哀悼 江藤 淳

夫が買ってきた文藝春秋九月号に、このまえ自殺した江藤淳の「妻と私」が全文掲載されていたので、興味深く読みました。

私はこの江藤氏の業績、つまり今までどんなことを書いてきたのかは全く知りませんし、この人は批評家なのか文学者なのか、また、その二つはどう違っているのかなど、そのへんはあまり関心がありません。ただ、奥さんの死後、後を追うように自殺したという事実、二人の間に子供はなく、このご夫婦が一卵性夫婦と称されるような緊密な間柄であったことなどを知り、事実上、最後の遺書と目される「妻と私」を読んでみたいと思っただけです。江藤氏に対する思い入れとか予備知識などがほとんどなく、それゆえ、非常にニュートラルな気もちで読めたと思います。

さて、この比較的短い、そして、あまりまとまりもなく、起承転結や盛り上がりもはっきりとしないような散文を読んでみて、正直なところを述べますと、「だから死ななければならなかったのかな」ということです。
江藤氏自身が、「どうしても書かせてほしい、書かなければ一歩も前に進めない」と言って書き、それが単行本になった際のあとがきでは、「これほど短期間にこれほど大きな反響を生んだものはない」と充足感を抱いていたかのように見えるこの文章。この人と親しかったらしい石原慎太郎などには、この「妻と私」が「愛の極致を描いた」ものと映り、それを書ききったので彼は立ち直れると思っていたらしいですが、私としては、肝心なところはなんにも「書ききって」ないし、だからこそ立ち直れなかったのだ、と思えてなりません。

他人の真に思うところ、しかも、配偶者の死と、それに続く自らの病の後に書かれたものを、軽々と一刀両断にはできませんが、私には、この文章があまりにも淡々としすぎているように感じられます。時間的な流れや前後の脈絡、「作品」としての体裁はあまり整っていないので、したがって読むほうは少々まどろっこしい思いをさせられる。つまり、そういう意味では逆に、「苦しんで書いているんだなぁ」と思うのですが、それ以外の感情表現は極力抑えられていて、奪われていく生の時間、対照的に増していく死の時間、それらを切り刻むような生活のなかで当然感じるであろう、運命への怨念、といったドロドロは、まったく描かれていません。つまり、文章としての形式に乱れはあるものの、自分自身の正直な感情の乱れについてはほとんどなんにも「書ききって」いない、そう思えます。もっともっと、人には言えないような慟哭や怨念、哀切や絶望があったはずなのに、それら負の感情については、一切といっていいほど、語っていない。夫婦間に流れていた「死の時間」について、その甘美さを謳うことは多少しても、その甘美さの裏に必ず伴うであろう絶望感や、「なんでよりによって、自 分達がこうならなければいけないのか?」といった「天を罵り、歯ぎしりして我が運命を呪う」ような感情の吹き上げについては、何も語られていない。
もう私の倍ぐらいの年月を生き、仕事のうえでも成功した人には、私などにはわからない死というものへの厳かで静かな諦念があったのだろうか、とも思ってみますが、その後、自殺しているわけですから、そんなふうに生と死を達観していたとも思えないんですよ。死を達観するということは、生の無常さを達観するということで、そうなれば、わざわざ自分から死ななくてもいいんじゃないでしょうか。推察できるのは、こういう書き方、生き方が、この人の美意識にかなうことであった、そうかもしれないし、「真実の感情を書くことへのためらいや、人にわかってもらえるように書けはしないだろうという諦念」があったのかもしれないですね。

