秋野不矩(あきの・ふく)

東京の大丸ミュージアムにて9月15日まで、日本画家、秋野不矩さんの「卒寿記念展」が催されているらしいです。関西人の私は見ることができませんが、東京方面のかたならば、ぜひいちど機会をつくって見に行かれることをお勧めします。
秋野さんは、九十才を迎えられた文化功労者、ずっとお若い頃はべつとして、この四十年間はインドの風物をお描きになっていらっしゃいます。おおらかで力強く、大地の匂いや人のぬくもり、包み込むような熱い空気と、建物の陰のひんやり乾いた感触などが、じかに肌に感じられるような絵です。
初めて見たのは、私がまだ二十歳ぐらいのときだったと思いますが、なんか、圧倒されてしまいましたよ。もうね、その場で涙が出そうなくらい。すごく懐の深いというか、優しい、そして強い絵なんですね。きっと、描いている秋野さんご本人が、そういうかたなんだろうなって思います。こちらの脆弱さを問うことなく、淡々としていて、けれどもその絵の前では、あるがままでいられるような、いてもいいような、そんな気もちにさせられる、不思議な絵です。頭がクラクラしますよ(^^)
平山郁夫氏の奈良やシルクロードを描いた作品、あの独特の青と茶の世界もすごく好きなんですが、あのかたの絵は、やはり男性の絵だと思いますね。同じように悠久の大地を描いていても、視点がどこかしらストイックに見える。秋野さんの場合は、もっと暖かい生身の、けれど普遍の宇宙、その生命のうねるような神秘に満ちているような気がします。平山氏が墨染めの衣を着た修行僧だとすれば、秋野さんはまるで菩薩です。
ぜひ自分の目でごらんになって、あの素晴らしい絵と対話し、そのなかに入り込み、その場でめくるめく強力なトリップ体験をしてみてください。


いじめについて

偽やせ薬事件の犯人が、けっきょくは同じ中学の女子生徒だったことで、いじめがあっただのなんだのと、また騒がれています。(しかし、この「いじめ」って言葉、もう少しなんとかならないでしょうか。どうも、語感が間延びしているような)このごろの子供たちって、そんなにすさんでいるんでしょうか。私たちの子供時代からいじめはあったし、私だって、現に、中学時代、同じクラスの何人かの女子生徒にはっきりと無視されたことがあります。まあ、そのときはつらかったけれど、一時的なことだし、自分だって似たようなことをする側に回った場合もあったし。突然始まったのと同じ、無視は突然終わりましたが、あのころって、そんなふうにして、時には荒っぽいやり方で、人間関係を学んでいく年頃なんじゃないかって思うんですけど。でも、何人か、お子さんのいるかたに話を聞くと、最近のいじめって、昔のいじめとは違って陰湿で、はっきりした犯罪性がある場合もあるとか。
お金を脅し取ったり、犯罪に荷担させたり・・・・身体に相当な危害を加えられることも。そうなってくれば、私はそんなの、いじめ、という言葉の範疇にはなくて、はっきりとそれは『犯罪』である、と認識すべきかなって思うんですが。たとえ子供がやっていたにしろ。

学校の先生だって、目が50もついているような怪物ではありませんから、クラスの子供ぜんぶに平均して目を配ることなど不可能です。日頃、問題行動の多い「派手な」子供に気を取られていると、それだけで、片隅でこそこそと行われているいじめなんかは目に入ってこなくなるのも仕方ないかとも思います。今の現状では、とてもじゃないけれど、学校が悪質な『犯罪』を未然に発見して解決する、あるいは押え込む、ということなど無理だと思いますね。
それでは、というので、最近では、男の子なんかだと、親のほうが子供を空手道場などに通わせたりして、自己防衛をはかるんだそうです。で、家では、「いじめられたら、やり返しなさい」って教えるんです。・・・なんか、それもすさんでるなーって思うんですが、親にしてみれば、自分の子が大人しくいじめられるくらいなら、むしろいじめる側に回っててくれたほうがいいんですって。うーむ・・・考えてしまいます。

