新しい風

もう二月も終わり。
月日の移ろいだけが速く、自分が変わるのはなんと遅いことでしょう。

友人のひとりは春からヨーロッパ転勤。いまごろ出国の準備に追われているはず。
もうひとりの友人は、今年に入ってから語学力をいかして在宅で翻訳の仕事を始めました。思ったよりハードで、そのわりに実入りは少ないということですが、それでも一生懸命に走りだした彼女の姿は、なんだか生き生きしてるなぁと思います。
関係ないけど、うちの弟夫婦にはもう二週間もしないうちに、また子供がうまれます。今度も甥っ子。ただでさえ長男のワガママに手を焼いている(このワガママさ加減は、伯母である私に似たのだとみんなが理不尽なことを言っているのですが)のに、忙しくなりそうなことです。

さて、翻って我が身。
なんか、めぼしい進展がないですねぇ。
このまえ、文学学校の先生に、「同人誌をつくりたいから、一緒にやらへんか」と誘われたくらい。
どこまで本気か知りませんけど、先生には先生の思惑があって、まあ、それもわかるし、なんといってもご本人があちこちで同人誌評などしているものですから、このごろの同人誌のあり方について、考えるところもあるんでしょう。で、自分で立ち上げようと思いついたんですね。
あの学校で同人誌をやっている人はけっこう多くて、私も、何度か誘われてますが、なんとなく断ってました。
なんか、同人誌なんて世界狭そうだし。めんどくさそうだし。意外とお金もかかりそうだし。ただの道楽だったら、今、学校に通ってるだけで十分だと思ってたんですよね。これ以上、こんなわけのわからん純文学のディープな世界に深入りしたくないっていうか。
でも、いま師事(?)している先生をバックに新たな旗揚げをするのだったら、そこに参加しても悪くないかもしれないと思いました。もうすでにカラーの決まったところ、序列の決まったところより、一からやるほうが楽しそうだし、第一、あの先生、(人間としてどうだかはわかりませんが)文学者としては鋭い批評眼をもっているようなので、そのへんには信頼感があるということで。

もう少し考えてみますが、やるかもしれません。やりだしたら、もう覚悟決めて、その世界に浸かってしまうしかないですね。それが怖いような、億劫なような気もするんだけど、もともと誰かが誘ってくれたり背中を押したりしてくれないと、どこへも行こうとしないものぐさな私ですから、たとえ少々何かに追われるようなことがあっても、それでいいのかもしれません。溺れてしまって自分を見失うようなことにならないよう、それだけは気をつけたいと思いますが。
それにしても、私は純文学にはちょっと斜めの姿勢だというのに。
やれ人間の生きざまだとか社会性だとか人生哲学だとか、そんな小難しいことわかんないし、どっちかっていうと面白ければいい、ひたすら上質の面白さを追求するタイプだと思うのに。
ううむ。なぜこんなことに?
なんか、やっぱりどこかに違和感をひきずったまま、とりあえず来学期からも学校は続けることにしています。

みんな、なんだかんだで忙しそう。
寒さも少し緩み、春の気配もそろそろと近づいてきました。
人頼みで自分でも情けないですが、何か新しい風が吹いてこないかなぁと思うこのごろです。


邪悪さよ、こんにちは

なんだかんだと私事で、けっきょくプーケット行きは中止となりました。仕方ないですね。
まぁ、またの機会を、というわけです。

しかし、前回は「新しい風が吹いてこないかなぁ」なんて呑気に綴ってましたが、人生とはわからないもの。ここ数日、私の心の中では、風どころか暴風雨が吹き荒れてましたよ。
私だって、まさかそこまでは望んでいなかったというのに。
詳細は省きますが、嵐が過ぎ去ったいま、なんとなく、眠っていた感覚が呼びさまされた感じです。
それは何かというと、己のなかの邪悪さですね。
邪悪さよ、こんにちは。いや、ひさしぶり、と言うべきか。

