一冊のトンデモ本から

矢追純一の「カラスの死骸はなぜ見あたらないのか」という本があります。雄鶏社からでています。
これを読んで、書評の欄に載せようかと思いましたが、この本をキッカケに、あまりにもあれこれと考えることが多かったので、ここにまとめてみようと思いました。

矢追さんはのっけから、「カラスの死骸はなぜ見あたらないのか?」という疑問を呈しています。都心には、あれだけ多くのカラスが舞っているというのに、誰もカラスの死骸が道端などに転がっているのを見ない、というわけです。カラスどころか、増えすぎて困っているハトの死骸も、私たちは見たことがない、というのです。そういえばそうだと私も思いました。常識で考えられるいくつかの理由----猫や犬が食べてしまう、腐敗して土に返るなど----は、検証してみるとどれも説得力がない。といって、誰かが掃除しているわけでもないようです。さあ、なぜでしょう、なぜカラスやハトの死骸が街にごろごろしていないのでしょう・・・・う〜む。
わかりませんよね?なぜなんだか。そこで矢追さんは言うんです、「ひょっとしたら、一瞬にして消えてしまうのかも」って。波動法といって、そういう考え方を提唱している人がいる、というわけです。その考え方でいくと、ある実体をもつものが、一瞬にして現れたり消えたりすることも、不思議ではないのだと。・・・ここまで読み進めると、「またぁ、もー、矢追さんってば☆」と言いたくなりますね(^^) そう、この本、世に言う「トンデモ本」なのかもしれません。なにしろ、サブタイトルが「あなたの常識がひっくり返る本」というのですから。
この話を皮切りに、矢追さんの「脱常識、脱科学のススメ」が展開されるわけですが、詳しく知りたい方は読んで頂くとして、言わんとすることの主旨は、近頃とても耳慣れたものに聞こえます。いわく、私たちは心を持たない科学技術が描き出す未来像を盲信してきた結果、もはやにっちもさっちもいかなくなっている。環境問題しかり、人口問題しかり。オゾンホールひとつとっても、どうにも修復不可能なところまできているらしい。かくなるうえは、もう唯物主義で、比較分析の挙げ句、全体をバラバラにしてしまう「科学的なものの考え方」をやめよう、ついでに資本主義の競争原理にもとづいた考えも改めよう、これからの社会はそういう「古い考え方」では、どうにもならない、競争して我勝ちにと突っ走るより、みんなが一体となって、この難局を乗り切るべきではないか・・・とまあ、こういうような内容なんですね。で、最後に、この地球的危機を解決するための具体的な提案として、宇宙コロニーの建設をすすめ、みんなでその楽園に移り住もうじゃないか、というんです。
脱科学を勧めておきながら、最後はやはり「宇宙コロニー」という科学技術の産物に頼る、という矛盾はさておいて、私が首をひねってしまったのは、脱常識・脱科学などと声高に叫ばねばならないほど、私たちは常識的、科学的な考え方などしているのかなってことです。

オウム事件に日本中が沸騰していたころ、誰もが考えたのは、「なぜよりによって、ハイテク好み・合理主義の現代っ子が、ああいった怪しげなカルトに他愛もなく洗脳されてしまうのか」ということだったと思いますが、私には、「最近の若者だからこそ」そうなんじゃないかな、という気がしてなりませんでした。
私は、あの上祐らと、いわば同世代。子供のころの人気アニメといえば、「宇宙戦艦ヤマト」であり、木曜スペシャルでは、さかんに矢追さんのUFO特集やユリゲラーのスプーン曲げをやっていました。そうそう、宜保愛子の霊視特集も、はずせません。今でこそ、そういったキワモノは各社とも冗談にできる範囲内でやっているふしもありますが、あの頃は、今よりもわりと真剣なつくりでした。雑誌「ムー」、「トワイライト・ゾーン」などが刊行されたのもあの頃。小学校では口裂け女の噂におののき、中学に上がると放課後にはコックリさんをやり、映画館へ行けば「エクソシスト」、「未知との遭遇」などに列をつくる。海の向こうでは髪を伸ばしたヒッピーたちが、ドラッグで神を見られると思い込んでいました。リチャード・バックの「かもめのジョナサン」を持っているのは、当時、ちょっとばかしオシャレなことだったんです。
私たちは十代の初めを、そういう文化的影響のなかで過ごしたわけです。霊感があるといえば神秘的な女の子を演出できたし、それがとりたてて周りからヘンだとも思われずに、むしろ自分で宣伝しちゃうような子もいました。ねえ、聞いて、あたし、霊感あるの・・・って。つらつら思い出せばまだいろいろ出てきますが、要するに、私たちはそれらのものにある種の郷愁さえ感じることができるほど、馴染んでいる、といえるわけです。そして、光化学スモッグや公害が騒がれたずっとあとにやってくるエコ・ブーム。そのラインの周辺に、科学文明批判・反省を基調カラーとする「ヤマト」から「ナウシカ」、「もののけ姫」の系譜があります。

