恋愛の醍醐味

異性にもてることと、自分で満足できる恋愛や結婚ができることとは、また別のことだ、と誰かがホームページで書いていて、読んだ私は激しくうなずいてしまいました(^^)

「もてる」っていうのは受け身なんですよ。
自分が何にもしなくても、異性のほうから勝手にアプローチかけてきてくれる。「つきあってくれませんか?」といわれて自分はイエスかノーかと考えるだけでいい・・・という状態が「もてる」。
これって、一見いいように見えるでしょ? それなりにプライド満足させられるし。でも、面白いかっていうと、ぜんぜん面白くないんじゃないかと思いますね。結婚して以来、すっかり恋愛には関心がなくなってしまったけれど、私が思うに、やっぱり恋愛の真髄は「狩りの醍醐味」なんですよ〜(^o^)

と、偉そうに言っても、私自身はそんなに「もてた」という経験がないんですが。まぁ、鈍感なのでどっちつかずなアプローチは見逃してしまっていたということもあるようです(後から判明した)。それに、だいたいが、好きな人以外は眼中にないタイプだし、自己主張がはっきりしているので、気弱な男の人はそのへんで自信がなくなって「引いてしまう」らしい。僕とつきあって、なんてうっかり告白すると「え〜っ、私そんなつもりぜんぜんなかったのにぃ」とかいって、ケラケラ笑われるんじゃないかと思ってた、と言ってた男性がいました。私、そこまで人に対して思いやりがないように見えたんですかねぇ(~_~;)

思春期の頃はこういう性格が原因(だったと思う)で、自分の思い描いているような恋愛もできず、多少コンプレックス気味に、私には女の子として魅力がないのかと半分気弱になってました。まあ、根は傲慢なので、「いやいや、私の良さがわからない周囲の男がアホなのに違いない。時期を待てば、もう少しもののわかった男が現れるだろう」などと考えては自分を慰めてもいましたけど。でも、その頃はなんとなく、自分からアプローチするなんて恥ずかしいし嫌だな、「もてる」ほうがいいと思ってました。ラクだし、こっちは傷つかないじゃないですか。自分にいまいち自信がないと、保身的になるんです。でも、人並みに恋愛や別れも経験して、自分が追いかけたり、たまには追いかけられることもあった今となっては、どうも私にとって、恋愛の醍醐味っていうのは、自分がパッションをもって「追いかける」という行為のなかにあると思えるんですよ。
やっぱり、好きでもなんでもない人から、追いかけられても、なんか満足感がないでしょう?
いろいろ苦心して自分の望むものをゲットした瞬間の、あの「やった!」という深い充足感というか、喜びに比べると、「もてる」という受け身の状態は、案外つまんないんじゃないかと。「もてた」結果、さほど好きでもない相手を、たとえいいように振り回してみたり、偉そうに振る舞ってみたところで、そこで得られる快感って、けっきょくのところ、「愛情獲得の快感」じゃなくて「権力獲得の快感」ですから。ぜんぜん質が違うもんでしょう? どっちが好みかというと、私は前者ですね。

まずはこういう作戦でいこう、これで駄目だったら・・・・なんてドキドキしながら相手にアプローチしていく、そのこと自体に恋愛のスリリングな快感がある、そう思いませんか? なんていうか、肉食獣になったような気分ですね。遠くから忍び足で獲物をだんだんに追いつめていく、獲物が気づいたときには、もうこっちは一気にジャンプしてその喉笛に爪をかけている・・・
もし、最後の最後で狙いをはずしたら?
しょうがないですね、すきっ腹かかえてまた獲物を求めてさ迷うだけ。狩りに失敗したハンターはいつも惨めなもんです。でも、そこから学べることって多いと思うんですよ。今度はこうしよう、ああしよう・・・涙と反省のなかで、だんだんに気づいていくことって、自分にしっかり蓄積されるし、心の血肉になるんですよね。

なぁんてことを夫に言ってたら、夫は深ぁ〜い疑いの眼差しで私を見つつ、呆れた口調で茶化すんですよ、「あんたって、なんでそんなに傲慢やの? 『私の良さがわからん男がアホ』やなんて、どないしたらそこまで自己中心的に根拠のない自信を持てるんかわからんな。ほんま、謙虚っていうことを知らん人間は怖いわ」と(~_~;)
だってねぇ、自分で自分を評価しなかったら、いったい誰がほんとうに評価してくれます?
自分を好きになれない人が、どうやって誰かを好きになれます?
やっぱりね、自分の輝きを支えるのは、自分でしかないんだと私は思うんですよ。
私は孟庭葦の「喜歓自己」という曲が気に入ってるんですが、

