二階の奥さん

最近、いろんなことに対して考えがまとまりにくくて、このホームページの更新も滞りがちです。ほんとにいろいろ考えているんですが、なんだか結論が出たような出ないようなでスキッとしない。心の中にあるモヤモヤを、無理に言葉にすれば嘘っぽくなってしまう、そんな感じです。何度も書きなおしながら、注意深く筆を進めていくことにします。

さて、うちのマンションの二階にけっこう感じのいい奥さんがいます。年齢はたぶん私とあまり変わらないでしょう。私は、マンションの隣人たちとは誰とも親しくおつきあいしてません。近所づきあいというのが面倒なんです。彼女に対しても、顔を合わせれば挨拶ぐらいはする程度。でも、背の高いダンナさんがいて、小学校に通うお子さん二人がいる四人家族だということぐらいは見知っています。彼女もどうやら専業主婦らしく、ときどき昼間にテニスをしに行ったり、自宅で得意の生け花を教えてみたりしているようです。
この「二階の奥さん」ですが、どういうわけか私は前々から、自転車置き場などで彼女と顔を合わせると、お互いにこんにちはと会釈して別れたあと、何とも言えない気分になるのです。決して嫌味な女性ではないし、むしろ見かけは明るく若々しく、立ち居振る舞いはいまどきまれなほどきちんとした感じなんですが、いつ見ても判で押したかのような、あのパーフェクトな笑顔が、私にいろいろと複雑な思いを抱かせてくれるんです。

他人の生活など、その家の奥にまで上がりこんでみなければわかりっこありません。でも、あの笑顔から推測するに、彼女は自分の生き様に、ほんのわずかな疑問も抱いていないように見えるんですよね。まるで、絵に描いたような核家族を想像してしまうんです。
そりゃあ、彼女にもいろいろ不満や愚痴はあるでしょう、子供のしつけに頭を悩ますこともあれば、夫の実家でちょっとばかし不愉快な思いをすることだってあるかもしれません。私にだってそれくらいは想像できます。いくら通りすがりの笑顔がいつもパーフェクトだからといって、一点の曇りもない幸福なんて、生身の人間をやっていれば、そうそう常時あるはずがありません。にもかかわらず、私は、彼女の笑顔に、どうしてか、錯綜した羨ましさを感じてしまうんです。
なぜでしょう?
私にも夫がいます。まぁ、多少風変わりな人ですが、私のことは一応大事に思ってくれているようだし、私たちが生活に不自由しないだけの社会的な働きもこなしてくれています。その点、何の不満もありません。
子供はいない。けれども、私は子供を持つことに執着心はないので、子供がいる人が羨ましいなどと思ったことはありません。むしろ、子供がいないぶん、いっそう気楽な専業主婦です。いまどきはそれをパラサイトと呼ぶのでしょうが、見知らぬ人から何と言われても私は平気です。

そう。私の生活と彼女の生活を比べて、ことさら羨むべき点はないはずです。
私が羨ましいと思うのは、決して彼女のもちものや環境に対してではないんです。
私をして複雑な思いにさせるのは、彼女がなんというか、あるがままの自分の生活を、そのまま素直に受け入れている、そのさまなのです。「私の生活は、ほら、ここにありますよ。そうね、完璧じゃないかもしれないけど、私はこれで満足」とでも言っているかのような、あの余裕に満ちた笑顔なんです。自分に与えられた生に対するその従順さ、裏を返せばある種のしたたかさみたいなものが、私を動揺させるんですよ。
「ねぇ、人生ってこんなものでしょう?」
屈託のない声で、明るくそう言われているような気がするんです。
私は瞬間、うなずきそうになります。
そして、彼女が羨ましくなるんです。女の人生の模範をそのまま生きているかのよう、そこから一歩もはみださずにいて、なおかつそのことに何の疑問も抱いていないかのような、あの優雅な笑顔にノックアウトされかけるんです。

