宗教の甘い誘惑 T

このところ、オウム真理教の活動が活発になってきたと騒がれています。
不動産の売買ではその土地周辺の住民と深刻な衝突を招いているし、街頭での勧誘も再開したといいます。一度は破防法適用まで論議されたのに、相変わらずパソコンショップでは億単位の利益をあげ、組織としては、つぶれるどころかしぶとく生き残っている。これはどういうことなんだ、というわけですね。

私個人は、あの激動の1995年前半は海外にいたので、阪神大震災も、地下鉄サリン事件や麻原逮捕なども、実はいまいちリアリティがないんです。もちろん、ニュースとしては伝わってくるし、日本の家族から電話で話を聞いたりしたんですが、どこか他人事みたいにぼやけた感じは、やはりどうしようもありません。帰国したときには、一連の報道はもうずっと下火になっていましたし。
でもまぁ、関心はあるんですよ、むしろ自分が実際に日本にいなかっただけに。海の向こうから見れば、いったいどうなってんの、というもどかしさがありましたからね。帰国して、あれこれ本とか読みましたが、読むたびに、うう〜んと唸ってしまうような感じです。何に唸らされるかって、オウムの奇矯な発想や行動もそうですが、それより、教団には年配の人より若い人が多いですよね、私と同年代ぐらいの。で、なんで、こんなのにハマッちゃうのかって、世代の違う人々、まあうちの親なんかは言うんですが、私にしてみれば、彼らが信者になっていくそのプロセスが、わからないようなわかるようなアンビバレントな感じがして、それが「うう〜ん」と言葉をなくしてしまうひとつの原因となっているわけです。

宗教に入れこんでしまう人って、やっぱりベースは生真面目で内省的なんだと思いますね。
試しにオウムのホームページなんか見ても、内容はともかく、姿勢としてはものすごく真面目なんですよ。でも、それが一本調子の真面目さというか、周囲を眼中に入れてない「閉じた」真面目さなんですね。
なんでそこまで教義に入れ込むのか?ということについて、いろいろとジャーナリズム的にも分析されてるんですけど、いろんなタイプの信者がいるし、一概には言えないと思います。が、脅されたり誰かに引きずられたりでなく、自発的に出家して本格的な修行をするようなタイプ、「解脱するぞ」なんて真剣になってしまうタイプについては、なかば心情的に理解できるような気もしますね。

思うに、シビアで世知辛い現実だけを客観的に見つめて生きていける人も多くいるでしょうが、自分の個としての内的な成長にともなう充実感とか、世の損得を離れて存在する「人として真摯に生きる道」のようなものを求めなければ生きていけないタイプの人も、けっこういるんじゃないでしょうか。求道的といってもいいですが。
そういう人たちであれば、何かで悩んだり、人生の岐路に立たされるたびに、本当に心がしたいことと、損をしないように現実的に立ち回ることの狭間で、虚しさを感じることも多々あるでしょうし、何のために生きているのかと、答えのでないような問いにいつまでも固執することもあると思うんですね。そして、なおかつ、自分のそういう内的な希求のなかにこそ、生きる価値を生み出すものがあるのだと確信しているので、そんな考えは幼いとか、そんなことでは世の中は渡れないなどと言っても、それこそまったく筋違いで無意味、現実世界と彼らをますます引き離すためのお説教になってしまいます。

私自身は、生きるうえでのそういう態度はすごく大切だと思うし、そういう感性があるかないかで人生はまた違ってくると「確信」していますが、それを長く続けるのはしんどい、というのも確かだと思うんですね。ことあるごとに、自分を振り返って反省したり問いかけたりするのは、すごくエネルギーのいる生き方ですよ。思春期にはたいていの人がやるけれども、そのうち、常識とか世間並みの尺度とかいう「他人の目」を学習して、それを定規にして、これでいいとかこれではいけないなどということになってくる。楽ですよね、そのほうが。
仕事もしなきゃいけないし、家事も子育ても手を抜けない、ということになってくると、物事に対してどう対処すべきか、いちいち自分で考えたり反省したりしていたら、それだけでパニックになってしまう。プラス、自分で考えると失敗もする。
でも、みんなが使う定規にあわせていたら、失敗しなくてすむ。少なくとも、他人から失敗だと思われなくてすむ。こうなると、頭から心まで、守りの姿勢に入った、ということになる。反省や自問自答は、ほんらい自己改革のためのものですから。

