雑踏のなかの孤独

他人の目を気にするほうかと言われれば、「そこそこ気にするほう」かも知れないと思います。
他人が自分に期待(あるいは妄想)している像というのを、意識的に演じてしまうところもあったり。
何を言われようと好き勝手にやっているようで、「そういう好き勝手にやっている私」というのも、ある程度は他人から求められているキャラクターかもな、と思ったり。

新しい人間集団に入っていくとき、誰でも少しは不安があるでしょうけど、私も同じです。文学学校でも、最初、通い始めたころは、どう振る舞ったらいいのかしらととまどってました。でも、今では、もはやしっかり自分のキャラができあがっている(^_^;)
なんかね、あそこでは、猫みたいと言われています。以前に猫のショートストーリーを書いたこともあるからかもしれませんが、声とかしゃべり方とか雰囲気が猫なんだそうです。まぁ、猫ならそんなに悪くもないか、と思ってます。どうせ実家でも「まり猫」だったんだし(可愛い仔猫とか優雅なシャム猫というニュアンスではないですよ、「ワガママで役立たず」という意味)。
いったんそう思われてしまうと、私もそれをわざわざデフォルメしていくところがありますね。より猫っぽく演じてしまうというか。まぁ、こっちが勝手にやってることですけど、でも、あんまり「この人はこういうキャラ」という個性が固まりすぎても、しんどいものがあります。演技もいい加減にしなければ、と思うんだけれど、なぜかやめられない。こうなると、観客の期待に応えることが商売の役者みたいな感じですね。

家族とか、ほんとうに親しい関係だと、素の自分も出せますが、たとえばお姑さんなんかの前だとやっぱり「いい嫁」を演じようとしてしまうし(効果のほどはわかりませんが^_^;)、ご近所には、せめて後ろ指さされないように、マトモな奥さんを演じている。
誰でもそうでしょう?
社会に出たら、素のままの自分なんか、受け入れてくれるところはないでしょう?
でも、それではあまりにも息苦しいので、みんな、誰かひとりくらいは「自分のありのままの姿」を受け入れてくれないかな、肯定してくれないかな、愛してくれないかな、と思ってるわけです。
まあ、普通、家族とか恋人、親友ですよね、そういう存在は。
でも、そういう家族や恋人、親しい友人と一緒にいても、その人たちの前で演技をやめられない、やめてしまったら、もう関係がぎくしゃくしてしまいそうな気がする、壊れてしまいそうな気がする、そんな人もけっこう多いんではないかと想像するんですよ。
それって、すごい孤独だろうなぁと思います。
他人が見ている自分と、自分で自覚している素の自分がどこかずれていると、そのギャップは演技で埋めていくしかない。それが嫌なら素の自分でいられるほかの場所、ほかの人を探すしかない。だって、もう自分に対する評価が固まってしまった場所で、「本当の私はこうなのよ!」と力んでも、周りの誰もが「えっ、そうは見えないよ」ということになれば、いくら自分ひとりで頑張ってみても、ちょっとやそっとで周囲の見方を覆すのは無理でしょう。

その場所、その人の前にいる限り、求められる自分像を演じるしかない。けれども、そこを離れれば、新しい関係を求めれば、違う見方で自分を見てくれる人に出会えるかもしれない。疲れる演技をしなくても、よくなるかもしれない。
今はネットがあるので、見ず知らずの人と関係をもつことがいともたやすくなりました。
いろんな匿名掲示板(固定ハンドルを使っていても匿名には違いない)には、「ここでなら自分のほんとうの姿をさらけ出せる」と言っている人たちがたくさんいます。なかには、顔も知らない者どうしが、自分の抱えている個人的な悩みを、かなり詳しく語りあっている掲示板もあります。これは救いだと考えればいいのか、それとも、もっと哀しい現象だと捉えればいいのか・・・
そういう、「環境からの一時的なエスケープ」が、果たして孤独を癒してくれるのかどうか。

ひっそりと誰もいない路地裏よりも、人々が押し合うようにすれ違う雑踏の中が、ずっと寂しい。
こんなにも大勢の人間が生きていながら、その誰ともつながっていないんだと感じさせられるから。
それなのに、どうして人はその群れに入りたがるのでしょうね。
足を踏まれたり、肩がぶつかったり、不愉快なことは絶えない、なのに心が痛むほど孤独だと、そんなことさえもが、皆と同じ時を生きている確かな証に思えるのでしょうか。