優しく稼ぎのいい夫や、明るくお行儀のいい子供は、確かに主婦のステータスシンボルです。「何かを手に持っている」という実感を与えてくれるものです。二階の奥さんにしてみれば、そうなんでしょう。それらは自分の努力で手にしたものだという思いがあったとすれば、なおさらです。夫や子供、それは自分自身の延長、あるいは自分の手の中にあるものだと信じて疑わないからこその、あの笑顔なんでしょう。私にはそう思えます。
幸せな人です。
いや、皮肉でなしに、幸せに生まれついた人なんですね。
私はといえば、彼女よりよほど強欲なのです。
これだけ恵まれながら、まだ「私の手には何一つない」と焦っているのです。
何かを確かに持っていると信じていれば余裕の笑みも浮かびますが、何も持っていないと感じているのに、どうしてあんなふうに笑うことができるでしょう。
そうなんです。私は、己の強欲さを思い知らされるからこそ、彼女と会ったあとは複雑な気持ちになるんです。

私にとって、夫は、それにたとえ子供がいたとしても、彼らは、当然自分のものではないし、その功績はそれぞれの個人に帰すものです。
まぁ、ありそうもない話ですが、たとえば夫が将来ノーベル賞でもとったとしましょう。そこまで大それたことを言わなくても、有名国立大学の教授として名を馳せたとしましょう。それはそれで喜ばしいことです。私の虚栄心はしばらく大いに満足するでしょう。が、いずれ、「それでも結局、この自分の手には、まだ何一つとして確たるものは掴んでいないのだ」という気持ちが頭をもたげてくるのです。
どうしようもありません。それが、私の本性というものなのです。
与えられたものでは真に満足できない。自ら狩りに出かけ、自分自身の力でもぎ取ってきた戦利品でないと、心底喜べないのです。いくら食べても満腹にはならないのです。
この強欲さ。あたかも、羊の皮をかぶりながら、身の内には飢えた狼を飼っているようなものです。
しかし、私はそのこと自体は必ずしも悪いと思っていません。
最悪なのは、飢えた狼を自ら満足させられるだけの実力が、私にはないかもしれない、ということなのです。人より強欲に生まれつきながら、その欲を満足させる才がないことは悲劇です。それは、このまま一生、「何かを掴んだ」という充足感なしに生きていかねばならないということではありませんか。あるいは、妥協して狼を殺してしまえば、この飢えとも縁が切れるのかもしれませんが・・・でも、そんなことはできません。
私には、そんなことはできない・・・

狼は痩せてお腹を空かせています。もうずーっと何も食べてないんです。この先、いつ食べられるかもわからないんです。悲惨といえば悲惨です。けれども私はこの狼がかわいいのです。現状に対する不満や不完全感のもとになりながら、それでもそれは確かに私を私たらしめる際の原動力なのです。たとえご近所の奥さんの笑顔に、ついヨロヨロとノックアウトされかけるほどの哀れな原動力でもね(~_~;) 
この飢えた狼に、でかい獲物を思いきり追わせてやりたい、私がいま祈るような気持ちで模索しているのは、まさにそういうことなのです。


少女漫画

このまえ、久しぶりに本屋へ行ってマンガの単行本を四冊買いました。

私は、たまたま市立図書館の近くに住んでいるので、本はたいていそこで借りて読みます。「猫の飼い方」など、手元に置いておきたい実用書や雑誌のたぐいは購入しますが、その他にはめったに本など買いません。だから、たまにお金をだして本を買うと、その値段の高いことにびっくりします。
実用書以外に、読みたいと思えばどうしても買わなければならないのがマンガ。図書館には手塚作品など本当に子供向けのマンガが少しおいてあるだけですもの。マンガが読みたいとなると、さしもの私でも、買うしかない。ということで本屋へ行ったんですが、いや、マンガも高いですね〜。一冊六百円ぐらいするんですもの。ビニール包装してあるし、中身がさっぱりわからないので、よほど好きな作家のものしか買いません。マンガに関してはブランド志向です。だって、冒険してハズレだったら悔しいじゃないですか(~_~;)

