純文学とエンターテイメント

いままでひとりで書いていた作品を、他人にも見せる機会ができたので、その評価について考え込んでしまうことになりました。前にアップした「猫を生む」「悪意」みたいな作品もあれば、もっとべつの書き方をしたものもあるんです、じつは。あれが面白くて、これはつまらないと言う人もあれば、こっちのほうがよくて、あっちはいまいちだと言う人も。作品の基本的なレベルは、自分で工夫しながら勉強していくしかないとして、この「趣味嗜好の違い」っていうものについて、考えてみました。

ええと、文学といってもいろいろで、無理やり大きく二つに分けたら、純文学とエンターテイメント(略して『エンタメ』と言うらしい)という分類ができると思います。なかなか乱暴ですけどね。ボーダーライン上の作品も多いし。でも、文学学校に通い出してわかったんですが、どうやら芥川賞は純文学系、直木賞はエンタメ系だそうです。あの学校のあのクラスでは、先生が芥川賞候補になった人だということも関係あるのか、どうも純文学を目指している人がほとんどみたい。
純文学って、ほんとにいまだになんなのかよくわからないんですが、要するに、それが「文学的だとか芸術だとか認められれば、なんでもあり」の世界。だから、読む人のことはわりと二の次です。売れるか売れないかはまた別だ、それで作家として食っていけるかどうかなどと考えてはならない、人間と自己の内奥を鋭く抉り出した、時の流れに負けない作品を、という高尚な世界です(~_~;) 
対するエンタメというのは、「面白ければ、なんでもあり」の世界。売れてナンボの世界です。当然、作品に対する読者層をきちんと意識して、彼らを飽きさせないように引っ張って行くことに神経を使います。こちらは、純文学よりは高尚なものではないとされています。でも、実際、大衆によく売れているのはこちらだし、感動の質のバラツキが大きいのもこちらだと思う(~_~;)

私が普段よく読んでいるものは、ほとんどエンタメ系です。ミステリも、ホラーも。
だって面白いんだもん。それに、ほんとにいい作品は、どんなジャンルでも何がしかの感動を与えてくれます。でも、この一冊、ということになると、私のバイブルは「嵐が丘」よねってことになります。エミリ・ブロンテの「嵐が丘」は名作古典です。当然、純文学だろうと思います。
どっちがどうとも言えないんだけど、どうもねぇ、純文学のほうが高尚、という意識についていけないものを感じる今日このごろ。
いま、小説なんかを書くって、かなり贅沢なことだと思いませんか。昔は、文学するにも、才能を認めてくれるパトロンがいるとか、エライ先生の弟子として働きながら精進するっていう道があったけれども、今は、みんなが好きに書いている。べつに、誰かに師事していないと駄目だということはない。現役京大生が、いきなり芥川賞をとったりもする。

私が通っているクラスも、まぁ、昼のクラスだということもあるでしょうけど、みなさん悠悠自適の方ばかりです。わりとリーズナブルな授業料でも、ほんとに経済的に困窮していたら出せないでしょうし、第一、食っていくために仕事ばかりしていたら、それだけで書く暇がなくなってしまいますよね。そういう理由なのか、少なくとも、私の見た限りで言えば、クラスの大半の方々は、社会的に恵まれた立場、余裕のある立場の方が多いです。で、みなさん、高尚な志でいらっしゃいます。こんなこと書いてるハネっ返りの天邪鬼は私ぐらい?
それで、みなさんの書いてくるものはというと、んー、なんといいますか、すごく庶民的なんですよね。庶民的すぎるくらい、庶民的。というか貧乏たらしい。台所を這い回るゴキブリ、垢まみれの外人娼婦、などなど。で、人間の弱さとか暗部とかを抉り出す、ということにこだわりがありますから、作品中にはそういう汚いものがたくさん出てくる。たとえば、まともな性描写なんかあまり受けなくて、けっこうアブノーマルだったり、またはノーマルでも場所が汚いとか、とにかく、屈折した描写にこだわりますね。屈折していないと、「あら可愛い」(イコール人間の心の闇を見据えられない馬鹿)ってことになるみたい。
元アダルトビデオ女優だとか、幼児虐待の犠牲者だったとか、そんな人がそういうことを書くなら迫力もでるでしょうけど、最近、私的には、そんなのウソっぽく空々しく感じられてしょうがないんですよね。だって、私にはそんなの実感もてないし。うち、マンションだから、ネズミもゴキブリも見かけないし。それに、社会的にはエリート層に属する人も多く、いろんな意味でゆとりに恵まれたあの人たちの生活に、そんな汚さや屈折ばかりがたくさんあるとは思えないんです。でも、先生の影響もあるかもしれませんが、どうも純文学は貧乏で汚くて傷ついていないと駄目、みたいな印象。
けっきょく、日本にいれば親元から仕送りしてもらってる学生が、「地球の歩き方」を持って貧乏旅行しているみたいな感じなんですよね。あー、インドに行った、貧乏体験したぞって。それって、ほんとの貧乏じゃなくて、貧乏ごっこでしょ? 
もちろん、小説は虚構だから、リッチな人が汚くて貧乏なお話を書いていてもいいんですが、それをもってして簡単に、「人間の暗部を見据える」なんてことになるのかしらって。ましてや、それが高尚な「お芸術」だなんて言えるのかしらって。ちょっと考えてしまいます。
汚いものを書くんだから、汚いものをもってくる。
虚しい気持ちを書くんだから、乾いた人間関係をもってくる。
ちょっと安直すぎません?
小汚い屈折ばかりが文学か?って。
ましてやエライ人が認めてくれなきゃ話にならないようなもんが、真の文学とか芸術か?って。