文学学校で、いろんな人の作品を読むんですが、よくもまあこんなに毒々しいキャラクターや悪意に満ちたストーリーが作れるものだなぁとか、この人たちは、いったい何に不満で、何に怒っているのだろう、と思うことがたびたびありました。
で、そういうものが意外にも評価されたりするので、文学とは、「ひねくれ」とか「屈折」とか、そういう負の妄想・発想がなければ面白くないものなのだろうか、と真面目に考えてましたね。それだったら、私にはとうてい書けないなぁ、と。だって、今の私の生活には、表面上、深刻な悩みらしい悩みってないし、だから心理的に屈折もしてないし。まぁ、テクニックでそういう部分をカバーできるとしても、ほんとうに屈折した人とはやっぱりどこか違うだろうって思ってたんですよ。エンターテイメントならばなんとかなるけれど、純文学のディープなドロドロにはついていけないだろうなぁ、と。
私には、そういうドロドロしたところはないからなぁって思ってましたね。
なんとまぁ、浅はかでお気楽なこと。
でも、久々に大きな感情の嵐に見舞われて、ただ単に忘れていただけなんだとわかりました。
憎しみや、呪い、恨めしさ・・・そういう負のエネルギー。邪悪さの根源を。

当然、そういう負のエネルギーを自分のなかに意識するのは嫌なものです。
皮膚の内側で時折ズルリと蠢き、やがては身体中の毛穴から、粘っこく糸を引いて流れ出てくるような、黒い情念。
あるいは、ガラスコップの中で、ものすごい砂嵐が吹き荒れていて、その真っ直中にいる。
いつガラスが砕け散るかとヒヤヒヤ。危険と隣り合わせの暴走。
だけれども、その瞬間には何も感じない、凍らせた指を出刃包丁で叩き切る瞬間のように。
あるのは、非常に本能的なエネルギーのみ・・・
そして、過ぎ去ってみれば、その時間と感情のすべてが冷え固まり、まるで石を積んで造った遺跡のようなものに変わる。
そのうえに立つことで、またそのときの嵐を追体験できる、そんなエネルギー・ポイントたる遺跡。
けっこうじゃないか、上等じゃないか、と思っています。
これでまた、何かが書けそうかな、と。
殺したいほど激しく憎悪する、というのも、自分そのものが壊れない程度に限られた時間のなかへ閉じこめることができるならば、有用な感情体験かと思った次第です。


UFOの夢

うとうと昼寝をしていて、変な夢を見ました。
このマンションから、UFOの大編隊がV字型になって、空を飛んでいくのが見えるんです。
部屋の中には、なぜか弟がいて、弟の仕事の話などしていたところでした。
二人とも驚いて「あれ何?!」と、窓の外を見たら、すぐ下の道路では学校帰りらしい女子高生たちも、みんなびっくりした様子で、ぽかんと空を見上げています。
すごいスピードで飛んでいくので、すぐにUFOは見えなくなりましたが、今度はつけっぱなしのテレビから、なにやら騒がしい叫び声が聞こえてくるのです。
番組がいつの間にか臨時ニュースに切り替わっていて、アナウンサー(リポーター)が道に立って空を見上げています。(カメラがリポーターと空を交互に撮します)
「ただいま入りました情報によりますと、UFOがV字型編隊を組んで東京方面に向かって来ている模様です!!ああっ!見えてきました!UFOです、ものすごい数です、UFOの大編隊ですっ!!」
などと絶叫しているんです。
テレビ画面に映し出されたのは、東京上空を飛んでいる無数のUFO。
うわ、一体どうなるの、これからどうなるの!!・・・とうろたえているところで目が覚めました。

はー。
なんであんな夢見たんだろう?と、ちょっとぼーっとしてました。

精神的に追いつめられたときにUFOの夢を見る、と言っていた友人がいましたね。
なんか、勉強とか仕事とかで、にっちもさっちも行かなくなって、ああどうしよう、と思ってるときに見る。
一種の破壊願望かもしれませんね。
自分だけが追いつめられて破滅するのは嫌だ、そんなことなら、いっそこの世界そのものが滅びてしまったらいい・・・そんな気持ち。
この場合、UFOというのは既存の世界の彼方からやってくる超越者、今ある日常のシステムの終焉を告げる者の象徴なんです。聖書で言えば、黙示録の獣、というイメージですね。

