未練がましいのはどっち?

友人(男)が、ネットナンパに執心しています。ま、仕事の都合上、女性と知り合う機会があまりないので、ナントカラブラブお見合い、などは、けっこういいキッカケになるかもしれないっていうわけです。
で、今まで、メール交換した女性が何人かいるわけですが、よせばいいのに、恋愛の話になると盛り上がって、自分の過去まで披露しちゃうんですよ。こういう女性とつきあっていたことがあって、いい人だったから、今でも感謝してる、とかなんとかね。そしたら、相手の女性は必ずといっていいほど、「そう思ってるのは、あなただけなんじゃない?その女性のほうは、新しい恋愛が始まると同時に、きっとあなたのことなんて、忘却の彼方よ。女って、そのへんはさっぱりしてるから」というんですって。それで、私に、そんなもんかねって。しばらくそのことについて、話していたんですけど、彼いわく「男は本能的に、機会さえあればいろんな女と、と思ってる。だから、次の恋愛が始まっても、やっぱり前の女のほうが良かったかな、なんて未練がましく比べてしまう。女はたいてい現在の相手一筋だから、過去の男はあっさり霞んでしまう」というんですね。なんか、ドーキンスの「利己的な遺伝子」並みの説得力はある感じもしますが・・・どうかしら?
まわりを見てみると、別れた人のことを引きずるというのは、男女かかわらず、あることだし、それって、性別に関係なく、個人的なものかもしれないと思いますね。ある人は未練がましく引きずるし、ある人は振り向かずにすたすたと歩いていく・・・・でも、もっと正確にいえば、きっと、ケースバイケースなんでしょうね。どれくらい好きだったか、どんな別れ方をしたか・・・その恋愛の内容によるんじゃないかしら。
未練たらたらで過去と現在を比べるもよし、今のことだけに全力投球するもよし、ですよね。食べ物の好み以上に、人の恋愛行動にはヴァラエティがあって、興味深いことです。そこに、人の個性、その人らしさが、いやでも出てくるんですから。私?うーん・・・やっぱり基本は全力投球型ですね(^^)


友だちの友だちについて

このコーナーに本を紹介してくださった方が、やっとふたりになりました(^^)
メール友達などにも、ねー、投稿してよー、と迫っているんですが、みんなけっこう考えすぎちゃってますね。いわく、「自分がいいと思っても、一般にいいと思われるかどうかわからないし」というわけです。
でもね、ここでいっときますけど、そういうことは考える必要ないんです。本来、本との出会いだって、ほんとうに個人的なもので、本屋で平積みになっているのが自分に必要なものとは限らないんです。人がいいと思っても、自分に感動や啓発をもたらしてくれないなら、そんなのどうしようもないじゃないですか。
このスピード化された現代に、きちんとした本を読むということは、贅沢なことです。ある程度、まとまった時間や心のゆとりがないと、本を読むことはできないからです。ただ見ていれば時間がすぎるテレビとちがって、読むことは自発性を要求されるからですね。自発性がすりきれてしまうような過酷な現実のなかでは、本など(とくに実用本でない物語などは)読もうという気にならないものなんです。平安時代の昔から、読書や創作はゆとりのある貴族のものでした。そして、絶対権力による圧政のもとでは、読書は危険なこととして取り締まられもした。以前、アメリカ南部で牛馬のようにこき使われていた黒人奴隷たちに文字を教えることが、法律で禁止されていたように。それは、読むことによって、自分で考えることを知ってしまうからです。
いま、私たちのまわりには活字や情報があふれています。読もうと思えば、ほんとうにいろいろなものが読める。でも、何を読んだらいいのかわからない。とりあえず平積みになっているものを手にとって見る。だけど、なんだか面白くない・・・そんな思いの人がたくさんいるはず。平積みの新刊は、「売る」という明確な意図のもとに、そうされています。雑誌などの書評も、そういうものがあるかもしれません。でも、その意図は、私たちひとりひとりの感動を反映したものでもないんです。
いままで、ほんとうに感動したり、これはいい、と思った本があるはずです。そういう贅沢な時間を味わわせてくれた本だったら、素直に「これいいよ」って、いえるんじゃないかしら。多くの人に受け入れられるかどうかわからない、でも、私たちはプロの「売り手」ではないんです。みんながどう思うかなんて、さもしく考えなきゃならない立場ではないんです。私もそんなの考えてません。だからこそ、お友だち紹介、なんです。商品としてのモノとは、とらえていないんです。みなさんも、どうぞ自分の感性と判断を信じて、安心して投稿してきてくださいね。