人間には、暗部もあれば、美しいところもあるでしょう?
どうして、みんな、闇の部分ばかりを書きたがるのかなって。インパクトがあると思うんでしょうけど、人間の汚さなんていうものは、もう、現実のほうが、はるかに先を行っちゃってると思いませんか。中学生が人を殺し、女子高生が公衆トイレで赤ん坊を産み落とし、実の母親は子供を折檻死させ、出会い系サイトで知り合った男に女が殺される。そういう闇を越えたものを書こうと思ったら、もうアブノーマルなSMクラブだとか、殺し合いゲームに勝ち残るだとか、そんな背景をもってくるしかないですよね。それでも、まだ現実のほうがはるかに先を行ってるんじゃないかしら。
思うんですけど、もうこれからはそういうの、駄目なんじゃないかなって。みんな、現実の猟奇や現実の恐怖を毎日のように新聞やテレビで見てますから、虚構の小説なんか、よほどどぎついものでない限り、もう駄目なんじゃない?って。
ひるがえって私が何を書いたらいいかって考えると、私にはそんな「心の闇」みたいなものは書けない。そんなたいそうな「屈折」も書けない。私は普通に、それでも自分なりに迷い考えながら生きてきて、その結果、幸か不幸か、そんな闇に手を突っ込んだこともないし、ひどく屈折して捻じ曲がってしまったこともない。表現者は、経験がなければ何も書けない、というわけではないけれども、やっぱり自分が一番共感できることを書くものだろうと思います。
それは何か?
よく考えてみたいと思います。
でも、私は純文学っていうものの実態に、ちょっと不信感。
わけのわからん気取ったゲージュツより、素直に楽しめるエンタメのほうがずっとマシかも。
少なくとも、私は一人のエライじぃさんにアタマ撫で撫でしてもらうより、二人の普通の女学生に「すっごい感動したァ、久々にうるうるしたよ」って言ってもらえるほうがずっと嬉しい。そういうものが書けるように頑張ります。


合評

文学学校に行き始めてから、書くことについての話が多くなりました。
なんか、いよいよ「文芸館」らしくなってきたではないか、という感じです(~_~;)

今週は「合評」というのがありまして、学校の機関紙に載ったエッセイひとつと小説ひとつを題材に、よそのクラスの人と一緒になって、あーだこーだと言い合うわけです。
基本的に、クラスの内容というか、進行スタイルというのは、ある作品について、各自が思うところを順番に述べて行く、というかたちです。議論にもならないし、他人が意見を述べているときは、突っ込みもなし、質問もなし、賛同もなし、ただひたすら黙って聞いています。
はっきりいって、退屈です。
なんでこんなクソ面白くもないスタイルにするのかなーと思うんですが、時間的な制約というのが多分にあるんだと思います。議論しだすと、ひとつの論点についてだけで、もう二時間なんかあっというまですから。まぁ、公平に皆の感想を聞くということにポイントがおかれているんでしょう。
で、公平はいいんですが、ほんとにいろんな意見がありますね。
「こいつ、いままでマトモな本の一冊でも読んだことあんの?」って感じの評を、とうとうと述べ立てて平気な御仁もいらっしゃいます。かく言う私自身も、他人の作品を評するのは苦手です。いい作品のどこがいいか、ということはハッキリわかっても、ヘタクソな作品の、どこが悪いかということは、直感的に「この作品ダメ」と思うだけで、具体的にじゃあどこをどうすれば、ということはなかなかわかんない。それがビシバシ指摘できるんだったら、私もどこかの編集者になってますよね(~_~;)
小説の構成そのものが破綻してるとか、どう考えても、「てにをは」の段階からやり直さなきゃ、という「技巧において劣る作品」はさておいて、それをクリアしているけれど表現力とか内容がいまいち、という場合、どうしてもこっちの主観とか主義主張で評してしまう。でも、そんなの千差万別ですから・・・
まぁ、そんな評や感想が大半です。
だって、けっきょく先生からしてそうだもの。

