性格運命論

思うんですが、人には、各人が個性的な人生をかたち作っていくもととなる「持って生まれた精神的な基調」みたいなものがあるんじゃないでしょうか。
まぁ、持って生まれたものかどうか、というのは異論があるかもしれません。環境とか親のあり方で、子供はいかようにでも変わっていきうるというような。でも、子育てしている人、とくに複数の子供を育てた経験のある人にちょっと聞いてみたら、環境や親の接し方以前に、やっぱりなにか持って生まれた個性があると言うんです。まだ言葉も喋れない、ほんの小さな赤ん坊のうちから、人の性格は各々に個性的であるということです。子育て経験はないけれど、私は、直観的にたぶんそうなんだろうなと思うんですね。子供は、まっさらの白紙で生まれてくるわけでなく、肉体をつくる遺伝子がひとりひとり違うように、「精神の核となるもの」をも、それぞれに備え持って生まれてくるんだろうな、と。

それを、私は「運命」と呼んでいます。自分ではどうにもならないことですから。
たとえば自覚的に選んだわけでもないのに、この親のもとに生まれた、女(男)として生まれた、日本人として生まれた、こういうのは何の根拠があってそうなるものでもなく、もう「運命」としか言えないでしょ? そういうのを運命と称しているんです。
で、もちろん、人は与えられた運命プラス自分の意志で生きていくわけですが、この自分の意志、というのも、環境の要請もしくは経験からくる判断だけでなく、やっぱりある程度は自分の性格から発しているものですよね。もともと性格の基礎となる精神の核が、持って生まれたもの、いわば、「自覚なしにもたらされた運命」であるとすれば、私たちは物理的にも精神的にも、けっこう運命的に生きている、ということになりませんか。
自分の性格なんか自分でわかりそうなものなのに、各種占いや心理分析などが流行るのも、なんとなくぼんやりと思っていることが、他人からこうなんじゃないの、と言われると妙に納得できる、裏付けがとれたような気になるからなんですよ。やっぱりそれがそもそも「もたらされたもの」であり、自覚なしに獲得しているので、自分でもよくわからない面が多々あるから、じゃないでしょうか。

よく、自分の性格が嫌だとか損だとかで、なんとかこれを変えたい、という人がいますよね。自己否定的な人です。私は生まれてこのかた、これっぽっちもそんなことは思ったことがない超自己肯定的な性格(たんに唯我独尊ともいうけれど・・・(~_~;))なので、またぁ、そんなの、口先で殊勝らしく言ってるだけでしょ、誰だって自分は可愛いんだから、などと疑るんですが、しつこく聞いてみるとほんとうにそうでもないらしいのでびっくりしてしまいます。
世の中には努力や根性の好きな方もいます。なんでもありの昨今では、性転換もできるようになったし、国籍だって変えられる、やり方次第では貧しい生まれからサクセスストーリーを地でいくことも可能です。そう考えると、人は根拠なく与えられる運命というものに、打ち勝ちつつあるように見える。性格ぐらい意識的にどうにかできる、そう思うかもしれません。でも、自己否定的な人に言わせると、なにがしかの努力で、持って生まれた精神的な基調を変えられるかというと、そういう問題でもないというんですよ。それができないから嫌なのだと、ますます自己否定的になる。まぁ私自身も、自分を含め、周りの人たちを見ていると、それまで表面化しなかっただけで、もともとその人のうちにあるものが発現する、または発展することならできると思います。が、無から有はちょっと無理だと思うんですね。そう考えると、う〜ん、運命とは、けっこうヘヴィなものではありませんか。


リゾート嫌い

まだ東欧見聞録も書き終えていないのに、我が家では夏の旅行計画をたてています。
「どっか行きたいなぁ」って、また私が言い出したことなんですけど(^^)