湘南国際ワークショップ その1「場の力」

えーと、11月6日から10日まで、湘南国際村の「生産性国際交流センター」というところへ行ってました。神奈川県の逗子駅からタクシーで約三、四十分、値段にして2,500円から3,000円くらいかかる辺鄙な施設です。そこで物性理論の国際ワークショップが開かれて、夫にも壇上で何か発表しろというお達しがきたのでした。で、まぁ、珍しがりの私も夫にくっついて行ったんです。
「へー、研究発表ってどんなの?外国からも人が来るの?ふーん、私も行っていいの?んじゃ、行く。あんたの仕事ぶりも見られるし、理系研究者の実態も観察できるし、なんか面白そう」
と、まぁ、軽いノリで決めたんですよ。開催にあたって事務を仕切っているベテラン秘書の方には、
「あそこ、何もないところですけど、奥さん、だいじょうぶですか?退屈ですよ」
なんて事前に夫宛のメールが来たものの、そのときは何も気にしてませんでしたね。私たちの他には誰も家族なんか連れて来ないとわかっても、やっぱり気にも留めてませんでした。私にとっては初めての経験だし、しっかりいろんなことを観察してきて、また何か書くネタにしようと、ほくそ笑んでたぐらいなんですよ。ところが・・・これからお話しますが、ほんとにこの湘南行きは、忘れられない体験となってしまいました。

うーん・・・何から書けばいいのかちょっと混乱しますね。
なにしろ、ほとほと疲れ切ってしまったものですから、今まだ、少し精神的にアンバランスな状態なんですよ。夫は仕事してましたが、私は何もしないでぼーっとしていたのだから、疲れるということもないだろうと思うのですが、これ、肉体疲労じゃなくて、精神疲労なんですね。原因は、つらつら考えてみるに、あの「場」の持つ影響が大きい。
あの生産性国際交流センターという施設、ネーミングも実に意味不明で不気味ですが、その実質は名前に輪をかけて不気味なんです。私は思わず「邪(よこしま)」という漢字を思い出してしまいました。
確かに、外面はきれいで、そこそこ整った感じなんです。昼前に大阪を出て、もう暗くなった夕方、タクシーで施設まで乗り付けたときは、一見して「へえ、なかなかいいところやん♪」と、無邪気にも思いました。なにしろ、駅から離れた小高い丘の広い敷地に建っていて、部屋からは富士山が真正面に見えるんですね。それがウリのひとつなんだと思います。これも無邪気に、「わぁ嬉しい♪」てな感じでした。
ところが、一日たち、二日たつと・・・なんかすっごく息苦しいんですよ。
もうね、そこにいること、そのものが。

生産性国際交流センターは、そもそも、宿泊棟と研修棟から成る研修施設です。
湘南国際村のホームページから引用すると、

いかにして研修の質を高めていくか----いかにして研修の運営効率を高めていくか。生産性国際交流センター建設の目的は゛理想的教育環境の構築″にありました。その利用目的に臨機応変に対応できるスペックを持ち、運営担当者をバックアップすると同時にリラクゼーションタイムをも演出する-----40年にも及ぶ歴史と幾多の教育実績を持つ(財)社会経済生産性本部が平成8年3月よりスタートさせた研修環境の新しい形-----それが生産性国際交流センターです。


ということになるのですが、この文章の「研修」を「修行」に、「運営」を「洗脳」に、ちょっと置き換えてみてください。まるで、「オウム真理教幹部が在家信者たちに出家を促す目的でつくったサティアンの宣伝文句?」という感じじゃありまんか。
そうなんです。まったく、実質的にはそんな感じなんですよ。
「理想的な教育環境」と言えば聞こえはいいけど、要は、ある権力を持つ者がその意図する通りに人間を洗脳・改造するのに、非常に都合良くできているわけです。

