流されるように

昨日、夫がシアトルへ発ちました。学会に出席するため、一週間ほどの滞在です。私はオコたんと二人でお留守番。だってシアトルへ一週間ぐらい行って来たところで、疲れるだけだし。学会がパリやローマで開かれるっていうなら、喜んでついて行ったかもしれませんけど。アメリカって、やっぱ、観光しに行くところじゃないって感じですね、少なくとも私にとっては。あそこは「住んでみてナンボ」ですよ。腰を落ちつけて住んでみると、その豊かさと複雑さが見えてくるというか。中世に建てられた美しい大聖堂、なんてのはないけれど、今を現実に暮らす、という意味では魅力ある国です。
・・・思い出せば楽しかった、あのリバモア暮らし。
タレやオレ、くろはどうしてるだろう。懐かしいですね、もはや。胸が痛いくらい。

さて、このところ、夫の仕事も忙しく、帰りも遅かったので、充実した読書三昧の日々でした。
初めに「訳者のあとがき」などをめくって関心を持ち、手をのばして中身を実際に読んでみても、結局つまらなかったという本は多いものですが、最近、私も嗅覚が発達したのか、「これはヒット!」と思う作品にたくさんめぐりあってます。そのうち書評コーナーでも紹介したいんですが、けっこう収穫多いんですよね。今は、読んでるということそれ自体が面白いので、紹介するのが追いつかないって感じです。でも、まぁ、なるべく早いことご紹介しますので、期待していてくださいね。ほんと、なんでこんな面白い作品が書けるの?って、感嘆してしまうような作品たちですよ。

そうそう、書く、ということに関しては、一歩前進です。私、この春から、とある文学学校に通うことにしたんです。学校っていっても、まぁ、それぞれが作品を書いて、皆で批評しあって、同人誌などを出して、というような活動をしているところですが、そこに飛び込むことにしたんですよ。
これは、まえまえから夫が勧めていたこと。その学校も夫が見つけてきたもの。もとはといえば私の発案じゃないんです。夫には強力に勧められてましたけど、私、なんだか嫌だったんですよね、そういうとこに入って行くの。だって、みんなプロじゃないわけでしょ、シロウト同士がお互いにヘタクソな作品読み回して、ああだこうだ批判しあって、浮世ばなれした文学論なんか戦わせちゃったりして、自己満足にすぎないちゃちな同人誌を出したりして、そんなの、「あーださ、めんどくさ、やだやだ」って思ってたんです。で、いままで夫に何て言われても、そんなの嫌だって、はねつけてました。でも、夫のしつこい説得プラス、自分でちょっと考えるところもあって、一転、そこに参加してみることにしたんです。この前、実際にそこに行って、教室で何が行われているか見せてもらうこともしました。で、まぁ、これならやってみてもいいかなと。ひょっとしたら、けっこう得るところがあるかもしれないなと思ったんです。
いやぁ〜、なんか、ほんと、真面目に文学!!って雰囲気で、もうどことなく笑っちゃうって感じもしますけど、これも一興、そう思ってやってみることにします。ええ、真面目にね。

しかし、私って、主体的なようで、実は流されやすいんですねぇ。といっても、自己保存本能はしっかり働くんで、ヘンなとこに流されてどうしようもなくなったりはしないんですが、なんていうか、自分でもエネルギーが足りないと思います。生きていく方向を自分で切り開いていくというパワーがね。まあ、私の身近にいる人なんかは、「あんた、何でも自分の思う通りにやってるじゃない、それだけワガママ通して生きて、なんで<流されてる>なんて言えるの!?」と言いたてるかもしれませんけど、自分の実感としてはそうなんですよ。
流されるように生きている。
流されるように、というか、そうですね、己の運命の後ろ姿を追いかけている、という感じかも。
夫なんかは違う、もっと人間として主体的に生きている感じがします。反対に、私は、誰かに背中を押してもらわないと、どこへも行かない、行けない、そういうタイプかもしれません。たとえば自分が何かを一生懸命やっているときでも、自分が望んでしているのか、それとも、己の運命と言うべきものに従っているだけなのか、わからなくなるときがあるんです。そんな感じがする、というだけですが。今回の文学学校のことでも、ほんとに本心を言えば、やっぱり面倒な気もするんだけど、でも、行ったほうがいいんだろうな、それはわかってる、という感じ。実に曖昧模糊とした予感ですが。
じゃあ、私の本当にしたいことって何?
よくそう考えるんですけど、子供の頃から、「何になりたい」というのが、もうひとつ明確になかったような気がします。
何にもなりたくない。私は私。それで充分でしょ。
いつもそんなふうに感じていたような気がします。そして、周囲の環境もそんなふうだった。高校生になっても大学生になっても、アルバイトひとつまともにしたことがなかった。両親が、学生がアルバイトをするということに対していい顔をしなかったからだし、さほどお金に執着してなかったというのもあるし、大学生になってもまだ親からお小遣いをもらっていたから、というのもあるし。
要するに、私は世間知らずな温室の花でした。いまでもそうですよね。温室の管理者が、両親プラス夫に代わっただけ。
でも、私にはわからない、私がどうしてこういうふうに生きていられるのか。自分自身の子供がいまだにできない、ということも私には苦痛じゃない、苦痛というより、「すべての義務から免れている」という罪悪感めいたものを感じるだけ。ちょっぴりね。

