書くオジサンたち

文学学校も2年目に入りました。
春からのクラスは、今までのメンバーの半分がいなくなり、今度入ってきたのはオジサンが多いです。
昼間のクラスだから、現役ビジネスマンとかじゃなくて、もう退職した方ばかり。六十すぎてる人が多いですから、きっと家庭では「おじいちゃん」なんでしょうけど。でも、見た感じ、まだまだ元気!
何を思って文学なんか志すのかと、すごい不思議です。
ある人いわく、「自分の生きた証みたいなのを書き残したい」そうですが。うーん・・・トシを取ると、そういう気持ちになるものなのかなぁ。
とにかく、雰囲気がガラリと変わってしまいました。
オバサンとはまた違った意味で、興味深いです。やはり、社会人としてはキャリアを積んでこられた方が多いので、書くものも批判する論点も、なんとなく女、それも主婦の感覚とは違うんですよね。どこか社会的というか。まだ始まったばかりですが、これからどんな作品が出てくるのか、楽しみです。

・・・と、ここまで書いてしばらく放っておいたら、その間にオジサンたちの作品をいくつか読むことに。
うーん・・・会社人間としての根性が抜けてないなぁ。なんというか、社会的視点というのが、もう自分そのものになっちゃってるというか。そんなふうに感じました。いまだに、肩書きを気にして名刺の交換してるような、そんな感じなんだなぁ。文章がね。
社会経験を積んでいるからって、小説が書けるとは限らないんだと思いました。
きっと、私のような(彼らから見たら)小娘に、自分の書いた文章をあれこれ批判されるのは、ヤだろうな。でも、学校は学校であって仲良し会じゃないので、言いたいコトは言おうと思いますけど。

このごろ、ちょっと小説書くのに忙しいです。
ホラー短編(約70枚)「黒い遊戯」は、もう書き上げました。
いやぁ、久々に一本書いたって感じ。これは実に楽しく書けました。まだ手を入れたい部分はあって、そういう意味では未完成ですが、一応PDFファイル(78KB)でアップしときます。
いま、それよりもっと短い30枚以内の普通小説(青春小説?)書いてますが、こっちは自分で書いてて、あんまり楽しくないかも・・・学校に持っていくつもりで、ウケ狙って書いてるからかなぁ(鬱)。


ブルーなこと

純文系の短編書きました。原稿用紙で28枚。こんど学校に持っていくつもりです。
一応、主人公が大学生の男の子、という設定になっているので、夫と友人(♂)の二人の男性にみせたところ、夫の評価は、「なにこれ。読んでて、ぜんぜん面白くない。何が言いたいのか、さっぱりわからん」とボロクソ。
もうひとりは、「いやぁ、楽しい純文学って感じで、僕の好きな短編。読了感はすごく良かった」と正反対の評価。
うーん・・・人の好みはそれぞれ。ということで、今度の批評会が楽しみです。

でも、今のクラス、早くもちょっと殺伐としてきた感じも。
まあ、私もその中のひとりだから、クラスの雰囲気に対する責任を免れないかもしれませんが。
やっぱりね、自分の作品を稚拙だからって完膚無きまでにこきおろされると、誰でもハラが立つっていうか、落ち込むもんなんですよ。だけど、それをいちいち顔に出していたら大人げないし、第一、あの学校のあのクラスで評価されるかどうかなんて、いわば、あまり重大なことでもないじゃないですか。そこでの評価が、具体的に何か実生活に影響するとかいうわけでもないし。世の中、広いんだしね。でも、感情的になっちゃう場合もあるんだなって。
自分なりのプライドは持っていてもいいし、持つべきなんだけど、その持ち方が問題。
あまり卑下されるのも嫌味だけど、あまり傷つかれるのもなぁって感じします。一応、みんな、たぶん、その人のために「よかれと思って」批評してるはずだし。中には自分のたんなる感想を、頭から押しつけてくるような人もいますが・・・
まあ、人のことは言えませんし、私もちょっと口を慎んだほうがいいかな。
しょせん、「みんなの技術向上のため」とか思っても、そう受け取ってもらえなかったら逆効果だし。
偉そうに言えるだけのモノを書いてるかって言われると・・・ねぇ?
でも、そんなこと言ってたら、誰も何も言えなくなっちゃうんだけど。

