かわいい自分には旅をさせよう

旅行が好きだという話は前にも書きましたが、今度の東欧行きで思ったのは、本格的に旅をするなら、やっぱりパッケージでなくてフリー旅行がいいんじゃないか、ということ。もちろん今回の旅行はハネムーンで、そもそも旅の目的が違うんだけれど、ただ一般に、旅とはどんなものか、そこに何を求めるか、ということを考えるとき、そんなふうに思うということなんです。
まだ学生時代にイギリス・フランスを少しの間、ひとりで旅したときの印象が、今でもあまりに鮮やかに残っているせいかもしれません。あれは、もともと自分が強く望んでいたわけではなく、人にそそのかされるかたちで、ほんとに軽い気持ちで行った初めての海外。案の定、向こうに辿り着いたその時からもう心細くてたまらず、「はやく日本に帰りたい」などと思いながらの旅でした。泊まるホテルも電車の切符も、現地でなんとかしなければいけない、いわゆる「地球の歩き方」式の個人旅行はまさに珍道中、いろんなハプニングや冒険があり、私のなかではいつまでも忘れられない思い出となっています。

だから、私のイメージする旅って、非日常の冒険なんですね。
もうこんなのこりごりと、あのとき思ったはずなのに、それがしっかり、「私的、旅の鋳型」となっている。
観光するだけ、見たことのないものを見て、食べたことのないものを食べる、名産・特産物をおみやげに買う、それだけなら、パッケージツアーでじゅうぶんですが、添乗員とガイドにおまかせの旅には、冒険的な要素はありません。現地で、見知らぬ外国の人々と交流することもほとんどない。かわりに、ツアーに参加した人同士でのふれあいや連帯感はうまれますが、それは私の感じ方でいえば、やはり日常の延長線上にあるもので、旅のインパクトという点では、どうしても生ぬるいものになってしまいます。

日常生活では、人は名刺や履歴書や、日本に住む私たちであれば、日本人として身についた常識的な行動、話す日本語などによって人物を判断され、ある程度の制約と保証のなかに生きています。でも、パスポートを持って一歩国外へ旅すれば、そこではそんなの何も通用しない世界があるんですね。
中国などへ行けば、漢字や文化の相似にある程度助けられますが、英語も通じないヨーロッパの辺境へ行けば、そういう手段も封じられます。たとえば視覚を失うと、聴覚や触覚など、それ以外の五感が発達するように、漠然と自分を保証するもの、これまで後生大事に守ってきた「いま自分の生きている環境でしか通用しないもの」を捨てさせられると、実質的な知識、素のままの個としての人間性が前面にでてきます。
守ってくれるなにものもないぶん、生きている手応えがリアルに感じられる。誰も、なにものも、自分を説明してくれないのだとすれば、どんな関係も自分自身が直接つくりあげなければならない。そして、見知らぬ異国で見知らぬ相手との間に、「人間であること」以外の共通項がなくなると、ぽんとひとつ、ネジがとんでしまうような感覚があるんです。
よく海外で過ごすと、ちょっとヘンになってしまう人、必要以上に不安になったり、威嚇的になったり、逆に手放しではしゃいでしまったりする人が出てくるといいますが、ネジがとんじゃったからなんですよね。
ネジがとぶと、どこか身体の芯がピンと緊張した感じ、感覚が研ぎ澄まされた感じがして、同時にすごい解放感もある。これはなかなか他では得られない体験、しかも、この現代を、グローバルに生きなきゃならない私たちには必要な体験だろうとも思います。より大きな全体を見るためには、より完全に個に戻ることが必要な場合があるんじゃないでしょうか。通信や交通手段の発達にともない世界が狭くなるにつれ増える異質な人々との出会いは、「おなじ人間である」という、このもっとも基本的な共通項に価値を見出すことで、有意義に発展していくと思うんですね。家系だとか民族だとかでなく、誰もが一個の人間であること、人間として生きていることに価値を見出すしかないんじゃないですか。

