台北有情

暑いですねー。この、本格的な夏に入りかける頃って、誰でもなんとなく疲れやすくなるものだと思いますが、私はもともと低血圧(上が97ぐらいで、下が70ぐらい)のせいか、自律神経まで狂い気味で困っています。

というわけで、今回の旅行は、多少、体調がすぐれなかったものの、台北という街自体は面白いところでした。そもそも、まえに一度行ったことがあるんですよ。でも、そのときは母と一緒のツアー旅行だったし、あまり自分の思うように動けなかったんですね。で、もう一度行ってみたいなと。ほんと、やっぱり何度行ってもいいと思います(^^) とくに、はじめての海外とか、近場でのんびりしたいという人にはいいですね。なんといっても、気楽なんです。ホテルや大きな免税店は言うに及ばず、レストランなどけっこうあちこちで日本語が通じるし、看板などの漢字にも親しみ感じます。人は親切で治安もいいし、対日感情もいいみたい。見た目はアジア人同士だし、経済的にもわりとリッチな台湾人だから、日本人の我々が街なかでヘンに目立ったり浮き上がったりしないですむ。食べ物は豊富で口に合うし、日本料理のお店もたくさんある・・・というところですか。イングリッシュテイストのからんだ雑多な香港より、もう少し純粋に中華な印象。

中国といっても、台湾、香港、大陸のいずれかによって、政治的・経済的な事情はかなり違いますよね。大陸だと広いから、北京と上海はまた違うし、内陸の農村地帯などに行けば、これも全然違ってくる。それぞれの地域で、言葉も街の感じも人の感じも違うんですよ。もちろん、日本や欧米などの「異国」と比べたら、その違いというのもすごく似通って見えて、けっきょくは経済格差だけかな、とも思うんですが。とくに、チベットのラサであろうと敦煌であろうと、観光客向けホテルの建っている今では、余計に均一的な感じがしてしまいます。が、これからますますそうなっていくだろうことを考えると、今のうちにそういう違いを見ておくというのもいいことかもしれません。

期待していた圓山大飯店(The Grand Hotel)は最高でしたね。ちょっと市内の賑やかな場所から離れているし、ホテル内には大きな売店やショッピングアーケードもないし、そのあたりは不便なんですが、もう一目でも実物を見れば、それを補って余りある「威風堂々たる格式」に心うたれます。実は来来大飯店(シェラトン)や凱悦大飯店(グランドハイアット)などのほうが値段は高いのですが、ここには値段の問題ではない雰囲気というものがあるんですよ。パンフには、「世界で唯一の中国宮廷式ホテル」とありますが、まさにそういうことなんでしょうね。「台北に圓山あり」という感じですか(^^)
内装などは北京飯店と似ていなくもないですが、全体にもっと豪華だと思います。上海でも香港でも、外資系の大きなホテルばかりが威容を誇っていて、まぁそれはそれでサービスはいいし、快適なんだけど、なんとなく情緒に欠ける感じがありますよね。どうせなら台北では、圓山を選んで正解だと思いますよ。

ところで、台湾人も風水が好きで、けっこうこだわりがあるみたいなんですが、圓山大飯店は丘の中腹で街を見下ろす、すごくいい位置にあるそうです。でも、数年前にこのホテルとちょうど向かい合うみたいに、背が高くて尖ったエンパイアステートビル型の三越ビルができたんですよ。こういうのは風水的にみて、よくないんだそうです。素人目に見ても、なんとなく敵対するような、張り合うような感じで建っていますからね。このビルを建てるとき、ずいぶん反対があったということですが、三越側は当初の計画より少し高さを低くしたものの、建ててしまった。そうしたらまもなく圓山の屋根が火事で焼けてしまったんだそうです。三年ほど前のことだといいますから、今の屋根はきれいに修復された新しい屋根。う〜ん、風水あなどるべからず??
ともかく、人々は、それみたことかと言い合ったそうです。以来、圓山(まるやま)大飯店をもじって、「丸焼け」大飯店とあだ名されるようになったとか。これは、現地のガイドさんが言ってた話ですけど。


すべてがFになる?

