彼女らのほうが私よりもお喋り(^^)
沈黙に耐えられる時間で、心理的距離が測れるかも。いや、距離というより緊張感かな。どんなに距離があっても、その相手との関係なんかどうでもいいと思ってたら、緊張感がないので、お互いに沈黙してたって気にしないし。
一番困るのが、初対面の人で相手がどんな人物なのか、まだわからない場合、あるいは、こちらは好意を持っているんだけど、向こうはどう思っているかわからない、そんな不安定な関係での沈黙。
機嫌良く喋り始めても、ふと訪れる沈黙ってありますよね。やっぱり、自然に耐えられるのは十秒くらいかな。それを超えると、「何か話さなくちゃ、話の糸口を探さなくちゃ」って、勝手に意識がそうなってしまう。まだ気心知れてない人間同士が、お互い沈黙してるっていう状況が、なんとなく居心地悪いんですよね。

誰でもそうだろうと思っていたら、けっこう沈黙が平気な人もいます。男でも女でも。こっちが話さなければ、向こうもじっと黙ってる。いつまでも、じーーっと黙ってる・・・お互い、ちっとも面白くないのに、そこで会話をうち切らせるような一言すらいわない。
「初対面やのに、なんでアンタはそんなに黙ってられるんや!」と呆れたことも。
そんな人といると、沈黙に弱い私ばかりが話のネタを振って、苦労して会話を続けなきゃいけない。相手に悪気がなかったとしても、しまいに疲れますよ、いくらお喋りな私でも。まるで、壁に向かって独り言を延々続けているみたい。不毛じゃないですか。
で、なんか腹が立ってくる。「なんで、対等な立場同士なのに、こっちばかりがあれやこれやとアンタを楽しませようと努力せなあかんねん!アンタ、単にものぐさなだけやないか、相手にぜんぶ丸投げの傲慢もエエカゲンにせえよ!」と。
ああ、つまらなーい、おもしろくなーい、つかれたー、という印象だけが残ります。
黙ってる人って、聞き上手とはぜんぜん違うんですよ。聞き上手な人は、自分から積極的に話題を提供しなくても、相手の話を拡げていける人です。「それからどうしたの?」「へえ、よかったね」「で、その人はどうなったんですか?」などと、合いの手を入れて、自分も楽しんでいる(or ように見せかける)。

ふと訪れた沈黙に焦ることもなくなって、黙ったまま隣にいるのも自然、そんなふうになったら、人間関係はそれだけ成熟。
私はせっかちだから、早くそこまで距離を縮めたくて、ほんの十秒の沈黙が耐えられないわけだけど、あえて沈黙を守っているように見える人って、何考えてるのかな?
きっと、他人と会話することそのものが苦手な人もいるんだと思う。
私が感じている以上に、喋るとき緊張してしまう人もいるんだと思う。
うちの弟も、無口で自分から話題を提供したりしないタイプなので、いつも義妹といったい何を話しているんだろうと思います。たぶん、義妹がお喋りさんだから、つられて喋っているんだろうけど。
そう言えば、むかーし、弟に「どんな女の子が好み?」と訊いたとき、「明るくて活発なタイプ」と答えたので、ふうん、意外だなぁと思ったことがありました。てっきり、弟自身のように「控えめで、大人しいタイプ」が、お互いにリラックスできるんじゃないかと思い込んでいたので。で、そう言うと、「それやったら、どっちも喋らんし、会話が成り立たんからつまらん。食事ひとつするのでも、『あなたの好きなものでいいです・・・』とか言われたら、気を使うし面倒」だと。他人とコミュニケートするのが苦手だと自分でわかっているので、その点は相手にリードして欲しいということなんです。へええ、そんなもんか、と思いました。