こういう非日常、ネジがとぶような体験は、学生など若い人にしかできないと思っていたら大間違い。
うちの父はもう六十ですが、写真に凝り始めたのがきっかけで、似たような年齢の写真仲間三人で、海外に写真を撮りに出るようになりました。それまでは母と一緒にパッケージツアーで旅行していたのが、去年は三人で飛行機のチケットとホテルだけ旅行社に手配してもらう自由旅行に。ツアーだと、どうしても時間的制約があって、撮りたいと思う写真が撮れずにフラストレーションがたまるそうです。英語もろくすっぽわからない老人三人、アメリカで一週間以上もどうするのかと心配していたら、意気揚々と帰って来ました。聞くと、やっぱり珍道中で緊張の連続、でも、旅をしてきた、自分の足でアメリカを歩いてきたという実感は、ものすごくあったみたいです。効率よくあちこち見て回ったり、誰かに安心して頼ったりはできないけれど、気もち的にはすごく充実した旅行だったというんですね。以来、やみつきになったらしく、今度は南仏に行こうと計画中だとか。

恋愛だって、仕事だって、結婚だって、非日常の冒険でありえます。でも、それはまだルールや土俵というものが多くあるし、続けるうちにだんだん慣れ親しんだ、ある意味では刺激のない日常になっていく。今回、私は結婚したばかり、まだまだ夫との間に非日常的な部分があるので、おまかせパッケージツアーのほうがラクでしたが、お互いもっと慣れてきたら自分たちで自由にデザインできる旅行にしたいですね。
みなさま、かわいい自分には旅をさせましょう。
日常がなまぬるく感じられ、退屈に倦んで心が疲れれば疲れるほど、ぴりっと緊張せざるを得ない旅は最高のカンフル剤ですよ(^^)


“お芸術”嫌い

うちの夫は「おブランド嫌い」の「お芸術嫌い」。
哲学者や社会学者など、文系知識人にはそういうのが好きな人がごまんといて、うんちくのひとつも語れないことには、インテリを気取れない感もあります。が、どうも、私の独断と偏見でいわせてもらえれば、理系のインテリにはそういう価値観自体が、馬鹿馬鹿しいか、まるで無意味なものに思えている様子。

このまえのツアーで一緒だった、あるご夫婦が、同じテーブルで食事をしていた際、チェコで琥珀のアクセサリーを買う話をしていました。「そんなに高いものでなくていいから、欲しいわ」と言う奥さんに、「じゃあ、一緒に見てみよう。で、値段に見合う効果があれば買おう」と、ダンナさん。要するに、商品を奥さんが身につけて、値段ぶんだけきれいに見えるという「効果」があれば、という話ですが、この物言いに私は、彼が理系男であることを直感。さて、訊ねてみれば、やっぱりという感じで理系出身でした。
そういえば、うちの父もかつて、「なんで女の人がダイヤなんか欲しがるのか、さっぱりわからん。光るんなら、よくできたガラス玉でもよさそうなもんだ」と言っていましたし、夫にしても、「婚約指輪とか結婚指輪なんかいるか?」と疑問を呈し、けっきょく買わないことに。べつに、普段の生活で立爪ダイヤの指輪なんかあってもしょうがないし、欲しいときに欲しいものを買うことで、私も意見が一致したんですが、それはともかく、あちこちで見聞きする理系男たちの共通点を発見するたびに、ふむふむやっぱり、とほくそえむのが習慣になってしまいました(~_~;)

