虹の解体

「利己的な遺伝子」で有名なリチャード・ドーキンスの「虹の解体」を借りてきたんですが、なんか、序文を読んだ段階で、もう本文に入る気力が萎えてきました。
私は本を読むとき、特にそれが分厚い本だとか内容の濃い本だとかいうときには必ず、まえがきとあとがき、翻訳ものだと訳者による解説などにざっと目を通します。そうすれば、その本の内容が、だいたいおぼろげにわかってくるじゃないですか。ミステリのあとがきなんかは、たまにネタばらしに近いものもありますが、ある程度のネタがわかっていても、面白い本は文句なく面白いはずなので、そんなのは気にしないで読みます。何しろ膨大な情報の中で有限の時間を生きている我々ですから、面白くないものにかける暇などないわけです。

で、この「虹の解体」なんですが・・・これは、いわゆる「科学啓蒙書」です。
タイトルは詩人キーツの言葉から借用されている。その昔、キーツは「ニュートンこそが、虹からその詩的なものを破壊して、虹をたんなる分光学的な現象に還元してしまった」と考えたんですね。だけど、そんな考え方は間違っている、科学こそが実は詩的なものの源なんだ、この宇宙の秩序を知る過程にこそ、センス・オブ・ワンダーがあるのだ、とドーキンスは言いたいわけです。
私の見慣れない「センス・オブ・ワンダー」という言葉は、検索をかけてみると、SF書評などでよく使われるみたいで、不思議なもの、未知なるものに対する好奇心とか、畏敬の念を表すようです。たとえば、「このSF小説には、SFが本来もつべきセンス・オブ・ワンダーがある」などというふうに用います。まぁ、そっち方面にはそれなりのニュアンスをもって受け取られる言葉なんですね。
と、こうやって内容を書くと、なんだか面白そうな本にも見えるんですが、ドーキンスによる序文をちゃんと読んでみたら、私には期待はずれでした。

これは、ドーキンス自身の人柄じゃないでしょうか。
なんかね、「利己的な遺伝子」を書いて、巷に論議を巻き起こしてしまったとき、彼にしてみれば、「それは誤解だ!!」と叫びたいことがたくさんあったらしいのです。私は、あの本の内容にさほどの衝撃は受けませんでしたし、血も涙もない論理だとか、人を虚無的にさせるような内容だったとは必ずしも思いませんが、そう受け取った人も多かったそうです。
「まさか、人間というものが遺伝子に支配されるだけの、たんなる『乗り物』だなんて!」
という具合にですね。べつにドーキンスの真に言いたかったことは、そんなことではないと思うんですが、確かに、そんなふうにセンセーショナルに受け取られても仕方ないだろうなぁという感じはありました。案の定、あれこれ否定的なことを言う人が出てくる。それで、ドーキンス先生は幻滅してしまわれたわけです。
「私に対する非難や批判は、センス・オブ・ワンダーを見失った人々のせいである」と。
けれども、気を取り直して積極的な反論をしようと。それでこの「虹の解体」を書くことにしたと。
まあ、私としては、この動機そのものに幻滅してしまったんですね。
なんやねん、けっきょく己の私怨を晴らすために書いたんか、と。
もちろん、それ以外の、もっと高邁なお考えもあったのだとは想像できますよ、が、少しでもこんな私怨が入っている時点で、一般的な意味で言う「啓蒙書」としての価値はガクンと減ってしまいます。第一、「利己的な遺伝子」を知らない読者は置き去りになってしまいますからね。勝手にやってれば、というか、これをきっかけにもういっぺん「利己的な遺伝子」を売るつもりか?とまで勘ぐってしまいます。

