クリスマス・ブルー

オコたんを里子にもらってから、ちょうど一ヶ月が過ぎました。身体も大きくなって、イタズラにもますます磨きがかかってきた感じです。もー、人間はへとへとなんだけど(~_~;) 
いくらダメと言っても、ガスレンジや流し台のうえに登りたがるし、人間が何か食べていると必ずササッとすっとんできて、何でもふんふん匂いをかがないと気がすまないようだし。人間の食べてるものを分けてやることなど一切してないんですけど、いくら叱ってもそのいやしい癖がなおらない。なんでですかねぇ。キャットフードを出し惜しみしてるわけじゃなし、お腹が空いてるはずはないんだけど、こいつにしてみれば、人間だけが自分よりもっと美味しいものを食べているとでも思っているようです。ま、実際そうかもしれないんだけど(~_~;)

猫用缶詰食品、いわゆる猫缶に関して言えば、アメリカと日本では売ってるものがぜんぜん違いますね。アメリカでは総合栄養食(それだけで栄養のバランスがとれている)になっているものがほとんどでした。何かの肉に人工栄養素を混ぜたものが、ペースト状になっていたり、小さな角切り状になっていたりするんです。缶のラベルには、原材料にターキーだとかビーフを使っていると書いてあっても、それが一目見てわかるというものではない代物でした。ところが日本の猫缶は、ささみやマグロを加熱したものが、そのままフレーク状になって入っていて、まるで人間の食べるシーチキンの缶詰みたいです。実際、値段もそれくらいしますしね。これは総合栄養食ではないので、いわば嗜好品扱い。やはり食餌の基本はドライフードということです。ドライフードは、日米どちらも総合栄養食になってますが、そのフレーバーはというと、アメリカのはチキン味とかビーフ味など肉系のものが多かったのに対して、日本では圧倒的に魚風味なんですね。かつお味とかマグロ風味とか。猫には魚、これ実は日本人だけの思いこみらしいですが。
でも、ペットショップの棚をつらつら眺めて、日本の飼い猫のほうが食に関しては恵まれてるかもなぁと思いました。だって、「いわしのまるごと水煮」とか、けっこう人間でも食べたくなるようなものがたくさんあるんですもの。それなりに高いけれど。アメリカでは、こういうのはなかったですね。なんていうか、栄養的にはパーフェクトだと書いてはあるんだけど、なんだか美味しくなさそうっていうか、原材料が何かわかんないほど人工的に加工されたものばかり。いくら栄養素が全部そろっているからって、カロリーメイトみたいなのだけ食べて生きるのって、味気ないと思うんですよね。私が猫だったら、たまには「いわしの水煮」も食べたいと思うな・・・

さて、話は変わりますが、もうすぐクリスマスですね。
今年のイヴも、何の楽しいことが待っていそうにもない、やっぱりまた一人ですごすのかぁ・・・などと暗くなって、わざとバイトや仕事の予定など入れ、忙しさを装っている人もきっといると思います。それでも、街のあちこちから流れてくるクリスマスソングにふと虚しくなり、人にはさとられぬよう、隠れて長いため息をついてみる・・・なんで自分の人生ってこうなんだろう・・・
まぁ、そう悲観しないで。
そんな心境に陥っているのは、あなただけではありませんよ。
アメリカでも、クリスマスからお正月にかけて、自殺する人が増えるのだということを聞きました。
欧米では日本よりもっと、クリスマスというのは「家族団欒の聖なる日」という意味合いが強いですからね。日本のお正月みたいに、それはもうほとんど「こなさねばならないノルマ」みたいなもんです。クリスマスには、親類縁者、友人恋人、みんなこぞって集い、シャンペンの栓を抜き、うずたかく積み上げられたプレゼントの箱を開け、温かい皿の上の幸せを切り分けていなければならない、それがクリスマスのあるべき姿だという強制的なイメージがあります。そこで、しかるべき家族や恋人のいない人たちや、たとえ形ばかりの家族がいたとしても、もう壊れかけている人間関係を普段は義務的につなぎ合わせてなんとか暮らしている人たちにとっては、ことさらに己の孤独や、うそ寒い人生の現実と向き合わねばならない試練の日となるのです。クリスマス・ブルーとでもいうのでしょうか。自殺者が増えても何の不思議もありません。

