じっと手を見る

私の手は小さくて、ぎゅっと握りしめてみても関節がごつごつ飛び出てなくて、指は親指から小指まで、あんまり太さの差がなく、しんなりと先細りで、いかにも女らしい手なんです。昔の日本画に出てきそうな手。少し爪を伸ばして薄色のマニキュア(小さい爪に濃い色はあまり似合わない)を塗っていたりすると、ときどき、知らない人から、「きれいな手ですね〜」と言われることがあります。レジでお財布からお金を出そうとしているときとか、ふとした瞬間に。私自身は、一時期、中性的というか少年ぽい容姿に憧れていて、いかにも女らしい手足というのは、どちらかというと嫌いだったんですが、他の人から見るとそうでもなかったようです。今でこそ年齢のせいか痩せたせいか、手もそれなりに少し筋が浮いて、皮膚の艶やハリも多少失われた感じですが、二十代前半はそれこそ「白魚のような」という形容詞をつけていただいたものでした(自分で書くとなんか照れる^_^;)。
いつも言ってくれるのは女の人ばかりなんですけどね。女性はそういう細部をけっこうチェックしてますから。私だって、どんな美人でも、指先に濃い色のマニキュアがぼろぼろ剥がれかけたまま放置してあったりしたら、あーあ、と心ひそかに思いますよ。男性だったら、まず他に見る場所が違うんでしょうけど?

ほめてくれる人もいるこの手なんですが、親からはよく「役立たずの手」と言われていました。うちの母なんか、しげしげと私の手を見て、「あんたの手を見ていたら、何にもできない子だってことがよくわかるわ。これはちゃんと仕事する手じゃないもんねぇ、『役立たずの手』やね」。
うーん、くやしいけど、確かにそう。
皮膚が薄いのか、お湯や洗剤などで荒れやすいし、重いもの持つとマメができやすいし、握力がないので、大根おろすのも疲れるし、テニスをしていると、ボール打つときの衝撃でラケットまで飛んでってしまいます。ギターはFのコードがどうしても押さえられなくて断念、ピアノは1オクターヴがぎりぎり届かないので、これまた断念。
ま、いいことばかりもないんです(~_~;)

ところで、つい先日、髪をカットしに行ったんですが、洗髪の人、カットの人、ともに男性でした。で、ふと気づいたんですが、この二人とも、爪が赤茶色なんです。へえ、最近は男の人もマニキュアするのか、と少し目を見張りましたが、こういう仕事なんだし、普通なのかも、と思って、カットしてくれているお兄さんに、なにげなく、「マニキュアしてるんですね」と話しかけると、彼は笑って、こちらに手を差し出して見せながら言うんです。
「これね〜、よく間違われるんですけど、マニキュアじゃないんですよ。カラーリングのとき、爪が染まっちゃうんです」
「えっ。そうだったんですか」
とよく見れば、なるほど、マニキュアみたいな光沢はなくて、爪の内側まで染まってる。
「うちでは、ヘアカラーのクリーム、素手でお客様の髪につけるんですよ。黒に染める方が多いんですけど、黒って結局、濃い赤のことなんですよね、だからこんな色に染まっちゃうんです。あと、だんだん爪自体も薄くなってきますね」
なんか、にわかに痛々しくなって、言ってしまいました。
「ゴム手袋は使わないんですか、ほら、薄手のピタッとしたのがあるでしょう?」
(実際、パーマ液やヘアカラークリームを塗るときに、ゴム手袋を使う美容師さんは多い)
彼はごく真面目に、広げていた手の指を折りながら、
「手袋はね、まず第一にはめる手間がかかりますね、第二に脱ぐ手間もかかる、なにより、お客様の髪につけるものが安全であるということを示すためにも、手袋を使わないんです。使わないで、そのぶん手早くやる技術を身につけるんですね」
はぁ、すごいですねぇ、とただため息をつく私に、彼は、
「いやぁ、コンビニとかでお金渡すときとか、さすがにちょっと恥ずかしいですけどね。みんなマニキュアと思いますもんね」とまた屈託なく笑いました。
うーん、こういうのをプロ意識とかプロ根性とかいうのかな、と感心しつつ、彼が仕上げてくれた髪に満足して家に帰りましたが、なーんか複雑な気分。
そこまで効率主義、お客様第一でやらなくても、ゴム手袋使えばいいのにって。でも、世の中、そういうもんなのかもしれないなって。

