CALLING FROM SANDIA (4)

夫が引っ越しをしました。サンディア研が管理しているフラットをでて、もう少し市内の賑やかな通りに近いところに、こましなマンションを見つけ、さんざん迷った末、入居することにしたんです。
向こうで一緒に研究をしている方に、こまごまと書かれた英文の契約書を説明してもらったり、家具のレンタルや電話の加入など、いろいろと世話を焼いてもらいながらでした。なにしろ、英語でのコミュニケーションが煩わしいし、日本とはシステムが違う部分も多いので、相当大変だったようです。車もないしね。
私は日本にいて、「まぁ、よくやってるやないの。あんたも、そんなこんなしながら成長していくねんなぁ」と、高みの見物(?)ですが、そう本人に言うと、「こっちはあんたが来たらどう思うかとか考えながら、いろいろとしんどい目ぇして物件も探しーの、家具も借りーのしてんのに、なにが『成長』やねん。フン。成長なんかせんでええねん。僕はな、ただ面白く楽しく暮らしたいだけやねんっ!」・・・・キレてしまった(~_~;)
やれやれ、気もちに余裕がないってのは困ったモンです。

そもそもああいう研究所ってのは閉鎖的で、なかなか明るい気持ちになれないところみたいですね。大学だと雰囲気も開放的だし、学生はたくさんいるし、外国人留学生との交流もあるし、何か別のことを学んでみるとか、いろいろできたかもしれませんが、軍事研究しているようなとこの実態ってねぇ・・・厳しいみたいです。一般に、カメラ、マイクの類は持ち込み禁止だし、自前のパソコンなんかも持っていくと、当然、そのあたりを調べられるそうです。
特に、最近ロスアラモス研究所では、中国人の研究者が何か情報を盗んだと疑われる事件・・・つまりスパイ疑惑というのでしょうか、そういうことがあって、以来、サンディア研でも中国人とかロシア人の研究者は締め出されているということらしいです。

研究所には、バッジがなくても、敷地の一部分なら入れるみたいです。たとえば、お隣のローレンス研のカフェテリアでランチを食べるとか、そんなこともできるらしい。これはまた、ぜひ私が実際に行ってルポしてみたいと思ってます。夫は、「ローレンス研でランチぃ? あんた、そんなことして何が面白いのん?」と言ってますけど(^^) ・・・行ってみたいじゃないですか! そう思いません?
でも、敷地の大部分には柵が張り巡らしてあって、その柵の中には入れない。研究の内容ごとなのでしょうか、内部もまた柵で区切られていて、たとえば、うちの夫でも、入れるエリアが決まっている。それ以外のエリアには入れないらしいですね。というか、入ってみようとしたことすらない、というんです。とても、そういう雰囲気ではない、と。で、同じエリアの建物の中でも、個人の指紋でドアの開閉をするような部屋があって、当然、そこには入れない。
あのねー、鍵なんてモンじゃないんですよ、指紋ですよ、指紋。手のひらを当てて指紋を読み取らせて、それでドアを開閉するんですよ。うわぁ〜、まるでスパイ映画か森博嗣の小説の世界! ううむ、そのなかで一体、何が行われているのでしょうか(ーー;)? なんかこう、想像力をかきたてられますね。
・・・・墜落したUFOの乗組員の死体解剖? それじゃーまるで「ムー」か「インディペンデンス・デイ」の世界(^O^)!
思わず茶化してしまいましたが、まっ、日本語ページだからアメリカ人は読まないでしょ(^^)

なんか、馬や牛でもあるまいに、柵で囲まれて仕事している夫がちょっと気の毒です。
国、軍、政治・・・・そんな様々な思惑が絡み合う研究施設に勤める科学者って、なんだか複雑な立場だと思います。彼らはすっごく高給取りだという話なんですけど、それはなぜかと考えていくと・・・ね。


痩せ過ぎ? 太り過ぎ?