こんどは、百枚以内で、ちょっとエキセントリックな純文学に挑戦するつもり。
これは問題作になる予定。なぜって、書くことそのものや、書く人自体が必然的に内包する「醜さ」というものを内側から告発する内容だから。もちろん、そんなことを直接的な自然主義の手法では書けませんから、すごく象徴的でシュールな作品になると思います。
去年は書くことについて一生懸命に考えていて、書くことそのものはできなかったけれど、今年は実際に手を動かしてみようと思っています。同人誌に投稿するための短編も書かないといけないし。

ところで、ちょっとブルーなこと。
十年くらい前にデパートで買った薄い水色のネグリジェの首まわりが、すりきれてモロモロになっているのを発見。「すりきれたぐらいで」と思えるあなたは悩まなくていいかもしれませんが、「ねまきんぐ」である私の美意識では「すりきれたねまき」なんて到底許せない代物。すごく気に入って、大切に着ていただけにショックです。といっても、もう十年だからなぁ・・・
肌触りのいいコットンで、フリルやレースがたくさんついた、超メルヘンなネグリジェは、ずーっと私好みだったんですよね。あのデザイン、品質に匹敵するものが今後、見つかるかしら。ねまきフェチの私にとっては、あれを捨てなきゃならないと思うとウツです。他にもいっぱいもってるけど、一番の気に入りは、あれだったから。ふだんはモノにあまり執着しないけど、ほんとに気に入ったモノとお別れするのは寂しいですね。

定番の香水なんかは、なくなればまた同じものが買えるけれど、服のたぐいはね、なかなか再現できない。思い入れのない服なら、汚れたり破れたり流行遅れになればポイすればいいけど、あのときこの服を着ていたなぁっていう「想い出付き」の特別服ってあるじゃないですか。それはやっぱりためらいますね、捨てるの。まあ、あんまりそういうのはないんだけど、たとえば、印象に残る旅先で買ったとか、むかし誰それとデートするときに着たとか・・・
うーん、あのネグリジェ、捨てるべきか、捨てざるべきか。
あと、もう一回だけ着てから捨てよう。そう思いながら、今日も洗濯してしまう私です。


理性の衣

巨大掲示板2ちゃんねる内「ペット大嫌い板(現在のペット苦手板)」での実況中継から始まった、ハンドル名「ディルレヴァンガー」こと26才無職男による仔猫虐待死事件。あまりに衝撃的だったので、ずっと関心をもってウォッチしてますが、このたび6/6発売の週刊新潮に、その犯人像が(仮名ですが)比較的詳しく取り上げられました。目線は入っているけれども白黒の顔写真も載っています。

いまだに実名報道されないのが私には不思議なんですが、ネットのほうでは実名はおろか、実家の住所や電話番号、父親の名前や職業までもが晒されています。その内容にどれほどの信憑性があるのかわかりません。ただ、一連の流れをずっと見ていると、どうやらそれも真実らしく思われます。
公に発表されている犯人の言葉として、「猫を虐待したけれども、殺さず逃がしてやった。社会の注目を浴びたくてやった。今は反省している」ということなんですが、本人の書き込みでは殺したことになっているし、虐待写真を見た人たちの意見によると、「こんな状態で猫が生きていられたわけがない」と。
殺したか殺していないかは、写真でしかわからないのでなんともいえないと思いますが、たとえ最後の息の根を止めなくても、それに非常に近いところまではやった、少なくとも、猫が死んでもかまわないと思ってやった、ということは間違いないのでしょう。この犯人は、同じ掲示板での自分の書き込みによれば、前にもペットショップで買ってきたハムスターを惨殺しています。ハムスターにも猫にも、中世の魔女狩りにおける拷問でもここまで、というような極めて残酷な虐待を繰り返しています。
こういう理不尽な暴力性というのはいったい、何なのかなぁと思います。

