性の不平等

低用量ピル解禁で、日本でもバースコントロールに関しては、実際上、どうも女性のほうに「産むか産まないかを決める権利」があるということになってきたような気がします。私は、これって凄いことではないかと思うんですが。

ピル解禁に関しては、さまざまな意見が聞かれますが、いくら低用量といったって、ホルモン剤を毎日飲み続けるわけですから、身体にはそれなりのリスクがあるわけでしょう? 女の私としては、ただでさえ楽してる男って、女にそういう処理を全部まかせることで、よりいっそうバースコントロールについては、なぁんにも考えなくてもよくなるわけ?と、いささか割り切れない気もちでした。
いまも、やっぱりそういう気もちはあります。でも、男には絶対に子供を産めない以上、自分の子供が欲しければ、やはり誰か、女に産んでもらうしかないわけです。で、昔から言われていることだけど、それがホントに自分の子かどうかは、男にはわからない。今では、しようと思えば、自分の子かどうか確かめるために遺伝子の特徴を照合したりもできるわけですが、女性に上手く言いくるめられて信じきってたら、わざわざそんな面倒なことしないでしょ。考えるに、性って不平等だなと思いますね。

「はやく子供をつくろうね」と言って結婚したカップルでも、実は妻が子供なんか欲しくないと思っていて、こっそりピルを飲んでいたら、夫のほうは「なんだかわからないけど出来ないね、不妊なのかな」とでも思うしかない。女性に「産む産まない」の選択権を握られたら、男の人の「自分の子供が欲しい気もち」ってのは、いったいどうなるのでしょう。男の人でも、けっこう子供の好きな人っているでしょ。
あるいは、火遊びだと割り切ってた相手から、「ピル飲んでるから大丈夫」などと言われて安心してたら、実は飲んでなくて、いきなり「出来たの。あなたの子よ。私、産みますからね」って確信犯的パターンも怖いですね(~_~;) 自分がいわば知らない間に「種馬」になっていた男性の気持ちって、どんなでしょう?

でも、これは仕方ないのかもしれません。だって、産むことに関しては、今のところ、ほとんどすべての精神的肉体的労力を女性が負担することになるんですもん。
私も結婚してからマタニティ関係の本にはいちおう目を通してますけど、はっきりいってその赤裸々な内容を読むと戦慄しますよ。そこらのホラー小説よりよっぽど怖い(~_~;)・・・というか、え〜っこんなことまで我慢すんの?って感じ。ほんと、もうちょっと楽に、どーにかできないのかって思いますねぇ。これだけの苦労をして人間ひとり産み落としたら、やっぱり自然と「この子は、お腹を痛めて産んだ私のものよ」と母親が思うのも無理ないですよ。お腹に胎児がいる間は、ほんとに自分の一部としてそれが存在するわけだし、そのうえ母親の産む労力とそれにかかる忍耐を考えたら、生理的にそう実感しちゃうと思うんです。それにくらべりゃ、いったい父親って、自分がなんにも体感しないうちに生まれてくる子供に対して、どんな感情を持つものなんでしょう?

なんかねぇ、試験管で受精させて、人工子宮みたいなところで育てることに成功したらいいなぁと思うんですよね。そしたら、定期的に夫婦そろって病院に行って、ガラスごしに胎児とご対面して、「わー、みてみて、心臓が動いてるのが見えるよ」なんて言い合って感動して、医者には、「よろしくお願いします」って頭さげて帰ってくる。両性が納得づくで子供を持てるし、子供の誕生日だって好きに決められるし、たとえ子供が少しぐらい自分たちの思い通りに育たなかったとしても、「せっかくお腹痛めて産んだのに」なんてドロドロした悲壮感が少なくて、いいんじゃないかと思うんですけど。駄目でしょうか(~_~;)


世間知らず

うちの実家は自営業だし、私自身が会社勤めをしたこともないので、私はサラリーマン生活というものを実はあまりよく知りません。会社は疑似家族みたいなものだと誰かが言っていましたが、ぜんぜんピンと来ない。
大学をでて唯一、私がある程度の期間続けて働いたと言える職歴は、教職だけ。教職の実態はひとりひとりがあるテリトリーをまかされて働く形態ですから、会社という家のなかに社長という家長がいて、その下に社員という子がいるという封建的な疑似家族組織とはまったく違う。もちろん、校長は学校を運営するうえでの権限をもってますが、端的に言えば「校長から給料もらってるわけじゃない」し、学校は営利目的の組織ではありませんから、会社の上下関係とは性格が違うんです。

