別れの季節 ;其の一

三月は、卒業や転勤、移動のシーズンで、まさに「別れの季節」ですね。

うちの夫(なんか、この呼び名、いまいちしっくりこないなぁ^^; 実物とかけ離れた感じ)は、自分が住んでいたアパートを引っ越す準備をようやく始めました。
色褪せて汚れたカラーボックスや、からっぽの骨董品的冷蔵庫が置いてある真正70年代風の部屋は、ワタぼこりや短い髪の毛だらけ、粘膜の弱いアレルギー体質の人なら、そこにいるだけで、くしゃみや鼻水、涙が止まらなくなると思います。そのうえ、歩くと足の裏にそれらがくっついて、もうもうと立ちあがり、どうにも始末に負えないありさまでしたが、勤め先の大学にごく近いということもあって、本人には心地よい隠れ家だったらしい。今までケンカをすると、「もうアパートへ帰るっ!」といって駄々をこねる材料のひとつにしていました。いざそれがなくなるとなると、やはりひとつの感慨があるようです。「もう帰るとこないんやなぁ・・・」と、訳のわからないためいきをついている(~_~;)

私も引っ越しの準備を手伝っていますが、綿のすりきれたようなセンベイ布団や、触るとおろし金のようにたくさんの細かい毛玉が密生した(あんなに毛玉のできた布地というのを、私はいまだかつて見たことがなかった)ジャージのズボンなどをこっちに持ってくるのではないかと、いま非常に恐れています(-_-;)
ここにはすでにふかふかの布団もあるし、ジャージひとつぐらい買うお金には困っていないというのに。
まぁ、性格的にケチはケチなんですが、愛着もあるのかもしれません。「もう捨てたら」というと、「そうやって過去の僕を否定されたくない」とむきになる。毛玉だらけのジャージが「過去の僕」とは恐れ入るやら可笑しいやらですが、でもねぇ、一応新婚なんですよ。家の中を、そんなくたびれきったよれよれの毛玉ジャージでうろうろされたくないわ、そういうと、今度は研究室にそれを持っていったらしい。・・・・(-_-;)
周辺の方々はもしやご覧になるかもしれませんが、あれ、私が着せてるんじゃないですよ。私は止めろといっているのに、彼があくまでも固執して着ているんです。「あの奥さん、もうちょっとダンナの着るモンにも気をつけてやったらええのに」なんて、理不尽なことを思わぬよう、ご理解お願いします(~_~;)

私のほうは、最近、長年マンネリだったヘアスタイルとお別れしました。背中のなかほどまであった髪をばっさり切って、このページのまりねこのイラストとほぼ同様に。短いボブですが、適当にシャギーを入れてあるので、どんなアレンジもまとまりやすい。洗うのも乾かすのも今までと比較すると超カンタン! 周りの評価もまあまあいいみたい? もっと早く切れば良かったと思っています。
染めたりパーマかけるのって、あまり好きじゃないんですよね。傷みそうで。髪にムースとかワックスつけるのも嫌なほうだし。洗ってブローするだけでおさまりのいいナチュラルな髪型が一番だと思います。でも、ショートにすると一月に一度は切らなきゃいけませんね(・_・) これまで半年に一度とかだったのに。まっ、いいか。そのぶん毎日が楽だし。うんうん(^^)


いい人”の危険性

誰から見ても憎めない、いわゆる「いい人」っていますよね。そういう人の危険性について、ちょっと考えてみました。といっても、「いい人に見えても、実は羊の皮をかぶったオオカミだった」などという「ありがちな」話ではありません。いい人は、あくまでいい人のままで、だからこそ周囲に甚大な被害をもたらしうる、ということです。