ドーキンスも言及していますが、「啓蒙」というのなら、それは故セーガン先生が、その死の直前に「科学と悪霊を語る」で、完璧なまでに書き尽くしてしまわれましたよね。私は以前読んだ「カール・セーガン 科学と悪霊を語る」をひっぱりだして、そのまえがき、「はじめに」を読み返してみました。うーん、悪いけど、もはやドーキンスの出る幕はないというか、そもそも比較の対象ですらないというか、そんな感じです。
私はほんと、セーガン教の信者でも何でもないし、彼の業績なども詳しく知らないのですが、初めてこの「はじめに」を読んだとき、自然と涙があふれてきましたよ。なぜって、これから続いていく本文の内容がいかに素晴らしいものかが、この短い文を読んだだけでもうはっきりと想像できたから、いや、それ以上に、この著者であるカール・セーガンという人が、どんなに誠実な力強さと人類愛(慈愛といってもいい)に満ちた人かということが、この文章のなかにはっきりと見て取れたからです。そして、そのことによって、こういう人物を生み出したこの世界、この人類という種を、素直に肯定的な気持ちで見られたからです。
この世の中、そんなに悪い場所じゃないかもしれない。
人間だって、そうそうバカじゃないかもしれない。
その人間のつくりだす社会、その知恵が描き出す未来だって、まだまだ捨てたものじゃないかもしれない・・・
心にぽっと明かりが灯るような、そんな気持ちにさせてくれたからです。
それは無理矢理にでなく、まるで水が乾いた砂にしみこむように、ごくあたりまえに。
そのへんに転がっている一見高尚そうな哲学書より、ベタな感動をかろうじて絞り出す純文学より、この「はじめに」は、それだけで一流の文章であり、いまさらながらに凄い名文だなぁと思います。
長い長い本文を読んでいる間にも、涙をふきながらページをめくったところがいくつもありました。
やっぱ、人を啓蒙しようなんて覚悟を決めるなら、そこには愛がなくちゃ。
啓蒙とは、アタマが未開な人々に貴重な文明の火をくれてやろうとか、さらに反撃してくる論敵を完膚無きまでに叩きのめしてやろうとか、そういう高飛車で攻撃的なものではありえないはずです。
人々の無理解、無知、偏見にただ憤ったり哀れむのでなく、その頑迷さや脆さをも含めて、心底から人間というものを愛さなければ。かつ、その醜さをしっかりと見据えたうえで、その美しさや、その潜在的な可能性を積極的に信じようとする心がなければ。
科学者としてだけでなく、人としても真にバランスよく洗練された者だけが、このような不朽の名作を残すことができるんだと思いますね。
私としては、こういう本を書ける日本人の科学者が出てくることを切に期待しています。


家族という幸福

うちのオコたんですが、もう一歳と二ヶ月を過ぎて、このまえ体重を測ってみたら5s以上もある!
ふつうの日本猫の場合、平均体重は3sから5sぐらいということで、5.5sを過ぎたら、あきらかにデブだそうです。猫にとっても肥満は万病の元らしいので、これから少しずつ減量させます。顔は小さいので、そんなに太ってるようには見えないんだけど、横腹を触ってみると、あばらの上に贅肉がついてるのがはっきりわかる。
そういえば、「このごろ食欲がなくなったなぁ」と心配に思って、オコたんの大好きな焼き魚や煮干しなんかをおやつにあげたりしてたんですよ。でも、食欲がなくなったわけじゃなくて、もう成長が止まったということだったのね。一歳すぎても、仔猫時代の育ちざかりの感覚でエサをやっていると、とんでもないデブ猫になってしまうということです。
ごめんよ、オコたん。これからはダイエットしようね。

大人になってきたせいか、仔猫のときの「なーんもわからん」ほげーっと無邪気な表情から、「ちょっとは人間のこともわかってるゾ」的な感じになってきましたね。猫は脳ミソに大したキャパシティがないので、自分の名前を覚えられないって読んだことがありますが、一緒に生活してると、覚えてるように見えるんですけどねぇ。だって、「オコたん!」って呼ぶと、くるっと振り向きますよ。床にごろんと寝そべってて、だるいよーって感じのときは、ぶるん、とシッポを振って横着な返事するしね。
ときどき、夫と「今日、オコたんがさぁ」なんて話してると、よそを向いてた本人がくるっと振り向いてこちらをジッと見るので、夫と二人、顔を見合わせて、「わかってんのかな、あいつ?」と言い合ったりしてます。
「オコたん=自分の名前」という認識はなくても、「オコたん=何か自分に関係のある音の羅列」ぐらいの認識はあるんじゃないかなぁ?