まず、少し街から離れた辺鄙な場所にある。これは、講義などをさぼってどこかで時間をつぶすにはまったく不便だけれど、いざとなれば逃げられないわけではないと思うから、まあ仕方ないかと諦めるのに都合がいい距離なのです。
そして、食事の管理。ここのカフェテリアは一カ所しかないうえ、自由に選べるメニューというものがないのです。朝は和食と洋食のセットふたつからどちらかを選び、昼は同じく二種類のメニューから選び、なんと夜は選ぶ余地のないただひとつのメニューで食いつなぐことになるのです。アレルギーや何かの持病、あるいは宗教習慣などの理由で、出されるメインディッシュが食べられない人も出てくると思いますが、そんなことは一切、考慮されていない。そして、恐ろしいことに、ここ以外でものを食べられる場所というのが近くには存在しないんですよ。わざわざバスかタクシーに乗って出ていく以外にはね。だから、みんな仕方なく、レンジでチンの冷凍ウナギや冷凍麺、業務用ミートソース、ざっと洗っただけのカット野菜、申し訳程度についているオレンジの切れ端などで我慢せねばならない。一食あたりのカロリーは高いですが、その味ときたら、もうお話にならないレベル。でも、それしかないのですよ。
まあ、主菜以外にも小鉢がいろいろ並んでいますから、どんなに不味くても、どうしても食べられないものばかりではない、そこのところで、これも仕方がないかと諦めねばならない気にさせられるんです。たとえこんなセルフサービスの手抜き食堂に一食二千円という法外なお金を払っていてもね。
このカフェテリアは朝昼夜、それぞれ二時間程度しか営業してません。ということで、食事の中身もさることながら、食事の時間というのも管理されねばなりません。お腹が空こうが空くまいが、その時間に食べるしかないのです。ここにおいては放牧の牛のほうが、まだ食の自由がある。ここ以外に、この建物のなかには、コーヒーショップもティールームもありません。サンドウィッチのひとかけらも売ってないし、フロント脇の売店には、カップ麺や駄菓子などが、ほんのチョロチョロっと置いてあるだけです。
外界との接点、情報収集の面においても、わりと中途半端に遮断されています。
部屋には小さなテレビがあり、ケーブルもひいています。が、そのケーブルをネットに接続させたパソコンは一台もないのです。私があそこから自分の掲示板に書き込むことができたのは、このワークショップを主催した(あるいは参加した)方々が、個人のパソコンを持ち寄って、そういう環境をわざわざつくってくれていたおかげです。今時、研究者なんて、ネットに接続したパソコンがないとはじまりません。メールも読めない場所に五日もカンヅメにされたのでは、仕事にも支障が出るという配慮なのでしょう。
しかし、なにより驚いたのは、自分の部屋から外に電話がかけられない、ということでした。部屋に電話はありますが、建物外部にはかけられない、そういう設定にしてあるんですよ。かけるなら、建物内にある公衆電話からかけろ、と・・・
これはフロントに言って、外につながるようにしてもらいましたが、どうしてはじめからそう設定しておかないのでしょう?あとで精算するとき、面倒だからでしょうか。

なるほど、ここは研修施設であって、一般のホテルではないのだと思ってみても、そのサービスの質には呆れてしまいます。フロントのおじいさんは、タクシーを呼んだら逗子駅までいくらかかるか、このあたりで一番近い眼科医院はどこにあるか、そんなこともご存じないのです。これでは病人が出たときなど不安でたまらないですよ。このような状態では、「生産性」だの「国際交流」だのという、訳のわからない大げさなだけのネームが泣くではありませんか。それとも、人間にある程度以上の快適さや自由、安心感を与えれば生産性が下がる、つまり、指導する者の思うように教育(洗脳)できないということなのでしょうか。そこまで考えてやっていることなら、ほんと、その狡猾さに頭が下がります。
ワークショップ関係以外にも、いくつかの会社、団体が、このだだっ広い施設を利用していました。胸に、○×塗料とか、そんな名札をぶら下げていました。
このご時世、こんなバブリーな研修施設にかけるお金があるのだから、きっと大手企業だと思います。
研究者たちは、こんなところにいてもわりと自由で、自分の職分さえ果たせば、あとはお好きなように、という雰囲気がありましたが、企業の研修だとそうはいかないと思います。きっと、一日のスケジュールは、朝から晩までキッチリこなさねばならないのでしょう。ほんと、あの人たちがマントラを唱えながら歩いていないのが不思議なくらいですよ。実家が自営なので、いわゆるサラリーマンと呼ばれる方々の実態には疎い私ですが、改めて、何か感じさせられるものがありましたね。

