ショートショート二篇

もうこの「聞いて!」も40になってしまいました。
自分でもよくこれだけ長いこと書いてるよなぁと思います。
最近は、なんか日記みたいな感じになりつつあるような気もしますが・・・

さて、先日言っていた150枚くらいの短編になりそうだ、という作品は、まだ書き終えてませんが、ちょっと中断して、ごくごく短い短編、ショートショートに挑戦してみました。400字詰め原稿用紙で言うと、十枚くらいです。こういうの、書いたのは初めてです。私はだらだらと長く書けるのが好きだと思っていましたから。でも、文学学校で提出するのには、三十枚以内の短編が都合いいので、思いきって書いてみました。やってみると案外面白かったです。なんといっても一日二日で書けますから。
今回書いたのは、十枚と八枚のとで二篇ですが、両方続けても十分以内で読めるものなので、ここにPDFファイルで載せることにします。両方ダウンロードしても、30KBにもなりません。これ、またこんど学校に持っていこうと思ってますので、ぜひ読んでみて感想ください。なお、このファイルを開いて読むには、アクロバットリーダーというソフトが必要です。最近のパソコンにはたいてい備え付けてあると思いますが・・・
作品のタイトルは、「猫を生む」(原稿用紙十枚 11.4KB)と「悪意」(原稿用紙八枚 10.3KB)です。どちらも、抽象的というか、寓話的というか、あまりリアリティのない作品です。読んでくださった奇特な方は、メールででも掲示板ででもいいですから、面白かったとかつまらなかったとか、ここをこうしたらいい、とか、次はこんなのを、とか、なんでもいいですから、リアクションがあれば嬉しいです。今後の参考にさせていただきたいので。

しかし、当たり前の話なんですが、世の中にはいろんな人がいて、好みとか考えも千差万別なんですよね。全員によく思われようなんて、どだい無理な注文で、ある程度のターゲットを絞って、こういう種類の人に対してのメッセージ、というふうにしないと、自分が持たないな、と思います。それ以外の人たちには、何と言われても仕方ないな、と。このへんの割り切りを、どこらあたりでやったらいいか、というのはけっこうシビアですね。できるだけ普遍性をもたせたい、それには相手に合わせる必要がある、けれども、自分が書いていてつまらないのも嫌だ、という。・・・まあ、私なんか、プロでもなんでもないし、ただ、学校にもっていって二十人ほどの人たちから批評を受けるだけですが、その二十人ったって、いろんなレベル、趣味嗜好の人がいますから。あのクラスに参加して、まだ二回ほどですが、確かに何らかの意義はあると思います。それは、「これだけの多様性に対して、どこまでどうやって普遍性をつくっていくか」という問題について考える、それだけですね。技術的なことは、それについての考えがまとまれば、おのずと何をすればいいかわかってくると思います。


人間の壊れやすさ

世の中には、人間を育てるのが上手い人と、反対に壊してしまう人とがいます。
子供はたいてい生みの親に育てられることになりますが、親が「壊す」タイプの人だったら、もう悲惨なことになる。たとえば幼児虐待。蹴られたり殴られて青あざをつくり、時には瀕死の状態で病院に運び込まれてくる子供。非常に痛ましいことです。が、そういうふうにはっきりと目には見えなくても、どんどん子供を壊してしまう親もあると思います。内的にね。子供の個性とか、子供自身の望み、価値観などかえりみない、その結果、人間の芯の部分から子供を壊してしまうのです。