さて、このまえ、新聞の日曜版だったか、とある女性有名作家が自宅で六匹も猫を飼って、可愛がっているという記事を目にしました。その作家先生は一人暮らしだそうで、一人で仕事も家事もやりながら六匹もの猫を世話すんのは大変だろうなぁ、家政婦さんでも雇ってるのかな、と思って読んでたんですけど、彼女が、自分は人間の家族をもたなかったけれども、この猫たちが家族みたいなものだ、というようなことを言っていたので(すみません、うろ覚え)、ちょっと考えさせられてしまいました。
猫に限らずペットっていうのは、「家族」になりうるのか?って。
ちょうど、その日曜版が「家族特集」だったこともあって、あらためて、家族って何?と思いました。

私の気持ちとしては、オコたんのことはね、まぁ可愛いんですが、「準家族にはなりうるかもしれないけれど、はっきり家族という存在ではない、あくまでも猫は猫、子供の代わりにもなりえない」と思ってます。
子供のない夫婦がペットを子供代わりに可愛がるっていうのは、ありがちだし、私たち夫婦も、ひょっとしたら周りからそういうふうに見られてるのかも知れませんが、少なくとも、私自身や夫には、そんな気はさらさらないですね。好きだから飼ってるだけ、猫は猫ですよ。自分たちが子供をもつことと、オコたんのことは、まったく別次元のお話です。
ですから、家族というものを考えさせるのはいいんだけど、「世の中には、いろんな家族の形態がある。猫と暮らして、それが家族、そんなのもあっていいよね♪」というバイアスがかかってくると、もう、??と思いますね。はっきり言うと、うさんくさーって感じ。

そりゃね、現代人にはいろんな暮らし方、生き方があって、昔の家族観「適齢期になったら、いい人見つけて結婚して、子供をつくって育て上げ、離婚もしないで添い遂げるのが幸せ」みたいなマニュアルは崩壊しましたよ、だからこそ、いまさら「ペットが家族です」なんて言うこと自体、時代に逆行してない?と。
結婚しなけりゃ、あるいは、子供生まなきゃ、親が死ぬと同時に自分の家族ってなくなるんですよ。きょうだいというのは、状況にもよりますが、だんだんと他人になっていきますからね。うちの弟だって、もし私が結婚しないままだったら、親が亡くなったからといって、私と一緒に暮らそうとは言わないでしょ、自分にはもう嫁さん子供もいるわけだし。もう、私よりそっちが自分の家族で、とくに子供のことを何よりも優先して考えるのは自然なことだと思います。
親は年齢から言っても自分より先に死ぬんだし、そうなったら、きょうだいもいない独身の人は、実質上「家族がいない」ということになりますね。いないんなら、いないで、その事実を受け入れたらいいんじゃないですか?無理して猫やら犬をひっぱってきて、これが私の家族です、なんてね、痛々しい。というのも、そんな行動や言葉の裏には、「家族がないのは・・・(ヘンだ、侘びしい、など)」という負のこだわりが、根を張ってるように思えるんですよ。そのこだわりこそ、「いろんな生き方があるよね」という時代のコンセンサスに逆行してないか、と。また、その作家先生のイメージが、知的というか硬派な感じで、よもやそんなことにこだわっているようなふうに見えなかったので、違和感も倍増してしまったのでした。

けっきょく、人間って、そこまでわりきれないんでしょうか。
というか、誰にでも、何らかのこだわりはあるものなんでしょうか。
会社で働いて一人前、結婚して一人前、子供をもって一人前、そういう、他人の目から見た「こだわり=プレッシャー」は、だんだんになくなっていくかも知れない。
でも、ひとりひとりの心の中にある孤独感とか疎外感とか不完全感は、もう他人にはどうしようもないんですね。
誰が何も言わなくても、自分が自分の人生を肯定できなければ、どうしようもない。
「結婚してなきゃ可哀想」と、たとえ誰も言わなくなっても、その人が独身か既婚か、そんなことには社会が無関心になっても、自分で「結婚してないと人間として寂しい」と思っていれば、そのことだけは、他人には、もうどうしようもない。
「個人が自由にライフスタイルを選べる(選ばなきゃいけない)時代」は、もう来ている、もしくは来つつあるのに、人の心の中には、もしかしたら永遠に、そんな理想にはついていけない部分があるのだろうかと思います。あたりまえだけど、いつも、生きていくうえでの幸福感を妨げるものは、システムや外部からの圧力だけではないのですね。


神様の成績表

師走ですねぇ。
もう今年もわずか、そう思うといつもながら、なんだか神妙な気持ちになります。
この一年、何をやってきたのかなーって。
果ては、自分の過去をぜんぶおさらいして、あー、こんなふうに生きてきたんだなーって。
しみじみ来し方行く末に思いをはせる時期です。