きっと、あの彼がどうこうでなく、お店全体の方針なんでしょう。まあ、よそのお店に比べれば、値段を全体的に高めに設定しているだけあって、「お客様第一」という扱いをしてくれるのはありがたいんですが、そのせいで美容師さんたちに無理を強いているような感じがしたら、経営者としてはちょっと戦略の方向を間違えてるかも、と思うんですよね。あんな手を見せられたら、小心な私は気の毒になってしまって、カラーリングをお願いする気になれないってば(~_~;) そこで艶然と微笑んで、「頑張って頂戴ね」などと言えれば「マダムの貫禄」なのかもしれませんが、私はフツーの小市民なもので。
爪のことなんか、訊かなきゃよかったのかもしれません。
でも、とかく女性はそういう細部に目がいってしまうものなんですよね。(わりと無頓着な人もいるけれど)

それにしても、本心であれ、営業であれ、プロの仕事ってそういうもんでしょ、というかのような笑顔には、いつも圧倒されてしまいます。あまり労働らしい労働をしてこなかった私には、己の仕事に胸をはれる、その姿に無条件で感心してしまうんです。(なんだかんだ言っても、NHKの「プロジェクトX」に感動する気持ちっていうのは、みんな持ってるんじゃないでしょうか)
やっぱ、労働の基本は体力だよなぁ、と私なんか、まずそう感じますね。しっかりした基礎体力があると、少々の失敗や犠牲を恐れないで前進できるのかもしれないと、その屈託のなさが羨ましくさえなります。
私にはその点、「役立たずの手」しかついてないから。
今度生まれてくるときは、「白魚のような指先」なんかなくてもいいから、とにかく頑丈な身体が欲しいです。もりもり食欲があって、長く歩いても、立ちっぱなしでも、重いものを持ち運びしても、少々のことは平気、疲れも一晩ぐっすり眠ればスキッと回復、そんな頑丈な身体があれば、人生、どんなに思いきった冒険ができるでしょう。私は、お金で安楽さが買えるなら、それも人生の必要経費だと思うほうですが、冒険やチャレンジのときめきや充実感は、お金を出しても買うことができない代物ですよね。


男の一人称

男の人は、女性よりも主語がたくさんあって、いろいろ選べますよね。
女性だと、わたし、わたくし、あたしが一般的。書き言葉は別にして、実際の会話で一番多いのは、「あたし」または「わたし」でしょ。ちなみに、私も書き言葉では「私(わたし)」、会話では「あたし」です。
でも、男性の一人称は、ぼく、おれ、わし、おいら、わたし・・・書くのも話すのも、実にヴァラエティに富んでますね。で、何を選ぶかで、その人の雰囲気もなんだか決まってしまう。
個人的好みの問題でいえば、私は「僕(ぼく)」が一番好きですね、読んでいても、聞いていても。自分の隣に座ると考えたら、もっともしっくりくる男性像、というか。
「俺(おれ)」はあんまり好きじゃないです。なんか私の感性とはいまいち合わない気がしちゃう。
「私(わたし)」は、ある程度より年配ならいい感じ、でも、若い二十代前半くらいの男が使っていると、何カッコつけてんの?と思うかも。
「わし」は、もう問題外(でも、使ってる人多し)、恋とか憧れの対象にならないですね。要は男と思えないってこと。ただのオッサン。
けっきょく、こういうのを選ぶのって、本人の個性次第なんでしょうね。