思えば私の家庭では、主に「育てる人」は母でした。母は、なにがどうということはない普通の人ですが、育てるのが上手い人だと思います。それは、母の天真、屈折のなさからきていると思いますね。世の中に対し、恨むところがあまりないし、腹が立っても押さえ頃というものを知っている。母は、子供の私にどんなふうに接してくれたかというと、「あなたには、私にないような能力や可能性がいっぱいあるからね、お母さんはあなたの将来が楽しみでしょうがない」という感じです。つまり、全肯定です。もちろん、お行儀が悪いとか、口の利き方がなってないとか、そんなことではたくさん叱られました。でも、基本は「あなたをまるごと肯定する」という態度なんです。
父はというと、極端な人でした。基本的には私のことが可愛くて仕方ないらしいし、実際に甘いのですが、それは、「自分に反逆しない」ということが唯一の条件としてあったうえでのことだと思います。父は、自分に刃向かってくる者には容赦のない人です。それは、たぶん、父自身の生い立ちからくる屈折、人生観のなかで、そういう態度が身についたのでしょう。今でこそ、年をとって丸くなりましたが、かつてはその部分が際立ち、非常にアンビバレントな感じのする人でした。年端もいかぬ子供を叱るにしても諭すにしても、手加減というものがないのです。まだ難しい理屈などわからない子供に対して、まるで、一人前の大人に対するかのように、真剣に自分の人生観、価値観を述べ立てる人でした。私は、自分が子供をもっていてもおかしくないような年齢になって、はじめてそういうことがわかりました。私が親になったら、あそこまではやらないよなぁと。もちろん父の場合、それは「愛ゆえに」なので、私も恨みに思ったりはしないし、そんな奇特な父をもったことを感謝しているくらいです。まぁ、けれども、父の真摯な愛情の裏側に見え隠れするとてつもない破壊力は、子供の頃から感じていて怖かったですね。母なら、どんなことがあっても私を壊すようなことはしない。そんな力はない。けれども、この人は、私の態度いかんでは、私の息の根を止めることもやってのけるだろう、それが「愛ゆえに」であるがため、なおいっそう怖い。可愛さあまって憎さ百倍、そんな破壊力を持った人だ、と思っていました。

さて、私は結婚したわけですが、最近、うちの夫も、このタイプの破壊力を私に対してもっているよなぁと感じるようになりました。ものを書くということを通じて、議論する機会が増えましたが、それでわかったのは、私と彼の根底に流れている思想・世界観が、まったく違っている場合があるのです。うまく説明できないのですが、それはもう歩み寄ることすら不可能な違いなのかもしれません。
私たちは、もはや何の経験もない若者ではありません。物心ついて以来、三十をすぎるまで、自分なりの考えで行動してきた大人なんです。お互いの、これまで生きてきた歴史のなかで培われてきた人生観・世界観というものは、ちょっとやそっとのことでは覆らないし、また、それを覆すということは、ある意味、相手の過去のあり方を否定し去ることであり、過去の集積のうえに現在の自分が生きていると考えたとき、これはまさに精神的な意味で相手を殺すにも等しいことなのです。
私たちは、さんざん議論した結果、もはやこの問題には触れないことに決めました。たとえ根底に流れる世界観が違っていようと、日々の生活はできるからです。そして、この日々の生活をやりこなしていくなかで、もしかしたら、お互いにわかりあえる共通項ができてくるかもしれません。それが救いです。
口論になると、夫は私のことを非難して、おまえは頭に血が上ると見境がなくなって何を言い出すか、何をしでかすかわからん、と言うんですが、そういえば父も似たようなことを言っていました。私は、実家ではよく「爆弾娘」と呼ばれたものです。けれども、私にできることはといえば、実は無謀な特攻隊なんです。片道だけの燃料しか持たず、自分の死と引き換えに、相手にも何らかの損失を与える。非常に馬鹿なやり方です。それでは相手の損失を見極めるまえに死んでしまいます。私には、じつはそれだけの力しかないのです。自壊型なんです。けれども、父や夫などは違う、自分は飛行機に乗り、安全に離れたところにいてボタンをひとつ押せば、原爆を投下して、相手が原型をとどめぬほどに破壊されていくさまを眺めることができるんです。そりゃ、多少自分も被爆するかもしれませんけどね。

人間というものは、最も身近にいて信頼もしている誰かから、否定され否定され続けると、内部から壊れてしまいます。この世界に対して肯定感を抱けなくなるし、それは、自分自身をも否定することにつながるんです。それが、たとえ「愛ゆえに」だったとしても、結果としては同じことになる可能性があります。愛するがゆえに厳しく接する、まぁ、相手の耐久性を見極めたうえで愛の鞭を振るうなら、それでもいいでしょう。けれども、相手の耐性を越えてまでそんな方法を続けるということは、もはや相手をゆっくりゆっくりと壊していくことになってしまいます。なぜ、これくらいのことにすら耐えられないんだ、と言っても始まりません。人間に、それぞれ体力の限界があるように、精神力にも、各各の限界があるのです。ある面では異常にしぶとい人が、ある面では簡単に壊れてしまう、ということもあります。私は時に、夫に脅威を感じることがあります。愛ゆえに、ということはわかるのですが、それでも、私という存在を簡単に内部から崩壊させ、その生を完全に無価値なものにしていくだけの力を持っているからです。
 