夜景

カウンターの数字がやっと三桁になりました(^^) でも、そのうち、私や友人・知人がアクセスしたぶんを差し引くと、全然知らない人からのアクセスは・・・90くらい?一週間で90ということは、単純計算すると、一日平均12ぐらいのアクセスがあったわけです。まだ、登録が完了していないサーチエンジンもあるし、無名の作者、しかも、「出会い系」でもなく、「手っ取り早く楽しめる」とか「懸賞・プレゼントなどがある」わけでもない、地味なページだから、こんなものだろうと思います。その一日12のうち、きっと二人ぐらいが何かを「読んで」くれていて、あとは、急いでバックボタンをクリックするとか(~_~;)、さーっと「流して」いく、という感じなんだろうなって思ってます。でも、考えたら、やっぱり凄いことかもしれない。この忙しい時代に、街角に立って、たとえビラを配っても、ティッシュや割引券などでなかったら、誰がそんなの受け取って読みますか?
どんな人がアクセスしてくれたんだろう、読んでから、何を思ったんだろうって、勝手に想像しちゃいます(^^)
私がインターネットを始めたのは、去年の秋からで、まだ一年にも満たないんですが、猫も杓子もインターネットって騒がれているわりに、私自身は、けっこう醒めた目で見てました。というのも、何か非人間的な感じがするし、顔の見えない不特定多数の人間が参加することって、いろいろと問題も出てくるだろうと思って、どこか信じられない気分だったんですね。メールにしても、筆跡さえわからないから、そんなの個性がないんじゃないかって。でも、やってみて、ちょっと違う印象を受けてます。人間って、そんなにクールになれないもんだなって。出会い系サイトの繁盛ぶりが、それを端的に現してると思うんですね。
パソコンの世界にどっぷりはまって馴染んでしまうと、生身の実体を持つコミュニケーションが億劫になったり、一歩引いてしまったりするようなことがあるのはわかります。それはやや病的だと思うけど、そんなふうにある意味で臆病になりながらも、人は人を探している、やっぱり人のなかでしか生きられないんだなって、そう感じるわけです。いろいろなサイトを見ていたら。それこそ、人間らしい孤独や期待や欲望が、うようよとこのサイバースペースに浮遊しているんです。ああ、どんなに時代がかわっても、どんなに先端的なツールが開発されても、やっぱりそれを使い、そのなかに生きているのは、生身の人間なんだなーって、今はそんなふうに思っています。
もうずいぶん昔の話ですけど、はじめてニューヨークへ行ったときに、観光ツアーだったんですが、マンハッタンクルージングというのをしました。夕方から夜にかけて、ハドソン川の上を大きな観光クルーザーにのって、生バンドとディナーを楽しみながら、ライトアップされた自由の女神やマッハッタンの夜景を見物するんです。私が行ったのは夏でしたが、ディナーが終わる頃、ちょうど夕闇が濃くなって、あのマンハッタンの夜景がそのなかに浮かび上がってきました。私はもっとよく眺めようと、デッキに出たんです。
それは壮麗な眺めでした。マンハッタン、雑多で、ビッグで、クレイジーなエネルギーに満ちた都市、その活気ある昼の顔もいいけれど、この夜の顔、イルミネーション輝く高層ビルの群れも、それは素晴らしいものに見えました。私はデッキで風に吹かれながら、笑いさざめく観光客のひとりとして、それを眺めていたわけです。凄いなぁって・・・・でも、やがて、ふと視線をずらした私には見えたんですよ。この夜景、大都市の輪郭をつつんでいる夜の暗闇が。その底知れない深さと大きさが。そうしたら、なぜかもうその瞬間から、目の前のゴージャスで壮大な夜景が、とたんにかよわく、はかないものに思えてきたんです。
高層ビルにまたたく無数の明かり、けれどもそれを取り巻いている周囲の闇は、比べるものもないほど深く大きい。その闇の奥行きのなかに、輝く都市がぽっかりと浮かんでいる、大海原の孤島みたいに。それはとてもかよわいもの、はかなく、まるで差し出した私の手のひらにでものるような、そんな守るべき小さなものに見えたんです。とつぜん、私は涙がこぼれそうになりました。なぜって、
「あのひとつひとつの窓の中に、確かに人間が生きているんだ」
そのときそう強く感じたんですね。
あの無数の窓明り、ひとつひとつはとっても小さく、今にも消えんばかりにかすかにまたたいている、でもそれは、生命の輝きなんだと。あの中に人が生きて、喜んだり悲しんだり、怒り、泣き、笑いながら、無数のドラマ、無数の思いとともに、ちかちか光っているんだと。
そして私もまたそこにいる。私もまた、あの無数の窓明りのひとつに生きている・・・・
うまくいえませんが、たぶん、私はそのとき初めて、「他者の存在」に気がついたんですね。それまでは、自分のことだけ、私の内的世界にはきっと自分しかいなかったんです。でも、そのとき初めて、みんなが生きているんだ、ということに気がついたんです。それは、私の心の中ではコペルニクス的転回でした。
いま、このサイバースペースに、私はときどきあの夜景を重ねてみます。
パソコンのまえには、きっといろんな人が座っているだろう、寂しかったり、つらい目にあっていたり、病気だったりするかもしれない、反対に、わくわくした期待にかられて誰かにメールを書いてるかもしれないし、何か主張すべきことがあって、文章を綴っているかもしれない。そこには無数の人がいます。見えない電気信号にのって、無数の思い、無数の生が、この瞬間にも交錯しているんです。もちろんそのなかには私もいる、これを読んでいるあなたもいる・・・・私には、それがすごくファンタスティックなことに思えます。