うーん・・・確かに、ちょっと追いつめられてるかも。
今、書こうと思っている短編・中編の構想が頭の中に四つあって、でも、どれもこれも、ストーリーがカチッと完成されてないんですよ。だから、どれから書いていいかもわからない。どれもこれも、パズルで言えば、最後の1,2ピースが欠け落ちていて、そこだけぼんやりしているんです。
このアイディアを完成させたら面白いだろうなと思いながら、ところどころ細部のツメがピシリと決まらないがために書き始められない。ということで、フラストレーションたまってます。
ああ、何かひとつふたつ足りない、あと一歩なのに、何か欠けてる、それが探し出せない、すぐそこにあるような、手の届くところにあるような、そんな気がするのに・・・と。
金田一耕助じゃないけど、髪の毛に両手を突っ込んで、ううう〜っとかき回したくもなります。(私の場合、ちゃんと洗って清潔にしてますので、フケは飛びませんよ。念のため)

・・・まぁ、焦っても仕方ないので、気長にやっていきます。ウン。
それ以外にも、やらなきゃいけないこと、気になってることがたくさんあるのに、とりあえず後回しにしてしまってるので、ほんと、あっちもこっちも、いい加減、ちゃんとしないと・・・
でも、なんか動きだせないんですよ〜〜
こんなときって、きっとみなさんにもあるでしょう?
スランプ、というのとも違うんです。
地図を用意し、行き先も確認して車に乗りこみ、シートベルトもしているのに、いざキーを回してもエンジンがかからない、という感じですかねぇ。
いずれにせよ、気持ちの悪い状態です。


グロテスク

先日、夫と行った近所のスーパーの中に、新しい古本屋さんが出来ているのを見つけて、ラッキー♪と思いました。
普段、本といえば図書館で借りるものなので、あまり本を買うことなどないのですが、漫画だけは図書館にないので、読みたいと思えば買わなきゃなりません。ビニールのかかった漫画本は、中を確かめられないので嫌いです。その点、古本屋なら、ビニールもかかってないし、気兼ねなく安く買い物できるので私は好きなんです。

私は前から読みたかった大島弓子の「秋日子かく語りき」を買い、夫は山本直樹の「フラグメンツ1」を買いました。
夜になって、就寝まえに大島弓子を読んでしまったので、夫の買ったのを何とはなしに読み始めました。
ところが、これがもう・・・「うげー!!」って胃がひっくり返りそうにグロテスクな漫画。
ハァ?なんじゃこら?、というのをはるかに通り過ぎて、マジでむかつくというか、気分が悪くなってしまいました。世の中にこんな汚いものが存在するなんて。大島弓子の世界に浸ったあとですから、余計にギャップがありすぎて、ショッキングだったのかもしれません。なんか、まともに見ていられないので、ぱらぱらと斜め読みしただけですが、それでも「うええっ」て感じ。
とにかく、これを買った夫の神経が信じられなくて、まだ寝ないで自分の部屋にこもっていた夫のところへ行きました。
夫はパソコンに向かって、まだ仕事してました。私がその場にへたりこんで、
「ちょっと。気分悪いんやけど」というと、振り向いて「どうしたん?」、と。
私が、あの漫画を読んでしまったことを言うと、夫は「あほやなぁ、なんであんなん読むねん」って。
けど、あんたが買ってきたんでしょうが。
ほんとに気持ち悪くて、このままじゃ眠れない、どうしてくれるの、と訴えました。
まぁ、最終的には精神安定剤のお世話になって寝たんですが、こんなにグロい漫画、永井豪の「デビルマン」以来の衝撃です。いや、「デビルマン」は一応、話のテーマというかスケールが大きくて、それなりにダークファンタジーとしては納得できる作品ですから、グロといってもまだ許されると感じましたが、今回の「フラグメンツ1」は、ストーリーのスケールは小さいし、テーマといっても今さら使い尽くされたシュールな虚無感とエロ・グロを組み合わせただけなので、目新しいものではなく(こんなのなら、もう村上龍が「トパーズ」で、もっと芸術的にやってしまってる)、ただただもう描写がこれでもかとグロテスクなだけなんです。
怒りのやり場のない私が、こんなもの、なんで買ってきたの、と夫に訊くと、「いやぁ、僕もよく知らんけど、なんか問題作ってことで話題になってたから」だそうです。
こんなの、どこで話題になってたんだろう?