ところで、見ていると、私たちの親世代はモノへの憧れが強いですね。彼らの少年少女時代は戦後の復興期でモノがなく、二十代に入ってやっと高度経済成長期、車やカラーテレビなどを次々に手に入れることが、夢の充足であり、わくわくするような楽しみでした。手塚治虫の「アトム」世代ともいえる。人類が初めて宇宙へ飛び出し、便利な工業製品が次々に開発され、未来はばら色、いろいろな問題は科学によって解決されるだろうと信じてきた世代。カップヌードルやボンカレーがものめずらしく、新鮮に映った世代。ちなみに、うちの母に環境汚染問題をどう思うか聞いてみました。答えは、やはり希望に満ちたものです。
「難しいことはいろいろあっても、人間ってそんなに馬鹿じゃないから、なんとかするんじゃない?科学技術だって、もっともっと進歩するだろうし」
つい深刻ぶって、「もう人類はお終いなんじゃないか」などと暗くなってしまう私たちとは、どうしてこうも違うのかと思わされますね。こういう人たちは、「最近の若い者」が、やたら自然回帰だの、喪失感だのというのを、理解できないんです。あんたたちは、大学をでて、パソコンまで使いこなしてるくせに、生まれ変わりだの霊だのって、どうしてそんなアホらしいこというわけ?って。私たちの時代より、よっぽど自由に生きて、便利なモノに囲まれて、心が満たされないって、いったい何よ、そんなの自分がわがままで幼稚なだけでしょ、とこうなんです。
確かに、矢追さんは、かつてはうちの母みたいなタイプと渡り合って、その容赦ない批判と軽蔑の眼差しにさらされてきたかもしれませんが、その子世代の私たちを落とすのは、きっとあっけないくらいたやすいはずです。なにしろ、子供のころ、スプーンに向かって「曲がれ!」と念じたことのない人は、私たちの世代には、そういないでしょうからね。

けっきょく、科学万能を謳う親世代も、長年の偏差値教育も、私たちに「ほんとうに科学的なものの考え方」を植え付けることはできなかったんではないかなと、私は今思っています。科学の原点とは、謎にときめき、謎を追求する心です。なぜだろう?どうなっているんだろう?これ以外にべつの見方はないか、他の人、他の状況から見れば、どう見えるんだろう、どうしたらこの現象を再現できるのかな・・・そういうことを面倒がらずに探求していく心なんです。幸か不幸か、少年少女の私たちに、謎と向かい合うときめきを与えてくれたのは、せわしなく数式を詰め込まれる物理や化学の授業でなく、UFOやコックリさんだった。けれども、UFOは気まぐれにしか姿を見せないようだし、コックリさんは「祟る」だのして脅かします。科学する心を養う材料には不向きです。私たちは、科学的という言葉を知っていても、自分がほんとうに科学的なものの見方をしているかどうかについては、いっこうに考えたこともないんです。常識にしても、科学的という言葉にしても、一方的に受け取ってきただけで、自分の頭でそれらについて、きちんと考えてきたことがない人がほとんどではないでしょ うか。いまさら、脱常識・脱科学などといわれても、そもそもそれら常識や科学的思考をきちんと身に付けているかどうか、そのこと自体がもはや怪しい状況ではないでしょうか。

なぜだろうと考え、試行錯誤の実験を繰り返しながら答えを見つけていく「科学的な」行為は、人間に備わった本質であり、生れたての赤ちゃんでもやる自然なことです。そのことが私たちを不幸にしているわけではないと思います。私たちを不幸にしているものがあるなら、それはむしろ、なぜだろうと考えないことです。誰かが与えてくれる結果だけを受け取り、自分で考え、疑い、迷いながら試行錯誤してみないことです。科学という悪者があたかも自分の外にいるように錯覚し、技術の成果を手にした己自身の安直な使い方は反省せず、責任をよそに転嫁して反省の痛みを避ける、その心の持ちようそのものが、私たちの未来を狭めているのではないかと思うんですね。こんな私たちの怠慢な自我肥大症を、「常識や科学的な考えはもう古い」などという言葉で、ますます甘やかしていいんでしょうか。
むしろ、私たちは常識、英語で言うとコモンセンス、つまり共通の感覚をやしなって、人殺しは大罪だとか、ナイフで脅すのは許されざる犯罪だとかいう、当たり前の感覚を尊重すべきではないでしょうか。私たちはむしろ、科学的思考を身につけ、自分の頭でなぜだろうと考えて、経済的な損得をはなれ、安易に結論に飛びつかず、客観的にいろいろな角度からものを見てみるべきではないでしょうか。それがあってはじめて、多くの人々の心を活かすことができるのではないでしょうか。

