主婦であること

夫の扶養家族になることを申請して、おお、これで私も、いよいよ正真正銘の専業主婦なのだな、と実感しています(^^)
主婦の生活ですが、朝、食事を一緒にしたあと夫が出ていってしまうと、少し洗濯やお掃除をして、お昼をひとりで食べます。午後はテレビを見るか本を読むか、図書館へ行くか、買い物に出かけるなどします。もちろん、ホームページの更新もします。で、夫が帰ってくるまでに夕食の支度をする。夫が帰宅すると、寝るまでのあいだ、一緒にビデオやテレビを見たり、旅行などの計画を練ったり、なにか議論したり、ついでにケンカをしたりします。
いや〜、いたって気楽なモンです(^o^)
子供ができたら、そうはいかないよって、みんな言うので、せいぜいそれまではのんびりすることにします。といっても、私、ぐうたら者なので、そんなに朝から晩までキリキリと働いたことがないのです。だから、いままででも、人に比べるとじゅうぶんのんびりしていたような・・・そこを突かれると痛いんですが、最近はもう開き直ってしまいました。だいたい日本人は働き過ぎなんだし。

主婦のいいところは、誰の監督・指図も受けないこと。今日はこれを洗濯して、こことここを掃除して、ここへ買い物へ行って、晩御飯はこれにしよう、という一連の作業が、全部自分の裁量で決められるんです。たまに、夫が冷蔵庫をのぞき込んで、「これはもう今日じゅうに食べんとあかんのと違う」とか「あれが食べたいから買って来て」「この野菜類、もうちょっと整理したらどう」などと言われるぐらいです。そのうち、鍵付きの冷蔵庫が売り出されたらいいのになぁと、私はひそかに思っていますが(~_~;)
まぁ、二世帯同居が当たり前の時代は、嫁という立場はお姑さんからあれこれと指図を受けるものだったそうですが、うちの親も彼の親も核家族だったので、嫁姑戦争などというものは両家とも、なかったと思います。その点も気楽ですね。

私は今の境遇で満足して暮らしていますが、どうも、主婦という立場に満足できない人たちも多いらしい。
彼女らの不満となっているのは、たとえば、
1、誰それさんの奥さん、何々ちゃんのお母さん、という個人名のない肩書きしかなく、個として生きられない
2、夫が家事育児に非協力的、あるいは「誰に食わせてもらっているんだ」という態度が我慢できない
3、家にいると孤独に感じ、ルーティーンとなった家事をしていても達成感がない
などというもの。これらについて考えてみました。

まず、1についていえば、会社で働いている夫にしたって、それこそ個人ではなく「××会社の○○」という肩書きで生きているんじゃないですか。個としての誰それさん、という認識ではないでしょ。だから、いったん離職してしまったら、まったく関係のない人なんです。部長であれ課長であれ、たとえその人が辞めても、そういう立場は順繰りに誰かが継いでいく。ところが、何々ちゃんのお母さん、ということになると、もうそれは世界にひとりしかいない。見ようによっては、こちらのほうが、ものすごく個人として認識されているわけです。

2ですが、もうこれって夫婦の関係性の問題ですよね。人間的な関係、経済的な関係・・・
でも、ひとつ思うのは、社会に出ているときの夫の立場とかそこでの満足感って、けっこう重要だと思います。男の人は、いまのところ、働きに出ることから免れて生きることはできませんからね。
たとえば嫌な会社で嫌な仕事を嫌々やっている夫ならどうか。嫌なことをしていると、仕事量は多くなくても疲れますから、家に帰って来てまで何かする余裕・気力がない。また、嫌だけど妻子を養うために毎日我慢して仕事に出ている、そんなふうに本人が思っていたら、その反動で、家庭では傍若無人な振る舞いもするでしょう。抑圧されている人間は、他人をも抑圧するといいます。会社で抑圧されている心理的な埋め合わせとして、家族を抑圧するんでしょうね。こういう人の奥さんなら、夫のことを気の毒に思って慰めるとか、自分も夫の前ではあまりラクそうにしないとか、そういう工夫がいりますね。
自分の好きな仕事のできる人は、そういう自分は恵まれている、という気分があるので、他人を抑圧せずにすむ。うちの夫なんですが、ほんとに物理が好きなんですよ。たとえお金をもらえなくても、今の仕事をしたい、というくらいですから。こういうふうだと、仕事でたまった鬱憤を家で発散させる、ということがないので助かっています。