私がまだ小学校の二年生くらいのときのことです。同じクラスに田中くん(仮名)という子がいました。
田中くんは、たぶん、家庭が複雑だとか貧しいとかいう事情があったんでしょうね、いつも粗末な汚れた服を着ていました。背が低くて、目がぐりっと飛び出していて、「出目金」とあだ名され、からかわれていました。国語の本読みを先生に当てられても、たいてい簡単な字がわからないで、どもりながら読んでいました。体操服なんかもひどく汚れていて、洗ったことないんじゃないのって感じでした。男子も女子も、みんな、田中くんを馬鹿にしていました。まだ小学生で、そうひどいいじめはなかったと思いますが、クラスののけ者扱いされていたんです。
あるとき、私は学校から帰って、洗濯物かなにかを畳んでいた母に、何の気なしに田中くんのことを話しました。こんな変な子がいて、いつも汚れた体操服着ていて、みんなにからかわれてる、というようなことを話したんだと思います。そうしたら、母が、これも何の気なしに言ったんです。
「へえ。じゃ、こんどその子の体操服、もって帰ってきてあげたら。うちで洗ってあげるから」って。
それを聞いた私は、子供心に、なんともいえない恥ずかしさを感じました。

私は田中くんのことなんか、なんとも思ってませんでしたし、わざわざからかったりいじめたりはしていませんでした。当然、罪悪感もなにもなく、話していたわけですが、でも、ほんとうはからかうよりももっと、馬鹿にしていたのかもしれないんです。いわば、眼中になかったわけです。同じ人間というよりも、自分とは別の生き物、そんなふうに、どこか高みから突き放していたんですね。私は、そういう自分の傲慢な冷淡さを、そのとき母に指摘された感じがして、それで自分を恥じる気もちになったんだと思います。もちろん、その当時は、子供ですから、ただ、居心地悪いと感じただけですが。
母には、べつに私を諭すつもりなんかなく、ほんとうに軽い気持ちで言ったんだと思います。そこには、何の教育的配慮も感じられませんでした。もしそういうものを感じたら、私は反発していたかもしれませんが、なにもなかった、そのあっけらかんとした無作為なひとことが、私の心には突き刺さったんですね。
私は口をつぐんで、田中くんの話をやめました。もちろん、そのあと、彼の体操服を持って帰ったりはしてません。何が変わったわけでもないし、クラスではやっぱり、私は田中くんがからかわれるのを、端で見ているひとりでした。それを止めに入ったり、彼に親切にしたりすることはありませんでした。でも、私にはあの恥ずかしさを、大人になった今もまだ思い出すことができるんです。

うちの母が、特に優しいとか、よく出来た親だというのではないと思います。ごくごく普通の人です。
時代のせいかな、と私は思います。あの頃は、まだそんなことが言えるような雰囲気があった、そういう時代だったのかなって。ご近所とか共同体で、助けたり、助けられたり、という雰囲気があったのかなって。
翻って、いつか、もし自分に子供ができて、同じようなことを言ったとしたらどうでしょう。私は、
---------じゃあ、その子の体操服、持って帰ってきてあげたら--------
そう言えるでしょうか。何の教育的配慮からでもなく、ごく自然に。もし子供が素直にそれを「実行」して、かえって、その子と一緒にいじめられでもしたらどうしよう、そんな心配をすることもなく?
わからないですね。そのときになってみなければ。
考えてみれば、こんな世相で人間ひとり育てるのって、やっぱり大変そうですね。


