カスピ海ヨーグルト

涼しくなりました。夜は窓を開けていると肌寒いくらい。
昼の日差しもだんだん弱くなってきて・・・あー、秋だなぁ、と思います。

連休でしたが、夫はいつものように仕事だし、私もちょっとその仕事の(ほんのささやかな)一部を手伝ってるということがあるので、結局どこへも行かず。まあ、連休中はどこへ行っても混むんだろうし、人混みが苦手な私は、むしろ家にいて本でも読んでるほうがマシです。
今読んでるのはピーター・ストラウブの「ミスターX(上・下)」。
これ、長いですねぇ。まだ上巻の途中までしか読んでませんが、登場人物が多くてそれぞれの関係が入り組んでるし、ちょっと読みづらいです。以前に読んだ「ゴースト・ストーリー」は長くてもさらさら読めましたが。内容もP・H・ラヴクラフトの世界を下敷きにしてるというか、大まじめにパロってるような感じなので、そっち方面は読んだことないという人にはお勧めしかねる代物です。ラヴクラフト好きには大受けするかもしれませんが。うーん。これから面白くなってくるのかな・・・

それはそうと、このまえ友人が初めて「カスピ海ヨーグルト」を食べたらしく、たいそう感激して「すっごく美味しいよ!!あんたにもあげる!!この感動を分かち合おう!」と電話をかけてきたんです。
カスピ海ヨーグルトとは、調べてみたら、京大の某教授が世界の長寿村を研究していたとき、カスピ海沿岸の村で食べられているヨーグルトの菌を持ち帰ってつくったものだとか。その菌が丈夫で素人でも簡単にヨーグルトが作れるし、味も良く美容と健康にいい、と評判になり、人々の手から手へ何代も株分け・更新されて広まっていったらしいのです。
ふうん。人々の手から手へ、ねぇ。そんなん大丈夫かいな?ちょっと疑問。
伝言ゲームみたいに、人から人へと渡っていくうちに、他の菌が入ったり、成分が変わったりしてるんじゃない?衛生面での不安もあるし、それまで日本にはなかった毒性のある何かが入ってたら?
夫にどう思うか訊いてみたら、彼は食い意地の張った「食の冒険家」なので、
「ええやん、もらってこい、もらってこい。そんなに美味いんやったら食べてみたいやないか♪」
「でも、自家製で伝わってきたものって・・・問題ないのかなぁ?」
「これまでみんなが食べてきてるんやろ?いわば多くの人間が自分で人体実験してるわけやな。問題があるんやったら、今ごろ何か報告されてるやろ」
「まあ、それはそうかもしれんけど・・・」
ということで、友人には、「あんたのとこで一週間ぐらい食べてみ。それで身体に異常が起こらんかったらもらうわ」と言っておきました。
彼女は「いかにもあんたらしいなー」と笑ってましたが。私は食に関しては保守的なもので。これまで食べたことのないものには、心理的に抵抗感じるタイプなんですよ。
もしもらえたら、まずは夫に一週間ほど食べさせ、それから近所に住んでる両親にも食べさせてみて、これはいけそうだと思ったら口をつけることにします。

ところで、友人いわく、ヨーグルトで健康になろうと思ったら、毎日かかさず食べ続けなきゃいないということ。そのカスピ海沿岸の村では、毎日どんぶりに二杯(!)ぐらい食べているそうです。ひ〜、そんなのとてもじゃないけど私には無理。もともとヨーグルトがすっごく好き、というわけでもないしね。小食だから、どんぶり一杯もヨーグルト食べたら、もうそれでご飯食べられない・・・っていうか、そもそもどんぶりに一杯も食べること自体が無理。
しかし、この新しい菌種のヨーグルトを持ち帰った教授が欲のない人で、商売にすることなく周りの人に菌を株分けしてあげて、それがクチコミでちょっとしたブームになった、というんですが、その間、これを商品化しようという企業はなかったのでしょうか。テレビや雑誌などあまり見ない私でも、「カスピ海ヨーグルト」という名前だけは知っていたくらいだから、もっと早くにどこかの会社が目をつけて、とっくにスーパーの棚に並んでいても良さそうに思うんですけど。謎だわ。


好きな人は

あ〜〜、この前のプロジェクトX再放送、見るの忘れちゃった〜〜。
「奇跡の再会劇〜大地の子を捜して」なんて、いかにもじゃないですか。
もう、タイトル見ただけで「よっしゃ、今夜は泣くぞ!」と期待してたのに。すっかり忘れてしまいました。

