ウツになる私

このところ、気分がウツウツと晴れない日が続き、自分でも困っています。
遠いアメリカから住み慣れた我が家に帰って来て、可愛い仔猫ももらったというのに、なぜか心の半分はいつも、悲しいような、孤独なような。ほんと、世情にも何にも関心が持てない。
日本に帰ったらいろいろ本が読みたいと、あれほど思っていたのに、いざ図書館で借りてきても猫関係の本以外は、数ページほど字面を追っては閉じるということを繰り返しています。
ニュースもワイドショーも、なんだか馬鹿馬鹿しく見えて虚しい。何も面白くないんですよ。
で、キレやすい。
ふだんから激しやすい性格なんですが、このところ、異常にキレやすくなってますね。テンションが高いというか。神経が糸みたいに細くなってる。
自分でもわかりますよ、あ、キレるなって瞬間は。でも、止められない。
何にキレるかっていうと、ほんのささいなことだったりするんですけど。

たとえば、このまえ夫と二人で、近くのスーパーのペット用品売り場に行ったんです。オコリーのために、キャリーケースを買おうかなと思って。キャリーケースってのは、犬や猫を持ち運ぶためのバスケットです。猫用のは何種類かあって、どれも、プラスチック製で三千円前後だったんですが、どれにしようかなと言っている私の隣で、夫が、「なんでこんなチャチなもんがこんなに高いねん。ペット用ってだけで高くしてるんとちゃう? こんなん、ただの手籠にフタつけただけのもんやないか。これくらい僕がつくったるわ」と言い出しました。
さぁ、私はそれでもうムッときてしまいましたね。
そんなに簡単にできるもんなら、私だってつくってる。でも、結局つくるにしたってこれぐらいの工作費はかかるだろうから、ここでそれなりに専用につくってある既製品を買ったほうが、結局は合理的だと思ったんですよ。
ちょっと言い合いになりましたが、ともかく、オコリーはまだ小さいから、今度ワクチンを打ちに病院に連れて行くとしても、私の持っているビニール布のバッグでじゅうぶん間に合うだろう、キャリーケースなんて病院に連れて行くとき以外、ふだんから使うものじゃないんだから、もう少し大きくなってから買ってもいいなどと言いながら、その場を離れたんです。
それから夫の好きなオモチャ売り場にぶらぶら行きました。夫は昔から子供のオモチャが大好きらしいんですよ。私は子供のオモチャ売り場なんて、ガチャガチャしてて、しかも時にはうるさい子供がきーきーと走り回ってて、一人なら絶対に近寄らない場所なんですが、まぁ夫の趣味ですから付いて行くこともあるんです。そしたら、あのロボット犬アイボの廉価版みたいなのがたくさん売ってました。だいたい四、五千円ぐらいでね。私は、ホンモノの動物に触る機会もなくこんなロボットを相手に育つ子供が増えたら世も末だと思いながら見てましたけど、夫はそれが面白いと気に入ったようなんです。「うわー、これええなぁ。買ってもいい?」って。
そこで、なんだかしらないけどモヤモヤしていた気持ちがぶちキレましたね。
あんたは、オコリーが何年も使えるようなキャリーケースを買うのに三千円ぽっち出すのがもったいないくせに、こんなチャチなクソロボット犬(あら失礼)に五千円出せるのかって。