さて、彼の持つ力というのは、なんでしょう。それは、現実というものの重みや説得力であり、どこの世にでもまかり通る正論です。しかし、私自身は必ずしもこの世の現実や正論の範疇に生きていない場合があります。ですから、その部分がぶつかりあうと、私のほうが必ず崩壊します。なぜなら、現実というものは、決して崩壊しないものだからです。だからこそ、それは「現実」なのです。逆に、私が夫の言うところの現実以外のものごとを主張しても、そこには何の説得力もないし、正論にもなりえない、それこそ「抽象的すぎて、なにを言ってるのかさっぱりわからん、机上の空論、言葉の空回り」ということで片付けられてしまって終わりです。なぜちゃんと説明できないのか、私もよく考えてみましたが、それ自体がそもそも言葉にならないものであり、説明不能、説明しようとすればするほど、言葉の隙間からぼろぼろとこぼれおちていく、そういうものだからです。説明の不可能さというのは、たとえば、生まれつき目が見えない人に色の多彩さを説明するようなものです。ものの形や質感など、具象的なものは説明できます。それが現実を構成する要素だからです。サリバン先生は、ヘレン・ケラーに水を触らせて、「水」という言葉があることを直感させました。けれども、色はどうしたのでしょう。色は、自然界に確かに存在するものです。けれども、目の網膜が機能していない人に、どうやって色を説明できますか。

私は、自分の生のこういう特性について考えるとき、ほんとうに絶望的な気持ちになることがあります。私は、幸か不幸か「現実世界のみに生きられない」人間なわけです。そういう意味では、オウム信者にもある種のシンパシーは感じます。方向はまったく別だけれど、「現実というものに確たる立脚点をおいて生きることができていない」という点では彼らと私と、どこにどう違いがありますか。私は彼らより少しばかり恵まれていたので、自分をこの現実にしっかりつなぎとめておいてくれる人がいる。それが、父であり、今では夫なのです。そういう存在がなければ、私がたとえばオウムに入っていても、不思議ではないと思いますね。まぁ、私自身は既成の教義や教団に縛られるのは嫌いなので、ひとりでインドかチベットにでも行っていたかもしれません。そんなことをすれば、現実としての生活は崩壊したでしょうが、それ以外の目に見えず、説明もできない何かは無傷でいられるのかもしれません。けれども、それでは駄目なのですね。その世界の両方にまたがって、しぶとく生きることができなければ、駄目だということです。思えばこういう夫と結婚したのも、それを具体化させるためであったのかもしれません。けれども、私には正直、自信がないところもあります。非常に難しいことだからです。
竹宮惠子の「風と木の詩」ではジルベールが死にました。あれはセルジュが殺したようなものですよね。愛してはいたが、セルジュには、ジルベールの世界観の可能性とその限界が、ほんとうには理解できなかった。私は貴族でもなければ美少年でもないただの一女性ですが、このまま行けば、私もいつか死ぬのかなぁと思うことはあります。痛いのつらいのは嫌だけど、死ぬことそのものが怖いと思ったことはありませんが、けれども、それはやっぱり敗北です。自分のすべきことをきちんと果たしていない感じがする。だからこそ絶望的な気分になりながらも、こうやってなんとか人間としてのかたちを保っている。
私はどこに行くのだろう、といつも思いながら、やっぱり生きています。

恐らくこの文章自体が、もう、うちの夫に言わせれば「さっぱり理解不能な概念の羅列」なのでしょう。
私は彼のしぶとさを羨ましく思います。彼は、私が情のない現実にのみ生きている女だと誤解しているようですが、ほんとうにしぶとく現実に生きているのは彼であり、私などは、いつ壊れてばらばらになってもおかしくない存在なのです。現に、もう今だって、いろんなストレス過剰で少々壊れかけています。壊れかけているから、こんな文章が長々と書けるわけです。自分が完全に壊れてしまわないように、私は一生懸命にパソコンのキーを叩き続けているわけです。オウム信者がマントラを唱えるみたいにね。
サカキバラ君。わかりますか、人間というものの壊れやすさが?
壊れやすい人間もいれば、壊れにくい人間もいます。それだけです。