ただね、幸せそうな隣人が憎たらしく見えても、家の中では何が起こっているか、本当には知るよしもないことですよ。たとえば、うちなんか、クリスマスだからって、特別なことは何もしないと思います。年代もののワインを開けるわけでなし、デパートでケーキを買ってくるわけでなし、着飾ってご馳走を食べに行くわけでもありません。もちろん、夫が勤め帰りに花束を買ってきてくれるなんてこともないでしょう。そんなことがあれば、天変地異の前兆以外のなにものでもありませんよ。
なにを隠そう、我が家では、それぞれの誕生日ですら、互いにプレゼントなど贈らないんです。
去年、結婚してはじめての私の誕生日のことでした。そのときは私の体調が悪くて大変だったというのもあって、美味しいものはあきらめるとしても、何かちょっとしたプレゼント、たとえばバラの花一輪でも買ってきてくれれば、どんなに心がなごんだことでしょう。
ところがうちの夫ときたら、なんにもしなかったんです。ほんとになんにも。
これがアメリカだったら、きっと離婚さわぎですよ(-.-)
でも、夫いわく「あんたの誕生日だってことは知ってた。忘れてたわけじゃない。でも、何を買ってやったらあんたが喜ぶか、わからんかった。あんたの好みはうるさいからな。余計なもんあげたら、かえって文句言われそうやし。欲しいものがあったら、自分で行って何でも買ってきたらええやん」と、こうなんです。
んー、べつに悪気はないんですよね。それはわかってます。ただ・・・ムードもないだけなんです(-_-;)
以来、うちは徹底した虚礼廃止(?)です。
もう、誕生日が嬉しい歳でもないし、プレゼントったって、どうせ財布は一緒だしね。買いたいものがあれば、買いたいときに買うって感じです。とくに今は、私の体調のせいで、「ご馳走を食べにいく」ということができないので、誕生日もクリスマスも、よけい味気ないものになってしまってます。体調さえ問題なければ、それこそ、ちょっと贅沢なものを食べにいくとか、小旅行に行くとかできると思うんですけど・・・

まぁ、世の中いろいろあるってことです。
私のように、一応マトモな夫もあって、とくに関係崩壊の危機にさらされているわけでもなく、金銭的にもごく普通、何不自由なく暮らしているように見えても、実際には、クリスマスやお正月だからといってムードよろしく花を飾り、「皿の上の幸せを切り分けて」、満足しきってそれをほおばっているわけではありません。
そんなもんだろうと思います。
絵に描いたようなハッピークリスマスなんて、どこにでもあるというものではないんですよ。
家々の窓には灯りがともっているかもしれない。でも、そのなかにはどんな生活があるか、私たちにはなかなか知ることができません。
腕を組んで笑いながら歩いている恋人たち。その胸のうちに、どんな虚しさや嘘が潜んでいるか、外からはうかがい知ることはできません。
クリスマスやお正月が近づくと憂鬱になる。どことなく疎外感を感じる。
キッチンでケーキの包みをほどいている母親たちの、カラオケでことさらに騒いでいる学生たちの、いったい何割が、笑顔の裏に寂しさを隠しているのでしょうか。
まったく、クリスマスというのは恐ろしい日です。
ほんとうに心満ちることとは何か、ということを、いつになく強制的に問いかけられる日なのですから。


風邪、ツタンカーメン

クリスマス・ブルーなどと書いていたら、ほんとうにブルーなクリスマスになってしまいました。
まず、よりにもよってイヴの日が夫の伯母にあたる方のお葬式になってしまったこと。
そして、私もそのお葬式に列席するはずだったのが、当日の朝になって、枕から頭が上がらない状態になってしまったんですよ、いきなり。
風邪でした。今年流行っているのは胃腸にくる風邪らしいですね。私も、どこがどうということもないのですがすごくしんどいし、何も食べられないし、しまいに関節が痛んで熱が出てくるし。仕方がないのでお葬式は欠席し、日曜でも診療をやっている救急病院へ駆け込んで、点滴を打ってもらう始末です。いやー、久々につらい思いしました。
ほんと、人ごみに出たわけでもなし、どこで風邪のウイルスをもらってきたのかわかりませんが、点滴と薬のおかげで、なんとかラクになれました。でも、まだ少ししんどいですけど。

