「愛している」(1)

「望楼館追想/エドワード・ケアリー」という本を図書館から借りてきたんですが、まだ一ページも読んでません。でも、本の帯についてるコピーやら、訳者あとがきが、もうすさまじく大仰。この本を読んでしまったら、以後、これ以上に面白い本には出会えなくなる恐れがありますよ、という調子。まあ、その真偽は、いまのところ何ともわかりませんが、「ここまで言うか?」みたいな気持ちで借りてきました。
わりと分厚い本なので、ちょっと気合いを入れてから読もうと思い、とりあえず机のうえに放り出して置いたら、何を思ったのか夫が勝手にポチポチ読み始めてました。面白いかと訊いたら、まあまあ面白いらしい。少しずつ寝る前に読んで、もう三分の一は読破してる。珍しいこともあったもんです。夫が読書だなんて。

さて、その本の冒頭に、マリン・ソレスクという詩人による「用心」という詩の一部が引用されています。で、あとがきの中に、その詩の全文が載せられていますが、内容は「自分が決して傷つかないように心に鎧を着る、それでようやく、『私も愛している』と答えることができる」というもの。
訳者は、この詩を、「この世で口に出すのに一番勇気のいる言葉が『あなたを愛している』という言葉なのだ」というふうに説明しています。
フーンと思ったので、私は夫に訊いてみました。
「なあ。この詩の解釈やけどさ。たかだか『愛している』と言うのに、そんな勇気がいると思う?」
「それは、やっぱりいるんちゃうか」
「へえー。私なら、いくらでも言うけどなぁ、『愛している』ぐらい。好きな人に好きって言うのに、なんでそこまで勇気がいるわけ?」
「あのな。おまえにとっての『愛している』は、軽いねん。だからなんぼでも言えるんや。みんながおまえみたいな人間じゃないねんぞ」
「いーや、軽くないで。本気で好きやからこそ、好きと言えるんやないの。言われへんのは、単に駆け引きしてるか、臆病やから。そうじゃなかったら、素直に言えるはずやん」
「・・・おまえって、とことんポジティヴなヤツやなぁ。なんでそう自信もってんの?」

うーん。自信うんぬんって話じゃないと思うんだけど。
好きな相手に、素直に「あなたが好き、愛している」と言って、何か都合の悪いことがあるの?
そりゃ、状況にもよりけりですけど。でも、私は基本的に、「これは時機到来&チャンス!」と思えば言ってしまう方ですね。それか、ハッキリと好きだと言わんばかりの態度をとってしまいます。
思わせぶりな言葉や態度を小出しにして相手を試しながら、好きだと言わせるようにあれこれ画策する、そういう駆け引きは、する必要と価値があればやるけれど、いつまでもウダウダやってるのはイヤですね。ここぞというときに、きっぱりした決断が見られない関係は、けっきょく本物になれないし、続かないと思うので。
まあ、それでもわかりますけど。好きなのに好きと言えないその気持ち。
相手の迷惑にならないだろうか、自分には釣り合わないんじゃないだろうか・・・とかね。大人になればなるほど、相手の立場を思いやり、いろんな現実を考えすぎてしまって、言えなくなってくる・・・
でも、それは最終的に、相手にも一度は判断をゆだねてみないとわからないこと。大人同士ならね。
いやーん、もし振られたら恥ずかしいぃ、というような乙女心、これは私に関しては、もうきれいさっぱりなくなりました。
自分の選んだ人を、そんなに信用できないの?と。
そこそこまともな人なら、まさか恥をかかせるような振り方はしないでしょう。
「気持ちは受け取ってはもらえなかったけれど、相手の誠実さはよくわかったから、悲しいけれど清々しい。やっぱりあの人は素敵な人だったし、あの人のことを思っていた時間は無駄じゃなかった」
振られてそう思える相手でなかったら、振られたことを恥ずかしがるより、そんなつまらん人間に惚れてしまった自分の愚かさと見る目のなさをこそ恥じるべき。

と、つらつら書きましたけど、例の詩のように、自分が傷つくの怖さで言えない場合は、また別ですね。
初めからあなたは自分しか愛してないんじゃないの?と思ってしまう。
傷つくって、いったい何が?何故に?
自分の思いを拒否されたら悲しい、プライドが傷つく、自分はその人を選び、求めているのに、その人から同様に選ばれ、求められなかったら辛い、ということ?
それは誰でもそうだろうけれど、だから、「愛している」と言うことができないの?
だったら、それは「傷つきやすさ」なんて繊細なもんじゃなくて、「臆病」とか、もっと言えば「強欲」じゃない。
自分が愛しているぶんだけ、相手からも愛し返されることを、強欲に期待しすぎるから、身動きとれなくなっているだけじゃない。
そうやって重い鎧を着ている姿は、端から見れば滑稽なだけなんだな。だから私は、訳者の解釈とは違って、この詩に一種の「アイロニー(皮肉)」を感じてしまうのです。