とにかく、あまりにもその漫画が気持ち悪いので、それを買ってきて読もうと思った夫までが、気持ち悪く思えてきました。なんか、この人もしかして変質者?というか。
けど、腹の立つことに、その時点では、夫はまだ前半しか読んでなかったんです。前半は、高校生の女の子が町長の妾になる、という話で、女の私が読んでもぜんぜんエロを感じないんですが、いちおうエロ中心のストーリー。まぁ、全体につくりがチャチでバカっぽいです。たいしたストーリー展開もなくて、性描写だけが売り。はっきりいって、「こんなんで興奮する男って、バカ?」という感じ。それはまぁいいんですけど、問題は、後半のSM話。これがもう・・・
ちょっと・・・こう書いていても、思い出して気分が悪くなってきそうです。
私があまりにもショックを受けているので、夫も「うーん、そんなに気持ち悪いんやったら、後半、読むのやめとこかなぁ」と。
こらこら。責任もって読まんかい!!
読んで、私がどれだけ気色悪い思いをしたか、あんたも身をもって理解しろっての!

ちなみに検索して調べたら、山本直樹の漫画、東京都で有害図書に指定されてるのもあるとかで、さもありなん、という感じですね。
ほんとに、青少年に悪影響を及ぼすウンヌンっていうより、ここまで人を気持ち悪くさせる妄想は、市場に流通させないで、頼むから自分の頭の中だけでこねくり回してお楽しみくださいって思います。エロ映画は18禁とかそういう目印がありますけど、こういうグロも「ハードなグロ描写あります。平気な方のみ、お買い求めください」とかなんとか書いておくべきだと思いますよ。
でも、検索した結果わかったんですが、こんな作品を平然と読んで、しかも高く評価している人もいて、その事実にうーんと唸ってしまいました。これはその人たちの神経が不感気味なんだろうなぁと。
つねづね思っているんですが、ハードな刺激を求める人というのは、勇敢でもなく、図太いわけでもなく、ただ神経が鈍いんだろうと思います。生まれつきか、生活のなかですり切れたかして。
私のように過敏気味でも、それはそれで世間が狭くなったり、はたまた神経から病気になったりして困るわけですが、鈍い人は刺激を求めてヤバイこと、危険なことに足を突っ込みたがる傾向にあると思います。これはこれで困ったことじゃないでしょうか(本人に自覚はないと思いますが)。
私は、自分の神経が過敏気味だと自覚しているので、法律があろうがなかろうが絶対にドラッグなんかやろうと思わないし、お酒もたしなむ程度、ほろ酔い加減までしか飲まない。激辛とかゲテモノ料理にはわざわざ手を出さない。トラウマになるからジェットコースターにも乗らないし、ウェブで面白半分にグロ画像なんか見ない。うるさい人混みに長時間いないし、うるさいテレビのバラエティやお笑い番組は見ない(耳への刺激から神経が疲れる)。アイマックスにも耐えられないから、シアターに行こうとも思わない(いっぺんプラネタリウム館でアイマックスムービーを見て気分が悪くなりました)。
でも、神経が鈍い人は、平気ですね。で、けっこう普通の刺激とかスリルに飽きたらず無茶をやりますね。そもそも鈍いから、違法なクスリでもやらないと、カラフルな夢が見られないんだろうか?鈍いから、身体を壊すようなことでもしないと、自らの身体的苦痛を感じないと、生きている実感がないのだろうか?そんなふうに想像してしまいます。


続・グロテスク

夫が、上の漫画(山本直樹「フラグメンツ1」)、ぜんぶ読んだそうです。で、感想は?と訊くと、
「なにが気持ち悪いねん。あんなん、純文学やないか」
だって。

んー、結婚してから(っていうか、する前からでしょうね)、ときどき、「この人わけわからん!!」と激しく思うことがありますけど、今回もやはり。
あれが純文学?ハァ?
この人の思考回路がマジわからん。
まぁ、理屈と膏薬はどこにでもくっつく、と言いますから、そういう表現もまた可なり、なんでしょう。
カンバスに大きな丸だけぐるんと描いて、それが現代芸術だ!とかね、そういう世界もあるんだから。
で、夫いわく、「オマエ、グロに弱いっていうより、目で見る刺激に弱いっていうだけとちゃうんか。普段、オマエの読んでるミステリなんか、死体ごろごろ出てくるえげつないヤツやのに、それはなんとも思わんのか?」と。