早くアメリカに行きたいと思うんですが、体調が一進一退を繰り返しています。やっぱり、まだ普通に食べられない。普段の食事量の半分ぐらい? なんか、こうなるともう、禅寺にでもこもって修行しているみたいです。
アメリカに行くには、とりあえず、この病態が完治しなくてもいいんで(こういうのって短期間に完治できるものではないらしいので)、ただ、自分で症状をコントロールしていくことができるかどうか、だけだと思うんですが、なかなかうまくいかないですね。薬の量や、食事の量を加減して、どうにかバランスをとっていきたいところです。
この不調に対しては、無理をしない、ということが肝心なんですね。
食べたくなければ無理に食べない、薬を飲みながら、自然に食欲がでるまで待つ、自分で気分よく食べられるだけの量を食べる、ということです。いっぺんに食べられなかったら、少しずつ間食をする。それも、チョコレートとかチーズなど、なるべく高カロリーのものを。・・・まぁ、そんな感じで無理をしない努力、というのをしています。かかりつけの先生いわく、遠回りみたいだけれど、それが結局は、こじらせないで早く良くなる道なんだそうです。私もそれは実感してます。焦ると駄目ですね。

今、体重は41〜42キロ、だんだん痩せてきたので気になって、家にあった医学書で、どの程度が病的な「痩せ過ぎ」「太り過ぎ」なのか、ちょっと調べてみました。それによると、

(身長−100)×0.9=標準体重
(実際の体重−標準体重)÷標準体重×100=肥満度(%)、ということです。

これで、肥満度が、±10ぐらいの範囲内だったら正常。±20を超えると、明らかに太り過ぎ、痩せ過ぎ、ということになるらしい。計算すると、私はまだ−11ぐらいだから、大丈夫ということですね。まあ、私の身長であれば38キロぐらいまでは、少なくとも、明らかな痩せ過ぎではないということがわかりました。
実際、見た目もさほど華奢な感じではないしね。
なんかね、ウェストとか身体の胴体部分は痩せた〜って感じですが、腕とか脚はあまり痩せた感じはないですね。ウェストをぎゅっと絞るような服を着ると、「細いですね」ってことになるけど、だぼっとしたルーズな格好をしている限り、そんなに痩せてみえないです。

でも、私自身でこれだから、ブラウン管で見ている華奢なタレントとかモデルさんとかは、もう医学的には「あきらかな痩せ過ぎ」の部類に入るんだと思いますよ。身長165cmで体重が45キロとか。ああいうのに憧れるっていうのも、私にはわからないですねぇ。
いや〜、私自身が男だったら、あまり痩せた女って、魅力ないと思うんじゃないかなーと・・・ジムのエクササイズで鍛えたような、筋肉質の引き締まった身体ってのも、どうもね。新体操の選手みたいなのは、どうかと思います。そりゃー、服を着ている分には多少カッコイイかもしれないけれど、その「中身」が問題ですよ(~_~;)
やっぱり理想的には、細い骨格のうえに適当に肉がついていて、抱きしめるとふわっと柔らかさを感じさせるような体型がいいと思うんですけど。胸がペタッとなくて、太ももの間がスカスカあいているような貧相な身体は、嫌ですね。お友達にはなれるけど、どうもそれ以上の関係に進む気がしないというか・・・もし私が男だったら、ですよ。