実は新婚旅行のとき、計画の初期段階ではハワイでごろごろする予定だったんです。なんもしないでぼけーっと海を見て過ごそうかって。夫はそういうのが好きみたいなんですね。でも、いろんなところで旅行案内を見ているうちに、気が変わってきたんです。私の。
そもそも私は日焼けが嫌いで、マリンスポーツにも関心なし、サンドレスでデッキに寝そべって冷たい飲み物を飲むとかいうのにも魅力感じないタイプなんですよ。ハイビスカスもフラダンスも好きじゃない、船やヨットのたぐいも好きじゃないんです。ハワイに行くなら、かろうじて、火山を見るとか、天文台を見学するとか、それくらいですね、してみたいことって。だから、ハワイはいいよって、みんな言うんですけど、一回も行ったことがない。
つらつら考えてみるに、あー、私はリゾートが嫌いなんだなぁと思いました。
リゾートでしたいことが、まったく思いつかないんです。
なんにもしないことを楽しむ、なんて言われてもねぇ・・・普段から暇人なもんで(~_~;)
ああいうとこって、やっぱり、いつも忙しくしている人が、ぼけーっとするために行くんでしょうか。
今回は近場にしようと言っていて、夫はやっぱりグァムやサイパンでぼけーっとしたかったみたいですが、私としてはどうも楽しめそうにないので、たぶん他の行き先になると思います(~_~;)
それに、みてたら夫は、行き先はどうでもいいみたいなんですよ。とにかくのんびりぼけーっとする。それさえできれば、海であっても山であってもいいみたいです。ぼーっとするなら、週末になるたび家でも食っちゃ寝してゴロゴロぼーっとしてるのに。これって無欲なのか、感動のないヤツなのか(-_-;)

貧乏さを競うようなバックパッカーの世界もなんとなく馴染めないけど、グルメとショッピングのリゾート姉ちゃん的世界にも違和感をおぼえる私。だいたい、極端な貧乏旅行は体力のない私にはキツイし、グルメやショッピングなら、もっとおばさんになっても子連れでもできるじゃないですか。そんなの今からしてもつまらない。
旅行雑誌なんか見ていると、わかるんですよ、自分の趣味。もう、どうしても行きたくなる、一生に一度は絶対に行きたい!!とか興奮してしまうページがあって。それが、たとえばモンゴルだったりエジプトだったりするわけです。ルーマニアとかトルコ、エーゲ海の島々にも行きたいし、できれば南米にも!
要するに私は、辺境の地とか古代遺跡、異文化に触れる旅に、ググっと心をひかれてしまうんですね。
AB・ROADをみていたら、今年の夏(八月十二日あたり)は、モンゴルの大草原にペルセウス座流星群が降り注ぐのだとか。今回は無理っぽいけど、あ〜、そんなのいつか見てみたいなぁと思いますね。 高層ビルや街灯などなぁんにもない、見渡す限り360度大平原。そんなところで夜空を見上げてみたら、それだけでもう人生観が変わるような気がしませんか? ねっ(^^)
も〜ロマンですよ、ロマン。旅も人生も、やっぱ感動がなくちゃ。


学内セクハラ

先日、セクハラで訴えられていた大学の先生が、結局七百万円だったか支払わねばならない羽目になったと報じられていました。いったい、なんなんでしょうねぇ。
この先生、まだ四十代でしょ? どんな顔してこの先、この世界の学者村みたいな狭いとこで生活していくんでしょうね。そのときは頭に血がのぼったのかもしれませんが、大学のセンセーともあろう人が、ねぇ?
それとも、案外、仲間内ではかばってくれるのかしら? そとから見ると、ただのヒンシュクなんだけど。

大学のセンセーってどこか大変に無防備な感じがしますよね。学部にもよりますけど。なんかね、専門的に教育学を履修したり教育実習なんてものをせずに、学生から研究者になり、それから研究者兼教官になっているので、一般社会において「教育者として望まれている立場上のモラルやけじめ」なんて、あまり意識しない、または意識する機会がないんではないでしょうか? よくいえば画一的なタテマエがあまりなくて、学生も教官もわけへだてなく、大人同士として学問の道を歩む先輩後輩という雰囲気なんですが・・・