みみっちい話ですみません。
いや、べつに、うちが数千円さえ自由にできない経済環境にあるわけじゃありません。そういう問題じゃないんですよね。お金の問題じゃないんです。なんていうかなぁ・・・価値観の問題ですかね。
結局、そのあと二時間ぐらい夫婦ゲンカしてました。
ケンカっていうか、私のほうは、なんか無性に腹立たしくて、悲しくなってしまったんです。
で、そのとき、そういえばと思い出したんですが、テレビだって冷蔵庫だって、この人と結婚したとき新調したのでなくて、私がもとから持ってたのを使ってるんですよ。それは買った当時はけっこういいものだったんですが、何しろ十年前のものだから、もう古くなって、テレビなんかときどき雑音が入るんですよね。でも、私はあんまりテレビ見ないし、それでもいいやと思ってきたんですが、最近は画面がフラットなものが主流ですよね? 映りもいいし、買い替えたいなぁと思うんだけど、夫にしてみれば「まだ使えるやん。修理すれば。古いってことは買い換える理由にはならん」の一言。
そーゆーことじゃなくて、私はあのテレビが欲しいんですよ。でも、夫にしてみれば、修理すれば使えるものを新しく買うなんて愚の骨頂、そのテレビにかける数万円がもったいない、私の物欲が強すぎる、と思ってるみたいなんです。私にしてみれば、わざわざ古いテレビの修理にかける二万円のほうがよほどもったいないんですけど。テレビなどの電化製品なんて、古くなったから価値があがるってもんじゃないでしょ? 逆でしょ、むしろ。
それから、物欲の権化みたいに言われるのも心外でしたね。
私は、親元に住んでた独身のバブル期には、スーツ一着に数万円なんて普通だと思ってました。そんなの、おしゃれしたい盛りの独身女性にとっては当たり前でしょ? 化粧品だって月々最低でも数千円。数万円するアクセサリーだってブランドもののバッグだって、人並みにいろいろ欲しいので、自分の自由になるお金の範囲内で買ってました。贅沢してたとは思ってないし、むしろ、私のお金の使い方なんか、昔も今もぜんぜん派手なほうではないと思います。普通ですよ、似たような境遇の女性たちと比べたら。
もちろんいまでは考え方も変わってきましたけどね。毎年変わる流行に合わせて着るものにお金をかけるくらいなら、普段の生活の質を高めるものにお金をかけたいと思うようになったんです。でも。それを単なる物欲と言われてしまったら。数万円にも困るような生活をしているなら話はべつだけど、子供もいないし借金もなく、とりたてて何を贅沢しているわけでなし、洗いざらしのジーンズを穿いてはいても、じゅうぶんゆとりのある経済状況にある。それでも、十年たって映りも悪く雑音が入るようになった古いテレビを買い換えたいっていうのが、そんなに欲深いことなんですか?
私にはわかんないですね。
もう、私はこの人と一緒に生活を続けながら、この先、三、四十年は生きるとして、その間、どんどん古く、みすぼらしくなっていくモノたちに囲まれて、「買い換えたいなぁ、何で買い換えられないんだろ、お金ならあるのに」と思いつつイライラと一生を過ごすのだろうか? うちの夫って、実は貯めたお金を最後の最後まで壷に抱いたまま死んでいくタイプの人だったのだろうか? と思ったら、「私の人生はどうなってしまうの?!」って叫びたくなったことです。ケンカしているとき、それはそれは暗く悲嘆にくれていました。自分のこれからの生活がすすけて冷たい灰色になってしまったような、そんな気持ちがしてました。お金よりもったいないのは、どんどんなくなっていく人生の時間でしょ? それをどうやって満ち足りた気持ちで生きるかということでしょ、大事なのは。

いや、ほんとに今日はみみっちくも愚痴っぽい話ですみません。
まぁ、一気に険悪なムードになった私はオモチャ売り場の前のベンチに夫と共に座り込んで、二時間ぐらい、あーでもないこーでもないとやりあってました。で、キャリーケースの件もテレビのことも、こうしようって結果的には納得したんですけどね。
夫には、「もっと僕を信じて欲しい。なんで僕が金を壷に抱いたまま死なんとあかんねん。僕があんたに何か悪いようにしたことあったか?」とさんざん言われましたが、いま、精神状態の悪い私にしてみれば、ひとつふたつのしょうもない出来事で、にわかに妄想が広がるんですよ。ささいな「もしかして?」が、たちまち確信に満ちた「やっぱり!!」に変わり、そこからひとりでに話が出来上がっていくんです。そんなささいなこと、と、もし夫が取り合わないでいると、やがて、「もうこうなった以上は・・・」と思いつめた挙げ句、やけになって変なことをし始めるかもしれない。家出とか浮気とか。家計を使い込んでの浪費とか・・・
男性は気にしないのかもしれませんが、ありますよね、夫婦間の温度差って。だいたいにおいて、ウチに限らず、暴走しやすいのは妻のほうだと思いますけど。どういうわけか男の人は、ケンカしたときも「これくらいのすれ違いは何でもない」って放置しがち。でも、女性はそこから自分のなかだけでどんどん話が膨らんでいく。そういえば、あのときもこうだった、とか過去のことまでひっぱりだしてね。この男と女の温度差。みなさん、経験ないですか? とにかくウチはいつもこのパターンですね。