私がいまさらながらこんなことを真摯に考えるきっかけになった漫画家、竹宮惠子はすごいです。
ごく最近、彼女の初期の作品集を読んだんですが、若干二十代前半にして、私とはもう対極に位置している。つまり、「いつまでも純粋培養のガラスの温室にはいられない、そこで生き、そこに慣れてしまうということは、世の中に対して無責任な態度でもあり、常に死と隣り合わせでもあるんだ」ということを知っていたんです、彼女は。
なぜ?と私なんか思いますよ。どうして、そんな歳で、そんなことがわかっていたの? どんなふうに育ったら、そういうことを考えられる人間になれたのだろうって。
私にはわかりません。私が並外れてバカなのかもしれないし、竹宮惠子が並外れて早熟な天才だったのかもしれない。
先日、そんなことをつらつら考えていたら、夫が「何考えこんでんの?」と聞くので、「ん。自分の存在意義について」と答えたら、「そんなしょうもないこと考えんでもええ」と笑われてしまいました。「オコたんだって、そこらの雑草や石ころだって、ちゃんと存在してるんやから。どうであれば存在に意義があるとか、そんな基準なんてない。存在してるもんはそれだけで、すべて意義があるとも言えるし、ないとも言えるんやから」と。
そうかもしれない。違うかもしれない。私には、判断するだけの材料がない。実際に外へ出て、路傍の石ころを触ったこともないんですから。

夫は、よく私に、「外に出ろ」と言います。それは、お金のために働くとか、そういうことじゃなくて、何の為にならなくてもいいから、とにかく、出てみることが大事だと。文学学校もその一環です。
思えば私は誰かが手を引っ張ってくれるのを、ずっと待っていたのかもしれません。外は寒い、暑い、風が強い、とぶうぶう文句を言いながらも、寒けりゃ毛糸のマフラーを巻いてくれ、暑けりゃ日傘を差しかけてくれ、風の強い日には身体をはって風除けになってくれる誰かがいたら、あのガラス戸から出てみよう、そう思っていたのかもしれません。なんて虫のいい話でしょう。そんなワガママ言っていたら、一生温室から出られそうにありません。でも、夫が現れた。私にとって、この結婚の意味は、こんなところにあったのかもしれないなと思うこのごろです。夫にとって私が何なのかはわかりませんが・・・

詩集などふだん読まない私ですが、アポリネールの「ミラボー橋」だけは昔から好きです。
あの、心締めつけられるような倦怠と諦念の詩が。

       流れる水のように 恋もまた死んでゆく
              恋もまた死んでゆく
          命ばかりが長く 
      希望ばかりが大きい

          日も暮れよ 鐘も鳴れ
         月日は流れ わたしは残る


月日が流れ去り、不可逆的に死に向かう。誰しもが。
そして私はどこへ行くのか?
わからない。それはガラス戸を出てから考えればいいこと。それを知っているのは運命を操るものだけ。


男と女のシナリオ

夫が無事帰国しました。
で、春分の日には、私たち夫婦と義母、それに義弟夫婦とその子供たち、つまり一族そろってお墓参りに行って来ました。ここんとこ数日、四月上旬のようなぽかぽかしたお天気が続いていて、梅や桃が満開、そばを通り過ぎるとほのかにいい香りがして、外を歩くのも気持ちがいいものです。このままこんな日がずっと続いて欲しいですけど、またきっと寒の戻りがあるんでしょうね。やだやだ。ま、それでも少しずつ確実に暖かくなってくるんだし、じきにジャケットもセーターもいらない季節がくる。嬉しいことです。