はっきり言って、あれは洗脳のための施設。
あの場所で一日過ごすごとに、「どこにも所属していない私」は気持ちが悪くてたまりませんでした。
案外、人間の精神って、もろいものなんじゃないかなぁと思わされました。あんな場所で、寝食と情報を管理されて、ひとつのことばかりを頭に叩き込まれたら、それがどんなことであれ、影響を受けてしまうものなんじゃないかなと。
ここでは当然、新人研修なんかもあるでしょう。これが社会というものである、これが社会の一員となるために不可欠なイニシエーションであるというなら、人間が、人間らしく生きるって、どういうことだろう、私はそんなことばかり考えていました。それが、この「場の力」に対する、私のささやかな抵抗でした。
なんかね、この施設は人間の精神の一番ヤワな、弱いところを突いてくるわけです。そこから自我を決壊させてしまい、その廃墟に何かほかのモノをインプラントしていく、そんな感じがするんですよ。しかもそれが、すごく狡猾になされるので、本人もあまり気づかない、みたいな。
だから、「邪(よこしま)」なんです。

折しも、自衛隊派遣がクローズアップされていますよね。
アフガンがあんなことになって、「戦争の世紀」と呼ばれるのは何も二十世紀だけではないことを、この二十一世紀ののっけから証明してしまいました。戦争は、まだまだなくならない。
そこで、有事の際、私たちはどうするのか?
私は、日本の自衛隊なんて士気が低くて役に立たないんじゃないか、言い換えれば、今時、「お国のために命を賭けようとする」若者なんて、いようはずがない、と思っていました。だって、私たちは、戦争なんて身をもって知らないけれど、それが悲惨であるという教育だけはされてきたでしょう?
軍隊なんて、それこそサラリーマンより自由もないし、訓練やら上下関係は厳しいし。今の軟弱な若者たちが、戦争なんか支持するわけがない、自分に関係ないならともかく、自分に直接かかわってくる徴兵制だとかは、絶対に受け入れないだろうと思っていました。
でも、夫は「人間の考えなんか、けっこう簡単に操作されうる」と言っていたんですよね。私はそれでも、まだタカをくくってました。若者のノーテンキさ、軟弱さは、ひとつの救いであるかもしれないと。
けれども、ちょっと考え変わりましたね。
「痛いのなんかヤダ」「戦争で死ぬなんて怖いからヤダ」
そう言っているだけじゃ、駄目なんじゃないかって。それって人間のすごく根源的で素直な感情だと思うんですけど、ああいう洗脳施設では、簡単に壊されうるものでもあるんじゃないかなって。
いや、なにも施設がなくても、ちょっとした情報操作、生活や習慣の管理によって、人間というものはだんだんに、異質な考えを受け入れてしまうようになるものなんじゃないかって。

まぁ、とにかく、たったの四泊しかしていないのに、そこにいるだけでそういうことを考えざるをえなくなる、あの生産性国際交流センター、ただものではないな、と思いました。


湘南国際ワークショップ その2「研究者たち」

前回、ワークショップについて、その舞台の様子をお話しましたから、次はいよいよそこに登場する人々(=物性理論研究者たち)の印象などを述べてみることにいたしましょう。

さて、私が夫についていってワークショップを覗いてみたかったのは、純粋に好奇心です。
ふだん研究に忙殺されている夫の晴れ姿(?)を見てみたかったし、私には夫の仕事がどんなものか、いまいちわかっていないので、それを少しでも知りたいし、なにより、夫およびその研究が、この業界でどのあたりに位置しているか、ということにも関心があったんです。
私には夫が何を研究しているのか、ほんとにおぼろげにしかわかってません。それが、どれほど価値があるものなのかも、あんまりわかりません。ただ、国立大学の理論物理系助手という肩書きしかわからないわけです。けれども、この、いわゆる社会的肩書きと、業界内での実際、要するに「現在どれだけ素晴らしい研究をしているか」というのは、微妙に別ものなんですね。いや、聞いた話、そうらしい。
ならば、業界内での彼の振るまい、あるいは、人々が彼をどう見ているか、を子細に観察すれば、「彼の研究が、業界のどのへんに位置しているか」というのが客観的にわかるのではないでしょうか?
言っておきますが、私は必ずしも「いい位置につけている夫=良い夫」とは思ってません。
まぁ、それに越したことはありませんが、なんといっても夫は研究者である前に家族なのですから、いろいろとその他の要素もあるわけです。まぁ、あたりまえのことですよね。