そう。合評で、「こりゃ、見ものだ」と思ったのは、やっぱり先生によっても意見が分かれるってこと。
うちのクラス担当の先生は完全な純文系だけど、合評のとき初めてお目にかかった別のクラスの先生はエンタメ寄りのとこがあるんですよね。で、同じ作品を評しても、言うことがまったく反対。
エンタメ系の先生が、「ここはもっと説明がいると思いますね、こんな抑えた描写だけでは読者がついてこれないんじゃないかな」と言うと、うちの純文ティーチャーは「いや、そんなのわからなくてもいいんじゃないですかね。僕は、この作品ついてはもっと寡黙でいいと思う」・・・という具合。
ははん、なるほどねって面白かったです。この二人のやりとりが。
どっちに肩入れするってわけじゃないんですけど、こうも違うもんかって興味深く思いました。

うちの純文ティーチャーは、あまり饒舌な表現スタイルは嫌いみたいで、まず情景描写をきっちりしたうえで、極力抑えた会話や心理描写を効果的に配する、そういう作品のなかにこそ、日本人的な「目で語り合い、心で通じ合う」みたいな美意識が活きてくる、という主張がありますね。
そういう作品が文学として素晴らしい、というのはもちろん先生の主観にしかすぎないと思いますが。
私は、そういうのもいいけれど、もっと「言ってしまうことの潔さ」というものについて考えてもいいと思います。「暗喩的にほのめかす」というのは確かに美しい、けれども、どうかなぁ、私は「はっきりとさらけだすことの潔さ」というものを、もう少し評価してもいいんじゃないかと思います。もちろん、あまりに分かり易すすぎても、身も蓋もなくなっちゃいますけど、ここぞというときには、はっきり言ってもいいんじゃないかって。
言葉というのは、はっきりと言えば、それだけはっきりと誤解されるし拒絶もされるんですよ。
占いの御神託と同じです。なんか曖昧にほのめかされると、自分の状況に無理に当てはめて「当たってるかも」ってことになる。でも、はっきりと具体的に言ってしまうと、当たってないと思う人の数は増えると思います。ちょっとたとえが悪いかしら・・・
とにかく、はっきりと言ってしまうこと、というのは常にリスキーなんです。それだけに、それがビシリと決まったときのインパクトは大きいですね。リスクを賭けて挑む者の潔さが胸をうつ。
「じっとこちらを見つめていたかと思うと、ササッと照れたように目をそらす」のもいいんだけど、やっぱり、ここぞというときにはちゃんと目を見て「君が好きなんだ、愛してる」と言いきってくれ、と私なら思いますよ。そうしたら、その潔さに、こちらも安心してそこに飛び込んでいけるというものです。
まぁ、私ならね(^^)

しかし、他人のヘタクソなシロウト文章を読むのは、ほんと苦痛ですよ。私のように芯から読書が好きで、本当に勝手気ままに「好きなもの、いいものだけを楽しく読んできた」人間には、これってほとんど拷問に近いものがあります。同じクラスの人の長たらしい作品で、とうとう最後まで読めなかったものがあって、その作品を評する日には思わず学校休んでしまいました。だって、ほんとに終いまで読めなかったんですもん。読もう、読まなきゃ、と思うんだけど、なんか、読み進む気力が萎えるというか、身体が拒否するというか。
いやー、いろんな文芸新人賞がありますが、その下読みの人の苦労がよーくわかります。まあ、その人たちだって、3ページほど読んで箸にも棒にもかからんと思えば、その時点で放り出すんでしょうけど。でも、応募してくる人も半端な数じゃないですからね、ストレスたまると思いますよ。たとえ最初の出だしがカッコよくても、最後にはプロットそのものが破綻してる、みたいな作品もあるでしょうし、そんなの読まされたら、「終いまで読んだぶんの時間を返せ!」って叫びたくなるんじゃないでしょうか。
でも、私としては、たぶんこういうことも必要だったんでしょうね。勉強になるもの。下手な作品を読んで、みんなのいろんな意見を聞いてると。