うちの夫にいわせると、私は超ワガママな傲慢妻なんだそうです。私自身は必ずしもそう思ってないんですけど(-.-)
だって、よくケンカの元となることって、こまごました生活習慣の違いなんですよ。
たとえば、歯が痛いといっている夫がチョコレートを買って来て、寝る前にお腹が空いたら食べるという。私は歯痛に悩んでいる人がチョコレートを買ってくるという行動、寝る前にそんな甘いものを食べるという行動、ともに理解できないんですよね。寝る前に多少お腹が空いても、私なら何も食べません。せいぜいミルクでも飲むなどして寝てしまいます。ましてや歯が痛いというときにチョコレート??
でも私がそういうと、夫は何か自分の行動に不当な制限を受けたように感じるわけです。いつも、錦の御旗でも掲げるみたいに「個人の自由」を持ち出してくる。で、「そんなの常識でしょ」「いや。それはあんた個人の考え。僕には僕の考えがある。それを尊重して欲しい」というやりとりが限りなく不毛に行われる。しまいに私も、それじゃあ勝手にしたらということに。
この人と結婚して以来、私も、常識ってナニ?とずいぶん考えさせられましたが、どう考えても私のいっていることのほうが理にかなっているんじゃないかと思えることでも、彼にかかると果てしなく相対化されてしまい、それは数ある方法論のなかで私個人が選び取っているひとつにすぎず、真実でも常識でもなんでもない、というところに落ち着いてしまう。あげく、個人の自由は等しく尊重されなければならない、とくるわけです。「そういうの常識でしょ」と自分の考えを人に押し付けることこそ傲慢である、とやり込められてしまう。私は、何か違うなぁといつも思ってますけど。

で、だんだんわかってきたんですが、彼ってけっきょく頑丈な人なんですよ。肉体的にも、精神的にも、私よりはずっと頑丈なんです。抗ストレス性が高い、とでもいいますか。物理的な乱雑さとか不潔さはいうに及ばず、対人関係などの精神的な葛藤にも耐性が高い人なんです。それにはそれなりの歴史があって、一人暮らしも長いので、そのなかで鍛えられたのかもしれませんけど、きっともともとが頑丈な体質なんですよ。
思うに、自分が頑丈な人だからこそ、個人の自由とか自分の自立性確保に、思いっきり固執できるんじゃないでしょうか。心身の健康や社会的立場に不安定要素があるなど、自分の弱さを自覚しているとそれができないですよね。誰かの手を借りなければ生きていけない場面があるかもしれない、ということを常に自覚しているからです。だから、やみくもに、私は私の考えで生きるのよ、とは言えないところがある。その弱さが一歩主張を引いてしまう原因にもなる。彼はまだ私のほうが冷淡な人間だと誤解しているようですが、心底、人に冷淡になれるのは、必ず、強いほうの人間でしかありえません。たとえば、激しい言い争いをしても、そのストレスがまず心身にこたえるのは、彼でなく私のほうなわけです。抗ストレス性が高い彼は何時間議論したところで、わりとケロッとしている。女性なら、結婚するにあたって、強い男がいいと思うかもしれませんが、一緒に暮らすとこういうデメリットもあるので注意が必要かも。概して、自分が頑丈な人というのは、他人の弱さが理解できないようです(-.-)

ところで、前からウスウス感じていたんですが、理系男の世界は、実はめちゃくちゃわかりやすい頭脳派マッチョの世界なんじゃないかと。肉体派マッチョなら、とどのつまりは腕力、武力で勝負ですが、理系マッチョは自分の知性というものが、勝負の土台になっている。この知力の世界では、結局のところ、普通の常識とか情感とか、そういうものは二次的三次的なものであり、どれだけ知的に秀でているかがすべてなんですよね。知といっても、総合的な理解力でなく、計算能力、「ああすればこうなる」式の論理的思惟能力なんですけど。ともかく、服装や常識的なマナー、人情や心の綾を解するなどという面においては支離滅裂であっても、できあがったコンピュータプログラムや、完成した研究の結果が素晴らしければそれでいいのだ、というところがあるんじゃないでしょうか。
対して女性一般の世界は、主に情感マッチョだといえるでしょうね。つまり、どんなにアタマがよくても仕事ができても、誰からも愛されることがなければ、女としてのステイタスは限りなく低い、ということです。どんな立派な仕事をしている社会人であっても、女性である限り、「でも彼女、男の人には全然相手にされてないみたい。きっとあの歳になっても誰ともつきあったことないんじゃない?」・・・こういう中傷で、人間性を全否定されかねないのは周知の通りです。女性一般の世界には、どんなに本人が馬鹿でちゃらんぽらんでも、最終的にイイ男をつかまえれば勝ち、という構図が確かに存在します。また、人生上の様々な局面においても、情感的なものを判断基準として恥じることもなければ後悔もしない、という傾向もあります。これは、男性が知っておいてもいいことだと思います。