まー、普段なら、いくら私が激しやすいといってもそこまででもないのに、ここんとこほんとアブナイです。
アメリカから帰って一段落ついて、だんだん危なくなってきた感がありますね。
きっと自分で思う以上にストレスがたまってるんだと思います。
日本に帰ってきてみれば、買い物に行けば何でも高いし、商品は少ないし、アメリカで気に入って買っていたものは望んでも手に入らないし。車はないし。乾燥機はないし。ケーブルもないのでネットサーフィンも時間を気にしながら。しかも画像が開くのが恐ろしく遅いのでまたイライラ。夫ときたら朝は新聞を読みながらろくろく物も言わずに朝食をとると、そそくさと出かけてしまうし、大学の雑務に忙殺されてか、夜遅くまで帰って来ないので、私ひとり侘しく夕食をとることも。で、やっと帰ってきたと思ったらまた夕刊を読みながら夕食を手早くかきこんで、テレビニュースや愚にもつかないバラエティ番組(あら失礼)を見て、ゆっくり話す暇もなく寝てしまう・・・なんか虚しいんですよね。アメリカに行くまえもこんな生活だったのかな? また昔に戻っただけなのかな? これが現実、そう自分に言い聞かせても、なんか虚しい。
そんなの普通でしょ、もっと忙しい人だっているし、この不景気に公務員の妻がなに贅沢言ってるんだと言われればそうでしょう。そんなの暇人のワガママ病、そう言われても仕方ないでしょう。でも、どうしても、気楽で時間的なゆとりと豊かさがあったアメリカ生活と比較しちゃうんですよね・・・

はっきりいって、帰国してから生活のクォリティというか、レベルはけっこうダウンしたと思います。そんな感じがします。でもそれが、こんなにもストレスフルだとは思ってませんでした。人間、いったんゆとりのある暮らしに慣れると駄目ですね。それがなくなると想像以上にこたえますよ。アメリカでは、もっともっと夫にも時間的なゆとりがあったし、住環境にも、生活のこまごましたことも、すべてにおいてゆとりがあったよなぁと思い出しては、懐かしさに涙さえにじんでくる始末。冴えないと思ってたリバモア暮らしですが、実はこの現在の生活と比べると、ずっと余裕があったんだって、今になって思い知りました。夫婦の関係だって、異国では、なんだかんだいっても二人で協力し合わなきゃ、この一年を乗り切らなきゃという気持ちでいたと思います。そりゃ時々ケンカもしましたけど、やっぱり今よりはお互いに向き合って暮らしてたと思います。知らない環境に対する心細さがそうさせてた部分があると思いますね。でも、日本に帰ってきたら、夫のほうは、苦手な英会話や、ややこしい手続きとはほとんど縁が切れたことだし、慣れた職場に舞い戻ってのびのび、私の協力や存在なん て、さほど気にかける必要もなくなったようです。夫いわく、
「あんなアメリカの生活がよかったかぁ? うっそー、僕は今のほうがいい。あんたなぁ、何が気に入らんのか知らんけど、しょうもないことですぐ怒ったりキレたりせんと、何か自分が楽しめることしたら?」
またしても夫婦間でこの温度差・・・
夫の言ってることはもっともかもしれないけど、なんだかなぁ(ため息)・・・やっぱウツになりますよ。
いつこの気分が晴れてくることやら。まぁ、当分、家内安全とはいかないでしょうね。


突破口

我が家のオコリー。最近では「オコたん」と呼んでいます(~_~;)
元気で、よく食べよく眠るし、粗相はしないし、夜も鳴かなくなったし、まぁそれはいいんですが、なにしろやんちゃで困ってます。人の手足やスカートの裾などにじゃれついて爪を立てたり噛みつくんですよ。おかげで私はジーンズとトレーナーという格好しかできないし、食事をしていると足元から膝の上まで無理矢理よじ登ってくるので、ゆっくり食事もできない有り様。ったく落ち着きがないやつです。人の膝や肩に乗っかるのが好きなんですよね。噛みつかれそうになると、おもちゃなどで気をそらすんですが、やっぱり人間の手足にじゃれるほうが面白いみたい。で、人が何かしていると、自分もかまってもらおうと、どこへでも後をくっついてきてちょっかいを出してくる。可愛いのは可愛いんだけど、引っ掻かれたり噛まれたりすると半端じゃなく痛い〜(T_T)  おとといは、なんと私のパソコンにつないであった電話線を噛み千切られてしまいました。まさかそこまでと思ってましたけど、細くて薄いコードだったので、あの小さな歯でも噛み切れたんでしょうね。そう思って、少し太いものに変えましたが。
まだうちに来て二週間なのに、よく食べるようになったし、飛び乗れなかったソファの背に飛び乗ることができるようになったり、猫じゃらしに飛びつくスピードが以前より速くなったりと、やっぱり少しずつ成長してるのかなーと思いますね。それとも、遊んでやって鍛えてるから出来るようになったのかな?
このまま、あまりハードに遊んでやってると、もっと鍛えられて、成長とともに収拾がつかなくなるんじゃないかと恐れている私です(~_~;)