私にはどうも、女がわざわざペットショップで買った動物を惨殺して喜んでいる図、というのが想像できません。女にも残酷さとか暴力性はもちろんあるし、実際に子供を虐待・折檻死させる母親や、クラスメイトをみんなでリンチにかける女子学生はいるのだから、男女問わず、人間というものにそういう野蛮さ、暴力性があるのだと言うこともできるのですが、何か、この小動物虐待というのは、ちょっと違うような気がするんですね。
女にとって、金銭欲とか、恨みや妬み、支配欲などの感情が暴力に結びつくことは考えられるけれども、小動物虐待というのは、わざわざペットショップで買ったり、猫缶でおびき寄せたりして捕らえた対象に暴力をふるうわけなんですよね。その心理状態というのが、ちょっと想像できないんです。
虐待する動物に深い恨みがあるわけでなし、虐待したところで何の得があるわけでなし(ネットで名前が知られることが、そこまでの得でしょうか?)、そもそも小動物は初めから非常に支配し易い存在なわけだから、やっきになって自分に従わせる必要もない・・・要するに虐待の動機は、完全な鬱憤晴らし、一種の快楽のように見えるんですよね。それが、女にはちょっと想像できないんですよ。
むかつくヤツを蹴り飛ばす快感というのは、まず「むかつく」という感情が先にある。だからそいつを蹴り飛ばすことで快感を得られる。これはわかります。でも、さしたる恨みもないんだけど、とにかく蹴り飛ばすことで快感を得られる、となると、わからない。蹴り飛ばしたいものは、目の前のものじゃなくて、もっと他のものだけれど、それを蹴り飛ばすのは容易ではないから、代償として目の前のものを蹴り飛ばす、これならわかりますけどね。
どこかの心理学者が言っているように、男の暴力性は性的衝動と関係があるのかもしれません。己の暴力性を解放することで、性的な快感を得られるのが、男という生き物なのかも?
こうなってくると、女の私には、もう訳が分かりませんね。
女はドロドロしてると言われるけれど、男だって。

ちょっと前に書いた十八才の気弱な男子大学生が主人公の短編なんですが、学校に持っていったら、案外と好評だったんですけど、「やっぱり女の人が書いた作品という感じがする」というんですよね。それはなぜかというと、「気弱な男が持っている鬱屈した暴力性みたいなものが出ていない」のだそうです。
うーん、確かにそのあたりの心理はよくわからないですね。もう少し勉強したいと思います。
まぁ、気弱な男だったらみんな自分の暴力性を鬱屈させてるものなのか、という疑問もあるんですけど。
しかし、男の人生も大変そうです。
自分のなかに女よりも強い性衝動とか暴力性があったとして、それをなんとかなだめて表面化させないようにしないと、現代社会ではルール違反の犯罪者ですからね。いま、ワールドカップなんか見てますけど、サッカーというのもかなり暴力的なスポーツじゃないですか。服をつかんだり足を蹴ったり、反則に違いないのに、やってますよね。で、フーリガン問題。ゴルフとかテニスの試合で観客が暴徒と化す、なんて考えられないので、やっぱり、それもサッカーというスポーツの暴力性が強いゆえなのかなと思います。
べつに、サッカーだけじゃなくて、ラグビーだってボクシングだって、暴力的なんですけどね。
スポーツというのは、ジェントルマンであることが前提とされた現代社会において、人間のうちに潜む獣性を比較的健全に発散させる上手い手段なのかもしれません。

あ、私はべつに暴力性を全否定してるわけではないんですよ。なんだかんだいって競争社会に生きていく局面で、そういう原始的なエネルギーがなければないで困る場合だってあり得るんだし。
ただ、普段はちゃんと服を着ていなくてはならない、とは思いますけど。
エデンの園を追われて以後の人間が、局部にイチヂクの葉をつけるだけでなく服を着るようになったというのは、すごく象徴的ですね。服を着るという行為は、自分の獣性を理性でコントロールする、野放しにしない、人目にさらさない、ということだと思うんです。
ネットのうえで自ら理性の衣を脱ぎ捨ててしまった猫虐待犯「ディルレヴァンガー」が、同じくネットのなかで、今度は他人から顔や住所を晒されて丸裸にされてしまう様子は、非常な皮肉ですね。


