グラビア評論家

私はどんな雑誌もまず買わないヒトですが、夫はちょくちょく雑誌を買ってきます。いま、新聞をとってない(ニュースはネットとTVから)ので、その埋め合わせという意味もあるかも知れません。
それは、文春・新潮・ポスト・現代のどれかなんですが、私は結婚するまでそういう雑誌の中身をほとんど見たことありませんでした。私の脳内では、それらが属するカテゴリは「おっさん雑誌」ということで、関心もなかったですし。
実家にも、そういう雑誌が置いてあるのを見たことがありません。(そういえば母も、女性雑誌など一切買わないヒトでした)なので、本当に知らなかったのです。父が雑誌を読まなかった、というわけではなかったと思います。きっと喫茶店に行ったとき、コーヒー飲みながら読んだりしてたんじゃないかな。(母は母で、美容院などでは読んでいたかもしれません)
でも、買わなかったのは、たぶん、ああいう雑誌を家の中に置いて、子供たちの目に触れさせるのはいかがなものか、という教育的配慮だったんだと思います。いやぁ〜、真面目な記事もありますが、興味本位のお下品ネタも多いですからね。私にもし子供があったら、夫にも同じように「外で読んできてよ。家の中に持ち込まないで」と言うと思います。

雑誌=低俗、という教育方針の家庭で育った私には、雑誌類が家の中にあること自体に違和感を覚えます。パソコンなどの専門誌や洒落たファッション誌ならともかく、文春・新潮・ポスト・現代、ですよ?
その中でも文春・新潮はマシ。表紙が絵だから。リビングの机に積んであっても、まだ視覚的に許せる。でも、ポスト・現代は、あの「いかにも」な表紙が許せません。夫は気づいていないと思うけれど、リビングにあると、私はそれらを必ず裏向けにするか、文春・新潮の下に置くようにしています。
もー、あの表紙から強烈な「おっさん臭」が漂ってきて、激しくイヤーンなんですよね。嫌でも目に付くあの表紙がそこにあると、まるでそれを置いている机までが、ひいてはこのリビング全体までが、なんだか知性・品性の欠片もないような感じに見えてしまいます。部屋の空気までが「下卑たおっさん」臭くなって、ここで生きてるのがだんだん虚しくなる、それぐらい恐るべき破壊力を有していますよ、あの表紙は。

夫の影響で、中身も読んでみたりするんですが、まあ、特に目玉の記事以外は、ざっと目を通すだけです。それでも、男、しかも中年男の生態について、多くのことがわかったように思います。
何に悩んでいるか、何に関心を示すか、どれだけアホなことで笑い、どれだけ俗物か・・・
私が非常に興味深い企画だと思うのは、ポストや現代についている「袋とじ」。
なんじゃコリャ?ですよ。
私にしてみれば、
「子供向けの本の付録じゃあるまいし、いちいちハサミで切り取って下さい、なんて、読者を馬鹿にしてんの?」
と感じるのですが、夫はわりと喜々として、それを丁寧にハサミで切り開いていたりするんです。手元が狂って少し切り損なってしまったら、うわっ、こんなんなってもた、とか小さくつぶやきながら。
袋とじの中はというと、ハダカですね。もしくは、それに限りなく近い格好の女性のグラビア。
夫に、「あんた、わざわざハサミまで持ってきて、こんなもんがそんなに楽しい?」と訊くと、
「べっつにぃ。楽しいとか楽しくないとかじゃない。そこに袋とじがあるから切るんや
「(゚Д゚)ハア? でも、端から見てたらすごく嬉しそうに切ってるけど」
「そんなことないがな。もー、しゃあないなぁ、と思いながら切ってんねん」
「フーン。でもさ、べつにそこまでして見たくないんやったら、ほっとけば?」
ほっとかれへんやろ。人間として