海外小説を翻訳するときなんか、主語を何にするかけっこう迷うと思うんです。でも、さすがに、プロの翻訳家たちは、上手に訳してくれてます。
レイモンド・チャンドラーの創作した私立探偵フィリップ・マーロウには、やっぱり「私」という主語がぴったり、「俺」ではなんか安っぽくて、殺伐とした都会に生きる大人の男、という感じが出ないし、「僕」では弱っちい印象でハードボイルドにならない。
エミリー・ブロンテ作「嵐が丘」の主人公、ヒースクリフの場合は、もう「俺」しかないでしょう。「私」のように洗練されていないワイルドなイメージだし、「僕」だなんて、もう当のヒースクリフ本人が笑い出しそう。
私立探偵で、ぜったい「僕」を使って欲しいのが、コナン・ドイル創作のシャーロック・ホームズ。彼が、「俺」とか言ってたら、こっちが赤面しそうですよね。「私」なら多少は許せる気がするけれど、やっぱりここは「僕」でしょう。

小説世界の主人公たちは、どんなときにも一貫して自分の主語を使い続けてますけど、実際の男性は、違います。意識的にか無意識的にか、TPOに応じて使い分けてる。たとえば、自分の彼女には「僕」で通しても、学生時代の友人や仲間に対しては「俺」になってしまうとか。ころっと変わる瞬間があって、端で見ていると面白い。見たところ、普段が「俺」の人は、あまり変わらないみたいだけど、「僕」ベースの人は、ふとした瞬間に「俺」が出て来たりしますね。それがまたミステリアスに感じるので、「僕」ベースの男は好きです(キッパリ)。

ところで、ふと思い出して、さっきブルーハーツ(95年に解散したバンドね)聴いてたんですけど、あのバンド、一応パンクロックが基本のくせに、歌詞の主語が「僕」ってのが多いんですよ。それがなんか新鮮だった。もちろん「俺」もたくさんあるんですけどね。でも、TRAIN-TRAIN、ラブレター、夕暮れ・・・私の好きな曲はたいてい「僕−あなた」路線。「俺−おまえ」路線の硬派な歌詞ばかりだったら、ブルーハーツの魅力も半減していたでしょう。
私は自分が恋愛小説書くなら「僕−君」路線で行きますけど、この「僕−あなた」路線もググっときますね。元オフコースの小田さんが歌うなら、「僕−あなた」はいかにもきれいというか安心路線、それはそれでメロウなムードに包まれていいんだけど、一見いかれた不良ふうの甲本ヒロトが、不器用な純情さで歌う「僕−あなた」も、心揺さぶられますね。そのアンバランスさに母性本能くすぐられるというか。声もいいし、歌詞の内容もいいし。子供が聴いてもわかる平易さ、でも基本的には大人のロックですね。子供が聴けば、その場でカタルシス得られるだろうし、大人が聴けば、それを越えてもっとやりきれない切なさ、生きることのどうしようもなさを感じさせられる二重構造ロックになってる。
これも、主語が「僕」だからこそだと思うんですよね。なんとなく文学的(^^)

  はっきりさせなくてもいい あやふやなまんまでいい
   僕たちはなんとなくしあわせになるんだ
  何年たってもいい 遠く離れてもいい
    一人ぼっちじゃないぜ ウィンクするぜ
  夕暮れが僕のドアを ノックするころに 
     あなたをぎゅっと抱きたくなってる
  
   幻なんかじゃない 人生は夢じゃない
   僕たちは はっきりと生きてるんだ
   夕焼け空は赤い 炎のように赤い
    この星の半分を真っ赤に染めた
  それよりももっと赤い血が 身体じゅうを流れてるんだぜ

                         (夕暮れ/ブルーハーツ)