デュラスが「愛人」のなかで少し語っているように、「書くということの慎みの無さをかばう手だてはない」、私もそう思います。売りものとしての「作品」を書く場合は、べつにそのあたりはどうでもいい、自分の慎みを固守しながらでもテクニックでカバーできると思いますが、江藤氏の場合、誰かに見せる「作品」としてより、なによりも自分の現状を納得させる、自分自身を癒す行為として、あの「妻と私」を書く、という作業があったはずだと私は思うんです。彼自身もそう思ってはいた。けれどもそれを、私から見れば、無理に「作品」に仕上げてしまった。そして、「作品」は当たった。そこにはもともと彼のネームバリューがあって当たるのはむしろ必然ともいうべきことであった、けれども、「作品」を当てることとは別の次元で、江藤氏は、個人的に対峙しなければならない「生と死の理不尽さ」を思い切り告発し、自らの運命に対する呪いを叩きつけ、やり場のない哀しみを洗いざらいぶちまけ、その上でそれらを昇華する機会を逸してしまったのではないか、私はそう思います。弱みを見せられなかった、ということかもしれないし、社会的な意味で、あえて立ち直る気がなかったのかもし れません。

文学者、芸術家はなんらかのトラウマを抱えて、その課題に一生涯しがみつき、徐々にそれを昇華していくというタイプが多く見られると思います。村上春樹の短編「蛍」と「ノルウェイの森」なんか、ほとんど同じだし、デュラスも「愛人」を書いたあと、それをもう少し「作品」ぽく仕上げた「北の愛人」を書きました。江藤氏も、最初の「妻と私」で終わったと思わずに、「続・妻と私」でもいいし、「妻の思い出」でもなんでもいいから、そこにしがみついていけば、もう少し違った人生になったのではないか、そんなふうに思います。けれど、もう「書ききった」と思ってしまった。あるいは、そういうことにしてしまった。でも、真実、「書ききって」などいなかったんです。だからこそ、死ななければならなかった。もしくは、そこまでして生きる気になれなかった、ということでしょうか。あるいは、彼は批評家であって、芸術家ではなかったのだ、ということも言えると思います。
すでに功なり名遂げ、それなりに歳を取り、愛妻の死を見取り、後を追うように自死を選ぶ、そのこと自体を私は、「痛ましい」とか「美しい」とか「気の毒だ」とか、いろいろと評する気持ちにはなれないし、そういう選択があってもいいと思いますが、「妻と私」という文章についていえば、彼自身がその気になりさえすれば、もっとぶざまでドロドロとした、だがそれゆえにリアルで人の魂に迫る生と死の物語となったであろうなぁ、と思うのです。

書くことを通じて癒しを求め、突き上げてくる感情を言葉のなかに昇華させようと思えば、人間としてあるべき理想の慎みや美意識など、一時的にせよかなぐり捨てざるをえません。もの書きは、精神のストリッパーであると、誰かが言っていたように記憶しています。江藤氏の最後は、家中をなにもかも整然と片付け、きちんとシャツを着たまま、水をはった浴槽で溺死していたということですが、このような態度、生きざまが、「妻と私」にも貫かれている、私にはそう思えてなりません。


いい人やめたら楽になる?

そろそろ本腰入れて英語やらなきゃいけないのに、体調も悪いし面倒だしで、気分も行動も前に進んでなくて困っています。でも、ほんとに行く気なら、早くこの体調をなんとかして、ちったぁ勉強やらないとね。もう、時間的に、気分がどうのこうのという問題ではなくなってきたのですよ。これが旅行ならね、あまり困ることもないだろうけど、住むとなるともっと話せたほうが当然いいに決まってるし。そういう面で夫が頼りになるかというと、これはもうぜんぜん問題外だし。
あ〜、しかし、面倒だなぁ(~o~)
これまで国外で、トラブルにあったり、どうしても何かやらなきゃならないときには、たどたどしい現地語すこしと、いかにも「ワタシ、困ってます」的笑顔をつくり、周囲にいる人の善意を期待してどうにか切り抜けてきた私。ほんと、若い女性の「助けを求める笑顔」というのは、万国共通の切り札なんですよねぇ。まっ、私なんか幸か不幸か、男の人にとっても、そのあと何か「見返り」を求めたくなるようなタイプじゃないらしいですから(~_~;) ほんとに、「よく事情がわからない可哀相な外国人の子」という感じで親切を施してもらえます。でも、もうそろそろ若くもなくなってきたんだし、今度は夫と一緒だし、その手を使える場面も限られてきそうだなぁ・・・ということで、エイゴ、ちゃんとやらなきゃ(~_~;)