でも、こういうのも、男の人によって好みが違うらしい。一般的に、誰でも、自分にないものを人に求める傾向がありますね。不細工な男ほど、相手の容姿にこだわる。痩せた男は、ふっくらした女性に好感を持つ。太り気味の男なら、ほっそりした相手に惹かれる。
男の人って、わりとそのへん単純そう。女性なら、「一緒にいると、太めの自分を少しでも細く見せてくれる、自分より太った男性がいい」とか計略的に(?)考えたりするみたいなんですけど。
ちなみに、私の知っている「やや太め」男性は、たいていみんな、「お尻が小さくてスレンダーなタイプが好み。胸なんか、べつになくてもいい」と言ってました。オジサン雑誌のグラビアでは巨乳(なんて下品な言葉でしょう)タレントが、FカップだのGカップだのと競い合っているというのに、「ああいうのは好きじゃない」という人もいるわけです。人それぞれですね。
私は、どっちかというと男の人の体型は、ボクシングの選手みたいなのがいいと思ってますけど、うちの夫はどういう因果か、ぜんぜんかけ離れたタイプ。 特に、おなかまわりなど、余ったお肉がぽちゃぽちゃしてて、叩くとぽんぽんといい音がするし、適度に弾力性があって、思わず粘土か小麦粉みたいにぎゅーっとこねて遊びたくなります(~_~;) もちろん嫌がりますけど、「お客さぁん、『脂肪もみだしエステ』やってあげてるんやないの」とかなんとかいって、けっこうストレス解消のオモチャにしてる(^^)
で、夫も、太った男の例にもれず「非巨乳」派なんですけど、そりゃーうなずけるわ。だって、似たような「ぽちゃぽちゃタプタプ」した脂肪が常時、自分のおなかにくっついてるんじゃあねぇ。巨乳ったって新鮮味もないでしょうよ(^^)


自立と共生 T

最近、人間が「自立する」、あるいは「共生する」ということについて、いろいろ考えています。

たとえば、子供を産まない、あるいは、結婚しないことを選択する女性が増えたことについて、うちの父と話していたら、「現代の女性がそういう傾向になるのは当たり前だ」というんです。父の理解では、女性が経済的に自立できるのなら、子育てや結婚というのは、女性にとってはそれを妨げるものでしかない、というわけです。
平たく言えば、経済的に自立した女性なら、
「私はちゃんと働いてお給料もらって、自分で自分の生活を支えていけるのに、なんでいまさら男と結婚して、子育てやら親の面倒やら、背負い込まなきゃならないのよ? 結婚さえしなきゃ、もっと自分で自分の人生をクリエイトできるし、誰に媚びたり卑屈になることもないし、ラクじゃないの」ということです。
たぶん、この女性たちは、さほどキャリア志向というわけでもないんでしょう。だって、「やりがい」とか「充足感」のある仕事って、そんなにありますか? 男性だってそうそう夢やら充実感を感じながら仕事してるわけではないでしょ。「夢とかやりがい」なんて、たいていは「とらばーゆ」の宣伝文句のなかにしか存在しない。となると、仕事が純粋に好きだから、仕事に惚れて結婚をしない、なんて女性は一握りの幸せな特権階級的立場の人で、その他大勢の「結婚したがらないOL」のホンネは、
1)働いて自分が得たお金を好きに使いたい
2)ダンナや子供、その親の面倒をみるなんて、そんなしんどいことは嫌だ
という二点じゃないかと思うんですよ。要するに、遊びたいし、ラクしたい、ということです。

私は、こういう発想って、何か違うんだなーと思うんです。
結婚したら、好きに遊べないしラクできない、ダンナやその親に気を使わなきゃいけないし・・・なんて、いまどき本気で考えてる女の人、いるのかなぁ。女の子たちは、まだそんなに古風なのかな。
そういえば、ちょっと前に新聞で、今どきの十代のセックス観をアンケートした記事を読みましたが、やってることはほんとに軽いんだけど、男の子に「コンドーム使って」という一言を言い出せない女の子が、かなりのパーセンテージでいることが意外でしたね。「彼にうっとおしいと思われたくない」ということなんですけど、今時、何でも言いたい放題に見える女の子たちでも、肝心な場面ではイニシアティヴがとれないもんなんですかね。そんなことをわずらわしがるような男だったら、つきあうのやめたら?と私なら言いますよ。本来、あんなの言われなくても、男のほうでさっさと用意しておくもんじゃないですか。自分の身体のことさえ気遣ってくれない男に、なんでホイホイくっついていくのか。それが惨めだとは思わないんですかねぇ? そんな間抜けな男でも、そばにいてもらいたいと思うほど彼女たちは孤独なのか、または、自分で自分を大安売りしていることさえ気づかないバカなのか、どっちかだと思わざるをえません。