♪喜歓自己 有自信美麗的瞼 / 喜歓自己 能勇敢的去夢想
那是我 不為誰改変 / 愛我的人 他必須了解♪


(自分が好き 自信に満ちた美しい顔が / 勇気をもって夢に向かって行ける自分が好き
それが私だもの 誰かのために自分を変えたりしない / 私を愛してくれる人なら きっとわかってくれるはず)


この美しい顔っていうのは、もちろん顔の造作のことじゃないんですよね。自信が人を美しく見せるってことなんですよ。それって、傲慢とは違うんですね。自分のかけがえのなさを信じるってことなんです。信じられる何かを持つってことなんです。私はそう思うんですよ。

もう私は結婚もしたので、いま恋愛という狩猟に参加したいとは思いませんが、まだシングルのみなさんには、自分の一番大切にしている何か、これこそが自分らしさだといえる何か、そこにこそ自信をもって、パッションあふれる愛の猟犬と化してみることをオススメします。
きっと、これまで眠っていた狩猟本能が目覚めると思うんだけど・・・(^^)


家庭内のルール

このまえ、夫が高校時代のクラブの同窓会に参加してきました。
彼が結婚したというと、みんながびっくりして「どこで知り合ったのか」「どんな女性か」などと質問攻めにあったということでした。まぁ・・・わかりますねぇ。その情景というか、そう聞く人たちの心情。きっと、「こんなヘンな奴と結婚した相手って、どんなんやろ?」ということなんでしょうけれども・・・(~_~;) 客観的に自分が夫の友人だと想像してみたら、たぶん私でも、そう言ったことでしょう(だんだんそう思うようになってきました)。
で、夫以外はもう結婚している人が多かったんですが、その「先輩」方いわく、「家庭内のルールは、結婚して二ヶ月が勝負」だということです。帰ってきた夫は、「そんなん知らんかった」と残念そう。彼にしてみれば、これまで家庭内のルールは全部、私が決めていると思っているんですよ。いわば、ルール作りの勝負に負けた、ということですね(^^)

そもそも結婚するまえから、当人たちの間ではいろんな意味で勝負が始まってるんですよ。たとえば、どこに新居を構えて、どんな家具や家電製品を買うか。どんな結婚式や披露宴をするか。現実的に、決めていかなきゃいけないことが、山のようにでてくる。お互いの価値観の違いが、このあたりからだんだん摩擦を起こしてくるんです。
うちの弟ですが、このたびお見合いで知り合った女性と結婚することになり、めでたく結納もすませ、この十一月の結婚式までの間に二人で巣作りに励んでいるわけですが、先日実家にいくと、なんだか家具のことでもめている。どうも彼女とそのお母さんの選んだ婚礼箪笥の色とか雰囲気が、弟にしてみればあまり好みではないみたいなんですよね。で、わりと近くの家具屋さんなので、私と母で現物を見にいって、どう思うか聞かせて欲しい、ということなんです。なにも弟たちの買い物に口出しするつもりはないんですが、日頃から私はうちの弟の美的センスに深い疑問を抱いているので、やれやれ、どんな箪笥かは知らないけれどコイツも皆の意見を聞けば納得するだろうと思い、見にいきました。すると、案の定、それは上品な色合いのステキな箪笥でした。品質といい、デザインといい、これなら一生ものの買い物にふさわしい、と思えるようなものだったので、私も母も、「問題なし」の太鼓判を押したんです。弟には、「やっぱり、あんたのセンスが悪いということがわかった」といっておきました。弟はなおも、あれは少し高価すぎるんじゃないかというんですが、だいたい、とりあえず安価 なものを買って、いつか買い替えようと思っても、なかなか大きな箪笥などは買う機会がなくなりがち。はじめから、ずっと持つつもりで、少し背伸びしてでもいいものをはりこんでおくべきですよ。婚礼家具はケチらないのが正解だと思います。