うちの夫には、はなはだ迷惑なことでしょうが、私は最近、作品をまず夫に評してもらうんです。
一番身近にいて、しかもタダで読んでくれますからね(^^)
前は、このホームページの文章について、夫に批評とかされても、「けっ」って感じでした(~_~;)
だって、「この人、あんまり本読まないし、文章のブの字もご存知ない」と思ってましたから。今でも、夫に「行間を読み取るセンスがある」なんてあまり思いませんけど、それでも具体的かつ新鮮な視点で見てくれるから、けっこう有難いってことがわかってきたんですよね。
たとえば、ずっと以前の作品(基本はラヴ・ストーリー)をいまリライトしてるんですが、そのストーリーのなかで、恋人たちが夜のプールサイドで語り合う、というシーンがあるんです。で、最初、私は、その恋人たちをプールの飛び込み台のところに座らせてたんですが、夫がそれ読んで「おかしい」って言うんです。この二人がどういうふうに座ってるのか図解してみろって。で、いろいろ説明してたら、ちょっと疑問が出てくるんですよね。こんなふうに座ってたら足が水につかってしまうとか、じゃあこんなふうに座ってたとしたら水面を見るとき身体をひねりすぎてて不自然だとか。結局、飛び込み台はやめて、プールサイドにベンチを置くことにして、そこに座らせることに。
一見、ささいなことのように見えても、ここはシリアスな話をする大事な場面だから、読者に少しでも「?」と迷わせてはいけないんです。もう、読んでいる人が、恋人たちの会話にどっぷりつかって、その成り行きに感情移入してくれないと、作者の私としては困るんです。だから、どんなささいな疑問も読者に抱かせてはならないんです。そう考えると、飛び込み台なんかに固執する必要は、さらさらないわけです。私は飛び込み台の描写をデリートし、さっさとベンチを書き加えました。
幸いなことに、うちの夫はこの手の細かいアラ探しをするのが実に上手いです。これじゃ時間がずれてるぞとかね。内容についても、夫の意見を参考に、消したり書いたりした部分がけっこうあります。そうすることによって、作品がどんどん客観的になっていく、ということを実感しました。
自分が書いたものを他人に言われて書きなおすのは、最初は抵抗あるんですけど、最終的に「目的は何か?」ということを押さえていれば、受け入れるべきところは受け入れられる。飛び込み台をベンチに変えたようにね。いろいろと意見を取り入れながら細部を変えていくことで、自分の作品が成長していく様を眺めるのは、面白いと思えるようになりました。これも、文学学校のおかげですかね(^^)


恋愛は・・・

唐突ですが、新聞の人生相談の欄とか見るのが、わりと好きです。人が、どんなことで悩んだり怒ったりしているのかなーって、好奇心からなんですけど。あと、ネットで無料占いのページってありますよね、あれもときどき覗いてみます。こちらも、いろんな人が、さまざまな悩みを抱えて、どうしたらいいものかと駆け込んでくる。
遺産相続とか、離婚後の子供の親権だとかの現実的な問題は、法的にどうすればベターか、ということなので法律の専門家に訊けばいいとして、私が興味深く見てるのは、やっぱり恋愛関係とかの下世話な(?)相談事。「彼の気持ちがわからない」とか「浮気の痕跡を発見してから夫とぎくしゃくしてる」だとか、そういうのです。古今東西、絶えませんよね、こういう悩み。見てると、あー、こういう感情って、年齢には関係ないんだなぁって思います。「彼の気持ちが知りたい」十代の女の子も、「ダブル不倫に疲れている」四十代主婦も、きっと同じだけのエネルギーを、そこに注いでるんだなぁって。
いくつになっても、こういう感情って衰えないものなんだと思うんですよね。いや、人にもよるのかもしれませんが。このまえの文学学校で、老人の恋をテーマに書いてきた人がいましたが、いやぁ、「六十になっても、七十になっても、恋愛はできる」、なんて現役老人の方々に言われると、私なんか、単純に嬉しくなっちゃいますね(^^) いや、なんとなく。