うちの夫は正反対の、チョーお喋り。ときには、人の話の腰を折りまくってでも、ベラベラベラベラと延々、自分の言いたいことを喋り続けます。そうなったら、力尽くでとめないと、とまりません。ほとんどビョーキ。
私も同じように、「言いたいことはたくさんある」タイプなので、彼がなんで私を選んだのかわかりません。あれだけベラベラ喋りたいんなら、もっと大人しくて、聞き上手な女性を選べばよかったのに。でも、夫は、いわゆる「しとやかな大和撫子タイプ」はなぜか嫌いなんですよね(好きだと言っても、先方が逃げていくでしょうけど)。そのせいでしょうか。なんか、私、自分が結婚してから「ガサツな女」になったような気がするんです。でもそれ、夫の影響だと思いますよ(キッパリ)。これでも昔は、私にも、もう少し「慎み」ってもんがあったんですよ。でも、ああいう夫に対して「慎み」なんかもってたら、やっていけませんから。それでこんな厚かましくなったんだと思います。ええ、信じてもらえなくても結構ですけどねっ。え?何です?「そりゃ、年のせい」、ですって?・・・ほっとけや、(#゚Д゚)ゴルァ!
はっ。あわあわ、私としたことが(;^_^A アセアセ・・・
とにかく、そう、とにかくですね(締めなければ、話をきちんと締めくくらなければ)、要するに、意味のない沈黙も、滝のようなお喋りも、どっちもヤダってことですっ!ハァハァ・・・


このところ、眠りにつくのが楽しみなんです。なぜって、夢が充実してるからです。
面白かったり、嬉しかったり、けっこう頻繁に「気持ちのいい夢」を見ます。目覚めたことが悔やまれるぐらいに。いい夢を見ているときは、もう一度寝直して続きを見たいとか思いますが、なかなかそんなことはできませんね。だから、そんな朝は、お布団のなかで目を閉じたまま、何度も夢で見た場面を反芻して楽しみ尽くしてから、ゆっくり起きます。

いい夢でも悪い夢でも、これまで正夢になったなんてことはないです。夢は夢。現実じゃない。でも、とくに印象的な夢のなかで味わう感情は、妙に生々しくリアリティがあって、目覚めた後でもはっきり残ってますね。
たとえば、夢のなかで、喧嘩をしてすごく悔しいとか、悲しいことがあって大泣きしているとかいう場合は、その心の激しい動揺で目覚めてしまうことが多いですけど、実際に涙でてるときありますよ。それとか、もう疎遠になってしまっている人と再会できて、しかも、お互いに昔よりずっと親密になれた、なんていう夢を見たら、その幸せ気分のまま、ぽっかり目が覚めます。で、いつもの部屋のいつもの天井を見つめながらだんだんに気づく、あ、これ夢だったんだなって。幸せ気分が、ちょっとせつない気持ちに変わる。

睡眠がどういう役割を果たしているか、なぜ夢を見るのか、詳しいことはまだわかっていないようです。でも、夢は現実にできないことの代償、という面があることは確かだと思いますね。私の経験に照らし合わせて。
飛べない空を飛ぶ、会えない人に会う、過去の諍いを水に流して和解する、言えない気持ちを口に出す・・・実際には叶わない願いが、夢のなかではたやすく成就する。
ありえないとわかっていることだからこそ、夢のなかだけでほんとうになる。
風をきって、さぁーっと浮かびあがる感じも、久しぶりに会えた喜びも、和解のあとの照れくささも、握りしめた手の感触も、みんなみんな生々しい。実体験と言ってもいいほど、そのときだけは生々しい。
目覚めたその瞬間から、はかなく薄れ始めるとしても。

急速にぼんやりしていく夢のリアリティを再び呼び寄せようと焦がれるたび、かえって、これは夢なのだ、現実ではないのだと意識させられます。そして、今の自分が置かれている状況、今の自分の願望について、しばらく考えをめぐらせる。甘いお菓子を食べたあとのお茶が、より渋く感じられるように、遠く届かぬ理想を仮体験してしまったあとに見つめる足元は、あまりにも頼りなくて、すぐにでもひび割れてしまいそう。乾いてざらついた表面を踏みしめている足裏が、嘘と怠慢でチクチクうずきます。
そのチクチクにとりあえず蝋を塗って、つるりとコーティングして、昼の日差しに溶けないよう日陰を選んで歩く、夜が来るまで。また新しい眠りの世界に入るまで。優しい夢がその痛みを癒してくれるまで・・・

「いい夢」を頻繁に見ているときは、たいてい実生活が退屈だったりつまらないときですよね。
エキサイティングな非日常を送っているとき、たとえば旅行中なんかは、あまり夢など見ないでしょ。
わくわくするようなチャレンジをしているとき、ドキドキするようなパッションを何か(誰か)にまっすぐぶつけているとき、きっとその現実を上回るほど楽しい夢なんか見ないんですよ。
ということは?
いいかげん私も、この退廃的かつ非生産的な生活態度を改めなきゃ、ということかもね。ふぅ・・・


同人不向き?