知の限界

今回の米同時テロ事件ですが・・・言うべき言葉が見つかりませんね・・・

私は、あの夜、何も知らずに寝ていたもので、朝になってから新聞の見出しに気づき、「うわ、エライことになってるな」とびっくりしてテレビをつけました。そしたら、どこの局もそのニュースばかり、アナウンサーたちは興奮して喋りまくっているし、旅客機がビルに突っ込んで行く映像が、何度も何度も繰り返し流れていました。これが現実に起こった出来事だとは信じられない思いで、私はそれを見ていました。

私はこれまで二回ほどニューヨークへ行ったことがあります。
立ち並ぶビル群の明かりは夜になると美しく、せかせかと道を歩く人々はまるで人種の見本市、とてもエキサイティングな大都市でした。その摩天楼の一部に民間旅客機が二機も激突して炎上、そして、がらがらと崩れ落ちてしまったとは。なんということでしょう。
それより衝撃的だったのは、その激突の瞬間の様子でした。まるで、ほんのわずかなためらいもないように、それ自体が意志を持っているかのように、まっすぐに、正確に、ビルの真ん中に飛びこんで行く旅客機・・・
私は、高層ビルが倒壊したことよりも、その下にたくさんの人が生き埋めになったことよりも、その旅客機を乗っ取って操縦桿を奪いとった者たちの、その冷徹な行為に、何より大きな衝撃を受けたのです。
呆然とテレビ画面を見つめたまま、目から涙があふれてきました。
怒りという感情からではありませんでした。犠牲者を憐れむ気持ちも、まだありませんでした。
ただ、ショックで、ただ、自分の見つめているものが信じられなくて、「どうして、どうして!?」と心の中で叫びながら、私は涙をふいていたのでした。

その後の調べで、犯人たちは、こともあろうにテロの標的国たる当のアメリカ国内に住み、飛行機の操縦などを学んでいたということがわかりました。この自爆テロ計画は、長い時間をかけて練り上げられ、周到に準備されてきたものだったのです。
思うのですが、それだけまとまった期間、アメリカで暮らしていたのなら、きっと何らかのかたちで普通に一般のアメリカ人と接することがあったはずです。
彼らは隣人に挨拶もしなかったのでしょうか?
飛行訓練のとき、教官と口もきかなかったのでしょうか?
近所で子供が遊んでいる姿を見かけたこともなかったのでしょうか?
私は疑問に思わざるをえません。
彼らは、自分たちが傷つけよう、殺そうとしている相手も、さまざまな感情を持ち、それなりに精一杯この世の日常を生きているという点で、人間としては同胞であると、思うことはなかったのでしょうか。一瞬たりとも? 
もちろん、彼らは確固とした目的のために渡米してきたわけですから、その目的を忘れるはずもないと言えるのでしょうが、人間とは、そんなにも非情になれるものなのでしょうか。ビルに突っ込んで行くその瞬間まで、彼らの心には、ほんのかすかでも動揺や疑問はなかったのでしょうか。

あれから二週間が過ぎました。
テロの犠牲になった人々、そのご家族のことはとても気の毒に思います。
けれども私には、どうしても、犯人に対する憎しみが湧いてこないのです。瓦礫の山と灰だらけになった街、そして、家族や友人が行方不明になったと泣き崩れる人々のことを思い起こしてみても、私は、犯人が憎いというより、もう、ひたすらに悲しいだけなのです。
なぜこのような惨事が起きてしまったのか?
そこにはいろんな歴史的背景、宗教的背景があるでしょうし、正直言って、浅学な私には何が真実なのかわからないです。巷には、「アメリカが憎まれているからだ」と言う人もたくさんいます。けれども、私は、何が原因であれ、ただ憎悪の念だけで、あんな行為が果たして人間にできるものかと思います。
確かに、憎しみもあったかもしれません。が、彼らの心の中には、まだ人間的な憎悪という感情より、もっと強力な何かがあったのではありませんか。飛行機をビルの中心へ向け、正確に激突させる瞬間、果たして彼らが目を血走らせながら、「憎きアメリカめ、今こそ滅びよ!」と叫んだでしょうか?
私にはそう思えないのです。なぜかと言うと、あの激突の映像から感じられるものは、暗くねじれた憎悪ではなく、鋼のように非情な、強い確信なのです。
あえて言えば、彼らは自分の信ずるものに殉じたのだ、私にはそう見えるのです。
だからこそ、憎しみよりもなお深い心の底から、なすすべもない悲しみが込み上げてくるのです。