今年といえば、一番変化があったのは、文学学校に通い始めたことですね。これは刺激になってよかったです。いろんな人がいるなぁと思ったり、こんな作品を書く人がいるのかと思ったり、なんやかやと考えさせられました。
ものを書くときって、人間の本音が見えてくるでしょう?作品のなかに。
で、あとからみんなでお茶を飲んだりお喋りしたりするときは、また別の一面が見えてくる。
どっちがどうとは言えないけれど、そのギャップが面白かったりしますね。なんかもうメンバーにも慣れちゃったし、わりと和気藹々とやってます。
でも、私自身は「ここには長いこといるべきでない」とは常に思ってるんですよ。
あの学校に三年も四年も、もっと長くいる人もいるんです、聞いた話。好きだからやってる、趣味で満足してやってるなら、結構なことですが、私のように「生きてるうちに、一冊でいいから、自分の本を出してみたい」なんて夢を持っていると、あそこにいたら、あんまり良くないと思います。よくも悪くも「文学的」すぎるし、同人誌のような素人世界のぬるま湯的雰囲気に慣れちゃうと、それがまた心地いいから。お互いに作品の批判はしあってるんだけど、わざわざ普通の人たちが素人の同人誌なんて買わないので、内輪だけでまわってる閉じたクラブ活動みたいな感じですよね。内側にいると、さぞや気持ちいいと思う。でも、私はあえてそこには入らないことにしようと思ってます。そんなのは最後の最後でいい、もっと年をとって、程良く枯れてからでもいいと。

普段はとくに思い出さない人のことを、どうしてるかな、と思うのもこの時期。
いまでも細々とつきあいのある人はいいんですが、過去のある一点ですれ違い、そのまま別れてしまったような人たちは、それからの消息がわからないだけに、ときどき気になってしまいます。
恋愛でも、終わってから引きずることがあるじゃないですか。
結果的にふられた男のことを、愛情断ち切れず憎んで、「あんな奴、何かの事故にでも会うか、大病で苦しんで死ねばいい」とか心で罵ってるうちは、まだそれは過去の出来事じゃない。
ほんとに過去になってしまうとね、「今頃どうしてるかな。どうしていてもいいけれど、生きていて欲しい。できればそこそこ幸せでいて欲しい」と思うようになる。なぜって、憎しみというのは、なかなか持ち続けていられないから。エネルギー使うんですよ、人を憎み続けるのはね。身体にもこたえるし。いっそのこと、素直に愛しつづけるほうが、ずっと簡単。
憎しみの情は、あのときあの時間というものに拘泥して重くよどんでしまうけれど、愛情はふわふわと羽根のように軽く、未来永劫いくらでもわいてでるもの。それこそ広大無辺に。
その人がどこかで生きていると思うだけでいい。
この同じ地球のどこかで、いま同じ時を生きている、それだけでいい。
愛し返されたいなどという見返りをいっさい求めなくなると、愛するとはこんなにもたやすく、こんなにもすがすがしい。
男性だけでなく、講師時代に出会った生徒たちのなかにも、忘れられない顔がたくさんありますよ。
きっとそんなにロクな人生やってないんだろうけど、それでも、いま、この瞬間、笑っていて欲しい、そう思える顔・・・
ああ、逆に、こんな私のことを、果たして思い出してくれている人もいるのかな。
たぶんいるんでしょうね。どこかには。
その人たちの心の中に、私がどんなかたちで残っているのか、それは知るよしもないけれど。

時の流れと運命だけは、誰にも読みきれないもの。
五年前なら、私も、今の夫と結婚して、おまけに猫まで飼うようになるなんて、全く想像できなかった。
ぜんぜん想像してなかった生活を、もう三年近くもやってる。
で、このまえの朝、とつぜん夫が、さも気の毒そうに、「あのな。あの賞の中間発表あったけどな、おまえの名前なかった。可哀想になぁ、頑張ったのにな」って。
そう、じつは、昔書いた長編をリライトして、とある大手出版社の新人賞に送ってみたんですよね。
私は賞をとるなんて厳しいもんだと思ってたので、そんなに期待してなかったんですけど、夫はわりとその小説が気に入ってたのか、残念やったなぁとしきりに言ってる。
「きのうの夜、帰りに本屋で見てみたら、名前のってなかった。えらいもん見てしもたと思って、あんたには黙っててん」
「ゆうべ見たん? なんで言わんかったんよ?」
「だって、夜寝る前にそんなん聞いたら、あんた、落ち込んで寝られんようになったらあかんと思って」
べつにそんなことなかったのに。