まぁ、話を戻しますが、私は、かならずしも「結婚=自立や自由の放棄」ではないと思うんですよ。
確かに、まだ子育てや親の介護については、女性がすべきものだとする風潮があるし、また、それを男性が分かち合える余裕がある社会かというと、そうではない。企業で働く男性なら、「子供が熱を出したので休みます」とか、「親の介護をしたいので今のポストをもっとゆとりのあるものに変えてください」とは、なかなか言えない場合も多いでしょう。そういうのを見ているOLたちが、結婚にしんどさを感じるのも、もっともだと思います。でもねぇ、だからといって、結婚しないでいても、いずれ自分の親が老いていくんだし、自分自身も老いていくんですよ。結婚を老後の保険にしろと言っているわけではないですが、もっと男も女もお互いに共生しようという気もちが大事なんじゃないかなと。そういう気持ちをもっている人をパートナーに選べば、1+1がマイナスになることなく、プラスになっていくと思うんですよ。面倒だから離れていよう、わずらわしいから避けよう、では、あまりにも寂しすぎる。この世の中には、男と女しかいないというのにね。


自立と共生 U

経済活動というのは非情なもんです。たとえ新婚の共働きであっても、たとえ要介護の親を抱えていても、会社勤めのサラリーマンなら、転勤しろといわれれば、家族ぐるみで引越すか単身赴任かを選択せざるをえません。場合によっては、単身赴任がやむをえない、ということだって多いでしょう。これは、夫婦は同じ場所で暮らすものだ、という法の概念に反しているように見えます。この前のニュースで、そういう「会社の移動命令は違法であるか?」という問題が裁判になっていて、ちょうど判決がでたところだったんですが、それは結局、「違法ではない」ということでした。要するに、個人がどんな事情を抱えていても、会社は経済活動としての必要性から、その個人に移動を命じることができる、ということです。嫌なら、その個人は会社を辞めるしかない。
こういう判決がでるんだから、「育児をしない男を父とは呼ばない」ったってねぇ・・・じゃー、単身赴任のお父さんは、お父さんではないのですか、といいたくなる。それを言い出すと、とどのつまりは、お金稼いでるでしょ、養ってあげてるでしょ、ということしかなくなりますよね。

この、男性側の「養ってあげてる意識」が嫌なので、結婚しても働きたい、自分の食い扶持ぐらい自分で稼ぎたい、で、働くのに子供は邪魔なので子供は産みたくない、という女性も多くいると思います。
私の父も何を隠そう、この「養ってあげてる意識」のけっこう強い人です。時代的なものを考えたら、普通なのかもしれませんが。私が反抗的な態度を見せると、時には、「誰に養ってもろてると思ってるんや」という決めゼリフがとんできたもんです。これが学生の頃から嫌だったんですが、私としては、本当に養ってもらっているわけだから、しゃーないかと思っていました。親にとっては、伝家の宝刀ですよね(~_~;)
うちの母は母で、大学生の私に、何が何でも教職免許はとりなさいよ、と言ってました。先生という職業は男女差別もなくて一生勤めることができるから、あんたは先生になればいいのよ、というわけです。確かに、それは本当です。女性にとってはわりと条件のいい職場だと思います。