つらつら思いながら、ワークショップに参加したわけですが、しっかし、なかなかわからないですねぇ、研究者集団というのは。なんというか・・・いろんな人がいるんですよ。いや、そりゃね、世の中にはいろんな人がいます。それはわかりきったことなんですけど、なんかこう、職業者には職につきものの「らしさ」ってモンがあるじゃないですか。
マクドの店員ならあのマニュアル口調、銀行の営業マンなら鉄壁の笑顔・・・その職業につきものの、「らしさ」っていうのがあると思うんですが、この物理学者集団は、みながバラバラというか(夫に言わせれば、「インディペンダント」ということらしい)、一様に「こうだ」と決めつけられないんですよ。見た目も、その行動パターンも。服装からしてもうまったくカジュアル、スーツにネクタイなんてごくごく稀、誰が誰にへつらっている感じもあまりないし、部外者にもあからさまに縦構造がわかるような猿集団ではない、ということです。夫にくっついてはいても、私には、誰が偉い人なんだか、さっぱり。これでは、最も効果的な愛想の振りまき方がわからないではありませんか。こんな私にも、一応、「夫がいつもお世話になっております」と頭をさげてにっこり媚び笑い、というぐらいの芸当はできるんですよ。でも、なんかそんなことやるのも、かえってヘンな雰囲気みたい。サラリーマンや商売人は、これやらないと生きていけないんですけどねぇ。

一応、レベルの高い頭脳労働者たちなんだから、それなりにみんな知的な感じだろうと期待していても、それがそうでもなかったり・・・いや、「うわ、このオジサマかっこいい〜、インテリっぽい〜。NHKの科学番組で喋っていても、全然、違和感ない♪」という人もいるし、「いったいナニモンやねん、この人。もしもこの人と二人きりでエレベーターとかに乗り合わせたら、なんか警戒してしまうぞ」という感じの人もいます(^_^;) しかも、そんな対極にあるような外見の人たちを含め、男ばかり(日によっては、ごくまれに女性の姿もあった)80人も集まって、わけのわからない表とか数式とかについて、英語で(国際ワークショップですから)議論しあっているんです。
何も知らない小学生なんかが、あんな光景を見てしまったら、
「ママー、あの人たち、なぁに?」ですよ。
訊かれたママもきっと、判断に困ってしまって、「しッ、人を指差しちゃ駄目っていってるでしょッ」
と、子供の手を強く引っ張って、そそくさと通り過ぎてしまうに違いありません。

結論から言うと、私の知りたかった、「夫のいる位置」については、よくわかりませんでした。そのかわり、子供の運動会で、かけっこを見守る母親の気分っていうのは、ああいうものなのでしょうか、夫が壇上で発表しているときは、私自身まで緊張してしまいましたよ。
夫の緊張感がモロに伝わってくるというか、なんというか。アーウー、はがゆいっって感じでしたね。
だいたい、私だったら、もっと前から準備して、それこそ、鏡の前で練習してみたりすると思うんですが。せっかくの晴れ舞台(?)なのですから、少しでも見映えするよう、パフォーマンスはカッコつけてやりたいじゃないですか。それなのに・・・
うーん。無事に終わったときは、心底ほっとしました。
他の人の発表も少し見ましたが、みなさんはもっと落ち着いていらっしゃいました。英語もずっとお上手。でも、哀しいかな私には、それ以外、こと内容についてはチンプンカンプンなので、神妙に英語を聞いているふりをしながら、眠くならないように、その人の似顔絵などを描いていました。

でも、何も私だけがチンプンカンプンだというわけではないんですよ。
だいたい、やっている研究のテーマが少し違うと、同じような分野の研究者同士でも、その実態についてはよくわかんないものらしいです。そんなだから、家庭でも、同業者の奥さんがいる人以外は、家族からも「わけのわからないことをしている夫(お父さん)」と思われているみたいです。なんかよくわかんないんだけど、まぁ、毎月キチンと給料もらってきてるんだからいいか、という感じ?
私は、知りたいですけどねぇ。夫の研究について。
当然でしょ。いつも一緒に生活している人が、社会で何やってるかもよく知らないなんて、なんかヘン。スパイ映画じゃないんだから。もしも私が「わからない」と思われているほうなら、ちょっと寂しいとすら感じると思います。でも、案外、研究者というものは、べつに寂しさなぞ感じていないどころか、人がわからないことを自分は知っているんだぞ、というところに非常な優越感を抱いているように見えるんです。なんといっても、知的マッチョ世界の信奉者ですからね。