賞を取れなかったのは、ひとえに私の未熟さ。今思えば、万が一、取ってしまって小説家デビューしたとしても、次の作品書いてください、なんてことになったら、この実力では困ってしまうことでしょう。
けど、出してみて、よかったと思いました。
いままで、女心のわからん、気のきかん男とばかり思っていた夫にも、こんな高度な(?)思いやりを示せるんだということがわかったので。目からウロコです。私だったら、見て帰ってきて、その場で言っちゃうでしょうね、きっと。もちろん、その結果、落ち込んじゃったら、一生懸命フォローはすると思うけれど。
なんか、ささいなことかもしれませんが、結婚して以来はじめて、しみじみと夫の「思いやり」を感じてしまいました。ほんと、文学学校に通ったり、賞に応募したりの一年の締めにこんなことが来るなんて。これも運命かなぁ。もし簡単に賞を取ってトントン拍子に話が進んでたら、そりゃあ有頂天にはなれたでしょうけど、鼻持ちならん傲慢妻になって、夫の気持ちはもとより、誰の気持ちも顧みない人間になってた可能性大。そう考えたら、神様から、「今はこれで良しとせよ」と学期末の成績表を渡されたような気がしました。
誰が取るのか知りませんが、あの新人賞を取る人には、それだけの必然性がある人、書き続けなければならないという切迫感のある人が選ばれて欲しいと思います。

夫よ、またしょうもないケンカして、この気持ちがだいなしになる前に言っておく。
ありがとう。


幸せって

クリスマスですが、べつにこれといって何もしません。
ご馳走を食べに行くわけでなし、遊びに行くわけでなし。
この寒いのに人混みの中に出かけるなんて、わざわざ風邪をひきに行くようなものだし、ちょっといいものを食べようと思えば人の足元を見るような特別料金になっていて、それもなんだか気が進みません。プレゼント贈りっこしようにも、お互い、特に欲しいモノってないし・・・
まぁ、そんなこんなでいつも通りです。
あ、そうそう。昨夜は「ユズ湯」に入りました。実家からユズを数個もらったので、そのうちの一個をそのまんま、バスタブにちゃぽんと入れてみたんです。あれ?あんまり香りがしないなぁと思って、少し皮をむいてみたら、うーん、なんともいえないさわやかな香りがうっすらと漂って・・・ちょっと贅沢な気分に浸れました。

このあいだから、幸せってなんだろなぁと考えてます。
人間って、何でもかんでも全部持っている人はいないと思うんですよね。たいてい何か欠けていて、それはお金だったり、愛だったり、社会での生き甲斐だったりするわけですが、そんなの人それぞれでしょ、みんなに、あと自分に何があればこれで完璧に幸せって感じますか?って訊いて回りたいです。
私は、もうはっきりと自覚しているのが、「社会的な立脚点」。
これが決定的に欠けているので、そこをつつかれるとイタイですね。

お金やモノには子供の頃からあまり執着しなかったし、今、その点で困っていることは何もないです。まぁ、もっときれいなお家に住みたいとか、せめてお金をかけて部屋の内装を変えたいとかね、言い出せばきりがないけれど、それがなかったからといって人生に何か欠落を感じるというものではない。他人が広いお屋敷に住んでいると見聞きしたら羨ましいとは思うけれども、普段から焦燥を感じるなんてことはない。美容室なんかに置いてあるファッション雑誌を見て、「いいなぁ、こんなインテリア」とか思うのは、いわば「つくられた欲望」ですね。身のうちから自然とわき出る渇望じゃない。

対人関係については、私はめぐまれている方かもしれないと思うようになりました。過去も今も。
もう、生まれたときから、親に愛されるのは当たり前と思って育ってきたので、荒れた家庭、家族ならではの複雑な愛憎の念なんてものは想像すらできなかった。講師やってるとき、いろんな生徒の事情を見聞きして、やっと、世の中にはいろんな家庭環境があるんだなぁと思い知らされましたね。いじめというほどのいじめにもあわなかったし、男女関係においても、寂しさを味わわなかったとか、失恋しなかったということはないのですが、それでも、決定的に孤独だなぁと思ったことはなかったんじゃないかな。友達は、たくさんいたら、かえってうっとおしいと思うほうだし。2、3人、腹を割って話せる相手がいればそれでいい。何より、こちらに何の落ち度もないのに騙されたとか裏切られた、今でも思い出すと憎しみがわき起こってくる、なんていう相手が思いつかない、というのは幸運な証拠なのだと思うようにしています。