この前、うちの母と買い物に出かけて、ついでに昼食も一緒に食べたんです。
そしたら、母がいつものように、「もっと食べんとあかんよ、あんた、痩せすぎ。食べられないんだったら、病院の先生に言って、点滴で栄養入れてもらうとかしたらどう」って。
あのー、点滴なんてねぇ、最後の手段でしょ。人間、口で食べられなくなったら終わりですよ。それに、言うほど深刻でもないし。母にしてみれば、私がいっこうに太らないのを見ているから、イライラしてそんなことを口走ったんだと思いますが。
で、続けて、「やっぱり、あれが悪かったと思うよ、あの本が」と。
あの本とは、文学学校の人たちと作った同人誌のこと。
「あれやりだしてから、また調子悪くなってきたやん、やっぱりストレスかかってんねんよ」と。

確かにそう。だから、今年度はもうできるだけ関わらないことにしました。一応、同人としての籍は置いているけれど、作品は出さない。連絡では9月末までが〆切でした。今月もうすぐ合評あるんですが、行かないつもりなので、私のところに送られてきた他の人の作品は、パラパラっと見ましたが読んでないです。何も批評するつもりないし。それなりの感想を言うとなると、読み込まないといけないから疲れるんです。チラッと見た限り、エッと目をむくような変わった作品とか、さらっと楽しく笑える作品もなさそうだし、今のところ放置状態。
そう言うと、またうちの母いわく、「そうしとき、もうやめとき。あんたは、ああいう集団で何かするとかに向いてないねん。上から頭押さえつけられたら、もうストレスたまってあかんタイプやから。そういうところ、お父さんとそっくり。お父さんは男やし、我慢せんと喧嘩になって結局飛び出すけど、あんたはなぁ・・・そこまで根性ないし、ひ弱いからすぐ身体にくる」と。
さすが実の母、よく見てますねえ。

アメリカから帰ってきたときは、ずいぶん調子よくなってて、このまま治るのかなと思っていたけれど、文学学校の二年目すぎたあたりから、つまり、去年、同人誌だなんだって、あの世界に深入りしていったときから、体調が徐々に悪化、今年の春からついに休学・・・という流れを振り返ると、やっぱりストレスかかってたんだなぁ。けどねぇ、生きてるうちに何かしようと思ったら、完全にストレスフリーな環境なんてありえないでしょ。とんとん拍子にシンデレラストーリーを歩いているように見える人でも、なにがしかのストレスは感じているものだと思います。
だから、今までやってきたことは、後悔してないし、自分の為になったと思ってます。にしても、同人誌はちょっと覚悟が足りなかったかもしれない(~_~;) フリーな立場を確保していたほうがよかったかも。文字通り身体を削ってでもやるべきことだったのかどうか?
ある組織に取り込まれても、それが心からくつろげる場所だったり、みんながそれぞれに同じ地平に立っていて、何でもオープンにできる雰囲気の集まりならまだしも、ちょっと旧式な徒弟制度的に始まっていて、性格的にそういうのに馴染めない私は、知らず知らず無理していたのかな・・・
今はとりあえず休むと宣言してますが、これからどうするかなー、といったところです。

もちろん、書きたいことを書くのはやめない。それはずーっとライフワーク(?)として、たとえ商業出版に縁がなくても、ある程度ずっと書いてみて、いつか自分自身が「私に書けるのは、これが限界」と思える作品ができたら、お金出して出版してもいいかな、と。
自費出版なんて、あまりお勧めできない手段だけれど、年を取ると自分の生きた証みたいなのが欲しくなるかもしれない。激しく自己満足だけど、それでもいいやって気持ちになるかもしれない。誰に迷惑かけることでなし、そうなったらそれもいいじゃないかと思います。
どうせ、たくさんある現代の同人誌だってみんなそれぞれに自己満足なのは同じじゃない?
商業ベースにのらない作品ばかりだから、自分たちでお金出しあってやっている、いわば合同自費出版。でもね、実際に同人誌やってみて思ったんですが、同じ自己満足なら楽しくなきゃ。自分の本当に書きたいことが思うように書けなくて、それでストレスたまるんなら、わざわざお金出す価値ない。まあ、仕事じゃなくて、趣味のレベルなんだったら、好きにすればいいと思うんですね。こうやってホームページつくって自己表現の場にすることと、自己満足の度合いがどう違うのかと疑問に思います。ホームページのほうが、ずっと安上がりだし、第一、下手でも何でも自分の思ったようにつくっていける自由がある。真面目にレベルアップを考えたら、人に批評してもらうことは必要なのは確かだけれど、つきあいが長くなって、この人はこう思うだろうな、というのが見えてきちゃったら、それもだんだん意味なくなってきますよね。