宝石って、まぁ、きれいなんですが、要はただの石ですよ。その美しさや稀少さに価値を見出すのは、ちょっと論理で割り切れない詩心のようなものがいりますね。
ひとつの小石、なるほど稀少かもしれないけれど、もともと名もないただの鉱物が、人間に掘り出されてダイヤとかルビーなどと称され、いわばブランド化すると、大変な値段がつきます。人間ひとりが一生かかっても買えないような値段にもなりうるし、ときにはそれが王家の象徴になったり、何々家の誰それがもっていた指輪、などという歴史的な付加価値がついていったりする。有史以来、そこには物語が作られてきたわけです。すると、その美しさが生み出す価値よりは、むしろその物語性のほうが価値として大きくなってくる。物語というのは常に、人間の想像力の産物ですから、いって見れば、自分たちのもたらしたイメージに価値を見出すということになっているわけです。
一概に、理系夫は機能性・実用性を重視しますから、ただのイメージにお金を払うなんて馬鹿げていると思うわけで、そこから、「それだけの効果があれば」発言もでてくるんでしょうね。夫も、「あんたが喜ぶんなら、指輪ぐらい買ってもいいけど」と言ってました。自分ではその宝石なりブランドなりに価値は感じてないんだけれど、相手がきれいにみえたり、喜んだりするという「実用性」があるなら、納得して買えるというところでしょうか。

一般に、芸術なんていうのも、ある程度は社会的イメージの産物じゃないですかね。何の努力もせずとも自分が自然に「これはいい!」と感動できる場合は別として、なんか「お勉強」が必要なものってそうでしょ?
ウィーンに行ったとき、自由行動の日に国立オペラ座でモーツァルトのオペラを観ました。もちろん私が言い出したこと。日本からチケットを予約するだの、スーツを用意するだのと面倒なので、夫はあまり乗り気ではなかったんです。でも、ミーハーな私は、あの豪華絢爛たる劇場内を一目見たかったんですよね〜。べつに、オペラには関心なくて、出し物は何でも良かった、というのがホンネ。でも、どうせ観るなら、というんで、にわか勉強、ドイツ語オペラですから対訳を読みつつCDを聞いて、ひととおりストーリーを把握していきました。おかげで居眠りもせず、楽しく観劇できましたが・・・

モーツァルトの生きていた頃って、当然、華やかな芸術は貴族とか宮廷のもので、オペラの題材もそういう環境、そういう価値観でできているわけです。同時代の貴族たちにとっては、観ればすぐに理解できたことでも、現代人、しかも異文化の世界で生きる日本人にとっては、ピンとこないのも当たり前なんですが、そこは「お勉強」でおぎなって楽しむ、というのがいわば「お約束」。
こういう「お約束」の煩雑さゆえに、かえって人からありがたがられるようなものを、うちの夫は「お芸術」と呼んで、忌み嫌っているようです(~_~;)
最初は、「まぁた出た、理系男のゲージュツ音痴」と笑っていた私ですが、このごろ、いささか考えるところあり。おブランドやお芸術の真価って、どこにあるのかなぁと。

面白い話があって、パリやロンドンなどの一流ブランドショップでは、大挙して押し寄せる日本人観光客は、店の品位を下げると迷惑がられているそうです。あちらでは、ほんとうのお金持ちしかもたないブランドバッグを、フツーの日本人、それも若い女の子なんかが、きゃあきゃあいいながらあれこれと買っていく。その場で買い物をしている現地のマダムたちは、非常にしらけるんだそうです。で、あんな品のない日本人が押し寄せる店でなんか、買い物してられないわ、と。
まぁ、気もちはわかりますね。その話をした人は、ブランドの真価を本当にはわかっていない日本人と、買う側を非難して言っていたわけです。私もまた、そんななりふりかまわない成り金みたいな態度はどうかと思いつつ、でも、なんだか可笑しくなってしまいました。大挙してやってきて、ざらざら買っていくのは、そのブランドの信奉者だからでしょ。でも、そういう振る舞いが、ブランドのブランドたる権威みたいなものを引き下げているとはね。これいかに、です。
私がそのとき思い出したのは、ローマに行ったとき見た、バレンチノの豪邸。クラシックな外装の高級マンションみたいなビルが、まるごと個人の邸宅だというんですね。そんじょそこらの金持ちとは、もうリッチさが違います。はぁ〜、世の中には、私と同じ人間で、こんなところに住んでいる人もいるんだなぁと思ったことです。日本のおばさんや若い女の子たちが、ありがたがって買ったバッグや靴などの売り上げが、この豪邸の一部を建て、それをたぶん今も支え続けているわけです。
私は、パトロンがなければ職人や芸術家は育たないと思っていますから、貴族を否定はしません。が、面白いですね。この循環。イメージを売る側、そのイメージの信奉者でありながら、それを無邪気に破壊してしまう客、けれどもそこから流れ込むお金・・・世の無常というか、なんというか・・・