掲示板で「嵐が丘」の話がちょっと出てましたけど、私は恋愛の相手として考えるなら、「強烈な情念の男」か、まったく反対の「理知的で淡々とした男」か、どっちかが好みですね。両方兼ね備えていれば、ほんとは一番いいんですけど、そんな男はまず小説か映画の世界にしかいない・・・(~_~;) 
どっちつかずでふわふわ優しいだけ、みたいなのは好みではないですね。ずっと若い頃、学生の頃なら、そういうのも良かったかもしれませんけど。今はとにかく、一本スジが通った感じでなきゃ嫌です。
学生のころは、相手を振りまわすことに快感があると思っていた部分がありますが、それってやっぱロリータならではの発想ですよね。もうずっとふてぶてしくなった大人の女としては、まぁ、振りまわすのもいいけど、それよりも振りまわされたいというか、「私に命令できるような強力な男はいないの?」という感じになってきます(~_~;) 何かの機会に一発ガンと殴られると(あくまで比喩ね、私は暴力はキライ)、おっ、やるな、オマエ、と関心を持ちますね。やっぱり、女と生まれて何が喜びかっていうと、自分より強い男に完全に征服される、ということかもしれないと思います。べつにマゾッ気入ってるわけじゃないですけど、こういうのって本能じゃないかなぁ、と。メスとしての。強い者の遺伝子を残す、みたいにできてるんじゃないでしょうか。これが結婚の相手となると、本能というより、もっと理性的に考えるので、また別だというところがややこしいですね。
顔は、あんまり気にしません。というより、やたら美形な男は確実に避けますね。なんでかな? やっぱ、自分が引立て役になるのは嫌だとか思うからかしら。それに、他の女が寄ってきそうでうっとおしい。
結婚して以来、もう恋愛感情とは無縁の生活を送ってきましたけど、またラヴ・ストーリーとか書いてると、よみがえってきますね、そういう感情が。いや、誰に、とか現実的なものでなくて、そういう感情を追体験というか、仮体験するというか。

私の恋愛体験はそう多くないんです。
いままでで惚れた男、というのは、そうですねぇ、四、五人? 厳密に言うと、もっと少ないかも。
もちろん、高校生のときなんか、クラスが変わるごとに好きな男の子も変わる、みたいなもんですけど、そんなの本気で惚れたって言わないですよね。なんとなくいいなぁ好きだなぁと思ってて、でも、自信のない私は、うじうじと陰から見つめているだけ、そのあいだに積極的な女の子のアプローチがあって、彼はその女の子とくっついてしまった、なんてこともあったり。くやしいのはくやしいんだけど、べつにそれで悩むとか泣くとかそんなとこまでいかない。二十歳になって初めて、「これが恋愛だ」というものに巡り合うまで、たとえ誰かを好きになったとしても、「この人じゃない。この人でもない」と思ってました。どうしてかわかりませんけど、とにかくそう思ってましたね。だから、ふられても泣けない。落ちこみはするけど、すぐ立ち直る。そもそも失恋じゃないですから。相手を愛してなんかいない。なんとなく相手を美化して恋に恋してただけ。ほんとの失恋って、もっとそんなんじゃないですよね。もう相当のダメージですよね。

一番ダメージが大きかった失恋は、やっぱり今でも思い出すと切ない、みたいなとこあります。
私のいままでの人生で、真に失恋のダメージを受けたことって、実はその一度だけしかないのかもしれない。
その失恋というのが、じつは「嵐が丘」のキャサリンと一緒なんですね。
手を伸ばさなかった。どうにもならないもろもろの事情があって、手を自分からひっこめた。
もちろん、私の場合、手を伸ばしたところで、それが振り払われていたという可能性もあるんです。でも、手を伸ばすまえに、自分からやめてしまった。これが悔恨のもと。
あそこで手を伸ばしていたら、自分の人生はガラリと変わったものになっていたかもしれない、それが怖いから結局そうしなかった。その決断については、自分でも納得しています。そうするしかなかったと。
でも、そうするしかなかった現実の、その残酷さを呪いたくなるんですよね。
自分が、その恋愛に対して、できる努力をぜんぶして、それで駄目になったものなら、わりとすっきり諦められる。ああいう人を、そもそも好きになったのは自分の選択ミスだった、とか。今度からああいうアプローチはやめよう、とか。この私の愛情を拒絶するなんて、あんなやつ物事の価値もわからないアホだ、とかね(~_~;)
だけど、できるかもしれない努力をしなかった、なんとかなったかもしれないのに、どうにもしなかった、手を引いてしまった、というのはすごく未練が残ります。けっきょくは現実の壁にひるんで、負けてしまったということだから。できることなら手を伸ばして、その結果はっきりと、おまえなんか愛してないよとその手を振り払われたほうがよかった。それどころか、おまえなんか大嫌いだと言われたほうがよかった。そんなふうにあしらわれたほうが、よっぽどすっきりする。ああそう、そうなの、って立ち直れる。延々とひきずらないですみますね。

いま、その彼が目の前に現れても、もうどうするとかこうするとかいう問題じゃない。
私にとって、彼はもう死んだ人。あの世に行ってしまった人。死んでしまったから、仕方ない。・・・そうでも思わない限り、あの強烈な未練を断ち切れませんでした。まぁ、冷静に考えれば、ひょっと結婚でもしていたら、お互い、いつかは嫌になってしまったのかもしれない、とも思いますが。
恋愛は、かなわなかった夢だけがいつも美しい。指の間をすり抜けていった幸福だけが、いつまでも輝いてみえる。そんなものなのかもしれません。