さて、先日買ったのは山岸凉子の短編集が二冊、青池保子のが一冊、あと、萩尾望都の「残酷な神が支配する」の第二巻を買って帰ってきたんですが、この最後のマンガ、じつは夫が一巻を買ってきて読みかけたけどやめた、というしろものなんです。それを私が借りて読んだわけですが、いやぁ、実にどろどろしたストーリーなんですよ、これ。手っ取り早く言うと、子供(少年)が虐待される話です。舞台はイギリス、お金持ちでエリート実業家だけど、ちょっといかれた継父に性的虐待を受ける思春期の少年が主人公、もちろん夢見がちな実母は、そのことを何も知らない・・・ひぇ〜、陰惨。
そういえばこのマンガ、だいぶ前に新聞か何かで批評されていましたね。斬新で難しいテーマに挑む作者の姿勢を評価する内容だったと思いますが、ちょうど、親による幼児虐待が話題になり始めた頃でしたから。タイムリーだったんです。けど、こんなに陰惨なストーリーだとは知らなかった。うちの夫は一巻目を読んでみて、さらに続けて買う気にはなれなかったらしいんですが、私は二巻目まで買ってみたんです。このあと、どんな展開になるかしらと。そしたら、思っていた以上に、より一層、悲惨なストーリーに発展していきそう。ノーテンキな夫が「もう買う気になれなかった」のもわかる。それにこのマンガ、長くて、十巻以上もあるうえ、完結しているのかいないのか。よくわからないんですけど、とにかく、こんな悲惨で救いのなさそうなマンガにお金をつぎこんで何巻も買ったあげく、家に置いておくのも気が滅入ります。でも、いったん読んでしまったからには、今後どうなっていくのか、ラストはどうなるのか、私としてはそれもすごく知りたい・・・
ああ、何かいい策はないものかと思っていたら、ふとひらめいたのが漫画喫茶なるものの存在。うちの近所にもできてたんですよね、知らぬまに。一度も入ったことないんですけど、漫画喫茶って、いったいどんな様子なんでしょう。どういうシステムになっているんでしょうね。でも、もしあのマンガがそこで読めるんだったら、大枚はたいて買わなくていいってことでしょ。私は読むの速いので、お金も節約できて、あんな陰惨なマンガをずらりと家に置いておかずにすむし(場所もとりますからねぇ)、まさに一石二鳥の解決法。今度、夫と一緒に行ってみることにします。

しかし、少女漫画には「ホモねた」が多い。これ、夫との間でちょっと話題になったんですけど、なぜでしょうか。
思うに、さきほどのマンガ「残酷な・・・」だって、主人公がべつに少女でもいいわけで、現実には継父から性的虐待を受けるとしたら、おそらくは思春期の少年なんかより、年端もいかぬ少女のほうが多いでしょう。が、同じ女性が読むものと想定すると、それではあまりに刺激が強すぎるんじゃないでしょうか。まぁ、作者だって、美しい少年というのは描いていて楽しいものだろうし、女性読者にしても見て楽しいんですが、それより何より同性が虐待される話というのは、生理的に嫌悪感をおよぼすものだから、「美少年=ホモねた」にすりかえてしまうんじゃないでしょうかね。読者って、たいてい主人公に感情移入してしまうでしょ、同性が虐待される図というのは、ある限度を超えると痛々しすぎて正視できなくなるんです。どうしても、「もし自分だったら・・・」という意識が抜けないからだと思いますね。
昔、女子高生コンクリ詰め事件がありましたが、私はあの事件の裁判の判決結果を詳細に綴った新聞記事を一行たりとも読めませんでした。恐ろしいとかじゃなく、とにかく気持ちが悪くてとても我慢ならないんです。何の落ち度もない少女を何日も監禁してなぶり殺しにするなどと・・・。そこで行われた凄惨な事実など知りたくありません。想像するだけで胸が悪くなります。この世の中にこんなことが起こるなんて、そんなの許されていいはずがない。しかし、そういう事件が起こってしまった。現実に。ここでもう、脳がそれを知ることを拒否してしまうんですよ。それはもう理屈抜きの強烈な生理的嫌悪感ゆえにです。ところが、同じ凄惨な事件でも被害者が少年であれば、たとえ非道なリンチの末に殺されたという報道であっても、まだある程度正視できます。事件に感情移入しすぎないで、多少は客観性を保てるんですね。こういうとき、男性ならば、どう思うのでしょうか。被害者が同性でも異性でも、感情の揺れには差がないのでしょうか・・・