私が風邪で寝ている間、退屈だろうからと、夫が山岸凉子の比較的最近のマンガ「ツタンカーメン」を全4巻買ってきてくれました。で、「これ、クリスマスプレゼントのかわりな」と。珍しいこともあるものだと思っていたら、「またあんたのホームページで『クリスマスプレゼントもなかった』とか書かれるから」とのこと。あっそう。そおゆーことね(~_~;)
ふとんに入りながら読みましたが、うーん、残念ながら私としては、あまり面白くなかったですね〜。
山岸ワールド独特の、「怨念じみた情の濃さ」みたいなものがなかったからです。ツタンカーメン発掘の様子が、時代を追ってけっこう淡々と描かれていて、あっさりしたもんだな、という感じ。どこかの文部省推薦のマンガみたい(~_~;)
「息詰まる狂気じみた情念」ばかり描いていたら、作者のほうもやっぱり飽きるだろうし、たまには方向転換したいという気持ちもわからないでもないですが、やっぱり、この作者の独壇場はそこにあると思います。それに、それでこそ、こちらの期待も満たされるというもの。「日出処の天子」の頃から数えるともう二十年ちかくたちます。ずいぶん絵柄も変わってきたように思いますが、この人にはもっともっと暗い怨念を描き続けて欲しいものです。才能があるんだもの。
ちなみに、「小説を書く私」ということを考えると、私自身には無理ですね。いくら、暗い情念をシリアスに、と思っていても、どこかオマヌケというか、分析的というか、「シリアスになりきれない、まりねこな部分」がでてきてしまいます。そのあたり、同じ恋愛小説を書いても、マルグリット・デュラスとは違うということです(比べるだに畏れ多い)。デュラスもエミリー・ブロンテも「情念の作家」で、すごく好きなんですが、私にはとうてい真似できない作風だなあと思います。いや、本質的な技量の差はさておいて、ね。

来年は、私も、ちゃんとした小説を一本書いてみたいと思っています。
じつは、もう「こういう感じ」というスケッチみたいなのはあるんですが、細部を詰めていかないと。
出来あがったら、もちろんそれは懸賞に出すつもり(^^)
まぁ、まだまだどうなるかわかりませんが、やってみたいと思っています。今ごろ来年のことなど言うと、鬼が笑うといいますけどね(^^)


死に行くとき

先日の風邪ですが、異常にしんどかったですね。熱は高くないにもかかわらず、頭痛がして関節がぴりぴり痛むし、喉が痛むわけでなく、鼻水や咳がでるわけでもないのに、なんかこう、全身が「しんどい!!」という感じなんです。だるいとかじゃなくて、もっともっと積極的なしんどさ。頭痛以外に軽い胃痛と吐き気もあって、横になっても起き上がっても、どうしようもなくつらい。ちょっと言葉で表せないですね、いままでこんな風邪の症状に見舞われたことなかったので。まぁ、こういう風邪もあったのか、という感じです。
で、そのとき考えたんですが、病で死んでいくって、こういうことなのかなぁって。(いや、新世紀も始まろうとしているのに、縁起でもない話ですみません。でも、お正月からする話でもないので、いまのうちにと・・・~_~;) 人間って事故や災害で突然死ぬ以外は、みんな年老いて、たいていは病気にかかって死んでいくわけですが、そのときのしんどさをちょっぴり先取りしたような気がしました(大袈裟?)。まぁ、病気になったタイミングも、お葬式に行くというその日のことでしたからね。なんか、死について考えてしまったわけです。

病に臥せっていると、たいていしんどくてつらくて、でも普通は誰でも、頑張って治そう、また元気に歩けるようになろうと思うんですが、死に向かっているときは、そうやって耐えていても、一進一退を繰り返しながらだんだん状態が悪くなっていき、まさに壮絶な「闘病」という感じになってくるんですね。そういうぎりぎりのところでは、もう本人の気力だけだと思うんです。
よくあるじゃないですか、人が末期ガンなんかを患っていて、医者はとうにさじを投げているんだけど、本人の生きる闘志というか、意志の力がすごくて、それだけでもっている、といったような話が。「普通なら、とうに亡くなっているんですけどねぇ」って周りがびっくりする。そんな話あるでしょ。えてして、心臓が丈夫な人はなかなか死なないとかいいますが、まぁそんなこともあるけれど、「その瞬間」には、やはり本人の気力の問題が大きいんじゃないでしょうか。