昔から私はこういうお金がらみの上下関係というか、権力構造がどうも苦手です。なんか、生まれつきなのか成長の過程で獲得し損なったのかは知らないけれど、そのあたりを上手く立ち回るセンス、「ご奉公する立場としての心得」みたいなものがスッポリ欠落してるみたいなんです。これを、大多数のサラリーマンやOLから見れば、「世間知らず」というのだろうなぁと思います。
とにかくそれが原因で、たまにアルバイトでもすると必ず一ヶ月ぐらいで、すごく居心地が悪くなるか、すごく馬鹿馬鹿しくなって、けっきょく自分から辞めてしまう羽目に陥る。普通の職場では、私がどんなに努力して控えめに振る舞っているつもりでも、やっぱり周囲からはどこか異質に映るようなんです。私をよく知っている友人からは声をそろえて、「あんたのその目つきが違うんじゃない?」と言われるんですけど、そうなのかなぁ。これでもじゅうぶん媚びてるつもりなんだけど。私にはこれ以上自分を卑屈に見せる演技力がないのだとしか思えません。よく、アルバイト先で友達ができたとか、勤め先の同僚と温泉へ行った、などという話を聞くと、なんで??と羨ましくなります。私には、教職以外のバイト先で、そんな楽しい思いをしたことなんか、ぜんぜんないんですよ。だもんで、辞めるときには、なんで続けられないんだろうと自分を責めもしますけど、それでも、自分本来の命が甦ってくるような解放感があることは否定できないですね。

仕事そのものの内容にはさほど関心がなくて、お金が目的だけでやっていると、私の場合は駄目です。お金にそれほど執着するタイプではないので頑張りがきかない。というのも、日本では、バイトは人生の切り売りだと思って、その時間内だけドライにやることだけやる、という考えでは許してもらえないみたいですから。要するにその場にのめり込んで、苦労を共にするというウェットな姿勢がなきゃいけない。嫌なことでも理不尽なことでも、それを改善しようというよりは、とにかくお互いに我慢しあって、そのなかでいつしか仲間として認められるようになる、ということです。
でも、私にはそこまでのウェットさがないんですね。理不尽な労働形態を改善できないのは経営者の無能だと思ってしまうので、それを我慢するということができない。肩をすくめて、「あのねぇ、たかが時給数百円のバイト、何の権限も社会的保証もないのに、そこまで他人の会社(儲け)に忠誠心ささげる義理があると信じてんの、あんたたち?」と思ってしまう(~_~;)
労使間というのは、本来、対立しても当たり前だし、それをどうさばくかがトップの力量のひとつでもあると思うんですが、たいていの職場では使役される側が底辺であるほど、もうマゾ的に倒錯しきっていて、働くうえでの不満が上には向かわず、同僚たちの間でセコイ争いが起こるのが奇妙です。
で、決まった時間すぎてもなかなか帰れないとか、会社の都合でいきなり休日が変更されるとか、扱いはバイトなのに正社員なみの責任だけは要求されるとか、くだらない忘年会に会費出してまで半強制的につきあわされるとか、そんなことが積もってくるとやっぱりヒジョーに馬鹿馬鹿しくなってきます。
まぁバイトを例にあげましたけど、社員でも派遣でも、身分こそ違えど、利潤追求の権力構造のなかで働く意識って同じだと思うんですね。だから、みんなそういうことを我慢してるんだ、それが当たり前なんだと、よくいわれるんですけど、そういうセンスの欠落した私には、どうしてもそれがものすごいストレスに感じられるわけです。女工哀史の時代じゃあるまいし、労働って滅私奉公じゃなくギブアンドテイクが基本でしょう? 「こんなの我慢しなきゃならないんだったら、お金なんかどーでもいいわ」と、ぶちキレてしまう。