まあねぇ。
確かに、私はミステリ好き。そして、ミステリと言えば死体がつきもの。しかも、最近は猟奇的なサイコ・サスペンスが流行り。その殺し方、死体の様子は、もう阿鼻叫喚の地獄図って感じのもあります。たとえばジェフリー・ディーバーの「ボーン・コレクター」なんか、ちょっとやりすぎっていうか、やっぱり活字で読んでても少し気持ち悪かったですね。あの作者、だんだんエスカレートしてきてるみたいで怖い。「静寂の叫び」が、ある意味一番バランスとれててよかったかな。
でもね、活字で読んでるとき、ほんとに気持ち悪い残酷描写のところは、私は斜め読みしてるんですよね。さらさらっと、とばして読む。活字だから、読んでいると「あっ、だんだんやばいシーンになってきた。うわ、キモそう」ってのが前もってわかるじゃないですか。いよいよやばくなると、安心して読めるところまで、さらさらっと荒く筋を追うだけにして、あまり過激な描写はまともに読み込まないようにしてますね、私は。
が、漫画ときたら、いきなりページめくったら「ひえええっ!!」ってくるんだもの。トラウマになりますよ。小説なら中途半端にぼやかして読むっていうことができても、漫画は絵のほうが、もう情け容赦なくストレートにこちらへ飛び込んでくる。
グロでなくホラーにしても、同じ。私が二度と読めなくなったホラー小説というのはないけれど、漫画ではありますね。山岸凉子の「わたしの人形は良い人形」とか「汐の声」。もう怖くて、二度と読みたくない。思い出すだにゾッとします。

あきれ顔の夫に、
「あれくらいの漫画でショック受けるとは情けない。あれが気色悪いとか言ってたら、『北斗の拳』なんか読まれへんぞ。あれもめっちゃ流行ってたけどな」
とも言われましたが、ええ、読みませんとも。そんなもん、一生読めなくても結構です。
知ってますよ、あれでしょ、「秘孔を突いた。もうお前は死んでいる」ってヤツでしょ?
一時、話題になりましたね、確か。子供たちがアニメで夢中になって、それを見た親が、「こんなバイオレンスシーンの多いアニメを子供に見せるのはいかがなものか?」って。
ほんと、いかがなものか?ですよ。
なぜ少年漫画とか成人男性向け漫画っていうのは、ああもストーリーが荒っぽくてエロ・グロ・暴力描写が多いのでしょうか。私にはさっぱり理解できないけれど、女の人でも、ああいうのが好きって人、いるんでしょうか?

『お嬢ちゃん、世の中は、お花畑じゃないんだ。きれいなものばかりじゃない、ときにはグロテスクなものの中にこそ、美しさや切なさが潜んでいることもあるんだ』
ちょっとインテリ気取った男は、斜に構えてこんなこと言いたがります。
けど、私思うんですよね。
その小賢しい男たちは、女が自分の命と子供の命を賭けて痛みと戦う血みどろの出産シーンに、目をそらさずマトモに立ち会えるのか?って。きっと、貧血おこして倒れちゃうんじゃない?倒れなくても、見たものがトラウマになって、あとあとEDになっちゃうとか。(実際、そんな男たちは多いそうです)

あのね、世の中はお花畑じゃないけれど、見ないですむものは、見なくてもいいんじゃない?
なんでもかんでも見りゃ知恵がつくってもんじゃないでしょ。
ということで、私は、やっぱり漫画の絵は、きれいなほうがいい。


残雪

先日、文学学校の先生から連絡があって、ほんとに同人誌を立ち上げるメンバーの一人になってしまいました。メンバーといってもほんの数人ですが。あまり手を広げないで内容を密に、というのが多分、あの先生の狙いなんでしょう。私も、やると決めた以上、全力で頑張りたいと思います。
しかし、去年は夫の勧めに従って学校に入り、一年後には先生の誘いに乗って同人誌に参加し・・・なんか、行き当たりばったりといえばそうなんですが、一歩ずつ文学の泥沼にはまり込んでる。ちょっと複雑な気分です。