愛されない病

心理学の本ですが、「愛されない者の傷」というのがあります。著者の名前は忘れました。ドイツかスイス、そのあたりの人だったように記憶しています。人を愛したり愛されたりすることが上手く行かない、とりわけ、愛されることとなると、もうかたくなに、「自分なんか、人から絶対に、愛されも理解もされないんだ」というような思い込みに陥っている状態、これを著者は少しユーモアもこめて、「愛されない病」と名づけています。
「愛されない病」に罹っている人々は、たくさんいます。それは、必ずしも、客観的事実として、その人々が本当に誰にも愛されていないということを意味するものではありません。あくまでも、本人がそのように思い込んでいる、というところにこの病気(?)の悲劇性と(若干の)喜劇性があるわけです。
著者はこの「愛されない病」の原因として、人間関係、とりわけ親子関係のなかで負った傷、というものに注目しています。そんなふうに考えると、程度の差こそあれ、人間関係のなかでは、誰もが何らかの傷を負ったり負わされたりするものですから、これはすべての人が罹患しうる、普遍的な病である、といえるでしょう。

ずいぶん前の話ですが、一人の知人(男性)が、本人いわく「運命の恋」に落ちました。
相手はアイドル歌手みたいな顔だちの、可愛らしい女の子。最初は二人ともラブラブで良かったんですが、
まもなく、女の子のほうに、極端な「愛されない病」がでてきました。彼としては、ほんとにこれまでにないぐらい、誠心誠意を尽くして彼女を愛していたんですが、深く愛されれば愛されるほど、彼女にはそれが「信じられない」ようなんです。彼女自身は、自分がそんなふうに一心を捧げて真剣に愛されることなど、ありえないんだと思い込んでいるわけです。これはもう、理屈も脈絡もなにもない、ただ、そういう強力な思い込みだけがあるんですね。
彼女いわく、「私はこれまでいろんな人と付き合った、でも、私自身をほんとうに愛してくれた人なんか誰一人いなかった、ちょっと顔が可愛いから付き合ってるだけ、私が何を思い、何を考えているかなんて、みんな知ろうともしなかった、私なんか、絶対に本当には愛されないんだ」と、こうなんです。もちろん、こんなふうに理路整然と言うわけではありませんから、私が聞いた話をもとに、推測もまじえて整理したんですが。
顔が可愛くて、だから男の人に好かれる、という、羨むべき状況も、本人が「愛されない病」にかかっていると、こんなふうにしか受け取れないんですね。彼女の言うように、誰一人として彼女の内面を愛さなかったか、というと、それはわかりませんが、少なくとも本人にとっては、それが現実なんです。
二人は比較的短い期間で別れました。最終的には彼女が彼にこう言ったんです。
「私はそんなふうに愛されたくない、あなたは私を甘やかして駄目にしてしまう・・・」
その後すぐに彼女は、私から見ると、ずっとろくでもない男、つまり、それこそ彼女の内面なんか、理解せずに、彼女をまるでアクセサリーか便利なメイドのように扱うような男と付き合い始めました。

彼女の過去に何があって、そうなったのかは知りませんが、恨みがましい気持ちや言葉とはうらはらに、心から愛されないほうが、むしろ本人はどこかしらほっとするんですね。で、結局は、自分の「愛されない病」に、現実を合致させてしまうわけです。本当には愛されないこと、それが、彼女の自己イメージとして定着してしまっているわけです。だから、そこからずれるのが怖い、本当に愛されるのが怖い、自分までも本当に心底から相手を愛してしまうのが怖い、そういう関係になるのが怖いんでしょうか。
大事にされて愛されることは、彼女にとって、「自分が駄目になる」と感じることのようです。