昔のNHK日中合作ドラマ「大地の子」は、前半が良かったですよね。後半、日本の父が職場に現れたり、生き別れの妹を見つけたりしてからは、私としてはちょいテンション落ちました(日本人役者の演技&滅茶苦茶な中国語の発音が気になって)。前半は、文化大革命の異常な雰囲気とか、主人公と(後に彼の奥さんになる)月梅とが出会う場面の描写なんかが、とくによかったです。
主人公の陸一心が、労働改造所で破傷風になって、巡回医療隊看護婦の月梅に助けられ、その一年後また(待ってましたとばかりの偶然で)モンゴルの砂嵐に二人して巻き込まれるんですが、避難したテントの中でお互いの気持ちを語り合ったあと別れるシーンには、ベタな展開なのに涙がダァ〜〜〜(T_T)
あの頃は熱心に中国語やってたんで、ヒアリングのエクササイズとして見ていたんです。当然、字幕って限界があるから、喋ってるセリフが直接わかれば、ずっと臨場感がありますよ。
あの場面、セリフに忠実に訳すと、こんな感じかなぁ。

月梅「(確信に満ちた声)わたしはあなたが無実だと信じてる。とても尊敬しています。こんな劣悪な環境のなか、それでもまだ生き抜いていける。あなたは、強い人だわ」
一心「(いきなり土下座)もう私に近づかないでください。こんなことをしていたら、あなたまで面倒なことに巻き込んでしまう」
月梅「わたしは恐れたりしないわ!あなたの冤罪が晴れるのを待っています!いつか北京に戻れたら、きっと連絡してください。わたしは燕京病院で働いています」
一心「お願いですから・・・やはり私から離れてください。私は・・・私は日本人です!罪人です!・・・あなたはかつて私を救ってくれた命の恩人・・・それなのに私があなたを危険な目にあわせるなんてできません・・・できません!(テントから走り出る)」

「あなたは強い人」と見つめられただけで、「もうアプローチしないで欲しい、迷惑をかけたくないから」と言い切る一心の態度にはちょっとビックリですが、(だって、愛の告白じゃなくて、あくまで人間としての「尊敬」かもしれないじゃない?)でも、目は口ほどに物を言い、ということなんでしょうね。表情に隠された言葉を感じ取る能力がない鈍感男だと、ああ言われても「いや、そう言ってくださるだけで嬉しいですが・・・」なーんて、すべてがトンチンカンな社交辞令に終わってしまいそう。そう考えればあの陸一心の振る舞い、男としてはベストだわ。あんなふうにされると、女も引くに引けないでしょう。もともと好きなのに、あそこまで潔い態度をとられたら、感動して余計に離れられないってば。で、待つんですね。まあ、お互いに「いい男」と「いい女」だからこそ、それだけの真剣さと気概があったということなんでしょう・・・

話は飛びますが、「どんな人が好きか?」という問いに対する答えには、けっこうその人自身の価値観が表れると思いませんか。ふつう、一言や二言では、うまく言えないと思うんですけどね。それでも何かしらそれぞれに個性的な言葉や表情が返ってくる。
この前、「ちゃんと生きてる人」と答えた人がいて、訊いた私のほうが、それってどういう意味かしらと、あとで小一時間(もっとかな)も考えこんでしまいました。「真面目に」でもなく、「地道に」でもなくて、「ちゃんと」ですよ?
---「ちゃんと生きる」って、いったいどういうこと?
---みんなは、私は、果たして「ちゃんと生きて」いるのだろうか?
まぁ、いろいろ考えをめぐらすきっかけになりました。それを言った本人がどういう意図でもって「ちゃんと」という副詞を使ったのか、ほんとうのことはわかりません。もう三十超えた社会人なんだから、恐らくいろいろと思うところがあるのでしょう、でも、それらを束ねて簡潔に表す言葉がみつからないから、「ちゃんと」になったんだとは想像できますが・・・

翻って、私自身なら、同じ問いにどう答えるか?
うーん・・・やっぱり今だったら「賢い人」かなぁ。
ここで「賢い」というのは、学歴とかステイタスとかには関係なくて、もっと純粋に、物事に対する分析力とか深い洞察力みたいなものを持ち合わせている、ということ。
私たちは、他人や世間一般(なんて抽象的な言葉)のモノの見方(物差し)に全く影響を受けないでいることなんかあり得ません。でも、それがわかっていながら、どれだけこの情報洪水の中であがいていられるか、どれだけ自分自身の考えや生きざまを確立しようと模索できるか?
もちろん最終的な結論なんかでるわけない、常に世の中も自分の内面も変化しているんですから。ある一つのことに関しても、最初はAだと信じ、やはりBじゃないかと疑い、ああ結局Cなのかとまたひっくり返し・・・いろんな角度、次元から、見つめ続けていくことになります。
客観的に醒めれば、それは答えのない方程式を解くこと、まるで徒労にすぎないこと。だけれども、その徒労をあえてやっていく姿勢がないと、人間ってだんだん柔軟性がなくなって、へんに頑固に守りの人生に入っていって、なんだか生きていくことそのものが機械的でつまらなくなってくるように思うんですよ。それを大人になることと勘違いしている人もたくさんいるようだけど、もう早々と棺桶に片足突っ込んでいるようにしか見えない。少なくとも、私にとっては魅力ないです。