昔は、他に真似のできない職人技を駆使した品だったり、稀少品であることが、恐らくはブランド商品の価値でした。だけども、いまや、科学の発展と社会の豊かさのおかげで、たやすく類似商品ができるようになった。昔からの製法を守り続けるホテルザッハーのザッハトルテだって、ちょっとこましな日本のケーキ屋の売るケーキと比べ、どう美味しいといえるものでもない。ダイヤだって、肉眼では天然ものとかわらない模造品がつくれるのなら、それ以上に、ルーペでやっと見えるか見えないかの傷やなんかを争うことに、実際上、どんな意味があるんでしょう。もはや、ホンモノというイメージを売るほかに?
世界じゅうで、読み切れないほどの本、観きれないほどの劇や映画が制作される現代に、自分がほんとうに素晴らしいと思う作品を探すことなく、定番の安心商品となったクラシック・オペラを「お勉強」することに、果たしてどれほどの意義があるんでしょう。
もう、それって、「イメージを消費する余裕がある」ということでしかないんじゃないかと思うんですね。
もちろん、それはそれで面白いんですけど、たとえば、モーツァルトが黄泉路から舞い戻り、私たちが、なんとか「これは素晴らしいものだ」と思い込むべく彼の作品を「お勉強」している姿を見たとしたら、果たして喜ぶでしょうか?
そして私たちが、幕間にはオペラなどそっちのけで、記念写真ばかり撮っているのを目の当たりにしたら?
歯ぎしりして悔しがり、シンセとパソコンに向かって誰もまだ聴いたことのないような新しい大作を創造しようと、やっきになるんじゃないかしら?

科学技術と日本人観光客(ひょっとしてアメリカ人観光客も)は、意図せずして、古色豊かなヨーロッパ貴族文化の破壊者たる役回りを演じているのかもしれません。
これは、民主主義、万歳でしょうか?
はたまた、洗練されていない成り上がり者のガサツさなのでしょうか?
それとも、こんなことを考えている私が、もはや夫の価値観に影響されて(毒されて)いるのでしょうか??


不倫の採算

不倫って、そもそも字面からすると「人倫にもとる行為」、のはずでしょ。
でも、最近はそう悪いことでもなくなったみたい(?)。
不倫小説はベストセラーになるし、不倫は文化だなどと主張する芸能人もいるんだし。そういえば、海の向こうでは、国家の顔である大統領自らが不倫していました。先日、朝日のニュースコメンテーターも不倫降板したけれど、ああいうの見て、みんなどう思うのかしらと考えてしまいました。