さて、夫がいないあいだは、「よくケンカはするといっても、やっぱり一人でいるのは寂しいなぁ」などと思っていたのですが、彼が帰国して24時間たたないうちに、「いやいや、やっぱり夫と故郷は『遠きにありて想うもの』なんやわ」とため息をつくことに。
というのも、夫が帰ってくるなり、私、とっておきの笑顔で「やっぱり一人は寂しかったわぁ。早く帰ってきたらいいなぁと思って待っててんよ〜♪」と出迎えたんです。夫が一応嬉しげにしていたんだから、そこまででよせばいいのに、なおも続けて「なあなあ、あんたも寂しかった?」って聞いちゃったんです。そしたら、夫いわく「うーん、あんたがおらんから、て意味? まぁ、退屈やと思うときはあったなぁ」と。
どうですこれ?・・・ったく、ムッとくるでしょ。
なによ、その言い草!と思いますよね、女性なら。寂しかったか、って聞いてるんですよ、私は。
退屈なときもあったぁ? それじゃあナニかい、あたしという存在はたんなる退屈しのぎにしか過ぎんっちゅーことかいっ!
私は当然のごとくムクレて、そうまくしたてました。で、最後に皮肉たっぷりに言いました。
「やっぱり夫と故郷は『遠きにありて想うもの』やね。もし帰りの飛行機が落ちてて、あんたが帰らぬ人になってたら、この『会いたかった』って気分だけが残ったのにさ。あ、それと保険金三千万とな」って。
その後、二人とも、ぷりぷりしながら布団に入ったのは言うまでもありません。

私の考えでは、「あんたも寂しかった?」のあとにくるセリフは、「当たり前やないか、寂しかったに決まってるやろ」しかありえないんですよね。そこでふたり、ハニー、ダーリン(はぁと)とばかりに手と手を取り合う、これが私のシナリオ。でも、うちの夫ときたら、私の思い描くシナリオ通りに動いてくれたためしがない。あるとき、似たようなことで頭にきた私が、「カットカットぉ! なんでこーなるの、あんたは! ここはお互いに感動して手と手を取り合う場面でしょーがっ」と言い聞かせたことがありました。で、しかるべきセリフを教えてやって、やり直しさせたんです。彼のほうは、「そうか、これがあんたの理想のシナリオで、僕がそれに沿って動かんと、あんたは怒るわけやな」と納得してみたいですが、いかんせん、彼には相手の望んでいるシナリオを察知して動くという才能がまったく欠落しているんですよね。いちいちシナリオを前もって渡しておくわけにもいかないし、こっちは、「これじゃあ、いままでまともに彼女ができたためしもないわな」と合点がいくばかりです(-.-)

ここまで読むと、なんだか私ばかりが自分のシナリオを夫に押し付けてるみたいでしょ?
でも、人間って実はいつだってシナリオの押し付け合いやってるんですよね。そう、もちろん夫には夫のシナリオがある。それは、帰国しての第一声から始まってるんです。
「あんた、僕がおらんかった間、浮気してへんやろな」
これですよ。
そんなことしてないに決まってるでしょ、と言うと、ほんまかぁ、と疑わしそうな、それでもってどことなくつまらなさそうな顔。これじゃ、まるで、してないのが悪いみたい。ヘンな人。べつに猜疑心の強いタイプってわけじゃないし、思うんですけど、これ、文字通り私の浮気を心配してるっていうんじゃなくて、けっきょく好きなんでしょうねぇ、こーゆーシナリオが。
「うちの妻はひょっとしたら別の男と浮気してるんじゃないだろうか・・・確証はないし、妻もこう言っているんだからたぶんしてないんだろうけど、でもちょっと怪しいぞ、ここは騙されたフリをしておくしかないのか、しかし、ああ、妻が他の男と・・・クソッ・・・あああ・・・」
現実にはありもしない妄想のなかで、嫉妬にのたうちまわる役ってのが好きなんですよ、きっと(-_-;)
早い話がヘ・ン・タ・イ。子供の頃からいじめられっ子だったそうで、ちょっとマゾッ気はいってるんですよねぇ。私も根が親切なもんだから、彼の望むシナリオ通り、ちょっと疑惑の含みをもたせた声で「えっ、なんでそんなこと言うの? してないったら。そんなこと・・・してないって・・・」とか言ってあげたいところですよ、でもなかなかねぇ、それも馬鹿馬鹿しくて(-_-;) いっそ、「ふん。浮気? ああそうさ、それがどうした。あたしはね、もうおまえみたいな醜いブタ野郎には飽き飽きしたのさ」とか叫んでみたらどうでしょう。彼が怒る? いーえ、「やっぱりぃ」とか言いながら、涙を浮かべて喜ぶんじゃない?
はー。こんなはずじゃなかった。私のうるわしきハニーとダーリンの構図が・・・