最近、また中国の女流小説家、残雪(ツァン・シュエ)の本を読み返しています。
いちばん最初に読んだときは、「なんとまぁ、奇怪なイメージの奔流に頭がクラクラする文章!」ということで、そのエキセントリックな文体が、魅力的でもあり、また、ひとりよがりでウザくもあるという相反する印象を持っていたんですが、文学学校で少しばかり批評眼を鍛えられたのか、「彼女の書くお話をどう読めばいいか」、そのコツみたいなのが少しわかってきたような気がするんです。
短編集「廊下に植えた林檎の木」と長編「黄泥街」(いずれも河出書房新社)しか読んでませんが、短編集の中の「帰り道」と「逢引」がすごく好きですね。
特に「逢引」は、わりと分かり易いラブストーリーの一種(というか、そう読める)で、何回も読みました。いままで奇矯なイメージのベールに包まれていた物語の本質が、とても切なく胸に迫ってきます。書き出しも秀逸なら、幕の引き方も素晴らしい。感動にウルウル涙するとか、もうそういう次元を超えた大人の硬質な理性と諦念、そしてなおも生きるに必要なだけ残された少しの甘さが、過不足なく書かれていて切ないんです。泣けばカタルシスを得られますし、次に向かう気力も出ますが、こういう、泣くに泣けない切なさというのは、ほんとうにいつまでも胸に残ります。
書き出しとラストが上手いのは、どの作品についても言えていて、「黄泥街」もそう。
もう、わずか二ページ目の第一章の締めの文、

  ひとつの夢があった。その夢は一匹の緑の蛇で、やさしくひんやりとわたしの肩にぶらさがってきた。

で、「どうだ!」といわんばかりの効果をあげていますが、ここで出てくる「夢」という言葉が、また物語全体を締めくくるラストにも現れます。かけらになり、すでに死んでしまったものとして。このあたりの描写には、ただただ上手いなぁと嘆息してしまいます。いや、嘆息しているだけじゃなくて、自分でもちゃんとしたものを書かなきゃいけないんですが・・・難しいですね。

本当にいい作品は、時代の風俗を超越して存在し、それがもつ普遍性ゆえに時の流れに耐えうる。
その魅力は、読み手が未熟であればそれなりに、成熟すればより深みを増して感じられるものなんですね。きっと、作者の思惑も超え、独立して歩き出し、さまざまに読み継がれて行くのでしょう。
残雪は、そういう作品を生みだした作家のひとりだと思います。


屍鬼

小野不由美の「屍鬼」、長かったけど読み終わりました。
うーん、やっぱり長い。京極夏彦の作品にも感じたことだけれども、冗長ですよね。せめてあの三分の二くらいにはできると思う。ひとつの村の崩壊を、ものすごくきめ細かに描き込んでる、だから、これだけのページ数がいるんだ、という意見もあるようですが、あんまり何もかもつめこんで描きすぎると、かえってヤマがなくなるっていうか、物語のダイナミックな躍動感というのが薄まってしまうと思いますね。
とくに上巻の初めは、丁寧に丁寧に舞台の下地を作り続けてる感じで、登場人物もやたらたくさん出てきてややこしいし、そのわりには何の事件も起こらないし、なかなか退屈です。が、放り出さずに百ページくらいまで我慢して読めば、ようやく最初の死人が出る。それからはもうこれでもか、というほど謎の死のオンパレード(この繰り返しもちょっとしつこいけれど)ですから、あまり退屈しないでしょう。
急ぐ人、せっかちな人、二十ページぐらい読んであくびが出た人なんかは、とりあえずこのあたりまで、ざざっと斜め読みして、すっとばせばいいと思います。べつにそうしたところで、まったく物語が見えなくなるということはないですね。登場人物についてはあとから何度も出てくるので、嫌でも覚えてしまうし。