回復期

壊れかけてた神経が、ぼちぼちと回復に向かいつつあります。
いやー、ほんと、先週は、すっごいストレスたまりましたね。そのストレス元はっていうと、例の文学学校なんですけど。あれ、はじめは期待して行ってましたが、実は、早くも「ちょっと待てよ?」という感じになっていて、先週には、もうはっきりと、「そんなアホな!!」になってしまったんですよ。けっきょくそのことでイライラして、夫とも大モメしました。睡眠時間を削ってまで、口論につぐ口論。おのれ、亭主のオマエまでが敵に回るっちゅーんかいっ!という感じで、マジに、ぶちキレてましたね。上の文章からも、わかりますよ、ほんと、壊れかけてたっていうのは。ひとつのパラグラフに「けれども」が何回出てきます? ちょっとしつこいくらいですよね。いつもはできるだけ同じ言葉は避けるようにしてるのに。それだけとっても、いかに壊れかけてたかっていうのがわかる。
いまは、平常心に戻ったとはまだ言えませんが、まぁ回復期にあるというところです。

なんでそんなにぶちキレたかっていうと、あの教室の雰囲気とか、先生の態度とか発言内容に、私は個人的に非常な不信感を持ったからなんですが、まあ、事細かに書くと、また不快な気分の蒸し返しになるのでやめときます。ただ、自分としては、これじゃ駄目だ、こんなの真面目についていっても仕方ない、いっそ方向転換するか、という感じですね。いろんな方向転換の方法が考えられますけど、できるだけ自分の目的にかなうやり方でやっていきたいと思っています。できるだけ冷静になって道を模索したいですね。今週行ったら、またぶちキレるかもしれませんけど(~_~;) とにかく、考えるだけでもう手が震えてくるほどキレてましたし。思い起こせばいまでもついついキレそうになりますが、とりあえず夫とは和解したし、ふたりでその件について話し合って、もう「では、こうすべき」という結論は出ていますから、あとは自分の感情を上手くコントロールするだけです。でも、これが結構、私には難しくて。だいたいが感情的な人間ですからねぇ・・・

しっかし、ほんと、こんなにキレたの久しぶり。夫に対してキレることはたまにあっても、外部に対してキレるってなかったですから。まぁ、あの「2ちゃんねる問題」についても、べつにそこまで感情的になったりはしませんし。でも、ここんとこ数日はキレまくってたなぁ〜。こんなんで、次回、あの教室に行って、無事に帰ってこられるだろうかって、マジで思ってましたから。「ええい、こうなりゃいっちょうド派手に暴れたろか、目にもの見せてくれるわ、待っとけよ!」という超戦闘的な気分になってましたもん(~_~;) でも、もうそれではいかんと思いなおして方針を決めたのだから、あとはひたすら感情的にならないようにしなければ。この怒りをそのままぶちまけてしまったら終わりです。自分の目的の達成のみを念頭において、上手に立ちまわらなければ。あー、胃が痛くなる(~_~;) いっそ声を大にして、思うことぜんぶを告発できたら、どんなにラクでしょう。が、たとえ勝負に勝ったとしても、それだけの労力に見合う戦利品はないでしょうから。無駄なんですよねー。

「男は外に出れば七人の敵がいる」とか言いますけど、たんに電車に乗るだけでも不愉快な思いをさせられることはあります。それが、人間の集団に入っていくとなると・・・。ほんと、外には出てみるものです。お部屋のなかでぬくぬくしているだけではいけないと思いました。はぁ(ため息)。ストレスがかかって身体には悪そうですが、小説のネタにはなりますね、いろんな人と喋ったりつきあったりすると。これも、生きていくうえで当然の試練ですか。


