モスキート・リポート

このところ雨が続いています。真夏のカンカン照りに比べるとまだ涼しくてしのぎやすいかもしれませんが、洗濯物が乾かないのは困りますね。夏はやはり乾燥したヨーロッパの気候が羨ましくなります。
そうそう、去年はそうでもなかったのに、どういうわけか、今年はこのマンションにもたびたび蚊が出没。ヤですねぇ(~_~;) 私は蚊に刺されると、たまにそこが真っ赤に熱をもち、ひどいかゆみが持続する場合があるんです。治るのに時間もかかるし、服から出てるところだと見た目もみっともなくて非常に不快なんですが、あれって蚊の種類によるんでしょうか。アレルギーみたいなものなのかなと。
そんなわけで、わりと蚊には神経質、夏の夜はもっぱら電子蚊取り器に頼りっぱなしですが、あれ、昔は独特の香りがついていたのに、最近では無香性のものがあるんですよね。買ってきたはいいけれど、ついているのかついていないのか、わからない。もちろん、そのさりげなさがウリなんでしょうけど、うっかり消し忘れたりしそうです。やっぱり香りつきのほうがよかったなーと。前みたいにきつい香りじゃなくて、ほのかなハーブの香りとかだと安眠しやすいんじゃないかしら?

ところで、今年初めて耳元にプ〜ンとあの嫌な羽音が聞こえたとき、その蚊取り器が手元になかったんですよ。私は大パニック、もう寝ようとしていたところなのにまた電灯をつけ、どこかに飛んでいるんじゃないかと、目を皿のようにして探しまくりました。だって、刺されてからじゃ遅いですもん。でも、結局見つからず。
私の大騒ぎを尻目に、夫はのん気な声。「なんやねん、蚊ぐらいで」
ぐらいったってねぇ、あんたと私の肌ではそもそも価値が違うでしょうと文句を言いかけたその矢先、ピンとひらめいたことが。蚊は、動物の皮膚体温と、呼吸で放出される二酸化炭素をキャッチして忍び寄ってくるのだと、確かどこかで見たような記憶があるんですよ。とすると、私よりもこの夫のほうが、露出している皮膚面積は広いし、その温度も高いんだから、ひょっとしてこの人が隣で寝ていたら、私は刺されなくてもすむのでは・・・
私はまた電灯を消し、しっかり夏蒲団を身体にかけました。隣で暑がりの夫が薄い布団をはねのけ、腕や脚を無防備にさらけだして寝ているのを確認すると、しめしめ、この調子だと蚊も夫の血だけで満腹になるに違いないとほくそえんだのです。でも、その結果は、無残にも反対。私が寝てまもなく、かゆいかゆいと腕など引っかく羽目に陥ったのに対し、夫は涼しい顔でスヤスヤ。う〜む・・・これはなぜ(ーー;)??

翌日、速攻で蚊取り器を買ってきたのは言うまでもありません(-_-;)
しかし不思議なことに、それ以来でも家では、私のほうが刺されることがあっても、彼が刺されているのを見たことがない。この不可解な現象! これではまるで、私のほうが蚊よけの人身御供になっているみたいではありませんか。
こんなの許せないと思い、夫に愚痴ったところ -----
「あんたのほうが皮膚温度も高いんやし、皮膚の面積自体も広いし、あんたと一緒にいたら蚊に刺されんですむと思ってたのにィ。やっぱり蚊にも好き嫌いってあるのんかなぁ? どう思う?」
「・・・なぁ。あんた、僕が蚊に刺されとったら自分のほうには来んでええなと思てたん?」
「うん。だって、あんたが虫に刺されても、それぐらいどうってことないやないの」
「やっぱり(ーー;) 信じられへんわ。僕やったら、絶対そんなこと考えへんのに。あんたの言ってる愛だのなんだのって、その程度のもんやねんな(-.-) ようわかったわ。やっぱり僕のことなんか、どうなってもええと思てんねん。フン」
拗ねモードに入ってしまった。違うってば、あのねぇ、悪いのは蚊なのよぉ〜(~o~)

理不尽ともいえる蚊のより好み。みなさんも、身に覚えはありませんか? あれ、なぜなんでしょうねぇ? 巷の噂では、皮膚の柔らかさとか年齢、はたまた血液型などが関係している、などと言われていますが・・・果たして真実は?