血縁

このところ、私や夫のまわりでは出産ラッシュ。
去年はうちの弟夫婦に子供が生まれたし、今年は夫のいとこ、それから私のいとこ・・・とまぁ、順繰りにみんな繁殖しているわけです。

見てて思うのは、やっぱり、じいさんばあさんにとって、孫って可愛いみたいですね。とくに、自分の直系というか、内孫なら一層。うちの親も、いまは何はともかく孫が一番面白いみたいで、目に入れても痛くないという可愛がりよう。私はといえば、伯母になったといっても、正直そこまで可愛いとは思ってません。そうね、親しい友達の子供と同列くらいかも? 甥っ子だからって、そんなに思い入れないし。だって、うちの弟夫婦の子といっても、実際にお腹痛めて産んだのは弟のお嫁サン、育ててるのもそうでしょ、だから、私にとっては血縁って感じがないんですよね。これが、実の妹が産んだ子、とかいうことになると、またリアリティが変わってくるんでしょうけど。
なんかね、しょせん赤ん坊って母親のものなんだなぁって思いますね。産まれる前はお腹のなかに入ってる姿を見てて、産まれたら産まれたでなんやかんや世話するの、ぜんぶ、うちの弟じゃなくてお嫁サンだもんね。うちの弟は、せいぜい紙オムツとか買ってきたりするくらい? 具体的に世話してないし、っていうか、その前に、弟と甥っ子が一緒にいる姿をあまり見た事がない。仕事が忙しいからどうしてもそうなる。まぁ、うちの弟はお金を稼いでくるということで子供に貢献しているんだけど、子供はそんなこと、わからない。いつもそこにいないパパより、いつもそこにいて、泣けばミルクをくれ、眠るとき抱っこしてくれる母親が一番大きな存在なんです。だから、やっぱり子供は母親のもの。で、私から見たら、弟のお嫁サンって、なんだかんだいっても他人でしょ、他人の子だから、甥っ子といっても他人みたいな感じなんですよね。けど、ジジババはそうじゃない。この子はうちの後継ぎ、みたいな感じで見てますよ。

もしかしたら、もっと可愛いと思うべきなのかもしれない、私って冷たいのかもしれないと思うこともありますが、みんな、ほんとのところ、どう感じてるのかしらね?
家族って、血縁って、なんだろうって、いまさらながら考えてしまいます。
自分に子供がないから、実感が伴わないのもあるし。
このまま、私たち夫婦に子供ができなかったら、親が死んだとたんに血縁という実感をもつものってなくなりますね。兄弟は他人の始まり、とはよく言ったもの。私はとりたてて弟と仲がいいわけでも悪いわけでもないです。まあまあ普通だと思いますが、血は繋がっているというものの、弟について、ほんとのところ何を知ってるかって思うと、ごく親しい友達以上には何も知らないんじゃないかって。
小さい頃ならともかく、もう結婚して、私にとっては他人である奥さんと、その半分の遺伝子を受け継いだ子供と、三人家族を構成してしまっている弟は、やっぱり血が繋がってるとはいっても、だんだんに「わからない存在」になりつつありますね。それが寂しいとかじゃなくて、そういうものなんだろうなって。家族は。
分裂していくんですよ。一個のまとまった家族がある、その子供が大人になると個として外に出て、また自分自身の家族をつくる・・・延々と繰り返されて、人類の今があるんだなぁと。
子供をもたない限り、この連鎖の輪からはずれていくのは仕方ないんですよ。
私が子供を産めば、親との絆はまた濃く繋がるだろうし、今は婚姻届一枚で繋がってる他人にすぎないお姑さんとも、子供=孫を通じてほんものの血縁関係になる。
世の中の不妊カップルが血筋にこだわって、養子縁組よりも、医学的な治療のほうに熱をあげるのも、なんとなくわかりますね。血は水より濃い。