母は、自営業をやりだしてからは自分もそこに参加しているわけだから、今でこそわりと自分の好きにお金を使ってますけど、父がまだサラリーマンで、幼い私を抱いて専業主婦をしているときは、それこそ自分のものは、洋服ひとつ買うのにも気を使った、というんです。私は、なんで好き合って結婚した相手に、そんな気を使わなきゃいけないのか、それが不思議でした。誰が稼ごうと、結婚したらそれは二人のお金じゃないかと思っていたんです。こういうのは、やはり世代間で結婚観が違うせいかもしれませんし、私の考え方が常識はずれなのかもしれません。どっちなのか、私もよくわからないですね。みんな、そのへんはどう思っているんだろうって。
でも、働いて自立したい、結婚しても、子供を産んでも、とにかく自分の経済的自立性だけは確保したい、という女性を多く見ると、また、そういうのが当たり前みたいな風潮になってくると、働くのが嫌いな私なんか、どうしてみんなそんなしゃかりきに働きたがるのか??と不思議で仕方ない。収入が足りなければそうせざるをえないけれど、夫の収入で暮らして、べつに衣食住に不自由してない人までが、なんでまたそう思うのかと。でも、そういうことじゃないんでしょ? なんていうか、人間として自立したいとか、そういう問題なんですよね。

よく、経済的自立イコール人間の自立であると確信している人がいて、私も、以前はそう思っていました。で、何かに依存するのは、それだけ立場が弱くなるから、よくないことだと。これでいくと、私の今の立場なんか、ほんとうに最低だということになってしまいます(~_~;)
心理的に関係が破綻して、もう離婚したいんだけど、女性に収入がないとそれもできない。ただ、ひたすら夫の稼ぎという側面だけで繋がっている夫婦、というのも確かにあって、それは誰かに経済を依存したがための悲劇なんですが、じゃあそういうのを「予防」するために、お互いに稼ぎは均等にしましょ、依存しないようにしましょ、あるいは、もう法的にわずらわしい結婚なんかやめて、いつでも白紙に戻せる同棲にしておきましょ、というのも、なんだかねぇ・・・
じゃあ家族って、いったい何ですか?
共に生きるって、どういうことですか?
結婚するまえから、もう離婚の可能性まで計算に入れとくんですか?
・・・っていう気もちになるんですよね。私としては。

もちろん、男女の雇用や昇進の機会均等がうまく実現していない社会状況があるから、女性が自己防衛として、自分の稼ぎを手放さない、あるいは結婚しない、子供を産まない、という選択をするんだと思います。それはもう事実で、「そういう現実が悪い」としかいえないんですが、ある種、べつのやるせなさも感じざるをえないんですよね。
男と女の溝は、そんなに深いのかな・・・というような。


自立と共生 V

子供の頃、私はどこかドライなというか、冷淡なところがあって、人間を見るのに「能力」で測っていたような気がします。何の能力もないような人間にだけはなりたくない、私にこそ、何かの「能力」があってもいいはずだとも思っていました。人間にとってもっとも大切なことは、「何を成し遂げられるか?」であって、何の能力も発揮できないような人間には魅力もない、と思っていたんです。まぁ、子供ですから、「そう考えていた」というよりも、どこか本能的なところでそう「感じていた」んですね。

この「能力」というのは、結果として目に見えるかたちで結実しなければならないし、それは正々堂々と自分自身の努力で掴み取ったものでなければならない。たとえば、顔がきれいだとか、身体が大きくて腕力が強いとか、そういう身体的な要素はどうにもならない、もってうまれた不公平な運命だけど、頭を使うこと、勉強なんかは違うだろうと思っていました。勉強こそ、地道に努力しさえすれば報われる公平な能力を表すものだと。そういう意味で、身体より頭に価値を見出すべきだと思っていた。だから、勉強のできる友達には一目置くけれど、できない友達はやっぱり人間として下に見ていましたね。さすがに口には出さないけれど、そう感じていたことは確かです。この子たちは、努力しさえすれば誰でもやれることをやらない怠惰な子たち、何も考えてない子たち、そんな感じでしたね。
そうそう、小学校には心身に障害を持った子供たちも通ってきていて、一部の子供は普通学級で一緒に机を並べていました。私は、まさかその子供たちをからかったり、いじめたりはしないけれど、特に同情したり、気の毒に思ったことはありませんでした。マナーとして、どう接したらいいかはわかっていても、自然な思いやりなどは感じなかったように記憶しています。別世界の住人というか、まるっきり無関心でした。
なんて冷たい子供でしょう、と思われそうですが、それが事実なんです(~_~;)
たぶん私はあまりにも素直というか、考えがなさすぎ、先生たちのいう「人間みんな平等」「やればできる」などというスローガンを、どこかはきちがえてしまったんだと思います。