3の、孤独感ですけど、私自身は子供の頃から一人遊びが好きなもので、ひとりでいてもあまり孤独だと思わない性質なんです。むしろ、友達同士で連れ立ってショッピングとか、頻繁にお互いの家を行き来する、なんてほうが束縛されて疲れる感じ。でも、結婚に伴って勤めを辞め、引っ越ししたり、実家と離れたりする人もいるので、そういう人たちが孤独を感じるというのはわからなくもないですね。市民センターかどこかへ習い事に行くとか、趣味のサークルに入るとか、パソコン買ってメール友達を募るとか、いろいろ方法はあると思いますが。

家事をしても達成感がない、というのは、やっても誰も褒めてくれないからだと思います。でも、これこそ、夫しだいかも。うちの夫は、掃除はおろか、食卓に活けてある花が変わっても、私がそのことを言うまで、なぁんにも気づかない鈍感タイプ。ただ、食べ物については、これは美味しいとか、反応ありますね(~_~;)
まぁ、どうでもいいんですけど、主婦の仕事って、たいてい自己満足しかないです。自分がノルマをつくって、自分でそれを達成して、自己評価する。それだけでは虚しいというならば、近所の人やら友達やらを招いて、自分の主婦ぶりを見てもらうとか(~_~;) または、外からも見える子育て業に血道をあげる。いい子に育てばノルマ達成、よそさまに見せびらかす快感が。
でも、こればっかりは生き物だから。
そういえば、自分の子だからって思い通りにはならないものだと、以前、うちの両親が私を見て言ってましたね。そんなにしみじみ言わなくてもいいと思ったんですけど(~_~;)
さて、つらつら書いてるうちにこんな時間。そろそろ夕ご飯の用意しなくっちゃ。


大地の子

前回、うちの夫は職場での鬱憤を家で晴らすということがない、などと書きましたが、その後の調べでは、どうやら彼は、家での鬱憤を職場で発散させようとしているらしいということが判明。妻としては複雑な気分です(-_-;)
どうも、私のことを、ワガママだの何だのと漏らして、人の同情を引く快感を覚えたらしい。
ったく、彼の職場といえば、彼自身がそこではヘンな人で通っているもんだから、そのヘンなやつと結婚した私までがヘンだと思われて、こっちは迷惑こうむっているんですよね。
だいたい私から見れば、彼以外もみんな、じゅうぶんヘンな人たちなんだけど、そのヘンな人たちが、よってたかって私に、結婚する前は「(彼と)結婚することに不安はないか?」とか「よく結婚する気になりましたね」などと言うし、結婚してしまった後では「結婚して、ほんとに幸せですか?」などと聞くんです。
いったいなんと答えればよいものやら。
で、私たちがけっこううまくやっているということになると、今度は私自身が、「ああいうヘンな男と暮らせるあの奥さんも、やっぱりヘンな人なのに違いない」ということに・・・・
あのう・・・彼はともかく、私自身は普通の常識人なんですけど(-.-)