さて、ウツな気分ですが、まだあまりよくならないです。
ちょっとしたことで腹が立ってしまったり。キレる子供の気持ちってこんなのかな。わかるような気がしますね。もう自分の人生、そんなにいいことなんかないような、先が見えてるような、そういう心境なのかも。きっとそんな気持ちに、若いとか年寄りだとか、実年齢は関係ないんでしょう。
ここんとこ、こういう精神状態だというのに、夫婦でよりにもよって山岸凉子のマンガ「日出処の天子」にハマッてました。いい年をしてあまり面白いとも思えない(失礼)コミック雑誌を買ってくる夫に私が、「そんなしょーもないもん読んで時間をつぶすくらいなら、この名作マンガでも読んだらどう?」と勧めたものなんですが、案の定、夫はハマッてしまいました(~_~) で、私も一緒になって読み返してたんですが、いや〜、久々に熱中できましたね。
あれ、読んだ人はわかるでしょうけど、読後感がすごい虚しいんですよ。救いがないというか。初めて読んだのは確か私がまだ18くらいの頃だけど、そのときは、もうボーゼンとしてしまいましたね。なぜ?なぜこうなってしまうの?って。んー、でも、今はわかるんですね、もっといろんなことが。で、わかるから、それだからこそ一層、その虚しさも増大するというか。なんか、落ち込んでるときに読むものじゃなかったような気がしますが、これでよかったのかも。
ウツなときはウツになればいいんですよね。
失恋したときは悲しい音楽を聴けばいいし、疲れてかったるいときには何もしなければいい。
忘れるとか何かでごまかすとか、無理やりふっきるとか、そういうのって口で言うほど上手くはいかないんじゃないですか。
それに、どん底まで落ちてみて、はじめて見えてくるものがある。だからむしろ、悲しいときには悲しさを加速して涙を絞り出してくれるような音楽、虚しいときにはその虚しさをより押し広げてくれるような読み物、そんなのがいいんじゃないかと思います。真の突破口を早く見つけるためには。
悲しいとき、虚しいとき、「もう忘れたら?」とか、「気分転換したら?」とか、やさしい友人や肉親なら言ってくれるだろうけれど、その悲しみとか虚しさの根源を見つめて、それをつきつめていくことも、大事だと思うんですね。もちろん、その過程で愚痴を聞かされる周囲の人々の迷惑は、はなはだしいものがあると思いますけど(~_~;)
それでも、なんとかしてこのウツな気分からの突破口を見つけたいですね、私としては・・・


オレに

いま、手持ちのパソコンから、夫が去年買ったIBMのThinkPadに乗り換え中なんですが、いろいろ設定を変更したり、データを移したり、使い方を覚えるのがめんどくさいです。で、面倒なだけならいいけど、ちゃんとパソコンの指示どおりにやってるつもりなのに、それでも不都合がでてくる。たとえばコイツ、いつまでたってもダイヤルアップ接続のときのパスワードを記憶しないんですよ。ったく、これっていったいどーゆーことさ?チッ、このどアホめが(あらはしたない^^;)と腹を立てながら使ってます・・・というか、パソコン様の言いなりに使われてるっていうか。でなきゃ動かないっていうんですもん。仕方ないですね(-_-;) 馴染んだパソコンから新しいパソコンに乗り換える煩わしさがよくわかりました。ときどき、新しもの好きで、パソコンとかビデオとかどんどん買い換える人(うちの父みたいな)もいるけれど、わからないですねぇ、その神経。きっと、あーだこーだ機械をいじくっていることそのものが楽しいんでしょうね。でも、私にとってパソコンは単なるツール。やりたいことがスムーズにやれたら、それでいいだけだから。パソコン様というものにそこまで愛着も感じてないし。今回、このパソコンに乗り換えた理由は、アメリカ滞在が終わったので夫にとってこれが不要になったということ、液晶画面がきれいで目によさそうだということ、それから、動作が速くてサクサク動くこと(私のパソコンはディスクの空きがもう限界に近づいてた)、その三点です。