さて、私がその考えを改めさせられたのは、大学を卒業して教職についてからでした。
実際に生徒を教えているうちに、勉強ができるできないというのも、その他の身体的な特徴などと一緒で、どう考えても不公平な運命であるとしか思えなくなったんですよ。いろいろな環境に生きる子供がいることを知り、その子達のさまざまな言動を見るにつけ、私にはもう、「神が人間に公平に与えるもの」なんてないのだと思えてきたんです。けっきょく、「努力すれば必ず報われること」なんかないんだと。
「やればできる」は嘘っぱち、人間というものは、じつはあらゆる点において、平等などではなかったのかと遅まきながら思いました。
たとえば私が大学入試に必要な英単語を覚えられたのも、もちろん私自身の努力の結果ではあるけれど、それには家庭環境やら、育ってきた歴史やらも影響するし、何よりも、ものを覚えるという能力が、たまたま生まれつきあった、ということだと思うようになったんですよ。
人間は、公平に生まれてはこない。努力するということすら、そういう素質が性格の中に「たまたま」生まれつきあるからこそ、努力できるんじゃないか?
こういう考えに至ったのは、けっこうショックでした。
こんなふうに考えれば、人間が自分の意志や責任でなく、生まれ持った運命に翻弄される機械になってしまうような感じがするじゃないですか。すべての美徳も欠点も、自分の性格すら、「たまたま」与えられたものだとしたら、いままで自分が努力したことも、何かその意義が根底から損なわれてしまうような気がするじゃありませんか。
私は、こういう考えに拒否感を覚えました。
まだ若く、チャレンジさえすれば、これから何でもできるし、これまでだって自分なりに考えて納得のいくことをやってきた、そんなふうに思っている二十二歳の私には、それができたのは「たまたま」運に恵まれていたからだ、というような気もちにはなれなかったんですよ。それを、「自分自身の価値」だと位置づけておきたかったんだと思います。

私は、どんなに丁寧に教えてもアルファベットすらまともに書けない一握りの子供を思い、そして、かねてからの疑問も合わせて思い起こし、そのとき同じ学校で働いていたある先生に質問してみました。その方は国語の女性教諭で、私より7,8歳上だったと思いますが、その頃なにかと仲良くしてくださっていたんです。
「ねぇ、先生、世の中はなんで不公平なんでしょうね。あまりにも勉強ができないって、なんかもう努力不足とかそんなんじゃなくて、持って生まれた運命だと思いませんか? それに、極端にいえば、うまれつき身体的な障害があって、何の自活能力も持てないような人もいるでしょ。そんな人生に何の価値とか意味があるんでしょうね? 神様は、なんでわざわざそんな不公平な運命を人に背負わせて、こんな不完全な世界を造ったんでしょうね?」
私が深刻ぶってこんな幼稚な質問をしたのが可笑しかったのか、その先生は、少し笑いました。そして言ったんですよ。
確かに、ひとりひとりの運命は不公平だと思う、と。でも、社会的に見て何の能力もない人がいても、そこに価値や意味がないとは思わない、って。
もともと「能力=価値」的な感覚を持っていた私は、そこでさらに突っ込みました。
「どうしてですか? 誰の役にも立たなくて、世の中に自分の能力を還元できないような人生に、何の価値があるんです?」
その先生は、また笑いました。
「うーんとねぇ、たとえば赤ちゃんのことを考えてみたら?」
「赤ちゃん?」
「赤ちゃんは、何にもできないでしょ? 食べることも着ることも、全部、誰かにやってもらわないといけない。自分では何の能力もないでしょ。でも親は、そんな赤ちゃんを疎ましいと思わないどころか、喜んで育てる。 だからさ、人間に、何かの能力があるから価値がある、というものではないんじゃない?」
この説明で、みなさんは納得できますか?
まもなくチャイムが鳴ったので、この話はそれっきりになってしまいました。そして、私はなんとなく納得できませんでした。赤ん坊の価値、というものについて、しばらく考えてみました。が、やはり、自分自身が子供を持つことにリアリティがなかったせいもあるし、第一、私はまだ言葉も喋れないような赤ん坊なんか、あんまり可愛いと思ったこともなかったんですよ。今でも、他人の子を、可愛いと思ってあやしてみたい、抱っこしてみたい、そんな欲求にかられることは、まぁ、滅多とないんです。で、「なんだかよくわからないなー」で終わってしまったんですね。