さて、森博嗣という「理系作家」による「理系ミステリ」なるものがあると紹介してくれた、とある理系の人がいました。さっそく、森氏の『すべてがFになる』という本を読んでみましたが、はっきりいって面白かったです。簡素な文体、ストーリーの展開も早いので飽きずに読め、設定その他も斬新で、ときどき語られる理系的ウンチクも楽しめます。一気に読んでしまいました。
でも、この本で登場する理系の人々(そもそも、文系の人などひとりも登場しない)の描写は、どんなものでしょうか。実際の理系人の感想を聞いてみたいものです。だいたいにして、私たち「部外者」が、「あー、こういうのって、理系っぽい」と感じることそのまんまだったような気がしますが。あれは、そういう一般読者におもねっているのか、はたまた、こういうのが真実に近い描写なのか。わかりませんね。

私としてはこれを読んで、やっぱり理系は頭脳マッチョだなあと確信を強めてしまいました。ひとことでいえば、この小説は、天才賛美に終始しています。常人の知力をはるかに凌駕する天才科学者に対する憧憬の念がこの本の中核をなしているといっていいでしょう。まあそれが、なんというか、ある種、実際的な力の感覚と結びついているわけです。知は力。だとしたら、常人には計り知れない力というものが、天才にはあるわけで、それに対する賛美の念が、ごく正直に吐露されているんです。私はこの作者の頭脳マッチョ指向はかなりのものだと思いますね。恐らくは、うちの夫同様、心身ともに抗ストレス性が高いんでしょう。
あと、普通の対人関係がわずらわしい、というのは理系的なことなんでしょうか。とくに情が絡んでくるほど、わずらわしいようです。情が絡むほど、論理が通用しなくなりますから。
私はこういう人たちについては、それが苦手なだけだと思い込んでいましたが、どうも違うみたいなんです。もともと、人と情を通じたいという欲求があまりないようなんですよ。共感欲求が非常に少ない人たちというのが存在するんです。
誰でも、同じ景色を見て同じように感動すれば親しみがわくし、そういう情感を共有できることを確かめたい、人と共感し、同じ思いをわかちあいたい欲求ってあるんじゃないかと、私は信じてたんですよね。でも、うちの夫とか見ていると、もとから、人は人で、自分は自分、べつに感じることや考えることが一致しなくてもよい、という感じなんです。だから、こういう人たちに、単純に、「ねぇ、そう思わない?」と共感を確認するようなことを言っても、こちらの共感欲求は永遠に満たされないのだと気づきました。無理に同意を求めると、「あんたは僕の考えを尊重してくれてないな。あんたは自分に賛同してくれる人間が欲しいだけやろ。でも、人の考えなんてもんは、そもそも違ってて当たり前なんや」と言われてしまう。・・・言ってることはわかるけど、なんかそう言われるとすごくさむ〜い感じ(-_-;)

あるとき、そんなことでまたケンカして、腹を立てつつ洗濯物を干していたら、ふと『すべてがFになる』の冒頭部分を思い出しました。バーチャル・リアリティ世界の到来を予言する天才科学者の言葉なんですが、人と人のコミュニケーションはいずれ電子的なものになって、たとえば他人と実際に握手するなんてことは、すごく特別な贅沢になるだろう、というような文章です。読んでるときは、まさかねぇと思いましたが、ふと私はこういうふうに考えたんですよ。
まず、人と人が接触するところには必ず、個性の違いから生じる不都合・不愉快が発生する
→これは誰と誰の組み合わせでも恐らく究極的には同じだろう
→だが、実際の接触を極力減らせば、こういう不都合・不快さは最小限にすることが可能になる
→さまざまにぶつかり合う個性を平等に尊重するという考えを推し進めていくとすれば、バーチャル・リアリティの支配する電子社会こそが理想のありかたなのではないか
→今のネット社会がその一端をもはや担っているとすれば、あの天才科学者の言葉も、あながち荒唐無稽なこととはいいきれまい・・・