便利だけれど人間関係の薄っぺらな社会は私たちがつくりました。だけど、その同じ社会では、先端医療によって助かる命がある。子供を縛ったエロ画像を垂れ流すサイトもあれば、手に入りにくい希少な情報を教えてくれるサイトもある。援助交際を募るテレクラに使われる電話もあれば、どうしても恋人と会えないときに慰めになるのもやはり電話の声。パソコンや電話が私たちを殺伐とさせているのでしょうか。私たちが私たちを愛せないのは、機械が間に立ちはだかっているからでしょうか。私たちは、何も手足を拘束されているわけではないんです。機械が邪魔なら会いにいけばいいし、そうなれば交通網が発達していることに感謝せねばならないでしょう。私たちに、うるおいや愛を感じられなくしているのは、私たち自身の心のありようではないでしょうか。敵はどこかにいるのではない、それは私たち自身のなかにあるのではないでしょうか。
私たちの心自体が尊重に値するものにならなければ、それがなおざりにされるのも、無理はないことです。


作者と作品と

よく、芸術作品でも小説でもHPでも、ある程度印象的なものを見たとき、「ううむ、こういうものを作った本人は、どういう人なんだろう?」って、好奇心がわくことがありますよね。作者と主人公をシンプルに同一視する人もいます。まあ、無意識にそう見てしまいがちなんですけど、それはどうでしょうか。作品世界と作者の実際行動は、またべつだという場合が多いかもしれません。ただ、心の中にある願望とか批判とか妄想、そういうものははっきり現れるでしょうね。心にあるものは、行動や言葉にならなくても、なんとなくの雰囲気で、その人の周りを漂っていますから、思うに、まったく同じとはいわないものの、作者も作品と同様の雰囲気を発しているんじゃないかしら。

私のこのHPでいえば、何人かの感想を聞くと、「女性らしくて可愛らしい感じ」、「ほのぼのしてる」などがありました。それは、たぶん、トップに描かれている花の絵とか、こういうまりねこのイラストとか、全体のレイアウトからそう感じたんだろうと思います。でも、きっと中の文章をちゃんと読んでみると、あまり可愛くもほのぼのもしていないことに気づくんですね(~_~;)
長編『トゥルー・ラヴ』にしても、この「聞いて!」でも、なんていうか、わりと「さっと読めない部分」があって、無害な可愛さとかほのぼのとは方向性が全く違います。これ、自分でもわかってるんですけど、こういう「見た目と内容のズレ」を改善するべきかどうかって、親しい友達に相談してみたんですね、そしたら、「それがアンタ自身の実態なんだから、それはそれでいいんじゃないか」って。それ聞いて、ハッとしました。
そーなんです、私自身がこういうズレを持ってるんです、じつは(^^)
たいていは無害なお気楽さでけらけら笑っているんですが、話題によっては突然シビアになったりするので、周りの者は、そこに落差がありすぎると思うみたいなんですね。本人にしてみれば、それは普通のことなんですけど。
今はまだ、このHPでは文章の中に「お気楽な部分」がさほど出ていないように思います。自分でも、このパーソナリティの落差の、どのあたりでやっていくか、ということが定まってないんです。だから、わりと行き当たりばったりで書いているな、と思います。こういうエッセイみたいな「語りかける」ものって、なかなか難しいですね。小説とはまた別の意味で、書き方を考えてしまう。書くスタンスがきまらない、というのは、誰に向かって書いていけばいいのかわからない、ということで、どういう人に向けて書いていくか、ということを、実際に書きながら少しずつ試行錯誤してみたいと思います。