求道的タイプの人は、多くの人がこうなっていくのを、やっぱり「何も考えていない」と見るんでしょうね。もっと高邁な生き方があるはずだと思うわけです。まぁ、それは一面の真実だと私も思いますが、やっぱりそういう高邁な生き方というのはしんどい。何がしんどいって、誰からも縛られず、他のものさしを使わないで正しい道を歩こうとすること、これが一番しんどいことではないですか。
他から律されることなく、自分を正しく律して、しかも悔いのない人生を送れるなら、これが完全な自由というものです。家畜のように手綱をつけられ、安全なところを引っぱってもらうでなく、自分自身で泥道をよけ、いくつもの溝を超えながら、自分の納得できる道を夜も昼も探して歩くこと、これこそがもっとも労力の必要な高邁な生き方だと思うんですね。
でも、それは非常にしんどいことなので、やめてしまうか、気位が高くてやめられないのなら、そこに宗教という名の誘惑があるわけです。


宗教の甘い誘惑 U

さて、人間の弱さのタイプによって、陥りやすい過ちってあると思うんです。
お金に弱い人なら、儲け話で騙されやすいだろうし、異性に弱い人なら恋人商法にひっかかる。
人生の意味などを始終考えている求道的な人であれば、その弱みって、誤ったプライドではないかと思いますね。
私は求道的な態度そのものは好きで、そこには非常な価値を置いてもいるし、それは本来、文学的・芸術的でもあると思います。でも、その手の人たちにけっこう頻繁に見られるのが、自分だけが何か高邁な理想を求めている気になっている、自分だけが何か真剣に悩んでいると勘違いしている、という誤ったプライド。いったい何人から、何度、聞いたことでしょう。さも馬鹿にしたように、「誰も、なにも考えてなんかない」というのを・・・このひとことで、日常をなんとか淡々とやりすごしているその他一般の人々を、バッサリ批判するわけです。
こういう思春期っぽさを、私は「傲慢」と呼ぶのですが、もちろん、本人はそれが傲慢だとは露とも思っていない。むしろ、自分以外は誰もそんな、人生の意味などということを真剣に考えてはいないと思い込んでいるので、周りから疎外されたり、浮いている、または「どこにも落ち着けない虚しさ」のようなものを抱えていると思っているんです。
まぁ、これはこれで、芸術や生きるうえでの原動力ともなるので、有用なものでもあるんです。が、この「孤高の境地」は過剰な自意識に支えられているだけなので、ちょっと気弱になるとプライドごと崩壊するんですね。で、何か寄りかかるところ、その高いプライドに見合うようなバックボーンが欲しくなる。会社での地位や、親譲りの財産などでは駄目なんです。もっと、高潔な自分にふさわしいもの、それが、精神世界や宗教なわけです。

私は、ある種の人々や、ある状況のもとでは、宗教も有用だと思います。誰かが、「宗教は人民のアヘンである」といいましたが、まさにそのとおり。病気や怪我の痛みに苦しむとき、モルヒネを打つようなものです。けれども、健康体でありながら、あるいは必要を超えてまで麻薬を打ち続ける人間、それは外界に背を向けて己の快楽に閉じこもってしまった中毒者であり、そこに見出されるのはやはり弱さではないでしょうか。

オウム信者たちの高潔ぶりっこについていえば、どうも、人間の(霊的)人格には階層的なステージというのがあって、修行して高いステージにのぼりつめることが、イコール自分のストイックな人格者ぶりを証明する手段になるらしいですね。各ステージの基準を決めて、個々の修行者のそれが上がったということを判断するのは指導者たるグルであり、その際、個々の自覚としては神秘体験がある。
この神秘体験というのは、たとえば瞑想しているときに光が見えたり、不思議な幻覚を見たり、ということになるんですが、一般にオウム信者たちは、こういう現象が物理的肉体的な原因によるものではなく、自己の精神性に照らして起こる出来事であると信じているようなんですね。アストラル界などというオカルト用語を使って説明するともっともらしいのですが、拒否反応を示す(理系の)読者もいると思うのでやめておきます(~_~;) (ちなみに、光の体験やさまざまな幻覚は、純粋に脳内物質や脳の低酸素状態に起因するものだと説明することも可能です。このあたりの医学的・科学的な説明は、私なら面白いと思うのですが、なにしろ自分の精神性の高潔さを証明したいのが信者ですから、そんなものは一顧だにされないでしょう)
でもって、光が見えただの、ステージが上がっただのということに、一身を捧げているわけです。