確かクリスティの推理小説だったと思いますが、こんな面白いストーリーがあります。
ある夫婦がバカンスの旅先にいます。見た感じは冴えない妻と、筋骨たくましい美男の夫。これをA夫妻としましょう。ここへ、第二のカップルが登場する。これは、美人の妻に凡夫。これがB夫妻。この組み合わせの設定だけで、人はもうある種の先入観を持ちますよね。
旅先ですから、周りの人々はそれぞれの夫婦関係の真のありようなどわからない。B夫妻の登場以来、はた目には、ハンサムなA夫と腰の軽い美人のB妻がくっつき、それぞれのパートナーそっちのけでよろしくやっているように見える。A妻はというと、夫の浮気を嘆いて悲しみに沈んでいるし、B夫は、ただ漫然と耐えているかのように見える。そして、そういう状態が続くと、A妻のほうが非常に情緒不安定になってきた。彼女の我慢ももはや限界か、やれ一波乱おこるぞ、と周囲がやきもきしているまさにそのとき、美人のB妻が殺されるんです。
当然、状況からみて、同情の余地はあるが、夫の浮気にキレたA妻B妻を殺したのは明白なように思える。事件は簡単に解決するように見えます。だが、様々なアリバイを調べあげた結果、A妻が殺人をなしえないことが証明されるんですね。逆に犯人はハンサムなA夫であり、A妻はそれをかばっていたのだ、という結果になってしまう。
ここで名探偵ポワロの「灰色の脳細胞」が活躍、いったん解決しかけた事件に、どんでん返しがもたらされます。
結論だけいうと、じつは、結託してB妻を殺したのは地味なA妻B夫だったのでした。このA妻、周囲にはわざと悲嘆に暮れた様子を装って、「夫に裏切られた妻」を人々に印象づけていたのです。頭のいい彼女の名演技で、ほんとうはなんでもない仲のA夫B妻が、美男美女どうし、はた目にはいかにもデキてるように見えていたわけです。一見、自分が犯人だと思わせるが鉄壁のアリバイをつくって、じつは夫を陥れるための工作をしていたのでした。B妻が殺され、犯人がA夫だということになれば、邪魔なふたりをまとめて除くことができる。これが、A妻B夫のねらいだったわけです。

長くなりましたが、この小説は人の陥りがちな錯覚や思い込みをうまく利用していると思います。
もしA妻が、悲しそうな素振りなどせず、終始楽しげにB夫妻と接していたら、周囲の見る目は違ったでしょう。彼女は上手に「裏切られた妻」という立場を演じることによって、相対的に、周囲が夫によせる印象や評価を思い通りに操作しようとした、ということなんですね。
こういう事情はでも、かなり一般的なことではないでしょうか。
人が人を評価したり、ある印象を持つ場合を考えてみると、たいてい、屈託なく明るく振る舞う人は何の不自由もないように見え、なんとなく打ち沈んだ顔をしている人は訳ありで気の毒そうに見えます。
ややこしいのは、それ以外にも状況が誤解を招くという面もあって、たとえば、何かしらの肉体的、経済的なハンディを負っていると、本人がどんなに幸せだと言い張っても、なんか無理をしているんじゃないか、実はそうではないのではないかと邪推する人は必ずいるでしょう。「偏見」というのかもしれませんが。
さっきの小説の例では、「いくら誠実そうにみえても、ハンサムな夫であれば女にもてるので、冴えない妻よりずっと美しい女が現れた日には、きっと浮気のひとつもするだろう」という偏見を、妻が犯罪に利用している。

まあ、どういう自分でありたいかを外に表す自分の演技(自己表現と言い換えても可)と、それが周囲にどう受け取られるかのバランスで、社会におけるその人間の実体が定まってくるわけです。自己表現をどうするかは自分自身の問題だとして、この、外からの目、というのもなかなかやっかいではありませんか。それ自身、比較の上に成り立っているので、実体を反映するものだとは必ずしも限らない。
たとえば、まったく普通の奥さんと超カッコイイ夫の場合。
よく見ればそれなりに素朴な可愛らしさのある奥さんでも、もっと華のある美形のダンナにくっついていれば、その引き立て役になってしまい、ぜんぜんぱっとしない感じがするでしょう。比較の錯覚というのでしょうか。その結果、「なにこのデコボコカップル。ぜんぜん釣り合ってない。でも、あの奥さん、じつはスッゴク性格がよくて、ダンナはそれにほだされたんじゃない?」・・・などと勝手に思われたりするかもしれない(~_~;)
恐らく、この同じ奥さんでもくっつく相手を替えれば、また別の評価がなされるんでしょう。