昔から、宗教やオカルトでは、肉体以外に魂とか気とか呼ばれるものがあって、死ぬということは、人がその自意識を魂とか気とかいうもので保ったまま、自らの肉体を離れて行くことである、というイメージをつくりあげてきたんですが、私には、人が自意識を保ったまま、つまり、自分が自分であると認識を持ったまま、魂やら気の身体をもって死後も存続するのかどうか、それはわかりません。そんなものは何もなくても、つまり、死後は全部、灰になって終わり、それでもかまわないと思っています。けれども、病で死んで行くそのとき、その瞬間、人がどういう意識をもっているかというのは、すごく重要なことじゃないかと思いますね。客観的証拠はないけれど、なんとなく直感的に。
ここで手放したらもう終わりだな、という感じ、そういうのがあると想像してるんです。死に行くときには。「ここで踏みとどまらねば、もう死ぬのだ」という感じが、その最後のぎりぎりの瞬間には、わかるんだと。周りの人にとっては、本人はモルヒネで朦朧となっていて意識などないと見えるかもしれませんが、死に至る時間軸のどこかで、そういう「生死の駆け引き」とも言える段階があるのだと思えてなりません。駆け引きをする主体は、「私」という人間らしい自意識でなく、もっと根源的な生物としての意識、生への自然な欲求、本能のようなものかもしれませんが、とにかく、本人のどこかで、その瞬間、「死ぬな」とわかる感じがある、そんな気がします。そして、最後の段階は人それぞれで、もう何もわからなくなって自意識などふっとび、「生きる!」という「生命の本能」に従うが結果的に力尽きる場合もあれば、自意識を半ば保ったまま、「自分はもう死ぬんだ」と選択し、自ら生きるのをやめる場合もあると想像するんです。
生死の駆け引き。
これは、私自身の願望かもしれません。
自意識のなにもかも投げ出して、生物の本能に身をゆだね、最後の最後まで全力で戦うより、それ以前のある時点で、意識的に「人間らしく」迫り来る死を受け入れたい、という願望です。
そのほうが、ラクなんじゃないかと思うからです。最後まで生にしがみついて戦うよりはね。
ですから、私は自らの意志による安楽死(尊厳死)を否定しません。それどころか、自分がもしその立場になったら、意識がしっかりしているうちに安楽死を選びたいとすら思います。もちろん、現在の社会では、倫理的にも法的にも、まだ議論の尽くされていないことですが・・・

死ぬといっても、交通事故などで即死する場合、よほどラクみたいですね。
うちの父がひとりで運転していて対物事故を起こしたときに聞いたのですが、「あっ」と思った瞬間にはもう意識が飛んでいた、そのまま数分、痛いも何もない、何ひとつわからなかった、ということです。幸い、そのときはたんなる脳震盪で、生命に別状はなかったんですが、もし父の言うとおりだとすると、不測の事態による即死とは、ほんとうに「あっ」という間に意識をなくして死ぬことだと想像できますから、しんどさという面で考えれば、最も幸運な死に方かもしれません。

過去、一世を風靡したエリザベス・キューブラー・ロスの「死ぬ瞬間」で書かれていたようなものが、人の死であったら、どんなにいいでしょう。
手の中につかまえている蝶をそっと逃がすように、「その瞬間」肩の力を抜いて、自分の肉体を自らの意志で脱ぎ捨てられるならば、どんなにラクか。もちろん、患者はそれまでにさんざんしんどい思いをして戦うんですが。戦いに戦った挙句、それを手放すんですが・・・
まぁ、私の場合たかが風邪にすぎませんが、ひどくつらい思いをして、そんなことをぼんやり考えていました。このしんどさがだんだん大きくなるような事態になり、もう耐えきれないと思ったとき、ある人々は自ら生きることを放棄するのではないかと。それが、その瞬間がわかるのではないかと。
・・・やはり、私の願望でしょうか。みなさまはどう思われますか。


新世紀はじまる

みなさま、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。
さて、もう2001年、新世紀といっても、なんだかいまひとつピンと来ないですね。テレビや新聞はそういう企画モノばかりでしたが。去年のほうが緊迫感がありましたよね、Y2K問題で。2000年という区切りで、花火やなんかも派手に打ち上げてましたし。それに比べて、今年はずっと地味な印象の年明けでした。