いつかは・・・

毎年、サマー商品が出て、限定モノが出て、入れ替わりが激しく、もう収拾がつかなくなってきたような香水業界です。なんだかなー。
昔からフレグランス・フリークの私としては、「軽くなったなぁ」という感じ。
まあ、中学生坊主が「ブルガリ・プール・オム」つけてます、とかいう時代になったら、ある意味、香りの「粋」という意識は、もう終わりかと思いますね。
それだけ市場が成熟してきたというより、やっぱり「好きなものつけたらイイじゃ〜ん、個人の自由だしぃ♪」みたいな大衆感覚が、香水の格とか品というものを良かれ悪しかれ破壊していくんでしょう。

で、移り変わりの早くなった新作フレグランスは、トワレかオードパルファムあたりで、香水(パルファム)が出てこない。そのぶん、お値段も安くて気軽に使えるんだけれど、やっぱり合成香料をたくさん使ったチューインガムみたいな香りばかりでなく、もっと独創的な芸術性を感じさせる本格パルファムが出てきて欲しいです。べつに敷居が高ければいいというものではないけれど、あまりに易きに流れすぎてるみたいな気がして。

私が今まで使ったことのあるパルファムは、シャネルNo5、アナイスアナイス、メタル、ローレン、サムサラ、ローラアシュレィNo1、レールデュタンなどです。これらのトワレやオードパルファムも使いましたが、やはり、パルファムはそれらと一線を画しています。
まろやかというか、自然というか、香りの美しさとは本来こういうものなのか、と思わされますね。同じNo5でも、トワレと香水では、ぜんぜん別の香りに感じられるほどの差があります。そうでなくては、あの値段の差もないでしょう。
もちろん、ファッションもカジュアル化してますし、ライトな香りは普段使いに重宝なんですが、あのパルファムの美しさを思うと、ときどき物足りなさを感じてしまいます。私自身は、もういい歳になったことだし、これからはいたずらに新作を追いかけるのでなく、自分の香りを何種類か決めて、量より質ということも考えたいですね。

ちなみに、使ったパルファムで成功だと思ったのはローレン、アナイスアナイス、メタルです。
どれも、さっぱりしたフローラル系。トワレだとさっぱりしすぎて軽くなる香りですが、パルファムだと程良くまろやかな重みがあって、一気に高級感がでます。(いまではメタルはもう廃盤になり、ローレンも日本では入手困難ですが・・・(T_T))
No5は世界中の女性が一度はまとってみたい名香のひとつ。憧れてたんですが、ゴージャスなフローラルが広がるミドルノートはいいとしても、ラストに近づくにつれ、パウダリーな甘さとムスクの香りがワッと押し寄せてくるので、いまいち私の好みには合いません。普段、フレグランス類はウエストあたりにつけるんですけど、もっと鼻から離してスカートの裾とか膝うらあたりにつけたほうがいいかも。
香りの老舗ゲランのサムサラは、あまりに妖艶かつ高尚なオリエンタルで、これまた人を選ぶ香り。いかにも大人のいい女御用達という感じ。四十代後半でつけこなせたらかっこいいなぁ、という気がします。でも、ごく薄くつければ今の私でもひょっとしたらOK??

合成香料の多いトワレやオードパルファムは、それなりに香りが安定していて持ちがいいのですが、高級な天然香料を使用した香水は変質しやすいので、大金(?)を無駄にしないように試香をちゃんとしてから買いたいですね。
車の宣伝で、「いつかはクラウン」というコピーがあったそうですが、私も、いつかはパトゥの名香「ジョイ」あたりを<パルファムで>品良く香らせてみたいと思っています。んー、難しそうだけど(~_~;)


2002FIFA【二国共催W杯】 諸問題を考える

ここでは、六月に行われたワールドカップ、主に韓国戦での誤審問題と、マスメディアの偏向報道、そして、そこから派生する諸問題について考えます。
長くなりそうなので、「聞いて」とは別枠にしました。何回かに分けて書く予定ですので、更新すれば、その都度お知らせします。


叔母の怪奇話

ふー。蒸し暑いですねぇ。このごろ大阪では、一歩外に出ると、まるで温水のなかにいるよう。ひたすら、じとーっとしています。もうクーラーは昼も夜もフル回転。ちょっと休ませてあげたいと思うんだけど、昼間もたいてい家にいる私には無理。ということで、頑張れ、クーラー!