とにかく、ホモねたというのは、たとえそこにレイプがあろうと、虐待があろうと、私たち女性には関係のない世界なんですね。それが気楽といえば気楽なんです。
女性というものは、男性と互角に戦える腕力もなく、常にセクハラやレイプを警戒して暮らさねばならない存在です。べつに容姿端麗でもなく、もう三十を超えて、おまけに既婚者である私だって、もし夜道で後ろから男性が近づいてくるようなことがあると、本能的に恐ろしくなり、身構えてしまうでしょう。男は狼、幼い頃からそんなふうに教えられてきて、また、実際にそうとしか思えない事件が日常茶飯に起こっている世の中に、女性は生きています。これがどんなに疲れることか、男性には想像できないでしょう。だからこそ、少女漫画が描くホモの世界は、女にとっては格好の息抜きとなりうるんです。その世界にどっぷり感情移入することはできるけれども、女である自分は蚊帳の外、つまり安全地帯に立っているということを充分に意識したうえでの感情移入なんです。これほど刺激的かつ安全な設定はないでしょう。女性を主たる読者としている少女漫画に、ホモねたがあふれていても不思議ないのかもしれません。


デブケチ夫

バレンタインデーも過ぎてしまいましたね。
みなさま、収穫はいかがでしたか? こっちは最低でしたよ。

まぁ聞いてください。
私は人妻、ドキドキチョコあげて告白とか、そういうのからはもう遠ざかってるので、夫に義理チョコ。なんで義理かっていうと、ほんとはチョコなんか食べちゃいけないんですよ、うちの夫は。だって、太りすぎで血圧が高いんだから。医者に、「痩せたら治る」と言われて、いま、必死の減量中なんです。こういう事情もあって、チョコなんかあげないつもりだったんですけど、でも、赤やピンクのカラフルなチョコ売り場を通りかかったら、まぁ、気持ちの問題だから、と思いなおしたんですね。高級チョコが三つだけきれいに包装された小さな箱を買い求めました。仕事から帰ってきた夫は、もちろん、たいそう喜んでくれましたが、問題はここから。
なんとはなしに、「ホワイトデーって知ってる?」と言うと、美味しいなぁとも何とも言わず、ひたすらむしゃむしゃチョコをほおばりながら、「何も菓子屋の陰謀にノセられることはないやろ」ですって。まぁ、なんという身もフタもない言い草・・・・(-_-;)
そのうえ、みっつのチョコのうち、ひとつを私にくれるはずだったのに、その翌日の夜、冷蔵庫を覗いたら、もう箱ごとなくなってたんです。「なんでおいといてくれへんかったんよ!」と怒る私に、いけしゃあしゃあと「あんたがはよ食べへんし、僕お腹空いたから、食べてもた」と・・・・
ほんと、ちっちゃな一粒が百円以上もする高級チョコなんですよ。私だって味見したかったのに〜(-.-) お腹空いてるんなら、冷蔵庫にあった他のもの食べたっていいじゃないですか。ましてや、自分はダイエットしなきゃいけないくらい太ってるっていうんなら。その一粒が我慢できないなんて、ほんと、こんなに食い意地はってる人、見たことない。それで、私が「私も食べたかったのに」と愚痴ると、「あんなチョコ、今やったら、売れ残りが半額で買えるで」と・・・(-.-) そういう問題じゃないっ!!こんな人に高級チョコなんか買ってやった私がバカだったと思いましたよ。せいぜい百円の板チョコで充分だったんです。
そのうえ、まだ腹の立つことがあります。このまえ親戚にご不幸があって、彼がお葬式に出たんですが、その香典返しにデパートのカタログが届いたんですね。よくあるでしょ、最近は。そのカタログの中から、好きなものを選んで注文するようになってるんです。カタログを見ながら何にしようかと言ってると、夫いわく、「あんたの好きなものにし。それでもって、チョコのお返しにしとこう」と・・・・
よりにもよって葬式の香典返しですよ。それをホワイトデーのプレゼントとして流用する気?って私はまたまた眉間にしわを寄せて叫んでしまいましたね。言うに事欠いて、なんてケチくさい提案するんでしょう。つくづくあきれました、このどケチぶり。