さて、オコたんはイタズラ絶好調。人間によじ登るだけでなく、ついにカーテン登りまでおぼえてしまいました。毎日が「コラッ、ダメ!!」の連続。・・・やれやれ、コイツも頭痛のタネです(-_-;)
おもちゃのネズミでも、ボールででも、ひとり勝手に遊んでくれてるといいんですけど、一人だけで遊ばせてるとすぐ飽きてしまうので、人間が(ほとんど私)相手してやらなきゃいけない。仔猫はふざけて遊んでるうちにだんだん興奮してくるので、用心しないと飛びつかれて怪我をする羽目になります。
まぁね、可哀相は可哀相なんだけど。本来ならば兄弟と取っ組み合って遊ぶ年頃の仔が、一匹だけで室内飼いされてるわけですから。遊び相手ぐらいしてあげないと、ストレスたまってしまうでしょう。そう思って、できるだけ相手になってやってるんですが。しかしいつになったら、ひなたで寝てばかりいる大人しい猫になってくれるやら。

オコリーを見ていたら、リバモアでいつも一緒だったオレのことを思い出して、どうしているだろうなぁと切なくなります。
くろのことは、「あいつはあいつでちゃっかり元気にやっているだろう」という信頼感があるんですが。だって、くろは、弱気な姿を見せたことがなかったですからね。ちゃんとどこかで世話をしてもらっていた様子だし。でも、オレは・・・
リバモアのアパートを去る前日、引越しのドタバタのなかで、以前オレについていた首輪の迷子札に記されていた電話番号を控えたメモの切れ端を見つけました。もう、オレはこのままこのアパートの敷地に置いていくしかないと、それがこいつの幸せだと思っていたのですが、そのメモが見つかったために、そこに思い切って電話したんですよね。人が首輪までつけた猫をまるで自分の飼い猫のようになつかせておいて(夫に言わすと「不倫のあげく奪い取った」^^;)、いまさら虫のよすぎるお願いだとは思ったのですが、その人が、またこいつを飼ってくれないだろうかと思ったんです。
その女の人は、案の定、もとは同じアパートの住人だったのですが、電話したそのときには(同じリバモア市内ですが)もう引越ししていました。引っ越すときに、もしかしたら、オレの首輪をはずしていったのかもしれません。なにしろ、そのときは我が家の飼い猫同然だったのですから。彼女は猫を引き取りに来てくれないかという私に、意外にも二つ返事で「オーケイ、これからすぐ行くわ」と答えました。十五分後ぐらいに現れたのは、オレ同様、よく太った女性で、ほかにも猫を飼っている様子。ちゃんと頑丈そうなキャリーケースを携えていました。それまでソファで寝ていたオレは、いきなりぐいと首根っこをつかまれて、そのキャリーケースに入れられました。私たちは、ケースの扉の柵ごしに、さよならを言ったんです。あっけない、短いさよならでした。オレは、何がなんだかわからない、といった様子で、きょとんと目を丸くしていました。その最後の顔が、いまも私の心に焼き付いています。

そのメモは、もはや手元にありません。捨てたか無くしたかしてしまいました。
だから、オレのその後を知ることは、もう一生ないでしょう。それでいいのです。それでいいのですが、あれが今生の別れだったと思うと、切なくなってくるものがあります。
たかが猫。
でも、私たちはお互いに必要とし合っていました。
私は、まだ無理のできない身体で、異国の地に友もなく暮らし、毎日、研究所に出かけては帰ってくる夫を待ちながら、つなぎっぱなしのケーブルを使ってネットサーフィンにのめり込んでいました。部屋に一人ぼっちだったら、さぞかし暗い生活だったでしょう。でも、彼らが来てくれた。くろは来ない日が続いたり、気まぐれなところがあったけれど、オレは、頼みもしないのに毎日来て、一日じゅう家にいました。ときどきご飯をねだる以外は、あまり甘えもしないかわりイタズラもせず、のんびりあくびをしながらそこにいて、がらんとした部屋の一部となることで、私の孤独感を癒してくれていたと言えます。
帰国し、あの平和そのものの生活を失ってみてはじめて、私は私がどんなに彼を愛していたかわかりました。私は自分で思うよりずっとオレが好きだったんです。そして、今もあの頃よりもっと。