犠牲者の追悼は終わり、ニューヨークでは人々が必死で平常の生活を取り戻そうとしています。
市民たちは星条旗を掲げ、アメリカ政府は着々と報復の準備を進めています。
もしも戦争が始まれば、犯人たちの属するグループよりも、なによりもまず、おおぜいの無辜の人々の生活と、その生命までもが脅かされるでしょう。そして、それはもうすでに始まっているのです。
これは「正義の戦い」なのでしょうか?
それとも「聖戦(ジハード)」なのでしょうか?
さまざまな民族、文化、歴史を持ちながら、私たち人間は、いったい己自身から何を学んできたのでしょう。私には、今、私たちが見つめているものが、人間の知の限界なのだと思えてなりません。


年下の男

遅まきながら、ベルンハルト・シュリンクの「朗読者」、読みました。
うーん、なかなか感動的なストーリーでしたね。
正確に言えば、テレビドラマの「大地の子」のように、もう何を考える暇もなく反射的に泣いてしまうようなつくりではないです。わりと淡々とした語り口が続くし、「泣きどころ」の描写も、情に溺れるような感じではないので、泣く一歩手前で留まろうと思えば留まることもできる、という作品です。でも、そこにこそ、熱くなりきれない大人ならではの切なさとか哀しみとかがあるんですよね。
最初、いささかセンセーショナルな「十代の少年と三十女の性愛」から始まるんですが、政治的・歴史的な要素がからんでくる裁判以降のくだりからは、このラヴストーリーにはある種のリアル感というか、重みが加わっていきます。でも、それはあくまでも彼と彼女の関係における背景として存在するものであって、私は特にそこに深入りして読み込むものではないと思います。むしろ、そのへんにこだわりすぎると、小説としての面白味が失せるような気がします。

しかし、つくづく考えてしまったのが、女にとって年下の男とはどういう存在になり得るか、ということ。
これは、「朗読者」と平行するように、アガサ・クリスティの失踪にまつわるノンフィクション「なぜアガサ・クリスティは失踪したのか?」(ジャレッド・ケイド著)を読んだからでしょうけど。この本も、けっこう読み応えのあるものでしたね。
有名なことですが、あのミステリの女王クリスティは、最初の結婚に行き詰まって失踪事件を起こしたことがあるんです。夫の不倫に悩んで突然キレてしまい、十一日間も行方知れずになって、マスコミでもずいぶん大々的に騒がれました。結局、見つかったときには、自分は記憶喪失に陥っていたのだということにしてしまうんですが、どうもそれは世間体を考えての言い訳らしい。まぁ、事件の真相そのものは、ほんとのところ、私にはどうでもよく思えました。が、事件のあと離婚した、それからの彼女の人生の軌跡、こちらのほうにはかなり関心を持ちました。
最初の結婚生活が不本意な破綻で終わった彼女は、そのわずか二年後、三十九にして十四歳も年下の青年考古学者と再婚するんですね。そして第二の人生を歩み始めるわけですが、これもけっこう一筋縄では行かないものだったんです。