大学内でも医学部なんていうのは、ものすごく上下関係がはっきりしていて、一糸乱れぬ軍隊のようなピラミッド構造のなかにいるそうです。学外とのつながりも深く、利権の取得や権力闘争もあるでしょうから、そこで行われるセクハラは、おそらく確信犯的なものになるんじゃないでしょうか。そういう力関係がつくる構造のなかにいて、その力関係自体を利用したセクハラというもの。会社でのセクハラも同じですけど。
中学や高校での教師によるセクハラもそうですね。そりゃあ、センセーは世間知らずだとはいわれるけれど、PTAなど地域社会の目というものは、中学・高校のあり方には口も出せば監視も厳しいですから。少なくとも、十代の子供たち相手だという罪悪感はあるはずで、それでもあえてするならやはり確信犯ですよ。
でも、社会とのつながりが切れたような研究室に場所をうつしてみると、確信犯でなく、もっと無防備なセクハラというのが、ままありそうな気がしますね。何がセクハラなのかわからないでしてしまうような。

研究室という個室にこもって、親身になって論文書きやら何やら指導していたら、親近感がわくのも当然で、時には、センセーと生徒という公的な関係より、もっと個人的な気もちのほうが大きくなっていったりもするんでしょうね。教えてもらっているほうは、立場上、無愛想にもできないし、また学生といっても見かけはオトナですもの、たとえば可愛い女子生徒が愛想よく自分を見つめて、従順に話を聞いていたら、そこに色気を感じる男のセンセーがいても、ぜんぜん不思議じゃないですよ。学問ばっか真面目にやってきたセンセーがいて、恋愛にまったく免疫がなければ、たとえどんなに歳をとっていようと、ただの愛想と愛情表現の違いがわからず、自分が好意を持たれているなどと勘違いしてセクハラ行為に走ったとしても、もー、しょーがないですね。
でも、世間の見方というのは、「なんで大学のセンセーともあろう者が」なんですよ。大学のセンセーといっても、それは専門知識を有する学究の徒である、という見方と、人を教え導く教育者であるという見方ができるんですが、学生を指導しているときはやっぱり教育者だと思うじゃないですか。でも、センセーのなかには、学究の徒である自分のイメージしかなかったりする人がいるんじゃないかと推測するんです。愛想と愛情の違いがわからなくても、教育者としてとるべき行動さえ考えてみることができたら、セクハラになりようがないと思うんですね。やっぱ、教育者としては、タテマエ上、校内で個人的な感情を出すのは好ましくないことですから。ましてや、性に関することを匂わせるなんて御法度です。

思い出せば、私が教育実習を終えたとき、実習期間に書いていた実習記録を大学の教官に出したんですが、あまりいい点がもらえなかったんですね。感動しぃの私が、初めて教壇に立って経験したことを、まるで物語を綴るように自分の思ったまま細々と書いていたのが駄目だったようです。「レポートは日記ではない」と言われて、すごく頭にきました。こんな石頭の頑固ジジイがいるから、生徒の自由な感性が押しつぶされるんだと思いました(~_~;) でも、今ではなんとなくわかりますね。先生は確かに教育マシンではない、けれども先生が個人の感情に没してしまうと、学校教育なんて、成り立たないんです。


造花とロボット犬

いきつけのスーパーで、すずらんの花束を買いました。ガラスの花瓶に活けて、いま、このテーブルのうえに飾ってあります。その清楚な美しさと、かすかに漂って来る繊細な香りを間近で楽しんでいるんです。
すずらんは、あちこちの温室で大量生産されているバラやカーネーションなどと違い、一年のなかでも今の時期しか花屋で見ることはありません。もっと見映えがする大きな花束と比較すると少々割高に感じますが、そこは珍しい季節商品だから、サクランボなんかと同じでしょうか。