男性と女性では、やっぱり趣味が違うというか、着眼点が違うときが多々あるんです。でも、室内やキッチンのインテリアとか、何をどこへ飾る、収納する、そういうことは女性にまかせておいたほうがいいと思うんですよ。たとえ彼女の趣味がひどくて、毎朝キティちゃんのトースターで焼いたパンを食べるような情けない羽目に陥っても、職場で大半の時間を過ごすことになる男の人なら、なるべくそんな些細なことは我慢したほうがいいと思うんですよね。一般的にいって、女性のほうが、実生活の細かな点に対するこだわりが強いので、そういうことに満足しないと、家事能率も落ちると思うんですよ。男の人が結婚する相手に、さほど家事能力を期待してないとか、相手のほうが稼いでいるから自分が家事をする、などというパターンならいいけれど、相手の女性にある程度以上は家の事をまかせるつもりなら、彼女の好みとかやり方にあわせていかないと、なかなか上手くいかないんじゃないかしら? 実際にそれをするのは、相手なんだから。妻の家事に口出しするときは、それなりの気配りがいると思いますよ。「自分の実家ではこうしていた」などと、安易に自分の母親のやり方を口にしてしまうと、たいてい話がこじれて夫婦仲そのものが冷えますね。

ま、うちでは、なるほど私の意見がほとんどルールとしてまかり通っています。それは、とある年長の先生が、結婚のパーティーのとき、夫にこう助言してくれたからでした。
「あのな、結婚したら男っちゅうモンは、家の中では居候なんやと思え。そしたら万事うまくいく」
私はそのとき、「しめた。これはいいことを聞かせてくれたぞ」と思い、このセリフをしっかりと頭に刻み込んだのです。ほんと、そういうもののわかった先生がいてくださってよかったことです。以後、なにか家の中でもめそうになるたび、これを呪文のようにとなえては夫を洗脳してきたのでした(^o^)


コミュニケーション

夫がサンフランシスコへと発ちました。今ごろは、ひとりで機内食でも食べて映画見てると思います。いくら人類が月に行ける時代だといっても、太平洋を超えるのに十時間も飛行機に乗らなきゃならないんだから、ちょっとつらいですね。狭いエコノミーの席ならなおさらですよ。いつかはエグゼクティヴぐらいに乗ってみたいと思いますけど。
遠いし、関空までは送りませんでしたが、関空快速のとまる駅まで一緒に行きました。夫が大きなスーツケースを持って電車に乗り込んだあと、だんだん心細くなってきたのか「どーしょう」と情けない顔をしてこちらを見ているので、ドアが閉まっても彼が見えなくなるまでは、ずっとホームで手を振っていました。
もうここまできて、どーしようもこーしようもないんですがねぇ。
根性据えて、やるしかない、ですよ(~_~;)
私もほんとに一緒に行けたらよかったんですけど。何の因果か、こんなことになってしまって。海外旅行や外国暮らしが好きな私としては、まだ荷物が散らかった部屋でこんなふうにスガシカオなんか聴いてるのは、やっぱり不本意なことです。

海外へ行くのが好きなのは、珍しいものや人との出会いを期待している、ということもあるけれど、それより、私自身のベースのどこかに「根無し草」体質があるんですよ。
たとえば、誰が誰と結婚したとか、あそこの子供はどこの学校に行って何をしているとか、そんなことを三世代以上にわたって村じゅうのみんなが知っている、うちの両親の里なんか、わりとそんな感じですが、そういう人間の「根っこ」が、もう容易に引きぬけないぐらい堅く固まってしまっている田舎って、なんだか真綿で首を絞められてるみたいで息が詰まりそうですね。社会的な鋳型や他人に映る私自身のなかに押し込められて、だんだんそれを演じていなきゃならなくなる、そういうのが嫌なんです。嫌だからと、何かを放棄できる人もできない人もいると思いますが、幸いにして、いまのところ私は、ある程度、嫌なことはしないですむ境遇にいられる。そのことには、常々感謝しています。

私は、絢爛たる歴史を誇るヨーロッパの都市も好きだし、雑多な貧しさのなかで親近感に胸がつまりそうになるアジアの街も好きです。アメリカには、好感というより、もう少し複雑な印象をもってますけど、これは、また実際に住んでみれば変わってくると思います。
私は、人が生きて、文化や生活の匂いがある街が好きなんです。人間ってみんな違ってるけど、でもわかりあえるんだなぁと、そう思える瞬間が好きなんです。通じ合えるというか、通じ合えるんじゃないかと思える、そんな瞬間が好きなんです。
たとえば見知らぬ異国で、言葉もうまく通じないとき、身振り手振りで一生懸命説明する自分と、それをまた辛抱強く理解しようとしてくれる相手がいて、それまでなかなか伝わらなかったことがふとわかってもらえた瞬間には、些細なことであっても、お互いに手を取って小躍りしたいような感動が湧き起こります。それは、コミュニケーションの原点が与えてくれる喜びなんですよ。なりふりかまわない、洗練されてもいない、こんなむきだしの思いやりが、コミュニケーションの原点なんだなって、心からそう思うんです。その思いやりのなかでは、人と人が手をとって生きることが、もしかしたらほんとうにできるんじゃないかと、そんなふうに感じられます。そして、自分にも他人にも少し優しい気持ちになれる。こうでないと、ああでないと、そんな思い込みから少し自由になれる。