・・・ぜんぶ、気持ちの問題でしょ、こういうのって。
私ね、この人がだいたいこういう人だって、わかってましたよ、わかってて結婚しましたけどね、今回ばかりはほんっとに頭にきましたね。人を何だと思ってんの。女心がまったくわかってない。釣った魚に餌はやらん、というつもりかしら。それならそれで、こっちにも考えがありますから(怒)。
ほんと、声を大にして言わせてもらいたいんですけど、
デブでケチって、最低!!

あーあ。くさくさする。もうこんなのうんざりです。
でも、腹ばかり立ててると人生の無駄。もっと楽しいこと考えねば!
そうだ。春になったら、もっとおしゃれしよう。私の生活に欠けているのは美ですよ、美。
結婚して以来、まともなワンピースひとつ買わないで、格好かまわず、すっかりババくさくなっちゃってたんです。だって、ちゃんとしても誰もほめてくれないし、それどころか夫ときたら、私がお化粧でもしようものなら、「あ、塗ってる塗ってる」って茶化すんですもん。あのねぇ、アンタはおかーさんにまとわりつく五歳児か。
今まで、夫が格好かまわない人で、シャツがすりきれてても平気な神経の持ち主で、しかも、それを捨てて、新しいのを買うと怒るという人だったから、私もそれに合わせてましたけど、もう嫌になりました。私だけおしゃれしてると二人で歩くとき変だと思ってましたけど、何も、二人で歩くときばかりじゃないんだから。私は私で快適なようにしよう。好きにさせてもらおう。二度と戻らない三十代を、こんなふうにケチケチ過ごすなんて、そのほうがもったいないじゃないですか。
おしゃれして少しずつ街に出よう。子離れじゃないけど、夫離れしなければ。欧米のカップルのように、いつもいつも二人でくっついていなくてもいいじゃないかと思う今日このごろです。

まだ結婚していないみなさんにご忠告いたします。
経済観念のしっかりした人とたんなるケチは違うんです。そこんとこはっきり見極めないと、結婚したあとの生活は悲惨ですよ〜。


どこか遠くへ

今日も大阪は快晴、暖かい小春日和です。

最近、どこか遠くへ行きたくてたまりません。
どこか海外へでも、数ヶ月から一年くらい、ぱーっと行ってきたいなぁって。
逃避願望ですね。
何から?
うーん、この単調な生活から。
単調で、何をやっても感謝されない生活から。