花屋ではちゃんと専用の冷蔵庫に保管してあるので、花も傷まず長持ちしますが、スーパーの売り場では束にしたものをビニールでくるんでバケツにいれてあるだけ。その日に入荷したものはきれいで、花屋よりも若干割安ですが、売り場で日にちが経つとすぐにしおれてしまう。誰にも買われていかず捨てられてしまうものが、けっこう大量にでてると思いますね。もったいないし、可哀相でもあるけれど、保管にコストもかけられない以上、仕方ないのかもしれません。
一方、このごろでは、アートフラワーとかシルクフラワーとかいうのですが、造花がよく出まわっています。切り花と並べて造花を売っているスーパーもある。遠目にみればほんものと変わらないので、あ、たくさん花がある、と思って行くと、カラフルな花々の大半は造花だったり。人工のグリーンや観葉植物も当然あって、ごていねいに人工土と鉢がついている。
味気ないので私自身は飾らないんですが、きれいにアレンジされたものは贈り物に重宝だとか。花好きな人でないと、花を贈っても、きちんと活けたり水やりしたりと、かえって手間をかけさせてしまうことになるからですね。注意して見ていると、百貨店や公共のホールなどに飾られる季節の花々も、最近では造花が大量に使われています。人が手をかけなくても傷まないし、枯れないし、水をやる必要がないのでどんな飾り方でもできるし、使いまわしがきくので、便利なんじゃないでしょうか。人件費が安い国で作られているので、それ自体が生きた花より安いですしね。

どんなに精巧に作られていても、造花は造花。ほんものの生きた花がもつ香りや柔らかさ、一花一花がもつ微妙な個性などが決定的に欠けています。花好きの私は、あんな無味乾燥な造花なんか飾って、と冷ややかに見ていましたが、スーパーで大量に捨てられていく花たちを見ていると、これでいいのかもしれないと思うようになりました。ガーデニングがブームといっても、植物が生き物だと思わないで、ポーチやベランダを飾るインテリアの素材ととらえられている場合も多いですよね。百貨店などで飾りに使われる花なんかまさにそうですが、そういうのは、造花でもいいんじゃないかって。そのほうが、生きた花を少しの間だけ使って、また大量に捨てていく、という残酷さがなくていいかもって。

電子ペットも流行ってますが、言葉を喋るものもあれば、犬のロボットも開発されました。そのうち、犬や猫そっくりに、毛皮をつけて、動き、鳴くようなロボットが売られるようになるんじゃないでしょうか。
こういうのを買って可愛がるって・・・・なんか造花よりよっぽど虚しくならないですかね?
ずっと以前、まだ学生の頃ですが、父に、なんで男の人はわざわざスナックなどに飲みに行くのかと聞いたことがありました。そしたら、飲みに行ったら、女の人がちやほやしてくれるから気分がいいって。で、私がさらに、でもそれは、お金を払っているから、そうしてくれるだけでしょ、そういうのって虚しくない?と聞くと、それはそれでいいんだと言ってましたね。
それからまた、今度は男の友達に、フーゾクについて聞いたことがあるんですが、やっぱり似たようなこと言ってましたね。確かにそこでの行為はオカネによって得るサービスであって、ほんとの意味で情なんか通っていないんだけど、なんか擬似的に情があるような感じがして、まあ、それはそれでいいんだって。
う〜ん・・・コトの善悪はさておいて、そこへ行きたくなる気もち、というのが正直、わからないですね。
男の人でも、フーゾクへ行って楽しめる人とそうでない人がいるのを知ってますから、一概に「男無神経説」を唱えるわけにはいきませんが、それにしても、虚しさ感じないのかなぁと・・・

造花が、生きた花を大量に捨てていく罪悪感から人間を救っているように、電子ペットが、生きた捨て犬や捨て猫をつくってしまう罪悪感から人間を救う手段になるのなら、私も、それはそれでいいか、と思うんですが、どこか本末転倒な感じがしてしまうのはなぜでしょう?