わけわかりません。
それで、私も一緒にグラビアを見ます。すると、まあまあ面白い。というのは私自身、女性のハダカなんてまじまじと見たことないからです。女同士で温泉旅行とかしたことないし。
女のハダカといえば、お風呂あがりに自分のを鏡で見るくらいです。だから、グラビアを見て、世の中には、いろんなハダカがあって、きれいなハダカもあれば、ゲテモノのハダカもある、ということがよくわかりました。もうすでに、私は我が家ではいっぱしの(にわか)グラビア評論家です。
女には女ならではのリアルでシビアな鑑賞の仕方があるのです。
「この人、胸がえらい垂れてるなぁ。これでほんとに二十五才?サバ読んでない?」
「いやー、小デブやね。なになに、88-58-87?嘘つけ、85-65-90ってとこやろ、せいぜい」
「熟女ヌード?まあいけてるほうやけど、手の甲と足のカカトに年齢がでてるよなぁ。隠せばいいのに」
みたいな感じ。
そうです。女は女に厳しいものなのです。それに、しょせんグラビアのハダカは、値をつけられてナンボの売り物でしょ?
世間一般のおっさんと私の評価ポイントがずれているのでしょうね、私にはなんで巨乳がそんなに有り難がられるのかさっぱり理解不能。きれいかそうでないかという観点から見れば、Cカップぐらいが一番でしょう。それ以上になると、びろーんと垂れている人が多く、見るに耐えません。だいたい、造形的におかしいでしょ、バストのほうがヒップより大きいってのは。なんか、趣味の悪いフリーク・ショウを見ているみたいです。

いろんなハダカを見たおかげで、自分のハダカも客観的に見られるようになりましたよ。
うわー、こんなハダカですら商品価値があると考える男がいるんだから、私もそれほど悪くないんじゃない?とかね。
ああ、いっときますけど、私はちょっと痩せましたから、胸もお尻もあまりないんです。おまけにチビだし。
いい歳こいて、ロリ体型ですが、何か?
いま、測ってみましたら、T153−38Kg,77-58-79ぐらいですね。しばしば変動があるので、細かい数字には意味ないです。
うーん。これでグラビアを撮ってもらったら、プロフィールの欄では、80-56-78ってな感じに修正されるんじゃないかな。そんなもんですよね、公称サイズなんて。
昔、家庭科の裁縫の時間に、メジャーでサイズを測るときは身体に余分な力を入れないで姿勢を正しましょう、とかなんとか習いましたが、おっさん雑誌のグラビアは、どの人のウエストもたいてい判で押したように、公称58か60。あのさぁ、どうでもいいけど、身長160でウエスト58だったら、もっとガリ痩せのはずだって。メジャーで測るとき、おもいっきりお腹ひっこめてない?

私は、いま、もう少しふくよかな感じになりたいですね。だって、年齢から考えて、少しぐらいふっくらしているほうが、「艶がある」ような気がします。オーバーオール着て野球帽かぶったら、後ろ姿が12,3の男の子みたいに見えるって、やっぱヘン!
むかーし、十代の頃は、中性的な体型に憧れてましたが、今になってそんなのヤダ。あの頃は、もっとぽっちゃり(デブではないけれど)していたので、漠然と「痩せたいなぁ」と思っていて、年を取って結婚なんかしたら、自分は典型的な中年太りをするものだと予想していましたが、今のところ、そうなりそうにはない。なんか、逆に痩せちゃいましたね。お腹なんか全然でてないですよ。そもそもが身体的な不調のせいだから、よくないことなんですが。まあでも、そのおかげ(?)でオバサン体型になるのは免れているという・・・なかなかどうして、人生とは先が読み切れないものです。