ま、いろいろありますが、いま、私たちふたりがハマッている(?)のは、『大地の子』というドラマ。
山崎豊子原作ですが、数年前にNHKで日中合作の連続ドラマとして放映されました。けっこう話題にもなりましたよね。あれを全部、うちの父がビデオにとってあったんですよ。私は中国語の教材にもってこいだと思って、何度か見ましたが、彼は見てなかったんですね。ひょんなことから、見てみようか、という話になって、ここんとこ何日か、続けて見ているんです。
みなさんは、ご覧になったことありますでしょうか?
見た人ならわかると思うんですが、あれ、泣いちゃうんですよね〜。
お話自体は、戦後、満州に置き去りにされ、中国人に引き取られた日本人孤児の苦悩の半生を描いているわけですが、もう、一話につき二、三回は泣きの場面というのがあって、これでもかと泣かされる。私なんか何度も見てるから、次はどうなるってわかってるんだけど、やっぱり思わず可哀相になってしまう。音楽も、泣きの場面の音楽というのがあって、それを聴いていると反射的に悲しくなってくる('_')
孤児を演じる日本人の役者も、吹き替えなしの中国語で頑張ってますが、なんといっても、身寄りのない彼を引き取って育ての親となる中国人夫婦の演技がいい。とくに、お父さん役、この人が絶妙な雰囲気を出していて、見る人の涙を絞ります。日中友好二十周年の記念に作られたというだけあって、やっぱりNHKも力入ってますね。興味のある方には、たぶんレンタルショップでも借りられるんじゃないでしょうか。

おりしも、今日で、あの天安門事件から十年。新聞など各メディアでも、近年さかんに中国の事情を取り上げていますが、なかなか私たち日本人の感覚ではわからない面があると思います。取材者や研究者が中国や中国人を見るとき、それは取材や研究の対象としてであって、客観的な記事や論文の材料にならないもの、言葉や映像にならないものは、彼らの仕事の過程や結果からはどんどんこぼれおちてしまう。そもそも国情が大きく違いますから、誰でも、まずそのことに目を奪われるのは仕方ないことなんでしょう。
でも、反体制側の学生運動を持ち上げて、中国はいまだ民主を尊重しない人権無視の国家であるというような紋切り型のイメージが日本で量産されるのは、すごく残念ですね。香港が中国に返還されてから、日本人のツアー客が減った、などという話を聞くと、とくにそう思います。私は何度か中国に行ってますし、留学していたこともあるので言うんですが、そう敬遠しないで、一度は見てみるべき国だと思うんですよ。万里の長城とか名所旧跡だけじゃなくて、一般の、生きた街というものをですね。欧米文化、欧米の価値観に慣れた私たちにとってはとても新鮮な印象だし、あれほど何か考えさせてくれる街っていうのはないんじゃないですか。いま、中国のツアーは欧米などに比べて割高になってますが、旅行社の人いわく、お客さんが増えれば安くなるということなので、もっとお隣の国を見に行く人が多くなればいいなぁと、そういう意味からも思うんです。


人の気持ち

人の気持ちがわかったら、人が考えていることがわかったら、どんなにいいだろうと思ったことはないですか? たしか外国のお話に、人の考えていることがわかる眼鏡、そんなのがあって、その魔法の眼鏡をかけると、目の前の人が何を思っているか、わかってしまう。けれどもその結果は、あまり愉快なものではなかった、というオチがついていたと思います。

夫と暮らし始めて、早いものでもう数ヶ月になりますが、いまだに、この人、いったい何考えてるのかなぁと思うことがありますね。夫にしても、いまだに、あんたがどう思ってるのかわからん、などと言うこともあるし。そんなもんですよ。夫より長年つきあっている両親や友達でも、ほんとうのほんとうに各人が何を考えているのかはわからない。他人どころか、自分の考えさえも、ときには確かでなくなることもある。それが変化していって、もう元に戻れない、自分でも、こうなるとは思っていなかった、そんなこともあります。
でも、私はやっぱりある程度信じてもいるんですね。
周りの人が、自分が、たぶんこう思っているんだろう、とか、まさかそんなことは考えないだろう、とか、言動から推し量られるものを、漠然と信じている。