カップル力学

以前、ある友達(♀)が言ってたんですが、ステディな恋人同士とか、うまくいってる夫婦って、その二人の関係自体が、それぞれに独特の雰囲気を醸し出してるって。で、ひとりひとりバラバラにいるときと、カップルとして存在するときの空気は一致してなくても、「ああ、なるほど、この彼にはこの彼女だなぁ」とナットクさせられる何かがある、と。
それって、わかります?

私の想像では、たとえば私たちって、ひとりひとりが違う色柄を持った半透明のセロファンみたいなものだと思うんです。カップルだと、それがふたつ重なったとき、どう見えるか?ですね。
赤い花柄と黄色いチェックだと、ポップなオレンジの花柄って感じになるでしょ。そんなふうに。
で、それがなんとなく調和した色柄だと、「この彼にはこの彼女だなぁ」と、まわりもナットクさせられる。
もちろん、生きる現実にはいろいろ波風もありますから、そのときその状況で、ひとりひとりの色柄は少し変化していくんですけど、やはり基調というか、そういうものがあると思うんですよね。

それから、似たもの同士っていう言葉がありますが、かりに最初は正反対であっても、だんだん似てくるんですよ。ひとりひとりに戻すと、それぞれにまた別のカラーを発揮するけれど、カップルでいるところを見れば、なんか似た感じになってくる。影響しあうんじゃないでしょうか。
初め、関係が出来たばかりの頃はけっこう摩擦もあって、それぞれのカラーが主張しあうけれど、そんなこんなするうちに、その関係のなかでの自分色、その関係自体の雰囲気を表す色柄というのができてくる。もともとの自分色を生かしながら、人間って少しずつ変わっていくんです。
自分のことを思ってみても、いま、夫との関係のなかでの自分の雰囲気と、ひとりでいた頃の雰囲気、あるいは、また別の誰かを好きであった頃の自分の雰囲気、というのはまったく違うとまでいえないけれど、かなり違うのは確かですね。だから、こんなにたくさんいる人間のなかから誰かを、友達や恋人、夫として選ぶそのときに、その人自身のカラーも大切な要素だけれど、その人との関係のなかで、自分はどんなカラーを出していくのか、出せるのか、というのも、すごく大事なことだと思うんです。
関係のつくるカラーが受け入れ難ければ、遅かれ早かれ別れる、ということになるし、そこに価値を認め、あるいは心地よさを感じ、受け入れられれば、関係は続いていく。

しかし・・・ソファで寝転がって脇腹をぼりぼり掻きながらテレビを見ている夫を眺めやると、端から見て私たちどう見えるのかなぁと思いますねぇ。「この彼にはこの彼女だなぁ」とナットクされても、ちょっと複雑な気もしたり(~_~;) 冷静に考えると、私の意志に反して、かなり「端迷惑カップル」になってるような気もしますけど・・・
さて、いま日本で一番話題になってるカップルといえば、なんといっても野村監督&サッチーですよね。片や、阪神の救世主、片やとんでもないバッシングの渦中に。こんな極端カップルも珍しい。サッチー批判のなかでも、彼女のまるで鬼のようなイメージと反対に、野村監督はすごく優しくていい人なんだけど、という言われ方をしますが、実際はどうなんでしょう。
私、お見合いで無理矢理に結び付けられた夫婦なんてのは別として、自発的にお互いを選び取ったカップルって、やっぱりなんていうか、どこか共通カラーがあるとか、お互いが意識的・無意識的に持っている願望を相手が満たしているとかだと思うんですね。願望の擬似的な充足とか、ある種の安心感とか気もちよさ ---- たとえば倒錯的な気もちよさでも ----- がなければ、続かないんじゃないかと。そこには、微妙なカップル力学が働いているわけです。ということは、あの極端夫婦にも、やっぱりどこかにそういう側面があるんでしょうかね。


朝まで大論争!