文学学校は今週で終わり、夏休みに入ります。
また秋から再開ですが、けっこう休みが長いんですよね。で、その間に同人誌に発表する短編を書かなくては。今まで書いたのを少し直して出してもいいじゃない、と言う人もいますが、わざわざお金かけるんだから、それに見合っただけのものを、と思うんですよね。
案はあるんですが、まだまだ細かいところまではつめてません。これからです。
小説って、構想を練っている段階ではうんうん苦しく、いざ書き始めたら無我夢中、最後まで出来上がって細かい手直しをしているときが一番楽しいです。

ところで、ついこのまえ、徳島の叔母さんが来てました。
で、母と二人、いろいろ子供時分の昔話に花が咲いてたんですけど、これが面白い。
なにしろ終戦後の田舎のことですから、私たちが知らないことばかり。菜種を栽培して、その種を製油所にもっていって油にしてもらうとかね。畑の大豆をとって味噌や醤油にしたり。昔はなんでも手作り。親から子供たちまで、みんなが食べるために一日中、なんだかんだと労働しなければいけないのでした。
で、みんな頭にシラミがわいていたとか、服にノミがついていたとか、それを梳き櫛で取ったり、手でつぶしたりと、私たちからすれば、うぎゃーっていう話も。
みんなが貧しかったんだなぁって思います。
こんな話は貴重なので、私、親が惚けないうちに、ぼちぼちと親の子供の頃から現在までの歴史をテープにでも聞き取っておこうかなと考えています。それが私自身の自分史にも重なるわけだし。私が子供の頃のこととか、子供の目でみたらこんなふうに見えた事件も、大人の目で見れば実はこうだったんだよ、というようなこともごろごろあるだろうし。
まあ、少しずつ聞き取っていきたいと思います。

で、今日は叔母さんがしてくれた「本当にあった怪奇な話」をふたつご紹介します。
その一は、役場に出没する幽霊。
そこの町役場を増築だか改築だかしたんですって。それが、墓地をつぶしてその跡に建てたというんです。もちろん、建てるときはちゃんと御祓いもしたんですが、さぁ、いざ建物が出来上がると、その二階の階段に幽霊が出るという噂が。妖しいものを見たという人が次々に出てきたんですって。
それと同時に、町長になった人が次から次へと死ぬ。もともと元気だった人が、どういうわけか町長に就任したとたん病気になって他界する、ということが三回ほど続き、とうとう一時は町長のなり手がなくなったそうです。
むろん、迷信深い田舎の人たちですから、また御祓いなどやってるんですけどね。
業務をほっておくわけにもいかないので、なんとか新しい町長が決まったんですが、これまた就任したとたんガンと宣告され、倒れてしまいました。人々は、幽霊が出ると噂されていた二階にあった町長室を一階におろすことに決め、また御祓いをして、それが功を奏したのか、病に倒れた町長さんは無事に復帰したそうです。

その二。これは叔母さんの近所で起こった実際の事件。
ある家の少年が、きょうだい喧嘩の末、散弾銃で高校生の姉を撃ち、殺してしまうという痛ましい事件があったそうです。もともとそのお家はちょっと変わったお家で、床の間に日本刀を飾ったり、父親は銃をもって狩りにでかけたりするような人だったそうです。息子が散弾銃の扱い方を知っていたのも、父親と一緒に狩りに行ったりしていたためでした。
近所だからとお葬式の手伝いに行った叔母は、まだ壁に打ち込まれたままの弾を警察の捜査員が集めていたりするところを見たそうです。血が飛び散った跡も生々しく、それは凄惨な光景だったらしい。
事件後、そのお家はどうなったかというと、少年は施設に送られ、両親は離婚して、一家離散してしまいました。今はどこにいるか、誰も知らないそうです。住む者のなくなったその家を、親戚の人がきれいに改築して売りに出したのですが、何しろそんな事件があった物件などなかなか買い手がつかない。広い庭があって、けっこう立派な家だというのですが、結局、だんだん値を下げ値を下げしていき、最後はたったの五十万円という安さで、大阪のとある人が買ったんだそうです。
その大阪の人たちは、別荘としてその家を使っているそうで、たまにしか来ないというのですが、来れば必ず体調が悪くなって、大阪に戻ると治る。
で、叔母は声をひそめて言うんですよ。
「だって、あの家、おかしいもん。あの家に一歩入ると、とたんに頭がずきずき割れるように痛くなるんよ。これはほんと。葬式の手伝いに行ったみんなが、そう言ってたんやけん・・・」
そういえば、事件のとき少年が散弾銃で撃ったのは、姉の頭だったそうです・・・
・・・ひぃぃぃ  (((((((((((((;゚Д゚)))))ガクガクブルブル・・・・