とらわれ

きのう、文学学校でみんなに「猫を生む」と「悪意」を見てもらったんですが、まあ、いろんなこと言う人がいました。でも、先生は意外にも、非常に好意的に評してくださいましたね。もともと、あの方、ああいうわけのわかんない作品が好きなんですよ。で、自分もそういうの書いてるし。だけど、私はちょっと方向転換しようと思います。やっぱりね、今から抽象表現に逃げ込むことはないなと。
そうなんですよ。あれは、一種の「逃げ」かもしれないです、私の場合。私って、はっきり自分の意見を言ってるように見えるかもしれませんが、でも、じつは臆病者だから、対象に直接切りこみ、「旗色を鮮明にする」ことによって、敵をつくることが怖いんですよ。テーマを写実的に表現してしまうと、いろいろと誤解も招くし反発されることもありますよね。だからといって、いちいちこれはこういう意味で、などと弁解できないでしょ、いったん出来あがった作品が一人歩きしていけば。抽象に逃げ込んで、受け手の裁量にまかせれば、ラクなんですよね。気分的に。ほんとに言いたいことには薄いベールを一枚かけたというか、そんな安心感がある。それで「わかりにくい」と言われても、わざとそうしてるんだから、という逃げ道すらあります。そういう「政治的配慮」みたいなのが働いて、無意識に抽象表現に逃げていたふしがありますね。夫に言われました、おまえはほんまにあかんたれやな、もっと根性据えて生きろって。もちろん、読み手としては、ああいう抽象的なものも好きなんですが、書くということ、そして、なるべく多くの人に「読ませる」ということを考えると、多少のリスクを覚悟してでも、「多くの人にわかるように表現する」ということは非常に大切だと思います。

さて、掲示板を見たら、私の書いた文章がよその掲示板で話題になっていたのを知りました。以前、「よほどのことがないとSFは読まない」などと書いたことについてですが。見てみたら、SFファンと、そうでない人との間で論争が起こっているようです。SFというのも、ミステリとかホラーと同じ、たんに文学の一ジャンルにすぎない、という認識しかなかった私ですが、SFファンの人にとっては、なにかそれ以上の特別な思い入れがあるんだとわかりました。まぁ、自分の好きなものを悪し様に言われるのは、誰だって不快なものでしょうけど、それにしても、たかが、といってはなんですが、ジャンルの違いではないですか。どうしてここまで熱くなれるのか、実にエネルギッシュな人たちだなぁと思ったことです。私はミステリもオカルトも大好きですけど、たとえそれらを「くだらん、読むだけ時間の無駄」「あんなの読むヤツは馬鹿」とか言われたとしても、いっこうに平気ですよ。私は私で読みつづけます。だって面白いから。ただ、そう罵られたら、「でも、ほんとに面白いのになぁ、この面白さがわからないなんて、不幸なことだ」などと思うだけです。そんなことでマジになって論争したりします? 学生だとか、二十代前半だとかいうならまだしも、それ以上のいい大人なんだったら、「なるほど、自分とは好みの異なる人もいるんだなぁ」ぐらいで済ませてもいいじゃない、と思いますが? なんか、私を批判して、「文系だからわからない」という言葉で逃げてる、みたいに書いてた人もいますけど、んな大袈裟な。私がSFをあまり読まないのは、ただただ、私の趣味じゃないなと感じるからで、べつに私が文系だからわからないんだなんて、書いた憶えないんですけどね。で、そんな書きこみしたの、明らかに「理系の人」なんですけど、もうそもそも私が「文系」「理系」って言葉を使ってること自体に反感もってるみたいです。でも、それ、なんか問題になるようなことなんですか。ぜんぜん知らなかった。現に、私の出た公立高校では、進学する大学のコースによって、文系クラス、理系クラスって分けてましたよ?