夜遅く寝る前に、うちの夫と例のサッチー騒動について話していたら思わぬ大激論になり、一応の収束をみたのが、もうしらじらと夜も明けかけた頃。彼の仕事が休みだったので、それから寝ればよかったんですが、なんといっても疲れました(-_-;)

何をそんなにケンケンゴウゴウと議論していたかって、たとえば、サッチーの経歴詐称疑惑。
彼女、本を出したり講演会などするとき、経歴にはコロンビア大学卒業とか留学などと書いてあるんですが、調べてみたら、どうもそういう事実が見当たらない、という疑惑ですね。
仮にこれが本当のことだとします。私なら、それは当然、してはいけないことであると思うし、調べればわかるようなそういう嘘を、堂々と書いてしまう神経がわからないとも思うんですが、夫はどうもそうは思っていない様子。いわく、本を出したりしている奴にそんな経歴詐称があることぐらいは日常茶飯だし、第一、講演会の内容がコロンビア大学となんの関わりもないのなら、自分を大きく見せるためにそれぐらいのハッタリは生きる知恵みたいなモンだろう、書かれてある経歴を鵜呑みにする方もどうかと思う、というのです。
この意見に、私はもう目が点になったんですよね。サッチーがどうの、という問題でなく、うちの夫のこういう倫理観が信じられない、と思ったんです。

そういう嘘の経歴を書いてしまうことに対して、なんらかの心理的な抵抗ってないんでしょうか?
誰が知らなくても、それが調べればすぐにバレる姑息な嘘だということは、なにより自分が一番よく知っているはずではないですか。そんなことまでする自分というものが、情けなかったり、恥ずかしいとかみっともないとか、惨めだという気持ちにはならないんでしょうか?
それが法的にどうだとか、社会的な通念上どうだとかいう問題でなく、人間として、それをしてしまう瞬間の恥ずかしさ、というのはないのでしょうか?
私には、「社会でのしあがっていく、お金を稼いで生きていくためには、どんな汚い手が使われていても仕方がない」的な夫の考えに、ついていけませんでした。しかも、夫と私では、それが汚い手であるという認識もどこかズレているように思います。簡単にいえば、夫のほうが、私よりもっと許容的ですね。

これは、倫理観の違いなんでしょうか?
それとも、これが、社会性の有無、なんでしょうか?
はたまた、人生観の違い?
もちろん、口で言うことと、実際の行動は違う場合も多いので、こう言っている夫も、たとえば自分がうまく立ち回るために、故意に姑息な嘘をつく、などということはたぶん本当にはしないんじゃないかと思いますね。そもそも不器用なので、できそうにもないですし(^^)
むしろ、追いつめられれば私のほうが、あらゆる手段を講じてうまく立ち回る、という技を磨くかもしれません。自分になにがしかの正当性があると思えば、情け容赦なく敵を追い落とすこともしかねない。でも、経歴詐称だなんて、いくらなんでも、そこまで惨めなことはしたくないと思いますね。
思うんですが、人間って、ひとりひとり、これはできるけれど、まさかこんなことまではできない、というような心理的な枠があるんじゃないでしょうか。
私なら、自分の人間としての尊厳を守るためだとか、自分に対する不当な仕打ちをやめさせるためというなら、多少汚いやり方を使わねば仕方ない場合もありえると理解できますが、たんに見栄やお金のため、というのは、自分が惨めですね。周りに自分を認めさせるためのハッタリも嫌いです。第一、本当に自分に自信があれば、ハッタリなんかいらないし、自信がない人のハッタリなんて、見る人から見れば、非常にみっともないのではありませんか。