え?男のハダカですか?
見たくないですねぇ〜、まじで。男の身体なんて、造形的に見て、あまり美しいと思わないし、ほら、何度も言ってますが、私はスーツ・制服フェチですから。
男は顔と首と手以外、見せないのが望ましい。見せないからこそ、セクシーなんですよ。
普段、顔と首と手しか見せてない人が、「ふう、暑いなぁ」とかつぶやいて上着を脱ぎ、何気なくネクタイを緩めるその仕草にドキッとするのが粋というもの。腕まくりとかされたら、ドキッが二乗ですね。
何のつもりか知りませんが、夏になるとノースリーブで短パンはいてる若者。どういう勘違いだか知らないけど、ハダカのうえに直にジャケットなんか着て、胸板チラ見せで踊るジャニタレ。もう、( ´,_ゝ`) プッ です。自分のこと差し置いて言うのもなんだけど、男っていうより、子供って感じ。

え?うちの夫ですか?
あー、もうあのヒト、男捨ててますから。関係ないですね、ハイ。


『アルジャーノンに花束を』〜思索編1

前に「アルジャーノンに花束を」を読んで、号泣編を書きましたが、あれからぼちぼち考えてました。
なぜ、自分はあの話に動揺したのか?と。
考え出すと重くなるので、予告してしまった「思索編」を書きたいような書きたくないようなですが、書くことによって気持ちが整理されることもあるので意を決して始めます。
そうですね。私が考え込まされてしまったのは、主に二点。
ひとつは、人間の尊厳、自尊心とはいかなるものか?ということ。
ふたつめは、自己実現について。

うーん。ああいう内容の話を書くのは難しいと思うんですよね。障害者、ことに知的障害者に対する偏見だとか、また盲目的な同情だとか、いろいろありますから。
様々な背景を持つだろう読者の感情を、ややこしく刺激しないように、ストーリーや描写には細やかな気配りがされていると思います。それがとても巧みなのは、作者が心理学を専攻していた人だからかもしれないし、その後の教員生活から学んだことがあるからかもしれません。才能とか人間性、というものかもしれない。私がもっともそのへんに関して感心させられたところは、手術でIQが高くなったチャーリイが「ウォレン養護学校」を見学に行くくだりですね。

ごく表面的な理解でこの本を読んでしまうと、人間の価値や魅力とは、その知にあるのではなく情にあるのだ、という価値観を、全体を通じてのメッセージとして強く受け取ってしまうと思うんですよ。なんか、すごく変な例で申し訳ないですが、それって「男が伴侶として選ぶべきなのは、つんけんした美人より、優しく思いやりのあるブスだよね」みたいな。
いや、そのメッセージは一面、真実かもしれないので、それはそれでいいのですが、個人や社会の本音や本能というのはもっと複雑。きれいな神話をつくっておいたら、これで安心、とはいかないわけです。
それに、それだけの話だったら、私も動じなかったでしょうし、かえって、「ケッ」と思っていたかも。
だけど、私のように「いまさら毒にも薬にもならんメッセージを貼りつけたビューティフル・ストーリーなんか、退屈なんだよ」という読者をも、物語のリアリティに引き込んでいく存在が、「ウォレン養護学校」なんです。

この施設は初めから、「嫌なもの」「忌避すべきもの」として登場してきます。蔑視の対象であったり、ある種、恐れの対象であったり。
精神遅滞である主人公のチャーリイは、実の親から無理矢理にそこへ入所させられそうになったものの、人情に厚く面倒見の良いパン屋の伯父によって連れ戻され、パン屋で簡単な下働きをしながら生計を立てていました。「ウォレン養護学校」へチャーリイを入れることについては、親にも凄い葛藤があったし、伯父は憤慨していました。そういうものとして、「ウォレン養護学校」は印象づけられています。
そして、一般の人々から様々に思われているその施設の実態が、IQの高くなったチャーリイ自身が目で見るというかたちで、読者にもつまびらかにされていく。
ここの部分を下手に書くと、読者に反感や違和感を覚えさせてしまうところですが、作者は実に過不足なく、やりすぎや物足りなさを感じさせることなく、真摯に書いていますね。そのことによって、人間の尊厳とは何なのだろう、と問いかけられている気分になる。