幻想のマネー

「マネー」って要するに「お金」なんですが、なんでわざわざマネーと書いているかというと、きのう(6/27)、NHKのスペシャル番組「世紀を超えて・マネーの嵐が駆け抜ける」を見たからなんです。
この「世紀を超えて」シリーズですが、不定期的に日曜の夜に放映されています。初めは「豊かさの限界」とサブタイトルがついて、環境問題など、さまざまな「豊かさの限界」をテーマに取りあげていましたが、次に「ビッグパワーの戦略」と変わり、つい前回では確かハリウッドの歴史とその内幕などが描かれていました。面白いし、時間的にもちょうどいい長さ(50分)なので、私、この番組はずっとチェックしているんです。

たぶん意図的なものなんでしょうけど、このシリーズでは「VSアメリカ」の構図がたびたび強調されています。たとえば、「環境問題に真摯な姿勢のドイツ VS いい加減なアメリカ」、はたまた、「さらなる経済発展を模索する中国 VS その市場を虎視耽々と狙うアメリカ」、「自国の映画を保護しようとする韓国 VS 周到なマーケティングと売り込みでそこに割り込もうと画策するハリウッド」・・・etc
冷戦体制がとうの昔に崩壊し、アメリカという国が世界の頂点に君臨あるいは突出していることは事実で、それゆえか「VSアメリカ」の構図はなんかしっくりハマるところがあるんでしょうね。どの国の街角にもあるマクドナルドと、どこででもヒットするハリウッド映画を象徴に、このままでは、世界じゅうがアメリカナイズされていくのでは、という感じがするこのごろならではの危機感、とでもいいますか。

さて、今回のお話は、バブルについて。経済音痴の私には、さぞ退屈な内容だろうと思っていましたが、さにあらず。思わず涙してしまい、ティッシュの箱を抱えながら見る羽目に(~_~;)
テーマを表すタイトルは、「マネーの嵐が駆け抜ける」。その嵐が駆け抜けた舞台となったのは、微笑の国ともいわれるタイ。このアジアの一国で起こったバブルとその崩壊の過程を検証しながら、経済には疎くて関心すら持てない私にも、お金とは何か?と、つくづく考えさせられるつくりになっていました。

お金。それは不思議なもので、一種の信仰とか幻想なんですよね。みんながそれに価値があると思い込んでいるから、価値あるものとして存在できるんで、もとをただせばたんなる紙切れです。食べられもしないし、身にまとうこともできない。今は電子マネーも普及して、より実体がなくなった感じです。そもそも実体経済の何十倍ともいわれるお金が世界中で動いているわけですから、ほとんどのお金は紙切れですらない。パソコンの中で動く、もしくは通帳その他に記載された、ただの数字にすぎないんですね。しかしその数字が、いかに大きな影響力をもつことか。
人為的に膨れ上がったバブルが、悲壮な経済戦争で終焉を迎えたタイ経済の崩壊劇は、まぁ、描きかたにもよるんでしょうけれど、私にはどうも、大国のマネーがその巨大な力で小国を好き放題に蹂躪した、という格好に見えてしまいます。なんというか・・・それは、そうやって手玉に取られるほうにも、さまざまな思いこみやそれに基づく過失があったんでしょうが、それにしても、そこまでするのか、という感じがぬぐえないんですよね。私には、タイの人たちがバブルに浮かれていたからといって、それを浅はかだったと断ずる気もちになれません。豊かになりたいと願うこと自体が悪いわけではなく、かつてなかった好景気に舞い上がったからといって責められるでしょうか。百戦錬磨の巨大資本、その手練手管とビッグパワーをもってすれば、小国を経済的、政治的に崩壊させるぐらい、もう赤子の手をひねるようなものと初めからわかっているんじゃないかと思うからです。
弱肉強食は世の掟、仕方がないと言うこともできる。ですが、実際に目の前で虎が小鹿を貪り食っているのを見たら、やはり何かものを思わざるをえません。 それに、どんな獰猛な虎でも生きるに必要なだけの獲物しか食べることはない、けれども人間は、自分が生きるためとは言いながら、実際には必要以上のものを、他人から膨大にむしりとって平然としていられる生き物なんです。この過酷な現実、ただの数字のやりとりが、実在の国とそこに生きる人々から、財産を奪い、未来にかけた夢までも奪い取っていくありさまを見て、ボンヤリ者の私も、いまさらながらに恐ろしさや哀しさを感じた次第です。