ということで、あなたが好きなのは、どんな人?


親亀コケたら

この前の日曜日は、うちのオコたんの誕生日。ちょうど二歳になりました。
それで、というわけでもないんですが、オコたん連れてピクニックに出かけました。何のことはない、ただ、そのへんの公園までオコたんを自転車の前かごにのっけてって、ベンチや芝生のうえなどに陣取り、買ってきたお弁当食べるだけなんですけど。この行為を略して「オコピク」。

いつも室内のマンション猫ですから、ちょっとは外の空気も吸わせてあげなくちゃね。でも、なんか本人は嫌がってるみたい。嫌がるというか、怖がるというか。
犬を散歩させてるのみてると、犬はすごく楽しそうなのに、うちのオコたんときたら、さあ着いたよ、と自転車から降ろしても、持ってきたバッグに頭からもぐりこんで、中から出てこようともしない。地面を歩いてみようという気もないんです。
いや、好奇心は強いと思うんですけど、なにしろ自分の知らないところだと、怖くて固まってしまうみたいです。とくに戸外だとね。首輪もつけてませんが、こんな調子ですから逃げる心配は全然なし。それどころか、ちょっと離れたところ(10mくらい向こうにある木製遊具のうえ)に置き去りにして、どうなるか見ていたら、こっちに駆け寄ってくるでもなく、ただひたすらその場にうずくまって、「にゃあああん!うにゃああああん!」と情けなく鳴いている。まるで迷子になった幼児。家の中では傍若無人なのに、これでは典型的な内弁慶です。
「オコたん!」と呼びかけてみても、まだじっとして鳴きっぱなし。姿は見えるし声もかけてるし、私がいる場所はわかってるのに、足がすくんで動けない様子。鳴き声を聞いた小学生の女の子がオコたんに寄ってきて撫でてやると、もうそっちに甘えてすがりつこうとしてる。
おいおい、おまえの飼い主はここにいるんだけど?
あんた、ちょっと優しくされたら誰でもええんか?
ったく、自活能力ゼロ。
こんな調子だと、一人でどこかに放り出されたら、とても生きていけないでしょう。次の飼い主が見つからない限り。まあ、生後二ヶ月になるやならずで、こいつをひきとって、こんなふうに育てたのは私なんですけどね。都会で猫を飼うってこういうことなんですよ。だから、飼い始めたら、一生面倒見るつもりで。猫にもよりけりだと思いますが、だいたい10〜15年は生きるようですから、二年くらいしか生きないハムスターよりはずっと覚悟がいります。

人のこと言えないんですけどね、私も。
自活能力ないし。っていうか、ご飯つくったり洗濯したり、身の回りのことはまあまあできるんだけど、お金を稼ぐ能力がない。あるのかもしれないけど、まだ見いだせない。
思えば中国留学から帰ってきて、しばらくは職探ししてたんですよね。でも、不景気だし、三十くらいの女って、雇ってくれるところがない。うん。仕方ないでしょう。そりゃ私が社長でも、そんな微妙な年齢の女は、よっぽどキャリアがあって即戦力になるという場合を除いては、新規採用などごめんだと思いますよ。だって、職場に慣れてやっと戦力になったかと思っても、「私、結婚します」って辞められるかもしれないし。そうなったら会社としては丸損だから。
それに、私にとっても、やりたいことをさせてくれる職場がなかなか見つからなかった。私はせっかく留学までしたんだから、中国語(普通語)を生かしてできることがないかなぁと思ってたんですよ。
向こうでは、日本企業との合弁会社が立ち上がってたり、各銀行なども支店を開こうとしてたんですが、現地の中国人労働者と日本企業側のあいだには、けっこう摩擦があるんですね。日本から派遣されてくる日本人社員は、なるほど現地のことは多少なりと勉強してきているかもしれないけれど、新聞とか本で読む外国事情って、あまり信用できないんですよ。表面しか見てないっていうか、恣意的に脚色されてるんです。記者なんかが書くときは、まずはじめにデータがあって、いろんな情報があって、それらを元に「こう書こう」みたいな方向性があらかじめあって、そのうえで書いてる。そこに行って生身の人間として住んでみると、実際に受ける印象はそういうのとはまた違うんですよ。だから、コネクションとかメンツで動いていく泥臭いところ、慣習や考え方の違いの壁にぶつかって、「なんでこれができない?」みたいなフラストレーションがたまるんです。私としては、そこでそういう摩擦をできるだけ和らげるクッション役みたいなのができないかなぁと。きっとすごく難しいんですけどね、本当にやりたかったのはそういうことでした。