自分で自分の下の始末もできず、終始、誰かの手を借りていなければ生きていられない、しかも、そのことを自覚すらできない知的障害をもつ人間。この人たちの「人としての尊厳」をどう考えたら良いのでしょうか。正直、私にはわかりません。
私の住む街にも、そういう人たちのための施設があります。そんなに大きいものではなく、通いですから、そこに来ている人たちは、「ウォレン養護学校」で描かれている重度な知的障害の人たちより、ずっと軽度な知的障害者です。ごくたまに、彼らの集団を駅で見かけたりしますし、買い物しているスーパーで見かけたこともあります。
スーパーで一団に出くわしたときには、はっきりいってびっくりしました。もちろん、引率の先生(?)がついているのですが、一人一人の行動を見ているわけではないので、彼らが広い店内を大声ではしゃぎながら歩き回っているのです。

お話のなかでは、精神遅滞ゆえに、チャーリイがからかわれたり、意地悪をされる場面が何度も出てきますが、実際に大人の身体で幼児並みの知能しか持っていない人を間近で見ると、「からかう」とか「意地悪する」気持ちは、私には起きません。かえって、(特にそれが男性だったりすると)なんとなく怖いと感じます。繁華街などで酔っぱらいがいると、絡まれるのを防ぐために目を合わせないようにするのと同じで、とにかく関わらないようにしようという気持ちが起こります。自己保存本能ですね。
危険なものだと認知して、避けようとする・・・
失礼?差別?わかりません。とにかく、ほんとのとこ、私はそういうふうに感じます。
悪気があろうがなかろうが、幼児というのは、ときに、大人には想像もつかないようなことをやったりしますよね。うちの二歳の甥っ子は、自分の機嫌が悪いときなど、頭をなでようと手を出せば、その手をつかんでガブリと噛みついたりします。べつに本人に悪気はないんですよね。ただ眠いとかお腹が空いたとかで、機嫌が悪いだけ。だけど、幼児でも、思いっきり噛まれると痛いですよ。
私が知的障害をもつ大人に対して、怖さを感じるのは、自分より強い腕力を持った幼児、というのを想像するからでしょうね。障害者が無力な子供だと、わざわざ避けたいとか感じたりしませんもの。

本当は、知的障害者は何も危険ではなくて、チャーリイのような愛すべき無邪気さをもった人たちなのかもしれません。あるいは障害があろうとなかろうと、個々の性質によって、いろんな人がいるということかもしれません。もっと勉強するべきなのでしょうが、身近にそういう障害をもった人がいないと、とりたてて関心も持てなくなります。なぜ知的障害者が街なかであまり見かけられないかというと、そういう人たちは「ウォレン養護学校」のような施設で、一般の生活とは隔離された暮らし方をしているからでしょう。
それが、いいのか悪いのか?

チャーリイは初め、ときどきイジメにも遭いながら、それでも本人としてはおおむね機嫌良く、伯父のパン屋で下働きをしていました。皆にからかわれたりしても、自分のことが好きだから皆がかまってくれるのだと信じていました。その後、手術をうけて知的能力がめざましく発達した彼は、それまで周囲がしてきた彼への接し方に猜疑の目を向け、他者に対してひどく批判的になっていきます。
同一人物が、時間的推移のなかで、「頭は人よりとろいが優しく向上心のある愛すべき青年」から「並はずれて知的ではあるがプライドが肥大した可愛げのない青年」へと変化し、この二つの青年像の対立は、最後まで続いていくのです。