まぁ、ワガママだと言われればそうなのかもしれないし、究極的に、それをしなきゃどうしても生きていけないというわけではないから、我慢できないだけなのかもしれません。もし、それをしないと食べることもできなくなってしまう、そんな状況に、不幸にしてなってしまったらどうしよう? それが私にとっては、生きるうえで起こりうる恐ろしい可能性のひとつなのでした。
でも、いまはどうなんでしょう? そういう社会的風潮って?
いまの学生なんか見ていると、私よりもよっぽど傍若無人で社会性とか常識とか忍耐心が欠落してると思うことがしばしばあるんですけど。見かけはそうでも、彼らだって、バイト先ではそれなりに上の人に媚びたり、何かを我慢したりしてるんでしょうか???
どうも私の見たところ、彼らにはそういう労使意識というのはないんですよ、ぜんぜん。自分が知らずに我慢していることが、会社のトップにとっては、どんなに都合のいいことか、そういう構造を知らないんじゃないかと思います。それによって、誰がどれだけトクしているか知らないから、徐々に「働くとはそういうことだ」という論理で刷り込まれれば、それをわりと当たり前のこととして受け入れていられるんじゃないでしょうか。従順、というのとはまた違うんですが。
それに、買いたいものがたくさんあるから、とにかくお金がほしい。働いてもらう側からすれば、たとえ、鼻ピアスでも、厚底サンダルでも、敬語を知らなくても、首相の名前が言えなくても、こういう「世間知らず」で「お金に執着の強い」若者たちは「そういう特徴に慣れてしまえば、あまり頭を使わない作業には案外使いやすい」ということになる。それプラス、自尊心が欠如していたりすれば、もうほんとうに都合のいい労働者ですよね。はした金を握らせれば、人間性が疑われるような危険なアルバイトでも平気でやってのける。援助交際みたいにね。
まぁ、忍耐心にも欠けてますから、ちょっとしたことで辞めますけど、この就職難、代わりの駒はいくらでもある。人事担当からすればいい時代です。


生きるために。

うちの実家は自営業だといいましたが、先日、私が実家へ帰っているとき、長年来の取引先である銀行の営業マンがやってきました。
訊ねてくる支店長とか担当の営業マンは、いろいろ変遷があり、その人その人の個性があって面白いのですが、以前の営業マンで私の記憶に残っているのは「ねずみ男」。ゲゲゲの鬼太郎にでてくる「ねずみ男」に似てたんですよ。でも、その「ねずみ男」氏は、雨の日も風の日も、黒い鞄を抱えて自転車に乗って来るんですが、まるで顔に貼りついたような不自然な笑みを絶やさない人なので、なんか余計に怪物じみた感じがしましたね。

さて、今度担当になった営業マンは私と同年代ぐらいで、なかなか人なつこそうな話好きです。うちの父とは、よくインターネットの話などして盛り上がっている。その日は、うちにいくらかお金を借りてくれといって、融資の話をもってきたのでした。でも、借りてくれと言われても、いまのところうちの会社では使いみちがない。さし当たっては不要な借金です。私は、うちの父がどうするのかと思って、興味深く事の成り行きをみていましたが、まぁ、最終的には借りることになったんです。「これも銀行とのつきあい」だということでしょう。私にはわかりませんが、お互い商売である以上、そこには何かギブアンドテイクがあるんだと思います。けれども、解せないのはそのお金の出所ですよ。

それは、貸し渋り対策として銀行に回されてきたお金なんです。景気が悪くなり、資金繰りに困った中小企業などでは銀行から低金利で融資を受けたいんだけれども、銀行は貸してくれない。そこで、仕方なくサラ金などに手をだした結果、雪だるま式に借金が増えて倒産する企業が増えている、こういう現象を緩和するための対策としてのお金です。それがいま、銀行のなかでだぶついて困っているというんです。で、しょうがないので、うちみたいに「借金する必要のない会社」にそれを借りてくれと言っているわけです。
こういう話を聞くと、何のための「貸し渋り対策」なのかと思いますよね。結局、銀行というのは、お金があろうがあるまいが、貸したくないところには貸さないんですから。
私は、その話を聞いてそう思ったので、「それでは、本来そのお金はそれを必要とする会社のためのものなんですね。うちみたいに必要としていない会社のためでなく」というようなことを言いました。すると、営業マン氏は相変わらず人なつこそうな笑顔を作りながら、「う〜ん、うちも慈善事業じゃありませんので」と言ったのでした。

あとで父から、「あの営業マンは内心困ってたぞ。あれはまだ若いし、けっこう純粋なところもあるから」と言われました。企業の目的は利潤の追求であり、なるほど慈善ではありません。彼にも彼の稼ぎを当てにしている家族がいるでしょうし、仕事のうえで何か疑問なりなんなりを感じたとしても、あえて自分としてはそれをしなければならないのだ、と思ってやっているんでしょう。それがまあ普通の人の普通の答えです。でも、まぁ私はべつに断罪してやろうと思ったわけでなく、彼がどう自分と自分の仕事を正当化しているのか知りたかっただけです。そういう意味では、彼が困る必要はなくて、私としてはもっと気のきいた答えが聞きたかったですね。

思えば、生きていくことは自己正当化の連続です。それができなくなると自殺でもするしかありません。
ここで自己正当化といっているのは、自分自身の行いや、或いは自分の生そのものを、正当なもの、価値あるものと肯定していくことを言っているんですが、それはときになかなか難しいものだと思います。有史以来、世の中はすでに不条理な構造に満ちているし、人間の肉体や良心や思考力はそもそも不完全なので、今後何年たっても、少なくとも私が生きている間ぐらいは、ほぼ確実にあらゆる場での不条理はなくならないでしょうからね。そんななかで、どうやって自己を正当化していくか。社会に対して、或いは自分自身に対して。これは厳しいことだと思います。