洗濯物を干し終えて、夫にこの考えをどう思うか聞くと、「実際の接触がない社会? そんなもん、なんも面白くないがな」と一蹴されてしまいました。
「だからさ、面白いとかそんな問題じゃないわけよ。少なくとも、不都合は減るやないの。たとえば私たちだって、別々に住んで、メールとか電話でやりとりしてるだけだったら、ケンカもせんやろってこと」
「・・・・あんた、別々に住みたいん?(-_-;)」
「あんたが常々言ってる、それぞれの個の考えが尊重されるためには、そういう形態が理想的なんやないのん? 誰からも干渉されへんし。どんなに部屋を散らかそうが、夜食に何を食べようが・・・」
「あんた、洗濯もん干しながら、そんなこと考えてたん? もー、しょうもないケンカから途方もないこと考えだすやっちゃな〜(~_~;)」
「なによ。こんな調子やったら、いずれすべてがFになるかも知れんやないの」
「Fになるって? どういうこと?」
「フン。すべてがFINISHになるってこと(-.-)」
「また。あんたの論理、めちゃくちゃやがな。だいたいな、僕の言うてんのはそうじゃなくて・・・」
・・・このあと、またしても家庭内紛争の火種が再燃したことは言うまでもありません。
はぁ〜、結婚はしたものの、理系の男って、やっぱりようわからんわ〜(~o~)


ツルツルのおねえさんは好きですか?

この夏も、肌を出すファッションが流行っています。
完全なるオバサン体型になってしまったら、二の腕あたりにもっこりと肉がついていやらしいので、肩出しドレスなど着られないですよね。私もそうなるまえに着ておくか、と思うんですが、でもあれ、いつも何か羽織るものを持っていないと、冷房の効いたところでは、すごく寒いんですよ。薄手のカーディガンなどを脱いだり着たり、けっこうわずらわしいものです。

でも、冷房対策のほかにも、この季節に気にかかるのが、腕や脚のムダ毛。私は、三年ほど前まで、そんなの気にしたことがなかったのですが、友達の一人から「夏になると手足のムダ毛をぜんぶ剃る」と聞いて以来、どうも気になりだして、電車に乗ると、そばにいる女の子をじぃっと観察するように(~_~;)
すると、いるいる。腕や脚の毛をぜんぶ剃っている人が。あれ、剃ったって、毛穴は残るんですよね。だから、よく見ると、やっぱり剃っているとわかる。伸びかけていると、1、2oの毛が肌から突き立って見える。
一昨年だったか、私も真似をして剃ってみました。すると、剃りたての状態では、あまり毛穴も目立たず、何にもないツルツル肌に見える。触ってもツルっとしているけれど、でも、少しでも伸びてくると、男性のヒゲと同じで、チクチクざらざらするんですよ。それが気になるなら、こまめに剃り続けるしかない。そんなの面倒すぎるし、肌が荒れそう。それに、「私が男だったら、腕を組んだときにチクチクざらざらするような女は嫌だなぁ」と思って、やめたんですけど。でも、ツルツルの見た目をとるか、感触を重視するかで、やっぱりなんとなく悩んでたんですよ(~_~;)
ある男の人に聞くと、「親しくなる以前は見た目だけしかわからないんだから、剃っててもいいんじゃない? で、腕を組んで歩くほどの関係になれば、多少毛が生えてようが、チクチクしようが、どっちでも気にならないと思う」と。なるほど、一理あるかも。幸い、もう結婚したんだし、うちの夫は無頓着な人なので、そんなしょーもない悩みは解消しましたが。