想像力、まあ、勝手な偏見でもってストーリーをつくられてしまいやすいのは、凡人や凡人どうしの集団でなく、どこか突出したところがある人や集団ですね。
周囲から突出した美人、突出した金持ち、突出した経歴の持ち主、などがそうですが、私はこれに、突出した“いい人”も入れてはどうか、と思うんですよね。
ここで考えてしまうのは、美人や金持ちが、とかくねたまれて自分たちに不利なストーリーを押しつけられやすいのに対して、突出した“いい人”というのは、自分に近しければ近しいほど、自分の意図とはほとんど無関係に、その人間に不利なストーリーを押しつけてしまいがちだ、ということなんです。あまりに単純すぎるいい人というのは、自分に近しい人を相対的に悪者、または“よくない人”にしてしまうんですね。
NHK朝の連ドラの「ありがち」ヒロインなんか、その好例です。彼女らは例外なく、ひたむきで前向き、明るく忍耐強い愛他精神の行動派です。まぁ、人々が思い描くところの「好感の持てるいい娘さん」を演じるわけです。こういうキャラクターが、もし現実の職場にいたらどうでしょう。

誰でも、疲れていたり事情があって、仕事がはかどらないことはあります。そんなとき“いい人”が、「私が替わってやっておいてあげる。あなたはもう帰って休んだら」などと親切に言うとします。ところがこういう人たちに限って、体力はあるが不器用と相場はきまっている。慣れないことをしたのでとりかえしのつかない大失敗をやらかし、うっかり頼んでしまったほうは上司から大目玉をくらいそうになる。ですが、あくまでもいい人の彼女は、失敗したのは自分のせいだと正直に告白して、余計に話をややこしくします。謝罪された上司にしてみれば、普段からいい人である彼女の「善意からの失敗」は、もうそれ以上、叱るに叱れなくなりますが、失敗の事実自体は現実的に処理しなければならなくなるでしょう。そのわずらわしさに対する嫌気は、本来自分がすべきことを人に肩代わりさせた人間のほうに行くのではないでしょうか。“いい人”とは、「憎まれない人」ですから。
このように、“いい人”が演技でなく、正真正銘“いい人”であるほど、関わる人間のほうはうっかりすると、相対的に、“いい人”ではいられなくなるということが、ままあります。

この忙しい現代に、いったんつくられたイメージが覆るほど緊密につきあうのは、まれなことになりつつあるかもしれません。短時間で自分をどう見せるか、どう自己プロデュースして、周囲から、または特定の人から、「自分がどう見られるように持っていくか」はビジネスでもプライベートでも重要なことではないでしょうか。
たいてい誰しも、自分が“いい人”でありたいという欲求をも持っているものだと思います。自分は端から見てどうということはない人間だと思っていても、その実、根は善良であるとか思いたいのが普通ではないですか。誰でも、どこか人間性の部分で優れた資質を自分に見出したいし、周囲にも認めて欲しい。ですから、ものごとを複雑にする濁った視点は退けられやすく、わかりやすい透明性、善良さや美しさを、人は支持します。それを支持することで、自分にもやっぱりそういう資質があるのだと、自分にも他人にも納得させようとするわけです。
けれども実際上、現実的、精神的にいろんな背景をもつ誰しもが、“いい人”の単純明快な正論にお付き合いできるわけではないですね。複雑な背景は周囲に理解されないことがほとんどですが、小学校の道徳の授業で習ったような正論ならば、誰にでも理解できます。周囲から真正太鼓判つきで“いい人”だとされるタイプの危険性とは、親しく関わればそれだけ、関わる側の人間性をも単純化し、実質はどうあれ相対的に低めてみせてしまうことにあるんじゃないでしょうか。