なんかね、理系の人、とくに男の人で、「理系」って言葉でくくられるのを嫌がる人がたまにいるんですけど、なんででしょうね。たとえば「ゴキブリ系」「モンシロチョウ系」とか言って分けられたら、そりゃ「ゴキブリ系」のほうがネガティヴな響きありますけど、「理系」って言葉に、そんなネガティヴな感じあります? 私にはよくわかりませんねぇ。想像できるのは、(A)「オレは、理系という狭い定義の範疇に入ってない男なんだ、数学や物理はよーく理解できるし、確かにそれは専門だが、それだけじゃなく、美術だって音楽だって文学だって、ちゃんと理解できるんだ、だから、理系なんて狭っ苦しい言葉で片付けんといてくれ」ということでしょうか。それとも、(B)「そもそも人間は多面体、そんな言葉でひとくくりにするのがおかしいゾ」ということなのでしょうか。そんなふうに思っているとしたら、それはそれで魅力的な男性です。もし(A)だとしたら、まさに私が率先してお付き合いしたい理想のタイプだし、(B)だとしたら、人間の持つ奥深さがちゃんとわかっている人だ、ということになるからです。でも、だったらどうしてそうムキになるのよ?って。思うに、自分の魅力をちゃんと自分でわかっていて、自信をもってる人は、それを他人にも認めさせようと、必要以上に力んだりしないものです。そんなの、かえって損ですもの。力を入れればそれだけ滑稽に見える可能性がある。力まず、かといって尊大にもならず、ごく自然にしていれば、それだけで、真の魅力というのは相手に伝わるんですよ。確実に。
まぁ、私ごときが「文系」だとか「理系」だとかなんとか茶化してみたって、そんなことはささいなこと。現に、うちの父も夫も理系男ですよ? そして、ふたりとも、私にとっては実に大切な存在です。このまえなんか、私と、このふたりで、仲良く阪大のレーザー核融合研究所を見学しに行ったくらいです。阪大の「いちょう祭」で一般公開されてたんですよね。なかなか面白かったです。あんな施設、めったに見られませんからね。おっと話がずれた。要するに、私はべつに「理系」という言葉をネガティヴに受け取っているわけではないし、そりゃ多少、茶化してるとこはあるかもしれませんけど、男と女、文系と理系、純文学系とエンターテイメント系、なんでもいいですが、そんな既成のカテゴリのもつイメージの違いを、茶化し合うくらいの余裕があってもいいんではないですかね。そうすれば、カテゴリのもつイメージに囚われてしまうこともなく、縛られることもありません。


勇気

今週は、文学学校をズル休みします。なんか、ちょっと疲れぎみで。プラス、やらなきゃいけないこともあるし。

先日、学生時代からの友人が電話をかけてきて、いろいろと心配してくれたんですけど。彼女も私のホームページ見たりしてるので。「もう少しやんわりとモノ書いたほうが、敵を作らなくていいよ。自分が傷つかないために」などということを話していました。ありがたいと思いましたが、私、そんなに過激な物言いしてんのかなぁって、ちょっと振り返ってみたりして。うーむ。過激になってるとしたら、たぶん、わかんないでやってるんですよ。本人はそんなつもりないもの。だから、周りがハラハラしてしまうことになる。
このホームページを始めて、最初は見てくれる人なんかほんとにごくごく少数で、だから、べつにそれでもよかったんですけど、でも、少しずつでもその人数が増えてくると、いろんなことを様々に受け取る人がいますね。それは仕方ないと思います。どんなに気配りしても、どんなに言葉を尽くしても、もう人間同士の誤解なんて、防ぎようがない。だって、ここは言葉の世界だから。で、文学学校の先生が言ってましたけど、「言葉ほど信じられないものはない」って。私もそう思います。「リンゴ」と言うとき、私が思い浮かべるのは「ジョナゴールド」だけど、人によってはそれが「サンフジ」だったり「つがる」だったりしますもんね。誰もが見知ってる「リンゴ」でこれだから、ましてや、「思いやり」とか「悲しみ」なんていう抽象的な言葉になると、もう人によって正反対みたいな思いこみもでてくる。私たちは、みんな、それぞれの思いこみに基づく言葉を使って、コミュニケートしてるわけです。
だから、誤解や行き違いなんて、もう防ぐ術なんかないんですよ。
それでも、私たちは、この世界では言葉を使ってコミュニケートしなきゃならない。実際に相手を目の前にすれば、微笑みひとつ、握手ひとつで解決することも、こんなネット上ではヘンにこんがらがってしまいやすいんです。それはもう、仕方のないことかもしれません。

メル友なんかでも、わりとはっきり物言う人だなぁと思っていたら、実際に会うと、「あり?」って感じだったりして。メールでケンカってよくあると思いますが、相手を目の前にしていたら到底言えないことも言ってしまうし、やっぱり、書いている間は一人だから、相手の反応は想像でしかなくて、その想像の反応に対して書いている。こう書けば、こう受け取るはずだ、みたいな思いこみで。
私が昔、出会い系サイトにはまっていたとき、実際に会ってよく言われたのが、「案外、お笑い系なんですね」とか「そんなにキツくないんですね」とか。どうも文章では、「言いたいことをしゃきしゃき言う人」という印象が強かったみたいです。でもね、メールで何かを議論しているときは、そりゃ言いたいことも言うけど、たんに会って二人で雑談するだけだったら、そんなに構えたりしないでしょ。むしろ、笑いとかリラックスがないと、肩が凝って嫌でしょ。一緒に目の前にいる人が楽しそうにしていないと、なんか居心地が悪いから、ついつい自分からべらべら喋っちゃいますね。私はあんまり初対面の人と会うのも緊張しない性質だけど、けっこう緊張感をおもてに出して来る人も多いから。だから、「案外、お笑い系」だなんてことにもなる。この落差。