くろも、オレも、特に可愛らしい猫ではありませんでしたし、顔つきからいえば、オレなんか、はっきりとぶさいくな猫でした。抱きあげると洋服が毛だらけになるうえ、重過ぎて腕が疲れました。本人(猫)もたぶん望んでいなかったにもかかわらず、帰国がせまってきた頃には、そんなオレをたびたび抱きしめたくなることがありました。
オコリーは向こうから「かまってかまって!!」と膝に飛び乗ってくるので、そういうセンチな気分になるどころではないんですが(~_~;)
いま、オコリーのやんちゃぶりに手を焼きながら、オレにもこんな頃があったんだろうかと思います。
ご飯をねだるとき、足元にまとわりついてスリスリする以外は、あまり甘えたそぶりは見せなかったオレが、一度だけ、私の膝に乗ってきたことがあります。あまりに汚いので、シャンプーしてあげた後のことでした。私の腿のうえに両の前足を置いて、爪を立てながらもみもみしたんです。これは、猫にとっては甘えの仕草で、仔猫の気分に退行していることを示すそうです。爪を立てられて腿が痛かったけれど、なんとなく嬉しかったのを覚えています。そんなことをしたのは、オレと暮らした半年のあいだで、後にも先にも、それ一回だけでした。

人間同士ならば、離れていたっていろんな通信手段があります。
マークさんとも、レネさんとも、何かあればメールでやりとりできるし、また会おうと思えば会う機会も作れます。でも、猫であるオレとは、あれが、あの柵越しの別れが、永遠のお別れでした。
たかが猫。それなのに、今ごろになって涙さえ浮かんで来るのはなぜでしょう?
たぶん、私が一番弱っているときに、何もわずらわしいことは要求せず(猫の餌ぐらい、こちらにとっては微々たる出費です)、ただずっとそばにいてくれたから。
頼みもしないのに勝手にやって来て・・・
オレ、おまえ、あの女の人に可愛がってもらってる?
幸せに暮らしてる?
このパソコンのハードディスクには、おまえの写真がいっぱい。たいていみっともなく寝ている姿だけれど。
でも、おまえの声、おまえの手触り、ずっと憶えてるからね。

失ってみてわかる、それがどんなに幸せな時の集まりだったか。
なくなってみてわかる、私が何に恵まれていたか。
何でもないと思っていたことが、にわかに意味を帯びてくる。感謝(誰に?)、そして切なさ(何に?)。
それがわかること、それは人間だけに与えられた喜び?
取るに足りない、何の得にもならない、他人にはまったく無意味な、それでもささやかに心満ちる喜びが、個として生きる私たちの人生に、少しずつ少しずつ積み重なっていく。過ぎて行く時間に洗われ、喪失に耐えて削ぎ落とされたその本質だけが、ゆるぎない追憶の源として鈍く輝きながら残っていく。
そんなようにできている。
どんなに苦渋に満ちた人の生であろうと、それはたぶん同じなんだろうと思う。
なぜって、そうでなくては、人なんて、きっとマトモに生きてはいられない。
そう、だって、人は猫ではないもの。
簡単なことをわざわざ複雑にした挙句、行くべき道さえ見失ってしまうのが人間だから。


化け猫出現!?