夫の発表のテーマはフルポテンシャルGWメソッドなんたら、というものだったのですが、私は冗談でそれを「ゴールデンウィークの休暇をフルに活用する潜在的可能性を計算する方法」などと言っていました。
そしたら、夫は笑って「まあそれでもええわ、でも、なんで潜在的なん?」と訊くんです。
私が、「ポテンシャルって、ポテンシャルエネルギーとか言うでしょうが。ほら、位置エネルギー。高い位置にあるだけで、潜在的にエネルギーを持ってる、とかいうやつ」と答えると、
「へええ!おまえ、そんなこと知っとったんか」と大びっくりされたんですよ。
以前も、金属をどんどん低温にしていくと、電気がつるつる抵抗なく通るようになるという「超電導」、これも知ってるっていうだけで、「ほうう、そんなことまで知ってたんか!」と感動されたことがあったりして。
あんたちょっと、私のような一般人を小馬鹿にしすぎ。
研究について根ほり葉ほり訊くと、しまいにゃうっとうしがられるし。なんでうっとうしそうにするのよ、と訊くと、「ど素人には、どこからどうやって説明したらいいか、わからんやないか」と。
そんなもんじゃないだろ、と思います。
どこの世界でもいますよね、ど素人はすっこんでろ、みたいな専門家。
あれって、自分の馬鹿とか無能を隠すために、わざと威張ってるみたいな気がするんですけど。
だって、同業者にはそれなりに、一般人にもそれなりに、臨機応変に融通をきかせながら説明できてこそ、ほんとうにそのことに精通していると言えるんじゃないかなって。それが、真実の知性というものじゃないかなって。違います?

ところで、とたんに下世話な話になりますが、行く前から楽しみにしていたことがありました。
夫と一緒に研究を進めている人が数人いるんですが、アメリカのマークさんはもちろんそのひとり。で、東京のほうにも二、三人いるけれども、そのうちの若手ふたりについて、夫が「見た感じ、わりと可愛いで。けっこう男前。あんた、会ったら気に入ると思う」と常々言ってたんです。
それぞれ、M君、U君というのですが、実際に見てみたら、けっこう対照的な組み合わせで、なるほど気に入りましたね(^^)
M君は、目がくりっとして唇が薄い、クールビューティー系。歌って踊ればジャニーズ系と言うも可。
U君は、色白のお肌がきれいで、にっこり笑うと八重歯が可愛い、癒し系。なごみ系。
どっちにも訊いてみたんですが、ふたりとも彼女いないそうです。え〜っ、なんで?!
これだけのルックスだったら、じゅうぶんイケてると思うんですけど。
うーん、こんなのがまだ残ってるんだから、理系研究室って、ほんと穴場だと思いました。彼氏募集中の文系女子は、なんとかして理系研究室にコネをつくるべし!理系女子は理系環境にいるだけで女王様状態になれると聞きますが、こんなカワイコちゃんもいるんだから、彼女らに独占させとく手はないよ、ほんと。でもねぇ、なんか、研究バカというのか、こういう人たち、軟派な遊びとか女の子にはあまり興味なさそうなんだな。そこが難関かもね。
とくに、クールなM君と会話するには、ちょっとした図太さっつーか、勇気が必要。ほら、あの、スタートレック〈ヴォイジャー〉のセブン・オブ・ナインと話すようなつもりでないと。「〜は無意味だ」とか、真顔で言われても、めげないように心臓鍛えておかなきゃ。
「ねぇ、ねぇ、M君の大学って、東京でもにぎやかな場所にあるんでしょ?遊びに行ったりするのにいいよね?(ニコッ♪)」
「そうですか(早口&マジな表情)」
「(?)いや、その、ええと、東京は湘南だって車で近いし、夏なんか・・・いいよね?」
「・・・なんか東京に特別な憧れでもあるんですか(やはり微動だにしないマジな目)」
「(あーうー^_^;)・・・いや、そ、そういうことじゃなくてぇ・・・(言葉に詰まってヘラヘラ)」
「じゃ、僕、お先に(すたすた歩き去る)」
「あ・・・・(口あんぐり)」
↑もしもカフェテリアなんかでこういう流れになっても、たぶん好き嫌いという個人的な感情の結果ではないんだろうから、深く考えないこと。私自身も深く考えないで乗り切りましたから(^_^;)
まぁ、この若手二人は見ていて楽しかったけれど、話してホっとできたのは、つくばのFさんですね。
彼も夫とは数年来のつきあいだそうで、年齢も同じくらいなんだけど、ずっと落ち着いてます。服装もごく普通だし、おとなしめの人だけど、なんか、誰と話すよりも「あー、まともな人と話してるなぁ(ほのぼの)」って感じがしました。そのうえ、研究者としても一定の評価をされてるといいますし。ぎらぎらひけらかすようなところが一切ないのが好感度高し。あまり私がFさんのことをほめちぎるので夫とモメたりして(^_^;)