年下の男といっても、五歳や六歳の違いなら、どうってことはないですよね。人にもよりますが、並んで歩いても同い年くらいに見えますし、内面的にも、各人の個性次第でそれくらいの年齢差はじゅうぶん吸収できる。でも十歳以上もの差があると、お互いが相当に努力しなければ、マジで付き合うのは、かなりキツイと思うんですよ。やっぱり。ましてや一時的な恋愛じゃなくて結婚ともなると。
このごろは、世の中もう何でもアリの風潮なので、巷にあふれる人生相談なんかでも、「年の差? そんなの気にしないでいいんじゃない? お互いに好きなら、その気持ちに素直になればいいんじゃない?」なんて無責任にみんな言ってますけど、私は「愛さえあれば」なんて軽々しくイケイケにならない方がいいというか、よくよく考えた方がいいという感じがします。はっきり言って、女が十歳以上も年上っていうのは、そのカップルにとってはけっこう大変な試練だと思うんですよ。まぁ、もちろん、男がずっと年上っていうのも、いろいろ問題は出てきますけど、それより、女が年上ってほうがキツイでしょう。

「朗読者」の場合、男が十五、女が三十六、という設定で始まりますね。
まぁ、私が中学三年生の男の子と関係するようなもんですよ。いくらなんでもこの年の差では、相手に対して人間としての対等性を求められないし、そんなことそもそも考えすらしないでしょう、お互いに。だから、恋愛の関係は成り立たない。関係が成立するとしたら、性愛ですね。オスとメス。その部分では、まだかろうじてつながる。
それじゃ、クリスティのように男が二十五、女が三十九ならどうか?
まだこの年齢ではじゅうぶん満足できますよね、双方がお互いを認めて愛し合っていれば。
でも、人間、いつまでもその状態を保てませんから。年をとるにつれて、男と女の力関係が微妙にシフトしていくんですよね。そこらへんに「試練」がある。
どんな男と女のあいだにでも、見えないパワーゲームが絶対あるんですよ。
安定した恋愛や結婚は、互いの力関係の均衡がとれている。でも、それが崩れたとき、愛情の在り方も不安定になってしまうんです。

アガサ・クリスティの場合、再婚してから最初の十年はうまくいっていたようです。彼女はその頃、もう作家としては成功を収めていましたし、広い屋敷もお金もあった。それに、四十代というと、人にもよりますが、まだ女としての美しさをそこそこ保てる年齢。二番目の夫、考古学者のマックスは、紳士的な物腰の、有能な考古学者だったようですが、とかく中東での発掘にはお金がかかりますよね。結婚することでアガサの金銭的なバックアップが期待できたからこそ、彼は仕事を続けられた、という状況がありました。要するに、圧倒的に妻のほうが生活力や社会的地位をもっていたわけです。恐らくは、いろんな人生経験のあるぶん、精神的にも包容力があり、頼りになる妻だったのではないでしょうか。こういう女性に憧れる男性がいることは容易に想像できます。
けれども、この年下夫が四十になり、大学での考古学の教授という「それなりの職」を得てからは、二人の間のパワーバランスが変化していくんですね。

学者として認められ、ひとりの人間としても成長し、次第に自信をつけてきたマックスは、機知に富んだ刺激的な講義をして若い女子学生から崇拝のまなざしを受けるようになったんです。
そのころアガサは五十代半ば。人間的にはますます円熟してきたかもしれませんが、太って、白髪が目立つようになり、女として見た目の美しさは失われてしまいました。
やがて、マックスと女子学生とのゴシップが、時々アガサの耳に届くようになります。そして、その女子学生のうちのひとり、バーバラは、ずっとのちにマックスの発掘隊にも同行するようになり、アガサとは友好的な関係になりながらも、その夫であるマックスと密かに不倫し始めるんです。
アガサは、二度目の夫にも、また裏切られることになってしまいました。
離婚したくない彼女は、夫の裏切りを知りながら見て見ぬふりを続けます。紳士的で穏やかな気性のマックスもまた離婚する気はない。一介の学者であれば望めないであろう豊かで優雅なアガサとの生活を捨てる気はないんですね。バーバラは独身のまま、表向きはマックスの秘書というような待遇で二人の屋敷に入り浸り、マックスとの情事を続けます。結局、この奇妙な三角関係は、アガサが死ぬまで三十年ほども続くことになるんです。