でも、就職活動してるうちに諦めちゃって、ひとつだけあった香港行きのチャンスは、自分から蹴ってしまいました。そこの食品会社では香港のデパートに和食のデリコーナーを新設するプロジェクトを考えていたみたいで、採用したら香港へ行ってもらいたいと。香港は物価も高く広東語だし大陸とはムードが違うし、仕事の内容も私が責任をもってできるかどうかわからないと思った(要するに自信がなかった)ので、悩んだ末、辞退させてもらいました。自ら面接してくれた社長はまだ40代後半くらいの人で、話も面白いし、何より目に力があって気迫に満ちた魅力的な人だったんですけどね。それまで何度か面接受けましたが、あんなカリスマ性のある人にはお目にかかったことなかったです。いかにも中間管理職のやりそうな姑息な面接の駆け引きなんか一切せず、人を見透かすような鋭い目で、会社の未来図を熱く語る人でしたね。やはり「鶏口となるも牛後となるなかれ」というか、たたきあげの一代目社長には何かある、と思わずにはいられないような人でした。
あのとき思い切って香港へ行っていたら、きっと今の生活とは全く違った人生が待っていたでしょう。あれは、まさに運命の岐路だったんです。
でも、私は行かないことを選んだ。
なんででしょうね、いい話だったのに。神様が「おい、ひとつチャレンジしてみるか?」とばかりに投げてくれたチャンスだったのに。だけど、私は自分の意志で、というより本能的にそれを退けた。頭では、これは今の自分から大きく脱皮できそうな凄いチャンスだ、と思ってるんですよ、でも、何か心のどこかにひっかかる部分があって飛び込めなかった。そのとき、つくづく思いましたね、「私は会社でお金儲けをするのには向いてない」と・・・それから本腰を入れて結婚を考え始めました。
結婚に逃げたというより、自分の資質に見合ったポジションへと路線変更したわけです。

うちには2匹の猫がいるようなもんです。
オコたんと、私と。
まー、オコたんは実際的には何の役にも立たないけど、私は多少なりともこの生活を維持するのに役立っているつもりなんですけどね。
でも、親亀のうえに子亀、と考えたら、一番したの親亀はやはり夫。これがコケたらどうしようもない。
以前、文学学校での級友ふたり(三十代前半&五十くらいの女性)と、お茶を飲みながら話していると、子供なしの専業主婦っていいよねー、気楽じゃない、ダンナさんは国立大学にお勤めでしょ、とか言われて、
「ううん、そんなことないわぁ。ダンナが病気になったり死んだりしたら、もうアウトでしょ。手に職もってないって不安定な身分やもん。もしものとき、どうやって生きていこう、とか思いますよ」
と言ったら、二人がゲラゲラ笑いだして、
「いやぁ、大丈夫。あんただったら、何をやってもじゅうぶん生き抜いていけるって」
「そうそう。あれだよね、水商売とか向いてそうだよね」
「うんうん、向いてそう〜。ピッタリ!」
とか言うんで私はビックリ。
「なんでなんで?だって、私、きれいでもないし若くもないし、水商売で受けるような女じゃないもん」
と言ったら、またしても笑って、自称オジサンの気持ちがわかるこの二人、こう言うんです。
「違うの、そういうのはさー、オジサンって求めてないんだよ」
「そうそう、きれいとか若いとか、そういう問題じゃないんだって」
(むっ。こいつら、私が「きれいでもなく若くもない」って当然のように認めやがったな(-_-;))
「うそ。じゃー、なんなんですか」
「なんていうかなぁ、そのあんた独特のノリじゃない?ほら、きれいなだけの若い子って、ちやほやされるけどオジサンの話し相手にならないんだよ」
「そう、そんな子には水割りつくってもらうだけで、けっきょく飾りなんだよねー。あんたみたいに明るくて物怖じしないで『きゃー、いやーん、何言ってんですかぁ、ポンッ』とかいうノリが水商売向きの素質なんだよ」
「もしあんたがそういうバーとかラウンジでも始めたら面白いね。あたし絶対に行くから!」
「うんうん、あたしもー。なんかすっごいホッとできそうー」
また二人でギャハハハ。
・・・なんやねん。
帰りの電車で、ちょっと考え込んでしまったことです。