まぁ、ワークショップにはいろんな人がいて、ウォッチングしていると興味は尽きませんでしたが、これ以上書くと、あとが恐ろしい気もしますので、今回はこれくらいに(^^)


イヴリン

物欲って、なんか低レベルなものみたいですが、欲しいものがあるのは、じつはすごく健全なことだと思います。
それこそ心身が病んでいると、欲しいものなんて、何もなくなるんですよ。
だから、欲しいものがあって、それが欲しいなぁと思い続けていられるあいだは、人間、そうヤケにもならず、自殺もしないで、健全に生きていられるんだろうと思います。
まぁ、程度問題ですけどね。
私がいま、一番欲しいのは、イヴリン。
クラブツリー&イヴリンからでているフレグランス、「イヴリン」です。
まえから、百貨店などのコーナーでテスターを嗅いで、あー、いい香りだなぁと思ってたんですが、そのときは、とりたてて薔薇の香りに関心なくて、そこまで欲しいと思わなかった。
ところが、最近になって、あの馥郁たる薔薇の香りがむしょうに気になる。ストレスたまってるのかなぁ?薔薇やラベンダーの香りは、ストレスや不安をやわらげる、といいますから。

男の子は、小さい頃から、切手やらプラモデルやら集めたりするじゃないですか。それを見て私は、男ってのはコレクターだなぁと思っていましたが、よく考えれば女だって負けてない。
服やら下着やら、化粧品、バッグ、靴、貴金属・・・集めたいものは無限にあります。
中でも、私がもう十年以上も凝っているのがフレグランス。
最近では、中学生ぐらいからもう香りに関心を持つといいますが、坊主頭や学生服にフレグランスはどうもヘン。女の子だって、まだ化粧もしてないのに、いっちょまえに香りだけ振りまいて歩いてるなんて、お笑いの域。
やっぱりちゃんとした香りは、ある程度、大人になってから身につけてもらいたいですね。
私は、大学生になって、キャシャレルの「アナイス・アナイス」、ニナ・リッチの「レール・デュ・タン」から入りました。優しい百合の香りと少し甘めのカーネーションの香り、どっちもビギナー向けなんですが、今でも持ってるし、好きですね。これらは名香の部類に間違いなく入るコンサバなものです。

昔と違って、このごろはフレグランスも流行のサイクルが早くなって、そのぶん、名香と呼ばれるものが少なくなってきたように思います。名香とは流行に左右されない、もうその存在だけで価値をもつものですから。それに、世の中のライト志向のせいか、不景気のせいか、本格的な香水(パルファム)が出ることがなくなって、トワレとか、せいぜいオードパルファムになってしまいました。
パルファム、オードパルファム、オードトワレ、コロンというのは、香料がどれだけ入っているかの違い。
香水とは、手っ取り早くいえば、香料をアルコールで薄めたものなんです。
パルファムは貴重な香料が多めに入ってる、そのかわり、値段に対する量は少なめ。これ。
だいたい15ミリリットルで一万五千円から三万円はするという高級品。これ最強。
香りのまろやかさ、品格にはうっとりさせられるが、貧乏人には気軽に使えないという諸刃の剣。
まぁ、中高校生はコロンやトワレでも使ってなさいってこった。
・・・2ちゃんねるで流行ってる「吉野家のコピペ」ふうに言うとこんなふうになりますね(^_^;)