プロジェクトX

そろそろ人気にも翳りが出てきた?
いや、まだけっこう視聴率ありそう。NHKのプロジェクトX。
いつも見ているわけじゃないけれど、たまにテレビをつけたらやっていた、みたいな感じで見ます。このまえは、再放送だったんですが、SONYのトランジスタ・ラジオの開発と海外売り込みの話。
その前は、医療モノを見ましたね。日本で初めて救急医療の体制をつくった阪大病院の若きドクターたちの物語。その前は、フェアレディZの開発と海外売り込みの話。
思い出せば、ええと、伏見工業高校の熱血先生の回も見たし、カップラーメン開発の回も見ました。
オジサン向けのお涙頂戴番組だと思ってるわりには、けっこう見てるなぁ(~_~;)
いざ見始めると、あのトモロヲ独特の語りに引き込まれて、最後まで見てしまう。

熱血先生にも涙したし、若きドクターたちの献身にも感心しました。
でも、私はやはり新商品開発モノが好きですね。
ある企業なり町工場なりを舞台に、若き社員たちが、新商品開発にまつわる様々な困難を克服し、完成したモノをマーケットに売り込む際に起きる紆余曲折をなんとか乗り越え、ついにプロジェクトが成功して「いままで無名に近かったモノ(企業)が、人々に広く認められる」、そのプロセスに感動するんですよ。
まあ、あまりにあざとい浪花節的作り方なので、もっとクールにやって欲しいとか、実際はあんなもんじゃない、何でも美談にしすぎ、とか、現実に開発や研究にたずさわってきた人からは、いろいろと批判を聞きます。でも、それはわかってるんだけど、泣いちゃうんですよね(^^)
ツボを押さえてるっていうか、「よっしゃ、ここで泣かせる場面やな」「ほら、くるぞ、くるぞ」っていうのはミエミエなんだけど、それでも涙腺が勝手に緩んでしまう。

私の泣き所は、やっぱり人々の苦労が報われる場面。
で、そこに、人情とか愛がある場面。
たとえば、ラジオの話だと、最初の苦労話は「ふーん」て感じだし、ドイツで高級店にラジオを展示させてもらうやり方もね、学生バイトのサクラを使ったりして、「これって詐欺やん〜」とか笑ってられるんだけど、そのラジオがクリスマスのプレゼントとして売れた、というくだりで涙がポロ。
ここで、ポイントは、ただ売れましたというのじゃなくて、「クリスマスのプレゼントとして」というところ。
クリスマスに贈る物なんて、欧米では、それこそ何週間もまえからあの人にはこれ、この人には・・・ってすごく楽しみに考えてるんですよ。欧米のクリスマスは、日本よりも「聖なる日」という感覚がずっと強い。日本人にとってのお正月みたいなもんですね。その大事な日の大切な贈り物に、選ばれたモノ・・・あー、信頼され、愛されて、買われたんだなぁ、と思うんです。この、愛されて、というのがポイント。
最後にニューヨークに店舗をかまえることができて、星条旗とともに日の丸が翻るシーン。
日の丸を見ていた現地社員たち、SONYの社員じゃない他の企業の日本サラリーマンたちも、それを見て涙ぐむんですよね。
明日は自分も!と、そんな気持ちで泣けたんだろうし、日本のモノは三流品、そういう屈辱的な評価を受けながらも、それぞれに知恵や気力を出し合って努力を重ね、それが報われた、自分たちにもやればできるんだ!という期待感に泣けたんだろうし、日本の製品が海外で認められる姿に、敗戦で大きく傷ついた日本という国自体が立ち直っていく姿を重ね見て、その喜びに泣けたんでしょうね。
そう思うと、見ている私もやっぱり涙がダァ〜〜〜(T_T)
♪ヘッドラーイト、テールラーイト、たーびはーまだおわらーないー
中島みゆきの歌声が感傷に緩んだ涙腺に、さらに追い打ちをかけます。
フェアレディZの話も、艱難辛苦の末、アメリカでようやく認められて売れた、それだけじゃなく車好きのZ愛好家が今でもいて、彼らが愛好家の集まりか何かで、大きなグラウンドの芝のうえに車で巨大なZの文字をつくるんですね。いかにもアメリカ人のやりそうなことですが。でも、それを見た瞬間、涙が堪えきれなくなる。
「あー、みんなに愛されてるんだなぁ」って。