私自身のお正月は、いつものごとく、べつにとりたてて変わったこともなかったです。実家でおせちを食べ、あとはDVDで映画をひとつ見て、三日には京都の南座でお芝居を見ました。
DVDはいいですね。やっぱりビデオより画像がきれいだし、字幕などが日本語と英語とか選べるので、語学学習にも向いてると思いますよ。今回、私たちが見たのは、1999年製作の「ハムナプトラ〜失われた砂漠の都〜」です。感想は、うーん・・・正直、もう飽きたって感じですかね、この手のストーリー。メインはロマンスと冒険、そこに古代文明だの、呪いだの、ちょっとしたオカルト趣味が加わってる。ミイラや砂漠などの映像技術には凝ってるけれど、本格的に怖いシーンがあるわけじゃないし、ホラーじゃなくて単なる娯楽作品ですね。それもB級。初めは反発しあっていたヒーローとヒロインが、いろいろな困難を見事に乗り越えるうち、最後にはお互いに好意を抱き合ってハッピーエンド、これも見飽きたパターン。もう最初から、そういう筋が全部見えちゃってるので、途中、ぜんぜん意外性はありません。見ていてちっともドキドキハラハラする作品ではないですね。それでもこの夏には続編がでるというんですから、世の中平和というか、なんというか。

南座にお芝居を見にいったのは、たまたまタダ券が手に入ったからです。本当ならその席は一万円以上するんですけど、タダだから気楽なもんです。メインの出し物は忠臣蔵からの一幕。
普段、お芝居なんか見に行ったりしないもので、ものめずらしさで行きましたが、これから先、一万円以上も出してああいうものを見に行くことって・・・たぶんないでしょうねぇ。思い起こせば、ウィーンでオペラも見たけれど、趣味として続けて見に行きたい、というものではなかったような。まぁ、あとは、バレエとか歌舞伎、能舞台とかも、いっぺんは見ておきたいものではあるけれど、定着した趣味になるかは疑問。ああいうのって、きっと観るより演じるほうが楽しいんじゃないかしら。「踊るアホウに観るアホウ、同じアホなら踊らにゃソンソン♪」じゃないですが、舞台は眺めるよりその上に立つほうが何倍も面白いと思いました。

そうそう、オコたんは相も変わらずイタズラばかりして叱られています(~_~;)
ほんと、朝から晩まで、食べてるときと寝てるとき以外は、じっとしてませんよ。最近はステレオのスピーカーのうえがお気に入りで、そこに登っては窓から外を眺めたり、日向ぼっこしたりしています。
「おせち」として「まるごといわしの水煮」をあげようかと思いましたが、猫には新世紀も正月も関係ないですもんね(^^) あまり贅沢を覚えさせると、ダメなんですよ。ドライフードを食べなくなってしまうんです。今も、ドライだけだと、よほどお腹が空いているとき以外は、すぐには食べません。食べ物の皿に前足で砂をかける真似をして、さっさと行ってしまいます。ドライフードに缶詰のマグロフレークなど混ぜてやると、飛びついて食べるのに・・・。ほんとは缶詰よりドライのほうが、歯などにもいいそうなんですけど。
こんなワガママな猫になったのはおまえが甘やかしてるから、と夫に言われてしまいました。でもねぇ、そんなに贅沢させてないんですよ。まぁ、外へも行けないし、友達もいないし、親兄弟から離されて来て不憫だから、食べることぐらいは満足させてあげたいんですけどね。


子育て

今週の前半は、夫が仙台へ出張してました。で、帰ってくると、なんとまあ珍しいことに、「おみやげ」だと言って小さな袋をわたすんです。ひゃー、この人も成長したなぁ、まぁ多分A先生と一緒に行ってるから、先生の行動を見て影響されたんだろうけど、とか思いつつも、なんとなく嬉しく、いそいそと中を開けてみると、そこには小さな笹カマボコがふたつ。チーズ入りとサラミ入りの燻製笹カマボコ。
ははん、なるほどね、と思いましたよ(-.-)
私へのみやげというより、ビールのあてに「自分が」食べたかったのに違いありません。
夫はそういうものが好きですから。チーズ入りチクワとか、するめとか、そう言うたぐいのものがね。 
ああ、すれ違い夫婦。