手足の毛を剃るって、やっぱりヘンじゃないですか?
ゴワゴワとした毛がいっぱい生えているならともかく、か細い産毛まで忌み嫌って、なんかもう異常にツルツルでなきゃ駄目、みたいなのは。そんな、プラスチックでできたような人間、不自然だと思うんだけど。
女性って、まあ最近では男性もそうなってるのかもしれないけど、こと美容に関してはすごい意欲的というか、「きれいに見えるなら毒でもなすりつける」って感じがあると思うんですよ。で、なんでそんなにきれいになりたいかっていうと、やっぱり異性の目を気にして。でも、ほんとに異性に対して効果があるかどうかっていうのは、よく吟味してないと思うんですよね。思うに、女性が思い描く「きれい」って、必ずしも男性から見て魅力があるとは限らないんじゃないかな、と。その逆もありますね。男性が考える「もてる男」のイメージと、女性が実際に好ましく思う男性のイメージも、多少違うと思います。これは、周囲の異性とちょっと話し合えばわかる。可愛いとかきれいだと思う、そのポイントって、やっぱりずれてますよ。だいたい、誰に聞いても、男の人は腕の産毛なんか、とりたてて気にしていないらしい。

よく思われる効果がないんなら、努力したって面倒なだけですよね。最近は化粧品や美容小物って、脚用のファンデーションから小鼻の脂取りパック、汗を拭き取るシートまで、いろいろあるけど、「ここまでする?」と思うこともしばしば。それが十代の女の子向けだったりするんですから、ちょっと行き過ぎの感じも。なんか、こんなことやってると、どんどんカラダが人工的になってくるなぁと思うんですが、それって、私の感性がオバサン化したってことなんでしょうか?
でもねぇ、お化粧ひとつとっても、いつもばっちり化粧をしている女性にとっては、つきあう男性に、どういうタイミングで素顔を見せるかってことはけっこう気を使うモンだと思うんです。脚にファンデーションをつけたり、痩せて見える下着やらパット入りの寄せ上げブラで「完全武装」していたら、親密になった男性に、いつそれを取り払って見せるのか、またまた厄介な心配事が増えるんじゃないですかね。私が男なら、真実の姿を見せられた瞬間、「こんなはずじゃなかった」と思ってしまいそうですが・・・でも、実際に何人か男の人に聞いてみたら、「化粧顔は化粧顔で『お、気合いれてるな』と思うし、素顔は素顔で素朴な可愛さがある」とのことです。思ったより寛容? それとも、リビドーに突き動かされれば、あばたもえくぼに見えるというだけなのでしょうか??


「癒し」でモテる法

世の中、ちょっとした「癒し」ブームとか。
ありますね、「癒し」関係のモノ。アロマテラピー、バス・グッズ、ボディマッサージ、各種占い、リラクセーションのためのCD、ぬいぐるみやペット、ガーデニングツールなどなど。自殺者も増えたそうですし、心も身体も疲れてる人が多いんでしょうか。中高年から十代の子供たちまで「癒され願望」がはびこっていそうです。まあ、その多くが深刻なものではなくて、単なる自己中心的なわがままに分類できるようなものだと思いますが。そういえば、Puuさんとの対談でも、現代人の願望には「愛されたい」とか「癒されたい」など、無責任で依存的な受け身のものが多い、というくだりがありましたね。

こういう風潮を情けないと思ってみたり、「ほんと、みんな疲れてる」と思ったりしてもいいんですが、私がまた別の観点からここでこっそり言いたいのは、これは人間関係を構築する「チャンス」だということ。
身体が疲れているなら、リラックスのためのお香やらマッサージも意味がありますが、心を癒されたい人にとっては、そんなの根本的な願望の充足にならないですよね。でも、純粋に身体が疲れているというより、そういう精神的なストレスを感じている人のほうが多いと思うんです。で、考えてみるんですが、「なんとなく今の生活に疲れている」、「優しくされたい」、「癒されたい」という受け身な人に対して、じゃあ癒してあげましょうという人は圧倒的に少ないでしょうから、戦略的にそちらの側に回れば、もう男も女もモテモテじゃないですか(^^)
バブルの頃は、お金を持ってることがモテる条件のひとつでした。でも、それって、なかなか難しいですよね。平々凡々たるサラリーマンが、いくらバブルだからって、いきなり金持ちになれっこない。雰囲気に流されて、ブランドものを身につけたり高級レストランへ行ってみたりしてましたが、けっこう無理をしてたと思います。でも、いまは心の時代だとか。人を癒す、ということはお金をかけなくても、わりと簡単にできちゃうと思うんですよ。手間がかかる? まぁ、それは人によりけりです。が、癒しというと抽象的だけど、やはり具体的なツボというものがあって、そこを押さえればそんなに手間暇かけることもないんですよ。たぶん。