そう。確かに、自分が愛した相手から、自分が愛するように愛してもらえなかったら辛い。
その事実をつきつけられるのは、とても怖い。
そんなこと、できれば知りたくない。
だから、こちらが愛しているなんてさとられたくない・・・
わかりますよ。
でもね。それでも、さとられたほうがいい。愛していると、言ったほうがいい。そのうえで、もしも相手から選ばれなかったら、そのときは、その辛さ悲しさ苦しさを、ぜんぶきちんと引き受けたほうがいい・・・と、私は思います。
なぜって、それらをぜんぶ乗り越えて、また立ち直る方法があるから。
気休めでなく、逃避でもなく、怪しげなセラピーでもなくて。
それはひとつの考え方、苦しみで凝り固まった心の持ちようを、自由に柔軟にするような。
少なくとも、私は実際に、その考え方に沿って立ち直りの過程を体験してみて、それは自分には必要なことだったと思います。
その考え方とは・・・

*長くなるので、ここでいったん切ります。


「愛している」(2)

続きです。

その考え方とは、私が自分で発想したものではありません。
ある分厚い本に書いてあったことです。

その頃、私は失恋の痛手を引きずっていました。
それはそれは、ひどい失恋でした。
あまりにもその人のことで心をいっぱいにしていたので、目の前からその人が消えてしまったとたん、心は虚しくからっぽ。その空白に耐えられなくて、私は自ら悲しみや恨みや思い出や後悔を、どんどんつくりだしては、それを満たしていました。最悪でした。
あまりにもその人が好きで仕方がなかったので、目の前から消えてしまったとたん、「あんな男、死ねばいい」と呪いました。私のそばにいて私に笑いかけてくれないのなら、いっそ死ねばいいと。私の知らない世界にいて、知らない誰かのそばにいて、その誰かに笑いかけている・・・そんな胸くその悪い像が、私の脳裏に浮かぶ可能性が、きれいさっぱり百パーセントなくなるように。
私は、これから続いていく未来の日々に、その人が存在しないのなら、もう生きていくことに魅力などないと思いました。なにもかも、どうでもよかったんです。
プライドだけは高いので、私は他の誰かをつかまえて、こんなやりきれなさを誤魔化そうとはしませんでした。他の何事かに没頭して、この辛い時をやりすごそうとか、そんなことも考えませんでした。
私は、人だけでなく、天をも呪っていました。
なぜ、こんな非情な運命を私に投げつけるのか、私の何が悪くて、こんな運命を甘受しなければならないのか、と。一切が、間違っている。ほんとうに心底欲しいものが、どんなに望んでも、どんなに焦がれても与えられない、こんな運命は私のものじゃない、私の受けるべき仕打ちであるはずがない、と思いました。
ある人間からの愛情を得られなかった事実が悲しいというより、むしろ、こんなことが自分の人生に起こっていいはずがない、こんなことは到底受け入れられない、という怒りの気持ちでいっぱいでした。
もし神が見えたなら、私はその胸ぐらをつかんで問いただし、引きずり倒してやりたかった。
「この馬鹿野郎、ふざけんなよ、こんなの絶対に受け入れられないからね!」
そう罵って、私の人生にもっとふさわしくなるよう、運命の筋書きを今すぐに書き直せと命じたかったのです。

こんな最悪の精神状態でありながら、私は矛盾した二つの望みをもっていました。
ひとつは、この辛さから逃れたくない。
「この苦しみが薄れていくこと、それは忘れていくということ。はっきりと思い出せなくなるということ。その人の顔も、その目の輝きも、話したことも、愛したことも、ぜんぶ薄らぼんやりとして思い出せなくなる・・・それはそれで嫌だ。だから、この辛さのなかに、どっぷりと浸っていたい」
もうひとつは、この辛さから何とか逃れたい。
「もはやこれ以上は限界だ、こんな思いをいつまでも抱いていたって仕方がない、私はまだ生きているんだし、死が近いような気もしない、自分をこんなにも惨めなままにしておいて、過去の残骸を漁り続けたって意味がない、ここから、この地点から、行くべき方向を何とか見つけなくては」
これらの二つの望みの間を、私はいつも揺れ続けていたのでした。
そして、じゅうぶんに苦しみがひきのばされた頃でした。私はいつも通っている図書館で、偶然に目とまった分厚い本の背表紙に手をかけたのです。