肝心の内容ですが、簡単に言ってしまえば「ポーの一族+デビルマン」ですか。
「ポーの一族」は、言わずと知れた萩尾望都の名作。美少年吸血鬼の哀切を描いたストーリー。
そう、「屍鬼」というのは、吸血鬼のことなんですね。
外界から閉鎖された環境にある人口千数百人の小さな村。そこへ、吸血鬼一家(本当の血縁関係にはないけれども家族のフリをしている)が越してきます。そして次々と村人を襲い始める。
被害者は、軽い貧血状態で寝込んだかと思うと、数日で急激に死に至ります。あれよあれよという間に、死人がどんどん出てくる。村の医者をはじめ、誰もが未知の伝染病を疑いだすんですが、一方では少しずつ禍々しい真相が暴かれていきます。
吸血鬼に血を吸われて死ぬと、体質的に何割かの確率で、その死人は吸血鬼としてよみがえります。彼らは仲間を増やし、徐々に村を支配していきます。彼らがこの村にやってきた目的は、吸血鬼たちだけで自立できる共同体をつくることなのでした。
が、あわや、というところで村民の逆襲をくらって、そのもくろみは達成できず、いきおい村自体も崩壊してしまう・・・
この吸血鬼たちを狩る大虐殺シーンが、この本いちばんのクライマックスなんですね。
吸血鬼として蘇生した人間も、もとは誰かの子供や父や母、友人などであったわけですから、小さな村のこと、その顔には皆見覚えがある。異形の者に成り果てたとはいえ、まだ人間としての感情をもち、逃げまどいながら助けてと懇願する彼らをつかまえ、その胸に杭を打ち込んで殺すのには、すごく心理的に抵抗があるわけです。
といっても、このあたりの葛藤はあまり深く描かれていませんね。
それよりもむしろ、恐怖のために、あるいは正義の復讐に燃えて、かつて家族や隣人であった者たちを狩る「普通の人間たち」のエゴイズムと狂気、残酷さ、醜悪さが全面に出ていて、そこのところが「デビルマン」の魔女狩りシーンとダブります。

ホラーとしてこの作品が怖いかと言われれば、べつに怖くない。
上巻、まだわけがわからないままに死者の数だけが増えていくあたりでは、それなりの雰囲気がありますが、もう読み手には早々に原因が吸血鬼だとわかってしまいますから、怖さというのはないですね。そういう意味では、下巻に入ってから急にお子さま向きみたいな感じが漂いますが、それでも作者の筆力でひっぱっていきます。
あくまでも、ファンタジーとしてのエンターテイメントと考えれば、優れた作品、力作ですね。
ただ、それにしては主要人物が、あまりにもごちゃごちゃと、哲学とか宗教、道徳に関する禅問答をしすぎ。「ただのエンタメで終わりたくない」という気概は買いますが、これも書きすぎではないかと思います。

しかし、とにかく登場人物がたくさん出てきて、しかもたいていきちんとキャラが立っている(類型的であるけれど)ので、思い入れできる人物がひとりやふたりはいると思います。
誰に最も共感を覚えるか?誰に最も嫌悪感を覚えるか?というので性格占いができそう。
私は主要人物のひとり、お寺の若御院と呼ばれる静信が好きですね。いちおう、坊主兼作家ということで、彼の書いているカインとアベルをモチーフとした小説内小説がところどころに出てきて、それは面白くないし、なんとなくうざったいのですが、彼の考えや行動にはなんとなくシンパシー感じます。
あと人狼の辰巳。このふたりは、それぞれにかっこいい。
対して、積極的に嫌いだったのは、何につけても小生意気な夏野。ほんの子供のくせにチョロチョロ目障りな昭。それに、なんといっても自己中の固まりで粗野な大川の親爺。
夏野はこのまま主役級で活躍かと思ってたら吸血鬼になった徹におとなしく殺されてしまったので、せいせいしました。まぁ、あの死に方には、なんとなくボーイズラブ的なものを感じて「なんだかなぁ。甘ったる」と思いましたが。昭も途中で死んでしまうので、これもせいせい。最後まで「ムナクソ悪いやっちゃなぁ、こいつ!」と思わせられた大川の親爺が、さんざん悪役をやってくれたあとやっと殺されたときには、マジでスカッとしました。もうその前から、「このクソジジィ、はよ死なんかい、ゴルァ!」と悪態ついてたので(~_~;)
医者の敏夫も、途中までは応援していたんですが、吸血されて死んだ奥さんを実験台にし、吸血鬼一掃の旗振り役を務めだした頃から、嫌になりましたね。
・・・って、私はどうも体制側の人間より、この世界からはじき出された吸血鬼サイドに、よりシンパシー感じてるかも。
たぶん、それが作者の狙いでもあったのでしょうけれど。
でも、いろんなサイトみていたら、敏夫が素敵、ということを書いている評もあったりして、うーむ、そういう感性もあるんだろうなぁ。
いずれにせよ、「屍鬼」を読み終え、私は、「この世界は未来永劫に不完全なものであり、生とはそもそもが不平等なものなのだなぁ」という気持ちをまた強くしました。