この連鎖の輪に加わりたいという気分と、はずれたいという気分が両方あります、私には。
加わっておけば、なんだか安心するのかもしれないけれど、反面、わずらわしいというか、何かねっとりしたものにからめとられるみたいな気もする。はずれてしまえば、わずらわしさは減るかわり、根無しのわびしさがつきまとう。
うちの夫はどう考えてるかって、それは私と一緒。
お互い、やることは正反対のふたりでも、このことについては意見が一致してます。
自然に子供が出来たら出来たでいいし、出来なければ、ふたりで生活エンジョイしようぜ、という。
でも、自分たちの年齢を考えてみたら、「自然に」か「人工的な手段」か、どっちかを決断する時期なのかなぁって、プレッシャー感じたりもします。が、私自身はどうも「不妊治療」というものに共感できない(実際に治療を受けている人を否定しているんじゃありませんよ、あくまで私個人の気持ち)もので、よっぽどの心境の変化がない限り、今の方針で行くと思います。
男はいいですね。いくつになっても、若い女とくっつけば子供を持てる可能性がある。その点、女はちょっと辛い。いくら、医学が進歩して高齢初産でも比較的安全になったからって、それからが大変なんだから。産んでからがね。体力ですよ、繁殖は、まず体力。端で見ていて、つくづくそう思います。
とりあえず、私たち夫婦は、自分で決められないから、神様にゲタを預けたような格好。
けど、子供がなかったら、いずれ家族っていうと、もう夫だけになるのね。
うーん、夫は夫だけど、今は、まだ家族っていうリアリティないなぁ・・・。なんだろう、同居人?
やっぱり、子供をもつことで初めて、夫婦は家族になるのかしら。
どう思います?


決め手

暑いですねー。もう大阪は完全に夏! クーラーなしでは安眠できません。
汗かきの夫は、例の「首タオル姿」が復活。去年は、乾燥したカリフォルニアにいたので、そんなことはしてなかったんですけど。
もー、夫の外見については、ほとんどあきらめの境地に達してしまいつつある私ですが、毎朝、よれっとしたTシャツを着てリュックを背負い、首に白いタオルを巻いて、日傘までさして行くという夫を玄関で見送りつつ、「なんでまた、こういうヘンな人と結婚することになったのか・・・」とひそかに思うことも(~_~;)

最近、掲示板では恋愛についてのやりとりが続いていますが、恋愛でも結婚でも、けっきょくは自分が納得できる相手を選ぶことが最も重要なことなんだろうなと思います。そうすれば、無理せずうまく行きやすいし、そうでなかった場合も、次のステップにつながる何かを学べることが多いんじゃないか。
でも、なぜその相手を選ぶのかって、うまく説明できないのがほとんどですよね。出会いがしらの恋、みたいなのもあるし。なんでかわからない、でも好きになっちゃった、というのが普通なんではないでしょうか。たとえば、見た目に惹きつけられる、声とか仕草に惹かれる、その人が話すことやら行動に共感する、いろいろ理由らしきものはあると思いますが、それだけじゃないような。もっと全体的なぼんやりとしたものなんですけど、そこんとこが自分と合うか合わないかっていうことが大事なんだろうな、と。
たいてい恋愛のまっ最中は、もう一生懸命だから、そんな小理屈なんか考えないと思いますが、いざ結婚となると、そのあたり慎重にならざるをえないですね。このごろは、「できちゃった」で結婚する人たちも増えましたけど。フツーはちらっとでも考えるんじゃないですか? この人でほんとにいいの、この人とほんとにうまくやっていけるのかしらって。お見合いなら、まずそう思って当然だろうし、恋愛からずるずる結婚に移行する場合でも、両親と会ったり結婚式の段取りを考えたりしていくなかで、ふとそんな気もちになってもおかしくない。特に、結婚年齢が高くなった昨今では、勢いだけで突っ走ることって、なかなか出来なさそう。
私は、結婚まえに、相手との生活について、いろいろ考えることは無駄じゃないと思うんですよ。
だって、自分が納得しないとね。まぁ、あまり難しく考え込んで、臆病になってしまうのもアレですけど。

昔むかしのこと。うちの両親に、「なんで結婚しようと思ったのか」聞いてみたことがありました。
母いわく、「だってお父さんって、本もよく読んでて、小難しいこといっぱい知ってて、頭良さそうだったから。私は自分があんまり頭良くないのわかってたから、子供には賢い人の遺伝子を入れたいと思って」と、すごく現実的。母らしいというか、なんというか。
父のほうは、もう少し感傷的。「カメラのフタ事件があったから」と。
「カメラのフタ事件」というのは、お見合いしたうちの両親がデートを重ねていたころ、あるとき公園かどこかへ行ったんですって。父はカメラを持っていきました。で、お互い、撮ったり撮られたりして、さぁ帰ろうかというとき、レンズにかぶせるフタをなくしてしまったことに気づいたんです。昔のカメラには、レンズをカバーするフタがあったんですよね。あちこちさっと見て回ったけれど、見つからない。父は、もういいから帰ろうと思ったんですって。でも母が、絶対どこかに落ちてるから、もう少し探しましょうって、けっきょく、執念で見つけ出したんです。そのとき、あー、この人と結婚してもいいかなーって、父は思ったということです。自分の(カメラの)ために、そこまで熱心に探してくれたっていうのがポイントだったらしい。