お金の価値を世界中の人々が共有している限り、その数字が持つ意味はますます大きくなっていくでしょう。でも、ある意味、それはやはり幻想なんですよね。何千万、何億円という預貯金があるといっても、いざそれをこの机の上に出してみろといわれたら、銀行にだって、それだけの札束を瞬時に用意することは困難なわけです。情報が錯綜して、儲けにならないと判断されれば、株や通貨の値打ちは、一夜のうちに暴落することもありうる・・・ほんとうに不思議なものです。貨幣経済という虚世界がこのまま発展していくと、いったいどうなるのでしょう。私には想像もできません。ただ、私たちのような一般市民が、その「嵐」やパワーに翻弄されないで生き抜くためには、当たり前だけど、マネー幻想に溺れないでいるしかないんじゃないかと思うんです。
溺れないとは、欲を制限するということです。
この世の中、お金があれば手に入るものばかりです。隣人の生活や、口コミ、テレビのコマーシャルなどが、ことさらにそこにある欲望をかきたてます。それが本来自分の持っていた欲望なのかどうかもわからないうちに、そんな気分になってしまう。欲を持ったっていいんですが、自分の限度を超えて持ちすぎることが失敗につながる。金銭に対して、そんな過剰な欲を持った時点で、もう弱肉強食の掟が支配する世界に、一歩足を踏み入れてしまっているわけです。そして、その世界ではいまだ自分が徒手空拳の弱者であることを、神経をすり減らして常に自覚していなければならないんですね。でなければ、いずれ食べてくださいといわんばかりに猛獣の住むジャングルをライフルもなしに歩き回るようなものです。一方、バブルに狂奔して財産をすった人々がいると同時に、その幻想にはのらず醒めた目で変わらぬ暮らしを続けた人々もいる。生活が堅実であれば、時代の浮き沈みの影響は最小限ですみます。派手に浮くこともなければ、急激に沈むこともない・・・

昔から各宗教などでは、金銭欲を戒めたものですが、金銭で得られるもの以外に価値を見出す、という行為は、マネー幻想にのらないためのひとつの方策、庶民の知恵なんではないかと思えてきます。もちろん、経済強者によって、その教義がいいように利用されてきた歴史もある。けれども、どうでしょうか、バランスの問題ですが、今はマネー幻想のほうが、弱者をいいように食い物にするための撒き餌として使われているのではないかと思うんですね。自分にも簡単に儲けられるかのような錯覚を起こさせる株、それだって幻想にのめり込まなければ、とことん大損してしまうこともないでしょう。が、そこには巧妙に人を幻惑させてしまう何かがあり、欲望の喚起装置としての作用が絶えずあるわけで、言うまでもなく、それは人為的につくりだされたものなんです。
マネー幻想に身体ごと溺れることなくつきあう、その幻想の外に自ら位置し、そこで得られるものに価値を見出すことこそが、経済弱者にとっては最大のサバイバル術ではないでしょうか。


大学での勉強は

ヒロスエ初登校騒動では早稲田というブランドも地に落ちたという感じがしますが、大学側が学生の振る舞いに対して激怒しているのは面白いと思いました。何をいまさら、ですよね。そんなの、はじめからわかってたでしょうに。彼女はメジャーなタレントだし、これまで不登校であれだけ騒がれてるのに、いよいよ初登校という日、学生たちがただ大人しく授業を受けていられますかって。誰だって、物見遊山で見に行きたくなるのが人情じゃないですか。私が学生だったら、絶対にあの野次馬の一人と化してます(~_~;) 授業を一回抜けるより初ヒロスエを見るほうが、この場合、価値があることだと判断されても仕方ないでしょう。人が集まれば集まるほど、群集心理で興奮する輩もでてきます。大学側は、そんなに激怒するほど自分たちの学生を信じていたのでしょうか。激怒してみせざるを得ないのが大学の立場だとしても、こういう事態を予測していなかったのなら、それは自分の手落ちじゃないかと私は思うんですけど。