最近、派手な通り魔殺人が続けて起こりました。日本では銃が規制されているので死傷者もまだ少なくてすんでいますが、アメリカなどで似たような事件が起こるともっと事態は悲惨なことになってますね。
この種の犯罪って、犠牲者の方々には、ほんとうに降ってわいた災難で、怒り心頭だと思います。たいてい、殺す相手は「誰でもよかった」し、動機は「思うようにならず、むしゃくしゃしてやった」。訳が分からないのでよく精神鑑定などもされるんですが、私はこういう犯罪を犯す人って、善悪の見極めがつかない、まったく責任能力がないような精神状態ではないと思うんですよ。ただ、この人たちは、自己正当化に失敗したということなんじゃないかなって。社会に対しても、自分自身に対しても。だから、ある意味で、自殺したんじゃないかなって。そんなふうに見えるんです。
犯行まえに念入りな準備をしていたとしても、犯行後、逃走しきれるとは初めから思ってないし、つかまることは承知のうえでやっている。アメリカの銃乱射事件だと、犯人はさいごに自殺したりしている。
これを見ていると、犯人は、もう生きているのが嫌になった、誰も、どこも、自分を認め、受け入れてはくれない、もう生きていても何の望みもないように思う、それで、いっそのこと、見知らぬ他人まで巻き添えにして確信的に自殺行為をはたらいたのではないかと思えてくる。わがまますぎる犯行の重大さとはべつに、その追いつめられた絶望的な心情というのは、痛ましいような気もします。

生きにくさというのは、多かれ少なかれ誰でも感じることがあると思います。自分の存在が、正当な価値あるものと、外から認められないと、誰でもストレスがたまります。でも、自分自身で自分を否定してしまうときほどのつらさはないと思いますね。それだけは、生きるうえで絶対にしてはいけないことであり、たとえ環境に強いられても、これだけはゆずってはいけないことのひとつだと私は思います。反省したり、落ち込んだり、そんなことは大いにすべきでしょうけれども、最終的には絶対に自分で自己存在まで否定してしまってはいけないんですね。生きられなくなるからです。
どんな努力をしても自分を認めてくれない場合がある。自分は駄目な人間なのかと一時は思っても、そこからまた自己正当化、自己肯定のプロセスに入らなきゃいけない。でないと、失恋ひとつ、離婚ひとつ、リストラひとつで自殺する羽目になる。ときには、全世界が自分に敵対、あるいは自分を無視しているように感じることもあると思います。でも、自分だけは自分を正当化していかなきゃいけない。言い換えれば、真に正当化できる価値を自分のなかに見出す、ということです。これは、生きざまそのものと不可分ですし、自分自身にしかできないことだと思います。

たとえば恋愛の相手から、配偶者から、親から、上司から、社会から肯定されて評価されると、私たちは安心します。自分は価値のある人間だと思えるし、この世界は生きるに値する場所だと思う。でも、それはけっきょくは他力本願の自己肯定ですね。その人たち、その世界がなくなったら、それもまた消えてしまう。
二十歳ごろ、私はすごくいい恋愛をしました。彼といると毎日が幸せだと思いました。でも、あんまり幸せすぎて、それがなくなるんじゃないかと思うとすごく不安で怖くもありました。彼がもしも不慮の事故で死んだら? もうそんなことを想像するだけで悲しくなったものです。でも、ある日ふと思ったんですよ。
「彼がいないと幸せになれない。そんな自分って、そんな幸せって、いったいなんだろう? 自分自身が自分の力で幸せになるべきではないのだろうか?」って。
そのときはどう考えたらいいかわかりませんでした。いまでも、やっぱり考え続けています。
自分が生きていることの価値について。
これだけは自分自身でみつけないと、意味がありません。そして、それがあるかないかと言われれば、答えは決まっています。ある、と。
それは誰でもそうなんです。その「ある」に、しっかりとたどり着くまでの自己正当化のプロセスは、ときに厳しいもので、自分を肯定するためには、多くの他人や世界のあり方を否定するしかない、そんなときがあるかもしれない。でも私は、あえてそうすべきだと思うんですね。自分が自分として生きるために。
ほんとうに自己正当化がちゃんとできたら、他人の視線におびえたり、くるくる変わる社会の尺度に必死で追いつこうと焦らなくてもいいんです。誰に認められないからと怨まなくてもいい。自分を含め、誰を殺さなくてもいいはずです。これは、自己完結して閉鎖するという意味ではありません。外へ向かって生きる原動力を得る、ということです。