物語を読めば、作者が前者に肩入れしていて、まさに作者の言いたいことは、この対立の構図中から引きだされた次のようなセリフ、「高い知性も豊かな情に裏打ちされないと、それだけでは意味がない」ということのように見えますが、私は単純に、そうかな?と首を傾げざるを得ないです。それはそれとしてもっともだけれど、それを言うならその逆もまた真なり、と思うんですよね。
「豊かな情も、高い知性に裏打ちされないと、それだけでは意味がない」と。
問題は、二者択一でなく、バランスの取り方だと思うんです。
ひょっとしたら、作者もそう思っていたのかもしれませんが、知的障害者を主人公に据えてしまった以上、「豊かな情も、高い知性に裏打ちされないと、それだけでは意味がない」などとハッキリ主張することは、ちょっと出来にくいと推察されます。ですから、話の流れで強調すべき部分などは、このように構成するしかなかったのですが、それでも、「ウォレン養護学校」のリアル感あふれる描写、そして、最後にチャーリイに自らそこへ行く決断をさせることで、知と情、二項対立のバランスをとっているように思えます。

要するに、最後は元のような精神遅滞者になり、パン屋に戻ってまた皆に温かく迎えられた、それでハッピーエンド、「異世界を経験してみて、ほんとうに大切なことが何かわかったね」的な結末でもよかったはずなんです。
が、チャーリイはそうしない。「みんなから可哀想と思われたくない」ので、誰も自分のことを知る者のない「ウォレン養護学校」へ行く決意をする。これは、いったん高められた知性によって獲得された人間としてのプライド(「知」によって強められた「意」?)を、彼が最後まで手放さない、ということなのではないかと。彼が、彼なりの自尊心をもって、「自分自身の人としての尊厳」を守り通そうとした結果、彼は「ウォレン養護学校」へ、「自ら」入所しに行くのではないかと。そう思うんですよね。「自分のことを可哀想だと思わないでくれ」と言い残しながら・・・
作者は、決して手放しで「頭は人よりとろいが優しく向上心のある愛すべき青年」であった過去のチャーリイを礼賛しているわけではないのです。そうであってこそ、表面をそっとなでるだけではない、知的障害者の現実に対する作者の深い洞察を見ることが出来ます。それが、読む者の心を揺さぶるわけです。

※長くなるので次回につづきます


『アルジャーノンに花束を』〜思索編2

※前回からのつづきです。

さて、人間の自尊心と尊厳については、深く考えさせられただけで済みましたが、私がこのストーリーに最大のsoft-spotを突かれたなと思ったのは、自己実現に関して。これが号泣の主たる原因になってますね、私個人の場合ですが。

まえがきのなかで、ダニエル・キイスが、「いろんな人が、この本を読みながらチャーリイ・ゴードンと自分を重ね合わせて見ていることは驚きだ」というようなことを書いています。
ある人は、物語最初のほうで薄のろと馬鹿にされているチャーリイに、イジメにあっている自分を重ね合わせる。また、ある人は、老いのために能力が衰えていく自分の姿を、物語ラスト近くのチャーリイに見いだす。それぞれに、共感するポイントは違うとしても、脳の手術を経て変化していく様々なチャーリイの在り方は多彩で、それゆえに幅広い読者が自分を投影してみることができるようになっています。
私が「自分もチャーリイなんだ」と強く感じたのは、全体を通して痛いほど迫ってくる彼の自己実現への欲求に共感したからです。

自己実現とは、一言でいえば「なりたい自分になること」。
彼は、いつも、「賢くなりたい、いろんなことが、もっと上手くできるようになりたい」と思っています。でも、それができない。伯父のパン屋で働きながらも、パン生地をちぎってロール状に丸めることもできない。お金の計算もできないし、まともな綴りで文章を書くこともできない。なので、掃除や配達など、主に下働きをしています。たまに失敗があっても、伯父の温情でカバーしてもらっています。賃金は得ていても、やはり半人前扱い。チャーリイは自分が周りの人のように「まともに」できないことが嫌で、成人教育センターに通っているわけです。
「賢くなりたい。みんなと同じように、ちゃんと計算したり字が書けるようになりたい」
いつもそう思いながら、彼にはそれができないのです。
なりたい自分になれない。どうしても。