買う人のことを思いやって誠実につくったモノは、買った人から愛される。
「日本とか日本人は好きじゃない、でも日本のモノは好きだ」
「日本とか日本人については何も知らない。でも日本製品はいいと思うよ」
海外で、何度か聞かされたセリフだけれど、そのたびに思うんですよ。
それでもいいじゃないかって。
モノだけが認められているなんてって、卑下する向きもあると思いますが、モノをつくるときにどれだけ「見えないユーザーへの思いやりや気配り」が必要か、ということを考えると、モノが売れているということは、それも、ただ安いからとかじゃなく、製品に対する信頼感とか好感があって買われているというということは、そこには作り手と買い手との、心の交流があるのだと思うんです。
だから、他人に己の美点を臆せずに主張できない不器用な日本(人)が、モノを通じて信頼され理解してもらえるのなら、それは、いいことだと。

ニューヨークや香港のビル街で、ひときわ目立つ日本企業の看板を見ると、「頑張れ!」って思うし、自分も頑張ろうって思いますね。
なんか、こんな番組で涙してるってことは、私の中にも「オジサン魂」が息づいているのかしら(~_~;)
でも、近年はアジアの他の国々も技術力をあげていて、日本の企業も脅かされています。
行く末が心配ですね。十年後、二十年後、日本はどうなっているのかな・・・と。


ミステリ・ファン

トム・サヴェージの「愛をこめて、ヴァレンタイン」読んでました。
ゴシックホラーふう味付けをした「見つめる家」は面白かったけれど、これは最初から最後までつまらなかったです。練りに練ったプロットで描く傑作サスペンス、とか紹介してあるので期待してたんですけど。
見知らぬ男に狙われるヒロインの設定が、まず第一に陳腐。
売れっ子のミステリ作家で、美人でそこそこ金持ち、でもそのことを鼻にかけない人柄はひたすら善良で正義感も強く、普段は控えめだけど、いざというときには勇気もあって、友だちは芸術家とか女優など華々しい業界の面々で、これまた善人ばかり・・・
悪いけど、この設定だけで読む気が半減。あのねー、赤毛のアンとか、アルプスの少女ハイジじゃないんだから。仕事をもつ大人の女として思慮に乏しく、非常に幼稚な印象を受けます。苛つきながら読み進めると、今度は描写力に乏しい文章にげんなり。たとえば、「彼女は輝くばかりに美しかった」とかね。頭の中に何も具体的なイメージが浮かんでこない空疎な形容語句の羅列。
なんや、つまらんなぁ、でも、前に読んだ「見つめる家」は、いくつも仕掛けられたどんでん返しが面白かったから、これから面白くなってくるのかも・・・と我慢して最後まで読みましたが、やっぱりつまらなかった。
ミステリの原則として、最初から話の本筋にまったく無関係に見える(それまでは本人の会話すら出てこない)人物を、突然ラストに大活躍させて読者をアッといわせようなんて、そもそも反則でしょう。なんか、裏切られたような腹立ちが残りましたね。こんなんで「どんでん返し」のプロットを練ったつもりか、と。騙されたと思いました。やっぱり、「イントロがカスい曲は、サビもカスい」ということが身に沁みました。