そのツボとは?
まぁ、これはここだけの話、あんまりおおっぴらに言いたくはないんですが、私の思うところをちょっと述べてみますと、人間って誰でも不完全なもので、どこかに傷をもっていたり、ひび割れや、欠けているところがあるんだと思います。人間を球体みたいなものだと想像すると、ある面から眺めれば、きれいなつるりとした真球であっても、別の方向から見れば、それがでこぼこゆがんでいたり、小さな裂け目があったりするようなものです。どんなに完全に見えようと、人間として生きている限り、決して完全な球にはなれない、と私は思うんです。時間的な要因もありますね、ある瞬間には完全になったと思っても、時間とともに亀裂が生じる、というような。当然、なめらかで完全な球体であることが一番心地よく、強靭で安定性がある。その状態に近づこうとするなら、傷やひび割れは、克服すべき痛みや弱点であると認識されるわけです。私は、「癒し」というのは、その傷や欠損部分に柔らかいパテを塗り込むようなことなんじゃないかと思うんですね。

たとえば、いつもケイタイで誰かと喋ったり、友達と連れ立って遊びに行ったりしていても、芯から楽しんでいない自分を感じていて、そういうのは孤独だなぁと思っている。そんな人はいっぱいいます。もうそうやって、人に合わせているのは嫌なんだけど、ひとりはもっと嫌だと思っている。人からは明るくノーテンキに見られてるくせに、実はウジウジしてて、自分でも情けないんだけど、誰か本当の私をわかってくれて、それでも好きだとか、それでも魅力的だとか言ってくれないかと思っている。こういう気もちは、その存在自体がさっきのたとえで言えば、ひとつの欠損、ひび割れとして感じられるわけです。
友達とか恋人にしたい、という相手に、こういう欠落感が端から見てとれたら、あとは簡単でしょう? 自分が出ていって、そうっと注意深く、その欠損部分に入り込んでしまったらいいわけです。
「そういう弱さを意識してる君(あなた)って、きっと感性が繊細なんだと思う」ぐらいのことは言ってしまう。自分自身をそうやってパテにしてしまい、いわば相手の「わかって欲しい願望」を満たすかたちで、一番デリケートな部分に入り込んでしまうんです。これは、ただただ相手のいいなりになることではありません。相手がもっとも肯定して欲しいことのみを肯定してやる、ということだと思います。うまくいけば相手からは感謝されるし、親しくなりたいという目的は果たされるし、一石二鳥の技ですね。その後の成り行きしだいでは、相手も、同じように自分の欠損部分を埋めてくれるようになります。誰でも、されたことを仕返す傾向があるからです。

人間、自分が本当に求めているものを差し出してくれる人には弱い。
相手が何を求めているか、とくに、欠落感、渇望感を覚えている部分はどこか。ちょっとアンフェアなようですが、そういうウィークポイントを探すこと、これが人間関係を早く深めるひとつの方法だと思いますね。自分の長所ばかり見せつけ、それらをこれみよがしにディスプレイしても、いっこうに相手が関心を持ってくれないとか、かえって反発を招く、ということはままあること。そんなとき、丹念な観察で相手の傷や欠損部分を探し当てる。とくに、一見強気の相手には、この方法が劇的に効くと思います。
「自分からアクション起こすなんて。差し出した手が振り払われたらどうなる? 自分が惨めじゃないか」
こんなケチくさいことを思っているうちは、「癒し側」に回れません。客観性のある観察と、そこからの推察が正しければ、十中八九やってみて損はないと思います。

どうでしょう。愛されたいとか、癒されたいとかいうわりには、自分で努力をしない臆病で怠惰な人が増えれば増えるほど、この方法でモテることができるんじゃないでしょうか? いつの時代でも、少ないものは貴重に見える、ということを考えれば。



26を読むTOP