絶対、私には水商売なんか似合わないと思ってたし、他人もそう見るだろうと思ってたのに。
うーん。ちょっとあそこではテンションあげすぎかもしれない。
私は本当はソファに寝転がって本読んでるのが好きな、いたって物静かな女なのよ。
って、知らない人とワイワイはしゃぐのもわりと好きだったりするんですけど。
そうだ、酔っぱらいの面倒みるのはいくらなんでもウンザリだから、ひょっと夫がどうかなったときには、オジサン受けしそうな落ち着いたムードの喫茶店でも開こうかしら。スタバなんか女子供に占領されれて恥ずかしいし、ドトールなんかビンボーくさくて入れないって人を対象にね。内装はお洒落なアンティーク調、音楽はクラシックを控えめに。ちょっといい感じ?でも、オジサン客から、
「ママ、ホットちょうだい」
とか言われたら、背筋がゾゾッとしそう。ママっていうのが嫌ね。なんだかどうも・・・
ふうむ。・・・やっぱり、
「おーい、親亀、頼むからコケるなよ〜」
と祈っておこうっと。


私は、研究者の妻

ときどき考えるのですが、「私って本当に安上がりな女だなぁ」と。
日頃から贅沢しないし。
誕生日だから、結婚記念日だから、といって「○○買ってよ〜」なんて、夫に高価なものをねだらないし。
うちぐらいの生活レベルの主婦なら、もう少しはこだわっていいはずの化粧品とか洋服なんかにも、ぜんぜんと言っていいほどお金かけない(このへん、夫には全く理解してもらってませんが)。
もっとも、贅沢願望がまったくないわけじゃなくて、もっともっとお金がたくさんあって使い道に困っているのなら、お仕立てのスーツを着てオペラ鑑賞に出かけるとか、もっといい家を買うとかしてもいいと思うのですが、今の実生活で高い洋服や宝石だけあっても仕方ないし、・・・っていうか、ちっとも有り難みがないんですよ。だから、固執しない。

昔から、そうです。もう、そういう性格なんです。私はそれがいいことだと思っていたのに、どうも一部の男の人たちには、そうでもないみたいで不評です。「あれ買って〜」「あれ欲しい〜」という女のほうが、わかりやすくていい、と言うんですよね。
以前は、その男性心理がよくわからなかったです。でも、男性は、どうも、あからさまに何かをねだられるのが案外と嫌でもないようです。「お金で済むことは、精神的なものを求められるよりずっとラク」なのだというわけです。
あるとき夫に、「私のような安上がりな女が妻でよかったねえ」と言えば、
「あほ。僕のもん、おまえがぜーんぶむしり取っとるやないか。そのうえおまえは気難しい女やから、こっちはもう機嫌とるだけでクタクタ。バッグや化粧品買うだけで済むんやったら、そのほうがなんぼかラクや」と言われてしまいました。
ふーん。そうですか。あー、そーなんですか。