このごろ、女が強くなったのか、妻子もち男に振られると、不倫した事実を堂々と世間に公表して相手の男に報復する、というのが多くなってきました。朝日のコメンテーターの件も、その一例。女性からみれば、へえ、あの人そんなことやってたの、という感じだけど、男性から見ると、どうなんでしょう?
私の想像するに、男の人って内心ではたいてい、自分の妻にはオソロシくて言えないようなことを夢想しているものじゃないですか。だから、ああいうのって、「ちくしょう、羨ましいぜ(~o~)」みたいな感じになりはしないんですかね? だって、中年になって妻子があって、それでも「もてた」ってことでしょ。
たんに、お金でつながってたわけでもない、もっとメンタルなものがなければ、八年も続かないでしょうし、別れたあと怨まれるほどには好かれていたわけですから。同じ男の人から見ると、「なんちゅうひどいやっちゃ」という気分より、「ええよなぁ、自分もしてみたい」のほうが上回るんじゃないかと思うんですが・・・違います?
それに、不倫が決定的に社会的信用をおとしめるのは、もともとそれだけの立場にある人の場合。さしたるステイタスもない男なら、それを公表されたところで女房が怒るだけ。失うものがない。こういう人って、上手くすれば不倫もしやすいでしょうね。なるほど女房は失うかもしれないけれど、まぁ、どうせ飽きた女房なら、さっぱり失うことで、また再度得る機会もできるだろうし(?)。
それでも、やっぱり怖いですか? 自分もしてみたい、とは思いませんか?べつに、けしかけてるわけじゃないですけど・・・えっ、もうすでにしてるですって?!

中年を過ぎて、若い女の子から言寄られる、これがラストチャンスかなぁ、などと思ってついつい・・・いったんくっつくと、もう止めなきゃと思いながらもついつい引き延ばして・・・なんとなく気持ちはわからなくもない。
考えてみれば、女でもきっとそう思いますよ。いや、たぶん。う〜ん、私自身が自分のこととして想像したときに、そう思うんですけど(~_~;)
自分が名実ともに中年(四十代なかば)になったとします。慣れてツーカーのダンナと別れるつもりはまったくないけれど、ひょんなことから年下の青年から一途に思いを寄せられるようになる・・・だめよ、いけないわ、私には主人がいるんですもの、あなたは同世代の可愛い女の子と付き合うべきなのよ・・・なぁんて言いつつ、強く突き放すことは、とうぜん「しない」。
当たり前じゃないですか、だって、面白いじゃないですか。フツーの人生には、そんなドラマティックにアツくなれる機会、そうそうないんですからね〜。前に友達(♀)と話してて盛り上がったんですが、女の理想は、一に気のいいダンナを確保し、二に一途な青年の純情をもてあそび、三にリッチで紳士的なオジサマと上級会話を楽しむ、これをいっぺんにやるのが女のハーレムなんですね♪
要するに、家庭をきちんと守ってくれる貞淑な妻を確保し、若いきゃぴきゃぴしたオネーチャンといちゃつき、しっとり色香の衰えぬ年増美人に幻惑されたい、などという男の願望と大差ありません。

そんなふうに想像してみると逆に、シングルの人が不倫に走るのは馬鹿だなぁと思えてくるんですね。だいいち、フィフティ・フィフティになれっこないでしょ。相手は初めから家庭と不倫とふたまたかけてるんだから。それに、ふたまた組から見ると、シングルでまだ二十代前半なんかだと、火遊びの相手として妙な安心感があるんじゃないですか。世間知らずだから何でも言いくるめやすいだろうし、「まだ若いから、いくらでもやり直せるし、少々傷ついても若さで回復するだろう」みたいに思う。だから安心して傷つけられる(?)
それが結婚に少々あせってる三十から後になってくれば、下手にかかわると相手も世間を知ってる年齢だけに、どんな報復措置をとられるかわからない。
まあ、そんな打算も働くわけで、とうぜん、そこに愛があるはずがない。
正確にいえば、その一瞬一瞬で、不確かながらも激情的な愛はあったりするんでしょう。ビビッときたとか、クラッときたとかいうやつですね。でも、やっぱり最終的には愛ってね、そういう激情を超えて、二人が時間をかけて理解しあっていくなかで、お互いの存在が大きく揺るぎなくなっていくものでしょ。それが、そのビビッとかクラッというたぐいの、いわばオス・メスのレベルを超えた愛だと思うんですよ。だとしたら、じっくり時間もかけられないし、胸襟をひらいて対等にものが言えないような不倫に、果たして愛があるんでしょうか? きちんと相手に向き合うなら、まず結婚しているほうが離婚してからですよね。向き合う気がないから、そもそも離婚もしないんだろうし、たとえ誰と結婚してもいつかは激情的なものは冷める、そう思っているから、わざわざ現在の結婚を解消して、新しい相手とまた面倒な結婚なんかする気になれない、刺激のある不倫のままでいいじゃない、ということになるんじゃないですかね?