げに恐ろしきはシナリオの不一致なり。
さてさて、あなたのアタマの中に描かれてるのはどんなシナリオ?
面白いのがあれば、ぜひぜひ教えてくださいませ。


本読みの毎日

桜の花が咲き始めましたね。
私は桜は大好きで、それもまだ三分咲きとか五分咲きの頃が一番好きです。
だって、満開になったら、もうあとは散ってしまうだけですもの。まだまだこれから咲くんだなぁ、と楽しみにしている今ごろの桜が一番いい。もう少し暖かくなって、春風のなか、花びらをいっぱいに散らせながら立っている満開の桜を見ると、なんだか胸が締めつけられます。その妖艶さに。そして、その儚さに。
でも、きっと桜自身はなんとも思っていないんでしょう、だって、五月には緑の葉を茂らせ、夏の暑さにも冬の木枯らしにもびくともせず、来年も、再来年も、この季節になると花は咲くんですから。毎年毎年、同じように花を散らせながら、それでも私たちなんかより、ずっと長生きするんですよ、桜の木はね。どうしてそれが儚い生でしょうか。舞い散る花びらを惜しんで桜を哀れむのは、人の勝手、人の傲慢というものかもしれません。でも、やっぱりそれでも私は考えてしまいます。アポリネールのように。命ばかりが長くても、それはそれで哀れなものかもしれないと。

このごろちょっと厭世的です。
なにがどうということはないけれど。たんなる贅沢病ですね。
本ばかり読んでいます。で、思うんですが、ミステリっていう分野、これはすごいですね。もう純文学の価値っていうのがわからなくなるくらい、いいミステリは純文学になり得る。
私の読書傾向は、昔から、ミステリやサスペンス、ホラー、ファンタジー、オカルトものに大きく偏ってるんですが、時間と大衆に吟味されて残った純文学の古典はさておいて、最近は特にミステリばっか読んでます。昔にくらべて、社会の矛盾とか、人間関係における愛憎、そういう純文学的要素を事細かに描きこんでいる作品が多いからです。そこにサスペンスとか謎があるだけ、へたな純文学より面白いと言えるかもしれません。まぁ、純文学に向いたテーマっていうのはあるかもしれませんが、純文学でないと表現できないことっていうのはないと思いますね。そもそも純文学ってナニ?わけもわからず言葉だけ使ってますけど、正確な定義は知らないんですよね。今度誰かに訊いてみたいです。
私はよほど気が向かないとSFは読みません。だって、なんだか馬鹿馬鹿しくて。なんちゃら装置とか、カタカナだらけのハイテク用語がいっぱいでてきてうっとおしく、筋書きも「ほんまかいな」と思わず首を傾げてしまうだけで、いまいち感動が浅いって感じがするんですよ。傾向としてね。人物描写も人間関係も、なんとなく薄っぺら。そうでないSF感動作品ってのがあったら、ぜひ教えてください。ほんと。
でも、ビデオや映画、それに漫画となると、がぜんSFものは魅力的ですね。ほら、言葉で説明するより、SFって映像向きなんじゃないでしょうか。それこそ最近の技術を駆使すれば、文章よりよほど迫力がありますよね。彗星が地球に激突ったって、言葉で言えば「へえ〜。あっそう」だけど、映画「ディープインパクト」のあの映像だけ(あくまで映像だけね)みれば、すごい迫力じゃないですか。思えば、ホラーとかファンタジーもそうですね。映像向き。
それにひきかえ、ミステリや純文学なんかは映像にして欲しくないものがいっぱいありますね。まずミステリは惨殺死体のなまなましい映像なんか見たくないし(それじゃまるでスプラッタホラーになっちゃう)、感動系純文学は、ちゃちな役者に演じさせて、その感動のスケールを貶めて欲しくない。
みなさんはどう思われますか?

そうそう、例の文学学校は四月から始まるんですが、それに先立って分厚いまっさらの原稿用紙が送られてきました。一枚の紙、一冊の小冊子と一緒に。その紙には、「さあ、同封の『原稿の書き方』を参考にして、すぐに作品を書きはじめましょう」とあります。
げげ。すぐに書きはじめましょう、ったってねぇ、あんた。
うー、何をどう書けばいいというのっ(悶絶)?
こんなにプレッシャー感じたこともないですよ、最近。
どうせ書くなら、いいものを書きたい、誰よりもいいものを。そう思うからでしょうね。
まずは同じクラスの誰よりもいい作品を。そして、ひいては学校じゅうの誰よりも素晴らしい作品を。しかも、二位をはるかに引き離して、やすやすとゴールのテープを切れるような、そんな作品を書かなければ・・・
虚栄心?それもありますが、「ふん。そうでないと、こんなことには意味がないじゃないか。時間の無駄。お金の無駄」という、悪魔にも似た心の声を聞きとってしまうからです。おお、なんと極端かつ傲慢な(~_~;)
まぁ、まずは、やってみることが大事。意味がない、などという悪魔の声は脇に置いておきましょう。そういう野心は捨てて、もっと素直な姿勢で臨みましょう。リラックスして深呼吸しましょう。目をつぶって、大きく息を吸って、吐いて、吸って・・・そしてそっと目を開けたら、そこに見えたものを書けばいい。
でも、まだ、私は目を開けてないんです。だって、怖くて。もしそこに何も見えなかったら、私はどうしたらいいんでしょう?
ふー。書くことがこんなに億劫で面倒に感じられるのは、はじめてです。
とにもかくにも、吸って、吐いて、吸って、吐いて・・・はー、めまいがしそう・・・