さて、九州大学医学部教授がお書きになったこういう文章があります。
生徒の質問への答えなんですが、タイトルが「家庭と研究の両立は可能ですか?」。

http://www.bioreg.kyushu-u.ac.jp/saibou/FAQ4.html

これ読んで、ううむ、と考えてしまいました。
なんかすごい納得できるんですけど、どうも現実的なことを考えたら、いろいろひっかかる点がある。女性の研究者という概念はスッポリ抜け落ちてるんだなぁというのは置いておくとして、、
「男(正確に言えば、この先生ご自身、だと思いますが)は、仕事ができてナンボ」であって、仕事ができない男はステイタスも持てずプライドも持てなくなり、人間としても膨らみがなくなる。だから、研究者なら「研究で成功することイコール幸せな人生を手に入れること」である。そうしないと女にもモテないし、また、そういう「デキル男」に惚れる女でないと、よき伴侶たりえない・・・こういう部分とか。
ここでいう「女」が、一般的な女全体を指すのか、それとも男性研究者の伴侶としての女を指すのか、ちょっと判然としないですが、前者だったらだいぶ村上龍入ってるというか、渡辺淳一入ってるというか、ほんものの女である私には、「う〜ん???」って感じです。
社会における男の勝負を支え、その価値観に追随する女でなければ「人生を共有するに値する相手」にならない、というのは、どういうことかと。
なんか昔見たケン・ラッセルの映画を思い出しましたよ。
「恋人たちの曲/悲愴」っていう作品。これはチャイコフスキーの半生を、いかにもケン・ラッセル監督らしく、毒のある調子で描いた作品です。
チャイコフスキーは女を愛さないホモなんですが、彼の作曲の才能に惚れた女からファンレターをもらったのが縁で彼女を妻に迎えるわけです。でも、なにせ実はホモ。当然、結婚生活は上手くいかない。夫から顧みられず、気の強い妻はだんだん精神がおかしくなっていって、最後は精神病院行き。
悲劇的な結末なんですが、狂ってしまってからも妻は、「あの有名で素晴らしい作曲家、チャイコフスキーの妻である」、ということにすっごく執着してるんですよ。もうこのあたり、個性派女優グレンダ・ジャクスンの演技がゾッとするほど上手い。
いかれた顔のどアップで最後のセリフ、「わたしは、チャイコフスキーの妻」・・・
こういうふうに思い込める女がいいんですかね、研究者の伴侶には?
「私の夫は世界でも最先端の研究をしておりますの。ええ、とても尊敬しておりますわ。彼を家庭の雑事などに関わらせず、ひたすら研究に打ち込ませてさしあげるのが妻たる私の努めでございます。ほほほ」

あのさー、結婚したら長い時間を共に生きていくわけで、必ずしも順風満帆なときばかりではないでしょう?いざとなったら、これまで顧みなかった家庭を嫌でも顧みなきゃいけないこともあると思いますが。で、そのときになってから顧みても、家庭の真実など何もわからなかったりして。
「研究者として成功しなければ、オレの人生は真っ暗なんだ。だから、家のことにかまけてる時間なんぞない。まぁ家のことはお前がしっかりやっといてくれ。えっ、お袋がボケた?うん、お前のいいようにしろ。ヘルパーでも頼め。ハァ?長男の進学?お前が先生と相談していい学校みつけてやってくれ。なに、次男の様子がおかしい?ゲームセンターに入り浸り?おいおい、つまらんことでぐだぐだ言うなよ、そんなのささいなことじゃないか。なにしろオレは世界でも最先端の研究やってるんだ、時間がない、時間が。しょうもないことは相談するなよ!」
いくら仕事ができても、こんな男に、物のわかったいい女がいつまでもついていきますか?
女に生活力があれば、離婚一直線でしょう。

まあ、でもわかりますよ。
なんかこう、闘争心旺盛というか、女もそうだけど男は特にそういう生き物ですね、競争、勝負が好き。勝ち組、負け組、とか。
それは人生を退屈しないで生きられる重要な資質だから、大事にすべきだと思うけれども、心のどこかでそれに対して醒めていることも大事だと思うんですよ。しょせん社会的な勝ち負けなんて、他人が決めることだから。それと、一個の人間としての幸福、充実、プライドというのは、また別でしょう。社会的なステイタスがどうというぐらいで人間としてのプライドまで見失うなら、そのほうが軟弱だと思いますね。
社会におけるステイタスや成功と、人間としての誇り・自尊心を直にリンクさせるのは間違い。なぜって、世の中は機会平等ではないから。人間社会は、完全無欠のシステムとはほど遠いから。これは言い訳でもなんでもなくて、事実。金持ちの子に生まれるか、貧乏人の子に生まれるかで、その後の人生、ずいぶん変わってくるでしょう?日本に生まれるか、北朝鮮に生まれるかで、人生ずいぶん違ってきますよね?同じ「人間」でも?
人間としてのプライドというのは、結果としての社会的なステイタスに寄りかかって持つものじゃない、自分のおかれた環境に対して、最善を生ききる過程のなかでこそ持つものだと思います。
研究を極めたい、後世に何かを残したい、という気持ちは、子供のない私にも(「には」、か?)痛いほどわかります。
でも、結婚生活が自分にとって手枷足枷の重荷だと思うのなら、いっそ結婚自体を諦めたらどうですか。
自分のDNAを残すより、ミーム(リチャード・ドーキンス呼ぶところの、『人間の脳から脳へと模倣によって伝達される文明の複製を継承する自己複製子』。「利己的な遺伝子」参照)を残すほうが大切ならね。