ところで、オコリーはいよいよ我が家の問題児と化してきました(~_~;)
人が何か食べていると、それがアイスクリームだろうとヨーグルトだろうと、ささっと走り寄ってきてにゃあにゃあうるさくねだる(もちろんあげません)、いくら叱っても食卓の上にのぼるのをやめない、爪とぎはじゅうたんのうえでバリバリやる、挙句には私が夕食の支度をしているあいだじゅう、食卓のうえに用意してある食べ物を狙っている始末。キャットフードは充分にあげているし、お腹が空いているわけではないけれど、たぶん好奇心が強すぎるんですよね。
あと、遊びでこちらの手足を噛む。これが痛い〜。飼い犬に手を噛まれる、ならぬ「飼い猫に手を噛まれる」状態です。とびかかって本気で噛むんですからねぇ。こっちもそうそう甘い顔もしていられず、「ダメ!」ときつく言って乱暴に振り放し、無視するんですが、本人は平気の平左。しつこく噛みにきます。
猫に体罰を加えても、しつけの効果が期待できないどころか、猫との関係が悪化するだけだと、どの飼育書にも書いてあるので、叩くことはしませんが、ほんとに痛いときは、オコリーのほっぺたをギュウとつねって、思いっきり「痛い!!」と叫んでます。噛まれると痛いんだということを身をもってわかってもらうために(本来、こういうことは兄弟どうしで学習することなんですが、一人っ子だと人間が教えてやるしかない)。でも、半端な迫力じゃダメなんですよね。猫は臆病で、大声などで脅かされるのがキライ、と飼育書にはあるんですが、うちのオコリーときたら怖いもの知らずなのか、たんにバカなのか、こちらがよほど真剣に怒らないと、「叱られている」という実感がないみたい。はー。疲れます(-_-;)

思えばこんなはずじゃなかった。
オコリーをもらう前は、何冊かの飼育書を隅から隅まで読んで、こっちは準備OK、「まかせて!」という気分でしたが、いざ育ててみると、必ずしも飼育書通りにはいかないことが多いんですもの。
「爪とぎ器に猫の前足をのせて、爪をとぐ真似をさせてみましょう。たいていの猫にはそれが爪とぎ器であることがわかります。マタタビを利用してもいいでしょう」とあるんですが、うちのオコリーはぜんぜんわかってないみたい。マタタビ粉末をつけても、効果無し。オコリーときたら、飼育書の言う「たいていの猫」の中に入ってないんですよ。ダメと言われようが、制止されようが、寝て起きると必ずじゅうたんでバリバリ(-_-;)
もー、こうなりゃ、「うちのじゅうたんは猫の爪とぎ器を兼ねる」とでも発想を転換させなければ、やってられません。被害を最小限に食い止めるために、オコリーの爪の先は定期的に切ってあります。

猫一匹でこんなに大変なんだから、人の子を育てるには、その何百倍ものエネルギーが必要ですよね。
おりしも先日の成人式では、一部若者の振る舞いが大きなひんしゅくを買いました。あの青年たちにも親がいて、だからこそ値の張る晴れ着姿で会場に来ているのだろうに、いったい親はどういう育て方をしたんだ、と言いたくもなりますが、親自身も「こんなはずじゃなかった」と思っているのかもしれません。
たいていの親は、自分の子が生まれたときには喜んで、将来への夢を描きながら、どんな息子、どんな娘に成長するんだろう、とわくわくしながら育てはじめたはずでしょうに・・・

オコリーは単純です。いくらこちらが叱りとばして邪険にしても、おもちゃのねずみひとつ、煮干一匹のおやつで機嫌が直ります。昼寝のときには必ずすりよってきて、膝のうえで丸くなります。外出して帰ってくると、必ず飛び起きてまとわりついてきます。ご飯を食べたあとには、にゃーにゃー鳴いて抱っこをせがみます。無邪気なもんです。
こいつには、なんといっても私たちしかいないから。
私たちを信頼し、ご飯をもらって寝させてもらうしかないから。
この世界の外へはどこへ行くこともできず、常に私たちの庇護のもとに生きるしかないから。
でも、人の子は違う。ごく幼い時を除けば、何らかのかたちで社会とかかわって生きることになる。関わってくるすべてのものから影響を受けるそのぶん、子育ても、親だけのものではなくなってしまいます。
複雑ですね。
恥知らずな行動をして、親の顔に泥を塗る子供と、その子を産み育てた親。
どちらにより同情すればよいのでしょうか。私にはわかりかねます。