求愛の基準

大学時代、同じクラスにすごくちゃっかりした、というか、私に言わせれば拝金主義的な女の子がいて、誕生日に彼氏から何を買ってもらったとかいって嬉しがっていましたが、一緒にいるといつも違和感ありましたね。なんでこの子はそんなことを自慢したがるんだろうって。
彼女にしてみればきっと、「私はこのダイヤのペンダントに匹敵するぐらい愛されてるのよ」、ということなんでしょうけど、どうも私は男の人にモノをもらっても、さほど嬉しくないんですよ。それは子供のとき親からお年玉をもらってもあまり嬉しいことだと思わなかったことと通じています。なんか、そういうプレゼントやお金って、そらぞらしいというか、リアルでなくて。誕生日に何が欲しい?なんて聞かれても、とりあえず何も思いつかないので困ってしまう。たとえばアクセサリーとか、バッグとかだったら、自分で好きなものを好きなときに買いたいんですね。そんなものは自分で買えるだけの経済力が、自分自身に欲しいです。私が一番欲しいのは、それですね。でも、こればっかりはね、誰かからもらうわけにはいかないし。

こんなことを言っているので、私はいわゆる男女平等を唱えている人かというと、そうではないんです。私は男の人に、これだけは絶対に出して欲しいと思うお金があって、それは何かというと、食事代。はっきりと友人以上の関係にはならないとわかっている相手とか、ずっと年下の相手という場合なら割り勘にしますけど、少しでも男女の感情を共有している相手だと、絶対にデートの食事代は割り勘にして欲しくない。それだけはなんか許せないんですよね。もちろん、その他にデートにかかる費用、映画の切符代とかは割り勘で払ってもいいし、時には私がおごってもいいんですが、食事代だけは払って欲しいんです。雰囲気のいい場所でゆったりと食事して楽しい気分になったあと、さっと会計でお金を払ってくれる男の人の後ろ姿に、なぜか私は一番、頼もしさとか愛情を感じるんですよね〜。

誕生日に花なんか贈ってくれなくてもいいし、クリスマスに指輪なんかくれなくてもいいから、とにかく毎回のデートの食事代は惜しみなく払って欲しいんです。着るものにあまりお金をかけないのはいいと思うんですが、女性との食事代をケチる人は生理的に嫌ですね。デートで牛丼屋とかラーメン屋に入る人って信じられない。そもそも私はひとりでも、誰とでも、どんなシチュエーションでも、そういうところで食べたことはありません。ファミリーレストランなら我慢しますが、子供が走りまわっているようなところはパスです。私はとりたててグルメでもないし、食べる量も知れてるんですが、でも、こぎれいなところできちんと食事をしたい、という気もちは強くて、ガヤガヤした雑な場所では落ち着かないし、食べたくないんですよ。そういうところで食べるという行為自体が、すごく惨めなことに感じてしまう。流行遅れの服を身につけているよりもね。

夫とまだ知り合って間もない頃にそんな話をしたので、結婚した今でも外食したあとお金を払うのは彼の役目。ちなみに、うちには「夫のお小遣い制度」はありません。なんでもかんでも二人のお金、ということになってますから、べつにどっちの財布から払っても同じなんですが、外食をするときはもう反射的に彼が財布をだすという習慣がついています。気分の問題ですね。
でも、こういう気分って、すごく原始的で本能的なことなんじゃないかと思うんですよ。ほら、昆虫や鳥や動物って、オスがメスに食べ物をプレゼントして求愛することが多いじゃないですか。あれですね。まず生活の基本となる「食」を差し出して、メスに「つがいになるのに値する」相手であるとアピールする、それがオスの求愛行動の本質だと思うんですよ。私なんか、この理論はすごく具体的でわかりやすいなと思います。思わず、うんうんそうだそうだとうなずいてしまう。オスって本来そうすべきモンなんですよ。まぁ、人間だからダイヤとかスカーフを差し出してもいいんですが、そういうのって、なんか抽象的じゃないですか。たとえば食事代は割り勘なのに、そんなのたまにもらっても、なんか本能的な部分が満足できないんですよ。年に一度のダイヤより、日々の食事。私はそれを求愛の基準にしてるんですよね。とってつけたように記念日の花束をくれる人より、普通の毎日を楽しく快適にすごせるように心使いをしてくれる人、女性にとってそういう人がほんとは一番いいんだと私は思うんです。



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