それは誰でもそうなんだと思います。完全にわかることなどないと思いつつ、自分の想像でそれを補って、信じようと思う。あるいは、もっと単純に、この人だから、夫だから、親だから、子供だからと、何も考えることなく信じている。または、部分的に信じ、部分的にはわからない、それでいいんだと思っている。
よく、小説家や脚本家は、悪役キャラクターに、「この世で信じられるのはカネだけさ。人間なんて、信じられるものか」などと言わせてみたりしますが、ほんとうにそう思っていて、生きていけるものでしょうか?
信じる、というのは、相手が自分に危害を加えることなどないだろう、傷つけることはないだろう、自分が素のままの自分であることを受け入れてくれるだろう、そういうことだと思うんですが、どこかにそういう信頼感、そういう気もちの持てる関係がないと、人が人のなかで、まともに生きていくことなど出来ないんじゃないでしょうか。
今、そんな人が身近に誰もいない、そんな関係がない、という場合でも、いつかはきっとそういう関係が見つかるだろう、自分が良くも悪くもまるごと自分であっても、それを受け入れてくれる誰かが、この地球上にはどこかにいるだろう、人はそう信じることで、精神の平衡を保っていられる。そういうものだと思うんです。

私はそのへんについてはラッキーだったかもしれません。生まれ落ちた環境で、もっとも大切なのは両親との信頼関係だと思いますが、幼い日の私には、ごくごく当たり前に、それがそこにあることを受け入れられたんですね。自分は両親にとって愛されるべき存在、必要な存在であると信じられた。そんなのは、ごく当然のことで、ずっと大人になるまで考えてみたことすらないほどでした。子供というのは、まず初めに親との間で人間関係を学習します。何も自覚的なものを持たない幼児期に刷り込まれたこういう漠然たる信頼感は、たぶん一生の宝でしょう。この点では、両親にいくら感謝しても足りません。
でもまあ、一歩でも家族関係の外に出ると、そんな盲目的なまでの信頼感は、普通、どんな関係のなかにもみつからないものです。思春期以降の私は、人並みにいろんな人との出会いや別れを経験しましたが、やっぱり自分から相手を信じるなんて、軽率でもあり、またなんとなく損なような気がしました。あえてそれをするのは、かなり特別な場合ですね。一般には、これと信じた相手から信じてもらえなかったり、無視されたり、裏切られたら・・・自分が傷つくことを想像すると、思わず臆病になってしまいます。相手の気もちさえわかったらなぁ、あの人は、ああ言ったとき、ああしたとき、いったい何を考えていたのだろう・・・人間関係のなかで、そんなふうに思わない人ってないんじゃないでしょうか。
信じてくれたら、信じられる、愛してくれたら、愛し返せるのにって。
でも、人は必ずしもほんとうのことばかり言うわけではないし、たとえどんなに言葉を尽くしてみても、その人にとっての真実はその人の心の中にしかないんです。それを取り出して、子細に見てみるわけにはいかない。だから、人のほんとうの気持ちは、永遠に謎のまま、ということが多いんじゃないかと思うんです。
まあ、このあたりが映画や小説のタネになったりもするわけですが。

季節の移り変わりのなかで、ぼんやりと思い出をたどるとき、あの人はどういうつもりだったのか、とか、いったい何が言いたかったのか、などと、過去の人間関係をおさらいしてみることもあります。でも、いつも、やっぱりわからない。こうかな、とは思うけれども、こうなんだ、とは思い切れない。そんな数々のわだかまりが、私でなくても、誰にでもたぶんあることでしょう。
人の真意がわからないと、いらいらしたり、悪いほうに想像して落ち込んだりもしますよね。
私は、だからこそ大切な瞬間には、大切な相手には、ほんとうのことを言わなきゃならないと思うようになりました。せめて、相手には自分の思っていることがわかるように、言葉を尽くさなきゃって。時間がたっても、状況が変わってしまっても、そのときそう言ったことだけは信じていてもらえるように。どのみち相手の気もちがわからないものならば、そんなことに拘泥するのはやめて、自分の気もちだけでもクリアにしようと思うんです。それで傷つくかもしれないなんて、だいたい臆病すぎるんじゃないかなって。それに、私が見たところ、実際的にも、世の中けっこうギブアンドテイクの法則で成り立ってます。愛する人は愛される。信じる人は信頼される・・・もちろん時と場合によりますが、ここぞと思うときには自分からオープンになる。何度か試行錯誤もしましたけど、これが、少なくとも人間関係で後悔しないためのコツかもしれないなぁと思います。