自立と共生 W

さて、前回は「なんだかよくわからないなー」で終わってしまったんですが、それ以後、私はその疑問について、何度も考えさせられることになったのでした。

最愛の恋人が病気になって入退院を繰り返したり、ただひとり親友と呼べる友人が親子関係や金銭問題で苦しみ抜くなどのシビアな出来事が相次いで起こりました。その度に、そこに巻き込まれた私は、自分の無能さ、非力さを嫌というほど思い知らされたんです。
世の中に自分の能力を還元するどころではない、ほんとうに大切な人が、目の前で心底つらい思いをしているというのに、私にはそれをどうすることもできなかったんです。評判のいい医者ひとり、腕利きの弁護士ひとり、私には紹介することはできません。ただ一緒になって、どうしたらいいだろうと悩み、泣くだけしかなかった。けれども涙で現実は動かない。それでいて、私自身は健康で、いったん家に帰れば安定した家族関係を持ち、贅沢ではないけれど何不自由ない暮らしをしているんです。
これはいったい何なのかと、つくづく私は考えざるをえませんでした。
彼も彼女も、私にとってはほんとうに大切な、愛すべき人間です。彼らによって教えられたこと、救われたことが多くありました。私の何かが彼らより優れているからと、運命が私を優遇してくれるわけでは決してないんです。ただ、それは「たまたま」にすぎないんです。
この現実の不公平さに、私は憤りを感じると同時に、ある種の負い目も感じました。なぜ、彼らは変わらずに私を愛したり頼ったりしてくれるのかと。
「あんたに私の本当の苦しみなんか、わかるはずないでしょ」
そう言われたとしても、仕方がないと思ったんですよ。でも、彼らは言わなかった。そのことが、何一つ実際の力を持たない私にはつらかったんです。

不思議なもので、そのうち私自身にも、厳しい挫折感を味わう出来事がありました。そこから立ち直るのに、二年はかかりましたが、その間、外から見れば私は、もはや子供とも言えぬいい歳をして、毎日を家のなかで無為に過ごしているように見えたことと思います。けれども私自身のなかでは、日々、神経をすり減らす葛藤がありました。私はいったいどの角を曲がり損ねてここにきてしまったのか、どこでどう道を踏み外してこんなことになったのかと、そんなことばかり考えていると、時には自分が生きているということすら、どうでもいいことのように思えました。
家族にとっても、私のそんな姿を見るのはつらかったに違いなく、私は恐らく自分の家族までに挫折感を味わわせていたと思います。でも、誰も何も言いませんでした。仕事に出ろとも、何をどうしろともあまり言わず、ただ私のそんな状態を見守っていてくれました。誰の、何の役にも立たず、失意にかまけて無気力にぶらぶらしている私を、ただそのままに受け入れてくれていたんだと思います。才能や能力に固執し、自己の力を証明しようと意気込んでいた過去の私を考えると、これはいかにも皮肉な展開ではありませんか。
けれども私は、どんなにつらい気持ちで眠れぬ夜を過ごしたとしても、誰にも「私の本当の苦しみなんか、わかるはずないでしょ」とは決して言えませんでした。言えるはずがありませんでした。そして、なぜ、以前の恋人や友人が、私に向かってそう言わなかったのかもわかったんです。
失意のなかで、そのことに感謝できたからこそ私は、葛藤の日々から再び生の実感を取り戻せたのでした。その「気づき」がもたらしてくれた喜びは、心よりもっと奥底、人間の中心まで染みとおってそこから徐々に広がるもの、その中心地が魂のありかなのだと、私には思えます。その中心地から、人は生きながら死ぬこともあり、また、息を吹き返すこともあるものなんです。