星の数ほどある同人誌から、商業誌へ移行できる人材なんてごくまれにしかでないし、移行できる人は、そもそもが同人誌なんかやらなくても移行できるんだと思う。自己満足の手段ならば、自分がめっちゃ楽しいと思えない限り、同人誌参加に固執する意味が、ちょっと見いだせなくなってきました。


線路

うちの甥っ子、もうすぐ三歳になりますが、以前から電車大好きなんですよ。
何かで遊ぶといえば、おもちゃの電車。よくあるでしょ、線路を組み立てて電池で走らせるやつです。たまに幼児向け絵本を見せてやっても、真っ先に見るのは電車のページ。このごろでは、足もしっかりして大人並に歩けるようになってきたので、わざわざこの甥っ子の希望で電車に乗りに行くんです、みんなで。みんな、といっても義妹とうちの両親、それから甥っ子の弟(まだ一歳半)というメンバー。
とにかく電車に乗っているとご機嫌。おチビはおチビなりに、いろいろ知っていて、「パンタグラフ」なんて言葉も覚えました。両手の指を組み合わせて、ちゃんと菱形のパンタグラフのカタチを真似るんですよ。面白い奴です。
で、この前は一度、短い私鉄路線に乗り換えて、終点まで行ったそうです。そうしたら、甥っ子がひどく驚いて、「線路がなくなった」「線路が終わりになった」と大騒ぎ。それまで、終点の駅を見たことなかったんですね。
とても印象に残ったようで、それから引き返して、ご飯を食べに行っても、まだ、
「線路が終わりになった」
「線路がなくなったなぁ」
と、食べている間中、ずっと言っていたそうです。

この話を実家の母から聞いたんですが、まだ三歳に満たない子にとっては、世界じゅう見るものすべて驚きと発見の連続なんだなぁと、微笑ましく思うと同時に、なんとなくシーンと考えさせられました。
いや、すごく象徴的に思えたんですよね。「線路が終わりになってなくなった」というのが。
電車が大好きな三歳児にとって、いつもいつもずっと続いていた線路が途切れてなくなってしまっているのを見た驚きって、たとえば私が中学時代の友達から、「同級生だった○○さん、病気で亡くなったらしいよ」とか言われるのと同じくらいのショックだったんじゃないかな、と。当然のようにずっと続いていると思っていたものが、実はそうではないんだ、途切れることがあるんだ、ちょうどふいに立ち現れた終着駅の線路みたいに・・・
で、考えてみると、たぶん、子供だけじゃなくて、生きるうえで味わう驚きとか発見というのは、どの年代でも、いくつになっても、きっとあるんだろうなって。それが、大人になるにつれ、だんだんに質が変わっていって、より抽象的になったり複雑になったりするにしても。

もう私は、終点の駅で線路が途切れていても、当たり前だと驚かない。
高校で学年一の美人だったクラスメイトが、所帯じみたオバサンになっていてもさほど驚かない。
昔の教え子のひとりが刑務所に入っていると聞かされても、ありえることだと思うかもしれない。
プリズムが光を分解するからって、虫眼鏡が光を集めるからって、不思議だなぁと感動することもない。
だけど、やっぱり、何かしら変わっていくこの世界のなかに、驚きや発見の種はまだ眠っているような気がします。
それも、たくさんね。
ぜんぶが楽しいことじゃないし、ぜんぶが嬉しいことじゃないんでしょう。
むしろ、つらかったり、どうしようもなかったり、割り切れなかったり、惨めだったりすることが多いんだろうと。
それでも、やっぱり、心躍るような驚きや、魅入られるような発見が、まだ私にピックアップされることなく、私の歩いていく路上にばらまかれているのだと思います。
いや、そう信じます、かな。
うん・・・そう信じたい、が正しいかもしれない・・・