「チベットの生と死の書」ソギャル・リンポチェ著

私は何の宗教も神も信仰してませんが、宗教書やその解説書を読むのは好きな方です。人が何を信じて、この世の中と人生をどう見ているのか、さまざまな心の在り方を知ることは、興味深いことです。
この瞬間も、この本はそういう興味の対象でした。その中に、何か救いを求めたわけではありませんでした。
が、結果的に、どん底近くまで落ちていた私の精神を、引き上げてくれることになったのでした。
この本の第一部「生きるということ」の第三章「内省と変身」、70ページから72ページの「変化に働きかける」という短い文章を初めて読んだときの衝撃。驚きが、深い感謝に変わっていく、そのときの心境は、ちょっと言葉で言いあらわせません。
私は、何度も繰り返してその部分を読みました。そして、それまでの辛い日々に、ようやく納得のできる「意味」を見いだしました。もし神が見えたなら、私はその足元にひれ伏して泣いていたでしょう。
事実、私は泣いていましたが、それは、恨みや苦しみのために流す血のようにしょっぱい涙ではなくて、ほんとうに清々しく、泣けば泣くほど背中の重荷が軽くなっていくのがわかるような、そういう性質のものでした。

私はそのとき、そのページから何を得たのでしょう。
それは、「執着」というものについての新しい考え方。
私たちは、自分が幸せと感じられるもの、自分が愛したものを、しっかりと自分の手に握りしめておかなければいけないと思っています。幸せも愛も、それらをもっていたいと願うこと自体はいい。けれども、それを自分のものとして、あくまでもしっかりと握りしめておかねばならない、という気持ちや態度は、愛ではなくて度を超えた執着であり、当の幸せや愛を損なうものだ、ということですね。
愛が華奢な小鳥だとしましょう。私たちは、その小鳥をつかまえたが最後、決して逃がすまいと、手の中に握りしめてしまう。そして、あまりに強く握りしめたがために、小鳥は手の中で、ゆっくりと、あるいは瞬時に、窒息してしまうんです。
固く握りしめた手を広げ、そのうえで小鳥を自由に思うまま遊ばせてやれば、美しいさえずりを聞くことができたかもしれないのに。たとえ飛んでいってしまったとしても、しばらくすればまた舞い戻ってきて、手のひらにちょこんと止まったかもしれないのに。そうしているうちに、小鳥と自分の間には、揺るがぬ信頼関係が出来上がったかも知れないのに・・・
簡単なことのように思えるでしょう?
でも、私にはそんなことは考えつかなかった。だから、こんな考え方があるのかと驚いたんです。
あるいは、そのとき辛い日々を送っていなければ、誰かにそんなことを聞かされても、フフンと笑って一蹴したかもしれない。そんな馬鹿なことが、と。愛する人を自分に引きつけておかなければ、その人には自分がそうするように愛し返してもらわねば、何が幸せだろうかと。きれい事は言わないで、と。
その望みがかなうのなら、それでもいいのかも知れない。でも、それが通用しないことがあるんです。どんなに頑張っても、どんなにあがいても、どうしようもないことだって、あるんですよね。そのとき、上手に「手放す」ということを知らないと、かなり辛いことになってしまいます。かつての私のように・・・

愛しながらも、束縛しない。
愛しているからこそ、愛し返してくれと強要しない。
愛しているからこそ、たとえ愛し返されることがなくとも、その人がこの地上に生きているだけで、自分がその人と同時代に生き、人生のほんの一瞬をすれ違えただけで、それで幸せだと思える。
最終的に、「そんなのきれい事でしょう」と感じたら、それは執着であって、愛とは違うんですよね。
ほんとうに愛することは、その「きれい事」なんです。分離器にかけて、執着をすべて取り除いた愛の上澄みは、それ自体が美であり善なんです。
そして、この「きれい事」の素晴らしい点は、ぜんぶ自分に返ってくる、ということ。
何かを求めるのをやめて、ただ愛することは損じゃない。惨めでもない。不幸でもない。
そうやって愛することで、深い安らかな喜びが自分のものになる。
誰にも盗られず、誰にも汚されることのない喜びが。
この喜びが心にあれば、花も緑もみんな鮮やかに美しく見え、ストレスは消え、深い安らぎと同時に、生に対する真の軽やかさや自由が得られるんです。
嘘だと思うでしょう?
こいつ、目がイッてないか、と警戒するでしょう?
私も、自分でこう書いていて、なんか怪しげな新興宗教の勧誘みたいだなぁと思います(~_~;)
ですが、あの頃、こういう考え方で自分自身が救われたことは事実。