手術をして、急速に知能を獲得していくのは、チャーリイにとってどんなにかファンタスティックな時間だったでしょう。文章でも生き生きとそれが表現されています。けれども、まもなくそれにともなって理解されてくる、思いもよらなかった現実。欲に踊らされる人間関係、仲間の裏切り、汚い駆け引き・・・こんなはずじゃなかったという思いが、彼にはこみあげてくるのです。
これが、「長いことなりたいと願っていた自分」なのか?これが、見たかった世界、知りたかった世界なのか?彼は混乱してしまう。
もし充分な時間があったら、知能の発達に少し遅れて感情面や思想面でもめざましい進歩があったことと思います。思慮ある大人として何をどう考え、どう振る舞えばいいか、的確な判断ができるようになっていたでしょう。が、そうなりかけた矢先、またしても急速に衰えていく知能。
もう、なりたい自分にはなれない。恐らくは、永遠に。

みなさんは、「なりたい自分になって」いますか?

私はなっていません。
いつも、つかの間とらえた「こうなりたい自分像」を追いかけてみては、息切れして立ち止まり、喉をぜいぜいいわせながら、へたりこんでしまいます。その間に、なりたい自分の後ろ姿は、私自身をあざ笑うように、だんだん小さく、だんだん見えなくなってしまう。そして私は、夕暮れのなかを、また彼女の姿を探してさまよい歩くのです。今度こそ捕まえてみせると、弱々しくつぶやきながら。
そんなことを繰り返している私だから、「なりたい自分には決してなれないチャーリイ」のなかに、自分自身の不甲斐なさ、情けなさ、哀れさを見いだして、涙なしにはあの本が読めなかったわけです。
私ごときの焦燥など、人に言わせると、「そのままでいいじゃないの、なにが不満?足ることを知りなさいよ、心の平安のためにも」ということになるのですが、本人が「足ることを良しとせず」「心の平安に眠り込むのが嫌だ」と思っている以上、なんともなりませんよね。自己実現とは、人と比べてどうこうじゃなく、「なりたい自分になれるかどうか」ですから。

チャーリイが、自分を捨てた家族に会いに行き、彼らからの賞賛や愛情を得たかった気持ちも、痛いほどわかります。私の場合、家族には愛されてきたけれど、心配をかけてきたと思うんですよね。今も、こんな歳になっても、胸をはって「私は大丈夫。何があっても、一人ででも、ちゃんと生きていけるから」と言えない、そのこと自体がもう親不孝だと。
自分が年老い、やがて死が迫ってきても、まだ子供の将来を心配しなければいけない親の気持ちってどんなんでしょう?チャーリイのように知的障害を持つ子を世話する老親の気持ちってどんなんでしょう?
幸いにも、私の状況はさほどひどくはありません。他者の介護や支援が必要なわけではありません。ですが、経済的に自立できていないという意味では同じです。
私が結婚するとき、相手としてまず考えたのは、「精神的にも経済的にも自立して生きている人」ということでした。それは、相手に寄りかかってこの先ずっと生きようと目論んだからじゃなく、しばらくは寄りかからせてもらうけれど、相手をお手本としながら、結婚生活を自立するステップの第一歩としよう、と考えたからでした。でも、まだ半歩も踏み出せていない、というのが正直なところです。

自己実現に関しては、どうも計画通りにいかない。
私には何かが欠けているんじゃないかと思いますね。なんか、ジグソーパズルのいくつかの欠片がなかなか埋められらない、みたいな。一生懸命、考えてはいるんだけど、どこかに盲点があるというか。
ひょっとして、もう「足ることを知り、心の平安をキープする」ほうがいいのかもしれません。でも、今からまだ何十年か生きていくとして、それでは退屈すぎるんですよ、心底。
頑張って「なりたい自分になった」ら、いろんなことが見えてきて、うんざりしてしまうかもしれません。こんなことのために、私は今まで貴重な人生の時を注ぎ込んできたのか?と。それでも、それがわからないまま生きて死ぬよりは、わかったほうがいいと信じます。チャーリイが、けっきょくウォレン養護学校へ行くことになったとき、賢くなる手術を受けたことを、少しも後悔してはいないように、私もまた、「なりたい自分」になるために払った代償を惜しくは思わないでしょう。