人の気持ちほど、あてにならないものってありませんね。
結婚する前は、「結婚できるだけで嬉しい」と言っていた夫なのに、最近では私の「できないこと」ばかりあげつらうようになりました。
たとえば「料理のレパートリーが少ない、美味しくない」とか。
そりゃ私、確かに料理は得意ではありませんが、それでも平均点は出せる程度だと思ってました。でも、夫にいわせれば、夫の友人の奥さん方のほうがずっと上手いそうです。でも、そんなの考えてみりゃ当たり前じゃないですか。私だって、お客さんが来るとなると、それなりに頑張って作りますよ。彼女らが普段はどんな食卓を用意しているか、そんなのわかるわけないでしょ。比べられたらたまりませんよ。
それに、私は食に関しては淡白なんです。夫のように、お腹一杯食べたあとも、まだ、テレビの料理番組を見て、「うわぁ、あんなん、いっぺんでええから食べてみたいなぁ」とか感動できるタイプじゃないんです。とくに、体調の良くない今は、食後に料理番組なんか見てるだけで気分が悪くなりそうです。自分がこんな調子なんだから、はりきって凝ったものを作ろうという気力も出ません。食にこだわる夫にしてみれば、それが非常に気に入らないようです。

洗濯だけはまめにするなぁと感心されていますが、しかし、夫にとっては「清潔な衣服を着る」ということは、人生のなかでさほど大切なことではないんです。なんとなれば、一週間ぐらい同じものを着たままでも平気なんですから。ゆえに、私のしていることは、実は「資源の無駄」であり、どうも「不必要な労働」らしい。毎回、夫が丸めたまま脱衣かごに放りこんでいる靴下をわざわざのばして洗っていても、そんなことは一顧だにされません。ここでも私は評価されていないのです。
毎日、テーブルのほこりを払い、じゅうたんには掃除機をかけていても、「あんたって、見た目だけはきれいにするけど、引出しのなかとかぐちゃぐちゃやないか」と言われてしまいます。確かに私は、そのへんの整理整頓が下手かもしれません。どうも、夫にしてみれば、髪の抜け毛が散乱し、ほこりのつもった部屋はなんとも思わないけれど、引出しのなかや押し入れのなかが整理されていないのは許せないらしい。でも、えらそうに言っている夫の部屋こそ、表面も中身もぐちゃぐちゃに見えるんですけどね、私には。せめて見える部分だけでもキレイにしようと努力してる私のほうがマシだと思いますよ。まぁ、でも、夫に評価されていないという事実は、この点でも変わりありません。

・・・いろいろ考えてると、虚しくなってきました。
あー、どこか遠くへ行きたい。
掲示板のほうで、心の隙間から一時の浮気に発展するような話をしていますが、まさに、こういう私の今の状態がそうなんでしょうね。心の隙間っていうか、不全感というか、虚無感。
でもまぁ、私は浮気なんかしませんよ。
だいたい、「有閑主婦の不満」→「浮気」なんて、あまりにも手垢がつきすぎた構図。プライドの高い私にはできません。それに、老いも若きも、男性はとかくそういったことには隙のある存在。だから、たんなる浮気ならいつでもできる。こちらがその気にさえなれば、相手なんかすぐに見つかる。
いつでもできると思うから、かえってそんなことには魅力がなくなるのかもしれません。

人の気持ちは勝手です。
子供が産まれるときは、無事に産まれてくれればそれだけでいい、などと本気で祈っていた親も、その子が育つにつれ、「もっと勉強の出来る子になってくれたら」とか「もっと可愛く生まれてきたら良かったのに」とか思うようになります。瓜のつるにナスビは成らぬというのに・・・
私としては、望まれて結婚し、平凡な主婦生活がしたかった。しかし、私も想像力がまだまだ貧困でした。
「あんたが何にもできんでもいい、僕がやったるから。結婚して一緒に住んでくれるだけでいい」と言っていたその夫が、いずれ次々に私のあら探しをしてみせ、あげく、主婦はのらくら手抜きしてても一日が終わって気楽でええよな、とうそぶくようになるなどということを、当初は考えもしなかったんですよね。
世の中は甘くないなぁとつくづく考えさせられるではありませんか。
私が何になれば夫は私を認めてくれるのでしょう。
彼の理想とする完璧な主婦になれば?
それとも、その価値を上回るほどのお金を稼いできたら?
ともあれ、私が私であるというだけでは、もう駄目なようです。