オコたん

このまえ三月二十九日号の週間文春に犬猫特集があって、全国から寄せられた2500通の「ウチの子自慢」写真のうち、101匹だけを掲載してありましたが、はっきり言ってどれもこれもブサイク〜。
わざわざブサイクな写真ばっかりより分けたの?って感じ。こんなんだったら、うちのオコたんのほうがよっぽど美猫(^-^)!
私も写真送ればよかったと思いましたよ。まぁ見てやってくださいな。なにせ、あいつは顔が可愛いだけが取り柄ですから。じゅうたんは爪でぼろぼろにするは、人が何か食べてると平気で食卓に飛び乗るはと、やってることはまさに悪魔の所業なんだけど、顔だけは天使のよう。私ごのみの顔なんですよね。だから、まぁ、じゅうたんのほつれもなんとか許せるってもんです。

ウチに来たときはまだ二ヶ月になるやならずで歩き方もひよひよしてたのに、いまでは七ヶ月目に入って、身体もがっしりとし、動きも敏捷になって、顔つきもなんだか青年っぽくなってきました。やんちゃは相変わらずだけど、このごろ少しずつ落ちつきもでてきたみたい。歯も生え変わり、タマタマも大きくなって、もはや仔猫というより、いっぱしのオス猫になりつつあります。
性格は活発で、物怖じしない好奇心旺盛なタイプですね。知らない人とかモノに怯えて、物陰に走りこんで隠れてしまう、というようなことはありません。むしろ、自分から走りよって行って、ふんふん匂いを嗅いだり、じゃれついたりするほうです。大人になりかかっているとはいっても、まだまだ遊び盛りの甘えん坊。人間にあれこれ遊んでもらったり、抱っこしてもらって部屋の窓から外を眺めるのが大好きです。甘えモードに入っているときは、こっちがトイレに入っていても、にゃーにゃー鳴きながら中まで一緒についてきて膝に乗りたがります。そう、よくにゃーにゃー鳴くんですよね。それも、何種類か使い分けて。甘えたいときと、何か要求があるときと、独り言みたいなときと・・・全部トーンが違ってて、面白いですよ。
全体に、素直というか、天真爛漫に育ったなぁと思いますね。イタズラが過ぎると本気で叱り飛ばすこともありますし、噛まれて痛いときは真剣にほっぺたをつねり返したりするんですが、それでも人間恐怖症になるなんてことはないです。ひどく怒られると、たまにアゴを上げて、恨めしそうというか生意気な顔でこっちを見返したりするんですが、すぐにおもちゃで一人遊びし始めます。怒られてるというストレスをおもちゃで発散してるみたい。しばらくするとケロっとして、また人にちょっかい出しにきます。

春は猫の出産シーズン。ということで、近所のペットショップで仔猫が売られているのをケージごしに見ました。訊けば、まだ二ヶ月の仔猫だそうです。人気のアメリカンショートヘアとロシアンブルー。
どっちも手のひらサイズで可愛いんですが、お値段はなんと十万円以上。
そんな、万札を何枚も出してわざわざ猫なんか飼いたくないわ、と思ってしまう私は、べつに猫好きでも猫フリークでもないんでしょうね。それに、見てたら絶対オコたんの二ヶ月の頃のほうが可愛いんですもん。いくら値段が高い純潔種猫でも、可愛くなくちゃ。やっぱり、仔猫時代に可愛かった猫は、大きくなっても可愛いんだと思いますよ。目鼻だちっていうのは、そうそう変わらないもんだと。オコたんは仔猫のときから目がくりっとしていて耳がぴんと立ってましたもんね。それが今も気に入ってるんですけど。