「火サス」な夢の話

私の夢は、ときどき妙にドラマティックなストーリーがあって、楽しめます。
たとえば、このまえ見たのは、火曜サスペンス系。
夢で、私は、ある女性とツアー旅行に参加しているんです。この女性は現実の友達の誰かではなくて、でも、友達ということになっている。で、ツアー一行がホテルに泊まっているところで、そのうちの一人が殺されるんです。それは、六、七十代のおじいさんで、ツアーには単独で参加していた人。もちろん、みんな動揺しています。だけど、どういうわけか、私と友人は、その殺されたおじいさんの部屋に行き、探偵の真似事をやり始めるんですね。何か手がかりがないかしらって、部屋のなかを探すんです。
そこには、おじいさんの衣服やスーツケースなどが、まだそのまま置かれています。私たちはそれを調べ始めましたが、すぐに、廊下をやってくる足音が聞こえるんです。時間は夕方で、部屋はまだ電気をつけていなくて暗い。その暗がりで、私と友人は顔を見合わせて、とっさに、部屋の隅にあったテーブルと椅子の陰に隠れるんです。そこへ、いかにも人目をはばかるような様子で、若い男性が入ってくるんですが、これがまた、ツアー客のなかの一人なんです。彼は、部屋の明りもつけずに、勝手におじいさんのスーツケースをこじ開けると、中を引っ掻き回し始めるんです。それを私たちは、テーブルと椅子の足の間から、じっと見ている・・・
ものすごく怖いんですよ。心の中では、「あっ、この人が犯人だったのか!!」って、そう思って、見つかったらこっちまで殺される、どうしよう、どうしようって、もうパニック状態。なにしろ、しゃがんでいても、テーブルや椅子の足の間から、私たちまで透けて見えるに違いないんですから。で、隣の友人をつついて、鍵のかかってないドアから、一気に外へ飛び出そうとするんです。じりじりとドアのほうへ近づいて、犯人に気づかれないように、でも、どうしたって、部屋を横切らなきゃいけないんです。最後は、ええい、ままよ、とドアに向かって必死で駆け出した・・・・と、そこで目が覚めたんです。

もう、心臓がどきんどきんしてました。
もちろん、まだ夢の内容は鮮明ですから、その恐怖だけが残ってるんです。
あー、怖かった、怖かった、と思いながら、はぁ〜〜っとためいきをついて、自分の部屋の見慣れた家具に、安堵感を覚える。で、なんでこんな夢みたんだろう、まるでテレビドラマの「なんとか湯けむり旅情殺人事件」みたいだ(~_~;)、などと自分で思ってるんです。もし心臓が悪い人が、こういう夢を見たら、どんなことになるんだろう、ひょっとして死ぬことってありうるのかな、そうしたら、誰も何も手を下していないのに、不審な死に方ってことになって、これって「夢見殺人」じゃない、また小説かなにかのネタに使えるかな、とも思いましたが・・・(^^)
翌日、少し得意になって、こんなサスペンスフルな夢をみたと友人に報告したら、その友人、何に呆れてしまったのか、私を横目で見ると、一言。「アンタ、人生楽しそうでええね。替わって欲しいわ。」

友人いわく、「ちゃんとした大人はそんな荒唐無稽な夢は見ない」そうです。
・・・・・(・_・)。 え〜、うそでしょ(~_~;) ・・・見ますよね?


書く人が増えていることの悲哀

新聞の記事で見たのですが、「ものを書く人」が増えている、というんです。
パソコンの普及などで書くことが身近になったし、誰でも簡単に、こういうHPのようなかたちで、自分の書いたものを発表できるようになったと。まあ、私もそのうちの一人だね、ということになるんですが、私自身は、自分のことは棚に上げ、芸術の敷居が低くなることは、あまり歓迎されざる現象だと思っています。シロウトが、自由に書ける日記などを勝手に見せ合っているぶんには、べつにかまわないのですが、きちんとした小説というスタイルをもつものが、「誰でも書ける」ものに成り下がってしまったということには、抵抗感じるんですよ。それって要するに、プロのレベルが下がってきたからなんじゃないの、と思うからです。

オペラ歌手なら「私にもなれる!」なんて思わないけど、アイドル歌手なら「私にもなれる!」と思う人が多いように、かんたんに「私にも」できると思わせることって、本来、地道な努力の積み重ねとか高度な技術もいらず、ましてやたいそうな才能もいらないものなんですね。ちょっとばかり小才があれば、誰だってできそうなこと、小説とはそういうものなんだと皆が認識するようになったなら、私にはとても悲しいことです。もはやそれは、芸術ではないからです。でも、出版サイドが今のように、安直な低レベルの儲け主義にはしっていれば、これは当然の結果なんですね。