ところで、「いい人やめたら楽になる」という珍説があるそうですね。
どうも、ここで言う「いい人」っていうのは、例1「ついつい他人の気もちを先回りして察してしまい、自己主張できなくなる人」だとか、例2「自分が頑張らないと他人に迷惑がかかるなどと考えて、ついつい無理をしてしまうような人」のことらしい。私は、なんだか「あー、うさんくさ」と思いましたね。一匹のクワガタが一千万で取り引きされ、道を歩けばスナック菓子のゴミがごろごろ転がっているような世紀末日本で、そんな奇特な人がまだいるのか、とも思うし、そもそも、そんな人が本当に「いい人」なのかどうか、という疑問がわきますよ。
例の1にしても2にしても、「周囲のことを考えてついつい自分が我慢してしまう人」なんだと思いますが、ほんとに「自分さえ我慢すれば」などと考えて、何か自分が正当だと信じる主張を引っ込めてしまうような人間がいたら、それは「いい人」というより、たんに臆病なのか「他人によく思われたいエエカッコしぃ」なのか、たいていそのいずれかだと思うんですよ。
それに、我慢にもいろいろあって、自分が我慢することで、自分やその状況に何らかのメリットがある、そう思ってするのなら、それはもはや「我慢」とはいいません。それはひとつの解決法であり、うじうじと恨みがましく実行するものではないですよ。しなくてもいい我慢、我慢のための我慢をするような人もいますが、これはもう精神的マゾとしかいえません。そんな人に「無理しなくていいのよ、我慢しなくていいのよ」などと言えば、この世相だし、無理をした後の反動で妙に傍若無人な人間になる可能性があって、そのほうが私は怖いと思うんですね。

思うに「いい人」とは、「それをやめたら楽になる」などとセコイことを考えられない人のことです。まともな良心がある人のことです。まともな良心があるとは、自分が楽になるなどという理由で、人間として、していいこととしてはならないことを混同したり、妙な理屈をつけてそれを捻じ曲げたりできないことです。「いい人」とは、たとえ誰が知らなくても、自分の行いの正当性や過ちは、なによりも自分自身が知っている、と思える人のことです。自分自身が自己の行為に誇りを持つ、自分自身が己のしたことを恥じる、そのことを常に意識できる人のことです。あなたがもしこういう「いい人」なら、こういう態度、生き方をやめて、楽になる必要があると思いますか?
どうぞ、「いい人」をやめないでくださいと私なら言いますね。一時の損失、表面上の勝ち負けにとらわれないでください、と私なら言います。決して、「いい人やめたら楽になるよ」などとそそのかしたりはしません。それであなたが真に楽になることなどないだろうと、私は思うからです。


レーザー研究と核兵器

またまたNHKの「世紀を超えて」の話ですが、昨日(8/22)のタイトルは「核兵器、機密映像は語る」。
内容は、かつて極秘扱いであったアメリカ核実験の映像が公開され始めたこと、原爆開発技術とその拡散の経緯、そして、今後我々が世界じゅうに存在する膨大な核兵器にどう対峙していくのか、というようなものでした。
一瞬にして地面が大波のように盛り上がり、地表の建物がことごとく破壊されていく地下核実験の映像も衝撃的でしたが、現在、核軍縮が叫ばれ、核兵器が次々と解体されているなかで、なおも「きれいな核兵器」、純粋水爆が研究されている、というくだりには、暗澹たる気分にさせられた方も多いと思います。
「純粋水爆」というのは、これまでプルトニウムを起爆剤にしていた水爆を、レーザー技術を駆使して爆発させようとするもので、破壊力は大きいけれど原爆のように核汚染を残さない、ゆえに、「きれいな核兵器」と呼ばれているものです。これが今、アメリカの三大核研究所のひとつ、ローレンス研で研究されている、という紹介を後にして番組は終わっていました。
全体としてこの番組をみれば、先進国(特にアメリカ)の核兵器開発はどこまでやれば気が済むのだろう、人間の、力でもって他を制するというやり方には際限がないのか、とやりきれない気分にさせられるつくりになっています。私にしても、見終わったあとは暗い気持ちになったことです。