ライフベストは緊急時にご着用ください。
飛行機があなたを乗せて、雲のない上空を快適に飛んでいるのなら、身につけていても有り難みがないですもんね。


あれこれ書評

「望楼館追想/エドワード・ケアリー」読みました。うーーん。「別に」って感じ。
なんで訳者があとがきのなかであんなに舞い上がったコトばかり書いていたのかわかりません。ただの宣伝でしょうかね。確かに宣伝効果はあるでしょうけど、全部読んでみて、フーンこの程度かと思ったら、とたんに作品そのものを本来以上に下品に見せてしまいます。もう少し、抑え気味に、神秘めかした賛辞のほうがよかったんじゃないかと思いますね。

夫が少しずつ読んでいるとき、「どう?面白い?」とよく訊きました。
答えはきまって「うーん。それなりに面白いと思う」。
あのな。子供じゃあるまいし、どこがどういうふうに面白いのか、的確に言えっつーの。
「もう途中で投げられへんほど面白い?」と重ねて訊くと、「いや、そうでもない」と。
じゃあ、どうやねん!
論文にするわけでもないのに、自分の思ったことを素直に表現できないというか、適切な描写力に乏しいというか、いつものことですが夫のこの壊滅的な国語力不足には、実にイライラさせられます。
で、私も読んでみたらわかるだろうと思っていたんですが、これがまた、ちょっと「うーーん」なんだな。こりゃ、うちの夫の手(口?)には余るはずだわ。
何と言いましょうか、「美しい部屋」とか、ああいう主に主婦層向けのインテリア雑誌に出てくる、「読者A子さんのアイディア・これでキッチンが素敵なカントリー調に変身」とかいうグラビア記事みたいなんですよ。
わかります?ぱっと見はこじゃれですが、よく見るとチープなキャンディの包み紙にも似た安っぽさと甘ったるさが漂ってきて、げんなりっていうか。でも、こういうのが好きな人もいるし、これで満足できる人がいるんだろうなぁとは想像つくんです。年齢にもよるかもしれないし。歳を取れば、目先で誤魔化したものでなく、やっぱり本物が欲しくなる。若ければ、まがい物でも雰囲気が良ければいい、とかね。

夫と出した結論。
「テーマがクサイ。展開やキャラクターが陳腐。でもまあ、それなりに工夫されてるから読める。十代の子向けかも」
前半はちょっと道草がかったるいし、スピードアップした後半では、やけに都合良く人が死にすぎるし、主人公の男女が陥る恋愛の紆余曲折は、子供っぽすぎてイマイチ共感できないし、なんだかなぁって感じです。これで2500円?
いや、図書館で借りたのでなかったら、もう少しいいところを見つけようとしたかもしれませんね。だって、そんな大金払って買ったものが、期待はずれなものだったとは、自分でも思いたくないじゃない?それに、あとがきでは、あんなに皆が「いい作品だ」と評価してるみたいなこと書いてあるし。きっといい本なんだ、自分にはちょっと合わなかったかもしれないけど、ううん、もういっぺん読み返してみたら、感動できるかも・・・
こんなふうに、人間は欲をかいて人生の時を無駄にするのでしょうか?

同時に借りていた、ロバート・ゴダードの「石に刻まれた時間」のほうがよっぽど面白かったです。
と言っても、これはダメな人にはダメかも。いやー、ミステリ作品ですけど、ゴシックホラー的な超常現象が味付けになってるんですよね。これが鼻につく人には向かないです。私は好きだから、一気読みしましたけど。ゴダードにしては、毛色の変わったというか、ある意味チャレンジングな作品ですね。
あと、今読んでいるので興味深いと言えば、ハヤカワ文庫の「90年代SF傑作選 上・下」。これは、90年代に活躍したSF作家たちの短・中編を集めたアンソロジー。
SFと言えば、すぐにスペースオペラ的なものを想像してしまって、お金をかけた映画ならOKだけど活字で読むのはダメ、あのなんちゃら装置だの、なんちゃらかんちゃらというカタカナのサイエンス用語が生理的にダメ、出てくるキャラの人間性が薄っぺらくて練れてないからダメ、と思ってましたが、どっこい最近のSF文学のいくらかはさにあらず。ひょっとして読まず嫌いだったかもしれない。目からウロコの作品がちらほらありました。