リング

何をいまさらって感じですが、鈴木光司の『リング』、読みました。

何年か前、友達がハマッていて、「面白いよ」と勧められたんですが、なんとなく流行モノに手を出す気分ではなかったので、そのまま忘れていたんです。が、このところテレビドラマにもなって話題を集めたし、ということで、最近、映画化されたものをビデオで借りて、夫と一緒に見たんですよ。松嶋菜々子が主演してたヤツですね。
見終わって、夫とふたり顔を見合わせて、なにこれ〜って言いましたよ(~_~;)
なんか、ストーリーとしてはすごく貧弱な感じがしたんです。まぁ、まだ続編があるということなんですが、それにしても、中途半端な感じがするなーって。だいたい呪いがテーマなんですが、あそこまでの呪いをかけるだけの怨念の存在、その必然性がわからない。まだ雑誌やなんかの「読者の怪奇体験」みたいなののほうが、ストーリーにおいては破綻してないかも知れません。あれじゃあ、松嶋奈々子が馬鹿みたい。こいつって、端迷惑な女やね、という感じになっちゃう。彼女が、「みんな私が悪いのね、あんなテープを見せたから」とかなんとか言うシーンでは、夫ともども、「そうやそうや」と深くうなずいてしまいました(~_~;)
そもそも、たかが90分そこそこで、本一冊ぶんの濃密さを出すのは難しかったかもしれません。とにかく、出てくる役者も少ないし、大掛かりなことは何もしてないので、こういうホラームービーは安上がりに出来るんだなぁ、という印象でした。

でも、怖い、という意味では、あのビデオ、確かに怖いです。
ストーリーが怖いんじゃなくて、映像そのものがストレートに不気味。
よく恐怖シーンで使われる効果音がときどきある以外、音楽がまったくなくて、すごく淡々としたつくりなんだけど、なかでも、あのわけのわからない呪いのビデオテープ、あの映像が怖い。
海外産のスプラッタ・ホラーは、血しぶき飛び散る残酷さ、思わず顔をそむけたくなるようなエグさを恐怖と勘違いさせてますけど、このビデオの静かで抽象的な不気味さというのには、想像力を刺激されてちりちりと鳥肌たつような怖さがありますね。やっぱりバケモノはボーっとしてなきゃ駄目ですよ。はっきりと生身の人間が演じてしまったら、それはなんとなく興ざめしてしまう。ああいうふうに、白黒の不鮮明な映像で、しかも画面のなかの画面、という間接的なものであるからこそ、じわ〜っと不気味さが忍び寄ってくる、そんな気がします。

ビデオを見て、これを原作で読んだら、また違うんだろうなと思い、図書館で文庫本借りてきました。
確かに、ぜんぜん違ってますね。まず、キャラクターの設定もまったく違うし、ストーリーそのものも、ビデオではなんだか安っぽい「超能力合戦」みたいな感じになってましたが、原作ではそれなりに深みをもたせるつくりになっている。両者の出来を比べてみた感想は、もう明らかに原作の勝ち。
面白いんですが、ただ、ホラーとして怖いかと言われると、べつに怖くはない。もっと怖さに総毛だつような小説はたくさんあります。そういう面から見れば、ビデオの映像の直接的な不気味さと比べて、その二十分の一も怖くはない。まぁ、私が目で見る刺激に弱い、ということもあるでしょうけれど、この作者の文体からして、こちらの五感に訴えかけるような、そういう感覚はないんですよ。ストーリー自体の展開は面白いけれど、読んでいて、皮膚に寄り添ってくるような、その光景があたかも目に見えるような、リアル感に溢れる文章ではないんです。心理的にも、主人公に入れ込もうという気にならないので、あまり緊迫した感情を持たずに、まるで他人事みたいに読める。出てくる女性の描き方も、人間としての輪郭が曖昧。ただ、主人公の友人、竜司のキャラクターはよかったですね。ちょっとカッコよすぎって感じがしないでもないけど、でも、このキャラクターがなかったら、物語の面白さも半減したと思います。
もうビデオはいいやって感じだけど、『らせん』はまた読んでみようかな。



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