うちの夫は放映時間にちょうど外出してたものですから一緒に見られず、私は遅くに帰宅した彼に、かくかくしかじかと、この番組についての感想などを話しました。すると、最後のローレンス研での純粋水爆開発について、彼の「科学者の端くれとして」の見方はまったく違うんですよね。
「えっ、レーザーで水爆? そんなことNHKで言ってたん? そりゃひどいなぁ」
「あんた、ローレンス研って、私らが今度行く研究所の隣やないの。そんなとこ怖いやないの(-.-)」
「いやぁ・・・それとおんなじ研究やったら、日本の大学のレーザー研でもやってるがな。レーザー使って核反応起こさせるって言ってたんやろ?」
「そう。それで純粋水爆たらいうもんができるって」
「そんな目的でやってへんがな、あんた。あれは平和利用が目的やねん。原発みたいにそこからエネルギー取り出す、そういう利用が目的やがな。そういうこと、番組ではいっさい言ってなかった?」
「うん。テレビではっきり言ってたのは、純粋水爆ができるってことだけやもん。あれ見た一般の人は、みんな、核研究は怖いなぁと思ったと思うよ」
「NHKも無茶苦茶やなぁ。無理矢理そう思わすようにつくっとる。制作サイドの意向で、ひとつの事実でもまったく違う話になってくるから。第一、いまさら純粋水爆? そんなんつくっても、あんまり意味ないがな。あんた、知ってる?中性子爆弾ってな、建物は壊さんと中の人だけ死ぬようにできてんねんで。そんなもんがすでにあるのに、水爆みたいな扱いの難しいもんつくっても実際上の戦争に有用とは思えんわ」
「でも、ローレンス研が画面に映って、そこではっきり言っててんよ。この純粋水爆の技術が完成すればうんぬんって」
「それはな、アホな戦争好き議員とかがたくさんおるから、国から研究にカネまわしてもらうためには、そういうこともできますって言っとかなあかん、そういう側面があるねん。実際にそこで研究してる科学者は、九割方、水爆作るのがメインの目的と思ってるわけやないと思うで」
「ふうん・・・でもさ、NHKの制作サイドはそういうことは知らんかったわけちゃう?」
「知ってるやろ、そんなん(~_~;) せやけど、自分らが面白いと思った方向に作って行くもんやんか、あんな番組は。NHKの番組で、科学者の間ではヒンシュクこうたもんは実際いっぱいあんねんで。あの、『アインシュタイン・ロマン』もそうやしな。あーあ、しかしそんな番組見たら、レーザー研の連中は激怒するやろな」
「なぁ。このこと、ホームページに書いてもいい?」
「ウンウン、ぜひ書いとき。少なくとも、レーザー研が水爆つくる目的でやってないことだけは言っとき」

さて、夫は番組に対して、こういう感想を持ったわけですが、研究者って、自分のやってる分野以外は、意外とよく知らなかったりするんですよね。だから、夫が言ってることも確たる事実かどうか、私には判断しかねます。
でも、科学者にそういうつもりがなかったとしても、けっきょくはその研究で水爆ができてしまう、というのは現実でしょ。そしたら、それがいかなる状況であっても人間を殺傷する目的で使われない、という保証はないんじゃないでしょうか。実際に、その技術を応用した兵器を作るとか使用するとかいうのを決めるのは、国であり、お役所、つまり政府なんですから・・・
コソボでも、「人道的介入」という美名のもとで、一般の人たちがたくさん殺されました。たとえそれが誤爆だった、殺す気はなかった、といっても、殺されたことには違いないんです。二度と帰ってこない命を奪い、とり返しのつかない殺人を犯したわけです。私たちにはこれら大量殺人の犯人が誰かもわからず、その責任がどこにあるのかもわからない。それに、民間人は殺してはならないけれど、軍人なら殺してもいいのでしょうか。人間を大量殺傷しても許される、そういう大義名分って、ほんとうにあるのでしょうか。