そういえば、若乃花と美恵子さんの別居が騒がれていたとき、気のいいマイホームパパぶりが定着してしまっている若乃花に対して、美恵子さんのほうはすっかり悪役になってしまいました。ほんとうのことは誰にもわからないけれど、若乃花が“いい人”のイメージを持ち続ける限り、対立する恵美子さんが悪く言われなければならない構図になる。若乃花が「彼女だけが悪いというわけではない」などと、美恵子さん側に思いやりを見せればそれがまた、黙っている美恵子さんの印象をどうしたってますます冴えないものにする。
はっきりいって、こうなると美恵子さんが何を言っても無駄で、これが、“いい人”の恐るべき底力といえるでしょう。愛人問題がでてきたのは美恵子さんにはラッキーです。これで、「ほんとうは、それほど“いい人”でもなかった」という、わかりやすいオチがつき、勝負は互角に転じたからです。

みなさま、「触らぬ“いい人”に祟りなし」。このことを、肝に銘じなければなりませんね。
世の中の現象を多面的に見ることができるポワロのような人は、ごく稀少な存在なのです。


別れの季節 ;其の二

知る、ということは怖いことでもあります。
いったん知ってしまった、経験してしまったら、もう絶対に、知らなかった自分には戻れません。
それが恐ろしい出来事や悲惨な経験だと、後々までトラウマ(精神的外傷)となって苦しむ原因になるかもしれないし、たとえ幸福なことであっても、ほんとうの幸福感、天地にひれ伏し生きていることを感謝したくなるような強烈な至福体験をしてしまうと、もうそれなしの人生は考えられなくなるでしょう。これはこれで、「それを知らなかった過去の自分」をかえりみると、一言ではいえない感慨があるはずです。
知るということについて考えることは、ときにヘヴィです。
それでも、人は日々、新しい体験をして何かを知る、毎日、少しずつ、少しずつ、変わっていく考えや気もち。去年のこの日、いったい何を思っていましたか?今はぼんやりと思い出せる、けれども、もうそのリアリティというのは薄いベールがかかったような感じ、あと十年後、果たしてどこまでクリアに思い出せますか?

私は小学校高学年ぐらいから日記をつけ始めて、ときどき休んだりもしながら、大学時代までずっと間欠的に続けてはいました。でも、二十代の半ば、あるとき、私はすっかり自分が変わってしまったと思ったんですね。自分の核となる本質は、なるほど変わらないけれども、もう、日記を読み返してみても、まったくそれが自分の書いたものであるという実感がなくなって、なにか他の少女が書いていたもののように思え、それらをまとめてぜんぶ焼き捨てたんです。
一生懸命にいろいろと考え、何かを訴えかける幼い自分が、ささいなことに戸惑い、怒り、何をすればいいのか、どこへ行けばいいのか、何になればいいのかと綴った古いノート。中身といえば、自分は何なのか、何のために生まれて、生きているのか、ひとことでいえば、テーマはみんなそういうことです。その年頃では、恋愛すら自分探しであり、生きる目的を探るためのものでありうる。