もう結婚した私の立場から見て進言させていただくと、シングルで不倫するなら、相手に愛や結婚を求めても十中八九、無駄ですね。どうしてもというなら、短期決戦で、とことん奪い取る覚悟で望むべきです。相手の家庭を壊しきって、その残骸のうえに自分との生活を始めさせる。半年か一年そこらでメドが立たないなら、撤退すべき。あとは、割り切ってその人とつきあうことで、自分が成長できるとか、金銭知識その他の面で実際的なメリットがあるかどうか、というところ。
真剣になるのは、やっぱり割にあわないと思いますね。ああいうふうに後で報復してみたところで、それは自爆にしかすぎないですから。特攻隊精神で、ちょっと単細胞すぎます。

ちなみに新婚の我が家。夫に、「もしもあんたが浮気したら私もするからね」といえば、「あんたは並みの女の倍は手がかかるし、仕事もせんといかん。それだけで、もう僕の人生、そんな暇もエネルギーも残ってないやろな」と・・・
私って、いったい??


未確認飛行物体!?

昨日、夫と二人で鶴見緑地へ行ったんです。生命の搭や、咲くやこの花館などを見学しての帰りのこと、なんと、私たちは不思議な飛行物体を目撃してしまったのでした!

緑地から南へ少し離れたJR徳庵駅までウォーキングしようと、私たちはあまり人通りのない道を歩き始めたんです。と、午後4時40分ぐらいだったか、隣を歩いていた夫が突然、私の頭のうえを透かし見て「あれ何や?」と、驚いたように言うんです。私が振り仰ぐと、雲の一片すら見当たらない青空を、白くて丸いものが飛んでいくではありませんか。見るなり、私もその場に立ち止まり、「えっ、あれ何?!」と叫んでいました。
明らかに、真ん丸のボールとしかいいようのないものが、そのままけっこうなスピードで私たちを追い越すように、南から北へ向かって一直線に飛んでいくんです!

しっかりこの目で見たんですが、あれは絶対に鳥や飛行機ではなく、青空をバックにくっきりと真ん丸のかたちをしていました。ちょっと距離感がはっきりしないんですが、飛行機のように、上空何千キロメートルというような感じではありませんでしたね。十階建てぐらいのマンションなどのうえを、すーっと音もなく横揺れもなく、一直線に飛んでいたんです。あわてて、もっていたカメラを取り出したんですが、もたもたと躊躇している隙に間に合わなくなり、その飛行物体は見る見るうちにだんだん小さくなりながら、ビルの向こうに消えていってしまいました。

発見から数秒後、姿が見えなくなってしまうと、あれは何だったんだろうと夫と顔を見合わせました。夫は「気象観測用のバルーンのようなものだろう」というのですが・・・
でも、観測機器みたいなのもついてないし、ほんとに真ん丸のボールですよ。昨日は肌寒い日で風も強かったので、もし風船だったらあんなふうに流されていくのかもしれないとは思いますが、それにしても、たびたび巷で騒がれている、球状のUFOにそっくりだったんですよね〜。写真に撮っとけばよかったと、返す返すも残念です。
私が、もしかして(エイリアンクラフトとしての)UFOかも??というと、夫は「あンなぁ、トンデモ本やテレビの見過ぎ。そんなオモロイこと、世の中にはそうそうあるわけないの」と笑いとばしましたが、自分だって、びっくりした声だしてたくせに。
「未確認」という意味ではなるほど間違いなくUFOだけど、いったいあれは何だったのでしょうか???



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