いやー、ゆうべはびっくりしましたよ。
寝る前、シャワーからあがって脱衣所でパジャマに着替えていたら、どこかでしきりに猫の鳴き声がするんです。オコリーは夫の部屋にいるはずなので、夫に「今鳴いてたの、オコリー?」と聞いたら、いいや、こいつは静かにしてるで、と。なんだろう、野良猫かな、それにしてはやけに近いところから声が聞こえた気がした(うちはマンションの4Fなのに)と思いながら、明日はごみの日だから、ごみ袋をちょっと外へ出しておこうと、玄関のドアを開けたんです。すると、何か黄色いものが、それを待ち構えてたみたいに、足元からささっと走り込んできたんです。
猫でした。
信じられない。こんなマンションの4階の階段に、猫が?
私、猫にとり憑かれてるのかしらと、まだ驚きのあまり口あんぐり開けたままよく見れば、これがなんともまぁ、奇妙な猫なんです。
こんなヘンテコな猫、いままで見たことない。
模様はいわゆる茶トラなんですけど、図体が異様にでかいんです。でかいだけならいいけど、全体のバランスがまるでトドかジュゴンみたい、頭にくらべて胴体が長くて、それですごく太ってるんですよ。見た感じ、6,7キロぐらいありそう。ビー玉みたいな目も、やたらぎょろりとしてて、不気味〜〜(~_~;) そいつが玄関から走り込んできて、目の前で、にゃあと鳴いているんです。夢かと思いました。ここで、このマンションで、なんで、猫なの?
とりあえず面倒が起きないように、びびっているオコリーを洗面所に閉じ込めておいて、そのけったいな猫を夫に捕まえてもらいました。見れば首輪をしているし、こんなに太って毛並みもきれいだから、野良ではないだろう、恐らくこの近所の猫が迷子になっているんだと思い、警察に電話することにしました。なんていうか、こういうのはきっと落し物とか迷子とかと一緒で、飼い主が探しているなら、警察に届けてあるだろうと思ったんですね。でも、調べてもらっても、そういう届け出はなかったんです。仕方がないので、また外に放せば自分の家に帰っていくだろうと、玄関のドアを開けました。それでも出て行こうとしない。躊躇している猫のお尻を押して、「さぁ、出ておいき、自分の家に帰りなさい」などと、玄関先でドアを開けたまま、なんだかんだ言っているところへ、うちの真下、3階に住んでいる女の人がやって来たんです。すいません、それうちの猫なんです、と・・・
ひゃー、知らなかった。この人がこんな猫を飼っていたなんて。
うちは子供もいないし、顔を見れば挨拶するぐらいで、近所づきあいってほとんどないですからね。
普段から放し飼いなんですか、と聞けば、いや、違います、いつもは家の中なんですけど逃げ出してしまって、ということでした。猫のほうは、まだうちの玄関のなかに居座って、出て行こうかどうしようか迷ってます。きっと、自分の家と間違えてるんでしょう。それでもなんとか猫を引き渡し、ほっとしてドアを閉めました。やれやれ。
世の中というのは本当にわからないものです。
あんな化け猫みたいな猫(失礼)を可愛がっている人もいるんですねー。なんと酔狂な。
まぁ、一応、このマンションはペット禁ですから、私たちもオコリーを飼っていることを大っぴらには出来ないんですが、こんな近くに、やっぱり猫を飼っている家があったと知ると、ちょっと気が楽になります。
いやしかし、びっくりしましたねぇ。

オコリーのほうは、先日、一回目のワクチンを打ちに行ったんですが、家に来た直後は850gだった体重が、1200gになってました。うん、子供の成長って、ほんと早いですね。そういえば少し大きくなったなぁと思ってたんです。人間で言えば幼稚園の子ぐらい? まったくの赤ちゃんから、ちょっとだけ少年の影が見えてきたかなっていうところ? でも。おつむのほうは、まだからっきしなんですよねぇ。何度もダメと叱ってるのに、手や足に飛びかかって噛みつくし、人間が食べているものに関心があるのか、食事時に膝のうえによじ登ってきては、テーブルに前足をかけて、お皿に鼻先をもっていこうとするし、せっかく買ってやった爪とぎの場所は覚えないし、かろうじてトイレの失敗だけはしないけれど、問題行動は山積み。おかげで、夫には「おまえのしつけが悪いんとちゃうか」などと言われる始末。ったってねぇ、その都度、ダメなことはダメと叱ってるんですけどねぇ。最近では、「オコたん」と呼ばれるときと、「ダメ!!」と叱られるとき、一番反応します。この二つの言葉は覚えたのかな? 少なくとも、ダメ!と強く言われると、「なんかマズイかも?」と一瞬ひるむ様子を見せます。早く聞き分けのいい子になって、こっちをラクさせて欲しいものです。


流砂のうえに

「平気でうそをつく人たち−虚偽と邪悪の心理学−(M・スコット・ペック)」という本を読みました。草思社から出版されています。内容は、そうですねぇ、今更ちょっと古いかなって感じです。まぁ初版発行が1983年だというのですから、無理もない話ですが。
この著者は精神科医というか、心理療法カウンセラーなんですね。カウンセリングするのに、長椅子に横たわった患者とあれこれ夢の話などについて対話するという、サイコもののミステリにでも出てきそうな精神分析手法をとっています。そのやりとり自体は多少古臭いものの、それなりに面白いのですが、読んでいると、この著者の、自分でも認めているキリスト教的倫理観がそこここにぷんぷん臭っていて押し付けがましく、それが読後、著者の意図とはうらはらに、「なんだかなぁ」と思ってしまうひとつの原因になっている。
キリスト教的倫理観というのは、世の中には善と悪があって、それがせめぎあっている、悪は滅ぼされるべき存在であるが、根絶させるにあたっては無償の愛をもってしなくてはならない、というようなものですね。非常に割り切りの厳しい、不必要なまでに劇場的な倫理観に見えます。
でも、こういう倫理観って西暦2000年を生きている私たちにはもうそぐわないし、すでに淘汰されてしまってるんじゃないかと思います。個人的にはね。