猫を飼っているみなさん、またはこれから飼おうと思っているみなさんに、まりねこの「手抜き」飼育法を少しご紹介。
まず、手抜きしつつ猫と遊ぶ。
猫には遊びが不可欠ですよね。特に、室内で一匹飼いのマンション猫なら、慢性的に運動不足になってしまいがち。できれば廊下とかもめいっぱい使って、思いきりドドドっと走らせたい。ところが、おもちゃを与えて一人遊びさせてもそんなに続かないし、退屈した猫は、かまってかまってとうるさく寄ってきます。で、人間が紐や猫じゃらしなどを持って遊ばせるんですが、しばらくするとこっちのほうが疲れて面倒になってきます。そこで使ってみたい文明の利器が、「レーザーポインター」。そう、講義のとき先生がたがよく使う赤い光点の出る器具。あれを猫じゃらしがわりに使います。人間は椅子に座ってレーザーポインターを持ち、適当に床や壁に赤い光点を走らせてやるだけ。猫のほうは、いつまでたってもつかまらない不思議な赤い点を、部屋じゅう走りまくって追いかけます。人間ラクチン、猫大興奮のアイデア。
次に、猫の抜け毛の手抜き対策。
暖かくなったこの季節、猫の抜け毛が気になりませんか。抱くと、洋服にべったりついたりして。不衛生だし、困ってしまいますね。対策、これは簡単。ころころローラーを買ってくればいいんです。粘着テープをころころ転がして、服やじゅうたんなどにくっついた細かい毛やゴミを取り去るという掃除道具ですね。あれを服にころころして、くっついた猫の抜け毛を取る。でもこれはまあ、普通のこと。誰でもやってますよね。では、いっそのこと、抜け毛のもとになっている猫そのものに、ころころしてやったら?
これ、猫が嫌がると思いきや、意外と喜ぶんですよねぇ。うちのオコたんなんか、私が服にころころしてると、必ず走り寄ってきて、「自分も自分も!」と背中を差し出します。身体じゅうころころしてやると、なにがそんなに気持ちいいんだかわかりませんが、嬉しそうに喉までごろごろいわせてる。当然、粘着テープには抜けた毛がべったり。換毛期は、一日に二回ぐらい、ローラーで猫をころころしてやれば、抱いたときにつく抜け毛は激減します。ただし、テープの粘着具合によっては、強すぎる場合もありますから、そんなときはいったん服やソファなどにささっと転がしてから猫にころころしてやるといいみたいです。人間ラクチン、猫ご満悦のアイデア。

いかがでしょう。
もし、他にもいい手抜き飼育法をご存知の方がいらしたら、ぜひ教えてくださいね。
なんといっても「人間ラクチン、猫満足」なのが一番!


悪意

昨日、夫が帰ってきて言うんです。
「あんたのホームページ、えらいことになってたで」
どういうことかと訊ねると、とある匿名掲示板に、この「まりねこ文芸館」のスレッドができてたんですよ。
で、夫いわく、「あんた、あそこでぼろくそ書かれてるで」と。
そのスレッド自体は、現在ありません。掲示板からは早々と消えてしまったようです。というのも、スレッドが存在したのは、もう二ヶ月も前の話。夫は、ひょんなことから、ほんとうにたまたまそのキャッシュを発見したわけなんです。
で、私はさっそく、自分がどうぼろくそ書かれてるか見てみましたが、べつにそれほどたいそうなことは書かれてないんですよね。「あんな小説、たんに自己満足の世界なだけ」とか、「もうオバサンじゃん」とか、「自分が猫みたいだと思ってる奴にはロクなのがいない」とか。まぁ、そんな感じです。スレッド自体も長くはなく、たかだか50くらいの書きこみがあった時点でもう終わってますね。あっけないもんです。
なーんだ、この程度?とも思いましたが、それでもけっこう不愉快になりました。
何がいちばん嫌だったかというと、いろんな書きこみはともかく、そもそもこのスレッドをたてた人の心境が、私にはわからないということなんです。その人は、私のハンドル名「まりねこ」を使って、あたかも、私が自分のホームページを宣伝しているかのようなかたちで、スレッドをたてているんですよ。
「ホームページつくってます、ぜひみてね」
書きこみの文句はそんな簡単なもので、そこには私に対する直接の批判はひとかけらもありません。世の中には、もっと悪意に満ちたコメントで挑発的なスレッドをたちあげる人もいます。ものすごく善意に解釈すれば、この人は、私のホームページを見て面白いと思ったので、ひとつ宣伝してあげようと、あんなスレッドをたてたのかもしれません。そして、もしかしたら、その人のネット歴がまだ浅く、そんなことを巨大な掃き溜めにもたとえられかねないああいう匿名掲示板でしてしまえば、私および私のホームページにどんな影響を及ぼすか、深く考えなかったし、知りもしなかったのかもしれません。そうであれば、この件は、その人にしてみれば、ただの思いつき以外の何でもない。私が気にするほどのことでもない。けれども、私は正直、ちょっと気味が悪いんです。じゃあ、なぜ匿名が許される掲示板で、わざわざ私のハンドルを名乗って、わざわざ私自身がそれを書いたというふうに見せかけたのでしょう? そこに、なんだか薄ら寒い悪意、あるいは嘲笑を感じとってしまうんですよ。そして、書きこみの文句がシンプルで、悪意のかけらも感じさせない無邪気なものであるがゆえに、一層、その裏にある邪気が引き立っているようにも思えるんです。考えすぎでしょうか?