ネットもいいけど、ケイタイもいいけど、もっとリアルなコミュニケーションが欲しいと思っている人は多いのかもしれません。ツールは出会いのきっかけにはなるけれど、リアルなコミュニケーションの与えてくれる喜びって、きっと生きる力とか思いやりの素なんですよ。いまの社会がどこかギスギスしているとしたら、ほんとのコミュニケーションが足りないんではないでしょうか。手に手をとる、そういう生きた接触というかね。
なりふりかまいすぎている、洗練されすぎている、便利すぎる、そんな環境のなかで、コミュニケーションの原点が見失われているとしたら、皮肉なことです。聖書物語では、バベルの塔が神の怒りによって壊されたときに、人間の言葉はばらばらにされてしまい、皆が散り散りになってしまったといいますが、ネットやケイタイは、ある意味では新たなる「バベルの塔」ともなりうるということでしょうか。


CALLING FROM SANDIA (1)

アメリカから電話があったんですが、どうも夫は、もはやホームシックというか英語恐怖症にかかっている様子。「なんにもしてないのに疲れる。もー、帰りたくなってきた」なんてぼやいてる(~_~;)
まぁ、はじめはそんなもんですよ。時差ぼけでボーっとしているところへ、いきなり英語のシャワーですからね。特に、日本人がひとりもいないようなとこに行ってるんだし。通訳してくれる人もいない。お世辞にも流暢とは言い難い英語で周りとコミュニケートしなきゃいけないわけですから、寂しいというか、心細くもなるでしょう。けれども、だんだん慣れてきたら、それもまた日常になってくる。二、三週間がんばって暮らしてみたら、一年ぐらいはなんとかがんばれるような気になってくるものなんです。
アメリカなんか、銃の恐怖などはありますけど、まだマシだと思いますよ。商社の駐在員なんて、もっと危険な国際紛争が起こりそうな地域とか、非常に衛生状態が悪い地域にも行かなきゃいけないことがありますからねー。ずっと以前、知り合いがアフリカのナイジェリアに行ってたことがありますが、寄生虫がつくので身につける洗濯物はすべてアイロンをあてないといけないし、マラリアにはかかるし大変だったと言ってましたね。

さて、サンフランシスコから車で一時間弱という距離にリバモアという小さな街がありますが、日本じゃあんまりその周辺の詳しい地図なんか売ってないと思います。外国人の観光とかショッピングなどとは、まったく無縁の街ですから。夫が行ってるのはそこのサンディア研究所というところ。ちなみにローレンス研究所は隣です。なんか、砂漠のなかにあるようなところらしいですね。
大学ならわりと自由な雰囲気なんでしょうけど、軍事関係の研究をしているようなところってけっこう管理が厳しく、顔写真つきの通行バッジがあって、それを提示しないと中には入れないんです。夫はそれをつけて出入りしてるらしいんですけど、家族は駄目みたいですね。私としては、行ったらちょっとは見学できるかもしれないと期待してたのに。そんな研究所の中なんて、見る機会はそうそうないでしょ?残念。


CALLING FROM SANDIA (2)

夫から連日の電話。自分で持っていったノートパソコンがまだどこにも接続できてないらしく、メールのやりとりはラボ(研究所)のパソコンを使うしかないので、お互いに英語で書かなきゃならないという煩わしい事情もあるけれど、たぶん日本語がいっさい使えない生活なので、じかに電話で話したいんだと思います。私のほうは、後から請求される電話代がどうなるかとおびえてるんですけど(~_~;)