学費を出してくれた親には申し訳ないのですが、私は勉強したいと思って大学へ入った記憶がないんですよね。なんだかんだいっても、高校卒業してすぐ働くのが嫌だったことと、それまでの気ぜわしい学校生活を抜けて、もう少しモラトリアムしたかったこと、つきつめてみればその二点だったように思います。たんに怠け者だったのかもしれません。うちの夫は物理が好きで、大学へ入るとき、「これでほんとうに好きな物理の勉強ができる」と思っていたそうですから、私とは正反対(~_~;) いつも、そのことを二人で茶化しあっています。
彼いわく、「高校や入試の勉強なんか勉強のうちに入ってない。それは、人に教えてもらってただ詰め込むだけ。でも、大学では、自分で考えて自律的に勉強することができる」と。で、大学時代はそれこそ一日じゅう物理の勉強をしていたし、またそれが楽しかったというのです。けったいな人だなぁと思うのですが、私も本を読むのが好きで、読んだり書いたりに没頭していると、ご飯を食べるのもわずらわしい、という境地になりますから、きっとこれと同じなんでしょうね。
いまさら、大学で学生の私語が多すぎるとか授業崩壊が起こっているといわれても、そりゃしょうがないだろうとすら思えてしまう今日このごろ、先生方も大変だとは思いますが、かつての私のような学生がおおぜいいる限り、解決するのは難しいでしょうね。

ところで、勉強といっても、理数系と文系ではイメージが相当違うということが、夫と話しているとわかってきたんです。
文系的な知性のめざすところって、要するに教養なんですよ。平安時代、貴族社会で生き延びるためには、和歌や舞踊などについてのセンスや知識が必要不可欠でした。ああいうイメージなんです。
だから、私のように大学をモラトリアムの場として卒業しちゃってもいいんです。どうせ英文学とかのセンセーは、自分の書いた教科書の範囲でしか物を言わないんだから、その教科書を買って読んでしまったら、講義に出てもやることがない。それより、そこで取り上げられている文豪たちの本を読んでみること、読んで、自分でああだこうだと考えてみることのほうが勉強なんですよ。でもそんなこと、大学へ行かなくてもできる。そのために学校や特定のカリキュラムが必要なのかどうか、私にはわからないですね。図書館と時間だけあったらいい、という気がする。第一、学校で勉強しなくても、作家にはなれますよね。村上春樹の描く大学生なんかだと、いくつかの恋愛をして放浪の旅に出て、という典型的モラトリアム型ですが、そもそも文系だから「これも人生勉強」といったかたちで許されるんで、理数系の学生だと難しいんじゃないでしょうか。

理数系学生には、実際的に学校の敷地の中でやることがいっぱいあるんですね。実験装置やパソコンが必要だし、最先端の知識は常に流動的な状態にありますから、どうしても、情報を交換する場、それを伝えていく体制が必要になってくる。それに、どんな研究も、ただひとりの思い込みでは成り立たない。文学なんて思い込みの産物みたいなもんですが、理数系の学問は、その性質上、客観性を保証してくれる他者が絶対に必要なんですね。
理系の学科は、おのずと巨大なサークルのような様相を呈し、そこには文学サロンなんかでイメージする優雅さとか、抽象性はないようなんですよ。それどころか、文系好みの抽象性の高い言いまわしや、それを多用した文章はひどく評判が悪いようです。たとえば、夫と話していても、しばしば「もう少しはっきりと具体的に言ってくれ。そんな抽象的な言い方ではわからん」などと言われます。はじめは「この人、アホと違う?」と眉をひそめてました(~_~;) だって、ほんとうにわからない様子なんですもの。私は「これ以上具体的に言うと、ストレートすぎてしらけてしまう」という気分になる。「も〜、こんな物分かりの悪い人、知らんわ」と思ってましたが、見ていると、どうも、常にはっきりとした具体性に基づく事柄を手がかりに、ものを考える癖がついてるみたいなんですよね。抽象的な概念、愛なんていうのは、もっとも難解らしくて、それをあちこち転がして生きてるような文学畑の人々とは、もう相容れないものがあります。食べ物にも好き嫌いというものがありますから、「好き」の感情まではわかるけれど、「愛してる」となると、「その言葉、どういう意味? ちゃんと定義してもらわないと」と真剣に考え込んでしまう。ですから、話は脱線しますが、女性が理数系男性を口説くときは、もうかなりストレートにいったほうがいいと思いますよ。
「ねぇ、○○って映画、もう見た? あれ、すごく面白いんだって。見たいなぁ、でも一人で行くのもね・・・」
こんな、相手の反応を見るような言い方は駄目ですね。理数系君にしてみれば、何と言えばいいかわからない。
「ねぇ、○○って映画、すごく面白いんだって。今度の土曜日にでも、一緒に見に行かない?」
このストレートさで理数系君も安心。
愛してると百回言うより、美味しい手作り弁当ひとつでも食べさせたほうが、恐らく有効でしょう(^^)