情報伝達のスピードが格段に発達したおかげで、いまや、私たちは知ってしまった、ある国ある民にとって悪であることが、その他の国、その他の民にとってはそうではない。ある人ある場合に善であったものが、別の人別の場合には悪にさえなりうる。善意から始まった物事が、もっとも悲惨な結末を引き起こすことすらある。そんなことは、もはや当たり前で、あえて誰も口にしないことにまでなってしまった。この世の成り立ちを知れば知るほど、倫理というのは、何か絶対的な基準をもって割り切ることではなくなる、もっと複雑で、しかも時には運命的ですらあるのだと。とても人知の及ぶところではない。何が善で、何が悪なのか。
そう、簡単に言えば、私たちは学習したんです。
この不確かな世に生きる私たちには神の恩寵などなく、天国行きの片道切符を求めることにさほど価値があるとは思えないと・・・
今日、ネット上の掲示板であれ、ちょっと頭の回る小賢しい人たちが交わす議論のなりゆきを見守ってみてください。たいてい最後には、誰かがこう言って締めくくりますよ。「わかった、それがあなたの考えなのね、オーケイ、人に迷惑をかけない限り、それもひとつの個性、ひとつの生き様として容認されうるものだと思うわ。人はそれぞれの価値観に見合った幸福を追求して生きる権利がありますものね」。そしてすっきりと袂を分かち、それぞれの家路につく。議論をつくして考えを吐き出してしまったあとでは、それ以上に相手に干渉するのは愚かしいことであり、思慮の浅いこと。だってどの人もその人なりの事情というものがあるんですものね。かくして人と人のつながりが希薄になったか、道徳意識や常識というものは廃れてしまったのかと受け取る向きもあるかと思いますが、それしかないのかな、というのが私の正直な実感です。

世の中には、平気でうそをつくどころか、平気で人の命を奪って何も感じない人もいます。
最近はやりの言葉でいえば、「サイコパス」型の犯罪者。
これについては諸説紛々ですが、この悪そのもののような人に、それこそあふれんばかりの愛をいくら注ぎ続けても、物理的にそうなってしまう場合もあるんですね。脳の前頭葉という部分に欠陥があれば、人間の情動に著しい影響を及ぼすそうです。いざ事件を起こしてから、生育歴に問題がある、いや彼を取り巻く社会に問題が・・・と議論するのはいいけれど、物理的にそうなっているとしたら、これはやはり物理的な解決を待つしかないのでしょう。脳は、ホルモンのスープに浮かんでいる精密コンピューターのようなものだと誰かが言っていましたね。
このような物言いは、まるで人間を機械と見立てているようですが、半分は機械、半分はそうではないのだと思います。置かれている環境が違えば同じ人の生き方も変わってくるし、人知を超えた運命的出来事に見舞われ、考え方や生き方が劇的に変わっていく場合だってありますから。なんにせよ、そうでも思わねば、人間なんてやっていられません。

半分は機械。
その事実を私たちにつきつける医者や科学者たちが、非人間的だとか冷酷であるとは思いません。むしろ、自分の意思ではどうにもならないことがある、だからこそ人は、自分をはるかに凌駕するものの存在を思い、さまざまな相違を超えて謙虚になれるのではないかと思います。謙虚になるということは、天国行きの片道切符を求めて他人や己の不出来を憐れみ愛すことではない、何の見返りがなくても、それでも、自分の生を尊重し、ひいては他人の生をも尊重するということです。それには、与えられた生をまるごと受け入れ、それを生ききる諦念が必要だと思うんです。
半分は機械。そう考えると、いまの時代に、キリスト教的天国の門が癒しの糧になるでしょうか?
むしろ、すべては無である、という仏教的諦念のほうが、私にはしっくりくるように思えます。
私たちは永遠の流砂のうえに生をうけた半機械である。この砂上には天国の門もなく、導きの天使もない。教会であれ寺院であれ、どのような思想であれ、積み上げたものはいつしかことごとく崩れ落ちる運命にある。己の肉体もまた。それでもなお、なぜ私たちは生きるのか? 
わからない、というしかありません。
わからないが、それはそれとして受け入れ、与えられたその環境をただ生ききる。
たぶんこれが仏教的諦念だろうと思うのです。どうでしょう? クールなようでいて、限りなく慈悲深いと思いませんか? 私は、その清濁併せ呑む潔さと優しさが好きですね。


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