夫は、異国でのストレスが、だんだんつのってきた様子。まだ4日しかたってないのに(~_~;)
アメリカへ行ったら、プールつきの家に住んでリッチな暮らし♪・・・と、いささか甘すぎる夢を描いて行ったのが悪かったのかも。いろいろ家も見てみたけれど、向こうはここ三年ほどで地価や家賃がかなり上昇しているそうです。便利で、なおかつ安全な地域で探すということになると、手狭な部屋でもけっこう高くつくみたいですね。もちろん、辺ぴなところでは、日本とはくらべものにならない値段で、テニスコートやプールつきの家が借りられますが。
べつに私はそんなに広い家に住もうと思わないんですよ。掃除も大変だし。どうせ一年で帰ってくるわけだし。多少の不便は忍んで、ほどほどに耐乏生活してもいいと思ってるんですけど。
現在、彼はラボの管理しているフラットに入っています。間取りは、2ベッドルームにリビング、バス、キッチンで、洗濯機や冷蔵庫に食器まで、生活用品は揃っているそうです。今は北欧から来た人と二人でシェアしているというんですが、十一月のはじめには、べつのフラットが空くので、そこを夫婦ふたりで使ってもいいということです。彼の報告では、ラボには自転車で行けるくらい近いし、近所にはスーパーなどもあるので、ふつうに生活はできる。ただ、なんか、まわりが殺風景なところらしいですけど。夫いわく、「アメリカって殺風景やで〜。やっぱりこんなとこに来るのん止めときゃよかったかも。ドイツのほうがよかったかもなぁ」と・・・おいおい(-_-;) まだサンフランシスコ見物もしてないのに。

じつは私も、心の底ではドイツについていくほうがいいなぁと思ってました。ヨーロッパの街って、どこでもそれなりの歴史があって好きだし、ヨーロッパ自体わりと狭いから、バカンスには周遊もできるじゃないですか。ドイツ人には勤勉、真面目、清潔好きという好イメージもあるし。
まぁ、ただね、そういう好みの部分を抜きにして考えたら、アメリカに行っておくというのがプラスであるのは確かだと思うんですよ。彼にしても英語にもっと慣れておくことは仕事のうえでも絶対に必要だし、なんといっても、いま現在、世界をリードしているのはアメリカでしょ。好き嫌いをべつにして、私は、アメリカの市民や生活の実態を見てみたいんですよね。観光でしか行ったことないですから。

ずっと以前、英語の堪能なある友人(♀)が一ヶ月ほどロスの知人宅に滞在していたんですが、帰国した彼女に印象を聞いたら、「向こうは、家も広いし、全体的にはリッチな国に見える。だけど、かなり病んでると思うよ」と。
なんていうか、「人間は強くあらねばならない、個性的に自己主張する存在であり、頭脳も肉体も若々しく優秀でなければならない、それこそが善である」というのが、もう社会的なコンセンサスというか強迫観念みたいになっている。まったりした老人力なんてのが容認される世界ではないわけです。だから人々は、ヒステリックなまでにタバコを排除するようになり、ジムやらカウンセリングや自己啓発セミナーや、ビタミン剤をはじめ、いろいろな薬が流行ってるんじゃないかって。彼女はそんなふうにとらえてましたね。

“Freedom and Independence”---- 自由と自立の実力社会。
前にも書きましたが、それって、非情な弱肉強食世界に流れて行きがちな価値観なんじゃないかなって思うんです。アメリカの医療技術は世界一だけど、費用も世界一高く、健康保険制度は先進国中では最悪といわれている、そのことがまさに象徴的な感じですよね。向こうでは保険に入る義務はなく、それも「自由」なんです。国民健康保険というものがないので、全部、民間の保険会社まかせ。ですから、お金がなければ保険には入れないということにもなります。実際、保険料もかなり高額なため、何の保険にも入っていない、入れない人たちが何千万人という単位で存在し、問題になっている。彼らの場合、恐らくは病気になっても病院では門前払いなんです。
そんな風土の国では、優しさや思いやりも弱さでしかなくなってしまう可能性がある。ビジネスでも、周りの事情を考えれば、自分の良心と葛藤しなけりゃならない結果になることってありますよね。これをすれば自分にはメリットあるけれど、そのせいであの人は損害を被るんだろうな、なんて場合。程度問題ですが、「こんなことまでして、得したくはない」と心情的に悩むか、「これがビジネスってもんだ」と割り切るか。後者が圧倒的に多ければ、もう徹底的に法的整備がなされないと駄目でしょう? 全体が生きるうえでの安全性が保証されなくなる。私の偏見では、他国に例をみない極端な訴訟社会であること自体が、アメリカがやっぱり弱肉強食国家であることの証明みたいに思えてくるんです。で、私としては、今後の日本だってやっぱり多かれ少なかれそうなっていくんじゃないかなと思うんですよ。だから、私たちのごく近い未来を見たい、そんな気もちですね。



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