ちなみに、私にも、「この人と結婚してもいいかな」と思ったきっかけはあります。
まだ知り合って日も浅いとき、彼が自分の職場(=大学の理学部研究室ね)に連れていってくれたことがあって、その顛末を私が、この「聞いて!」でネタにしちゃったんですよね。
そう、何を隠そう、それがあの『理系の男たち〜「あなたの知らない世界」編』なんですよ。これが思いもよらない反響(大袈裟か?)を呼ぶことになってしまいました。ちょっと誇張して面白おかしく書いちゃったもんだから、ネタにされた人とか大学関係の人が、一部ムクレてしまったりしたんですよね。まぁ、私は正直びっくりでした。そんなに読んでくれる人がいると思わなかったし。そんなことで怒られるとも思ってなかったし。ただ、あれ書いたときは、ちょっと個人的にショックで興奮状態だったのも確かなんですよね。何がって、ほんっとに「私の知らない世界」だったから・・・
えっ、な、なに、ここ、ほんとに男ばっかの世界! 
ひぇ〜、なんか臭う! むさくるしぃぃっ! 
いやん、首にタオル巻いてる人がいる〜っ!!
きゃー、ゴムぞうりペタペタさせてる人がいるぅっ!!
・・・という感じで、もー「未知との遭遇」でしたねっ。
ったく、それまで私が見てきた男の人っていったら、車に乗るときはドアを開けてくれて、建物に入るときは先にドアを開けてそのまま待っててくれて、重い荷物は必ず持ってくれて、適度に清潔でおしゃれ好きで、髪は三週間か一ヶ月に一度はきちんと切って、もちろん不精髭など論外、流行の音楽とか映画とかは必ずチェックしてるし、女の子と話してても間が開いてしらけるなんてことはない・・・というような感じでしたからねぇ。
まぁ、男といえばそれがだいたいスタンダードだと思ってた私は、ずいぶんそこからはずれた今の夫と、ぎくしゃくとつきあいながら、「この人はちょっとヘンだけど、研究室にいってみれば、きっとカール・セーガン博士のような知性派のいい男がいるに違いないわ♪」という妙な期待感をもって行ったんです。そしたら・・・
いやぁ、帰りの電車のなかで、つくづく「ああいう男集団のなかにいて、それが普通の世界になっている、あんな人(今の夫)と、このまま付き合い続けていいものだろうか」と真剣に悩みましたよ。

ところが、運命とは思わぬ方向へ転がっていくものなのですね。
ネット上での反響にびびった私は、彼に謝らなきゃ、と思ったんです。だって、一応、彼の案内で彼の職場を見て回って、それをネタにしたんだから、私のせいで何か言われてたら迷惑かけたことになる、と。で、連絡とったら、返ってきたのは非常に明快な答え。
「あんたな、何か書いてそれ発表したら、こっちの予想なんかこえて、いろいろ思うヤツ出てくるのはしゃーないで。書くんやったら、もっと根性据えて書き。人間、生きてりゃ、味方もできるし敵もできる。そんなんあたりまえ。それくらいでないと人生おもろないしな。僕のこと? そんなん気にせんでもええ。べつにそんなささいなことでどうもならんし、何が不利になるわけでも恥になるわけでもない。僕は僕で、やるべきことはちゃんとやってますから」
私は、そのとき初めて、ほー、と思いました。
いやー、てっきり、「わざわざ自分の職場に連れてってやったのに恥かかされた」と怒ってても不思議ないと思ってたもので。世の中には、こんな寛大で胆の据わった男もいるのかと思って、目からウロコでしたね。この事がなかったら夫と結婚していたかどうか、わからない・・・とまでは言わないけれど、このときの彼の対応が、結婚を考えるときの決め手になったのは間違いないです。
この人と結婚したら、なんか、のびのびと安心して暮らせそう、そう感じたんですよね。

まー、現実に結婚した後の生活は、そんないいことばかりでもないんですけど。
顔見りゃ暑苦しいし、こっちの美意識を破壊するような言動には悩まされるし、けっこうしょうもないことでネチネチ文句言われることもあるし。でも、どんな人と結婚しても、なんか気に入らないところは出てくると思うんですね、人間同士だから。要は、何をとって、何を諦めるかです。
そこんとこは、それぞれの価値観でもって決めるしかありませんよね。
結婚に踏み出せなくて迷ってる、そんなときは、いっぺん、既婚者に「結婚に至った決め手」を聞いてみたらいかがかでしょう。きっとそれほどドラマティックではなくて、でも、本人の価値観がすごく反映されるようなことなんだと思います。



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