いろいろ香りの好みの変遷はありましたが、一貫してるのは、柑橘系はあまり好きじゃない。で、シプレ系も駄目。私の好きなのは、さっぱりめでも甘めでも、とにかくフローラル。フルーティやグリーン、バニラ、アンバーなどが入っててもいいけれど、基本はフローラル。
で、ジャスミンもガーデニアもいいけれど、今、とにかく関心が向いてるのは薔薇ですね。
ワークショップの「ティーローズ」は、ほんとに生の薔薇って感じだけど、ちょっと甘さが足りない。
サンローランの「パリ」は甘さがくどくて、ゴージャスすぎて、普段使いにできない。
ランコムの「トレゾァ」はピーチとバニラが効きすぎて薔薇が埋没。
ウッズ・オブ・ウィンザーの「ワイルド・ローズ」は、やっぱり生薔薇っぽいけど、少しパウダリーな感じも。
ロジーヌの「ローズ・ド・ロジーヌ」も、「パリ」に似ていて、薔薇基調のブーケという感じ。
ああ、すっきりとお風呂上がりにも、お出かけにも使える、ほんものっぽい薔薇の香りはないものか、と思っていたら、クラブツリー&イヴリンの「イヴリン」があったんですね。
あの香り、あのボトル、あのパッケージ・・・すべてが私の求めていたもの。

そんなに欲しくて、しかもたかが数千円のものなんだから、さっさと買えば、と思うんですが、なんか買えない。っていうのも、未使用のものも含めて、いま、フレグランスのフルボトル(ミニボトルじゃないやつね)だけで五十本以上あるんです。ミニボトルも含めたら、もっと・・・
夫にも、呆れられています。おまえのこの香水収集癖はビョーキやな、これだけあったらもう一生かかっても使い切れんのと違うかって。
それは大げさですけど、ほんと、使い切れてないコレクションと化してるのも確か。うーん、ここにまたイヴリンを増やすとなると・・・考えてしまいます。
それにね、ほんとのこと言うと、いままでの経験からして、「ゲットしてしまうと、しばらくしたら熱が冷める」という傾向にある私。なんか、所有してるってことで、安心しちゃうんでしょうかね。
いやぁ、男の人のハーレム願望って、なんとなくわかるなぁって思います。
女を毎日とっかえひっかえしたい、いろんなタイプの美女をはべらせてみたいってやつね。でも、まだまだ飽きたらずに、もっといい女はいないかと常に探してる。
女から見ると最低の男ですが、んー、わかるなぁ、その気持ち。
自分のものになってしまうと、しばらくは熱中するけど、続かないんですね、情熱が。だからといって、嫌いになるわけじゃなくて、それはそれとして所有だけはしておきたい。誰かに譲ったり、売ったりはしたくない。みんなそれぞれに、ある程度の愛着はあるけれど、でも、完全に満足してなくて、もっと愛着のもてるもの、これぞ究極、というものを探してるんですよ、いつも。

ま、そんな感じで香水ジプシーになる人もたくさんいます。
みんな、ただひとつの「究極の香り」を求めた、その結果ね。
私にはこれ、これしかない、と惚れこめる香り。「私の香り」というものに憧れている人は多いです。
実際、香りなんて、最低限、シチュエーションに合わせて三つぐらいあったらいいんですよ。
1,寝るときやリラクゼーションの香り
2,ちょっとしたお出かけ、買い物や通学などでまとう日常の香り
3,パーティや大事なデートなど、ここぞというときに気合いを入れて勝負するための香り
イヴリンは、大舞台や勝負には向かないから、リラクゼーションから日常使いの香りですね。
ちなみに、私の最近の傾向は、
1,ロシャスの「フルール・ド・オウ」、グッチの「オー・ド・グッチ」・・・
2,サンローランの「ヴァイス・ヴァーサ」、イーストハンプトンの「フローレ」・・・
3,ランコムの「トレゾァ」、クロエの「ナルシス」・・・
だいたい、こんな感じでしょうか。
今のところ、イヴリンはおあずけかな。もうちょっとフラストレーションがたまるまで待ってよう。
おあずけ期間が長ければ、ゲットしたときの喜びもひとしお。
まー、逆に言うと、気の多い人の心をつかまえておくのは、すぐになびかず、しばらくおあずけ食らわしとくのが一番ってこと??



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