自分の精神性に自信をもちたいのは誰もがそうだと思いますが、オウムでわからないのは、まるで手のひらを返したような、その依存性です。グル(指導者)自身の是非正邪を問うのはこのさい置いて、たとえどんなグルであっても、グルに行くべき道をすべて決めてもらい、自分の内面を評価してもらわねばなりませんか? それが、高潔な人格を証明し、いわゆる「サトリ」の境地に達することなのでしょうか。
常識に依存して暮らす人々を何も考えていないと批判し、挙げ句には、導き、救済せねばならない相手と位置づけながら、その傲慢さとはうらはらな信者たち自身のこの依存性はなんなのでしょう。首をひねってしまいます。
現世を超越したいだの、他人を救いたいだのと大口を叩くほど高いプライドがありながら、どうして誰かに帰依して出家するだなんて安易な道を選んでしまうのか?
なぜ、グルや教義にすべての判断をまかせて、ラクしてしまうんでしょう。そんなの、求道的とは言い難い「堕落」だと思わないんでしょうか?

なるほど、出家信者は財産を捨て、性的に禁欲し、修行を通してなにがしかの経験をしたといいます。私欲を捨てたそんな生活、とてもできないと思う人もいるでしょう。が、ほんとうはその行為、その現象は、求道的に生きる上でもそもそも不必要なものではないですか。私など、そこに聖性や高潔さを見るより、なんか安易だなぁ、ノセられてるなぁと、残念に感じるだけなんですね。
金銭や男女の性を不当に蔑視したり、わけのわからない神秘体験にうつつを抜かすことが、真の求道精神ですか。他の多くの人々から見れば、それは、世の現実にはわずかなお金で解決できる悲惨があることを知らないとか、きちんと誰かを愛したことがないとか、理性と思考能力がストップしている、ということに過ぎないんじゃないでしょうか。しかも、オウムの場合、パソコン販売などで年商何億というお金を手にしながら、一連の事件の被害者救済のためには、それを投じていない。真実、己の人間性を高めたいとか、他人の役に立ちたいと願っているのなら、いや、そういう理想追求うんぬんがなくても、前後の事情から考えてみただけで、これはオウム側が何をおいてでも、しなければならないことのはずです。

いやしくも、道を究めたいと志すならば、自ら泥にまみれる覚悟をしなければ嘘でしょう。自分で何にも考えないから、教祖や教義に依存することでほんとうに苦しい葛藤や自己批判を避けているから、その覚悟ができないんではないですか。
思えばこの現世、この社会こそが混沌たる泥沼のようなものです。生きるために争い、勝つために欺き、時には心の痛みを無視してまでも、他人を押しのけねばなりません。けれども、そこに足を踏み入れてこそ、その上に咲く蓮の花も手折れるというものではありませんか。どこか他の場所に花が咲いているということもなく、簡単にそれを手に入れられる近道もない。
私自身は、そう確信を持ちながらも、足をつけて、己が汚れるの怖さにそこから一歩も二歩も引いています。何かしなければいけないと思いながら、守られた日常に安穏と暮らしている。そのことを、実はひそかに恥じてはいます。ぬかるみに踏み出しても溺れない自分でいられるかどうかわからない、なんとなく怖くなって引いてしまう・・・弱いなぁと思います。
幸福な思考停止状態にあるオウム信者たちも、あるいは、同種の弱さを持っているのかもしれませんね。私がシンパシー感じるとしたら、その一点ですが、けれども私は、私自身のこういう弱さをやっぱり見つめ続けていたい、とも思うんです。性急に変化や改善を求めなくてもいい、せめて、それがそこにあることを、見つめ続けていたいと。
弱さや傷を認めず、完全でありたいなどと大望をもつと、他人の力を借りてでもそれを塗り込めてしまいたくなる。が、それができる人などいないんですね。人は、あくまでも人であって、決して神や神の代理人にはなれないからです。神や、世の摂理を信じることがあっても、人そのものを信仰するのが間違いであることは、歴史の本をちょっとめくれば嫌というほど思い知らされるというものです。