ここまで極端でなくても、誰か特定の人に「愛してもらえないんじゃないか」という気持ちは、恋愛の初期、たいていの人が経験すると思います。
背が低いから、足が短いから、顔がぶさいくだから、ずっと年うえだから、まだ若すぎるから、お金がないから、ステイタスがないから、性格が弱いから、不器用だから、上手にアプローチできないから・・・・そこには山ほどの個人的理由がありますが、思うに、これらはすべて、結局は、相手がどう思うかの問題でなく、おおかたは、自分自身の問題ではないでしょうか。
自分自身がそのことに、どういうふうに向き合って、どう心の中で折り合いをつけるか、ということだと思います。きちんとした折り合いをつけていないと、そればかりが自分のなかでクローズアップされてしまい、結果的に、一番大切に思っているはずの「相手」が見えなくなる。見えなくなるぐらいなら、まだましですが、そのうち疎ましくなったり、憎らしくなってくると、もうこれは立派な病気です。「愛されない病」です。そのうち、愛されないことが、本当の現実になりかねません。

私自身も、もちろん、人を好きになると、あれこれと思います。自分の自覚している欠点を数え上げ、こうだから、ああだから、愛されなかったらどうしよう、そんなふうに初めは思います(^^)
でも、人の好みとか考え方は、千差万別だし、またそれが変わっていくという可能性もある。はっきりと相手に拒絶されるまでは、考え込んでいても何もわからない。
だから、まずは自分が相手を愛することだと思うんです。
その人が、好きなら。愛されたいなら。
「愛されない病」は、ほんとうには相手のことなんか考えていない。自分のことしか愛していないんです。

----- 拒絶されるのがそんなに怖いですか?それとも、愛されるのが怖いんですか?
     それとも、自分が相手を心底愛するようになるのが、そんなに怖いですか?-----


理系の男たち

文系、理系、という分け方がありますが、私自身はほとんど文系人間だと自分で思います。
何でも、自分の内面とか自分の感情に引き付けて考える、それが文系人間の特徴ですが、理系の人はそうじゃない。彼らはもっと分析的、論理的、客観的です。対象を取り込んでしまうか、それを突き放すか、という態度の違いともいえるかもしれません。もちろん、百パーセント文系とか、完璧な理系というのもないでしょうから、自分の中で、どちらがより勝っているか、ということだと思いますが。

さて、うちの父は、ほとんど理系人間です。暇さえあれば、端から見て何が面白いのかわかりかねるようなこと、つまり、いろんな機械類を分解したり組み立てたりということを、嬉々としてやっています。子供がプラモデルをつくるのと同じですが、太陽電池で動いたりするので、まぁ、もっと高尚なものらしい。今でこそ年齢と経験のおかげか、まだましになったようですが、若い頃は、ほんとに人付き合いが苦手で、とくに女性の気持ちなんか、いまだにまったく理解の範疇にはない。機械は分解すれば仕組みがわかるらしいですが、人の気持ちというのは、ばらばらにしたり、目で確かめることもできないので、どうにも手の出しようがないらしいのです。

かつて私は、つねづね「こういうタイプの男とだけは付き合いたくない」と思っていました(^^)
母に、「お父さんと結婚なんかして、よくいままで我慢できたねー」などと言ったような覚えもあります。
人の気持ちを上手く汲んで言葉を選ぶのがヘタクソ、というのに加えて、理系人間は、たいてい見た目ももっさりしています。ファッションなどというのは、それこそ分類して組み合わせるだけでOKだから、理系の人こそ得意であってもいいはずなのに、なぜか、思いつく限りの理系の男たち、中学・高校の物理や化学の先生、それから理系クラスに分けられた同級生の男の子たち、つらつら思い出しても、見た目のカッコイイ人って、ほんとに見当たらないように思う。そのころカッコよかったのは、勉強なんかできないけど、サッカー部でキャプテンだった男の子とか、英語の先生、体育の教育実習生、といった感じです(^^)
理系の男たちというと、色白でひょろっとしていて、いつも生徒に馬鹿にされてた気弱な数学の先生、席替えのとき隣にすわった無口で無愛想な男の子、なんといっても、見た目冴えない男ばかりで固まってた理系クラスの雰囲気の不気味なこと・・・・