このことで、幸い、私に実害というべきものは何もありませんでした。
まあ、いろいろ批判(というほどのもんでもないが)はされてますけど、とにもかくにも言えることは、そのスレッドがあった短い期間、うちのカウンターが普段より多く回っていた、ということです。二月の末くらいのことですか、いつもならコンスタントに一日2,30回るわけですが、その数日だけは、一日50くらい回っていて、あれ、なんかおかしいなぁと思っていたんです。これで、その謎が解けました。
しかし面白いものです。
どんな悪意、嘲笑から発したスレッド、書きこみであれ、その閑な人たちは、この星の数ほどある個人サイトのうち、わざわざ私のホームページにアクセスして、私の文章を読んだわけです。一部だけにせよ、ね。その結果、自己満足だとかなんとか批判してるわけでしょ、エライですねぇ。私なんか、友人だと思ってもいない他人の個人サイトなんか、しかも小説や日記、エッセイのたぐいなんか、読みもしませんよ。近くに図書館があって、タダでいくらでも世界の一流文学、すでに卓越した文章力を認められたプロの様々な作品が読めるというのに、どうしてそんなわけのわからない素人文章なんか読んで回る気になれるんですか。私は傲慢な人間なので、自分の文章は見てもらいたくても、他の素人の文章など、たいてい面倒くさいだけです。私のホームページまでアクセスしながらも、「あんな長い小説、とてもダウンロードする気になれなかった」という書きこみもありました。それが、まぁ、普通のことじゃないでしょうか。私自身そう思うので、私はこのホームページおよび小説やその他の文章を「自己満足の産物」と批判されてもうなずくしかありません。現に、そうなんですから。このホームページは、ただただ私の自己表現衝動を満足させる一手段であるが、たまに見てくれる奇特な人がいるのなら、その人たちのために、なんとか、他人が読んでも面白いように工夫していこう、それが文章を上手く書いていく上でのいい練習にもなるし、と、これが私の変わらぬ基本スタンスです。

ささやかな悪意との遭遇。私にしてみれば、めずらしいことです。
私は、いまだかつて、誰かから悪意を面と向かってぶつけられたためしがありません。たぶん幸運だったし、用心深くもあったのでしょう。ケンカや意地の張り合い、勘違いや思いこみが原因の感情的トラブルは数限りなく経験しましたけど、それらと、悪意とか邪気というものはまた別なんです。私を罵倒する言葉なら、この耳で何度も聞いたことがあるにせよ、陰湿な悪意や邪気、そういうものをまともにぶつけられたことはない。けれども、その存在を、なんとなく感じたことならあります。
目には見えないけれど、ほんとうの悪意とか邪気というものは、ひやりとしていて、独特のオーラを発しています。そんな悪意の存在を目の当たりにすると、何の理由もないのにゾッとして背筋が総毛だちます。どんなに明るい陽光のもとで見ても、それはうっすらと影のように黒っぽいのです。
そういうもやもやした影を持っている人が、世の中にはいます。一概には言えませんが、私が見た限りで言えば、それは、ある種の傷と関係しているように思えます。冷たい悪意は、深い深い傷から放たれている、そんな気がするんです。
それは、とてもじゃないけれど、常人には手におえない傷です。どんなものかというと、そうですね、夕暮れの道端に一人でしゃがみ込んですすり泣いている子供がいたとしましょう、どうしたのだろうと可哀相に思って声をかけると、その子はいきなり立ちあがり、げらげら笑いながら鋭いナイフを振りかざすんです。ナイフをよけようと逃げれば、こちらが傷を負います。いっそじっとして、ナイフを胸に突き立てられるままにしておくとしましょう、すると、こんどは子供のほうが崩壊するのです。まるで何かに裏切られたような、こんなことあるはずがない、そんな表情をして、その子はばらばらと砕けてしまうのです。そのかけらをぜんぶ拾い集めて抱きしめることができるでしょうか? そのかけらがまた繋がって人のかたちをつくっていくのを、長い長い時間をかけて見守ることができるでしょうか?
普通はできません。それができるのは、そんな犠牲、忍耐をもいとわぬ深い愛情を、その対象に抱いている場合のみです。どんなにナイフを振り回されても、愛していると、そう何度も何度も繰り返して心から言える場合のみなのです。
それが、悪意の滅し方だと思うのですが、正真正銘の子供ならともかく、影のある大人を相手になかなかそんなことは成功しないでしょう。その傷、その悪意が、歳を経て、もう生きるうえでの支柱になってしまっている場合もあるからです。もはや子供ではないので、復元力がなく、いったんばらばらになってしまったら死ぬしかないと思いこんでいるんです。そんな大人がどれだけいるでしょうか。私は、いままでに、三人見ました。