残酷な真実

この夏イタリアですられたデジカメに保険金がおりたので、最近になって新しいデジカメ買いました。
機種は、MINOLTA DiMAGE-X20です。いま、これけっこう人気あるみたい。ちっちゃくて、軽くて、気軽に持ち運べて、どこでもメモがわりにバシャパシャ撮れそう。いろいろついてる機能も便利でいいです。これからデジカメ買おうかなと思ってる人には、絶対お勧め。
で、これ、短いけれど音声つきで動画も撮れるんですよ。さすがにほんとのビデオみたいにはきれいに撮れないですけど、これまたちょっとしたメモみたいに使えますね。
そういえば、うちにはビデオないんですよ。たぶん、子供いないからだと思いますが。子供いたら、成長の記録のためにって、きっとビデオ買ってると思う。まー、でも、夫や自分の動いてる姿なんて、わざわざ録画して見たいとも思わないし、買う気ゼロだったんです。だもんで、このデジカメについてる録画機能を使って、テレビで再生してみたら、ああびっくり。

私って、こんなん!?

きゃー、はずかしぃぃぃ〜〜〜!!
ええっ?改めてよく見たら、私ってこんな表情で、こんな声で、こんな喋り方してんの?ええっ?

イヤァァ〜〜〜〜ッッ!!(画家ムンクの「叫び」のポーズで)

はぁはぁ・・・
こんなんで堂々と外歩いてたんか、私は。いまさら知らんほうがよかった・・・
マジでいやになりました。

うーん、今までも、私はわりと自分を客観視できてるつもりでしたよ。
そう、夫がよく私のことを「おまえって、かわいいなぁ〜」と言うので、この人の美意識、ちょっと壊れてるんじゃないかと思ったりしてましたが、ちょっとどころじゃないやん!!だいぶ壊れてるやん!!
可愛いとか綺麗とかいうのは、仲間由紀恵とか高島礼子に対して言うべき言葉とちゃうんかいな。
まあ、「おまえってブサイクやなぁ」と言われるよりはずっとマシですけどね。
でも、真実を知った今では虚しい・・・

こんなこと書くと、なんや、ほんまは客観視できてなかったんと違うんか、脳内自分はどんな姿やったんや、ということになりそうですが、ほら、鏡だってあるし、写真だってあるし、わりと客観視できてたと思いますよ。ほんとに。
でも、音声つき動画というのは・・・厳しかったですね。慣れてないだけに。
なにが一番恥ずかしいかって、まあ、持って生まれた顔や声はもう仕方ないとしても、表情ですね、表情。
昔は、よく、「あんたって、ほんとに悩みのなさそうな子やなぁ」とか、「笑ってるときは、いつも本気で笑ってるよなぁ」とか言われてましたが、それは学生時代のこと。明るいことは悪くないじゃないかと思って、いいように解釈してましたが(私も根はポジティヴ・シンキング)・・・この歳になって、なんやこれはぁ!!!

明るいのは明るいでええけど、単細胞っていうか、いっこも複雑さが感じられん笑顔やないの。
今になって、昔の言葉がよみがえり、彼らが何を言わんとしていたのかわかった次第。
私だって、私だって・・・これまで人並みに、いろいろと辛い思いをしたり悩んだりして、人間的に成長したと信じてたのに、それやのに、ココロの繊細さっていうか、歳相応の精神的な深みっていうか、そういうのがぜんぜん表情に現れてないやないの。
いやー、愕然としましたね。なんでやねん?!って・・・
そうそう、夫が、よく、「かわいいなぁ」と言ってくれると上に書きましたよね、そのあとに続くセリフがあるんですよ、実は。

「麦わら帽子と虫取り網が似合うで、あんたには♪」
「・・・」

おまえもなッ!!

常々、夫を見ながら、「この人、歳のわりには若いっていうか、浮世離れしてるっていうか、まぁ、はっきり言えば、『苦労が身についてない顔』してるよなぁ」と思ってたんですよね。んー、もっと正確に言えば、「アホと違う?」とゆーか。
私だけは違うと思ってたのに。私だけは・・・

真実って、どうしていつもこんなに残酷なの?ねぇ、どうして?・゚・(ノд`)・゚・。


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