んー、例えば上巻ではダン・シモンズの「フラッシュバック」。
自分の体験した過去の出来事を、ある一定の時間、完全に脳内で再現して味わえるドラッグが近未来のアメリカでは日常的に浸透しているという設定で、それに依存し、振り回される人々を描いている作品です。人が現在を生きるということはいかなることか、そういう純文学的な洞察があって、読後感はやるせなく、せつない。特別にサイエンティフィックな仕掛けや、ややこしい機械類やロジックは一切出てこないけれど、確かにこれもSF。
下巻では、テリー・ビッスンの「マックたち」。
これは、ヒト・クローンをネタにしてます。大量殺人犯罪の被害者の家族たちに、それぞれ加害者のクローンを与えて、それをどう処罰してもよい、という話なんですが・・・いやー、なんとも身の毛のよだつような、それでいて斬新な発想をもって微妙な社会問題に切り込むテーマ、計算されてはいるけれど遊びのある文章スタイル。いいですね。
久々に、自分もこんなの書いてみたい、と思いました。


頭が溶けそう・・・

まだ5月の初旬というのに、この暑さは何?
だんだんとまともな事が考えられなくなってきます・・・それでなくても、アレなのに。
えっと、ニビル星とやらがやってきて人類が破滅するのは15日でしたっけ?例のパナウェーブとかいう白装束連中に言わせると。それまで続くんでしょうか、連日のお祭り騒ぎは?まあ、面白いからいいんですけど、もっと大事なこともあると思いますよ、ちゃんと報道すべきことが。ああいう病気の人は、治療の対象なんだから、病院に強制入院させるとかして、あまりいじり回さないほうがいいんじゃない?タマちゃんにしてもね。

夫がどこかから貴志祐介の「青の炎」を借りてきました。ぱらぱらっと斜め読みしたらしいです。
感想を聞けば、「それなりによくできてるけど、なんていうか、クサイ演出やな」と。
わかる。もう帯のキャッチコピーからして。泣かせよう、感動させよう、という魂胆がミエミエ。
宣伝なんだから、いいんですけどね、でもあまりにもこれみよがしなのは、やっぱり・・・もう中身わかっちゃうでしょ。だいたいの筋がみえちゃう。半分以上わかってて、それでも面白ければ、それはほんとうに面白い作品なんだけど、私は個人的に貴志さんの「人間描写」にはあまり信を置いてないので、それが前面に出ているらしい「青の炎」はイマイチ積極的に読む気がせず。
「黒い家」はすごく面白かったし、一気に読めましたけどね。あれは作者のよく知っている保険業界の裏話が非常に面白いというのがある。作者の土俵で勝負した、ホームゲームの感がある。だから、女(主人公の彼女)の描き方が少年漫画っぽくても、ラストはあのオバサンがターミネーターになってしまって安手のドタバタで終わっても、まあ楽しめました。ところが「青の炎」はなぁ・・・泣かせ目的の青春メロドラマはどうも苦手。

ところでSFを読んでいたら、ひとつ疑問が出てきたんですよね。
理系のSFファンって多そうなんですが、私みたいなシロートでもわかるような荒唐無稽な科学的飛躍、非論理的なストーリーやそこに出てくる小物、彼らにしてみればウザくないんですかね?
どう考えても銀河連邦なんて嘘でしょ、銀河じゅうにそんなウヨウヨと知的生命体がいて、しかも互いに意志の疎通をしながらスペースシップを操ってるなんて。そんなの、百万年たっても実現しそうにないことでしょ。あと、ワープ航法とか、わけのわからん非科学的な兵器とか。それで、出てくる宇宙人って、姿形はいろいろあっても、思考回路や行動様式は、たいてい人類のカリカチュアにすぎないし。
読んでて、( ´,_ゝ`) プッ と思わないんでしょうか?

ということで、夫に訊いてみました。
「それはもうSFのお約束として、そういうもんやと思って読んでる。科学的に見て荒唐無稽でも、その作品世界がちゃんと破綻せずに成り立っていたら、それはそれで楽しめるんや」
ということでした。
うーん。私ならアラ探ししてしまいそう。昔、バンドやってたとき、漫画でギターの弦が四本くらいしかないカットを見つけて爆笑したこともあるし。高校の講師時代は、青春学園ドラマなんて絶対見たくなかったですね。だって、あらすじ聞いただけで嘘くさすぎて。もー、まず( ´,_ゝ`) プッ て感じで、ストーリーに集中できないですよ。
知り合いの弁護士さんにも、ずっと以前に訊いたんですが、「ミステリドラマに出てくるようなカッコいい法廷シーンなんか、あらへんあらへん、弁護士ってもっと地味なもんやで」という話。
医者でも、画家でも、警官でも何でもいいんですが、専門家として人よりちょっと知識もってると、現場の実態からかけ離れた物語って、入って行きにくいと思うんです。
ということで、科学者で専門知識がありながら、壮大な科学的虚構を楽しんで読める人というのは、いったい何なんだろうな、と・・・