法隆寺

どこか遠くへ、じゃないけど、昨日の日曜日は夫とふたりで奈良の法隆寺へ行って来ました。大阪から法隆寺までは、奈良方面行きの大和路快速に乗って法隆寺駅で降り、そこから歩いて15〜20分です。
よく晴れていたけれど、風がけっこう強くて寒かったですね。で、行きはがんばって歩きましたが、帰りはタクシーで駅まで。

しかし法隆寺へ行ったの、何年ぶりかしら。恐らく、最後に行ってから十年はたってると思います。
その十年のあいだに、ずいぶん変わりましたね。たぶん、93年にユネスコの世界文化遺産のひとつに指定されたんで、そういう関係もあると思いますが、全体にきれいに整備されて、新しい立派な宝物殿などが建ち、でもって拝観料がべらぼうに高くなってました。ひとりなんと千円。えっ、ウソ〜っと思いましたよ。
中に入れば相変わらず人は少なくて閑散としていましたが、あちこち新しく手入れが行き届き、なんか近代的、商業主義的になってしまっていて、私は昔のいかにも浮世ばなれした閑そうなお寺って感じのほうがずっとよかったと思いました。少なくとも、日本最古のお寺っていう風情があった。今はなんだかそれが嘘くさくなっちゃって、ちょっとがっかりです。

斑鳩周辺の風景も、やっぱり変わっていて、どんなところでも少しずつ少しずつ都市化が進んで行くんだなぁと思いました。私としては、京都はいくら変わってもいいけど、奈良は変わって欲しくない気がします。京都のイメージはしたたかなんですよね。もとから商業主義的だし。上品におしろいを塗った顔のしたには蓮っ葉で打算的な素顔が隠れている女という感じ。でも、奈良ってもっと無防備なんですよ。だからこそ、その自然な素朴さっていうのは、容易に壊れてしまう。素直で無知な少女が、かえって簡単にヘンな男にひっかかって身を落としてしまうみたいにね。

そうそう、きのうは夫と出かけても、まあそうひどいケンカもせず、せいぜい小競り合いぐらいですみました。めずらしいことです。帰りの電車のなかでは、
「いやぁ、今日はあんたがヒステリーおこさんで、ほんまよかった」(夫)
「そやね、やっぱりあんたがしょーもないこと言ったりしたりせんかったからかな」(私)
などと言い合いながら、そろって平和に居眠りしていました。
夕ご飯は、もう歩き疲れて作るのがめんどくさくなったので、帰りに寄ったスーパーで出来合いのサンドウィッチやらサラダなど買って帰って食べました。いいのいいの、どうせ私は手抜き妻〜。
夫が、「これやったら野菜が足らんな」などと言って、キャベツの千切りを山ほど作ってました。キャベツの千切りでコールスローを作ることぐらいは夫でもできるんですよ。アメリカ生活のなかで学習しましたから。しかし、「疲れた妻をいたわってキャベツを切る、あー、僕って良き夫♪ なぁ、そう思わんか?」なんて自我自賛されたら、どう反応したらいいんでしょうねぇ(-_-;) 
ふと流しの前に立っている夫の足元を見ると、オコたんが床にぼろぼろと落ちたキャベツの切れ端をふみふみもてあそびながら、がじがじ齧ってました。あーあ、それ掃除するの、私なんだけど・・・・

しばし悠久の歴史ロマンにひたったあとは、すぐさま容赦なく今の「現実」が始まるのです。ああ、これが人生というものなのですね。ふむ。私にも、ありがたい御仏の教えというものが少しはのみこめてまいりました。色即是空、空即是色。そう、みなさま、一切は空なのです、無なのです。・・・合掌。



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