美少年

電車のなかで、はっとするような美少年を見ました。
まだ中学一年か二年くらいの感じで、体つきからして華奢で色白、目鼻立ちは、まるで少女マンガから抜け出してきたみたいな美しさです。りりしいというタイプではなくて、なんとなくフリルとレースのついた高級ブラウスが似合っちゃうような。そんでもって、バイオリンでも持ってたら、もう昔の竹宮恵子の美少年マンガそのまんま。肌は陶器の質感、お目めぱっちり、睫毛ふっさり、眉はくっきり弓なりで、唇はふっくら桜色、じかに見ると、ものすごく垢抜けた顔です。久々に、うわ〜〜(゚o゚)、と思いました。
ああいうの、好きな人っているでしょうねー。私も、思わず見惚れてしまったんですけど(^^)
私の友人(女)のひとりは、男であろうと女であろうと、自分は面食いであると公言しています。別にバイだというわけではなくて、たとえ女の友達でも、連れ立って出歩いたり食事なんかするときは、やっぱり奇麗な子と一緒のほうがいい、第一、目の前に不細工な顔があると、食事まで不味くなる気がする・・・・と、こうなんです。そういう本人は、嫌味はないにしてもわりと平凡な顔だと思うんですが、「だからこそ、奇麗な子と歩いてると、自分ひとりでいるよりも男の人に声をかけられて、お茶や食事をご馳走になったり、実質的にトクをする」というわけなんです。私は呆れてしまって、「そういう他力本願ってさ、惨めじゃない?」というと、本人はあっけらかんとしたもの、「べつにぃ、その時だけトクすりゃ、それはそれでいいんじゃない?」と。
まあ、ずいぶんとあっさりしたもんだな、と思いましたね(^^) 彼女のこういう考え方って、なんだか男性的に感じます。私は、女だったら、誰でも白雪姫に出てくるお妃の気分ってあると思うんですよ。
「鏡よ、鏡、世界で一番美しいのはだぁれ?」
というあれですね(^^)
そこまでナルシスティックにならなくとも、そういう、人と見比べてしまう意識って、女性ならあると思うんです。だから、私は奇麗な子なんか好きじゃないし、一緒にいたいとも思わないし、そのおこぼれでいい目をしたとしても、かえって、みじめーな気持ちになっちゃう(^^) 男の人に対しても、そうなんですよ。あまり奇麗な男の人には関心が持てない。自分が少しでも奇麗でありたいとは思うけれど、相手にはそれを求めない。男が奇麗で一体どうなります?男なんて、引き立て役になってくれなきゃ困るじゃないですか(^^)
だから、あの美少年も、性別を超えた少年の今だから、うわ〜〜っと見とれるけれど、あれが育った十五年後にはきっと、動じないと思います(^^) それにね、人のほんとうの美しさって、そういう部分ではないんですよ、やっぱり。これは、もう、そういう皮膚一枚の美しさではない、ほんとうの美しさというものを目の当たりにすることが、一度でもあれば、納得できるんですね。それは、見た目以前の輝きなんです。
週刊誌などに刺激されて、顔の造作や手足の長さ、体毛の濃さを気にしている男性がもしいたら、そんなの馬鹿げてます。清潔なのはいいことだけど、女のようなすべすべお肌に剃ってつりあげた眉なんて、真似しなくていいこと。男は女の引き立て役に徹するべきです。あまりでしゃばって、女の領分を侵さない、それが紳士たるものの優しさじゃないかと思うんですけど?


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