今の自分は、かつて追いかけた「なりたい自分」?
今の生活は、かつて夢見ていたもの?
こんな自問自答は、年齢に関係ないんですよ。
うちの父が六十になったときかな、ボソッと言ってましたから。
「わしの人生って、けっきょく何やったんやろな?これで良かったんかな?」
やりたいようにやってきたかに見える父でも、(というか、父だから、か?)そんなこと考えたりするのかなぁと思いました。
そして先日のこと、「もし何でも願いがかなうとしたら、あとどれくらい生きたい?」と訊いたら、
「そうやなぁ、そんなことはもう考えへん。もう、これといって、したいこともないからなぁ」
「ほんとにもうしたいこと何もないの?」
「もう、たいがいのことはやってきたからなぁ」
私が父の年齢になるまで、あと三十年近くもあるんです。
足ることを知るなんて、まだまだ早すぎると思いませんか?
少なくとも、もう十年やそこらは「なりたい自分」を追いかけてみるべきじゃないでしょうか。
たとえ「心の平安」を犠牲にしても。
たとえ夕暮れの街角で、ただひとり途方に暮れる結果になっても。

強欲なチャーリイ。
「なりたい自分になりたい」などと欲を出さなければ、いつまでもパン屋で甘いパンの匂いを嗅いでいられたのに。
でも、その強欲さがあればこそ、人間としての生を、自尊心をもって全うできたのだと思うのです。
そうして彼はウォレンに行った。
今ここにいるあなたは、私は、いったいどこへ行くのでしょうか?


お見合い

私は「お見合い」ってしたことないんですよ。
親や親戚のセッティングにしろ、紹介所みたいなのを通してにせよ、一度もない。
一回はやってみたかったような気もしますが、そういうのに縁がなかったんですね。
そうそう、一度、誘われて、市だか府だかが無料でやっていた結婚紹介所に足を運んだことがあったんですが、まもなく何もしないうちに相談所自体が閉鎖になってしまいました。

うちの弟は有料の紹介所で何度か見合いして結婚しました。
今では二児の父親となって、にぎやかに忙しく、でも、まあ幸せそうに暮らしています。
だから、お見合いもひとつの出会いの方法として、うまく使えば便利なシステムだと思うのです。
弟が入会するとき私自身も独身でしたから、母と一緒にその紹介所へ話を聞きに行ったんですが、実際の流れを説明されて、私自身は入会するのをやめました。
なんかこう、やはりお見合いは条件から入っていきますから、自分が商品として見られてる感じ、冷静に値踏みされてる感じがして仕方なかったんですよね。それはそれとして割り切り、納得して結婚する人もいるのですから、私はその是非をどうこう言うつもりはないのですが、ただ、私には不快だったし、向いてないと。なぜかって、私自身の釣書と写真だけを客観的に判断すれば、どう考えてもさほどたいしたものじゃないし、こんなものが常に生身の私より前面にしゃしゃり出てくる出会い方というのは、かえって自分にとって損かなと思ったんですよ。もしも、損だと思わなければ、入会していたかもしれません。