長々とクリスティの再婚生活について書きましたが、こういうパターンって年齢差カップルにはよくあるんじゃないでしょうか。
年月を経て、いささか頼りないところのあった年下夫が育っていき、仕事でも頭角を現し始めた、まさに男ざかりのそのとき、年上妻はもう老年期の入口にさしかかっている。当然、女として性的魅力はもはや薄れるか、なくなってしまう。かわりに更年期障害とか、肉体的な衰えがいろいろと出てくるでしょう。でも、男性はそういう相手の「老い」をじゅうぶんに理解し、フォローすることができませんよね。なにせ自分はまだまだ元気で脂がのりきっているときなんですから。で、なんとなくすれ違いが多くなった二人の間に第三者が現れる・・・というパターンです。
これ、フツーの男と女では、避けて通れない道のような気がします。
年下男がよほどの年上好みとか、はたまた女には絶対もてそうにない男だとか、異常にストイックな堅物だとか、性的不能だとか、そういうことでもない限り、この難しい時期、浮気心を抑えて無事に乗り切るのは、もう相手に対する思いやり、尊敬、誠実さ、そういうものを最大限、大切に考えていくしかないと思うんですよ。でもねー、そんなこといっても、人間同士として理性でコントロールできる思いやりや尊敬の念と、男対女として自然に涌き出る愛情って、また別ものですからねぇ・・・

「朗読者」のヒロインは、年月を経て、二人が再会を果たした直後に自殺してしまいます。
最初読んだときは、なぜ「これから」というときに自殺なんかしてしまうのか、と驚きましたが、そうするしかなかったのかもしれないなと思うようになりました。
肉体的には離れていて、ただ「朗読」という行為を通じてつながりを保っている十年間は、お互いに相手の負担にならないことがわかっている。今で言うメール恋愛みたいなもんですね。純粋に心だけの交流、それはそれとして確かに存在はするんだけども、この世界のどこにも確固たるよりどころをもたないもの、互いの現実を共有しないものであることには違いない。それが、同一の現実、その日常のなかに放り出されたとき、互いの思いが変化し始める。
うすうすそれがわかっているから、男は女に会いに行くのを極力引き延ばす。
女は、多少は期待していたのかもしれない、相手の成長に。けれども、ひとめ見たとたん、「坊やは、いつまでも坊やなのだ」ということに気づくんですね、やっぱり。
刑務所にて自ら字を学び、ナチの本などを取り寄せて読むことで、内的には一歩突きぬけた場所に立った彼女にしてみれば、彼女の外側に見られる「老い」に、会った瞬間ひるんだ様子を見せた男などは、結局のところ「坊や」でしかないわけです。
彼女は、もうそんなことは達観してしまっているのだから。
アガサにしても、もうどこか達観したところがあったからこそ、夫の不貞を三十年も放置したんでしょう。
根底にあるのは、どちらも「幻滅」です。
「朗読者」のヒロインはその幻滅から死を選び、アガサ・クリスティは恐らく幻滅から無視・放置を選んだのじゃないでしょうか。
選択の違いは、ふたりの境遇が違うからでしょう。片や何ひとつ世間に誇れるものを持たない女、片や成功もお金もふんだんに手にした女。前者は誇れるものを持たないからこそ「坊や」の重荷になりながら生きたくはないという意志表示が最後の誇りだったのでしょうし、後者は誇れるものをじゅうぶん持っているからこそ、「坊や」に長い鎖をつけて勝手に泳がせておく余裕があった、そういうことなのでしょう。