男であろうと女であろうと、真に自立して生きるとは、自分の好きに行動するための経済力をつけること、自分だけに感じられる幸福や心地よさを追求すること、そういうものではありえません。
それだけだと思うなら、きっとそれは自立でなく、たんなる孤立です。
なぜなら人は、少しずつ手を貸し、少しずつ依存し、何本もの手に支えられて生きるのが、自然なあたりまえの姿だからです。依存している、されているといっても、普段は見えないかもしれない。意識もしないかもしれない。でも、肩肘はるのをやめ、ひがんで泣くのをやめ、怨んで歯ぎしりするのをやめ、少しは警戒心や猜疑心を捨て、忙しく算盤勘定するのをやめてみれば、見えない手が何本も伸びて複雑な網状に交差し、人が人を、お互いを支えあっているのが感じられることと思います。物質的な側面、あるいは精神的な側面で。それがたとえどんなにはかない絆がつくる網の目でも、それを無視したり、そこからこぼれ落ちて生きられる人はいないんです。誰も。みんながその見えない網の目のどこかに生きているんです。
あえていえば、目には見えないその姿を心で見ることが、真の自立には不可欠なのではないかと思います。
それはなぜか。この世の中も、人間も、すべてが常に流転しながら、常に不完全なものとして存在しているからです。

人は平等に生まれてはきませんし、実際のこの世は必ずしも善意や善行が報われる場所ではなく、平気で不合理や不平等がまかり通ることもある、恩寵なき世界です。まだ何にも知らないうちから、ある国籍や性差、貧富の差、肉体的にも精神的にも、さまざまな能力の強弱や限界をもって生まれ落ちてくるんです。
それは、一部の宗教者が言うように、前世の報いなのでしょうか?
そんなことは私にはわからない。そう信じることで納得がいくのなら、それもいいでしょう。けれども、私がいま思うのは、やはりそれは、「たまたまの偶然」にすぎない、と考えたほうがいいんじゃないか、ということです。
ビル・ゲイツが億万長者になれたのは、なるほど彼独自の才覚によるものでしょう。それは目に見えるところでの真実ではありますが、けれども、そもそもその才覚は、いったいどこから彼にもたらされたものか、というと、これは彼自身もあずかり知らぬところなのではありませんか?
私たちはなぜ生まれて来たのか。
宇宙はなぜできたのか。
そんな永遠の問いと同じ、我々には、その答えは決して知り得ないことのように思うのです。前世があるかないか、来世があるかどうか、すべての人が納得できる確かな結論が決して出ないのは、それはそれでいいからなのではないでしょうか。知り得ないがゆえに、私たちは自分の生まれ落ちた環境や条件を、いわば、自分の意志と無関係に与えられた不完全な「借り物」だと思うことができる。私たちは、みんな、個々に「借り物」を持たされて生まれ、それにとらわれ、あるいは縛られ、あるいは上手く使いこなしながら生きていくわけです。
そう思えば、持って生まれた運命に自分を同化させ過ぎることなく、ものごとを見つめることができる。そして、そういう真に「自立した」視点があればこそ、常に流転し、常に不完全なこの現実のなかで、個々が驕り過ぎたり卑屈になることなく、互いの不完全さを補いあうべきだということが、おのずと見えてくる。それぞれに与えられた運命のなかで生きてはいても、私たちはもっと謙虚に共生することができるのではないかと思うんです。



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