そう、釣書で自分を誇れるような何かが証明できれば、もしくはハッと目を引かれる素晴らしい美人であれば、お見合いは出会いを広げてくれる可能性が大いにあります。あるいは、恋愛能力とでもいうべきものにあまり恵まれていないとか、未来の結婚相手になりうる異性の少ない(従って、出会いの少ない)環境にいる人ならば、自力で結婚相手を捜すより、お見合いのほうが手っ取り早いかもしれない(うちの弟はこのタイプでした)。
でも、私自身は、すでに30を過ぎて、決して出会いの多い環境にいたとは言えないくせに、本能的に「こりゃ、損だわ」と感じたんですよね。
紹介所の経験豊富な仲人さんが、いろいろ「アドバイス(入れ知恵)」してくれるものですから、すぐにわかってしまうんですよ、条件で人間に値段をつけるそのやり方が。この学歴ならいくら、この職業でいくら、この容姿でいくら、この家系でいくら、この資産でいくら、ハイ、合計しますね、チーン、この人は合計でこれくらいのお値段です・・・
そしたら私は??
・・・ふうん、そうですか、世の中って厳しいものなのねぇ・・・と思うと同時に、「このドアホが。家畜じゃあるまいし、他人に大人しく値札つけられて、ちゃちなバインダーのページのなかに縮こまっていようと思うほど私はボケてへんでぇ!」という反抗心がむくむくと。これでは、ダメですよね、もう性格的に(~_~;)

まあ、ちょっと気合いを入れて高いものを買うような感覚ですよ。一生ものの家具とか家とか。
「お客様のお部屋には、こちらのソファがお似合いですわよ、いえいえ、そちらでは高価すぎますわねえ、確かにそちらは上物ではございますけれども、お客様のお部屋の広さですと、たぶん大きすぎて収まりきらないと思いますわ、ええ、こういったことは全体の釣り合いを大事にいたしませんとね、オホホ・・・」
けっきょく、お見合いで一番重要視されるのは、「釣り合い」なんですよ。
世間の物差しから測ってみた両者のお値段が釣り合っていること。
年は離れすぎていないか、学歴や職歴、容姿はそこそこ同レベルか、両家の家柄はどうか、などなど。
車や持ち家、資産の有無など、細部にわたってけっこうシビアな世界です。会社の面接よりずっとシビア。面接なら、人事の面接官と向き合うだけですが、お見合いの釣書の向こうには、見も知らぬ相手の親兄弟などが連なってるわけです。
私も弟の見合い相手が決まると、まだ見合いもしていない段階であれこれと批評してましたもん。ひょっとしたら義妹になるかもしれないんですから、興味しんしんですよ。親だって、それこそ真剣そのものだし。人柄については会ってみなくてはなんともわかりませんが、釣書にかいてあることや、写真で見る容姿などは、客観的に批評できますよね。皆で、ああだこうだと言い合いましたっけ。

お見合いってそういうもんです。
弟のお見合いは面白がって見ていたくせに、自分がやるとなると、二の足踏んでやめてしまったのは、私自身が自分の釣書やら写真で見る容姿の価値を、自分で信じていなかったからでしょう。そんなの、ほんとうの自分とは言えない。生身の自分の、生きて動いている表情とか、話す言葉とか、考え方とか、雰囲気とか、そういうもののほうに、私は信を置いていた、それこそが自分だと思っていた、だから、その「ほんとうの自分」で勝負したかった。
とは言うものの、自信をもってお見合いに臨める人というのは、やはり羨ましいですね。釣書、写真、ともにまずまずのランクということですから。あとは、人柄とかフィーリングの問題だけ。でも、仲人さんが間に立ってくれるお見合いは、周囲が上手くいく方向にどんどん後押ししてくれますから、少々なにか違うなと思っても、いつのまにか「その気にさせられていく」ところがあって、自分が相手と結婚したいと思うときは有利。親も交際する時点から納得ずみだし、あとあと紹介したりする面倒がなくていいですね。

まー、恋愛結婚は危険も伴う一本釣り、見合い結婚はスピード養殖って感じでしょうか。
結婚したい人は、どっちが自分に合ってるか、よーく考えてみよう。
どっちにしても、結果として食卓にのった魚が美味しければそれでいいんですけど。



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