年下の男は、女にとってどういう存在になり得るか?
まー、普通はどこか表面的な「癒し」でしょうね。見て可愛いとか、若々しい態度が新鮮だとか。
年下男が、年上女の内面に追いつくか、追いつこうと不断の努力をしない限り、それは仕方ないと思います。
あと、年上女が年下男と同レベルになる・・・というのも考えられますけど、でもねぇ、そんな女に魅力あります? 年だけとってて内面は幼稚、ですよ。これでは逆に、年下男から相手にしてもらえないのではないでしょうか。
女が年上の「年の差カップル」。
なかなか愛情を持続させるのは難しいと思います。
それは、まるで永遠の追いかけっこ。男と女、どちらも負けられない、緊張感のある追いかけっこです。
それを楽しみのレベルにまで昇華できるなら、愛の達人、生きることの達人ですね。


存在の耐えられない軽さ

テロ、戦争、炭そ菌、狂牛病・・・
なんだか信じられない出来事ばかりが立て続けに起こっている今日この頃、いつもより入念に新聞やウェブサイト、各掲示板など読んでいます。
私が通っている文学学校のクラスでも、もちろんそれらは話題になっています。誰もが衝撃を受けていますから。
けれど、私自身は最初の驚愕とパニック状態を過ぎ、やや平静になってみると、人間って、私を含め、案外とくだらないことしか思いつかないものなんだなぁというか、一生懸命に考えることだって、わりと底が浅いよなぁという感じがします。
これだけの歴史的大イベントですから、もう、ある意味、限界を超えているんですよね。
どんな議論も堂堂巡り、明快な答えなど出せるわけもない。
読む人を「うーん」と唸らせる文章や、聞く者を「なるほど」と納得させる意見にもたびたび出会うのですが、やっぱり、歴史というものの巨大さ、後戻りのできない冷厳な事実、その前ではそれらも矮小になり、かすんで見えてしまうのは無理からぬこと。
うちの純文ティーチャーは、「今の時期、カンカンになってなんだかんだ言いあっても無駄、ずっと長い時の流れのなかで見えてくるものを待つしかない」というのですが、私もまったく同意見です。まぁ、そうやって悟り澄ましたように「何もいわないこと」が、必ずしもいいこと、正しい態度だともぜんぜん思いませんけれどね。謙虚さとはうらはらの小ズルさ、逃げかもしれないし。パッションの枯渇かもしれない。
でも、仕方ないではありませんか。
こんなとき、何を言おうと、どう行動しようと、人間というものの中途半端な滑稽さや哀しさが、ぽろぽろと露呈してくるだけのように見えるんですよね。まさに、それは、「存在の耐えられない軽さ」です。
その「軽さ」をあえて耐えようというつもりなら、何か言えばいいし、主張すればいいし、行動すればいい。でも、私には「耐えられない」。だから、けっきょく何もしない。ただ、その「軽さ」を心から愛おしむことしかしない。
それとも、逆なのかもしれませんね。「耐えられない」から、とにかく言葉にし、行動にし、その「耐えられなさ」から逃れようともがく。ふてぶてしく「耐えられる」から、どこへ行くでもなく沈黙している。
その是非や価値について、どちらがどうだとは言えませんが。

「存在の耐えられない軽さ」、ミラン・クンデラの原作は読んでなくて、映画化されたものを昔、映画館で観ただけですが、そのときは、なんだかよくわかんないという印象でした。でも、今また観てみたら、違う感慨があるかもしれませんね。とくに、ラストの事故のシーン。
えっ、ここで死ぬの? これで終わり?
はっとするラストですが、これでいい、というか、これこそが「存在の耐えられない軽さ」の象徴なのだと納得させられますね。すごくヘヴィなテーマをいくらか皮肉っぽく、しかし真摯な視線でとらえた作品だと思います。この時期にぴったりかも。


遠い面影

「聞いて」のエピソード(運動会)を核に、それを架空のお話にふくらませて、ごく短いショート・ストーリーを書いてみました。
タイトルは「遠い面影」です。PDFファイルで約23KB。四百字詰め原稿用紙にして約十八枚です。
ちょっと地味なお話ですが、関心を持たれた方はダウンロードして読んでみて、また感想ください。
よろしくお願いします。



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