むずかしいですね。みんなに好かれたいとか理解されたいとか、そんな大それた、非現実的なことは考えない。かといって、わざわざ誤解をまねくのもアホらしい。でも、けっきょく、こんな文章だって、こうやってネットに載せた瞬間から、もう一人歩きしていくから。不思議な感じです。それは私でありながら、やっぱり私ではない。
とある掲示板(2ちゃんねるじゃないですよ)に私の文章が引用されたときも、それについていろいろ解釈がなされていて、その成り行きを見ていた人が、またその人なりの解釈をして・・・私本人がそれを見ていると、どことなく面白いっちゃ面白いですね。友人は、「あんたは一見タフに見えるけど、それなりに繊細な神経をしてるところがあるから」と心配してくれてますが、まあね、確かに愉快でないこともありますよ、でも基本的には、そんなことによって現実の生活がどうかなるわけでもないから。このマンションを追い出されるとか、職場で居づらくなるとか、そんな問題じゃないですもん。ほんとに嫌になったら、やめたらいいだけだから。サイトを閉鎖して、プロバイダーを変えて、また今度は新しく「まり犬文芸館」とかつくればいいだけの話です。まぁ、いまさらめんどくさいし、そんなこと、毛頭考えてませんけどね。

村上春樹が「ノルウェイの森」で大ブレイクしたとき、本人にしてみればけっこう不愉快な目にもあったらしいのですが、多くの人がコトバを仲立ちにしてコミュニケートし合うとき、誤解や勝手な思いこみであれこれ言われる不快さっていうのは、もう避けられないことだと思います。でも私は思うんですよ、たとえば100人にあることを話しかけたら、たった一人でもその真に意図するところをわかってくれたら御の字だって。コトバってそういうものだって。たとえ残りの99人には誤解や曲解をされても、それでも、何も言わないより、言ったほうがいい。それが無意味だとか虚しいとか思わない。だって、もともとそういうものだから。それに、裏を返せば1000人に話しかけたら、10人はわかってくれるかもしれないということでしょ。だから、何も話さないでいるよりはよっぽど有意義じゃないかって。何も話さなかったら、「自分の言うことなんか、しょせんはわかってもらえない。人間なんて、しょせんはわかりあえないんだ」という思い込みに閉じてしまうだけみたいな気がするんです。それっていちばん悲しい。ほんとはわかってくれる人がいるのにね。「いや、いままで話してみたけれど、誰もわかってくれなかった」、そんな場合もあるでしょう。でもね、それはまだ100人目の誰かさんに巡り合ってないだけかもしれないんです。楽観的すぎますか?

もし私がものを書くプロとして、お金と引き換えにこの文章を公開しているんだったら、私ももう少し自分の意図が正確に伝わるように細かく気配りするかもしれない。でも、これはたんなる個人ホームページで、プロバイダーにお金を払っているのは私だから。そのときそのときの気分に左右されてしまうこともあるだろうし、どこに裏付けがあるんだ、というようなことも書くかもしれません。あくまで、私個人の意見としてね。最低限のマナーとして、あまりに過激な個人攻撃なんかはやらないとしても、何かを言うことによって、誰かを不快にさせる場合もあると思います。SFなんかあまり読まないって言って、SFファンの人に反感を買われたりもするように。でもね、ほんとにあんまり読まないんだもの。私としては、正直に感想を言っただけ。全方位に愛想を振りまくなんて、私にはそんな器用なことできないし、ここでするつもりもないんです。だから、もしここで何か不快な記述、誤った見解があって、これは見過ごせないと思うなら、掲示板なりなんなりで教えてください。真摯に対応しますよ。それが確かに私の至らなさ故であれば、そのときは訂正、謝罪させてもらいます。もちろんすべて公開でね。陰であれこれと揚げ足をとるなら誰だってできる。でも、そんなふうに面と向かってわざわざ間違いを指摘してくれる人は少ない。私は、そういう人に対しては、ほんとうに勇気あるなと思って敬意を払っています。今までも、これからも。



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