さて、夫に言わせると、「大学教育の役割は、社会に出たときに役立つための訓練、プロ養成に決まってる。教養? そんな甘っちょろい概念が通用するのは文系だけ。理数系はな、結果がすべてなんや。結果を出すためには一日最低三時間ぐらいは家でも勉強しんといかんねん。それが当たり前や。それが最近の学生ときたら・・・」と、あとはお決まりの愚痴になる。ま、確かにそうなのかもしれませんが、忙しくてモラトリアムできない理数系君がなんだか気の毒なような。モラトリアムも自分自身を見つめるという意味では、けっこう大切だと思うんだけど?


夏の旅

前回、うちの夫は大学時代、勉強ばかりしていて、それが楽しかったという人だと書きました。が、まあそれはそれで充実していたけれど、でも、やはりその他に、恋愛をしたり、いろいろな楽しみを味わいたかった、とも言ってるんですよね。どうやら、ないものねだりは人間の習性らしい。
夏休みのビーチ、青い海と青い空、砂の上にはじける笑顔、隣にいるのは可愛い彼女と陽気な仲間たち、まるでコカコーラのコマーシャルみたいな青春の風景が自分にはなかった、だから、好きな勉強には熱中できたけれど、ある意味、つまらない学生時代だったと言うんです。そんな絵に描いたような明るい青春なんか、かえって恥ずかしいと私は思うんですが、彼はどうも真剣にそう思っているみたい(~_~;)
やたらリゾートに執着するのは、そのトラウマゆえかも?
ところが、リゾート嫌いの私の意向により、一足早い夏の旅は台北へ行くことに♪
三泊四日の短い旅ですが、最大のポイントはホテル。なんと、あの圓山大飯店に泊まるのです! 中華の贅を凝らしたロビーは、あまりにも有名ですよね。前から泊まってみたかったホテルのひとつなんですよ(^^)
夫は飲茶や屋台などの食べ物が楽しみだと思いますが、私はCDなど買ってきたいなぁと思ってます。台湾ポップスのCDやテープは中国でもよく売れていて、私も好きなアーティストは、周華健(チョウ・ホア・チェン)や孟庭葦(モン・ティン・ウェイ)。日本ではあまり出まわっていないので、あちらで買わなければ手に入らない。
この7日から10日までの日程ですから、もう出発はあさって。向こうはきっと暑いでしょうねぇ。そういえば、この前から夫は、「なぁなぁ、疲れてもすぐ怒ってむくれたりせんと、仲良うしよな。なっ」と、しきりに牽制しているんですが・・・(ーー;) すぐ人を怒らすようなことするのは、いつも彼のほうなのにね。
まっ、ともかく楽しんでこようと思います(^^)


回来了!

「回来了(ホィライラ)」とは、「ただいま」という意味。昨日の夜、台北より無事に帰ってきました。
みやげ話はまた別に書くとして、今回の旅はちょっと疲れましたね〜(~_~;)
遊びに行って、疲れるってのもナンですが、私も夫もいまいち体調が万全ではなく、それで普通より疲れてしまったんだと思います。元気いっぱいなら、もっと欲張って行動したと思うんですが、だらだらしてましたね。行きたいところや食べたいものがたくさんあったのに、残念です。CDはたくさん買ってきたんですけど。周華健(チョウ・ホア・チェン)、孟庭葦(モン・ティン・ウェイ)、那英(ナァ・イン)、張学友(ジャン・シュエ・ヨウ)、齋奏(チィ・ツォウ)などなど・・・どれから聞こうかと迷ってます(^^)



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