前にもこのコーナーで言いましたが、もともと創作はゆとりある貴族のものでした。実生活に密着した創作は可能ですが、実生活に埋没してしまった、余裕のないあくせくとした環境では、どんな創作活動だって、できないんですね。そして、作品を鑑賞するのも、やはり余裕がなければできないことです。多くの人をターゲットとするのはいいんですが、いま、人々の生活はそこまで向上し、余裕がでてきたのでしょうか。今や大衆は裾野までも貴族化したのでしょうか。それで、「創作するシロウト」がふえたのでしょうか。私には疑問ですね。はたして社会のみんなに、それほど本を読む時間、ものを考える時間、感動に身をまかせる時間があるんでしょうか。むしろ、プロの仕事があまりにもお粗末になってきたことが、皮肉なことに文化の裾野を広げる主な原因になっている、と私は見ています。現に、私自身が書き始めたのも、某女流のミリオンセラー作品をちょっとめくってみて、「こんなんだったら、私にだって書ける」と呆れてしまったことに、端を発しているんですから(~_~;)
儲けるためには、より多くの人に本を買ってもらわねばなりません。みんなに本を手に取ってもらうことは、いいことです。けれども、みんなが仕事に忙しくて時間がないからといって、何も難しいことを考えなくてもいいように、作品のレベルを下げればいいというものではないと思うんですね。その発想こそ、ちょっとマーケットを馬鹿にしてませんか。ゆとりのある人はアンナ・カレーニナをゆっくり読み、ゆとりがなければ、サキの短編集を一日一編だけ読むとかいう方法だってあるのに。どちらもタイプは違いますが、作品の質は高いです。

儲け主義の出版サイドの意向が創作者を駄目にしている、ともいえることですが、でも、ほんとうに才能のある人は、たぶんそれをやらないでしょうし、やってはいけないと思うんですね。ほんとうに才能ある芸術家はやっぱり、ぶっちぎりの存在でなくてはならないんです。姑息に媚びることなく、鑑賞する者の魂を揺さ振り、「なんて素晴らしい作品だ、こんな作品はこの人にしか創作できない!」と、周囲を嘆息せしめる存在でなくてはいけないんです。それが、才能というものの偉大さであり、芸術の真価なんです。誰もができることなら、誰がそれを尊ぶでしょうか。

芸術とは、そもそも進化の頂点に咲いたあだ花です。肉体的に生き延びることには、何ら役に立たないばかりか、かえって邪魔になることすらある。だから、生か死かの臨界状況にくれば、誰もそんなものは見向きもしないし、そうでなくても、はかない幻なんです。つまり、表現者という立場は、経済偏重の価値観のなかでは、ごくつぶしの世捨て人でしかない、ということです。それが何らかの価値をもつとすれば、魂の充足や喜び、その死と再生に関わるときだけではないですか。現実という親ガメのうえにのっている、夢見る子ガメなんです。もちろん、親ガメこけたら、子ガメもこける運命なんですね。でも、役に立たないからこそ、ほんとうのことが言える、いつ死ぬかわからないからこそ、今日を美しく生きられる、そういうものだと思います。
お金を儲けて、自らが生き延びることが目的になれば、もはやほんとうのことを言うよりも「ウケること」を言うようになり、明日のために今日のネタを貯金しておく、という態度になるのは仕方のないことです。だから、かつて優れた芸術家には優れたパトロンがついていました。パトロンのお金を使い、生活を支えてもらいながら、子ガメである創作者は、凝りに凝った作品を世に出せたわけです。今の大手出版サイドというのは、当然、姿勢だけでもそうあるべきなのに、パトロンたる貫禄、器量がないのではないかと思うんですね。「とにかく、内容はどうでも、売れるモン書いてくださいよ〜、センセー」・・・ごくつぶしに、ちゃんと稼ぐことを期待しているのですから、これは本末転倒です。

誰も本を買わなくなったのは、本がやたら高いくせに、見え透いていて、そこに何の感動もないからです。その代わりに、書く人ばかりが増えたのは、みんながそういう現実に飽きたから、「誰でも書けるようなお話」ばかりが平積みになっているからです。で、また、出版サイドがそういう本づくりを推し進めているからです。私は、一読み手として、こういう状況が悲しいです。べつに、お高くとまって欲しいわけではありません。私はただ、それが芸術だというのなら、何ページごとに一度と律義に出てくるHシーンや、お手軽でフレンドリーな「癒し感覚」なるものでお茶を濁さず、問答無用の感動でこちらを打ちのめして欲しいだけです。読む前と、読んだ後ではもう世界が違って見える、そんなパワフルな本音が読みたいだけです。

まあ、自費出版などは今後もビジネスとして広がりをみせるんでしょうね。巷には「誰もが書ける本」が氾濫するでしょう。もちろん、書く習慣、読む習慣が、そんなところから身につくのは悪くありません。でも、そういう状況がもはや退屈な人も多いはず。そのうち、誰かぶっちぎりの才能がでてきて、それらを一掃し、「才能とはこういうものだ」と、世に知らしめてくれるんじゃないかな、と私は密かに期待しているんです。


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