以前、第二次世界大戦中の映像ですが、日本軍の特攻隊が、自分の乗った戦闘機ごと、敵の軍艦に突撃して爆破、炎上していく様を見たことがあります。それは古い白黒の不鮮明な映像で、その頃のフィルム特有のぎこちない動きですが、まるでオモチャのように見える戦闘機が一機、また一機と軍艦に激突していくんです。
何気なく見ていた私ですが、突然、それら意志を持ったように動く戦闘機のなかには、確かに人間が乗っているんだと思ったんです。この映像を通じて、私は何十年という遥かな時間を飛び越え、彼らひとりひとりの死の瞬間に、いま立ち会っているのだと、なぜかすごくリアルに感じたのです。血もみえない、死体もみえない、けれども、確実にそれは連続した死の瞬間であり、死そのものの光景でした。巨大な軍艦は沈没する様子を見せません。ただ、小さな戦闘機がそこに自らぶつかって大破、炎上していくだけなんです、何機も。
何にともいえない怒りと哀しさに、私はにわかに胸がつまり、涙があふれてきました。この死は、けっきょく何のためでもないんだと、思ったんです。この人たちが選ばざるを得なかった死は、何の、誰のためでもなかったんだと。どんな理想にも、誰の幸福にも、何ら貢献することのない死だったのだと、私はそう思ったのでした。


「レーザー研究と核兵器」をめぐって

前回の「レーザー研究と核兵器」を読んだ「元」理系の方から、感想を綴ったメールをいただきました。ご本人の了解を得て、ここに「レーザー研究と核兵器」をめぐるやりとりを公開したいと思います。太字の部分が、「元」理系の方の書かれたものです。

*〜*〜*〜*〜*

「レーザー研究と核兵器」読ませていただきました。
正直言って、私も心情的には旦那さんの方に近いものが有ります。別に兵器を作りたくて科学者になる訳じゃ無し、ミクロな視点から個人としての科学者を見た場合、件の番組のような偏った見方で「悪魔の兵器の制作者」みたいなレッテルを貼る行為は、私の様な「元」理系の人間から見ても不愉快なものです。中世の魔女狩りを見る気分でしょうか。


そうですね。
戦時中ならいざ知らず、世の中が平和であれば、殺人道具をつくろうと思う科学者なんか、いないと思いますよ。よっぽどの人でない限り・・・
でも、政治的に、科学者は、というより、彼らの研究成果は決定的に利用されてしまう危険性がありますよね。いま、第二次世界大戦末期、原爆研究を極秘でやってたロス・アラモス研究所が舞台になっている推理小説を読んでますけど、科学者たちの葛藤、というのがやっぱり随所に描かれています。

まりねこさんの不安も分からなくはないです。確かにマクロな視点で見れば純粋水爆他、様々な兵器の研究もされているし、歴史をひもといてもそういう事を科学者がやってきた事は事実です。
しかし、だからといって科学その物を攻撃して本当に問題が解決するんでしょうか?兵器に使えそうな研究は全てストップさせて、技術の進歩を止めれば解決するでしょうか?
これからの科学者は、戦争を望む者、兵器を欲する者に騙されないように注意しなければならないし、そのために専門分野に閉じこもらない必要も有ると思います。でも、そのことと技術の進歩を止めることは決してイコールではないし、増して魔女狩り的な批評は科学者を孤立させ、騙されやすい危険な状況を作り出すだけだと思います。
そういう危険を感じさせる番組の方が余程怖いです。


そういうこともいえますね。
マスコミやら映画でしばしば登場する、ちょっといかれた「マッドサイエンティスト」像だって、それが面白いからそう描くんでしょうけど、迷惑な、というより、危険な話かもしれません。ほんとうのことが、見えてこなくなりますよね。センセーショナルな不気味さだけが一人歩きしてしまう。
この前の朝日新聞にでてましたが、科学者がひとりひとり、自発的に「人を傷つける目的で自分の研究の成果を使われたくない」、というような意志を明確に署名する運動があるとか。
こういうのは、やっぱり、科学者本人が言っていくのが一番いいんだなあと思いましたよ。
やっぱりね、人は孤立してしまってはいけないと思います。
科学者も民間人も、軍人も、政治家も、それぞれの立場があるけれど、立場だけを固守して、孤立してしまってはいけない、そうですよね?