吸血鬼なんて怖くない

今日は体調が悪く、頭が痛いので手短に。

上記の「屍鬼」ですが、これ、スティーヴン・キングの「呪われた町」へのオマージュだというのですね。
ここからパクリ論争も出てくるんですが、この度、いい機会だから、日頃は「後味わるそう」と敬遠していたキングの本を読んでみました。(キング読むのは初めてです)
まぁ、設定の骨子は似ているものの、ぜんぜん別の物語ですね。
私には、小野不由美のほうが面白く読めました。展開が派手だし、エンターテイメント性は高いと思います。ただ、「屍鬼」は、なんとなく軽い(本自体は分厚くて重いんだけど)というか、ホラーとしての不気味さ、重さ、暗さ、という点では「呪われた町」に軍配。たぶん、作中での「子供の描き方」が違うせいかな、と思います。「屍鬼」ではけっこうティーンエイジャーが準メインキャラ扱いで、やたらたくさん出てくるので、ちょっとそれで青っぽくなるというか、甘くなるのかな、と。屍鬼の首領が見かけは中学生くらいの女の子、というのも軽さの一因かも。

そもそも吸血鬼ものって、ホラーとしては怖くないですね。怖いですか?
私の怖さの感覚でいえば、

1、幽霊、呪い、たたり系→その理不尽さがツボにはまれば最強に怖い
2、サイコ系→いわゆる生身の人間の、心の闇・狂気。ツボにはまれば相当怖い
3、エイリアン、バイオハザード系→映像化すれば気持ち悪いけど、文章では限界ありと思う
4、吸血鬼、お化け、妖怪系→お子さま向きという感じで今更怖がれない

こういう順になります。

なんといっても、一番怖いのは、人間。その人間の怨念が凝り固まった幽霊やらたたりが一番怖い。
そういう意味で、私は、ほんとにゾゾッとする話って、しょーもないオカルト雑誌なんかに載ってる「読者の体験談」だと思うんですよね。
なんか、凶悪なエイリアンに町が襲撃される・・・なんていう話は、頭の中でそのイメージを想起するのに難儀しますが、引っ越したアパートの壁に拭いても拭いてもとれない血の染みらしきものがあって、それがだんだんに広がってくる・・・なんて話は、スッと目の前に情景が浮かんでくる身近さがあって怖いんですよ。

で、話はまた「屍鬼」に戻るんですが、読み終わってから、うちの夫に、これこれこういうストーリーで・・・と説明してたら、とつぜん彼いわく、
「そんなんやったら、何も殺してしまわんでも、人間が屍鬼と共存したらいいんや」
「へ?」
「だって、一日だいたい500ミリリットルの血があったら生きられるんやろ?屍鬼の数のほうが圧倒的に少ないねんから、皆で順繰りに献血したら、養ってやれるやないか。なんも、喉仏に食らいついて血ィ吸わんとあかんわけでもないんやろ?コップで飲んでもええんやろ?」
「うん。それはそうやけど、献血までして養うなら、それなりに何かメリットがないと・・・そうやね、夜やる仕事はみんな屍鬼にやってもらうとか。夜勤の医者とか看護婦とか、ビルの夜警とか、コンビニの深夜バイトとか、考えたらいろいろあるなぁ」
「おまえ、家だって二家族で使えるぞ。昼間、普通の人間家族が起きて学校やら仕事に行ってるときは、家で寝ててもらって、夜、みんなが帰ってきたら、屍鬼の家族が今度は『行ってきます』っていうふうにな。ひとつの家を二家族で使う、これ、めちゃ経済的やと思わんか?」
「う、うん・・・」
「それに、そうなったら夜の経済活動が活性化する。まぁ、研究すればそのうち屍鬼にとって必要な血の中の成分もわかってくるやろうし、そしたら献血に頼らんでも、人工的にその成分をつくっていけばいいわけやし。なっ?」
「うん・・・」
・・・考えたら考えるほど、なんで屍鬼を殺さねばならないのか、わからなくなってきました。
見ようによっちゃ、便利な存在じゃない?

だから吸血鬼ものは怖くないのよ。




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