ああ、なんかもう頭がボーッとしてきました。
これもスカラー波の影響かしら?・・・とりあえずワイドショー見ます。


妄想あれこれ

貴志祐介の「青の炎」、ぱらぱらっと斜め読み。「こんなもんかなぁ」と想像してた通り、という感じで、どうも深く読み込もうという気にはなりませんでした。
泣きませんし、切なくもなりませんよ。なんか、ゲームの台本みたいで。渡辺淳一の「失楽園」の青春版とでも言えそうなくらい、リアルな女を無視したナイーヴな男の妄想が炸裂してますね。
高校生にしてはちょっと出来過ぎの感じがある、パソコンおたくっぽいクールな優等生が主人公。
元ツッパリだったけど、主人公のおかげで素直な女の子になれた、気丈で優しい主人公の恋人。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と、ひたすら主人公を慕ってくる、愛くるしい義理の妹。
恋人のことは好きだけど、妹も好きだし(近親相姦的愛情)・・・「オレが守ってやらなきゃ」・・・

もー、行間から、やたら目のデカイ、あの独特のアニメ絵が浮かびあがってきます。甲高い甘え声の、ちょっと舌足らずな声優のセリフとともに。
子供を主人公にして、子供視点の一人称で描くのは難しい。どうしても甘ったるくなるから。周りの大人の描写をそのぶんシビアにして、脇を固めるといいと思うんですけど、「青の炎」では、主人公の母親にしても、義理父にしても、先生たちにしても、どこかしら輪郭が不鮮明なくせに、従来の型にはまった感じ、ステレオタイプな印象がして、つまらなかったです。この同じストーリーでも、それぞれ主要人物の多視点で描くと、少しは甘ったるさが抜けたかもしれない。でも、貴志さん自身がこのベタベタな甘さに酔っているみたいだからなぁ・・・

しかし、どうも(一部の?)男の人が抱いている妄想は、よくわかりませんねぇ。
やたら年端もいかぬ少女を神聖視してみたりとか。
宮崎アニメの女の子なんか、たいていそうじゃないんですか?
元気で、優しくて、純粋で、みんなを癒してくれる小さな女神的存在。
少女というものを神格化すると同時に、そこにはやっぱりエロティックな妄想も混じり込んでいるんですよ、ナボコフの「ロリータ」みたいに。(「ロリータ」は「ロリコン」の語源になった小説。発表当時はインモラルだと非難ごうごうだったにせよ、今読んでみたら、そんな過激なことはない、ちょっといかれたオジサンがおませな美少女に惚れて破滅するだけのアホ話)あるいは、画家バルテュスの好んで描いた少女のイメージ。そのエロスの匂いを感じ取るにつけ、女の私は居心地の悪さを覚えてしまいます。

まだ子供の頃、「アルプスの少女ハイジ」をテレビで見てましたが、ストーリーは面白いんだけど、気持ちの奥底に、どこか「ケッ、やってらんない」という感じがありました。
あまりにもハイジが純真無垢すぎて、それが気色悪いんですよね。自分が子供だからわかるリアルな子供の心情から、ハイジは大きくかけ離れて見える。だから、ハイジが、どんな辛い目にあっても、誰をも憎まず、みんなに明るさを振りまいて、愛想良く笑えば笑うほど、「あんな女の子、現実にはいないって」という薄気味悪さが増大します。
今思うと、その気色悪さは、どこかしらエロティックなんですよ。
実際にはありえないツクリモノの純真無垢を、大人から押しつけられて演じる少女。それも、大人の男の目線で、大人の男の思い描く「純真無垢」を体現すべく、生み出された少女。
けっきょく、そういうのはオモチャですよね。オモチャという言い方が悪ければ、偶像ですね。都合のいい、どうにでもなる、偶像。
同じ少女を描いていても、さくらももこの「ちびまるこちゃん」は、女性が作者なだけに、けっこうリアルな少女像になっていると思いますね。
ハイジはロリコンの対象になりうる感じが充分にするけれど、ちびまるこちゃんにそういうエロスを感じることはまずなさそう。過度に純真無垢でもなく、女の私が見ていても、居心地悪くならない。