自分を救うのは、自分しかいない。きっかけが何であれ、本質的に他者を救うのは、やっぱりその人自身です。この世界がどんなに矛盾に満ちていても、それが真の姿であり、救いという言葉の響きや光の幻は甘美なセンチメントに過ぎません。この絶望を踏まえたうえでどう生きるのか。あるいは、何ができるのか。それを考え抜くことこそがすなわち「覚醒」のステップであり、あえてそこに踏み迷うのが「愛」なのではありませんか。


言いなり夫?

このまえ、夫とふたりでテレビのワイドショー番組を見ていたら、例の和歌山カレー毒物事件の初公判について、あれこれ放送していました。

いやぁ〜、すごいですねぇ。あの林真須美という人。
まぁ、正確にいえば、検察の冒頭陳述で描かれた真須美像、ということになるんでしょうけど。でも、あれがたとえ間違っていたとしたって、これだけ大きく騒がれて、自分自身も拘置されているんですよ。あの巨体が痩せもしないどころか、笑みさえ浮かべていたという一事をもって、もう並みの神経ではないと推察できますよね。まだ幼い子供もいるのに、自分と自分の夫が法廷で裁かれようとしているんですよ。しかも、彼女の場合、血も涙もないような殺人犯としてですよ。これからどうなっていくのかしら、とか、なんでこんなことになってしまったのかしら、とか、思い悩んでご飯も喉を通らないのが普通じゃないですか。

ところで、テレビのコメンテーターに心理学者が出演していたんですが、彼女のことを演技性人格障害という言葉で評していました。いわく、嘘つきで、しかも、嘘をついているうちに、自分でもそれが本当のことだと思い込んでしまうところがあって、非常に自己中心的、自分の思う通りにならないとすぐに「激高」し、何をしでかすかわからないようなタイプだと。
この説明を、じぃっと聞いていた我が夫、こちらを向くと一言、
「これ、あんたのことやん(ーー;)」
「なんで私のことなんよ」
「だって、あんた、『嘘も方便』ってつねづね言ってるやろ」
「それはぁ、他人の感情を害さないためには、時には小さな嘘ぐらい許されるってやつでしょうが」
「それに、わがままやし、自分が気に入らんことあると、すぐ怒るしなぁ」
「いつ私が怒った?」
「思い通りにならんと、怒るやん、いっつも。あんたは、すぐ僕を自分の言いなりにさせようとすんねんから」
「あんたが言いなりィ?(吹き出す(~o~))何が言いなりやのよ、あんた、いっつも自分の好きなようにしかしてないやないの」
「よう言うわ、僕いっつも、あんたの言いなりやないか。毎日、フロ入れとか、髭剃れとか、シャツ着替えろとか」
「・・・なぁ、それって、人間として当然すべきこととちゃうのん(-_-;) 自分で自分のことがちゃんとできたら、人にそんなことあれこれ言われんですむねん」
「ちゃうわ。そんなんどうでもええこっちゃ。僕はあんたが機嫌悪うなるから、そうしてるだけやねん」
「・・・私が言わんかったら、あんた、汗かきのくせに毎日おフロ入ったり髭剃ったりせえへんの」
「あたりまえやないか。めんどくさいやないか。(独り言のように)あ〜あ、洗濯機みたいに身体も洗えるマシンがあったらええのに。なんで誰も発明せんのかな。(突如、顔を輝かし振り向いて)なぁ、そんなんあったらええと思わんか?なぁなぁ、思わんか?」
「・・・・思わんなぁ、悪いけど(-_-;)」

この夫にしてみれば、自分が布団の横に雑誌でも新聞でもなんでも引っ張って来て、そのままだらしなく放置してあるのを、私が片づけてしまうのも、「言いなりにさせようとする」行為らしい。おフロに入るたびに頭を洗って、というのも、同様だとか。
「僕なぁ、(めんどくささに)泣きながらフロ入ってんねんで。あんたの言いなりになって」と・・・
もー、このエセ言いなり夫に、誰か何とか言ってやってください(ーー;)



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