でも、ずいぶん前ですが、とある話から、父に、「理系の男の人って、ちょっと幼稚じゃない?普通に話してるぶんにはマトモかもしれないけど、話の内容が自分の感情とか特に恋愛問題とかになってくると、なんでああもつまんなくなるのかな」と聞いてみたんです。父は、自分に当てこすられたように思ったんでしょう、ちょっと腹を立てながら、「それは、真面目でウブだからだ。それだけオマエたちみたいに、どう考えたってわからん人の気持ちなんてモンをああだこうだこねくり回して、スレてないからだ。だけど、本当に人の役に立ってるのは、そういう人間なんだ。文学なんか、それが社会の何の役に立ってる?」って力説したんです。
ふぅん、と思いました。
まぁ、文学が何の役に立ってる?は余計だけど、(そもそも文学は、役に立つことを目的にはしていないのだから)父の言うことにも、なるほど一理あるなぁって(^^)

それをコペルニクス的転回のキッカケとして、私にも理系の人のいいとこが見えてきたように思います。
でも、これって相手が変わったわけじゃないですね、自分の視点が変化しただけです。それまで、「ダサくて愛想のない幼稚な人」だと思ってたのを裏返して、「真面目でウブな可愛い人」だと思えばいいわけです(^^)
愛とはなんぞや、というような話題についてこれない彼らが、口の中でもごもご言ったり、わけのわからないことを突拍子もなく言い出したりしても、「まあ、今まで考えてきたことないから、慣れてないんだ」と、大らかに見てあげればいいわけです。理系はもともと真面目で凝り性の人が多いですから、そのうちそういうことについても、自分なりの思考法を編み出すでしょう(^^)

文系人間同士で「哲学の小道」や「愛の迷宮」を探索するのもいいけれど、理系の人にその世界観を聞いてみるのも、フレッシュで面白いことです。ともすれば、自分の感情に埋没して、こんなに悩んでるんだぁ、考えてるんだぁ、聞いてくれ〜、とばかりに自己を押し付けてくる文系(芸術系)人間よりも、ひょっとしたら、クールで斬新な視点をもっているかもしれません。
それに、何よりも、知らない世界のことを話してくれるのは、楽しいことです。
原子が見える巨大な電子顕微鏡って、知ってますか?
宇宙に存在するダークマターのことは?
自然が描き出すフラクタル図形のことは?
宇宙人が存在する確率を計算する数式があるってことは?
理系の人たちにとっては当然の知識でも、文系人間の私にとっては、不思議と驚きの連続です(^^)
それに、こちらがどんなに稚拙な質問をしても、理系の人はたいてい丁寧に教えてくれます。自分の得意分野だったりすると、それこそ目をきらきらさせて説明してくれます。私たち文系人間なら、つい、「こんなに初歩的な感情の動きもわからないなんて、なんて幼稚なヤツ」と、説明するのも嫌になってしまいがちなのに、そのあたりは、理系の人のほうが、親切なんですね。

理系の男たちには、話していてうんざりさせられるようなデリカシーのなさが感じられることが、しばしばあるのは確かです。格好かまわない人が多いのも事実。女性の扱いだって、慣れてなくて、ヘタです。だけど、彼らには、それを補えるやさしさもあるし、斬新な感性、透徹した推理力、クールな分析力をもつ、魅力的な人々です。黙々と、派手なアピールをすることなく、世の中に影響を与えているのも、彼らです。どうして今までそんなふうに思えなかったんだろうって、私はいま、反省しているところです(^^)
でも、理系の男の人も、そう控えめにならないで、ちょっとぐらい譲歩して、こっちがわに近づいてきてくれたっていいのにね?(^^) わけのわからない感情の迷路にはまり込んでるようにみえる文系人間だって、きっと理系の回路にはない、楽しい視点を与えてくれると思いますよ。

注)-- こういう結論は、私の周りの数件の例から共通性を抽出したものに過ぎず、まったく科学的では
   ありません。でも、こういう強引な思い込みを堂々と披露できるのが、文系人間の強みだものね(^^) --


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