もちろん、異性に勝手な妄想を抱くのは男だけでなく、女もそうなんですが、本来まだ性的には未分化なはずの子供にエロスを感じたりはしにくいんじゃないかな。女はね。
私自身は、男性に対して「ストイックなジェントルマン幻想」を抱いてしまう傾向があります。どうでもいい男性には、そんなことは思わないんですけど、ちょっと好みの男性に対しては、
「男はみんな狼だと言うけれど、彼だけは違うみたい。彼は真面目だから、きっとアダルトビデオやエロ本を見たりなんかしないのよ。ネットでエロ画像を漁ったりもしないの。だって、笑顔があんなに爽やかなんですもの〜(ハァト」
てな具合に妄想しますね。アハハ♪
それ言うと、女友達とか、みんなから、「馬鹿みたい。そんなこと、あるわけない。どんなに爽やかそうでも、男はみんなエロいもんよ」と一蹴されますが、私としては認めたくないっていうか・・・だってぇー、好きな男がパソコンでエロ画像探してるところを想像してみてくださいよ。なんだか気持ちが萎んでしまうじゃないですか。あ、好きでもないヒトならいいんです。どうぞ御勝手に、という感じで、べつにとりたててそれが変な行為だとも思いませんから。でも、好きな相手なら、「いやーん!そんなコトしてる彼の姿なんか、想像したくもない!」ですね。
まぁ、実際に付き合う段階まで来ると、あまりストイックすぎるのも困りものかもしれませんが・・・んん???


『アルジャーノンに花束を』〜号泣編

早川文庫の「アルジャーノンに花束を/ダニエル・キイス」読みました。
一応、名作と言われているので、私も存在ぐらいは知っていましたが、なんとなく「全世界が涙した」とか大仰に言われると「へっ。そんなもん読みたくないわ」と思っちゃうんですよね。あまりに有名っていうのも敬遠したくなる。それに、「ビリー・ミリガン」などダニエル・キイスの多重人格ものは、なんとなくうさんくさいという印象ありましたし。「アルジャーノン」は多重人格ものじゃなくて、普通小説〜SF小説というカテゴリですが。
まあ、ふとした思いつき、たまの気分転換、「泣かせ」にハマッてみるのも一興かと、軽い気持ちで図書館から借りてきたわけです。

そしたら。

泣きましたねぇー。もう、話が三分の二を過ぎたぐらいから、何度か泣きポイントがあって、そこで涙をふきふきページをめくり、ぜんぶを読み終えたときには、本を机に放り出し、ティッシュ両手に号泣しました。ほんとに声をあげてワアワアと泣きました。私がどうかなったのかと、オコたんがびっくりしてましたよ。
いや、まじで。
読み終えたのが夜の八時過ぎかな。昼下がりから一心不乱に読んでいたので、まだご飯の支度もしてない。うちの夫はたいてい、自分の研究室からカエルコールしてくるんです。帰宅するまで一時間半はかかるので、食事の支度は電話があってから始めてもいいや、と思ってたんですよね。
ティッシュで鼻をかんで物語世界から現実に立ち返りつつ、さぁ、そろそろご飯の用意するか、と思ったその瞬間、いきなり玄関が開いて夫が「ただいまー」と。あれ?今日はやけに早いご帰宅。まあ、こういう日もたまーにあるんだけど。でも、ちょっとぉ、私、まだ余韻で泣いてるがな。

「・・・おかえり(鼻づまりの涙声)」
「・・・おまえ、どうしたんや?何かあったんか?」
「うん・・・あのな、昼過ぎから『アルジャーノンに花束を』読んでてん。そしたらな・・・そしたらな・・・(涙がダァァァ)」
ぷはははは!!なんや、おまえ、それで感動して泣いてんの?ええっ?
「(泣きながら)あんたも読んでみいな!泣くで、絶対!私、もーマジ泣きしたわ。本読んでこんなに泣いたん何年ぶりやろ。さっきから涙が止まらんねん。だってな、だってな・・・(ウウウ)」
「(ププッ)よしよし、そうかいな、そんなに悲しい話やったんかいな」
「(ムキッ)たんに悲しいとか、そんなんちゃうねん!もっといろいろ考えさせられる深い話やねん。あのな、あるところにチャーリイっていう知恵遅れで三十過ぎの男の人がおってな・・・その人がな・・・その人がな(ウウウ)」
「なあ。なんでもええけど、はよご飯つくってくれる?お腹空いてんねんけど・・・」

ご飯つくりながら説明しましたよ。大まかなストーリーの内容を。ここで読者の方々にもさっと繰り返しますと・・・(文庫本の背表紙を引用します)