その前に読んでいたのは、「ぼっけえ、きょうてえ」でホラー作家・デビューした岩井志麻子の初長編書き下ろし「夜啼きの森」。つい冗長になるきらいがあるけれど、この人の文章はわりと雰囲気があって好きです。独特の岡山弁の会話も、慣れればやみつきに。
この本は、ホラーではなく、あの「津山三十人殺し」を下敷きに書かれた小説ということで、期待して読みました。
津山三十人殺しといえば、犯罪史上まれにみる大量殺人事件。昭和十三年、岡山県北部の小さな村落で、たったひとりの青年が銃と日本刀で次々に村人を襲い、わずか一時間半の間に三十三人を殺傷したという凄惨な事件です。アメリカなどでよくある銃乱射や爆発物による無差別殺人ではなく、動機は個人的な怨恨ですから、あらかじめ殺す者を狙い定め、計画のうえ行われた殺人なのです。その犯行があまりに衝撃的なためか、これまで数々の映画や小説の題材になっています。
それをいまさら書く。さすが岡山にこだわる岩井志麻子だと思いましたが、この「夜啼きの森」では、犯人とその犯行の過程については、わりとあっさりとしか描かれていないですね。
作者が綿密に描き込んでいるのは、事件の舞台となった小村の古い因習であったり、貧乏の現実であったり、人間関係のドロドロであったり・・・そういうものですね。それを何人かの登場人物の視点からそれぞれの角度で描いたと。けれど、そこからは、必ずしも明確な犯人像は浮かび上がってこない。他人の視点を借りて、ある一人の人物・犯人の姿や内面、犯行そのものを浮き彫りにしていく、ということには必ずしもこだわっていないように見えます。それより村の全体的な雰囲気、生活感という犯行の背景となるものに、むしろ主たる視線を向けている。
それはそれで新しい描き方による「津山三十人殺し」を扱った物語だと思いましたが、やっぱりちょっとインパクトが弱いですね。はじめてこの作者の本を手に取る人には、まだ目新しいでしょうが、「ぼっけえ、きょうてえ」を読み、そしてまたこれを読んだとき、あまりにも似たような世界が広がっているので、読んでいるうちに飽きがくるかもしれません。
それに、これといってドキリとするようなスリリングな事も起こらない村の日常を読み進めるうち、静かに隠微に、その村の風景や存在感が脳に馴染んでいく、でも、あの津山事件だと思うから、最後には大カタストロフが来るというのがわかっているから、「嵐の前の静けさ」をゆっくり楽しんでいられるんで、それを知らないで読んでいると、途中の平坦さに、眠り込みそうになるかも。つまり、だんだん盛り上がっていく危うさ、みたいなものが乏しいんですよね。あ、なんかヤバそう、最後までいくとどうなるのかな?という引っ張りにやや欠ける。だから、帯のキャッチコピーに、「伝説の三十三人殺傷事件」「未曾有の惨劇」などというものが書かれていないとすれば、どうだっただろうなぁと思います。

しかし、食事時に津山事件の話をしていて、うちの夫に
「おまえって、想像力に欠けてんなぁ。もの食ってるときに殺人事件の話なんかすんなよ」
と、顔をしかめられてしまいました。
「よくそんな恐ろしい話、面白がって読めるなぁ」とも。
うーん。自分の身の周りで起こったとか、現代に起こった殺人事件とかは怖いけど、何十年も前の、戦中の出来事なんて、ほとんどリアリティなくてお話の感覚ですね。
思えば、文芸のジャンルのなかでもミステリほど不遜で人命軽視のジャンルはないでしょう。
何しろ、ミステリ作品中では殺された被害者に対する哀惜の情とか憐憫の記述なんて、ほとんどの場合、ないに等しいですもん。殺されて転がった死体にも家族が居て、それぞれに悲痛な思いで嘆き悲しんでいる、なんて描写を延々続けていたら、ストーリー成り立たないですもん。それより探偵や警察と犯人の攻防に好奇心を燃やす、それがミステリ・ファン。やっぱ、タチ悪いですねぇ(~_~;)
でも。私はミステリが好き。



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