そうそう、そういう立場の固守とか、自分の殻に閉じこもったり、或いは他人をそういう状態におくのが戦争の第一段階だと思います。「戦争の第一の犠牲者、それは真実である。」そんな言葉を読んだことがあります。
原爆の開発計画に携わった科学者達もまた「ナチスドイツに原爆を持たせてはいけない」という思いから開発に携わったわけですが、果たして彼らにそういう研究をさせた米国の真意が読みとれていたのかというとどうでしょう? 「ナチスドイツの脅威」と言う情報が、それ以外の情報を排除した状況で与えられた。それが彼らを原爆開発に駆り立てた物だと考えられないでしょうか。


わかりませんね。そのへんの事情とか歴史には疎いので。ロスアラモスの話を早く読んでしまいたいんですけど、なにしろ長くて(~_~;)

特定の人間や集団が意図的に偏った情報を流すことで世論を特定の方向に誘導すること。つまり、真実を覆い隠す事こそが戦争の第一段階と言って良いと思います。それに対抗するには多角的な情報を得る努力と同時に、与えられた情報を鵜呑みにしない慎重さが必要だと思います。
私が件のNHKの番組に一番嫌悪感を感じるのは、そういう偏った世論を誘導するやり方で番組が構成されていることです。目的こそ違えど、偏った情報をセンセーショナルに流し、意図通りに世論を誘導する。標的にされた研究者はいい迷惑です。


今、筑波に出張している夫に、こういうことをいっている人がいる、とメールで話したら、
「ぼくはNHKのやらせ体質がますますいやになった。情報操作っていうのはこわい。知らず知らずのうちに、偏った意見を信じ込まされてしまう。」
と同じようなこといってました。

ある程度の技術者、研究者になると、専門用語を並べ立てることで一般の人をある程度誤魔化せるという事を知っていますからね。その分、自分に与えられる情報に関しては懐疑的になるし、増して意図的な情報操作がされているのを見つけると余計に警戒します。
確かに孤立しない事は重要だと思います。でも、世論や報道に流されない慎重さを忘れてはいけないと思います。真実を隠す者は常に善人の顔を装っています。

*〜*〜*〜*〜*

私は例の番組はずっとシリーズで見てますが、その中の一部としてとらえると、あれは必ずしも科学者・科学批判に傾倒しているというより、50分という時間的制限のなかで、むしろ戦争を語る視点としては非常にマクロな、「人間というものの業の深さ」や「その人間がつくる社会の矛盾の、どうしようもなさ」、そういう非常に抽象的(文学的? 感情的?)な恐ろしさ、哀しさのようなものを、視聴者に感じさせることに挑戦しようとしたんじゃないかな、と今思ったりもするんですよね。が、それはまぁ、「私自身が、そういう抽象的なものの見方をしがちな人間である故に、そう思うのだ」というだけなのかもしれません。確かに、そういう見方をしないなら、「戦争へと突っ走る政治的なものの恐さはわかっちゃいるが、それにしても、ああいう恐ろしい兵器を開発する科学者はいったい何を考えているのか。良心というものはないのだろうか」などと受け取られかねない描写もあるし、やや一方的すぎる内容かもしれないと思います。

今の学校教育のなかで、真の批判精神なんてほとんど問題にされていないに等しいですし、私に限らず、一般的に多くの人々はたぶん、何かをいろいろと比較対照した結果、理性で判断するより、直観的にものごとを決めてしまいがちだと思います。あるいは、その時その時の感情に流される。直観を大事にしたり、感情的であることが、いけないことだとは決して思いませんが、そこにつけ込もうとする力もあることも確かで、それは警戒する必要があるわけです。
みなさんは、こういう現実をいったいどう思われるのでしょうか?
世の中は、本当に混沌としている。今の私にはそんなふうにしか表現できませんが・・・・



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