《32歳になっても幼児の知能しかないパン屋の店員チャーリイ・ゴードン。そんな彼に夢のような話が舞い込んだ。大学の偉い先生が頭を良くしてくれるというのだ。この申し出に飛びついた彼は白ネズミのアルジャーノンを競争相手に連日検査を受けることに。やがて手術により、チャーリイは天才に変貌したが…… 超知能を手に入れた青年の愛と憎しみ、喜びと孤独を通して人間の心の真実に迫り、全世界が涙した現代の聖書》

実際には、これを読んで想像するよりもっと複雑で、いろんな状況、いろんな感情・思惑が交錯する物語です。それゆえ、いろんな人のツボにハマると思いますね。広く共感を集める構成、と言ってもいい。
主人公の恋愛を軸に読んでもいいし、家族を軸に読んでもいい。科学って何だろう、人間の知能って感情って何だろう、と思いながら読んでもいい。

私自身が泣いたポイントは、チャーリイが家族に会いに行くところです。
手術でIQが高くなったけれど、それは長くはもたない。やがてもとの知的障害者にかえっていく。その兆候がはっきりと現れてくるだろう。でも、そのまえに、そのまえに、家族に会っておきたい。彼は長いこと離れて暮らしていた父や母、妹に会いに行くんです。自分がこんなふうに何でも人並み(もしくは、それ以上)に「ちゃんと」できる人間になったことを見てもらいたくて。
そのくだりには、本当に胸を締め付けられます。特に、昔住んでた懐かしの家で母親と妹に会い、そして帰っていく場面。チャーリイもこらえきれずに泣いていたけれど、私自身もこらえきれずに泣きました。
たぶんチャーリイ同様、「人にみられても、泣かずにはいられない」状態でした。
もー、だからこういう本は嫌なのです。ひとりで家に閉じこもって、覚悟して読まなくちゃいけない。
あと、泣いたのは、チャーリイが、自分の退化現象がいよいよ進行したのに気づいて、誰にも「かわいそうと思われたくない」ので、自ら知的障害者のための施設へ行くことを決意するくだり。
ここらあたりで泣かない人はいないんじゃないかな。
ラストにふたつ「ついしん」があるのは、どっちかひとつでもいいし、なくてもいいかもしれないと思いましたが、やっぱりお約束として、これも泣けますね。ただ、こちらは「泣かされた」という感じがわざとらしいかも。

あんまり私が涙しているので、興味を抱いたらしく、夫も夜から読み始め、けっきょく明け方近くまでかかって読み終えたらしいです。週末だったから、そんな一気に読めたのかもしれませんが、やっぱりストーリーそのものが良かったから、途中でやめられなかったんだと思います。
私が、泣いたかと訊くと、
「いいや。ちょっとウルウルくるところはあったけど、泣きはせんな。良くできた話やとは思うが」
「あんたって、やっぱ共感能力が低いねんな。IQはそれなりに高いかもしらんけど、EQは思いっきり低いわ
「なんでやねん、しょせんは作り話やないか。現実とはちゃうやん。そんなんで泣くなんて恥やろ
(゚Д゚)ハア? 恥って、あんたなぁ・・・」

もー、何を言っても無駄だと思いましたねぇ。
こういうとき、心ある文系男だったら、一緒になって感動をわかちあってくれると思うんですよね。
手を取り合って、あそこの描写がよかったね、とか、あのシーンではこう思った、などと話に花が咲くってもんですよ。だけど、うちの夫は、花を咲かせるどころか、まだ蕾の段階で摘み取ってしまう・・・
まー、いいんですけどね。もしも夫が「いやー、めっちゃ泣いたわ、素晴らしい超感動大作やな、これは!」とか言いだしたら、それはそれで怖いというか奇妙な感じもしますし。
でも、私が寝てる間に読んでたから、きっと夫も少しはウルウルしてたに違いないと思いますけど。

とにかく、この作品、泣けます。
主人公に感情移入して泣く、というのもあるけれど、ただ可哀想で仕方がないとかいうより、人に何らかの動揺を与える作品だと思います。それは、生きることの真実、その様々な断面を、すごくきめ細かに思いやりをもって、ある意味、シビアにも描いているからだろうと。
私もひどく動揺しました。可哀想で泣いたというより、感動して泣いたというより、動揺して泣いた、という言い方が正確だと思います。この動揺の正体は何かと、私なりにいろいろ考えてみました。考えがまとまったら、またここに書きつづってみたいと思います。
『アルジャーノンに花束を』〜思索編、ですね。




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