ちょっとだけ。

ええと、いま忙しくて、更新が滞ってますが、今日はちょっとだけ。

先週の金曜日にうちのオコたんが去勢手術を受けました。もう七ヶ月だし、そろそろってことで。朝、何も食べさせずに病院に預けて、夕方ひきとりに行きました。
家に帰ってしばらくは、見ていて可哀相でしたね。まだ全身麻酔の影響が残ってて、よろよろしてるんです。まっすぐ歩けない状態。で、何も食べてないのに、苦しそうに黄色い液体を吐いて。体温も下がって、手足の先や耳などが冷たくなってました。みゃあと鳴く気力もない感じで、黙ったまま、よろよろ歩いてはうずくまってました。あー、しんどいんだなぁ、可哀相になぁと思いましたよ、やっぱり。でも、必要なことだったから。オコたんよ、すまん、人間の身勝手を許しておくれ。しかし、そんなにしんどそうにしているのに、まだ私の行くところ行くところによろよろとついてきて、膝に乗ろうとするんです。じっと寝てりゃいいものを。心細いとか、そういうのがあるんでしょうか。哀れでしたね。ちなみに、獣医さんに言わせると、よろよろしたり吐いたりというのは、術後の猫としては、通常の反応らしいです。で、オスだとまだ簡単だけど、メス猫だともっと大変だ、ということでした。
いやぁ、猫の手術でこれだけ哀れになるんだから、これが人間の子だとほんとうに親としては見ていられないつらさだろうと思いましたね。子供の病気はつらいものなのですね。
え、今のオコたんの様子ですか? もうまったく心配ないです。手術の翌日から、あいも変わらず余計なことばかりしてうるさく駆け回ってます(-_-;)

ところで、文学学校ではすでに二回、クラスに参加しましたが、非常に刺激を受けてます。
あまり興奮するのは私の場合、身体によくないんだけど、いま、久々にアドレナリン駆け巡り状態です。
行くまえは、私にやっていけるのかな、なにか新しい作品が書けるのかな、などと思っておどおどしていましたが、つい最近になって、ようやく着想を得て、作品を書き始めました。まだどうなるかわかりませんが、たぶん、多くても原稿用紙150枚以内の短編になると思います。
いざ書き始めると、頭はそのことでいっぱい、家事はできるだけ手を抜きたいし、誰も見てなきゃ寝食をわすれて没頭してしまいますね。凝り性なんですよ、けっきょく。で、早く完成させてしまいたい。あとでいくらでも修正できるんですが、少なくとも、アウトラインは最後まで書いてしまいたい。なんかね、今回の小説は、ほんとに私自身が楽しんで書いているので、早く結末が見たいんですよ。ほら、作者って、あらすじをメモにしたり、緻密に構成を表にしたりして書いてると思うでしょ? 確かに資料のいる歴史ものとか、かなり長い小説になると、そういう下書きも必要ですが、でも、短編ぐらいだと、頭のなかでだいたいの筋を組み立てて、そのまんまいきなり書いてしまうんです、少なくとも私は。そしたら、自分の頭に流れてる映画みたいなものを、必死に言葉で書きとめていく、という感じになります。情景とか登場人物の動き、セリフ、そういうものが、少しずつ、映画のようにぱーっと「見えて」くるんですよ。それを書くんです。だから、私自身がつくっているお話なのに、なんだか私自身も読者みたいなんですよね。わけわかんない世界でしょ? 自分で書いておきながら、ああ、この結末はどうなるの、早く読みたい、とか思ってるんです。異常ですよね(~_~;) まあ、こういうラッキーってあまりないかもしれません。それこそ書くテーマをうんうん言いながら考えて、書いちゃ消し書いちゃ消し、というのが普通だと思います。でも、いま、私は没頭してるんですよね。シアワセなヤツでしょ(^^) 書いて、それがどうなるって冷たく言わないでくださいね、とにかく集中してるんですから。こんな燃焼感は久しぶりです。生きてるって感じ!

ということで、また作品世界に戻ります。ではでは。



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