私自身は、たぶん研究者の妻として理想的ではないんだと思います。
もっと夫と正面から向き合わないようにして、議論をふっかけたり話しかけたりしないでいたら、夫の研究もずいぶん進んでいたでしょうか?
喧嘩して「あんたってアホ?難しい計算はできても、人の気持ちはわからんの?」とか言うかわりに、「あなたは偉いわ、頭がいいわ、尊敬してるわよ〜」とお経のように唱え続けたら、どんどん研究が進んでいたでしょうか?
「ちょっとぉ、障子紙はりかえるのぐらい手伝って!」と言うかわりに、「いいの、いいの。気にしないで〜。私ひとりで出来るから〜」と言っていれば、彼の研究成果もあがったでしょうか?
正直、ときどき、「この人、独身でいたほうが、研究者としてはよかったかもしれんなぁ」と思います。
家だって、前は大学のすぐそばのアパートだったし。
アパートにはテレビもなかったから、ついダラダラ見たくなる誘惑もなかったし。
アパートに帰っても、誰も待つ者もおらず、ご飯用意してくれてる者もなかったから、気兼ねなく研究室で夜更かしして、そのまま泊まったりできたし。
土日だって、誰と一緒に買い物につきあわされるわけでもないから、研究室にこもっていられたしなぁ。
つらつら考えると、あー、お気の毒に。
でも、自分で私と結婚するって決めたんだから、しゃあないわな。

「私は、研究者の妻」
あ〜ひゃひゃひゃひゃ〜


原点回帰

秋の長雨というのでしょうか、いつまでもグズグズと降り続くこのお天気に、いいかげん嫌気がさしている今日このごろです。湿気が多いとモワ〜っと広がってしまう髪質なので、ストレートヘアをキープしたい私には、雨は天敵。うっとおしいこと、この上なし。明日からは晴れるかな?

ええと、ご報告。カスピ海ヨーグルト、友だちが持ってきてくれて、牛乳パックで作ってみました。簡単にできましたよ。で、まず夫に食べさせ、そのあと私も食してみました。うーん、なんか、水っぽくなくて「ツルン+もちっ」とした感触。味自体は、そんなに酸っぱくなくて、まったりしてるかな。とにかく、今くらいの気温だと、家の中に半日ほど放置しておくだけでできるので、お手軽なのがいいですね。友人によると、お腹の調子が良くなったとか、お肌のトラブルが改善された人がいるということですが、食べ続けてみなければね。こればかりは。私はそんなに感激するほど美味しいとは感じませんでしたが(もともとヨーグルトという食べ物に無関心なタイプ)、夫は「なかなか美味しいんとちゃうか、うん」と言って食べています。

例の文学学校の先生たちと立ち上げる同人誌の件は、今月〆切なので、一応ごく短い短編(400字詰原稿用紙13枚)を書きましたが、書くにあたって一番意識したことは、「原点回帰」。
なんだかね、学校に行き始めて、多くの人の作品を読んだり、人からあれこれ批評されると、やはりその都度、考えることも多かったんですよ。で、いろんなことにすごく注意深くなったと思うし、それはいいんだけど、ちょっと「人の目を意識しすぎて書くこと自体がつまらなくなった」ように感じたりもするんです。
例えば、自分としてはこういう描写は面白くないと思うけれども、あの先生、あの学校のメンバーが好きそうだから入れてみるか、みたいなね。書いているあいだ、もう常に、あの人この人の顔がちらつく。一行書くごとに、その人たちがどう受け取るかを考えている。そういう意識で書くと、たとえ、その作品、その描写の評価がまずまず良かったとしても、こちらは複雑な心境というか、はっきり言うと誉められてもつまらない。昔昔に、何にも考えず、人の評価など計算することなく書いた作品のほうが、稚拙で洗練されてもいないけれど、飾り気のない自分らしさがあって、私には可愛いんですよね。
他人が読んでつまらないものを発表しても仕方ないけれど、自分が読んでつまらないものを書いても意味ないじゃない、と思います。うまいことバランスをとっていかなきゃ。
どうせ、誰も広く読まないような超マイナーな同人誌、自腹を切って発表するなら、自分のカラーというか持ち味を出さないと損だと思うようになりました。だから、外部の批判や分析の嵐にもまれて、すっかり硬直してしまった「書く自分」を、ゆったりお風呂に浸けてマッサージして、好きなこと好きなふうに書けばいいんだよって言い聞かせて、リハビリに励みました。まだ上手にその成果がでたかどうかわかんないですけど、とにかく、そういう意識でもって臨んでいくことにします、これからは。
まずは、リハビリ第一作。「汝、我が名を呼ばわるなかれ」(PDFファイル19KB)。