私の人生に何が不満か、欠けているところがあるとしたら、やはり「社会でのサクセス」でしょう。
私がここで言っているのは、そんな大げさなことじゃなくて、ちゃんと仕事をもっていて、その職場できちんと一人前と認められ、そのことに充実感を覚える・・・それだけのことなんですけどね。
でも、私にはそれが何よりも難しいことのように思えます。なにしろ、そういう体験がないもので。
人によっては恋愛や結婚が何よりも難しい、自分にはまるで無縁のことのように思える、というケースもあるでしょう。私から見れば、恋愛の相手なんて、それこそ真剣に探せば二年のうちにはたぶん見つかるだろうと思うし(なんの根拠もないけれど)、そうなれば結婚だってまったく手の届かないほど難しいものとは感じられない。
私は美人でもないし、もう若くもないんだけれど、なんとなくそう思います。べつに相手に対するハードルがとくべつ低いというわけではないんだけど。
それより、面接を受けて仕事を確保して、職場でなんだかんだと気を使いながらも、最終的には認めてもらうことのほうが、どんなに難しくて根気のいることか。とくに、親元を離れて就職し、一人自活して毎日を生きている人なんかには、もうそれだけで敬意を払ってしまいます。いや、マジで偉いなぁ、と。私にも、それだけの強さっていうか、実力っていうか、忍耐力っていうか、そういうものが備わっていたら、人生、もっと違ったふうに展開していただろうし、また、展開していくだろうになって。たとえ、ボロいアパート暮らしで、夕食にはひとりでコンビニ弁当食べていたとしても、人に甘えず生きていられるその姿は、私から見れば感動ナミダものです。たとえ、「そんなの普通じゃない?」と言われても。自分がやったこともないこと、自信のないことは、いくら大勢の人がやっていたとしても、私には「普通」じゃないんですよね。

一人で生き抜く力に欠けているって、けっこう深刻な欠落じゃないですか?
常に誰かの支えを必要としているわけで、それは、弱いこと、この世界での生存には著しく不利なことだと思うんです。
それに比べりゃ、「恋人がいない」とか、「人生をともにする伴侶がみつからない」なんて、なんかちょっとしたきっかけですぐ解決しそうな問題に見えてしまう。隣の芝は青い、というヤツ?
きっと、世渡り上手というか、自立して生きていくのに長けた人だと、私の悩みなんか聞いていたら、「それで、いったい何がしたいわけ?たんに、努力するとか我慢するのがイヤだから、できないっていう思いこみに逃げてるだけでしょうが。世の中、なめてんじゃないよ」と叱られそうです。まぁ、だから、こんなことはここでしか言えません。でも、私から見れば、「いい歳をして恋愛ができない」とかいう悩みも、よくよく聞いてみたら、そんな感じなんですよね。「あんた、客観的に自分を値踏みできてる?相手に高望みしてない?ルックスとか表面的な優しさに惑わされてない?」というか。

人って、いつまでたっても、どこにも傷のない完璧な幸福なんて、得られないものなのかもしれないなと思います。これが欲しいと追いかけて、やっとこの手につかんだと思ったら、いつのまにかべつの何かがこぼれおちてしまっていたり。
有名人になったアガサ・クリスティが、親戚の女性に「アガサはいいわね、お金も名声もあって、もうそれ以上望むものはないじゃない」と言われたとき、真剣に腹を立てて「そんなこと言わないで。わたし、そんなものを欲しいと思ったわけじゃないんですから」と答えたとか。
おりしも、アガサが離婚後また再婚して、だけど二度目の夫の愛情も心もとなくなっていたとき。
私なら、「才能に恵まれたリッチ・ウーマンがなんで過去を引きずるの、男なんか星の数ほどいるんだし、気に入らなければ何度でも取り替えればいいのに」と進言するところですが、彼女にしてみれば、離婚なんかせずに、最初の夫と娘と三人で仲むつまじく暮らし続けていられたら、どんなによかったでしょう、と思っていたのですね。けれども、離婚後すぐに「青列車の謎」を書いているとき、彼女は「個人生活のなかで、どんなに悲しいときでも、どんなに気が進まないときでも、とにかくいい作品を書く努力をした、これではじめてプロとしての自覚をもった」と言っていたのですから、皮肉なことです。

幸せってなんだろな。
みなさんは、何が欲しいですか。何が人生に欠けていると思いますか。
そんなものはないですか。なけりゃないで、それもちょっぴり不幸なような気がします。



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