こんなふうに思えるのは、私がまだ恵まれていて、世間知らず、たんに『衣食足りて礼節を知る』ということに過ぎないのかも知れません。衣食足りなければ、誰だってどんなことでもやるようになる、人間なんてそういうものだ、というのが夫の持論です。たとえば、職にあぶれて食うに事欠き、しかし学歴さえあれば仕事が手に入るかもしれない、そんな状態だとしたら、学歴詐称ぐらいする人もいるだろう、それで会社に入っても、仕事をしていくうえで問題が起こらなければ、それはそれでいいじゃないか。
そうなのかもしれない。
でも、私はもう少し人間を信じています。
たとえ、どんな境遇、どんな立場にあっても、一線を超える人と超えない人っていると思うんですよ。
あくまではいあがる、生き延びるためにはどんな汚い手でも使い、どんな偽りにも、しょうがないじゃないかと心を麻痺させて順応する。そういう人も多くいるでしょう、でも、そうじゃない人もまた多くいると思うんですよね。
逆境のまま、運が悪ければ死んでしまうような人。
夫はそれを馬鹿だといいます。人間は、どんなことをしてでも生き延びなければならない、環境に負けて死ぬなんて、馬鹿である、というわけです。
私はそう思いません。私には、なぜそこまでして生き延びなければならないのか、わからないからです。

私は子供の頃からたぶん、生きることに執着する気もちが薄いんだと思います。
死ぬことに苦痛や恐怖が伴うのなら、それは嫌だけど、死そのものが怖い、ということはないような気がするんです。死を美化しているわけではなくて、死は、たんに死です。生の終わり。
愛する人がいるから、自分を必要としてくれる家族や友人がいるから、生きていようと思う。けれども、かりにそういう人たちがいないとしたら、私は果たしてそれでも生きていたいのかどうか、わからないですね。
こういう一見したヴァイタリティの欠如とはうらはらに、私は子供の頃から超頑固な人間でもあったんです。
いったんこうと思い込んだら動じない。絶対したくないことは、絶対にしたくない。
もしそれをしなければ生きていけない状況になったとしたら? なぜそれをしてまで生きるのか、私には、そうしてまで生き延びることが、そこまで至上命題であると思えないんですね。それを言うなら、私には、その状況そのものを放棄するほうが、真に自分自身を生き延びさせることになると思うわけです。

まあ、生きるの死ぬのという問題でもないですよ、考えてみれば。皆が中流だと思って生きているこの飽食ニッポンで、明日にも飢え死にしそうだという人は、そう多くないはずです。テント暮らしのホームレスはなるほど悲惨に見えますが、着るものはちゃんと着ているし、ごろごろと餓死者が出ているわけでもない。どんなことをしてでも生き延びる、そんな実感はこの国で、もはや大多数の人々から無縁の話です。どんなことをしてでも、お金を手に入れる、もっと楽な、もっとリッチな暮らしをする、念頭にあるのはそれだけでしょう。
世界のほかの地域と比較すれば、ずっとリッチで、なんでも手に入り、なんでも食べられる。ただ、ヴィトンのバッグぐらい持ってなければ恥ずかしくて生きられないとか、子供は有名私立に通わせなければ親として気が済まない、などと本気で思っていたら、それでもお金が足りないということになるだけです。どんな手を使っても、という「礼節を知らない」人々は、実はこういうところにいるのではないかと思いますね。ほんとうに食うに事欠く人間は、たいてい汚い手段を使う力さえも残されていないのが現実ではないんですか。

世の中ってそんなもんだ。生きていくって、厳しいことだ。
十年前の私なら、その言葉にきっと怯えたことでしょう。でも、今はもっとなんていうか、一種の諦念にも似た反抗心がわいてきますね。
どんな境遇、どんな立場にあっても、一線を超える人と超えない人はいる。そしてその溝は深い。
私はそう信じています。皆様はいかがでしょうか?



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