ところで、いちおう科学者の末端に籍を置く夫と結婚して以来、それまでお会いしたこともなかったような高学歴、インテリ研究者の方々にお目にかかる機会がしばしばあるわけですが、はじめは、珍しいなぁ、どんな人たちでしょう、と興味しんしんでした。
何しろ、私は勉強なんて、ほんとは高校まででやめたかった。でも進学したのは、働くのも嫌だし、キャンパスライフというのを人並みにやってみたかっただけなんですよ。進路決めるときも、国公立の大学を目指さなかったのは、そのころ共通一次というのがあって、それを受けるには数学やら世界史やら、とにかくいっぱい勉強しなきゃいけなかった。面倒くさがりの私は、「外国語学部に入りたいだけなのに、大嫌いな数学なんかやってられるか、けっ、バカみたい」と思いました。それで、できるだけ受験科目が少なくて、そんなにハードな受験勉強しなくても行けそうなところで、下宿とかしないでも通えるところにある私立大学を選びました。
まあ、そんな感じで学歴とか偏差値とか、そう意識したことなかったですから、大学の先生や大学院の世界なんかも全然知らなかったです。このごろ、夫に教えてもらってようやく、大学四年でたら修士課程があって、それをM1とかM2とか呼んでて、その先には博士課程があって、これはドクターのDで現されて、D論ってのは博士号とるための論文のこと、博士号を取るとポスドクっていう身分があったり、あるいは助手になって、それから助教授になって教授になって・・・という学者社会のヒエラルキーっていうか、そういうのがボンヤリわかってきました。(もちろん、ドクター取っても企業に就職する人もいますが)

これまでは、「東大・京大?へー、すご〜い!!なんか、雲の上の人って感じぃ!」って感覚でした。畏れ知らずの私のことですから、「ンなこと言っても同じ人間じゃない」とか心でちゃっかり思ってたりするんですが、やっぱり、それなりに受験戦争をくぐり抜けて来た人たちは、言うこともやることも、どこか違うのかな、「へぇぇぇ、さすが!」って感じなのかな、と期待してるんですよね。
「学歴は人間性とは無関係」って、誰でも頭ではわかってても、それなりのインテリ職についてたりすると、無意識に「出来た人柄」ってのも期待してしまいませんか?
だ・け・ど。
この四年間、関心を持っていろんなところで見聞きした結果、インテリ学者がいい意味での「雲の上の人」っていうイメージは、すっかり吹き飛ばされてしまいました。なにしろ、一見、俗っぽくないように見えても、やっぱり俗っぽいんですよ。それは、芥川賞作家だって、なんだって同じなんでしょうけれどね。確かに、お金にはそんなに執着していないように見えますが、象牙の塔の中にいるのは、ごく普通の人なわけです。派閥だってあるし、他人の業績に嫉妬したり、スキあらば足を引っ張ったり。個々の知性や学歴を評価されることにかける、ものすごい執着。その片鱗は、無冠の一エンジニア田中氏がノーベル賞をとったときの「識者のコメント」とかにも表れてると思いました。
まあ、それが学者の飯のタネですから、そういうものっちゃそういうものなんでしょうけれど。
だから、それはそれでいいんですよ。
本人たちが選んだ戦場だから。そこでは思う存分、俗っぽく戦えばいいんです。
でも、悲しいのは、自分がそのヒエラルキーの概念に巻き込まれそうになってしまうこと。私自身が夫に対して、「やっぱりXX才までには、なんとかして教授のポストをゲットしてほしいわねぇ。それも三流私大なんかじゃ駄目、旧帝国大学7校のどれかでないと」なんて思うようになったら、もう終わり。
うん。自分でも、終わりだと思います。
客観的にみれば、そういう自分の姿って、醜いじゃないですか。
夫自身がそう思うのは自由だけど、妻の自分が何をするわけでもないのに、世間から見た夫の業績ばかり気にして、落胆したり鼻にかけたり・・・単純な俗っぽさとはまた違う醜さがあると思いませんか?
夫婦だから、一心同体的に、そうなっちゃうことが多いんでしょうけど、私は、い・や・だ。
「生活に破綻をきたさん限り、好きなところで好きなように研究したらいいやん。私には、あんたの研究の内容はわからんけど、北海道の白熊大学でも、沖縄の椰子の実大学でも、あんたが行くと言うんなら、一緒に行く。住めば都、どこででも楽しみを見つけられるのが私の才能のひとつやからさ、私のことは心配いらんよ」
結婚したころは、確か呑気にそう言ってたんだから。

原点回帰。
私よ私、私に戻れ、硬直しかけた手足をのばし、深呼吸して空を見あげて、いち、に、さん。
明日には、晴れるかな?




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