哲学モード

毎日寒いですねぇ。
こういう時期って、できるだけ外に出たくないですね。人ごみで風邪のウィルスをもらってきてしまうと馬鹿馬鹿しいので、バーゲンにも行きません。食料品や日用品の買い出し以外は、近所の図書館で本を借り、ひたすら家にこもって読書三昧の日々です。いろいろ読んでますが、面白かったものについては、またそのうち書評のコーナーでご紹介したいと思います。

さて、このところ、「自分はこの先いったい何をすべきか」ということばかり考えています。
で、いつになく悲壮な哲学モードに入ってます。
何と言っても人生の盛りといっていい歳なんですからね。今走らなくていつ?という気分でいっぱいなんです。あてのない焦燥感と言ってもいいでしょう。でも、体調はいまひとつすぐれずだし、第一、何をどうしたら「生きている確かな実感」がつかめるのか、それさえも定かではないまま。ぐずぐずと考えてばかりで行動できない自分に、そろそろ苛立ち、自己嫌悪の情まで湧き起こってくる始末。
人生思い通りばかりにはいきません。
誰も私を助けてはくれません。こればかりはね・・・

この寒いなか、どこへも行きたくない私ですが、ひとつだけ行きたい場所があります。
私が七つから十五までを過ごした街です。私は中学を卒業と同時に引越したので、それは隣の市なんですが、なぜか、私は自分が気弱になったり道に迷って答えが出せなくなると、その街へ行って、かつて通った通学路をもう一度歩き、昔、住んでいた場所をあてもなくぐるぐると散歩してみたくなるんです。めったにないことですけどね。もちろん、街の様子はあちこちが変わっています。それでも、ごく小さな街ですから、駅の周辺を離れれば、今も当時のたたずまいがそのままに残っています。なぜそんなことをしたくなるのかはよくわかりませんが、たぶん、前向きに生きていくエネルギーをチャージしたいということじゃないでしょうか。
中学生ぐらいの思春期って、自分がどんどん外的にも内的にも変貌していく過程にあるでしょう? 人間としての原型が形作られる時期だと思うんですね。損も得もない、一番ピュアな自分のコア(核)が、夢を見ているように曖昧に暮らした子供時代を食い破って、だんだんに表に出てくる。自分でも持て余すくらいの原始的なエネルギーとともに。この野性味、損も得もない、ただ「生きる!」という実感を思い出したいんですね。
物事がどうしようもなく煮詰まってしまったと感じるとき、それはたんに、自分の計算に縛られている場合が多いものだから。目先の損得を離れて、ただ、「I want」の状態に戻りたい、その感覚を思い出し、生きるエネルギーをチャージしたい。だから私は、あの街を歩きに行くんだろうと思います。

ところで、先日、私の学生時代からの友人と、電話でいろいろ喋っていました。彼女はもうとっくに一児の母になっている人ですが、「このまま、もう恋愛感情とかそういうものにわずらわされることなく、人生を穏やかに生きていけたらいいな」と言うんです。まぁ、まだ三十代なかばで、何と悟りきったようなことを言うようになったんでしょう。うーん、この安定志向。子供がいる、いないの違いなのでしょうか。
あのねー、私たちがほんとに年寄りになるまであとまだ二、三十年はあるのに、その間ずっと、何の変化もなく平穏に暮らせるとでも思ってんの、と言いましたよ。この先、何があるか、わからないじゃないですか。子供が手をはなれてパート勤めを始めたら、そこの上司にビビッときてしまった、などということも充分ありそうな話でしょ。逆に、ダンナのほうが浮気するかもしれないし。
人生とか運とかいうものは、人間がこうあって欲しいと思い、その通りになるほど、単純なものではないですよね。思いがけないときに、思いがけないことが起こるものなんです。予期せぬ不運に遭遇するのは誰しも嫌ですが、それでも、そのことが最終的にどんな結末につながっていくか、それは予測できません。それでこそ生きる妙味もあるというものではありませんか。
べつに、不倫したいとか恋愛に走りたいというわけではありませんが、今日も明日もずっと一緒、「何もない穏やかな人生」が死ぬまで続くなんて、私には退屈でたまらないと思うんですけど。
平穏さというのは、ナマモノ。いつまでも手に持っていると、腐り出すので要注意です。現に私を見てください。帰国以来、平平凡凡たる毎日を送りすぎたあまり、哲学モードに頭から突っ込み、考えなくてもいいようなことを考えては、ためいきばかりついているんですから。


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