焼き捨てるにあたって、私はこういうのはもういいんだと思っていたんですね。何が大事なことか、もうはっきりわかったんだ、そんな気分でした。そのとき、過去の自分が非常に孤独で、何も知らず、外界と隔てられた透明なガラス箱のなかに生きていた、そんなふうに思え、なんともいえず「彼女」が可哀相になったことを覚えています。それは、幼さとの別れであり、少女の私との別れだったんです。
「私」が思い入れたっぷりに手を差し伸べると、「彼女」のほうは一瞬こちらをじっと見つめ、無表情のままそのスニーカーの足で、さっとどこかへ駆けていった、そんな感じでしたね。まだほんとうの涙も喜びも知らないほんの子供と、私はその後ろ姿を見送りながら、やはり「彼女」を憐れんでいたものです。
今にしてみれば、まあ、なんと物知らずで傲慢なことでしょう。
とうぜん、そんな自己満足が長く続くはずもなく、その後、私はまた新たな環境のなかで、新たな自分探し、新たな価値観や幸福を探さねばならなくなります。日々、積み重なる経験のなかで、これでよかったはずがそうではなくなり、何が大事なことかも定かではなくなる。少しずつ、少しずつ、変わっていく考えや気もち。やがて、ある日、はっと気づかされる、以前の自分ではないことに。また再び、過去の自分を他人のように眺めていることに。

愛した人との別れ、肉親や友人との別れ、さまざまな立場や環境との別れ、いろいろありますが、こんな「自分との別れ」、というのもまたせつないものです。
知らない昔には戻れない。そのこと自体にせつなさが存在する。それを、成長というのでしょうけれど。
子供は無垢だといいますが、まさにそのとおり。でも、純真とか純粋とかいうことになると、ぜんぜん違うんじゃないかと思いますね。何も知らないこと、何もまだ持たないことは、無の状態とは言えても、純ではない。それは、まだ何も確立していないこと、どんな汚れにも容易に染まりうることを示すからです。それよりも、何もかも知っていて、なおかつ不用意に何かに染まらないこと、すでに得たものから本質を凝縮していくこと、これを純粋というんじゃないかと思うんですね。

何かを知れば知るほど、そのことは決して容易ではなくなってきます。知識が増え、知恵が増すほどに、人の生は本来ヘヴィになってくる。シンプルな決断、単純なパッションというものが持てなくなる。自分の生に純粋であること、なにものにも染まらない精神の純潔を保つことは、ますます難しくなるからです。だからこそ私たちは、幼さに憧れ、若さを羨むのでしょうか。
それでも、人は日々、新しい体験をして何かを知る、毎日、少しずつ、少しずつ、変わっていく考えや気もち。どこへ行くのだろうかと、また同じことを考えている、何になればいいのかと、また同じことを考えている。構築し、崩壊し、また積み上げていくことの繰り返しです。
でも、もう私はあの少女ではない、恐らくはそんなふうに続いていくのだろうと今は推測できる、そして手を止めないこと、足を止めないこと、それが、恐らくは生きているあいだじゅうしなければならない、またはするように仕向けられている、そんなことなんだろうと。

「なにごとも、この手にしっかりと掴んでおけるものなどない、この確かに思える自分の考えや気もちすら、いつかその鮮明さを失う日がくるのだ」
私がまとまった文章を書き始めたのは、あるときそんな思いが強烈なリアル感をともなって、心に迫ってきたからでした。
成長し、過去の日記を燃やしてしまったように、またこの思いも有形無形の灰と化すかもしれません。でも、それが文字になり、誰かが読んでいれば、そこに何らかの種が残ることもあるでしょう。もうこうやって、発表することで、この文章はひよひよとした足取りながらも、自分で歩いていくわけです。書いている私自身さえ、あとを追うわけにいかない。コミュニケーションとは、なんと素晴らしいバクチでしょう。
まあ、私にはそんなことが一体なんになるのか、なんの意味があるのかと問われると、正直わからないですね。ただ、何かをすること、手を止めないで、足を止めないで、頭と心を働かせること、すべきことってそれだけなんだろうと思うんです。誰でもそうしている、それこそ不登校の子供から、引退した老人やベッドに臥せる病人まで、みんな、そうしているんです。そのなかにいたい、棺桶に片足突っ込むまでは、生きていることを確かに感じていたい、そんなふうに思います。


18を読むTOP